第二十四章 アムドアには三つの歴史がある
アムドア外縁の記録庫は、都市が失われる以前からそこにあったという。
もっとも、現在の姿は記録を収めるための建物というより、半ば砦に近かった。低く厚い石壁の周囲には新しい封鎖杭が何重にも立てられ、細い窓には鉄格子が嵌められている。〈混沌〉による異常が増えてからは、古文書を守ることと、外から近づいてくる何かを防ぐことが、ほとんど同じ仕事になってしまったらしい。
「昔は役人が昼寝するための場所だったんだけどな」
ゼクスはそう言いながら、錆びた鍵を鍵穴へ差し込んだ。
「ずいぶんな言い方だな」
「本当だぞ。都市の中心に本庁があったから、こっちは写しと古い帳面ばっかりだった。誰も大事なものが入ってるなんて思ってなかったんだよ」
重い扉が、石床を擦るような音とともにゆっくり開いた。内側から流れ出したのは、乾いた紙と革、それに古い防虫香の匂いだった。長いあいだ閉ざされていた時間そのものが、冷えた空気と一緒に外へ吐き出されてきたように感じられる。
「結果的には、そのおかげで残ったのでございますね」
ローゼンが尋ねる。
「皮肉なもんだろ。大事な原本は都市と一緒に消えて、誰も見向きもしなかった写しが生き残った」
ゼクスは肩をすくめた。
キースは返事をせず、薄暗い室内へ目を凝らした。
棚があった。
まず、壁一面に。
さらに奥にも。
人の背丈を越える木棚へ、革綴じの帳簿、筒状に巻かれた地図、封蝋された文書箱が隙間なく詰め込まれている。大穴発生後に周辺の村や封鎖施設から集められた資料も混じっているらしく、整理しきれない文書が床へ積み上げられ、仮の札だけを掛けられている場所もあった。
キースの歩調が、自然に速くなった。
「目が怖いですわよ」
横からメルリルが言う。
「何が」
「神殿で聖遺物でも見つけたようなお顔です」
「似たようなものだろう。これだけの一次資料が残っているんだぞ」
「大半は写しでしょう?」
「正式な写しなら十分価値がある」
「はいはい」
口では冷めたことを言いながら、メルリル自身もすでに最寄りの文書箱へ視線を走らせていた。取っ手の摩耗、封蝋の型、箱へ書かれた年代。彼女の目が追っているものを見れば、興味がないなどとは到底言えない。
シビウは入口近くで大きな欠伸をした。
「こりゃ、長くなりそうだね」
「日が暮れるまでには終わらせる」
キースが答える。
「その台詞、信用していいのかい?」
「努力する」
「終わらないやつだ」
キロスまで笑った。
「僕、外で待ってようかな」
「君は残れ」
「なんで?」
「《王》の記憶と照合できるものがあるかもしれない」
「僕、古文書読む係に採用された覚えないんだけど」
「知らないものがあれば、知らないと言えばいい」
キースが真顔で答えると、キロスは一瞬黙った。
「……なんか、僕の言葉を便利に使ってない?」
「学んだだけだ」
「それならまあ、いいけど」
フユは最初から会話へ加わる気がないらしく、窓際へふわりと浮かび、鉄格子の向こうに広がる灰色の景色を眺めている。
そうして、アムドアに残された過去を掘り起こす作業が始まった。
*
最初に見つかったのは、もっともよく知られているアムドアの歴史だった。
大穴発生以前に作られた都市案内。魔導院の研究報告。人口記録、水路整備帳、交易許可証、都市税の一覧。どの資料を開いても、そこには一つの巨大都市が当たり前のように存在している。
アムドア。
「人口は相当なものですわね」
メルリルが帳簿の数字を指先で追う。
「北方では最大級だ」
キースは別の記録を開いた。
「魔導士の登録数も異常に多い。一般人口に対する比率が、メミスより高い」
「都市全体が魔導研究へ特化していたという記述がありますわ」
「これだ」
キースは一冊の厚い報告書を引き寄せた。表紙は焦げ、角も欠けているが、行政印だけは辛うじて残っていた。
「都市魔導炉の増設計画」
「魔導炉?」
シビウが聞き返す。
「都市全体へ魔力を供給する大規模施設だ。照明、給水、防護、工房設備。アムドアでは複数の炉を連結して使っていたらしい」
「そんなもん、壊れたら危なそうだね」
「実際、壊れたことになっている」
キースは頁をめくり、後世の調査記録へ移った。大穴発生直後に作成された事故報告には、短いながらも明確な記述が残されている。
アムドア中央部で大規模な魔導異常が発生。
都市結界と魔導炉群が連鎖的に崩壊。
発生した〈混沌〉が制御不能となり、都市と周辺地域を呑み込んだ。
「これが、今まで知られていた歴史か」
ローゼンが言う。
「そうです」
キースは頷いた。
「私もメミスで読んだ。細部は資料によって違うが、基本的には同じだ」
アムドアは巨大な魔導都市だった。高度な技術と研究者を集め、北方でも屈指の繁栄を誇ったが、その力ゆえに大規模な魔導事故を起こし、都市ごと失われた。
因果関係が明瞭で、理解しやすい歴史だった。
あまりにも。
「原因は魔導炉?」
キロスが尋ねる。
「報告書では、そう推定されている」
「推定?」
「事故そのものを見た者が、ほとんど残っていない。都市中心部は消えたからな」
「じゃあ、確定じゃないんだ」
「確定ではない」
キースは報告書の末尾へ目を落とした。調査責任者の名、複数の署名、行政印、魔導事故調査の検証印。文書として必要なものは揃っている。
「だが、文書自体は正式だ」
メルリルも印面を確かめている。
「偽造の痕跡は?」
「今のところない」
「紙は?」
「年代相応」
「インクもですわね」
メルリルは簡易鑑定具を使い、乾いた文字の一部へ光を当てた。
「後世に古い紙へ書き加えたようには見えません」
「印章も本物だと思う」
キースは他の記録を引き寄せた。
「しかも一冊だけじゃない。都市税、戸籍、商取引、魔導院、周辺村の交易帳。そのすべてが、アムドアという都市の存在を前提にしている」
巨大な都市。
そして、事故による消滅。
ひとまず、これを記録Aと呼ぶことにした。
少なくとも、この時点では何もおかしくなかった。
*
異変は、メルリルが古い地図筒を一本見つけたところから始まった。
「キース」
「何だ」
「これをご覧になって」
いつもより低い声だった。
二人で床へ大きな地図を広げる。描かれているのは北方一帯で、現在とは異なる地名が多く、アムドア周辺の街道もかなり古い形をしている。
キースは最初、何がおかしいのか分からなかった。
アムドアはある。
ただし、地図上では小さな円で示されているだけだった。
「……都市が小さい?」
「ええ」
巨大魔導都市として知られる時代より以前の地図なのだろう。そこまでは不自然ではない。
問題は、その隣に描かれていた。
黒い円環。
「これは」
キースは地図へ顔を近づけ、凡例を読み取った。
「監視指定地」
「そのようですわ」
円環から引かれた細線の先に、古い文字がある。キースは慎重に読み上げた。
「《北方第七穿孔監視域》……」
穿孔。
穴。
「アムドアではない?」
ローゼンが尋ねる。
「違う」
キースは別の注記へ目を移した。
「アムドアは……この監視域に付属する居住地として書かれている」
「付属?」
「待て」
キースは勢いよく立ち上がり、棚へ向かった。
「この地図と同じ印章を使っている資料を探す」
「私も」
メルリルが続く。
「シビウ、そこの箱を」
「文字ばっかりの箱をあたしに振るんじゃないよ」
「印だけ見ればいい。これと同じ形だ」
「人使い荒いねえ」
文句を言いながらも、シビウは箱を開いた。ローゼンもゼクスも、それぞれ別の棚へ向かう。キロスまで、結局は黙って文書の印章を確かめ始めた。
半刻ほどして、同じ印章を持つ資料が三冊揃った。
最初は建設記録。
二冊目は人員配置表。
三冊目が、監視計画書だった。
キースは頁を開き、最初の数行へ目を走らせた。その途中で手が止まり、もう一度、最初から読み直す。
間違いではない。
「どうしたのです?」
ローゼンが尋ねる。
キースは紙面から目を離さないまま答えた。
「アムドアは……穴を監視するために作られた」
ゼクスが顔をしかめる。
「何?」
「ここだ」
キースは一行を指した。
「《既存穿孔の継続観測および封鎖維持のため、南側高地に恒久居住区を設置する》」
「恒久居住区?」
「それが後のアムドアだ」
メルリルがすぐに続きを読み取る。
「初期居住者は、監視魔導士、土木技師、その家族、補給商人……。都市として発展する前の記録ですわね」
「つまり」
ローゼンが、確かめるようにゆっくり言った。
「穴が先にあったのでございますか」
誰も、すぐには答えられなかった。
床へ広げられた地図には、監視域があり、その傍らに小さなアムドアがある。
順序が逆だった。
これまで知られていた歴史では、アムドアという巨大魔導都市で事故が起こり、その結果として〈混沌〉の穴が生じ、都市が消えた。
だが、この記録では違う。
先に穴がある。
その穴を監視するため、人が住み始める。
監視拠点が次第に大きくなり、やがてアムドアと呼ばれる都市へ発展する。
「これ……」
ゼクスが地図を覗き込んだ。
「現場の連中が昔から言ってた話に似てるな」
「何を?」
「穴の地下から、都市より古い石組みが出るって」
キースの視線が上がった。
地下から見つかった古代構造。
ローゼンが初めてメミスへ現れた夜に持ってきた写し。
大穴が生じる何百年も前の日付で書かれていた、《アムドアの穴》。
「一致する」
キースは呟いた。
ローゼンと出会った夜の光景が、記憶の中で蘇る。
「ローゼン。君が持ってきた古記録も、これと同系統だったのかもしれない」
「はい」
ローゼンも気づいていた。
「アムドアが消える以前に、穴があった」
「それだけではありませんわ」
メルリルが言った。
その顔から、いつもの得意げな笑みが消えている。
「日付をご覧になって」
キースが確認する。
そして、息を止めた。
「……古すぎる」
「ええ」
歴法が現在と違う。
王統。
月周期。
当時の暦を現在の体系へ換算し直す。
一度だけではない。
二度、三度と数字を確かめても、答えは変わらなかった。
「セーレ以前ですわ」
メルリルが言った。
部屋の空気が、わずかに冷えたように感じられた。
「どのくらい?」
シビウが尋ねる。
「少なくとも」
キースは慎重に答えた。
「名と祈りと記録について、世界各地の制度が大きく変化した時代より前だ」
「つまり、セーレって人の後に世界がおかしくなったから、この穴ができたって話じゃない?」
「言えない」
キースは即答した。
「少なくとも、この記録が正しいなら」
セーレ。
名を失い、名を探し、記録されなくても存在できるという新しい可能性を世界へ強く刻み込んだ人物。
後世の神学者や記録官の中には、現在増えている名前や記憶の異常を、彼女以後の世界変化と結びつける者もいた。キース自身も、旅のどこかで可能性の一つとして考えたことがある。
だが、アムドアの穴がその前から存在していたのなら、話は変わる。
「原因と結果を、逆にしてはいけない」
キースは地図から目を離さずに言った。
「セーレによって世界が変わった。それ自体は事実かもしれない。だが、世界のこうした異常構造そのものが、彼女によって初めて生じたとは言えない」
ローゼンが静かに地図を見つめる。
「ずっと前から」
「少なくとも、この穴は」
キースは頷いた。
「ずっと前からだ」
これを記録Bとする。
アムドアは、穴によって滅びた都市ではない。
穴を見張るために生まれた都市だった。
*
「でもさ」
床へ広げた地図の端に座り込み、キロスが頬杖をついた。
「それなら、最初の記録は何なの?」
キースが彼を見る。
「巨大魔導都市で事故が起きたってやつ。二つ目が本当なら、最初の方は間違いになるよね」
「普通なら」
「普通なら?」
キロスが眉を上げる。
キースはすぐには答えず、記録Aと記録Bを並べて見比べた。
記録Aでは、アムドアは巨大魔導都市であり、大規模魔導事故によって消滅した。
記録Bでは、穴が先にあり、その監視拠点としてアムドアが作られた。
どちらも正式な資料だ。
ただ、年代が違う。
「都市の目的が変わった可能性はありますわ」
メルリルが言った。
「最初は監視拠点。何百年も経つうちに穴の存在が忘れられ、普通の魔導都市へ発展した」
「十分あり得る」
キースも頷く。
「記録BとAだけなら、矛盾は解消できる」
シビウが腕を組む。
「穴を監視する町がでかくなって、そこで別の事故が起きた。それで穴まで暴れた。そういう話?」
「そう考えられる」
「じゃあ終わりじゃないか」
「そうだといいんだが」
低い声を出したのはゼクスだった。
彼は記録庫の奥にある棚を見つめている。
「何かあるのか?」
「いや」
少し迷ってから、彼は頭を掻いた。
「あった気がする」
「何が」
「前に一回だけ、妙な文書を見た」
キースとメルリルが同時に立ち上がった。
「どこだ!」
「圧がすげえよ!」
「どんな文書ですの?」
「地図だったかな……いや、税の記録か?」
「曖昧だな」
「俺は学者じゃねえ!」
ゼクスは棚の間へ入り、上から下まで順に探し始めた。埃を被った箱を引き出しては蓋を開け、違えば元へ戻す。
「これじゃねえな」
次の箱。
「こっち……いや」
少し離れた場所で、キロスが欠伸をした。
「本当にある?」
「黙ってろ」
「僕、お腹空いてきた」
「朝食べただろう!」
「頭使うと減るんだよ」
「君はさっきからほとんど使っていない!」
「ひどいな」
その軽口が、不意に止まった。
キロスが、部屋の片隅にある一つの棚を見つめている。
「そこ」
「何だ?」
「分かんない」
「またか」
「でも、中の人が嫌がってる」
キースの表情が変わる。
「《王》が?」
「たぶん」
キロスは胸へ手を置いた。
「さっきから、そこだけ見たくない感じがする」
ゼクスが棚へ近づき、一番下の奥へ押し込まれた細長い箱を引き出した。分厚い埃が舞い、皆が思わず顔を背ける。
「これか?」
箱は古い。
封も切られていない。
ゼクスが首を傾げた。
「俺が見たやつじゃねえな」
「開けよう」
キースが言う。
「いいのか?」
「正式な調査で来ている」
「いつから正式になったんだ?」
「今だ」
「お前、意外と強引だな」
封蝋を確認する。
印章。
破損なし。
真正。
キースは刃を差し込み、古い封を慎重に外した。
中に入っていたのは、地図が三枚、行政帳簿が二冊。それに土地台帳、街道整備記録、古い戸籍写し。
キースは最初の地図を広げた。
視線が中央へ移り、そのまま止まった。
「……アムドアがない」
「何?」
全員が地図の周囲へ集まる。
そこには、この地域そのものは描かれている。
山。
川。
周辺の村。
街道。
地形や距離も、現在知られているものと大きくは変わらない。
ただ、アムドアがあるはずの場所に、都市がない。
「もっと古い地図?」
ローゼンが尋ねる。
キースは日付を確認した。
「いや」
声が硬くなる。
「アムドアが、すでに都市として存在していたはずの時代だ」
「記録Bより後?」
「ずっと後だ」
メルリルが地図を受け取り、まず印章を確認した。
「偽物?」
「最初に疑うべきだ」
紙。
インク。
印章。
書体。
測量法。
二人は順に調べていった。周囲では誰も口を挟まず、その結果を待っている。
やがてメルリルが顔を上げた。
「……本物ですわ」
いつもの苛立ちも得意げな響きも、その声にはなかった。
代わりにあるのは、明確な警戒だった。
「少なくとも、露骨な偽造ではありません」
「台帳も見る」
キースが土地台帳を開く。
アムドアがあるべき区域。
そこに書かれているのは、森林、放牧地、小村、河川管理区。それだけだった。
「都市税がない」
「人口記録は?」
別の冊子を開く。
ない。
「街道は?」
「アムドアへ向かう街道そのものが存在していませんわ」
メルリルの顔が青ざめる。
「待ってください。ここ、記録Aでは中央街道でしょう?」
「ああ」
「この資料では山裾を迂回している。都市があるなら、こんな道路設計にはなりませんわ」
「つまり」
シビウが地図を覗き込んだ。
「町を地図から消したんじゃなくて、最初から町がないようにできてる?」
キースは、すぐには答えられなかった。
その通りだった。
もし偽造者がアムドアという名だけを地図から削ったのなら、話は簡単だ。
だが、本当に都市が存在しないなら、それに伴ってすべてが変わる。
街道の経路が変わる。
税収が変わる。
人口分布が変わる。
水路も、土地所有も、周辺村の交易も変わる。
目の前にある資料群は、そのすべてが最初からアムドアの存在しない土地として整合していた。
「記録C」
メルリルが呟いた。
「この地域には、アムドアという都市が存在しない」
誰も笑わなかった。
「正式な記録?」
ローゼンが尋ねる。
「今確認しています」
キースは何冊もの資料を机の上へ並べた。
一冊ではない。
地図。
台帳。
住民記録。
街道整備。
租税。
それらすべてが、同じ一つの過去を示している。
アムドアが存在しなかった過去を。
「何かおかしい」
ゼクスが言った。
「何が」
「俺、この辺で生まれた奴からアムドアの話をいくらでも聞いたぞ」
「それは記録A側の歴史と一致する」
「城があった。市場があった。魔導院があった。事故の前に住んでた奴の親戚だって、まだ周りにいる」
「分かっている」
「じゃあ、こっちは何なんだよ」
答えは出なかった。
キースは、記録Cの地図を見つめる。
都市がない。
しかも、都市の抜けた不自然な空白があるわけでもない。
そこには、ごく普通の土地が広がっている。
「偽造だ」
ゼクスが言った。
「こんなの、誰かが作ったんだろ」
「その可能性は当然ある」
キースは慎重に答えた。
「だが、誰が?」
「知らねえよ」
「何のために?」
「それも」
「都市一つが存在しなかった歴史を作るためには、地図を一枚偽造するだけでは足りない」
キースは、机上に並んだ帳簿を順番に指した。
「税。住民。交易。道路。行政区分。周辺村の記録。数十年、あるいは百年以上に渡る文書を、すべて整合させなければならない」
「大がかりな組織なら?」
「可能かもしれない」
メルリルが引き取る。
「けれど、それなら痕跡が出るはずです。印章の製造時期、紙の仕入れ、書記の筆跡、後世語の混入。一つくらいは齟齬が出る」
「今のところ、ない」
キースは答えた。
「全部、正しい」
「正しいって」
シビウが顔をしかめる。
「町があった記録も、なかった記録も?」
「ああ」
「それ、正しいって言うのかい」
キースは黙った。
今までは、言わなかった。
いや。
言えなかった。
だが、この旅の中で何度も似たものを見てきた。
ヴァギュイザールは、《王》が敗れた記憶と、自ら力を捨てた記憶を同時に持っていた。
三つの創世歌は、サーガが最初だった世界、ケーオスとコスモスが先にあった世界、そもそも三者に始まりなど存在しない世界を、それぞれ歌っている。
そしてキロスの中では、《王》が戦争を始めた過去と、《姫》が先に《王》を封じようとした過去が、どちらも本物らしい記憶として存在していた。
そのたびに、誰かが嘘をついているのだと考えた。
誰かの記憶が間違っている。
どれかの記録が後世に歪められた。
どれか一つを捨てれば、世界は再び一つの線へ戻る。
そう考えてきた。
けれど今、机の上には三組の公文書が並んでいる。
「……前提を変える必要がある」
キースが言った。
「何の?」
メルリルが問い返す。
「私たちはずっと、矛盾するものが出たら、どれかが間違っていると思っていた」
「普通はそうでしょう」
「ああ。私もそう思う」
「今も?」
「今も、まずはそう疑うべきだ」
そこだけは捨てない。
何でも理解不能な現象として受け入れるだけなら、それは調査ではない。
「だから、偽造、誤記、年代違い、写本の混同、別都市との取り違え。考えられるものは全部調べる」
「それでも説明できなかったら?」
ローゼンが尋ねた。
キースは少し間を置いた。
「歴史が偽造されたのではない」
全員が彼を見る。
「全部が、それぞれの時代では事実だった可能性がある」
沈黙が落ちた。
最初に反応したのはゼクスだった。
「待て」
笑わなかった。
「何言ってんだ、お前」
「自分でも、とんでもないことを言っているのは分かっている」
「じゃあ説明しろ」
キースは三つの資料を並べ直した。
「記録Aでは、アムドアは巨大魔導都市として存在し、事故によって消滅した。記録Bでは、穴が先に存在し、その監視のためにアムドアが建設された。そして記録Cでは、この土地にアムドアという都市そのものが存在しない」
三つの記録を一度見渡し、静かに続ける。
「これらを一つの直線的な歴史へ押し込めようとすれば、どれかを偽物にする必要がある」
「だから偽物なんだろ」
「その証拠がない」
「証拠が見つかってないだけかもしれねえ」
「もちろんだ」
キースは即答した。
「だから調査は続ける。ただ、それとは別に、もう一つの可能性も捨てない」
「どんな」
「ある時期には、本当に巨大魔導都市アムドアが存在していた。別の時期には、本当に穴を監視するために作られた都市として存在していた。そして、ある時期には――」
記録Cへ目を落とす。
「本当にアムドアという都市そのものが存在しなかった」
自分で口にしながら、背筋が冷えた。
もし、それが事実なら。
「歴史が変わった?」
ローゼンが小さく言った。
「分からない」
キースは首を横へ振る。
「過去そのものが変化したのか。世界が別の過去を持つ状態へ移ったのか。記録と現実が互いに影響したのか。それとも、私たちが今は理解できない別の仕組みなのか。何一つ証明できない」
「全部、仮説」
「そうです」
キロスが笑った。
馬鹿にした笑いではない。
「やっと言えるようになったね」
「何が」
「知らない」
キースは彼を見る。
そして、ほんの少し笑った。
「そうだな」
メルリルはしばらく、机の上の三つの記録を黙って見比べていた。
やがて、指先で記録Cの端を軽く叩く。
「こういう現象を扱った研究はございませんの?」
「何?」
「今まで、似たようなことが一度もなかったとは思えませんわ」
メルリルは記録A、B、Cを順に示した。
「記憶が食い違う。記録が食い違う。しかも、ただ間違っているだけではなく、どちらもそれぞれに整合している。長い歴史の中で、誰も研究しなかったのです?」
キースは答えかけて、口を閉じた。
魔導研究。
歴史学。
記録学。
そのどれにも、すぐ思い当たるものはない。
だが、もっと古い分類なら。
「……ある」
メルリルの眉が上がった。
「ありますの?」
「神学の方だ」
「神学?」
キースは少し考えてから、周囲を見る。
「《メレグ=ナフ》という名前を聞いたことは?」
反応はなかった。
ローゼンも首を傾げる。
ゼクスに至っては露骨に知らない顔をした。
「神様?」
キロスが尋ねる。
「そう書いてある本は多い」
「曖昧だね」
「ああ」
キースは帳面を開きながら答えた。
「メミスの古神学では、多重神格の名として扱われている。《メレグ=ナフ》は、見る者や祈る者によって異なる《貌》を返す神だと」
「貌?」
「姿だけじゃない。人格や働きまで変わるとされる」
メルリルが興味深そうに身を寄せる。
「変身する神格ですの?」
「そう単純でもないらしい」
キースは記憶を探りながら続けた。
「同じ神格なのに、観測する者によって違う存在として現れる。記憶を分ける。祈りを錯綜させる。記録された内容まで互いに一致しなくなる――そういう伝承が集められている」
シビウが眉を寄せた。
「ずいぶん、今の話に似てるじゃないか」
「似ている」
「なら、それなんじゃないのかい?」
「まだだ」
キースは即座に答えた。
「古い神学書では、《鏡の貌》や《閉じた貌》と呼ばれるものが、《メレグ=ナフ》という一柱の神の別の姿だと説明されている」
「他にもあるんですの?」
「あるとする資料もある。ただ、数も名称も一定しない」
「ずいぶん頼りない神学ですわね」
「だから、私はあまり信用していない」
メルリルが意外そうに瞬きをする。
「神官長なのに?」
「神官長だからだ」
キースは少し不機嫌そうに言った。
「神学書に書いてあれば全部正しいなら、調べる必要がないだろ」
「それもそうですわね」
「特に《メレグ=ナフ》については、古い資料と新しい資料で扱いが違う」
「どう違う?」
シビウが尋ねる。
キースは机上に置かれた三つの歴史を見ながら答えた。
「後世の神学書ほど、きれいなんだ」
「きれい?」
「一柱の神がいる。その神には複数の貌がある。その貌によって違う奇跡を起こす。そう整理されている」
「分かりやすいですわね」
「分かりやすすぎる」
メルリルが口を閉じた。
「古い資料ほど、《メレグ=ナフ》が本当に一柱の神の名前なのか、それとも何かの現象を指す言葉なのかが曖昧なんだ」
「現象?」
ローゼンが尋ねる。
「語の古い用例では、《メレグ》は断裂した記憶、《ナフ》は封じられた祈りや、閉じた核に近い意味で使われることがある」
キースはそこで一度言葉を止めた。
「だから、元々は神名ではなかったという説もある」
「では、何だったと?」
「記憶や記録が、観測する者によって異なる形へ分かれてしまう状態を指す古い言葉だった、と」
誰もすぐには口を開かなかった。
机の上には三つのアムドアがある。
あった都市。
穴を監視していた都市。
存在しなかった都市。
メルリルが、ゆっくりと三つを見渡した。
「では」
声が少し低くなる。
「アムドアで起きているのが、その《メレグ=ナフ》ですの?」
「分からない」
キースは即答した。
「でも、似ていますわ」
「似ているだけだ」
「ヴァギュイザールの記憶も?」
「似ている」
「キロスの《王》も?」
「似ている」
「創世歌も?」
「似て見える」
「そこまで揃っているのに?」
キースはメルリルをまっすぐ見た。
「名前を知ったからといって、目の前の現象まで、その名前に押し込むな」
強い口調ではなかった。
だが、メルリルは黙った。
「《メレグ=ナフ》という神がいるから、全部その仕業だ。そう決めたら簡単だ」
キースは続ける。
「簡単すぎる」
「……ですわね」
「今分かっているのは、昔にも同じような現象を見た人間がいたらしい、ということだけだ」
「それを、後世が神にしたかもしれない」
ローゼンが言った。
「可能性の一つです」
「逆も?」
「逆?」
「本当に神がいて、その神の働きを古い人々が現象として記した」
キースは少し考えた。
「それも否定できません」
「どちらが先なのです?」
キースは答えなかった。
やがて、肩を竦める。
「分からない」
キロスが笑う。
「今日はそればっかりだね」
「うるさい」
それでも、キースは《メレグ=ナフ》という語を帳面へ書いた。
横に大きく疑問符をつける。
その下へ、
――類似現象あり。原因と断定せず。
と記した。
*
その後、キースとメルリル、ローゼン、ゼクスは、記録Cが偽造である可能性を徹底的に調べた。
シビウとフユとキロスは途中で完全に役割を失い、別の部屋へ移っていった。
「何か分かったら呼んで」
そう言って去ったシビウの背中へ、キースは「すぐ呼ぶ」と答えた。
しかし、それから二刻。
何も崩れなかった。
文書は古い。
印章は正しい。
紙質も年代に合う。
書体も。
使用語も。
記録方法も。
調べれば調べるほど、それらは普通の行政文書としての姿を保ち続けた。
「この書記」
メルリルが別の資料を持ってきた。
「記録A側にもいますわ」
キースが顔を上げる。
「同じ人物?」
「筆跡も一致します」
「あり得ない」
「またそれを言いますの?」
「同時期?」
「ほぼ」
二枚の文書を並べる。
一方には、《アムドア都市南門修繕費》と記されている。
署名した書記の名前。
独特の筆跡。
最後の文字を僅かに右へ跳ねる癖。
もう一方の文書は、同じ地域の河岸整備費だった。
こちらにはアムドアという都市が存在しない。
それなのに、書記の名前も、筆跡の癖も完全に同じだった。
「同一人物が」
ローゼンが言う。
「アムドアがある記録と、ない記録を書いた?」
「そう見える」
「嘘を書いたのでしょうか」
「その可能性はある」
だが、その書記が一人で嘘を書いたとしても、周囲すべての文書まで変わるわけではない。
同じ土地。
同じ時代。
同じ書記。
ただ一方の記録では都市があり、もう一方には存在しない。
しかも、どちらの文書にも、秘密を隠そうとした痕跡などない。
改竄の跡も。
暗号も。
不自然な書き直しもない。
本人にとっては、どちらもごく普通の仕事だったように見える。
「気味悪いですわね」
メルリルが素直に言った。
「ああ」
彼女の瞳には警戒と恐怖がある。
しかし、それと同じくらい強く好奇心も宿っていた。
「でも、面白い」
「君なら言うと思った」
「あなたもでしょう?」
キースは否定できなかった。
怖い。
それでも、知りたい。
「ここをご覧ください」
ローゼンが一冊の古い帳面を開いた。
記録B。
監視都市としての初期アムドアに関するものだった。
「何か?」
「この日付です」
「さっき確認した」
「その下でございます」
ローゼンの指先に、小さな追記がある。
後世の調査員によるものらしい。
初期監視記録の由来。
さらに古い資料から転記したという注記。
「原資料がある?」
キースが立ち上がる。
「所在は?」
文字を追う。
地下。
都市建設以前の観測室。
封鎖後。
調査不能。
「地下……」
ゼクスが呟いた。
「大穴の下か?」
「おそらく」
「そこは今でも調査隊が入ってる」
「行けるのか」
「浅いところならな」
「深部は?」
ゼクスは露骨に顔をしかめた。
「おすすめはしねえ」
「理由は?」
「黒くなる奴が増える」
その言葉に、キースは無意識に胸へ手を当てた。
メルリルも同じだった。
二人のイースは、記録庫にいる今でさえ、微かに脈打ち続けている。
「それでも」
キースは帳面を閉じた。
「行く必要がある」
「お前、思ったより無茶するな」
「以前なら、行かなかったかもしれない」
「今は?」
「怖い」
キースはゼクスを見る。
「だから、準備して行く」
ゼクスは少しだけ笑った。
「いい答えだ」
*
調査を終えた頃には、外はもう夕方になっていた。
記録庫を出ると、アムドアの方角は昼よりも濃い霞に覆われている。その向こうには、地平の一部が欠け落ちたような黒い領域が横たわっていた。
かつて、あそこに都市があった。
あるいは、穴を監視するための町があった。
あるいは、何もなかった。
三つの過去が、それぞれ正式な文書として残っている。
キースは記録庫の石段へ腰を下ろした。長時間、薄暗い室内で古い文字ばかり追っていたせいか、外の光が妙に眩しく感じられる。
しばらくして、ローゼンが隣へ来た。
「お疲れでございますか」
「頭が」
「痛いので?」
「世界が」
ローゼンが少し笑った。
「大きすぎますか?」
「違う」
キースも苦笑する。
「今まで、世界には一つの過去があると思っていた」
「はい」
「当然だろう?」
「わたくしも、そう思っておりました」
「起きたことは一つ。それを記したものが間違うことはある。人が忘れることも、嘘を書くこともある。それでも、その向こうには本当に起きた一つの出来事があると思っていた」
ヴァギュイザール。
キロス。
三つの創世歌。
いずれも、その考え方を少しずつ揺らしてきた。
「でも、もし」
キースは遠くの欠落へ目を向ける。
「記録の方ではなく、過去の側が一つではないなら、私たちは何を歴史と呼べばいいんだろうな」
ローゼンはしばらく答えなかった。
やがて、いつもの穏やかな声で言う。
「分かりません」
その言葉を聞いて、キースは笑った。
「最近、それを聞くと安心する」
「以前は、お嫌いだったのでは?」
「今も好きではない」
「では?」
「嘘よりはいい」
ローゼンは微笑んだ。
キースは膝の上の帳面へ視線を落とす。
今日、新しく書き加えた一語。
《メレグ=ナフ》。
それは答えではない。
神の名前なのかさえ、まだ確かではない。
ただ、自分たちより遥か以前にも、同じような矛盾を見て、それへ名前を与えようとした者がいた。
その事実だけは、少し奇妙だった。
安心するわけではない。
むしろ逆だ。
この異常が、今になって初めて生じたものではない可能性が、また一つ増えたのだから。
そのとき、アムドアの方角から乾いた風が吹いた。北方の冷気を含んだ風が石壁を撫で、記録庫の脇に溜まった砂埃を小さく巻き上げる。
その風の中へ、一瞬だけ、声のようなものが混じった気がした。
キースは顔を上げた。
「どうされました?」
「今、何か……」
聞こえた。
気がした。
言葉ではない。
遠く、古く、人の声かどうかさえ判別できないほど微かな何か。
その瞬間、胸の奥にあるイースが強く一度だけ脈打った。
「明日」
キースは言った。
「地下へ行こう」
「はい」
「都市より古い場所へ」
ローゼンも、遠くの欠落を見つめる。
「そこに、何があるのでしょう」
以前のキースなら、仮説をいくつか並べ、もっとも可能性の高そうな答えを口にしたかもしれない。
今は、そうしなかった。
「行けば、何かは分かる」
「すべてでは?」
「たぶん、分からない」
「それでも?」
「ああ」
キースは石段から立ち上がった。
「それでも見る」
*
翌朝、地下調査へ持ち出す資料を整理していたメルリルが、最後に記録Bをもう一度開いた。
「キース」
「何だ」
「この年代、本当に合っていますわよね?」
「三回確認した」
「わたくしも四回」
「なら、何を訊いている」
「確認したくなっただけです」
メルリルは頁へ目を落とした。
セーレ以前。
さらに、アムドアが都市となる以前。
その時代に、穴はすでに存在している。
「これだけは」
メルリルが言う。
「三つの歴史のどれが本当でも、残りますわね」
「何が」
「異常そのものが、セーレより古い」
キースは頷いた。
「そうだ」
アムドアという都市があったか、なかったか。
魔導事故によって穴が生じたのか。
穴を監視するために都市が作られたのか。
そこは、まだ揺れている。
けれど少なくとも、記録Bが真正である限り、世界の奥にあるこの異常はセーレが生まれるより前から存在していた。
彼女が世界を壊したわけではない。
名と祈りと記録の関係を変えたことが、すべての始まりだったわけでもない。
もっと前から。
もっと深いところで。
世界にはすでに、矛盾が存在していた。
そして、その矛盾に対して《メレグ=ナフ》という名を与えた者たちさえ、はるか昔にいたのかもしれない。
だが、名が残っていることと、その名が正しいことは同じではない。
キースは帳面を閉じた。
「行こう」
記録庫の外では、ゼクスたちが待っている。
キロスも。
フユも。
シビウも。
ローゼンも。
これから向かうのは、《大穴》の底。
アムドアという都市よりも古い場所。
三つの歴史の、さらに下に埋もれている過去だ。
何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
ただ、地下調査隊が以前持ち帰った写しには、誰にも読めない文字が途中まで残されていた。
《ラグナ――》
その先だけが、欠けていた。




