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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第四部 アムドアには三つの歴史がある
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26/31

第二十五章 ラグナ――

 アムドアの《大穴》へ降りるには、夜明けを待たなければならなかった。


 普通の山道であれば、夜のうちに動いた方が涼しく、風も弱い。だが、大穴では事情が逆になる。夜間は内部の魔導観測値が不安定になり、ときには封鎖杭が示す距離そのものさえ変化するのだという。


 昨日まで二十歩先に立っていた杭が、翌朝には三十歩向こうへ移ったように見える。


 その程度なら、この一帯ではまだ《よくある異常》に分類されるらしい。


「よくある、で済ませていい話じゃないだろう」


 説明を聞いたキースが顔をしかめると、ゼクスは眠そうに欠伸をした。


「毎回驚いてたら、この辺じゃ昼まで身体が保たねえよ。大穴の近くじゃな、昨日と今日で同じなのは、自分の名前くらいだと思っとけ」


「その言い方は、あまり縁起がよくありませんわね」


 メルリルはそう言いながら、自分の手袋を念入りに締め直した。


 彼女もキースも、今朝から魔導の使用を可能な限り控えている。黒化症状と魔導行使の因果は、まだ証明されていない。けれど、発症後に術を使った者ほど崩壊が速まる傾向がある以上、無用な危険は避けるべきだった。


 ゼクス自身も魔導士である。


 だからこそ彼は、大穴へ降りる前に全員の装備を一つずつ確認した。


 腰縄。


 非常食。


 水。


 魔導を用いない油灯。


 そして、黒化症状が現れた場合に患部を覆うための白布。


 最後の一つだけは、何の治療にもならない。


「何のためだ?」


 キースが尋ねると、ゼクスは布を畳みながら答えた。


「見えなくするため」


「……それだけ?」


「それだけだ。黒くなり始めた自分の指を、ずっと見てるうちに頭がおかしくなる奴がいる。治せねえなら、せめて見なくて済むようにする。それでも役に立つことはある」


 キースは黙って白布を腰袋へ収めた。


 治せなくても、役に立つ。


 世界一の魔導士であろうと、できることがそれしかない場面はある。


 旅へ出る前の自分なら、そんなものに意味はないと切り捨てていたかもしれない。治せないなら無意味だ。解決できないなら失敗だ。


 今は、そうは思わない。


「全員、指を見せろ」


 ゼクスが言った。


 シビウが眉を上げる。


「あたしまで?」


「儀式みたいなもんだ。いいから出せ」


 七人が、それぞれ手を差し出した。


 キース、ローゼン、シビウ、メルリル、フユ、キロス、ゼクス。


 どの指も、まだ本来の色と形を保っている。


「次、目」


「面倒だねえ」


「文句言うな」


 互いの瞳まで確認する。異常はない。


 フユだけは、なぜ自分までそんなことをされているのか、よく分かっていない顔をしていた。


「フユは、おそらく大丈夫だ」


 キースが言うと、シビウがすぐに返した。


「おそらく、で人を地下へ連れてくな」


「だが、これまで四季使いには――」


「キース」


「分かっている。断定しない」


 最近、自分で自分へ言い聞かせる言葉が増えた。


 分からないものを、分かったことにしない。


 ゼクスは全員を見渡し、最後に大穴の方角へ顎を向けた。


「じゃあ行くぞ。今日の目的は古代構造の確認だ。大穴そのものへ喧嘩を売るんじゃねえ。変なものを見つけても勝手に触るな。声がしても返事するな。それから、知らない名前を呼ばれても振り返るな」


「最後の二つは何ですの?」


 メルリルが真顔になる。


「経験則」


 彼女は黙った。


「記録にないぞ」


 キースが言う。


「書くと増えるって言う奴がいたから、正式記録から外してる」


「……それを今言うのか」


「安心しろ。俺は信じてねえ」


「安心できない!」


 シビウが小さく笑った。


「さあ、世界一。世界は広いねえ」


「最近、それを実感しているところだ」


 そうして七人は、アムドアの《大穴》へ向かった。


          *


 初めて間近で見る《大穴》は、穴という言葉から想像するものとは違っていた。


 大地に穿たれた、巨大な円形の空白。


 そう説明してしまえば簡単だ。


 しかし縁へ立ったキースには、「地面がなくなっている」というより、そこだけ世界が続きを失っているように見えた。


 対岸は霞み、巨大さだけでは説明できないほど距離感そのものが揺らいでいる。目の前にある崖壁が、ある瞬間には数歩先まで迫り、次には谷の彼方へ遠ざかったように感じられた。


 穴の周囲には、幾重もの封印環が敷設されている。


 人間の魔導による結界。精霊から借り受けた封印具。正体も建立年代も異なる古い石碑。近年打ち込まれた新しい鉄杭。


 時代も思想も異なる封印が何層にも重ねられ、互いに干渉しながら、それでも辛うじて大穴の拡大を抑えている。


「これだけの術式を、同時に運用しているのか」


 キースは周囲を見渡した。


「正気の沙汰ではない」


「褒め言葉として受け取っておくぜ」


 ゼクスが答える。


「相互干渉は?」


「する」


「だろうな」


「だから毎日調整してる」


「毎日?」


「穴の方が変わるからな」


 メルリルは、さすがに言葉を失っていた。


 普段なら即座に測定具を取り出す彼女も、ここでは安易に魔導器具を起動しない。それでも目だけは忙しく動き、封印環の配置や重ねられた術式の構造を、必死に記憶しているようだった。


 一方、ローゼンはしばらく大穴を見つめたまま動かなかった。


「精霊の声が、少ないです」


「少ない?」


「はい。この辺りにも、風や土の小さな精霊はいらっしゃるはずなのですが」


「逃げた?」


 シビウが尋ねる。


「そうなのかもしれません。ただ……」


 ローゼンは適切な言葉を探すように、一度視線を伏せた。


「逃げた方が残す気配も、あまりございません」


 キースは大穴へ目を向けた。


「最初からいなかったように?」


「少し、似ています」


 また、《似ている》。


 断定できないことばかりだった。


 降下口は、大穴の東側に設けられている。崖壁へ沿って作られた鉄と石の階段は何度も補修されており、古い石段へ新しい足場が継ぎ足され、そのさらに下には縄梯子が続いていた。


「これを降りるのかい」


 シビウが谷底を覗き込む。


「マーカスなら喜びそうだね」


 口にしたあと、彼女は少しだけ笑った。


 以前のように、名前を出した直後に黙り込むことはなかった。


「高いところが好きだったのか?」


 キロスが何気なく尋ねる。


「いや。高い場所で大声出すのが好きだった」


「何それ」


「馬鹿だったんだよ」


 シビウは肩に担いだ大斧を軽く叩いた。


「行こう」


 先頭はゼクス。


 続いてシビウ、フユ、キロス、ローゼン、メルリル。


 最後にキース。


 七人は、大穴の底へ向かって降り始めた。


          *


 深くなるにつれて、世界から少しずつ色が失われていった。


 最初は草木がなくなっただけだった。次に岩肌から苔が消え、そのさらに下では石そのものの色まで灰色へ揃い始める。


 手にした油灯の橙だけが、不自然なほど鮮やかに見えた。


 キースのイースも、下降するほど明らかに反応を強めている。


 一定の間隔で脈打つ。


 痛みではない。


 胸の奥にあるものが、身体から外へ抜け出そうとしているような。それとも、穴の底にある何かが、外側からキースの内へ指を伸ばしているような。


 そんな不快な感覚だった。


「止まれ」


 前方からゼクスの声が響き、全員が足を止める。


「魔導士三人、確認」


 ゼクス。


 キース。


 メルリル。


「俺はまだ平気だ」


「私も」


「わたくしも。ですが、反応はかなり強くなっておりますわ」


「黒化は?」


「ない」


 三人とも手袋をずらし、指を確認した。


 正常だった。


「キロスは?」


「僕?」


「お前も変な力使うだろ」


「魔導士じゃないと思うけどなあ」


 キロスは自分の指をひらひらと動かした。


「普通」


 そう答えた直後、彼の顔が僅かに歪んだ。


「どうした?」


 キースが尋ねる。


「いや」


「《王》か?」


 キロスは胸へ手を当てた。


「……なんか、機嫌悪い」


「穴へ入ってから?」


「うん。下に行くほど」


「何か言っている?」


「聞こえない。嫌がってる感じだけ」


 キースは一拍置いた。


「戻るか?」


 真剣に尋ねると、キロスは意外そうに彼を見る。


「戻れって言わないんだ」


「危険なら戻る。それだけだ」


「僕が役に立つから、無理に連れていくかと思った」


「それをやったら、神殿にいた頃の私と変わらない」


 キロスは、ほんの少しだけ笑った。


「じゃあ、まだ行く」


「無理はするな」


「世界一さんもね」


「分かっている」


 再び下降する。


 しばらくして、ついに人工の階段が終わった。


 その先にあったのは、自然に削られた岩肌ではない。


 人の手で作られた道だった。


          *


「これが……」


 ローゼンが小さく呟く。


 岩壁に、巨大な入口が開いていた。


 門だった。


 高さは人間二人分ほどあり、幅は馬車一台がそのまま通れそうなほど広い。石を積み上げて作った形跡はなく、巨大な一枚岩を、初めから門の形で抜き取ったように滑らかな輪郭をしている。


「都市の地下施設?」


 シビウが尋ねる。


「違う」


 ゼクスが答えた。


「アムドア建設層は、もっと上だ」


「どのくらい?」


「だいぶ」


「説明が雑だね」


「俺は考古学者じゃねえ」


 キースは門の縁へ近づいた。


 触れない。


 まず観察する。


 加工痕。


 石質。


 表面の摩耗。


「これは、人間の古代建築とは思えない」


「そうですわね」


 メルリルも隣へ来る。


「切削跡がなさすぎます。魔導加工なら残留痕があってもよさそうですけれど、それもほとんどない」


「精霊のもの?」


 キースがローゼンを見る。


 彼女は首を横へ振った。


「少なくとも、わたくしの知る精霊建築とは違います。石へお願いして形を変えていただいた場合、もっと……石自身の癖が残りますので」


「石の癖」


 以前なら、そこでキースは詳しく聞き返しただろう。


 今は、分からないまま先へ進める。


「ヨトゥナール系か?」


 ゼクスが言った。


 北方には、精霊王朝よりさらに古い巨人族の痕跡が残されている。


 巨大な石組み。


 角張った構造。


 人間には過剰な大きさの扉。


 神話と歴史の境界へ残る、古い北方文化。


 キースも、文献上の特徴なら知っていた。


「似ている部分はある」


 門の高さを改めて見上げる。


「だが、ヨトゥナール遺構ならもっと大きい。何より、この曲線は記録にない」


 門の上部には、一本の線が彫られていた。


 円。


 いや、完全な円にはなっていない。


 輪郭の一部だけが僅かに切れ、開いている。


 大穴を示す図にも見えた。


「最初にローゼンが見せてくれた写しに、似た図があった」


「はい」


 ローゼンも気づいていた。


「《アムドアの穴》と記されていたものでございます」


 キースの背筋へ、冷たいものが走る。


 都市より古い。


 現在の大穴よりも古い。


 ならば、何を基準に《古い》と呼べばよいのだろう。


 アムドアという都市が存在する以前。


 現在の人間文明が成立する以前。


 白銀の時代よりも前なのか。


 黄金の時代にまで遡るのか。


 それとも、さらに古いのか。


 年代を決める材料は、まだない。


「入るぞ」


 ゼクスが言った。


「ここまで来たんだ。外から眺めるだけじゃ意味がねえ」


「全員、壁には触れるな」


 キースも続ける。


「文字や図があっても、まず記録だけ取る」


「魔導記録具は?」


 メルリルが尋ねる。


「使わない。紙で」


「賛成ですわ」


 彼女にしては珍しく、即座に同意した。


 油灯の光だけを頼りに、七人は都市よりも古い門を潜った。


          *


 内部は、恐ろしいほど静かだった。


 自分たちの足音だけが、石の通路をどこまでも追ってくる。


 廊下は緩やかな下り坂になっており、左右の壁には一定間隔で浅い窪みが並んでいる。しかし、そこへ灯火を置いた痕跡は見当たらない。


「暗い場所だったのか?」


 シビウが油灯を掲げた。


「作った者に、光が必要だったとは限らない」


 キースが答える。


「人間じゃない可能性もあるしね」


「そういうことだ」


「言ってみただけなのに、真面目に返されると怖いよ」


 少し進んだところで、最初の文字が現れた。


 壁面へ刻まれた細い線。


 直線でも、曲線でもない。


 文字らしい。


 だが、キースには読めなかった。


「ヨトゥナール文字?」


 キロスが尋ねる。


「違う。少なくとも、私が知る系統ではない」


「精霊文字でもございません」


 ローゼンも近づく。


「古精霊語とも違います」


 メルリルは紙を取り出し、文字の形を慎重に写し取った。


「人間の古文字にも、似たものがありませんわね」


「断絶文字?」


 ゼクスが尋ねる。


「それなら、《分類できないもの》に名前をつけただけだ」


「便利だろ」


「便利すぎる分類は、役に立たない」


 キースは壁へ刻まれた線を目で追った。


 一つ一つの記号が、独立しているように見えない。


 ある文字から伸びた線が隣の文字へ入り込み、さらにその先へ繋がっている。


 文章ではないのかもしれない。


 全体で一つの図式。


 あるいは術式。


「魔導式に見える」


 キースが言う。


「わたくしも、一瞬そう思いました」


 メルリルが頷く。


「でも、魔導式として読むと構造が閉じません」


「途中の変数がない」


「いえ。そもそも《変数》という概念を使ってよい構造なのかどうか」


 二人で壁を見つめる。


「長くなる」


 フユが言った。


「まだ何も――」


「長くなる顔」


 シビウが笑った。


「そりゃ便利だ。あたしも覚えよう」


「君まで!」


 張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その直後、キロスが足を止めた。


「……やだな」


 全員が彼を見る。


「何が?」


 キースが尋ねる。


「ここ」


 キロスは壁ではなく、さらに奥を見つめていた。


「中のが、めちゃくちゃ嫌がってる」


「《王》が?」


「うん」


「戻れと言っている?」


「言葉じゃない」


 顔をしかめ、胸へ手を当てる。


「怖がってる……のかな」


 キースは息を呑んだ。


 《王》。


 黄金の時代。


 後世には《精霊戦争》と呼ばれる古代戦乱の、その一戦線で《姫》と争った存在。


 ヴァギュイザールの証言では、精霊だったとさえ断定できなかった存在。


 しかも、その最後については二つの記憶がある。


 《姫》に敗れ、力を封じられた。


 自ら武器を置き、力を解いた。


 どちらも、ヴァギュイザール自身が見たと語った。


 その《王》が、今、この場所を恐れている。


「何を覚えている?」


「分かんない」


「風景は?」


「ない」


「名前は?」


「ないって」


 キロスの声が少し強くなる。


「ごめん」


 キースはすぐに謝った。


「質問しすぎた」


「……いや」


 キロスも息を吐いた。


「僕も知りたいんだけどね」


 しばらく胸を押さえたまま、奥の暗闇を見つめる。


「でも、奥へ行った方がいい気がする」


「嫌がっているのに?」


「だから」


 キロスは笑わなかった。


「何を嫌がってるのか、知りたい」


 キースは止めなかった。


 自分も同じだからだ。


「行こう」


          *


 廊下の先は、広い円形の空間へ繋がっていた。


 油灯を高く掲げても、天井は見えない。


 広間の中央には石の台座があり、そのさらに向こうの壁面には、巨大な図が刻まれていた。


 キースは、それを見た瞬間に呼吸を忘れた。


 円。


 巨大な円環。


 アムドアの《大穴》と、あまりにもよく似ている。


 ただし、完全な円ではない。


 幾つもの線が円環の内側へ入り込み、外へ出て、途中で枝分かれし、別の場所で再び接続している。


 一つの穴を描いた図なのか。


 複数の構造が重なっているのか。


 長く見れば見るほど、むしろ何を表しているのか分からなくなっていった。


「……地図?」


 ローゼンが呟く。


「だとしたら、どこの?」


 シビウが尋ねる。


「分からない」


 キースは素直に答えた。


「術式にも見える。天体図にも、構造図にも」


「世界?」


 フユが言う。


 キースは彼女を見る。


「世界の図に見えるのか?」


 フユは首を傾げた。


「見えない」


「ではなぜ言った!」


「なんとなく」


「フユ!」


 メルリルが珍しく吹き出した。


「いまので少し安心しましたわ。あなたにも適当なことを言う時がございますのね」


「適当じゃない」


「どっちなんだ!」


 しかし、笑いは長く続かなかった。


 メルリルが壁画の下部へ何かを見つけたからだ。


「キース」


 声が硬い。


「ここ」


 円環の下。


 石壁の一部が崩れている。


 その傍らに、文字があった。


「さっきと同じ系統」


 キースは油灯を近づけた。


 一文字ずつ。


 読めない。


 そのはずだった。


 なのに。


「……ラ」


 口から音が漏れた。


 自分でも驚いた。


「読めるのか?」


 ゼクスが訊く。


「いや」


「今、読んだだろ」


「違う。分からないのに……そう見える」


 メルリルも文字を凝視する。


「わたくしには読めません」


「ローゼンは?」


「いいえ」


「キロス?」


 返事がない。


 キロスは壁を見つめたまま動かなかった。


 顔から血の気が失われている。


 両手も震えていた。


 胸ではない。


 頭を押さえている。


「キロス?」


 キースの呼びかけにも反応しない。


「うるさい」


「何が」


「声……」


「《王》か?」


「分かんない……いや……」


 膝が崩れた。


「キロス!」


 シビウが駆け寄り、倒れかけた身体を支える。


「見るな……」


 かすかな声だった。


「何?」


 キースが聞き返す。


「見るなって……」


 キロスの瞳が変わった。


 色ではない。


 視線だった。


 つい先ほどまで軽口を叩いていた少年の目ではない。


 遥かな昔。


 黄金の時代と呼ばれる以前から、あるいはその真っただ中から。


 何百年、何千年――それ以上の時間を見てきた何かが、一瞬だけキロスの瞳を通してこちらを見た。


「キロス?」


 返事はない。


 少年の身体を使っている。


 だが、そこにいるのはキロス本人ではない。


 キースには、そう感じられた。


「……見るな」


 低い声が響いた。


 以前、黒化した魔導士を止めたときと同じだった。キロス自身の若い声に、別の声が重なっている。


「《王》……」


 ローゼンが呟いた。


 キロスの顔が壁へ向く。


 怒っているのか。


 恐れているのか。


 キースには判別できない。


「何を知っている?」


 思わず問いかける。


「キース様!」


 ローゼンが制した。


 だが、その声はもうキースを見ていなかった。


「読むな」


 命令だった。


 キースは壁へ目を戻した。


 最初の文字。


 ラ。


 その次。


 グ。


 そして。


 ナ。


 なぜ読めるのか分からない。


 知らない文字なのに。


 意味も理解できないのに。


 音だけが、最初から知っていた言葉のように頭へ浮かんでくる。


「《ラグナ――》」


 口にした、その瞬間。


 大広間そのものが脈打った。


          *


「何だ!」


 ゼクスが油灯を庇った。


 地震ではなかった。


 壁が揺れたのでもない。


 自分たちの立つ空間そのものが、一度だけ大きく収縮し、元へ戻ったような感覚だった。


 同時に、キースの胸の奥でイースが暴れた。


「ぐっ……!」


 膝をつく。


「キース様!」


 ローゼンが肩を支えた。


 メルリルも胸を押さえ、顔を歪めている。


「反応が……!」


「魔導を使うな!」


 ゼクスが叫ぶ。


「全員、壁から離れろ!」


 シビウはキロスを抱えるようにして後退した。


 フユだけが、その場を離れながらも壁面の円環から目を逸らしていない。


 小さな顔には、これまで見せたことのない明確な嫌悪が浮かんでいた。


「これ」


 フユが言う。


「世界じゃない」


 キースは、その言葉を確かに聞いた。


 だが、意味を問う余裕はなかった。


 壁面の円環の一部が、黒く見える。


 本当に石が黒く変色したのか。


 油灯が作った影なのか。


 それとも〈混沌〉なのか。


「下がれ!」


 ゼクスの声に従い、全員が入口側へ距離を取る。


 そこで、キロスが立ち上がった。


 シビウの腕を振りほどいたわけではない。


 自分の力で起き上がったようにも見えない。


 何か別の意志に、身体を引き起こされたようにゆっくりと立った。


「キロス!」


 少年は応じない。


 その瞳の奥にいるものだけが、壁を見つめていた。


「それを」


 低い声が響く。


「終わった戦争の名だと思うな」


 誰も動かなかった。


 キースは、すぐにはその意味を理解できなかった。


「戦争……?」


 最初に浮かんだのは、当然、《精霊戦争》だった。


 だが、その瞬間、ラルソウムで聞いたヴァギュイザールの声が蘇る。


 ――お前たちは、あれを一つの戦争だと思っているのか?


 後世に《精霊戦争》とまとめられたものは、単一の戦争ではなかった。


 《姫》と《王》の戦いは、その巨大な戦乱期に存在した一つの戦線にすぎない。


 神々もいた。


 巨人もいた。


 《姫》にも《王》にも属さない者たちもいた。


 そして、あの戦争が終わる前から、世界そのものは変わり始めていた。


 昨日まで通れた精霊の道が閉じる。古い精霊が姿を保てなくなる。神々の直接的な顕現が減っていく。


 黄金の時代が終わり始める。


 その後、世界の中心へ立ったのは人間ではなかった。


 まず、白銀の時代があった。


 黄金の神話をそのまま取り戻すのではなく、残されたものを歌や儀式、土地との約束へ変え、文明として継いだエルフたちの時代。


 さらに長い時を経て、その白銀も衰え、人間が最も繁栄する黄銅の時代へ至る。


 歴史書なら、三つの時代を三行で書ける。


 だが、その境界で本当に何が起きたのかは分からない。


 精霊戦争が終わったから黄金の時代が終わったのか。


 黄金の時代そのものが終わり始めたから、《姫》と《王》の戦争も続けられなくなったのか。


 ヴァギュイザール自身にも、答えはなかった。


 ただ一つ。


 世界の変化は、戦争が終わる前から始まっていた。


 その証言だけが残っている。


 ならば、目の前の《王》が告げた、


 ――終わった戦争の名だと思うな。


 という言葉を、単純に、


 《精霊戦争はまだ続いている》


 と解釈していいのか。


 キースは、すぐに否定した。


 違う。


 まだ何も分かっていない。


「精霊戦争のことか?」


 問いかける。


 返事はない。


「《ラグナ――》が、戦争の名前なのか?」


 答えない。


「なら、何なんだ?」


 キロスの顔が苦しそうに歪んだ。


「終わったと……」


 声が震える。


「思うな」


 それだけだった。


 キースの背筋へ冷たいものが走る。


 終わっていない。


 何が?


 戦争が?


 時代が?


 世界の変化が?


 それとも、《終わった》《始まった》と現在の人間が切り分けている、その歴史の見方そのものが間違っているのか。


 そこまで考えて、キースは止めた。


 また、答えを作ろうとしている。


 材料が足りない。


「分かった」


 誰へともなく呟く。


「今は、それ以上決めない」


 返事はなかった。


 次の瞬間、キロスの身体から力が抜けた。


「うわっ」


 シビウが受け止める。


 少年が何度か目を瞬く。


「……え?」


 いつもの声だった。


「なんで僕、抱かれてるの?」


「黙ってな」


「いや、嫌じゃないけど」


「今すぐ落とすよ」


「ごめんなさい」


 戻った。


 いつものキロスだ。


「覚えているか?」


 キースが近づく。


「何を?」


「今、《王》の声が出た」


「また?」


「何を言ったか覚えていない?」


 キロスは眉を寄せた。


「途中までは」


「どこまで?」


「壁を見て、すっごく嫌な感じがして。声がうるさくなって……」


 頭を押さえる。


「そこから、飛んでる」


「《王》は言った」


 キースは壁へ視線を戻した。


「見るな、と」


「それだけ?」


「もう一つ」


 一度、息を整える。


「《ラグナ――》を、終わった戦争の名だと思うな」


 キロスの顔から笑みが消えた。


「……何それ」


「私が聞きたい」


「僕、知らないよ」


「ああ」


 キースはすぐに頷いた。


「分かっている」


 知らない。


 今は、それでいい。


 壁には、欠けた文字が残っている。


 《ラグナ――》。


 その先に何が続いていたのか。


 戦争の名なのか。


 時代の名なのか。


 出来事なのか。


 それとも、現在のどの分類にも収まらない何かなのか。


 まだ、何一つ決められない。


 ただ、黄金の時代末期には、戦争の勝敗だけでは説明できない巨大な断層があった。


 そして、その時代を生きた《王》は、今この文字を恐れている。


 キースは、その二つを頭の中で繋げなかった。


 似ている。


 関係があるかもしれない。


 だからこそ、同じものだと決めてはいけない。


 まず、目の前の文字を記録する。


 その先だった。


 キースは帳面を開き、新しい頁へ、欠けたままの文字列を書き写した。


 ――《ラグナ――》。


 その先には、一文字も足さなかった。

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