第二十六章 欠けた名を埋めない
揺れは、それきりだった。
大広間は再び、何事もなかったような静寂へ戻っている。壁が崩れたわけでもなく、円環の図に新しい線が増えたわけでもない。先ほど黒く見えた箇所も、油灯の位置を変えてみれば、ただの陰影にしか見えなかった。
だからこそ、余計に気味が悪い。
「全員、そのまま」
ゼクスが低い声で言った。
「すぐ近づくな。さっきのが一回で終わった保証はねえ」
「賛成ですわ」
メルリルが珍しく即答した。普段なら真っ先に壁へ駆け寄りかねない彼女まで、今回はその場から動こうとしない。
キースも同じだった。
知りたい。
けれど、知りたいことと、今ここで調べるべきことは違う。
胸の奥では、まだイースが弱く脈打っている。先ほどほど激しくはない。それでも、この場所へ何かしら反応していることだけは間違いなかった。
「キース」
シビウが声をかける。
「指」
「ああ」
キースは手袋をずらした。
黒化はない。
メルリルも、ゼクスも同様だった。
「目も」
「ここで?」
「今だからだよ」
互いの瞳まで確認する。
誰にも異常は見られない。
キロスも、今はいつもの顔に戻っていた。ただし、先ほどより明らかに口数が少ない。
自分の中で何かが喋った。
しかも、そのあいだの記憶がない。
軽口だけで流せる出来事ではないだろう。
「最低限だけ記録する」
キースは言った。
「それ以上は地上へ戻ってからだ」
「最低限とは?」
メルリルが尋ねる。
「文字列。円環図。周囲の配置。破損状態」
「年代測定は?」
「しない」
「石材分析」
「しない」
「残留魔力――」
「しない」
「分かっておりますわよ!」
「なら聞くな!」
シビウが肩を揺らして笑った。
「少し戻ってきたねえ」
「何が?」
「いつもの調子」
キースは答えず、壁面へ視線を戻した。
《ラグナ――》。
その先はない。
正確には、文字が途切れた先の石そのものが欠けている。
削られたのか。自然に崩れたのか。あるいは、初めからそこまでしか刻まれていなかったのか。
破断面だけでは判断できなかった。
「後ろに続いていた痕跡は?」
メルリルが距離を保ったまま目を細める。
「分からない」
「切断面は不自然?」
「不自然に見える部分もある。でも、それだけじゃ人為的に削られたとは言えない」
「やはり直接――」
「触るな」
「言ってみただけですわ」
「君の場合、言った次にやるから怖いんだ」
「失礼ですわね!」
「事実だろ」
メルリルは不満そうに鼻を鳴らしたものの、それ以上近づこうとはしなかった。
「写しは?」
「取った」
キースは帳面を開く。
《ラグナ――》。
その周囲にある円環。
枝分かれする線。
文字の左側へ走る浅い刻み。
できる限り、見たままを書き写してある。
「わたくしも」
メルリルも自分の帳面を開いた。
「今、比較しておきませんこと?」
「今?」
「帰ってからですと、無意識に記憶で補ってしまうかもしれません」
その指摘には一理ある。
「分かった。ただし、近づかない」
二人はその場で帳面を並べた。
最初は、ほとんど同じに見えた。
円環の欠け方。
内側へ入り込む線。
《ラグナ――》の位置。
文字列の周囲にある小さな傷まで、二人ともかなり正確に写し取っている。
「さすがですわね」
「君もな」
「あら。素直」
「今は喧嘩してる場合じゃない」
「普段もそのくらい素直なら――」
「待って」
キースの声が変わった。
「何ですの?」
「ここ」
《ラグナ――》の最後の文字。
そのすぐ右。
石の欠損部へ入る直前。
キースの写しには、小さな斜線が一本あった。
メルリルの写しには、二本。
二人とも、しばらく黙った。
「……わたくしは二本ですわね」
「ああ」
「あなたは一本」
「ああ」
「どちらかが見落とした?」
「まず、それを疑う」
キースは即答した。
「ずいぶん普通ですこと」
「普通の説明を捨てる理由がない」
「でも」
メルリルは二冊の帳面を見比べる。
「わたくしたち、ほぼ同じ位置から、ほぼ同じ時間に写しましたわよ」
「それでも間違える」
「二人とも?」
「どちらか一人で十分だ」
「……そうですわね」
キースは壁へ視線を戻した。
「現物を確認する」
「触らずに?」
「見るだけ」
二人は油灯を掲げ、十分な距離を保ったまま問題の箇所を見つめた。
細い線。
「……二本」
キースが言う。
「いいえ」
メルリルが眉を寄せた。
「三本に見えますわ」
「どこが三本だ」
「ここ。中央の浅いもの」
「それは石の傷じゃないか?」
「なら、右の方も傷に見えます」
「待て」
油灯の角度を変えると影が伸び、一本の線が消えた。さらに位置をずらせば、今度は二本とも刻みに見える。
「光の問題?」
「可能性はありますわね」
「石面そのものが荒れている」
「それも」
別の角度から見ても、やはり判然としない。
一本にも見える。
二本にも見える。
三本目らしき浅い溝さえ浮かぶ。
けれど、そのどれが文字の一部で、どれがただの傷なのかは判別できなかった。最初に写した時点で、自分たちがそこまで細部を見ていなかっただけなのかもしれない。
「……嫌ですわね」
メルリルが呟いた。
「ああ」
キースも否定しなかった。
「昨日の話と、似ておりますわ」
彼女の声が少し低くなる。
昨日。
三つの歴史。
記録の不一致。
そして、《メレグ=ナフ》という古い名。
「……《メレグ=ナフ》?」
「名前をつけるな」
自分で思った以上に強い声が出た。
メルリルが黙る。
「今、分かったことは何だ」
「わたくしとあなたの写しが違う」
「それだけ」
「現物を確認しても、どちらが正しいか決められない」
「それだけだ」
「でも、似て――」
「似ていることと、同じ原因であることは別だ」
キースは、自分自身にも言い聞かせていた。
記憶。
記録。
観測。
確かに、これまで見てきた現象と似ている。
だが、《似ている》は答えではない。
「《メレグ=ナフ》という名前を知ったからって、目の前にあるもの全部をそこへ押し込んだら終わりだ」
「……そうでしたわ」
「人間が間違えたのかもしれない」
「はい」
「光のせいかもしれない」
「はい」
「石の傷を線と読み違えただけかもしれない」
「はい」
「その可能性を全部飛ばして、知らない神格や現象の名前を貼るな」
「分かりましたわ」
メルリルは少し悔しそうだった。
自分も同じだ。
名前がある。
説明できそうな言葉がある。
そういうときほど、人間は急いでしまう。
キースは帳面へ追記した。
――補助線。キース写し一。メルリル写し二。
そこで一度筆を止め、さらに、
――現物再確認、判別不能。
とだけ記す。
原因については書かない。
《メレグ=ナフ》とも。
〈混沌〉とも。
錯覚とも。
何も。
「全員」
キースは声を上げた。
「今、壁に何が書かれている?」
「試験でも始める気かい?」
シビウが顔をしかめる。
「いいから答えて」
最初にローゼンが壁を見る。
「《ラグナ――》でございます」
「メルリル」
「同じですわ」
「シビウ」
「《ラグナ――》」
「フユ」
「ラグナ」
「ゼクス」
「《ラグナ――》だ」
「キロス」
少年は少し遅れて顔を上げた。
「……ラグナ」
「後ろに何か見える?」
「分かんない」
「文字が続いているようには?」
「見えない」
キースは頷いた。
「今は、それだけ覚えておいて」
「今は?」
「明日、もう一度確認する」
「僕が忘れてるかもしれないって?」
「可能性を消せないから」
「便利になったね、その言葉」
キロスが少しだけ笑う。
「君に教わった」
「僕?」
「《分からない》って言っても死なない」
「そんなこと教えたっけ」
「勝手に覚えた」
キロスは今度こそ、少し自然に笑った。
「帰ろう」
キースは帳面を閉じる。
「もういいのか?」
ゼクスが尋ねた。
「よくない」
「どっちだよ」
「調べたいことなら山ほどある」
未知の文字。
円環図。
石の年代。
建造者。
構造の目的。
《王》が知っていること。
そして――
「なぜ私が、読めない文字を読めたのか」
全員の視線がキースへ集まった。
自分でも、そこが一番気になっている。
知らない文字だった。
それなのに音だけは、最初から知っていたように浮かんだ。
「キース様」
ローゼンが心配そうに呼ぶ。
「分かってる」
「よろしいので?」
「よくはない」
キースは苦笑した。
「でも、ここで無理に答えを取りに行く方が悪い」
以前なら、あと一つ、もう少しだけと残ったかもしれない。
知りたいという欲求を、調査する義務と混同して。
今は帰る。
見たものを持ち帰り、次に調べられる形へする。
それも、立派な調査だった。
「キース」
フユが呼んだ。
「何だ?」
「早く」
「君が急かすのはいつものことだけど、今日は――」
「ここ、嫌」
それだけだった。
キースは彼女の顔を見る。
フユは表情に乏しい。
そのフユが、はっきり《嫌》と言っている。
「分かった」
それ以上、理由は聞かなかった。
七人は古代広間を離れ、来た道を戻り始めた。
*
帰路では、誰も長く話さなかった。
大穴の内部では声が響きすぎる。それだけが理由ではない。
全員の頭に、同じ言葉が残っていた。
《ラグナ――》。
そして、
――それを、終わった戦争の名だと思うな。
戦争の名前ではないのか。
戦争だけを意味しないのか。
あるいは、《戦争》という後世の理解そのものが間違っているのか。
キースの頭には、いくつもの仮説が浮かんだ。
だが、そのたびに消していく。
証拠がない。
今持っているのは、《王》らしき声が残した二つの短い言葉だけだ。
しかも、その《王》自身の過去についてすら、確かな一つの歴史が存在していない。
ラルソウムでヴァギュイザールは、同じ最後の戦いについて二つの因果を語った。
《姫》が勝ち、《王》が敗れた。だから力を失った。
もう一つでは、《王》はまだ戦えた。それでも自ら武器を置き、力を解いた。だから戦いが終わった。
どちらも、本人が見たという。
そして、もっと大きな問題がある。
精霊戦争が終わったから、黄金の時代が終わった。
ヴァギュイザールは、そうは言わなかった。
むしろ逆だった。
最後の戦いより前から、古い世界には変化が起きていた。
精霊の道が閉じる。
神々の直接的な姿が減る。
古い精霊が、それまでと同じ形を保てなくなる。
精霊戦争の終結と、黄金の時代の終焉。
現在の歴史書では近接した出来事として整理される二つだが、どちらが原因で、どちらが結果なのか。そもそも、原因と結果として結べるものなのか。
分からない。
そして黄金の次に来たのは、現在の黄銅の時代ではない。
まず、白銀の時代があった。
エルフたちが、失われつつある神話の残響を文明へ組み替え、長く世界の中心に立った時代。
さらにその後、人間の人口と国家が増え、ドワーフは新しい制度と産業へ適応し、やがて現在の黄銅の時代へ至った。
黄金。
白銀。
黄銅。
三つ並べれば、歴史は簡単に見える。
けれど、その境目で何が起きたかという話になれば、一気に曖昧になる。
名前は、後からつけられる。
《精霊戦争》も。
《四貴精霊》も。
黄金、白銀、黄銅という時代名も。
ならば、《ラグナ――》も同じなのか。
キースはすぐに、その思考を止めた。
まだ早い。
今知っている言葉へ、目の前のものを合わせようとしている。
先ほどメルリルを止めたばかりなのに、自分が同じことをしてどうする。
まず残す。
それだけだ。
地上へ近づくにつれて、世界へ少しずつ色が戻ってきた。岩肌に苔が現れ、湿った土の匂いが戻り、遠くから風が入り込んでくる。
それまで気にも留めなかったものが、妙に懐かしい。
「長かったねえ」
シビウがようやく口を開いた。
「外の風って、こんなにありがたいもんだったかね」
キロスも大きく息を吸う。
「生き返る」
「死んでないだろ」
「気分の話」
「その言い方、あんまり好きじゃないね」
「あ」
キロスが口を押さえた。
シビウは、ほんの少しだけ笑う。
「気にすんな。今のはただの言葉だよ」
地上へ出る頃には、朝だった空が夕方の色へ変わっていた。
ゼクスは休むより先に、全員の状態を確認する。
「指」
七人が手を出す。
異常なし。
「目」
互いに確認する。
こちらも異常なし。
最後にゼクス自身をメルリルが確認し、ようやく彼は長く息を吐いた。
「今日は運がよかった」
「明日も?」
キースが尋ねる。
「知らん」
「そうだな」
「何だよ、その嬉しそうな顔は」
「嬉しくない」
キースは少し笑う。
「ただ、それでいいと思っただけだ」
*
夜。
記録庫へ戻ったキースは、地下で取った写しを机の上へ並べていた。
円環。
未知の文字。
そして、《ラグナ――》。
向かいにはメルリル。少し離れた場所にローゼンとキロスがいる。ゼクスは壁際へ腰を預け、シビウとフユは遅い食事を取っていた。
二人の写しは、机へ並べてもほとんど一致している。
だからこそ、一本と二本――あの小さな差だけが、ひどく目についた。
「ヨトゥナール系ではありませんわ」
メルリルが別の紙へ視線を移す。
「ああ」
「精霊文字でもない」
「ローゼンが否定した」
「人間古語にも、今のところ一致なし」
「なら」
キースは腕を組む。
「作ったのは誰だ」
「知りませんわ」
キースが思わず笑った。
「君まで慣れたな」
「腹は立ちますけれどね」
「分からないものが多すぎる」
「わたくしの人生の中で、これほど《分からない》と口にした数日はありませんわ」
「私もだ」
「悔しくありません?」
「悔しい」
即答すると、メルリルが少し笑った。
「安心しましたわ」
「何が?」
「悟った人みたいになったのかと思いました」
「そんなわけないだろ」
分からないことを受け入れるのと、知ることを諦めるのは違う。
キースはむしろ、今まで以上に知りたかった。
だから、急がない。
少し離れた場所では、キロスが何度目か分からない質問をしていた。
「本当に僕が言ったの?」
「ああ」
「声、違った?」
「明らかに」
「どんな感じ?」
「君より偉そうだった」
「そこ?」
「あと、古かった」
「声が?」
「声というより……」
キースは言葉を探した。
「視線が」
キロスの笑みが消える。
「やっぱり、《王》だった?」
「そう思う」
「確定?」
「しない」
「そこも?」
「君の中に《王》と呼ばれる何かがいること自体は、かなり確かだと思ってる。でも、今日出てきた人格をそのまま精霊戦争の《王》本人だと断定するには――」
「はいはい」
キロスが手を振った。
「長くなるやつ」
「君まで!」
少しだけ空気が緩む。
だが、キロスは自分の胸へ手を置いたまま言った。
「僕も怖かった」
今度は冗談ではない。
「《王》が?」
「僕が」
一拍。
「でも、《王》も」
「そう見えた」
「じゃあ」
キロスは困ったように笑った。
「お互い様か」
キースは答えなかった。
《王》は何を見た。
何を知っている。
なぜ、あの欠けた文字列をあれほど嫌った。
そのとき、写しを覗き込んでいたローゼンが静かに口を開いた。
「キース様」
「何だ?」
「一つ、よろしいでしょうか」
「ああ」
「この《ラグナ――》という音ですが」
ローゼンは少し迷う。
「《ラグナ=ローク》へ続く可能性はございますか?」
部屋が静かになった。
メルリルも顔を上げ、ゼクスの眉が動く。
キースはすぐには答えなかった。
《ラグナ=ローク》。
北方神話だけの言葉ではない。
神殿の古い神学書にも、その名はいくつも現れる。
一般的な物語では、神々と巨人が争った終末戦争。
古い時代が滅び、新しい世界が始まる大戦。
子ども向けの神話集なら、それで終わる。
だが、古い資料ほど話は簡単ではない。
戦争の記録。
都市の消失。
途切れた王統。
前後で繋がらない神々の系譜。
同じ土地なのに、古い記録と新しい記録で異なる名称を持つ場所。
そして、祈りとの接続そのものを失ったとされる神格。
後世の神学では、《断絶》に関わる神々として分類されるものまでいる。
ただし、それらがラグナ=ロークによって生じたのか。
もともと別々に起きた出来事が、後世になって一つの《終末》へまとめられたのか。
そこまで確定した資料はない。
キースは、机の上にある《ラグナ――》を見る。
「可能性はある」
ローゼンが息を呑む。
「でも、それだけだ」
「否定は?」
「できない」
「肯定も?」
「しない」
キースは、欠けた部分を指した。
「ここには《ラグナ――》までしか残っていない」
「はい」
「その先へ《ローク》を置くのは、今の私たちだ」
ローゼンは黙る。
「私たちは《ラグナ=ローク》という言葉を知っている。だから欠けた先もそう見える」
メルリルが頷いた。
「先入観」
「そうだ」
「でも」
ローゼンは慎重に尋ねる。
「仮に、本当に《ラグナ=ローク》と刻まれていたとしたら?」
キースは少し考えた。
「その場合でも、まだ一つ問題が残る」
「何でしょう」
「何を《ラグナ=ローク》と呼んでいるかが分からない」
戦争なのか。
現象なのか。
時代なのか。
世界の状態なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
「《王》は言った」
キースは静かに続ける。
「《終わった戦争の名だと思うな》」
「はい」
「つまり、少なくとも《王》にとっては、単純な戦争名ではない可能性がある」
「黄金時代の終焉と……」
メルリルが言いかける。
キースはすぐに手を上げた。
「そこも結ばない」
「まだ?」
「まだだ」
「でも、ヴァギュイザール様は――」
「黄金の時代が終わる前から世界が変わり始めていた、と言った」
「ええ」
「精霊戦争が原因だとは言っていない」
「はい」
「ラグナ=ロークだったとも、一度も言っていない」
メルリルが黙る。
「今あるのは」
キースは指を折る。
「黄金時代末期に、世界の存在条件が変わったらしい痕跡」
一つ。
「《姫》と《王》の戦争が、その時代に終結したこと」
二つ。
「その後、エルフを中心とする白銀の時代が続いたこと」
三つ。
「そして、ラグナ=ローク伝承にも、世界の前後が大きく食い違うような断層が語られていること」
四つ。
「似ていますわ」
「似ている」
「なら」
「似ているだけだ」
キースは、はっきり言った。
「今の私たちには、同じものだとする証拠がない」
メルリルはしばらく黙ってから、肩を落とした。
「……分かりましたわ」
「それに」
キースは続ける。
「白銀から黄銅への移行まで、同じ説明へ入れるのはもっと危険だ」
「人間の時代?」
「ああ」
白銀時代は、ある日突然終わったわけではない。
少なくとも、現在残る歴史では。
人間の人口が増え、国家が広がり、魔導が体系化され、貨幣と契約と道路が大陸を繋いだ。
ドワーフはその社会へ適応し、産業や交易の中心へ入り込んだ。一方、エルフ文明は地域ごとに異なる速度で衰退している。
人間との共存を選んだ土地。
森へ残った者たち。
国そのものが消えた地域。
原因は一つではない。
「黄金から白銀の境界には」
キースは言葉を選ぶ。
「世界そのものが変わったように見える痕跡がある」
「はい」
「でも、白銀から黄銅は、文明史だけでも説明できる部分が多い」
「同じ《世界改変》が二度起きたと決めるべきではない?」
「そういうことだ」
「ただし」
メルリルが先に言う。
「本当に文明史だけだったかも、まだ分からない」
キースは彼女を見る。
「そうだ」
「ふふ」
「何だ」
「ちゃんと学んでおりますわ」
「私が教えたみたいに言うな!」
「誰があなたから!」
ローゼンが小さく笑った。
キースは再び《ラグナ――》へ視線を落とし、帳面へそのまま書いた。
――《ラグナ――》。
その先へは、一文字も加えない。
「今は、ここまでだ」
*
しばらく、誰も話さなかった。
やがて椅子の軋む音がして、キロスが立ち上がった。
「キロス?」
ローゼンが呼ぶ。
「うん」
少年は、いつものように笑おうとした。
けれど、少しだけ失敗した。
「僕、ここで一回抜けるよ」
キースは一瞬、意味を理解できなかった。
「抜ける?」
「君たちと別れる」
「今?」
「明日の朝」
シビウが椅子の背へ肘を置いた。
「急だねえ」
「前から考えてたんだけどさ」
キロスは自分の胸を指で叩く。
「今日ので決めた」
「《王》のことか?」
キースが尋ねる。
「うん」
迷いのない返事だった。
「僕、あいつのこと何にも知らないんだよ」
「私たちも同じだ」
「違う」
キロスは首を振る。
「君たちは《王》を知らない」
「ああ」
「でも僕は」
少し苦しそうに笑った。
「知らないのに、覚えてる」
キースは何も言わなかった。
「知らない街が懐かしい」
キロスは指を一本立てる。
「知らない奴を見て、知ってる気がする」
二本。
「知らない戦争で腹が立つ」
三本。
「知らない力を使える」
四本。
「今日なんて」
手を下ろす。
「気づいたら、僕の口で僕の知らないことを喋ってた」
「……怖いか?」
キースが尋ねた。
「怖いよ」
あっさりと答えた。
「すっごく」
冗談はなかった。
「このまま君たちについて行けば、たぶん色々分かると思う」
「なら――」
「でも」
キロスはキースを見る。
「それだと、《王》が見たいものを、僕まで見てるだけになる気がするんだ」
キースは言葉を失った。
「今日、あいつが《ラグナ――》を見て怖がった」
「ああ」
「だから僕も怖かった」
「自然な反応じゃないか?」
「そうかもしれない」
キロスは胸へ手を当てた。
「でも、どこまでが僕の怖さで、どこからが《王》の怖さなのか、分かんなかった」
以前、彼自身が言った言葉を、キースは覚えている。
――僕は僕だよ。
その言葉が、今は少し違って聞こえた。
「だから、僕には僕で確かめたいことがある」
「何を?」
「まず、自分」
「自分?」
「僕がどこから来たのか」
一つ。
「いつから《王》の記憶があるのか」
二つ。
そして、
「……《キロス》って名前を、いつから使ってたのか」
キースは顔を上げた。
「君は――」
「今は聞かないで」
キロスが笑った。
いつもの笑い方。
けれど今なら、それ以上踏み込ませないための笑顔だと分かる。
「まだ、自分でも分かってないから」
「だから一人で?」
「うん」
「危険だ」
「ここにいても危険だよ」
「それはそうだけど」
「それに」
キロスは肩をすくめる。
「最初から言ったでしょ」
「何を?」
「目的が重なってる間だけ、一緒に行くって」
確かに。
そうだった。
仲間になると言ったわけではない。
アムドア。
《王》。
互いに知りたいことが重なっていたから、同じ道を歩いていただけ。
それなのにキースは、いつの間にかキロスもこの先ずっと同行するような気になっていた。
「引き止めないんだね」
キロスが言う。
「引き止めてほしいのか?」
「いや」
「なら、引き止めない」
「冷たいなあ」
「君が決めたことだろ」
「そうなんだけどさ」
「ただし」
キースは続けた。
「無茶はするな」
「世界一さんに言われた」
「キースだ」
「知ってる」
キロスが笑う。
今度は少し自然だった。
「何か分かりましたら」
ローゼンが尋ねる。
「また会えたら話すよ」
「会えたら?」
「世界って広いからね」
「逃げる気満々だねえ」
シビウが笑った。
「姐さんには見つかりそう」
「次に会ったら飯くらい奢りな」
「なんで僕が?」
「あたしの分まで」
「増えた!」
メルリルが腕を組む。
「《王》について重要な発見がございましたら、必ずわたくしへ報告なさい」
「なんで?」
「宇宙一の魔導士が命令しておりますの」
「絶対やだ」
「なんですって!?」
「その方が、また会いたくなるでしょ」
メルリルは口を開いた。
何か言い返そうとして、結局閉じる。
「……本当に腹の立つ方ですわね」
「褒め言葉?」
「違いますわ!」
少し離れた場所で、フユがキロスを見ていた。
「王じゃない人」
「うん?」
「行くの?」
「行くよ」
「そう」
「寂しい?」
「別に」
「即答かあ」
フユは少し考えた。
「でも、また来る」
キロスの表情が止まる。
「それ、予言?」
「知らない」
「そこも知らないんだ」
キロスは小さく笑った。
「じゃあ、そうなったらいいね」
机の上には、《ラグナ――》。
一本の線。
二本の線。
欠けた名前。
キロス。
今はそう名乗っている少年。
《王》。
本当の名も、存在分類すら分からないもの。
黄金。
白銀。
黄銅。
後世が与えた三つの時代名。
この世界には、名前が多い。
だが、名前を知っていることと、その意味を知っていることは違う。
《メレグ=ナフ》も。
《ラグナ――》も。
《王》も。
それぞれ、今のキースにはまだ名前以上の答えを持っていない。
だから、分からないものへ、その場で新しい説明を足さない。
神も。
歴史も。
人間も。
同じだった。
*
翌朝。
キロスは本当に出て行った。
荷物は少なかった。
初めて会ったときと同じ薄い外套。
小さな袋。
武器らしいものは、やはり何一つ持っていない。
「本当に、それだけで行くのか?」
キースが尋ねる。
「なんとかなるよ」
「その自信はどこから来る」
「《王》じゃなくて僕」
「なら、なおさら心配だ」
「ひどいなあ」
村外れで、道が二つに分かれている。
キースたちは、アムドアの調査を続ける。
キロスは別の道を選ぶ。
「どこへ行く?」
「決めてない」
「君は最後までそれか」
「正確には、いくつか気になる場所がある」
「《王》の記憶に?」
「それも」
一拍。
「僕自身の記憶にも」
キースは、それ以上聞かなかった。
「キース」
キロスが呼ぶ。
「何だ」
「昨日の《ラグナ――》」
「ああ」
「僕が何を言ったかは覚えてない」
「うん」
「でも」
胸へ手を当てる。
「《王》が、本気で嫌がってたのは分かる」
「そうか」
「だから気をつけて」
「君もな」
「世界一なら大丈夫でしょ?」
キースは少しだけ考えた。
「世界一だから、死なないわけではない」
言ってから、自分自身が一番驚いた。
旅へ出る前なら、そんな言葉は口にしなかったかもしれない。
キロスも目を丸くし、それから笑った。
「じゃあ、生きてたらまた会おう」
「縁起でもない言い方をするな」
「じゃあ」
少し考える。
「またね、キース」
「ああ」
キースも頷いた。
「また」
キロスは片手を上げ、そのまま一人で歩き出した。
何度か振り返るのではないかと思った。
けれど、一度も振り返らなかった。
朝霧の中へ、その姿が少しずつ小さくなっていく。
「行っちゃったねえ」
シビウが言った。
「ああ」
「寂しい?」
「なぜ私に聞く」
「なんとなく」
「フユの真似をするな」
ローゼンが微笑んだ。
「また、お会いできますでしょうか」
キースは答えようとして、やめた。
分からない。
今は、それでいい。
「行こう」
キースは振り返った。
「私たちにも、まだ調べることがある」
背後には、アムドアの《大穴》がある。
その底には、都市より古い構造が残っている。
誰も読めないはずの文字。
そして、《ラグナ――》。
その先に何が続くのか。
まだ知らない。
《王》が何者だったのか。
知らない。
キロスが何者なのか。
知らない。
黄金の時代の終焉と、精霊戦争の終結がどのように関係していたのか。
知らない。
その巨大な断層へ、《ラグナ=ローク》という名を置いてよいのか。
それも、知らない。
そして、二枚の写しがなぜ一箇所だけ違ったのかも分からない。
答えは何一つ出ていない。
だから今は書かない。
欠けている場所へ、知っている言葉を足さない。
ただし、起きたことは残す。
キースの帳面。
《ラグナ――》の下には、
――補助線。キース写し一。メルリル写し二。現物再確認、判別不能。
それだけが記されている。
《ラグナ=ローク》とは書かなかった。
《メレグ=ナフ》とも書かなかった。
どちらの名も、今ここで起きていることをそう呼ぶだけの理由が、まだなかった。




