第二十五章 ラグナ――
アムドアの《大穴》へ降りるには、夜明けを待たなければならなかった。
普通の山道であれば、夜のうちに動いた方が涼しく、風も弱い。だが、大穴では事情が逆になる。夜間は内部の魔導観測値が不安定になり、ときには封鎖杭が示す距離そのものさえ変化するのだという。
昨日まで二十歩先に立っていた杭が、翌朝には三十歩向こうへ移ったように見える。
その程度なら、この一帯ではまだ《よくある異常》に分類されるらしい。
「よくある、で済ませていい話じゃないだろう」
説明を聞いたキースが顔をしかめると、ゼクスは眠そうに欠伸をした。
「毎回驚いてたら、この辺じゃ昼まで身体が保たねえよ。大穴の近くじゃな、昨日と今日で同じなのは、自分の名前くらいだと思っとけ」
「その言い方は、あまり縁起がよくありませんわね」
メルリルはそう言いながら、自分の手袋を念入りに締め直した。
彼女もキースも、今朝から魔導の使用を可能な限り控えている。黒化症状と魔導行使の因果は、まだ証明されていない。けれど、発症後に術を使った者ほど崩壊が速まる傾向がある以上、無用な危険は避けるべきだった。
ゼクス自身も魔導士である。
だからこそ彼は、大穴へ降りる前に全員の装備を一つずつ確認した。
腰縄。
非常食。
水。
魔導を用いない油灯。
そして、黒化症状が現れた場合に患部を覆うための白布。
最後の一つだけは、何の治療にもならない。
「何のためだ?」
キースが尋ねると、ゼクスは布を畳みながら答えた。
「見えなくするため」
「……それだけ?」
「それだけだ。黒くなり始めた自分の指を、ずっと見てるうちに頭がおかしくなる奴がいる。治せねえなら、せめて見なくて済むようにする。それでも役に立つことはある」
キースは黙って白布を腰袋へ収めた。
治せなくても、役に立つ。
世界一の魔導士であろうと、できることがそれしかない場面はある。
旅へ出る前の自分なら、そんなものに意味はないと切り捨てていたかもしれない。治せないなら無意味だ。解決できないなら失敗だ。
今は、そうは思わない。
「全員、指を見せろ」
ゼクスが言った。
シビウが眉を上げる。
「あたしまで?」
「儀式みたいなもんだ。いいから出せ」
七人が、それぞれ手を差し出した。
キース、ローゼン、シビウ、メルリル、フユ、キロス、ゼクス。
どの指も、まだ本来の色と形を保っている。
「次、目」
「面倒だねえ」
「文句言うな」
互いの瞳まで確認する。異常はない。
フユだけは、なぜ自分までそんなことをされているのか、よく分かっていない顔をしていた。
「フユは、おそらく大丈夫だ」
キースが言うと、シビウがすぐに返した。
「おそらく、で人を地下へ連れてくな」
「だが、これまで四季使いには――」
「キース」
「分かっている。断定しない」
最近、自分で自分へ言い聞かせる言葉が増えた。
分からないものを、分かったことにしない。
ゼクスは全員を見渡し、最後に大穴の方角へ顎を向けた。
「じゃあ行くぞ。今日の目的は古代構造の確認だ。大穴そのものへ喧嘩を売るんじゃねえ。変なものを見つけても勝手に触るな。声がしても返事するな。それから、知らない名前を呼ばれても振り返るな」
「最後の二つは何ですの?」
メルリルが真顔になる。
「経験則」
彼女は黙った。
「記録にないぞ」
キースが言う。
「書くと増えるって言う奴がいたから、正式記録から外してる」
「……それを今言うのか」
「安心しろ。俺は信じてねえ」
「安心できない!」
シビウが小さく笑った。
「さあ、世界一。世界は広いねえ」
「最近、それを実感しているところだ」
そうして七人は、アムドアの《大穴》へ向かった。
*
初めて間近で見る《大穴》は、穴という言葉から想像するものとは違っていた。
大地に穿たれた、巨大な円形の空白。
そう説明してしまえば簡単だ。
しかし縁へ立ったキースには、「地面がなくなっている」というより、そこだけ世界が続きを失っているように見えた。
対岸は霞み、巨大さだけでは説明できないほど距離感そのものが揺らいでいる。目の前にある崖壁が、ある瞬間には数歩先まで迫り、次には谷の彼方へ遠ざかったように感じられた。
穴の周囲には、幾重もの封印環が敷設されている。
人間の魔導による結界。精霊から借り受けた封印具。正体も建立年代も異なる古い石碑。近年打ち込まれた新しい鉄杭。
時代も思想も異なる封印が何層にも重ねられ、互いに干渉しながら、それでも辛うじて大穴の拡大を抑えている。
「これだけの術式を、同時に運用しているのか」
キースは周囲を見渡した。
「正気の沙汰ではない」
「褒め言葉として受け取っておくぜ」
ゼクスが答える。
「相互干渉は?」
「する」
「だろうな」
「だから毎日調整してる」
「毎日?」
「穴の方が変わるからな」
メルリルは、さすがに言葉を失っていた。
普段なら即座に測定具を取り出す彼女も、ここでは安易に魔導器具を起動しない。それでも目だけは忙しく動き、封印環の配置や重ねられた術式の構造を、必死に記憶しているようだった。
一方、ローゼンはしばらく大穴を見つめたまま動かなかった。
「精霊の声が、少ないです」
「少ない?」
「はい。この辺りにも、風や土の小さな精霊はいらっしゃるはずなのですが」
「逃げた?」
シビウが尋ねる。
「そうなのかもしれません。ただ……」
ローゼンは適切な言葉を探すように、一度視線を伏せた。
「逃げた方が残す気配も、あまりございません」
キースは大穴へ目を向けた。
「最初からいなかったように?」
「少し、似ています」
また、《似ている》。
断定できないことばかりだった。
降下口は、大穴の東側に設けられている。崖壁へ沿って作られた鉄と石の階段は何度も補修されており、古い石段へ新しい足場が継ぎ足され、そのさらに下には縄梯子が続いていた。
「これを降りるのかい」
シビウが谷底を覗き込む。
「マーカスなら喜びそうだね」
口にしたあと、彼女は少しだけ笑った。
以前のように、名前を出した直後に黙り込むことはなかった。
「高いところが好きだったのか?」
キロスが何気なく尋ねる。
「いや。高い場所で大声出すのが好きだった」
「何それ」
「馬鹿だったんだよ」
シビウは肩に担いだ大斧を軽く叩いた。
「行こう」
先頭はゼクス。
続いてシビウ、フユ、キロス、ローゼン、メルリル。
最後にキース。
七人は、大穴の底へ向かって降り始めた。
*
深くなるにつれて、世界から少しずつ色が失われていった。
最初は草木がなくなっただけだった。次に岩肌から苔が消え、そのさらに下では石そのものの色まで灰色へ揃い始める。
手にした油灯の橙だけが、不自然なほど鮮やかに見えた。
キースのイースも、下降するほど明らかに反応を強めている。
一定の間隔で脈打つ。
痛みではない。
胸の奥にあるものが、身体から外へ抜け出そうとしているような。それとも、穴の底にある何かが、外側からキースの内へ指を伸ばしているような。
そんな不快な感覚だった。
「止まれ」
前方からゼクスの声が響き、全員が足を止める。
「魔導士三人、確認」
ゼクス。
キース。
メルリル。
「俺はまだ平気だ」
「私も」
「わたくしも。ですが、反応はかなり強くなっておりますわ」
「黒化は?」
「ない」
三人とも手袋をずらし、指を確認した。
正常だった。
「キロスは?」
「僕?」
「お前も変な力使うだろ」
「魔導士じゃないと思うけどなあ」
キロスは自分の指をひらひらと動かした。
「普通」
そう答えた直後、彼の顔が僅かに歪んだ。
「どうした?」
キースが尋ねる。
「いや」
「《王》か?」
キロスは胸へ手を当てた。
「……なんか、機嫌悪い」
「穴へ入ってから?」
「うん。下に行くほど」
「何か言っている?」
「聞こえない。嫌がってる感じだけ」
キースは一拍置いた。
「戻るか?」
真剣に尋ねると、キロスは意外そうに彼を見る。
「戻れって言わないんだ」
「危険なら戻る。それだけだ」
「僕が役に立つから、無理に連れていくかと思った」
「それをやったら、神殿にいた頃の私と変わらない」
キロスは、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、まだ行く」
「無理はするな」
「世界一さんもね」
「分かっている」
再び下降する。
しばらくして、ついに人工の階段が終わった。
その先にあったのは、自然に削られた岩肌ではない。
人の手で作られた道だった。
*
「これが……」
ローゼンが小さく呟く。
岩壁に、巨大な入口が開いていた。
門だった。
高さは人間二人分ほどあり、幅は馬車一台がそのまま通れそうなほど広い。石を積み上げて作った形跡はなく、巨大な一枚岩を、初めから門の形で抜き取ったように滑らかな輪郭をしている。
「都市の地下施設?」
シビウが尋ねる。
「違う」
ゼクスが答えた。
「アムドア建設層は、もっと上だ」
「どのくらい?」
「だいぶ」
「説明が雑だね」
「俺は考古学者じゃねえ」
キースは門の縁へ近づいた。
触れない。
まず観察する。
加工痕。
石質。
表面の摩耗。
「これは、人間の古代建築とは思えない」
「そうですわね」
メルリルも隣へ来る。
「切削跡がなさすぎます。魔導加工なら残留痕があってもよさそうですけれど、それもほとんどない」
「精霊のもの?」
キースがローゼンを見る。
彼女は首を横へ振った。
「少なくとも、わたくしの知る精霊建築とは違います。石へお願いして形を変えていただいた場合、もっと……石自身の癖が残りますので」
「石の癖」
以前なら、そこでキースは詳しく聞き返しただろう。
今は、分からないまま先へ進める。
「ヨトゥナール系か?」
ゼクスが言った。
北方には、精霊王朝よりさらに古い巨人族の痕跡が残されている。
巨大な石組み。
角張った構造。
人間には過剰な大きさの扉。
神話と歴史の境界へ残る、古い北方文化。
キースも、文献上の特徴なら知っていた。
「似ている部分はある」
門の高さを改めて見上げる。
「だが、ヨトゥナール遺構ならもっと大きい。何より、この曲線は記録にない」
門の上部には、一本の線が彫られていた。
円。
いや、完全な円にはなっていない。
輪郭の一部だけが僅かに切れ、開いている。
大穴を示す図にも見えた。
「最初にローゼンが見せてくれた写しに、似た図があった」
「はい」
ローゼンも気づいていた。
「《アムドアの穴》と記されていたものでございます」
キースの背筋へ、冷たいものが走る。
都市より古い。
現在の大穴よりも古い。
ならば、何を基準に《古い》と呼べばよいのだろう。
アムドアという都市が存在する以前。
現在の人間文明が成立する以前。
白銀の時代よりも前なのか。
黄金の時代にまで遡るのか。
それとも、さらに古いのか。
年代を決める材料は、まだない。
「入るぞ」
ゼクスが言った。
「ここまで来たんだ。外から眺めるだけじゃ意味がねえ」
「全員、壁には触れるな」
キースも続ける。
「文字や図があっても、まず記録だけ取る」
「魔導記録具は?」
メルリルが尋ねる。
「使わない。紙で」
「賛成ですわ」
彼女にしては珍しく、即座に同意した。
油灯の光だけを頼りに、七人は都市よりも古い門を潜った。
*
内部は、恐ろしいほど静かだった。
自分たちの足音だけが、石の通路をどこまでも追ってくる。
廊下は緩やかな下り坂になっており、左右の壁には一定間隔で浅い窪みが並んでいる。しかし、そこへ灯火を置いた痕跡は見当たらない。
「暗い場所だったのか?」
シビウが油灯を掲げた。
「作った者に、光が必要だったとは限らない」
キースが答える。
「人間じゃない可能性もあるしね」
「そういうことだ」
「言ってみただけなのに、真面目に返されると怖いよ」
少し進んだところで、最初の文字が現れた。
壁面へ刻まれた細い線。
直線でも、曲線でもない。
文字らしい。
だが、キースには読めなかった。
「ヨトゥナール文字?」
キロスが尋ねる。
「違う。少なくとも、私が知る系統ではない」
「精霊文字でもございません」
ローゼンも近づく。
「古精霊語とも違います」
メルリルは紙を取り出し、文字の形を慎重に写し取った。
「人間の古文字にも、似たものがありませんわね」
「断絶文字?」
ゼクスが尋ねる。
「それなら、《分類できないもの》に名前をつけただけだ」
「便利だろ」
「便利すぎる分類は、役に立たない」
キースは壁へ刻まれた線を目で追った。
一つ一つの記号が、独立しているように見えない。
ある文字から伸びた線が隣の文字へ入り込み、さらにその先へ繋がっている。
文章ではないのかもしれない。
全体で一つの図式。
あるいは術式。
「魔導式に見える」
キースが言う。
「わたくしも、一瞬そう思いました」
メルリルが頷く。
「でも、魔導式として読むと構造が閉じません」
「途中の変数がない」
「いえ。そもそも《変数》という概念を使ってよい構造なのかどうか」
二人で壁を見つめる。
「長くなる」
フユが言った。
「まだ何も――」
「長くなる顔」
シビウが笑った。
「そりゃ便利だ。あたしも覚えよう」
「君まで!」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
その直後、キロスが足を止めた。
「……やだな」
全員が彼を見る。
「何が?」
キースが尋ねる。
「ここ」
キロスは壁ではなく、さらに奥を見つめていた。
「中のが、めちゃくちゃ嫌がってる」
「《王》が?」
「うん」
「戻れと言っている?」
「言葉じゃない」
顔をしかめ、胸へ手を当てる。
「怖がってる……のかな」
キースは息を呑んだ。
《王》。
黄金の時代。
後世には《精霊戦争》と呼ばれる古代戦乱の、その一戦線で《姫》と争った存在。
ヴァギュイザールの証言では、精霊だったとさえ断定できなかった存在。
しかも、その最後については二つの記憶がある。
《姫》に敗れ、力を封じられた。
自ら武器を置き、力を解いた。
どちらも、ヴァギュイザール自身が見たと語った。
その《王》が、今、この場所を恐れている。
「何を覚えている?」
「分かんない」
「風景は?」
「ない」
「名前は?」
「ないって」
キロスの声が少し強くなる。
「ごめん」
キースはすぐに謝った。
「質問しすぎた」
「……いや」
キロスも息を吐いた。
「僕も知りたいんだけどね」
しばらく胸を押さえたまま、奥の暗闇を見つめる。
「でも、奥へ行った方がいい気がする」
「嫌がっているのに?」
「だから」
キロスは笑わなかった。
「何を嫌がってるのか、知りたい」
キースは止めなかった。
自分も同じだからだ。
「行こう」
*
廊下の先は、広い円形の空間へ繋がっていた。
油灯を高く掲げても、天井は見えない。
広間の中央には石の台座があり、そのさらに向こうの壁面には、巨大な図が刻まれていた。
キースは、それを見た瞬間に呼吸を忘れた。
円。
巨大な円環。
アムドアの《大穴》と、あまりにもよく似ている。
ただし、完全な円ではない。
幾つもの線が円環の内側へ入り込み、外へ出て、途中で枝分かれし、別の場所で再び接続している。
一つの穴を描いた図なのか。
複数の構造が重なっているのか。
長く見れば見るほど、むしろ何を表しているのか分からなくなっていった。
「……地図?」
ローゼンが呟く。
「だとしたら、どこの?」
シビウが尋ねる。
「分からない」
キースは素直に答えた。
「術式にも見える。天体図にも、構造図にも」
「世界?」
フユが言う。
キースは彼女を見る。
「世界の図に見えるのか?」
フユは首を傾げた。
「見えない」
「ではなぜ言った!」
「なんとなく」
「フユ!」
メルリルが珍しく吹き出した。
「いまので少し安心しましたわ。あなたにも適当なことを言う時がございますのね」
「適当じゃない」
「どっちなんだ!」
しかし、笑いは長く続かなかった。
メルリルが壁画の下部へ何かを見つけたからだ。
「キース」
声が硬い。
「ここ」
円環の下。
石壁の一部が崩れている。
その傍らに、文字があった。
「さっきと同じ系統」
キースは油灯を近づけた。
一文字ずつ。
読めない。
そのはずだった。
なのに。
「……ラ」
口から音が漏れた。
自分でも驚いた。
「読めるのか?」
ゼクスが訊く。
「いや」
「今、読んだだろ」
「違う。分からないのに……そう見える」
メルリルも文字を凝視する。
「わたくしには読めません」
「ローゼンは?」
「いいえ」
「キロス?」
返事がない。
キロスは壁を見つめたまま動かなかった。
顔から血の気が失われている。
両手も震えていた。
胸ではない。
頭を押さえている。
「キロス?」
キースの呼びかけにも反応しない。
「うるさい」
「何が」
「声……」
「《王》か?」
「分かんない……いや……」
膝が崩れた。
「キロス!」
シビウが駆け寄り、倒れかけた身体を支える。
「見るな……」
かすかな声だった。
「何?」
キースが聞き返す。
「見るなって……」
キロスの瞳が変わった。
色ではない。
視線だった。
つい先ほどまで軽口を叩いていた少年の目ではない。
遥かな昔。
黄金の時代と呼ばれる以前から、あるいはその真っただ中から。
何百年、何千年――それ以上の時間を見てきた何かが、一瞬だけキロスの瞳を通してこちらを見た。
「キロス?」
返事はない。
少年の身体を使っている。
だが、そこにいるのはキロス本人ではない。
キースには、そう感じられた。
「……見るな」
低い声が響いた。
以前、黒化した魔導士を止めたときと同じだった。キロス自身の若い声に、別の声が重なっている。
「《王》……」
ローゼンが呟いた。
キロスの顔が壁へ向く。
怒っているのか。
恐れているのか。
キースには判別できない。
「何を知っている?」
思わず問いかける。
「キース様!」
ローゼンが制した。
だが、その声はもうキースを見ていなかった。
「読むな」
命令だった。
キースは壁へ目を戻した。
最初の文字。
ラ。
その次。
グ。
そして。
ナ。
なぜ読めるのか分からない。
知らない文字なのに。
意味も理解できないのに。
音だけが、最初から知っていた言葉のように頭へ浮かんでくる。
「《ラグナ――》」
口にした、その瞬間。
大広間そのものが脈打った。
*
「何だ!」
ゼクスが油灯を庇った。
地震ではなかった。
壁が揺れたのでもない。
自分たちの立つ空間そのものが、一度だけ大きく収縮し、元へ戻ったような感覚だった。
同時に、キースの胸の奥でイースが暴れた。
「ぐっ……!」
膝をつく。
「キース様!」
ローゼンが肩を支えた。
メルリルも胸を押さえ、顔を歪めている。
「反応が……!」
「魔導を使うな!」
ゼクスが叫ぶ。
「全員、壁から離れろ!」
シビウはキロスを抱えるようにして後退した。
フユだけが、その場を離れながらも壁面の円環から目を逸らしていない。
小さな顔には、これまで見せたことのない明確な嫌悪が浮かんでいた。
「これ」
フユが言う。
「世界じゃない」
キースは、その言葉を確かに聞いた。
だが、意味を問う余裕はなかった。
壁面の円環の一部が、黒く見える。
本当に石が黒く変色したのか。
油灯が作った影なのか。
それとも〈混沌〉なのか。
「下がれ!」
ゼクスの声に従い、全員が入口側へ距離を取る。
そこで、キロスが立ち上がった。
シビウの腕を振りほどいたわけではない。
自分の力で起き上がったようにも見えない。
何か別の意志に、身体を引き起こされたようにゆっくりと立った。
「キロス!」
少年は応じない。
その瞳の奥にいるものだけが、壁を見つめていた。
「それを」
低い声が響く。
「終わった戦争の名だと思うな」
誰も動かなかった。
キースは、すぐにはその意味を理解できなかった。
「戦争……?」
最初に浮かんだのは、当然、《精霊戦争》だった。
だが、その瞬間、ラルソウムで聞いたヴァギュイザールの声が蘇る。
――お前たちは、あれを一つの戦争だと思っているのか?
後世に《精霊戦争》とまとめられたものは、単一の戦争ではなかった。
《姫》と《王》の戦いは、その巨大な戦乱期に存在した一つの戦線にすぎない。
神々もいた。
巨人もいた。
《姫》にも《王》にも属さない者たちもいた。
そして、あの戦争が終わる前から、世界そのものは変わり始めていた。
昨日まで通れた精霊の道が閉じる。古い精霊が姿を保てなくなる。神々の直接的な顕現が減っていく。
黄金の時代が終わり始める。
その後、世界の中心へ立ったのは人間ではなかった。
まず、白銀の時代があった。
黄金の神話をそのまま取り戻すのではなく、残されたものを歌や儀式、土地との約束へ変え、文明として継いだエルフたちの時代。
さらに長い時を経て、その白銀も衰え、人間が最も繁栄する黄銅の時代へ至る。
歴史書なら、三つの時代を三行で書ける。
だが、その境界で本当に何が起きたのかは分からない。
精霊戦争が終わったから黄金の時代が終わったのか。
黄金の時代そのものが終わり始めたから、《姫》と《王》の戦争も続けられなくなったのか。
ヴァギュイザール自身にも、答えはなかった。
ただ一つ。
世界の変化は、戦争が終わる前から始まっていた。
その証言だけが残っている。
ならば、目の前の《王》が告げた、
――終わった戦争の名だと思うな。
という言葉を、単純に、
《精霊戦争はまだ続いている》
と解釈していいのか。
キースは、すぐに否定した。
違う。
まだ何も分かっていない。
「精霊戦争のことか?」
問いかける。
返事はない。
「《ラグナ――》が、戦争の名前なのか?」
答えない。
「なら、何なんだ?」
キロスの顔が苦しそうに歪んだ。
「終わったと……」
声が震える。
「思うな」
それだけだった。
キースの背筋へ冷たいものが走る。
終わっていない。
何が?
戦争が?
時代が?
世界の変化が?
それとも、《終わった》《始まった》と現在の人間が切り分けている、その歴史の見方そのものが間違っているのか。
そこまで考えて、キースは止めた。
また、答えを作ろうとしている。
材料が足りない。
「分かった」
誰へともなく呟く。
「今は、それ以上決めない」
返事はなかった。
次の瞬間、キロスの身体から力が抜けた。
「うわっ」
シビウが受け止める。
少年が何度か目を瞬く。
「……え?」
いつもの声だった。
「なんで僕、抱かれてるの?」
「黙ってな」
「いや、嫌じゃないけど」
「今すぐ落とすよ」
「ごめんなさい」
戻った。
いつものキロスだ。
「覚えているか?」
キースが近づく。
「何を?」
「今、《王》の声が出た」
「また?」
「何を言ったか覚えていない?」
キロスは眉を寄せた。
「途中までは」
「どこまで?」
「壁を見て、すっごく嫌な感じがして。声がうるさくなって……」
頭を押さえる。
「そこから、飛んでる」
「《王》は言った」
キースは壁へ視線を戻した。
「見るな、と」
「それだけ?」
「もう一つ」
一度、息を整える。
「《ラグナ――》を、終わった戦争の名だと思うな」
キロスの顔から笑みが消えた。
「……何それ」
「私が聞きたい」
「僕、知らないよ」
「ああ」
キースはすぐに頷いた。
「分かっている」
知らない。
今は、それでいい。
壁には、欠けた文字が残っている。
《ラグナ――》。
その先に何が続いていたのか。
戦争の名なのか。
時代の名なのか。
出来事なのか。
それとも、現在のどの分類にも収まらない何かなのか。
まだ、何一つ決められない。
ただ、黄金の時代末期には、戦争の勝敗だけでは説明できない巨大な断層があった。
そして、その時代を生きた《王》は、今この文字を恐れている。
キースは、その二つを頭の中で繋げなかった。
似ている。
関係があるかもしれない。
だからこそ、同じものだと決めてはいけない。
まず、目の前の文字を記録する。
その先だった。
キースは帳面を開き、新しい頁へ、欠けたままの文字列を書き写した。
――《ラグナ――》。
その先には、一文字も足さなかった。




