第二十七章 生きている混沌
《ラグナ――》の刻まれた古代構造から戻った翌朝も、文字は消えていなかった。
キースは目を覚ますなり寝台の脇へ置いていた帳面を開き、昨夜何度も確かめた頁へ目を落とした。
《ラグナ――》
同じ位置に、同じ筆跡で、間違いなく残っている。
メルリルの帳面にも同じ文字列があり、ローゼンもシビウもゼクスもフユも、昨日あの地下でそれを見たことを覚えていた。すでに一行から離れたキロスも、別れる直前までは記憶していることを確認している。
だからといって、安心できる材料が増えたわけではない。
誰も、その意味を知らない。
キロスの内側に残る《王》の声は、文字を見た瞬間に激しく反応した。
――見るな。
さらに、もう一つ。
――それを、終わった戦争の名だと思うな。
その言葉が何を指しているのかも、まだ分からなかった。
「考えても進みませんわね」
朝食の席で、メルリルが言った。
キースは思わず顔を上げる。
「珍しいな。君がそんなことを言うとは」
「考えないとは申しておりません」
メルリルは不機嫌そうにパンをちぎった。
「ただ、同じ資料を百回睨んだからといって、欠けた石の先から文字が勝手に生えてくるわけではありませんでしょう?」
「九十九回くらいなら試しそうだね、あんたら」
シビウが呆れた声を出した。
キースは否定しなかった。実際、昨夜からすでに十数回は写しを見直している。
「今日の調査はどうする?」
ゼクスが尋ねた。
机の上には、アムドア地下のおおまかな構造図が広げられている。ただし、地図と呼べるほど正確なものではない。大穴の内部は測定するたびに距離や位置関係がずれるため、確認済みの通路や調査地点を、おおよその繋がりだけで記したものだった。
昨日入った古代構造は、その中でも比較的安定している区画にある。
問題は、さらにその下だ。
「ここ」
ゼクスが古代構造の南側を指した。
「この先に、深部へ続く裂け目がある。昨日までは閉じてた」
「崩落で?」
「いや。〈混沌〉だ」
キースは顔を上げた。
「通路そのものが〈混沌〉で塞がれていた?」
「ああ。術式を当てても片端から呑まれる。結界も意味がねえ。それで何年も、監視するしかなかった」
「それが?」
「今朝、引いてる」
キースはしばらく黙った。
「なぜ」
「知らん」
以前なら、その返答に苛立ったかもしれない。
今では、もう驚かない。
「深部へ通れる?」
「今ならな」
「危険度は?」
「高い」
ゼクスの返答には、一切の迷いがなかった。
「なら行く」
キースも即答した。
シビウが目を細める。
「あんた、一応考えた?」
「考えた」
「今の間で?」
「昨夜から、深部へ入れるなら調べるつもりだった」
「それは考えたんじゃなくて、先に決めてただけじゃないかい」
痛いところを突かれ、キースは言葉に詰まった。
そこへ、ローゼンが静かに口を開く。
「ですが、わたくしも行くべきだと思います」
シビウが彼女を見る。
「珍しいね。ローゼンまで」
「《精霊の君》に、自分を探すよう言われました。アムドアに答えがあるとは限りません。ですが、あの地下には、精霊戦争よりも古い可能性のあるものがございます」
「でも危ないよ」
「はい」
ローゼンは迷わず頷いた。
「怖いです」
それでも行く。
続きは言わなかった。
言葉にする必要もなかった。
シビウは二人を見比べ、大きく息を吐く。
「まったく。似た者同士になってきたねえ」
「私は反対ですわよ」
意外にも、そう言ったのはメルリルだった。
キースが目を丸くする。
「君が?」
「深部調査そのものには賛成です。ただし、魔導士が三人揃って降りる必要はありません」
メルリルはキース、ゼクス、最後に自分を順番に指した。
「黒化症状は、今のところ魔導士にしか確認されていない。しかも大穴の深部へ行くほど発症率が高いのでしょう?」
ゼクスが頷く。
「だったら、三人全員を同時に危険へ晒すのは愚策ですわ。最低一人は地上へ残って、記録と救援を担当すべきです」
「正論だ」
キースはすぐに認めた。
「なら、誰が残る?」
「わたくし」
メルリルは、見るからに嫌そうな顔で答えた。
「本当に嫌そうだな」
「嫌に決まっているでしょう!」
机を叩く。
「未知の古代構造ですよ!? 入りたいですわよ!」
「なら私が――」
「あなたは《ラグナ――》を読めた」
その一言で、キースは黙った。
「あの文字体系を、ほかの誰も読めなかった。それなのに、あなただけが発音できた。理由は不明です。でも深部に同じ文字体系の記録が存在した場合、あなたを地上へ残すのは非効率です」
「ゼクスは地形を知っている」
「ええ。ですから、消去法でわたくしです」
メルリルは腕を組んだ。
「とても不愉快ですけれど」
「ありがとう」
「帰ってきたら、全部話してくださいませ」
「分かった」
「一文字でも省いたら許しませんわ」
「分かったから」
こうして深部へ降りる者は、キース、ローゼン、シビウ、フユ、ゼクスの五人に決まった。
メルリルは地上へ残る。
それが結果として、彼女を〈混沌〉から遠ざけることになった。
*
昨日と同じ降下路を辿り、五人は再び大穴の底へ入った。
古代構造へ近づくにつれて、キースの胸の奥にあるイースが脈打ち始める。ゼクスも同じらしく、ときおり無意識に胸元へ手をやっていた。
ただし、昨日とは違う。
今日は、その反応に明確な方向がある。
「下だ」
キースが言った。
シビウが振り返る。
「何が?」
「イースが引かれている」
「昨日もだろ?」
「今日はもっとはっきりしている」
大穴の中心ではない。
昨日調査した古代構造の、さらに奥。
深部。
「俺もだ」
ゼクスが低く言った。
「こいつは気持ち悪いな」
ローゼンにもシビウにも変化はなく、フユはいつものように地面から僅かに浮きながら進んでいる。
「フユ」
キースが呼んだ。
「なに」
「何か感じる?」
「いる」
フユの動きが止まった。
「何が」
小さな妖精は、暗い通路の奥へ目を向ける。
「黒いの」
全員の空気が張りつめた。
「〈混沌〉?」
「たぶん」
「昨日と違う?」
フユは少し考えた。
「動いてる」
「〈混沌〉は動くだろう?」
「違う」
「どう違う?」
「見てる」
キースは黙った。
「何を?」
フユの視線が、ゆっくりとキースへ向いた。
「こっち」
その一言で、背筋へ冷たいものが走った。
*
昨日まで、古代構造の先には黒い壁があった。
ゼクスによれば、何年も前から通路を塞ぎ続けていた〈混沌〉の層だという。過去には封印を試みた者もいたが、触れた術式を片端から呑み込んだため、現在では監視しか行われていない。
その壁が、今朝は消えていた。
代わりに、下へ続く石段が口を開けている。
「……誰かが作った階段?」
シビウが油灯を掲げる。
「前からあったんだろうな」
ゼクスが答えた。
「〈混沌〉に隠れてただけだ」
「何年も塞いでいたものが、昨日の今日で退いた」
キースは入口を見つめた。
「私たちが《ラグナ――》を見たあとに」
「関連があると思うか?」
「分からない」
「その答えで正解だと思うぜ」
ゼクスが苦笑した。
石段の先は暗い。
ただ、完全な闇ではなかった。
遥か下で、何かが黒く光っている。
黒いのに、光っている。
見ているだけで感覚のどこかが拒絶する、矛盾した光だった。
「嫌」
フユが言った。
ローゼンが彼女へ顔を向ける。
「戻りますか?」
フユは首を横へ振った。
「行く」
「嫌なのに?」
「いるから」
「何が?」
「季節がない」
キースが眉を寄せた。
「地下だからでは?」
「違う」
フユは階段の奥を指した。
「春も、夏も、秋も、冬もない」
「どういう意味だ」
「季節になる前」
キースは息を止めた。
「……何?」
だが、フユはそれ以上説明しなかった。
言いたくないのではなく、本人にもそれ以上の言葉へ置き換えられないように見えた。
「行こう」
ゼクスが言う。
五人は慎重に石段を降り始めた。
十段。
二十段。
五十段。
最初は数えていたが、やがて意味を失ってやめた。
それほど長く歩いたつもりはない。それなのに、キースの感覚ではすでにかなり深くまで降りている。
「ゼクス」
「何だ」
「この階段、どれくらい降りた?」
「知らん」
「感覚でいい」
「五十デティートくらいか?」
「私は百以上に感じる」
シビウが振り返った。
「あたしは、そこまで降りた気がしないね」
「ローゼンは?」
「わたくしも……どれほど歩いたのか、よく分かりません」
距離感。
また、大穴特有の異常だ。
ただし今回は、それだけではない。
息は上がっていない。
脚にもほとんど疲労がない。
何十分も歩き続けたような記憶がある一方で、ほんの数分しか経っていないようにも思える。
「止まれ」
ゼクスが言った。
全員が足を止めた。
「上を見るな」
「なぜ」
「見ても意味がない」
そう言われても、キースは反射的に振り返った。
階段の上。
入口が、すぐ近くに見える。
十数段先。
確かに、あそこから降りてきた。
そうとしか思えない。
シビウも見上げ、顔をしかめた。
「冗談だろ。これだけしか降りてない?」
「違う」
フユが言った。
「遠い」
「でも、見えている」
「遠い」
彼女はもう一度繰り返した。
キースは入口を見つめたまま、試すように一歩だけ上へ足をかけた。
その瞬間。
入口が、遥か遠くへ退いた。
「動くな!」
ゼクスの声が響く。
キースはすぐに足を戻した。
すると、入口も元の近さへ戻る。
「何なんだ、ここは」
「アムドアだよ」
「答えになっていない!」
「俺だって知らねえ!」
その直後、下方から音がした。
水音のようにも聞こえた。
だが、違う。
もっと粘り気のある、柔らかなものが、石の表面を這っている。
そんな音だった。
*
階段の最下部には、広間があった。
昨日調べた円形空間よりは狭く、柱も壁画も文字もない。床も壁も天井も、同じ灰色の石で作られている。
そして、その中央に〈混沌〉があった。
最初、キースは床へ黒いものが《溜まっている》のだと思った。
直径は五デティートほど。
水溜まりのように、平たく広がっている。
だが、次の瞬間、その表面がゆっくりと持ち上がった。
「下がれ!」
ゼクスが叫ぶ。
黒いものが、こちらを向いた。
目はない。
顔もない。
それなのに、五人の誰もが同じように感じた。
確かに、こちらを向いた。
「……生きてる?」
シビウが呟く。
「生物だと断定するな」
キースはすぐに言った。
半分は、自分自身へ言い聞かせるためだった。
〈混沌〉は物質でも、生物でもない。
少なくとも、これまでキースが学んできた魔導理論では、世界が形を得る以前の、未確定な状態とされている。
そこへ、意志など存在するはずがない。
そう考えた直後、黒い表面から一本の突起が伸びた。
まっすぐ、キースへ。
「避けろ!」
シビウがキースの身体を突き飛ばした。
黒い鞭のようなものが、その直前まで彼のいた場所を通り過ぎ、石床へ触れる。
音はしなかった。
石が消えた。
砕けたのでも。
溶けたのでも。
削られたのでもない。
最初から、そこに石など存在していなかったかのように、ぽっかりと欠け落ちている。
「散れ!」
ゼクスの声に従い、五人は左右へ分かれた。
〈混沌〉は一瞬だけ表面を揺らし、標的を見失ったようにも見えた。
次の瞬間、再びキースへ向く。
「私……?」
今度は、黒い触手が三本伸びた。
キースは走った。
反射的に、魔導を使おうとする。
術式を開きかけ、その直前で思い留まった。
この場所で術を放てば、〈混沌〉へ何が起きるのか分からない。黒化症状との関係もある。
身体を捻り、一本目をかわす。
二本目が追う。
「キース!」
シビウの《踊る剣》が伸び、横から触手を打った。
切れない。
だが、僅かに進路が逸れる。
三本目はゼクスへ向かい、彼が鉄棍で受け止めた。
「ぐっ!」
触れた棍の先端が、その場から消えた。
「くそっ!」
ゼクスは即座に鉄棍を投げ捨てる。
〈混沌〉の表面が大きく揺れ、そこからさらに幾本もの触手が生まれた。
「ローゼン!」
キースが叫ぶ。
彼女はすでに動いていた。
床へ両手を向ける。
「お願い……!」
命令ではない。
精霊が石へ願いかける。
次の瞬間、灰色の床が盛り上がった。
人間の魔導で作る壁とは違う。石そのものが僅かに身体を起こしたように、低い隆起が五人と〈混沌〉の間へ生まれる。
黒い触手が触れた。
石は消える。
それでも、ほんの一瞬だけ触手の進行が遅れた。
「今です!」
「撤退!」
ゼクスが叫び、全員が入口側へ走り出す。
その途中で、キースは一人だけ動いていない者に気づいた。
「フユ!」
小さな妖精が、広間の反対側に浮いている。
〈混沌〉のすぐ近くだ。
「何してる!」
フユは逃げず、黒いものをじっと見ていた。
奇妙なのは、〈混沌〉の方だった。
黒い触手が、フユのすぐ横を通っている。
それなのに、彼女へは触れない。
「フユ!」
キースが叫ぶと、ようやく彼女は振り返った。
「こっち見てない」
「何?」
「フユ、見てない」
〈混沌〉が、彼女を標的にしていない。
偶然なのか。
いや。
先ほどから攻撃が向いているのは、キースばかりだった。
そして。
「ゼクス!」
黒い触手が、今度は彼へ伸びた。
ゼクスが地面を転がり、ぎりぎりでかわす。
「こいつ……!」
そこで、キースは理解した。
「魔導士を狙っている!」
「俺もそう思ってたところだ!」
「シビウは?」
「あたしには来てない!」
「ローゼン!」
「わたくしにも!」
フユも狙われていない。
キースとゼクス。
二人だけだ。
もしメルリルまで降りていたなら、標的は三人になっていたかもしれない。
「偶然じゃない」
キースは、目の前の現象とこれまでの記録を重ねる。
前に見た、魔導士だけが黒くなる奇病。
アムドアの〈混沌〉。
イース。
そして今、目の前にある〈混沌〉は、明らかに人間の魔導士だけを選んで襲っている。
「こいつは――」
黒い表面が、再びキースへ向く。
「私たちを分かっている」
考える時間は残されていなかった。
「キース、走れ!」
シビウの声に押され、全員が階段へ向かう。
「フユ!」
「分かってる」
フユもようやく飛び上がり、ローゼンのそばへ戻った。ゼクスが最後尾につき、キースが先に階段へ足をかける。
その瞬間。
胸の奥にあるイースが、激しく脈打った。
「っ……!」
痛い。
これまでの不快感とは違う。
初めて感じる、明確な痛み。
心臓ではない。
もっと深いところ――イースそのものを、外から誰かに掴まれたような感覚だった。
「キース様!」
ローゼンが振り返る。
「来るな!」
叫ぶ。
脚が動かない。
〈混沌〉から、髪の毛ほど細い黒い糸が伸びている。
身体へは触れていない。
それなのに、その糸がキースの胸の奥と繋がっていることだけは、理屈を越えて分かった。
「何だ、これ……!」
引かれている。
身体を引っ張られているのではない。
重さでもない。
自分の中にある何かが、向こう側へ持っていかれようとしている。
「術を使うな!」
ゼクスが叫ぶ。
「分かっている!」
だが、キースの意思とは関係なく、イースが反応し始めた。
魔力が漏れる。
微かな光が身体の周囲へ滲んだ、その瞬間。
〈混沌〉が大きく脈打った。
歓喜。
なぜか、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
「まずい!」
ゼクスがキースの腕を掴み、シビウもすぐに戻ってくる。
「引っ張るよ!」
「待て、シビウ!」
「黙ってな!」
二人が力いっぱいキースを引く。
それでも、身体は動かない。
「キース様!」
ローゼンも戻ろうとする。
「来るな!」
「ですが!」
「ローゼン、フユを連れて上へ!」
「嫌です!」
「今は言うことを聞いてくれ!」
その間にも、〈混沌〉は近づいていた。
床を這っているわけではない。
キースとのあいだにあった距離そのものが縮んでいく。
五デティートあったはずの隔たりが、三へ。
そして、一へ。
「離せ!」
キースが叫ぶ。
「何言ってんだ!」
ゼクスが怒鳴った。
「二人まで呑まれる!」
「だったら先にあんたを――」
「シビウ!」
キースは彼女を見た。
「マーカスの時と同じにするな!」
シビウの表情が止まった。
言った瞬間、キースは後悔した。
それでも、時間がない。
「私はまだ生きてる!」
マーカスを追うのとは違う。
死者を取り戻そうとしているのではない。
今のキースは、生きている。
だから助けるべきだ。
それでも。
「君まで死ぬ必要はない!」
シビウの目が揺れた。
「……馬鹿」
やがて、掴んでいた腕が離れる。
ゼクスも手を放した。
「キース!」
「行け!」
次の瞬間、黒が視界のすべてを覆った。
*
音が消えた。
冷たくない。
熱くもない。
息苦しさもない。
ただ、自分がどこかへ落ちているような感覚だけがあった。
けれど、どこへ落ちているのかは分からない。
上も下もない。
身体はある。
おそらく。
自分の指を見ようとしても、見えない。そもそも目を開けているのか、閉じているのかさえ分からなかった。
黒。
そう考えてから、それすら違うと思った。
ここにあるのは黒い色ではない。
色というものが、まだ黒になるか白になるかさえ決めていない。
形になる以前。
そんな場所だった。
「ローゼン!」
キースは叫んだ。
声は出た。
だが、どこからも返ってこない。
反響さえない。
声が空間を進んでいったという感覚もなく、ただ《自分が叫んだ》という事実だけが残る。
「シビウ!」
何もない。
「ゼクス!」
やはり何も返らない。
どれほど時間が経ったのかも分からなかった。一瞬だったのか、一時間だったのか、それとも一年という時間さえ過ぎたのか。考えようとした瞬間、《どれほど》という問いそのものが、この場所では意味を持たないように思えた。
距離がない。
時間もない。
昨日と明日も。
前と後ろも。
ならば、ここは〈混沌〉なのだろう。
形になる前。
世界になる前。
何かが何かとして分けられる、そのさらに以前。
キースは、自分の名前を思った。
キース。
その瞬間だけ、失われかけていた自分の輪郭が、ほんの僅かに戻ったような気がした。
「私は、キースだ」
声にする。
もう一度。
「キース」
名前。
自分のものだ。
十八年間、そう呼ばれてきた。
双子の巫女が。
アースバドが。
ローゼンが。
マーカスが。
シビウが。
メルリルが。
それぞれの声で、その名を呼んだ。
記憶の中で名前を重ねるたび、自分の輪郭が少しずつ戻ってくる。
ならば動ける。
「出口は――」
探そうとした、そのとき。
何かが触れた。
身体ではない。
記憶だった。
自分のものではない記憶。
白い神殿が見えた。
月。
誰かの声。
女。
そして、すぐに消える。
「何だ……」
続いて別の光景が流れ込んできた。
長い回廊。
月光。
白い衣。
一人の男が歩いている。
背が高い。
自分かと思った。
違う。
キースは、その男を外側から見ているのではなかった。
男の目で回廊を見ている。
石壁の冷たさを知っている。
衣の重さを知っている。
胸から下がる月章が、装飾ではなく鎖のように重いことまで分かる。
知らない。
こんな場所は知らない。
それなのに、知っている。
「……誰だ」
問いかけても、男は答えない。
そもそも、これは会話ではないのだろう。
過去なのか。
記憶なのか。
夢なのか。
それとも〈混沌〉が作り出した幻なのか。
決められない。
光景は容赦なく続いた。
月神殿。
十三人の神官。
薄い帳の向こうに、一人の巫女がいる。
男は彼女を見る。
その瞬間、言葉より先に感情が流れ込んできた。
妹。
「妹……?」
キースの胸が痛んだ。
自分にも巫女がいる。
名を持たない、双子の妹。
なぜ、同じなのだ。
男の手が見えた。
若い。
キース自身のものと、どこかよく似ている。
顔はまだ見えない。
遠くから、誰かが男を呼んでいた。
一度目は聞こえない。
もう一度。
名前。
その瞬間、光景は崩れた。
*
「キース様!」
声がした。
ローゼン。
「ローゼン?」
「どちらですか!」
「ここだ!」
だが、自分がどこにいるのかは分からない。
声も遠くから聞こえるようで、耳元にあるようでもあり、右にも左にも、あらゆる方向から同時に届いているようだった。
「なぜ……」
キースは声の方へ叫ぶ。
「なぜ君まで来た!」
「追いかけました!」
「追いかけるな!」
「無理でございます!」
「なぜ!」
「キース様が呑まれたからです!」
あまりにもローゼンらしい答えだった。
「シビウたちは!」
「分かりません!」
「君まで出られなくなったら――」
「そのときは、そのときで考えます!」
「無茶を言うな!」
「キース様に言われたくございません!」
こんな場所なのに、キースは少し笑ってしまった。
声が近づく。
いや。
そもそも距離がないのなら、《近づく》という言い方そのものがおかしいのかもしれない。
「ローゼン!」
「はい!」
「自分の名前を言ってくれ!」
一瞬だけ沈黙があった。
「ローゼンでございます!」
白いものが見えた。
いや。
白い、とキースが思っただけかもしれない。
色すら定かではない闇の中に、少しずつ輪郭が現れる。
白い髪。
深紅の瞳。
ローゼン。
「見える!」
「わたくしも!」
キースは手を伸ばした。
ローゼンも手を伸ばす。
届くはずだった。
それなのに、触れない。
手と手のあいだには何も存在していないのに、そこだけ無限の距離が横たわっているようだった。
「キース様!」
「ローゼン!」
二人は互いの名前を呼んだ。
何度も。
そうしている間だけ、それぞれの姿が曖昧にならず、この場所に留まっていられるような気がした。
そこで、また記憶が流れ込んできた。
今度は、先ほどよりもはるかに強く。
*
酒場だった。
知らない町。
そこに、さっきの男がいる。
月神殿の神官。
だが、神官服の上から旅用のローブを羽織っている。
彼の目の前には、一人の女がいた。
人間の女。
白い髪ではない。
深紅の瞳でもない。
ごく普通の人間だ。
「……ローゼン?」
キースは、思わずその名を口にした。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。
顔は、今のローゼンとは同じではない。
姿も違う。
気配さえ違う。
精霊ですらない。
それなのに。
ローゼンだと、知っている。
女が笑った。
声は最初、遠くて聞き取れなかった。
男が硬貨を置く。
金色。
女が慌てて男を追いかける。
道へ出て。
転ぶ。
男が振り返り、手を差し出す。
触れた瞬間。
キース自身の胸が強く締めつけられた。
初めて会った女。
それなのに、目を離せない。
違う。
これはキース自身の感情ではない。
男の感情だ。
自分の知らない男の。
「誰なんだ……」
光景が変わる。
神殿。
月。
閉ざされた部屋。
男が本を読んでいる。
大量の本。
壁を埋め尽くす書棚。
窓は少ない。
外へ出られない。
世界を、本の中で知る。
キースの呼吸が止まった。
「私……?」
違う。
自分ではない。
服も。
時代も。
神殿の形も違う。
それなのに、あまりにも似ている。
男は、神殿の制度を嫌っている。
貴族を嫌っている。
魔導士だけが力を持つ世界を嫌っている。
神の名を使って人を従わせる仕組みを嫌っている。
そして、巫女となった双子の妹を守りたいと願っている。
キースは、その感情を知っていた。
「やめろ……」
怖かった。
竜より。
目の前で人の形を奪った〈混沌〉そのものより。
自分の内側へ、知らない人間の人生が、自分自身の記憶であるかのように入り込んでくることが恐ろしかった。
「これは、私じゃない」
キースは言った。
だが、記憶は止まらない。
男の目。
男の声。
男の手。
男の怒り。
そして、女。
ローゼン。
「私ではない」
さらに強く言う。
それでも胸の奥のどこかが、その男を知っていると訴えていた。
懐かしい。
そんな感情まで浮かんでしまう。
「誰だ!」
キースは叫んだ。
〈混沌〉へ。
流れ込んでくる記憶へ。
知らない男へ。
「お前は誰だ!」
その瞬間、世界が止まった。
酒場も。
神殿も。
月も。
人間の女も。
すべてが、一瞬だけ動きを失った。
そして、遠くから誰かが男の名を呼んだ。
今度は聞こえた。
雑音もなく。
曖昧さもなく。
「キルス」
キースの身体が震えた。
知らない名だった。
知らないはずの名。
それなのに、その響きだけが、胸の奥へずっと以前から刻まれていたもののように深く落ちてくる。
「……キルス」
自分の口で繰り返す。
その瞬間、まったく別の名が脳裏をよぎった。
キロス。
昨日、アムドアを離れていった少年。
――キロス。……まあ、今はそう名乗ってる。
「……似ている?」
キルス。
キロス。
二つの音は、あまりにも近い。
だが、それだけだ。
似た名前など、世界にはいくらでもある。
偶然へ意味を与えるな。
分からないものを、分かったことにするな。
キースはそう考えた。
そのはずだった。
けれど胸の奥で、何かが《キロス》という名へ反応したような気がした。
「……何だ?」
考える暇はなかった。
闇の中で、それまで一度もこちらを向かなかった男が、初めて振り返った。
顔が見える。
キースは息を呑んだ。
似ている。
同じではない。
年齢も。
目の色も。
表情も違う。
それでも、鏡の向こうで別の人生を生きた自分自身を見るような、奇妙な近さがあった。
男――キルスは、キースを見ていない。
記憶の中にいる誰かを見つめている。
その視線の先には、人間のローゼンがいた。
そして同じ瞬間。
〈混沌〉の奥では、今のローゼンの声が、確かにキースの名を呼んでいた。




