第二十三章 王を宿した少年
封鎖線の外側に、《混沌崇拝教団》の信者たちが並んでいた。
夜気の中、二十を超える人影が黒布で顔の一部を覆い、白い封鎖杭の向こうから村を見つめている。武装している者は半数にも満たなかったが、それでも村人たちが近づこうとしないのは、彼らの中に、昼間ラウルを呑み込んだものと同じ黒い変色を見せている者が何人もいたからだ。
「名は檻。形は檻。記録は檻」
低い唱和が、夜の底を這うように繰り返されていた。
先頭に立つ男は両腕を広げ、恍惚とした笑みを浮かべている。袖口から覗いた右手では、三本の指がすでに黒く変わり、爪と肉との境界すら曖昧になり始めていた。
「恐れることはない。これは病ではない。古い形から解き放たれるための――」
「そいつを村の病人に聞かせるつもりなら帰れ」
ゼクスの声が、唱和を鋭く断ち切った。
封鎖線の内側には、村の魔導士と警備の者たちが集まっている。その先頭に立つゼクスは、魔導杖ではなく短い鉄棍を握っていた。
「お前らの教典なら、もう読んだ。死にかけてる奴を捕まえて、『それは自由だ』なんて言いくるめるのが救いだってんなら、こっちは間に合ってる」
「ゼクス。お前もいずれ理解する」
「俺の名前を気安く呼ぶな」
「名を守ろうとするから苦しむのだ」
「じゃあ、まずお前が名乗れよ」
男の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
横でシビウが鼻を鳴らす。
「口じゃゼクスの勝ちだね」
「笑っている場合ではない」
そう返しながらも、キースは教団員たちから目を離さなかった。胸の奥では、先ほどよりも強くイースが脈打っている。
教団員の中にいる黒化した魔導士へ反応しているのか。それとも、さらに遠く――アムドアの《大穴》そのものへ引かれているのか。そこまでは判別できない。
隣に立つメルリルも同じらしい。普段なら、こんな状況でも一言くらい余計なことを言う彼女が、今は胸元へ片手を当て、眉を寄せている。
「どうだ?」
「気持ち悪いですわね」
「強くなっている?」
「ええ。ただし、あの者たちからなのか、アムドアからなのかは分かりません」
「私もだ」
ローゼンとフユには、何の変化もない。シビウも同じだった。
やはり、反応しているのは魔導士だけだ。
その事実が、改めてキースの胸へ重い不安を落とした。
「来るよ」
シビウの声で、キースは思考を切った。
教団の先頭にいた男が片手を上げる。
「我らは争いに来たのではない」
「その割に人数が多いな」
ゼクスが吐き捨てる。
「ここには、形に苦しむ兄弟たちがいる。彼らへ真実を伝えに来た」
「病室へ一歩でも近づいたら、その脚を折る」
「暴力もまた、形へ執着する者の――」
「長い!」
妙に明るい声が飛んできた。
全員が、同時にそちらを見る。
教団員の列、そのさらに後ろ。
一人の少年が岩の上に座っていた。
十代の後半ほどに見える。身体は細く、北方の旅人にしては外套も薄い。武器らしいものも持たず、片膝を立てて頬杖をつき、まるで退屈な芝居でも眺めていたかのような顔をしている。
「なんだ、お前」
ゼクスが問う。
少年は肩をすくめた。
「通りすがり?」
「なぜ疑問形なんだ」
「自分でも、どの辺から通りすがってるのかよく分かんなくてさ」
「教団の仲間か?」
シビウが尋ねると、少年は露骨に嫌そうな顔をした。
「えっ、やだよ。僕、名前も身体もわりと気に入ってるし。顔だって、そこそこ悪くないと思うんだよね」
「自分で言うかい」
「誰も言ってくれないから」
あまりにも場違いな軽さだった。
教団側の何人かまで困惑している。少なくとも、仲間ではないらしい。
「なら、そこから離れろ!」
キースが声を張った。
「今から戦闘になる可能性がある!」
「そうみたいだね」
「だったら!」
「でも、そっちへ行くの面倒なんだよ」
「何?」
少年の座っている岩は、封鎖線からかなり離れている。その間には教団員たちが立ちはだかっていた。
「別に通ればいいだろう」
「通してくれなかったんだ」
「なぜ」
「知らない。さっき『名を捨てろ』って言われたから、『じゃあ君はまず服を捨てれば? もっと分かりやすく自由になれるよ』って言ったら怒られた」
シビウがとうとう声を上げて笑った。
ゼクスまで口元を押さえている。
「冒涜者め……!」
教団の男が歯を剥く。
「ほら。まだ怒ってる」
少年は心底困った顔をした。
「君、少し黙っていた方がいいんじゃないか?」
キースが言う。
「それ、よく言われる」
少年は悪びれもせず答えた。
その直後だった。
教団員の一人が、突然身体を折った。
「ぐ……ぁ……!」
黒化が始まっていた男だ。
右腕を抱えて膝をつく。三本の指に留まっていた黒が一気に手の甲を這い、手首を越えていく。
「来た!」
ゼクスが叫んだ。
「離れろ!」
だが、周囲の信者たちは逃げるどころか、倒れかけた男を支えた。
「恐れるな!」
「解放が始まった!」
「受け入れろ!」
「馬鹿野郎!」
ゼクスが封鎖線を越えようとする。
キースは咄嗟に、その腕を掴んだ。
「待て!」
「放せ!」
「今入れば、君まで巻き込まれる!」
「でも、あいつはまだ人間だ!」
その言葉に、キースの手が緩んだ。
昼間のラウルが脳裏をよぎる。
最後まで、人間だった。
最後まで、助けてくれと叫んでいた。
教団員の黒い腕が膨らみ始める。指の数が曖昧になり、肉の輪郭そのものが溶けていく。
「結界を張る!」
キースが術式を展開した。
「なら、わたくしが外側を固定します!」
メルリルも同時に動く。
「ローゼン、全員を下げて!」
「はい!」
シビウはすでに《踊る剣》を抜いていた。フユだけは黒化する男をじっと見つめ、僅かに眉を寄せている。
だが、キースの術式が完成するよりも早かった。
「ちょっと借りるよ」
岩の上にいた少年が立ち上がった。
「何を――」
キースの声が止まった。
少年は、すでに教団員たちの間にいた。
歩いたようには見えない。
転移したようにも見えなかった。
数十歩あったはずの距離だけが、最初から存在していなかったかのように消えている。
「……転移?」
メルリルが呟く。
「違う」
キースには分かった。
術式がない。
魔力が動いた痕跡も、座標を書き換えた残滓もない。《旅水》とも違う。
もっと根本的なところで――世界の方が、少年の位置を認め直したような。
「おい、何してる!」
ゼクスが叫ぶ。
「触るな!」
「大丈夫」
少年は黒化した男へ手を伸ばした。
「たぶん」
「たぶん!?」
「そこは僕も初めてだからさ」
指先が、黒い腕へ触れた。
キースは息を呑んだ。
少年の手が、そのまま黒へ呑まれる。
そう思った。
けれど、黒いものは少年へ移らなかった。
代わりに。
広がるのを止めた。
時間が静止したわけではない。黒化した腕は脈打ち、表面は不定形に揺れ続けている。それでも、その先へは進まない。黒は人間の身体を、それ以上奪おうとしなかった。
「どういう……」
メルリルの声が掠れた。
少年は目を閉じていた。
先ほどまでの軽薄さは完全に消えている。
その背後に。
何かが立った。
キースには、そう見えた。
実体ではない。
幻影とも違う。
人の姿にも見える、巨大な輪郭。その頭上には冠にも、折れた角にも見える黒い影があり、背後へ広がるものは外套か、翼か、それともただの歪みなのか判別できない。
正面から見れば、存在する。
僅かに視線をずらすと、消える。
それなのに。
確かに、そこに何かがいた。
「この気配……」
ローゼンの声が震えた。
フユも目を見開いている。
少年が呟く。
「そこまで」
声が重なった。
一つは、少年自身の若い声。
もう一つは、遥か古い場所から石壁を伝って届くような、低い声だった。
「形を失うことを、余は許していない」
空気が震えた。
黒い腕が人間へ戻ったわけではない。
治癒したわけでもない。
ただ、崩壊だけが止まった。
正常な皮膚と黒い部分との間に、失われかけていた境界が一本だけ戻っている。
「境界を……固定した?」
キースは、自分の声が遠く聞こえた。
そんな術は知らない。
治癒でも、封印でもない。
人間の魔導で同じ現象を再現しようとすれば、侵食領域を定義し、その変動量を測り、崩れ続ける境界面を常時演算しながら固定し続けなければならない。
少年は、何もしていない。
一言、命じただけだった。
「何をしましたの!」
メルリルが叫ぶ。
少年が目を開けた。
「うわ」
途端に、いつもの顔へ戻る。
「近い近い。怖いよ、お姉さん」
「何をしたのかと聞いておりますの!」
「僕にも細かいことは分かんないって」
「そんな回答で納得できると思っていますの!?」
「こっちのお兄さんも同じ顔してるし。魔導士ってみんなこうなの?」
キースも、すでに少年の目前まで来ていた。
「今の現象を説明してくれ」
「やっぱり」
少年は肩を落とす。
「二人いると面倒が二倍だね」
「同じ扱いをするな!」
「そこですの!?」
ゼクスが二人を押しのけ、倒れた男の状態を確認した。
「生きてる」
呼吸はある。
意識は失っているが、崩壊は止まっていた。
「治ったのか?」
「治ってない」
少年が答える。
今度の声は真面目だった。
「止まってるだけ。僕が離れたら、いつまで保つかも分からない」
「どれくらいだ」
「知らない」
「さっきから知らないばっかりだな、お前!」
「知ったかぶりよりいいでしょ?」
ゼクスは言葉を詰まらせた。
そのときだった。
「……王」
教団員の一人が呟いた。
少年の表情が消えた。
「やめてよ」
「《王》……」
別の信者が後ずさる。
恐怖なのか。
畏敬なのか。
そのどちらもが混ざっている。
「王が……戻った……?」
「違う」
少年は低く言った。
先ほどまでの軽口とは、まるで違う声音だった。
「僕を、そいつと一緒にするな」
教団の先頭にいた男が踵を返した。
「退け!」
信者たちが散り始める。
ゼクスが追おうとしたが、キースが止めた。
「今は病人だ!」
「くそっ!」
それでも、何を優先すべきかはゼクス自身も分かっている。
数人が担架を持ってくる。
黒化した男が運ばれていくのを見送り、少年はようやく大きく息を吐いた。
「よかった」
その顔には、本物の安堵があった。
*
少年は、キロスと名乗った。
もっとも、その名乗り方からして妙だった。
「名前は?」
集会所の長机を挟み、キースが尋ねる。
「キロス」
一拍。
「……まあ、今はそう名乗ってる」
キースは眉を上げた。
「今は?」
「うん」
「出生名ではないのか?」
「そこまで必要?」
「身元を確認しているんだ」
「じゃあ、確認できないってことで」
「君は――」
「キース様」
ローゼンが小さく袖を引いた。
問い詰めすぎだと言いたいのだろう。
キースは息を吐き、椅子へ座り直した。
長机の一方にキロス。
向かいにはキースとメルリル。両脇をローゼン、シビウ、ゼクス、フユが囲んでいる。
どう見ても尋問だった。
「出身は?」
「南の方」
「南のどこだ」
「ここより南」
「それは、ほぼ世界の大半だ!」
「かなり絞れたね」
「絞れていない!」
「身分証は?」
「ない」
「魔導士登録は?」
「したことない」
「所属する神殿か魔導院は?」
「ない」
「師は?」
「いない」
「では、あの力はどこで学んだ?」
「学んでない」
メルリルの額に青筋が浮かぶ。
「ふざけていますの?」
「割と真面目なんだけど」
「あなた、先ほど人間の魔導体系では説明できない術を使いましたのよ!」
「そうなんだ」
「そうですわ!」
机が鳴った。
キロスは肩をすくめる。
「僕に怒られても困るんだけど」
「では誰に怒ればよろしいの!」
「それを僕も知りたい」
返事だけを聞けば軽口に思える。
だが、キロスは笑っていなかった。
キースは質問を変えた。
「教団員たちは、君を《王》と呼んだ」
「ああ」
「心当たりがあるんだな」
「……あるにはある」
キロスは自分の胸へ手を置いた。
「僕の中に、僕のじゃない記憶がある」
「記憶?」
「それと、たぶん力。あとは……意志、なのかな」
「人格として存在しているのか?」
「そこが分かんないんだよね」
キロスは困ったように笑った。
「『中に《王》がいる』って言った方が簡単なんだけど、本当に誰か一人がここに住んでるのかって聞かれると、違う気がする」
胸元を指先で軽く叩く。
「声みたいに聞こえる時もある。でも、自分で考えたことが、自分じゃない誰かの考えみたいに感じるだけの時もある。知らない場所を見たことがある気がしたり、知らない人を懐かしいと思ったり。さっきみたいに、僕の知らないことを身体が勝手に知ってる時もある」
「それを《王》だと思う理由は?」
「記憶の中で、みんながそう呼んでるから」
「精霊の《王》」
ローゼンが呟く。
「精霊戦争の……」
「たぶんね」
「たぶん?」
キロスはキースを見る。
「だってさ。《精霊の王》って呼ばれてるからって、その人が本当に精霊だったかどうかまで分かる?」
キースは、すぐには答えなかった。
思い当たることがある。
四貴精霊。
《紅獅子の君》。
《蒼魔の君》。
そして、コスモスとケーオス。
少なくとも後者二柱を、単純な《精霊》という一語で括ることには無理がある。
「……確かに」
キースは言った。
「後世の呼称が、そのまま存在分類を示しているとは限らない」
「でしょ?」
「君の記憶の中で、《王》自身が自分を精霊と呼んだことは?」
「ない」
「一度も?」
「少なくとも、僕が見た範囲では」
「では、なぜ精霊を率いていた?」
「知らない」
「またですの?」
メルリルが眉を吊り上げる。
「知らないんだから仕方ないでしょ」
キロスは両手を上げた。
「昔の記憶って、最初から最後まで順番に見せてくれるわけじゃないんだよ。突然、知らない都に立ってたり、戦争の真ん中だったり、誰かに剣向けられてたりするんだから」
「誰に?」
「いっぱい」
「《姫》も?」
ローゼンが尋ねた。
キロスの視線が彼女へ移る。
「いるよ」
「どのような方でした?」
「それも、記憶によって違う」
「違う?」
「すごく優しい時もある。怖い時もある」
キロスは少し考え、それから苦笑した。
「あと、《紅獅子》はでっかい」
「ヴァギュイザール様をご存じなのですか?」
「名前なら。記憶の中では、今よりずっと赤くて、ごつくて、怒るとすぐ剣抜く」
ローゼンとキースは顔を見合わせた。
現在の老人の姿からは想像しにくい。
だが、ヴァギュイザール本人は、精霊戦争で二剣を振るい、前線を駆けたと語っていた。
「ソーサイアは?」
キースが尋ねる。
「嫌な奴」
「そこは詳しく!」
思わず身を乗り出した。
メルリルが呆れた顔をする。
「あなた、《蒼魔の君》の話になると本当に分かりやすいですわね」
「重要な証言だ!」
「青いのは頭がいいよ」
キロスは言う。
「ものすごく強い。でも、言い方がいちいち腹立つ」
「……メルリルみたいな?」
シビウが呟いた。
「どういう意味ですの!」
「分かりやすい例だろ」
キロスが楽しそうに笑った。
「じゃあ、このお姉さんに近いかも」
「嫌ですわ!」
「なぜ君が嫌がる!」
話が逸れ始めた。
キースは咳払いして、本筋へ戻す。
「その記憶は、いつからある?」
「昔から少し」
「生まれた時から?」
「そこまでは覚えてない。でも最近、急に増えた」
「きっかけは?」
「北へ来てからかな」
「アムドアに近づいてから?」
キロスは、すぐには答えなかった。
「……たぶん」
「声は?」
「近くなった気がする」
「《王》と会話できるのか?」
「だから、その言い方だと、まるで別の人が中に住んでるみたいだろ」
「違うのか」
「分からない」
また、その答えだった。
けれど今度は、キースもすぐに責める気にはならなかった。
キロスは視線を落とした。
「朝起きたら、知らない町の道を知ってるんだ。見たこともない人の顔が懐かしい。知らない文字が読める。行ったこともない場所を見て、帰ってきたって思う」
声から、いつもの軽さが消えていた。
「自分じゃない誰かが昔好きだったものを見て、僕まで泣きそうになることもある。それで『説明しろ』って言われてもさ」
キロスは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「僕の方が、誰かに説明してほしいんだよ」
部屋が静かになった。
キースは口を閉ざした。
質問される側も、分からない。
それは当然のことなのかもしれない。
「……すまない」
「え?」
「問い詰めすぎた」
キロスが目を瞬く。
「素直だね」
「悪いか?」
「いや。偉い人って、あんまり謝らないから」
「誰から私のことを聞いた?」
「ゼクスさん」
全員の視線が横へ向いた。
ゼクスは露骨に目を逸らした。
「お前、世界一なんだって?」
「魔導力の測定上、そう呼ばれているだけだ」
「へえ。じゃあ僕と勝負する?」
「しない」
「即答?」
「宇宙一が一人でも面倒なのに、増やすな」
「誰が面倒ですって?」
メルリルが即座に反応する。
キロスが彼女を見る。
「この人、宇宙一なの?」
「そうですわ」
「じゃあ僕は何一にしようかな」
「参加するな!」
ローゼンが口元を押さえて笑った。
その笑いにつられるように、張りつめていた部屋の空気が少し緩む。
キロスも笑った。
頼りない。
軽口ばかり。
何も考えていないように見える。
それでも、先ほど黒化した男を前にした時、この少年は逃げなかった。
誰に頼まれたわけでもない。
助けられる確信すらなかった。
それでも、自分から手を伸ばした。
マーカスとは違う。
ゼクスとも違う。
けれど、この少年もまた、言葉ほど軽い人間ではないのだろう。
*
黒化した男の容態は、その後も安定していた。
右腕は黒いままだ。
治ったわけではない。
それでも進行は止まり、人間の身体をそれ以上侵食してはいなかった。
「過去最長かもしれん」
病室の外で、ゼクスが言った。
「発症後、進行を止められた例は?」
「ない」
「一度も?」
「ああ」
キースは窓越しに患者を見た。
あれは魔導なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
「あれは術式ではありませんわ」
隣でメルリルが言う。
「私もそう思う」
「では、何ですの?」
「分からない」
「あなたまでそれを言いますの?」
「君だって分からないだろう」
「だから腹が立つのですわ」
「世界一でも宇宙一でも、分からないものだらけだね」
シビウが笑う。
「宇宙一は自称だ」
「まだ言っていますの?」
二人の後ろで、キロスは病室の中を見つめていた。
いつもの笑みはない。
「キロス」
「ん?」
「さっきの声だ」
キースは尋ねた。
「『余は許していない』と言った」
「ああ」
「君自身の言葉ではない?」
キロスは少し迷った。
「……僕だけの言葉ではなかったと思う」
「《王》の記憶か?」
「たぶん」
「身体を支配された感覚は?」
「支配って感じじゃないかな」
「では?」
「僕が言ったような、《王》が言ったような。どっちでもあるような」
「自分と《王》の境界が曖昧になる?」
その言葉に、キロスの表情が一瞬だけ強張った。
病室の中には、黒い腕を持つ男がいる。
人間としての形を、ほんの少し前まで失いかけていた男。
「そういう言い方されると、怖いな」
「すまない」
「でも」
キロスは自分の手を見つめた。
「僕は僕だよ。少なくとも、それだけは決めてる」
静かな声だった。
キースは何も答えなかった。
この時点ではまだ、その言葉が後にどれほど重要になるのかを知らなかった。
*
夜が明けるまで、教団が再び姿を現すことはなかった。
翌朝。
一行はゼクスから、アムドア周辺で回収された調査資料を見せてもらうことになった。
《大穴》へ直接向かう前に、そこが何の起きた場所なのかを、少しでも知る必要がある。
「古い役所の記録庫が残ってる」
朝食を取りながら、ゼクスが言った。
「都市が消えたってのに?」
シビウがパンをちぎる。
「外縁に保管してた写しだ。《大穴》ができた後、周辺の村や封鎖施設から集めた資料もある」
「見たい」
キースとメルリルの声が重なった。
「お前らは本当にそれだな」
ゼクスが呆れる。
「で」
向かいでは、キロスがパンを口へ詰め込んでいた。
「僕も行っていい?」
全員が彼を見る。
「なぜ?」
キースが尋ねた。
「アムドアへ近づいてから、《王》の記憶が増えてる」
昨日までなら、偶然として切り捨てていたかもしれない。
今はできない。
「《王》はアムドアを知っている?」
「分かんない」
「またか」
「でも、知らない場所なのに懐かしいんだよね」
キロスは頭を指先で軽く叩いた。
「道も、石も、風も。来たことがないはずなのに、帰ってきた感じがする」
「精霊戦争と関係があるのか?」
「それを調べたい」
今度の答えは明確だった。
「だから、しばらく一緒に行かせてよ」
「しばらく?」
「僕は君たちの仲間になるつもりはないから」
キースは少し意外に思った。
「そうなのか?」
「そんな驚く?」
「いや。てっきり、このまま勝手について来るものかと」
「失礼だなあ」
「さっきまでの行動を思い返せ」
「僕には僕の目的がある」
キロスはパンを置いた。
「《王》の記憶が何なのか。なんで僕の中にあるのか。アムドアに近づくと、どうして強くなるのか」
胸元へ軽く触れる。
「君たちが調べてることと重なってる間だけ、一緒に行きたい。目的がずれたら離れるよ」
キースは頷いた。
「分かった」
「意外と簡単だね」
「君を拘束する理由も、同行を拒絶する理由もない。それに――」
「それに?」
「私も知りたい」
キースは、まっすぐ少年を見る。
「君の中に残っているものが、何なのか」
キロスは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「じゃ、利害一致ってことで」
「そういうことになる」
「よろしく、世界一さん」
「キースでいい」
「じゃあキース」
初対面の者に呼び捨てにされることには、まだ慣れない。
キースが僅かに顔をしかめると、シビウが笑った。
「いいじゃないか。旅してりゃ、そのうち慣れるよ」
「慣れたくはないんだが」
「偉い人は大変だね」
キロスが言う。
「君にだけは言われたくない」
「なんで?」
「自覚がないなら、なお悪い」
「ひどいなあ」
そんなやり取りのあと、キースは一つだけ確認しておくべきことを思い出した。
「キロス」
「ん?」
「精霊戦争について、《王》の記憶はどれほどある?」
少年の手が止まった。
「けっこう」
「戦争は、なぜ始まった?」
笑みが少しだけ消える。
「それ聞く?」
「ああ」
「……面倒なんだよな、それ」
「なぜ」
キロスはしばらく皿の上のパンを見つめ、それから椅子へ深く座り直した。
「記憶が、一つじゃないから」
「一つではない?」
ローゼンが聞き返す。
「うん」
キロスは指を一本立てた。
「一つ目。《王》が戦争を始めた」
ヴァギュイザールから聞いた話に近い。
精霊たちは二つに分かれた。
《王》と《姫》。
「《王》は何をしようとした?」
「世界を一つにまとめようとしてた」
「国を?」
「もっと大きい」
キロスは、自分でも説明しにくそうに両手を広げた。
「精霊も、人も、土地も。みんな勝手に生きて、勝手に争うから、一つの決まりの中へ入れようとしてる」
「《姫》が反対した」
「うん」
「その結果、《王》が兵を挙げた?」
「その記憶だとね。《王》が軍を集めて、従わない相手を力で押さえて、《姫》が止めに来て、戦争になる」
大筋では、ヴァギュイザールの話に近い。
「二つ目は?」
キースが尋ねる。
キロスは二本目の指を立てた。
「逆」
「逆?」
「《姫》が先」
ローゼンが息を呑んだ。
「《姫》が……何を?」
「《王》を封じようとする」
「戦争の前に?」
「そう」
「理由は?」
「そこが見えない」
キロスは目を閉じた。
「都。《王》はまだ兵を集めてない。《姫》と何人かが来る。《王》の力を止めるって言う。《王》は拒む」
額に皺が寄る。
「最初に攻撃するのは……《姫》だ」
ローゼンの顔が強張った。
夢の中で会った、穏やかな存在。
自分を探せと告げた《姫》。
「その記憶では、《王》は戦争を望んでいなかった?」
「最初は」
「なら、《姫》に封じられそうになったことが発端で戦争になった?」
「そう見える」
「しかし《姫》側からすれば、《王》が何か危険なことを始める前に止めようとした可能性もある」
「あると思う」
「その前の記憶は?」
「ない」
「ない?」
「少なくとも、僕には見えてない」
キースは考え込んだ。
どちらか一方が嘘なのか。
それとも、出来事の前後が欠けているだけなのか。
「……二つと言ったな」
メルリルが口を開いた。
「まだ何かありますの?」
キロスは目を開ける。
さっきまで以上に、表情が曇っていた。
「記憶って呼んでいいのか、分からないけど」
三本目の指を立てる。
「戦争より前なのか、途中なのか、それすら分からない」
「何が見える?」
「何も」
「何も?」
「場所も分からない。相手の顔も見えない。声だけ」
室内が静まり返った。
キロスは、遠くを見るような目をした。
「誰かが言うんだ」
「何と?」
「世界を、一度還すって」
キースの呼吸が止まった。
「どこへ」
「〈混沌〉へ」
メルリルの表情が変わる。
ローゼンも同じだった。
キロスは続ける。
「全部を一度ほどいて、最初からやり直す。そんな感じのことを言ってる」
「誰が?」
「分からない」
「神か?」
「知らない」
「精霊?」
「知らない」
「《姫》では?」
「声が違う気がする。でも、それも自信ない」
「そのとき《王》は?」
キロスは目を閉じた。
「怒ってる。ものすごく」
食卓の上へ置かれた手が、僅かに震えていた。
「怖いくらい怒ってる。『許さない』とか、『世界はお前の書き直すものじゃない』とか……断片しか聞こえない」
「《王》は、その何者かへ反逆した?」
「たぶん」
キロスは小さく息を吐いた。
「少なくとも、その記憶の《王》は、世界を〈混沌〉へ還す側じゃない。止めようとしてる」
キースの脳裏に、昨夜の声が蘇った。
――形を失うことを、余は許していない。
黒化する男。
形を失わせまいとした力。
偶然なのか。
「その記憶と、精霊戦争は繋がっている?」
「分からない」
「《姫》は、その何者かの側だった?」
「分からない」
「《王》が世界を一つにまとめようとしたのも、その脅威へ対抗するためだった可能性は?」
「あるかも」
「では、《姫》が《王》を封じようとした理由は――」
「キース」
シビウが止めた。
「また質問攻めになってるよ」
キースは口を閉ざした。
「……すまない」
「いいよ」
キロスは苦笑した。
「僕も答えが知りたいから」
短い沈黙のあと、キースは今度こそ一つずつ確かめるように尋ねた。
「その三つの記憶のうち、どれが最も鮮明なんだ?」
「同じくらい」
「古い、新しいの区別は?」
「ない」
「夢のように曖昧なものは?」
「全部、本物みたいに見える」
「誰かから聞いた話を、自分の記憶だと思い込んでいる可能性は?」
「それも分からない。でも――」
キロスは胸へ手を置いた。
「どれも本物っぽいんだよね」
その言葉を、キースは以前にも聞いている。
《紅獅子の君》。
敗北した《王》。
自ら力を捨てた《王》。
――どちらも覚えている。
「では」
キースは静かに問う。
「どれが真実なんだ?」
キロスは少しも迷わなかった。
「知らない」
あまりにも簡単な答えだった。
「……知らない?」
「うん」
「君自身の中にある記憶なんだろう」
「だからって、本当かどうかまで分かるわけじゃないよ」
「しかし――」
「見えたものが本物っぽいから、本物だって決めるの?」
キースは黙った。
旅に出る以前の自分なら、どう答えただろう。
記録が正しければ。
証人が信頼できれば。
古い資料が一致すれば。
そこに真実があると考えただろう。
「僕が見てるのは、《王》の側から見えたものだけかもしれない」
キロスは続ける。
「《王》が戦争を始めた記憶の中には、《姫》が何を考えてたかなんて入ってない。《姫》が先に封じようとした記憶にも、その前に《王》が何をしてたか全部あるわけじゃない」
「つまり、どちらも出来事の一部分だけを示している可能性がある」
メルリルが言う。
「うん」
「あるいは、本当に矛盾する二つの過去が存在する」
「それもあるかも」
「記憶が改変された?」
「知らない」
「異なる時期の出来事が重なった?」
「知らない」
「別の誰かの記憶が混ざっている?」
「知らない」
メルリルの頬が引きつった。
「あなた、その言葉を便利に使いすぎではありませんこと?」
「便利だよ」
キロスは笑った。
「知らないものを、知らないって言えるから」
キースは、その言葉を聞いていた。
知らない。
以前は、それを敗北の言葉だと思っていた。
知識がない。
理解できない。
答えへ届いていない。
けれどラルソウムには、三つの創世歌が残されていた。
ヴァギュイザールは、矛盾する二つの過去を覚えている。
ローゼンは夢の中で、一度会ったはずの存在を覚えていない。
そして今、《王》の記憶を持つという少年まで、互いに否定し合う過去を抱えていた。
「知らない、か」
キースが呟く。
「うん」
「君は気にならないのか?」
「気になるよ」
「なら、どれか一つを真実だと決めたくならない?」
「なんで?」
「どれが本当に起きたことなのか、知りたいだろう」
「知りたい。でも」
キロスは肩をすくめた。
「決める材料がないなら、決めない方がいいでしょ」
あまりにも自然な返答だった。
キースは言葉を失った。
この少年は頼りない。
軽口ばかりで、自分の名すら妙な名乗り方をする。《王》の記憶と力を抱えていると言いながら、肝心なことの大半を「知らない」で済ませる。
それなのに、もしかすると今の自分よりもずっと自然に、分からないものを分からないまま持っていられるのかもしれない。
「まあ」
キロスはパンを取り直した。
「分かんなくても腹は減るしね」
シビウが笑う。
「やっぱり、あたしはこいつ嫌いじゃないよ」
「光栄だね、姐さん」
「姐さん?」
「駄目?」
「……まあ、いいけどさ」
「よし」
キロスは満足そうにパンへ齧りついた。
フユだけは、その横顔をじっと見つめている。
「何?」
キロスが気づいた。
「王」
「うん」
「でも、王じゃない」
キロスの動きが止まった。
キースもフユを見る。
「どういう意味だ?」
「そのまま」
「フユ」
「行くんでしょ」
それだけ言うと、小さな妖精は椅子から飛び降り、扉の方へ向かっていった。
キロスはしばらく、その背中を見送っていた。
「変な子だね」
「君にだけは言われたくないと思うぞ」
「そう?」
「ああ」
キロスは笑った。
けれど、その手は無意識に胸元へ触れていた。
その内側にあるものを、キースはまだ知らない。
精霊戦争で《王》と呼ばれた存在の記憶なのか。
意志なのか。
力なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
ただ一つ分かるのは、キロス自身が《王》ではないと、誰よりも強く望んでいることだった。
*
一行は、アムドア外縁に残された記録庫へ向かった。
キロスも同行する。
ただし、仲間になったわけではない。目的が重なっている間だけ行動を共にする――それは彼自身が決めたことだった。
「記憶より、紙の方が信用できますの?」
歩きながら、メルリルが尋ねる。
「少なくとも、比較はできる」
キースは答えた。
「記された年代、筆跡、印章、材質。複数の資料を照合すれば、何か見えるはずだ」
「見えたものが真実だとは限らないけどね」
後ろからキロスが言った。
「分かっている」
「本当に?」
「……以前よりは」
シビウが笑う。
「旅に出た甲斐があったじゃないか、世界一」
「その呼び方をやめろ」
「僕も?」
「君は特にだ」
「じゃあキース」
「それはそれで馴れ馴れしい!」
ローゼンが吹き出した。
朝の冷たい風が、乾いた街道を抜けていく。
遠くには、アムドアの《大穴》を囲む封鎖塔が見えていた。
そこへ近づくほど、キースの胸のイースは強く脈打っている。隣を歩くキロスも、ときおり知らないはずの道の先へ視線を向けていた。その目は、初めて来た土地を確かめている者のものではない。
まるで、一度そこを歩いたことがあるようだった。
彼が名乗った名前。
彼の中に残る《王》。
矛盾する戦争の記憶。
世界を〈混沌〉へ還そうとした、姿の見えない何者か。
答えは、まだない。
だからこそ、記録を調べる。
そのときのキースは、まだ少しだけ期待していた。
人の記憶が曖昧でも、紙へ残された歴史ならば、せめて一つの過去を示してくれるのではないかと。
けれど、アムドアの記録庫に残されていたものは、二つですらなかった。
一つの都市について。
三つの歴史が、存在していた。




