第二十八章 人間ローゼン
キースの名を呼ぶ声と、過去の女がキルスの名を呼ぶ声が、同じ場所で重なった。
〈混沌〉の内側には距離がない。そう理解したつもりでいても、キースには今のローゼンがどこにいるのか分からなかった。白い髪と深紅の瞳が一瞬だけ闇の中へ浮かんだかと思えば、その姿は知らない町の雑踏へ溶け、いつの間にか人間の女の横顔へ変わっている。
女の名も、ローゼンだった。
ただし、今のローゼンではない。白い髪ではなく、精霊特有の気配もなく、風や花と語り合うこともできない。少し日に焼けた頬と働き慣れた手を持つ、ごく普通の人間の娘だった。
それでもキースは、彼女を見た瞬間から知っていた。
ローゼンだ。
なぜそう思うのかを問うよりも早く、キルスの記憶が流れ込んできた。
*
キルスにとって、酒場は本の中にしか存在しない場所だった。
昼間から人々が酒を飲み、大声で笑い、見知らぬ者同士が肩を叩き合っている。神殿では誰か一人が少し声を張れば、それだけで周囲の神官たちが振り返る。ところがここでは、三人が同時に怒鳴り、別の卓では五人が歌っているというのに、誰一人気に留めていない。
あまりの騒がしさに、キルスは入口で足を止めた。
「いつも、このような場所なのか?」
隣にいた娘が笑う。
「今日は少し賑やかですね。でも、酒場なんて大体こんなものですよ」
ローゼン。
少し前、街の市場で出会った娘だった。
神殿を抜け出したキルスは、外套の頭巾を深く被り、一人でメミスの街を歩いていた。外へ出た経験がないわけではない。神官長として祭礼や視察へ赴くことはあったが、常に護衛と神官が付き従い、歩く道も、会う相手も、口にする言葉さえある程度は先に決められていた。
だから、人々が自分を神官長だと知らない状態で街を歩くのは、これが初めてだった。
市場では立ち止まりすぎて商人に邪魔だと怒鳴られ、果物一つの値段も知らずに金貨を差し出して呆れられた。そのとき、横から笑いながら助けてくれたのがローゼンだった。
「そんな金貨を出したら、お店ごと買えてしまいますよ」
キルスが見ている記憶の中で、彼女はそう言った。
「そうなのか。金は難しいな」
その返事に、ローゼンが吹き出す。
「お金が難しいという方、初めて見ました」
「私も今日初めて使った」
「……本当に、どちらのお坊ちゃまなんですか?」
彼女は冗談のつもりだったらしい。
キルスは答えず、代わりに名を尋ねた。
「ローゼンです」
「ローゼンか。いい名だな」
その言葉を口にしたとき、キルスは初めて、自分の外側にいる誰かをもっと知りたいと思った。
記憶が、そこで不意に揺れた。
「違います」
今のローゼンの声が聞こえた。
キースは過去の景色の中で振り返ろうとする。
「ローゼン?」
「わたくしにも見えております。でも……少し違います」
「何が?」
「今のところでございます」
過去の景色が、ゆっくりと二重になった。
一方では、市場の前でキルスが言っている。
――ローゼンか。いい名だな。
だが、もう一方。
現在のローゼンが見ている記憶では、同じ場所に同じ二人が立ち、同じ瞬間に、キルスは僅かに笑って別の言葉を口にしていた。
――薔薇の名か。君によく似合う。
キースは息を呑んだ。
「同じ会話じゃない」
「はい」
「どちらかが聞き違えている?」
「分かりません」
人間ローゼンは、どちらの記憶でも同じように頬を赤らめていた。場面そのものは変わらない。二人の距離も、彼女の表情も、そこへ至る流れも同じで、違うのは言葉だけだった。
「先を見よう」
キースは言った。
「はい」
二つの過去は、再び重なり合って一つになった。
*
ローゼンの父が営む酒場には、魔導士の客がいた。
ザッハークという男だった。
酒に酔い、周囲へ威張り散らしながら女給たちを呼びつけている。ローゼンは彼の姿を見つけた瞬間、ほんの僅かに足を止めた。
「知り合いか?」
「お客様です」
「嫌いなのか」
「キルスさん」
「顔に書いてある」
ローゼンは困ったように笑った。
「魔導士様ですから」
答えになっていない。
キルスはまだ、それが答えとして成立する社会をよく理解していなかった。
自分も魔導士だ。けれど彼にとって、魔導士であることは、生まれつき身体に備わった能力でしかなかった。強いイースを持って生まれたため、神殿から神官長になるための教育を受け、それを当然のものとして育ってきた。
外の世界では違う。
魔導士であるというだけで、人は席を譲る。店主は頭を下げ、平民は多少の無礼を受けても逆らわない。
キルスがその事実を知識として理解していることと、目の前で実際に見ることとのあいだには、想像以上に大きな隔たりがあった。
ザッハークがローゼンを呼んだ。
彼女は嫌そうな顔を隠し、客席へ向かう。しばらくすると男の腕がローゼンの腰へ回り、彼女が身体をずらして逃れようとする。それでも手は離れず、さらに指が伸びた。
「おやめください」
ローゼンは、小さな声で言った。
「固いこと言うなよ。酒場の娘だろ?」
「仕事がありますので」
「父親に言ってやるよ。俺の相手してたってな」
ローゼンの顔が強張った。
キルスは立ち上がった。
「やめろ」
酒場の喧騒が、少しだけ静まった。
ザッハークが振り返る。
「何だ、坊主」
「彼女が嫌がっている」
「だから何だよ」
「手を離せ」
「キルスさん、いいんです」
ローゼンが慌てて口を挟んだ。
「相手は魔導士様ですから」
「それが何だ」
「あなたには関係ありません!」
その声は、キルスを拒んでいるのではなかった。
彼を守ろうとしている。
それが、余計に腹立たしかった。
彼女が嫌なことをされているのに、なぜ立場の低い彼女の方が、誰かを守らなければならないのか。
「魔導士なら、嫌がる人間へ何をしてもいいのか」
「そうは言ってねえだろ」
「なら離せ」
「ガキが――」
ザッハークが立ち上がり、キルスへ手を伸ばした。
その指が届くより早く、透明な魔導壁が二人の間へ生まれる。男の身体が真正面から壁へぶつかり、鈍い音を立てた。
「ぐっ……!」
鼻を押さえたザッハークが、目を見開く。
「お前、魔導士か」
「そうだ」
キルスは頭巾を取った。
顔を見た瞬間、ザッハークから血の気が引いていく。
「キ……」
声にならない。
神官長。
月神殿において、並の魔導士が逆らえる相手ではない。
さっきまでローゼンへ触れていた男は、何も言わず酒場から飛び出していった。残された人々の視線が、一斉にキルスへ集まる。
そこでようやく、彼自身も何をしてしまったのかに気づいた。
「まずい」
「え?」
「帰る」
「ちょっと、キルスさん!」
金貨を一枚カウンターへ置き、キルスは逃げるように酒場を出た。
その背中を、ローゼンが追ってくる。
しばらく歩いたところで、背後から短い悲鳴と、何かが地面へ転がる音がした。
振り返ると、ローゼンが道へ転んでいる。
キルスは引き返し、手を差し出した。
「大丈夫か?」
ローゼンはその手を取って立ち上がり、膝についた土を払った。
「ありがとうございます。昔から、こういうところでよく転ぶんです」
「なぜ追ってきた」
「これを」
開いた掌には、金貨があった。
「酒代なら置いた」
「多すぎます。こんなの受け取れません」
「どのくらい多い?」
「お父さんが、しばらくお店を休んでも困らないくらいです」
キルスは真剣に考えた。
「酒一杯とは、それほど安いのか」
「そちらに驚くんですか?」
ローゼンが笑う。
キルスも少し遅れて笑った。
誰かと、何の役割もなく笑う。
それが、彼には初めてのことだった。
*
恋は、一日で完成したわけではなかった。
それからキルスは、何度も神殿を抜け出した。最初は酒場へ通い、次は市場へ行き、やがてローゼンの仕事が終わる時刻を覚え、二人で街を歩くようになった。
ローゼンは、キルスの知らないものを知っていた。
パンが焼き上がる時間。
雨の日には野菜が安くなること。
店先で値切る方法。
橋の下で冬を越す者たち。
誰が妻を亡くし、誰の子どもが病気で、どの家が今月の税を払えずに困っているか。
一方、キルスはローゼンの知らないものを知っていた。星の運行、古代魔導文字、月神殿の禁書庫に残る歴史、神官たちだけが知る国政。
互いに知らないものが違うからこそ、二人の話題は尽きなかった。
ただ、その記憶の中に一度だけ、キースにも説明できない出来事が混じった。
市場の外れにある古物商で、ローゼンが一枚の石片を手に取ったときのことだった。
「これは何でしょう」
掌ほどの大きさで、表面には崩れかけた術式らしい線が刻まれている。
キルスは石片を受け取った。
「古い魔導文字だ」
「読めるのですか?」
「いや。この系統は初めて見る」
そう答えた。
はずだった。
ところが次の瞬間、キルスの指が石片の中央に刻まれた一つの記号をなぞった。
「これは閉じるための印ではない」
言葉が、考えるより先に出た。
「境界を固定するためのものだ」
ローゼンが目を瞬く。
「お分かりになるのではありませんか」
「……いや」
キルス自身も、困惑したように石片を見つめていた。
「分からない」
「でも、今」
「ああ」
もう一度、記号を見る。
知らない。
見た記憶もない。
書物で学んだ覚えもない。
それなのに、何に使われるものかだけは、最初から知っていたような感覚が残っている。
「変だな」
キルスは呟いた。
「初めて見るはずなんだが」
「昔、お勉強なさったことを忘れているのでは?」
「そうかもしれない」
その時は、それ以上気にしなかった。
石片も買わなかった。
けれど、〈混沌〉の内側からその記憶を見ているキースだけが、そこへ僅かな違和感を覚えた。
キルスは強かった。
優れた魔導士だった。
だから古い術式を直感的に読み解いたとしても、不思議ではないのかもしれない。
それでも。
――初めて見るはずなんだが。
自分自身でそう口にしたキルスの声だけが、妙に耳へ残った。
記憶は何事もなかったように先へ進んでいく。
「あなたは、本当に神官長なのですね」
正体を知ったあとも、ローゼンはしばらく信じられないような顔をしていた。
「そうだ」
「もっとこう……何でもご存じなのかと思っていました」
「何でもは知らない」
「卵一つの値段も?」
「それは最近覚えた」
「では、成長なさいましたね」
「馬鹿にしているな?」
「少しだけ」
その頃には、ローゼンはキルスの前で身分を理由に言葉を飲み込まなくなっていた。
キルスも、それが嬉しかった。
ある夜、二人は神殿から遠く離れた丘へ並んで座っていた。
眼下にはメミスの街灯が散らばり、その向こうに月神殿の白い塔が浮かんでいる。キースが見ている空には、刃のように細い三日月がかかっていた。
「戻らなくていいのですか?」
ローゼンが尋ねる。
「戻りたくない」
「神官長様が、そのようなことをおっしゃってよいのでしょうか」
「神官長だから言う」
その言葉が、キースには妙に馴染んだ。
キルスは神殿を嫌っていた。
ムーミストを憎んでいるわけではない。
巫女となった妹を嫌っているのでもない。
むしろ愛している。
だからこそ、制度を壊せない。
「妹がいる」
キルスは言った。
「双子だ」
「巫女様ですね」
「ああ」
「お会いしたことはありませんが、街ではとても美しい方だと」
「美しいかどうかは知らない。私と顔は似ている」
「では、美しいのですね」
「どういう意味だ?」
ローゼンが笑った。
キルスは少し困った顔をしてから、再び街へ目を向けた。
「私は、あの子を守るために神官長になった」
「ご自分で?」
「違う」
夜の空気が、少し冷たく感じられた。
「生まれた時から決まっていた。妹は巫女。私は神官長。そういう双子として育てられた」
「……嫌だったのですか」
「嫌だと思っていいと知ったのが、最近だ」
キルスは街を見下ろしたまま続けた。
「神殿の中では、役割を与えられることを祝福と呼ぶ。魔導士として生まれたことも、神官長であることも、月神の血を継ぐことも、全部、光栄なことだと教えられる」
ローゼンは黙って聞いている。
「違うのでしょうか」
「光栄ではあるのかもしれない」
キルスは答えた。
「だが、選べなかった」
しばらく沈黙が続いた。
やがてローゼンが、少し考えるようにして口を開く。
「では、わたしといる時くらいは、神官長でなくてもよいのではありませんか」
キルスが彼女を見る。
「何になればいい?」
「キルスさんで」
細い月の下で、それだけを言われた。
キルスは、その瞬間に救われたと思った。
「ローゼン」
「はい」
「私は君が好きだ」
飾る言葉を知らなかったわけではない。
恋愛詩は読んだことがある。
英雄譚に記された愛の告白も知っている。
それなのに、自分の口から出た言葉は驚くほど簡単だった。
ローゼンは目を見開き、少しだけ泣きそうな顔をしてから答えた。
「わたしもです」
*
「……違う」
今のローゼンの声が聞こえた。
キースは過去から引き戻される。
「また?」
「はい」
〈混沌〉の中で、二人の姿がぼんやりと重なっている。キースの身体には、まだ丘の冷たい草の感触が残っていた。
「何が違う?」
「月でございます」
「月?」
「あの夜です」
ローゼンは空を確かめるように顔を上げた。
「わたくしが見ている記憶では、満月でございます」
キースの背筋へ冷たいものが走った。
「そんなはずはない」
「ですが」
「私は三日月を見た」
「わたくしには、丸い月が見えております」
二人の間に、同じ丘が浮かぶ。
同じ街。
同じ神殿。
同じキルス。
同じ人間ローゼン。
それなのに、空だけが二つある。
一方には細い三日月。
もう一方には満月。
「別の日?」
キースが言う。
「同じ会話でございます」
「告白した日が別だった?」
「キース様の記憶では、何と?」
「『私は君が好きだ』」
ローゼンが目を見開いた。
「わたくしには……」
少し躊躇ってから続ける。
「『君といる時だけ、私は自分でいられる』と」
キースは黙った。
「そのあと、人間のわたくしが、『それなら、ずっと一緒にいてください』と答えています」
「私の方では、『わたしもです』だ」
意味は似ている。
関係も。
結果も。
けれど、同じではない。
「どちらかが……」
キースは言いかけた。
記憶違い。
そう続けるつもりだった。
だが、ヴァギュイザール、キロス、三つの創世歌、そして三つのアムドアが脳裏をよぎる。
これまで何度も、矛盾するものを見てきた。
どちらか一方を安易に捨ててはいけない。
「……今は、両方覚えておこう」
「はい」
今の二人にできるのは、それだけだった。
*
やがて、人間ローゼンは神殿へ入った。
正式な神官になったわけではない。
キルスが、自分の伴侶として彼女を迎えたいと神官団へ申し出たのだ。
その瞬間から、二人の恋は二人だけのものではなくなった。
「認められません」
老神官が言った。
円卓には十三人。
普段であればキルス自身が上座に座り、議論を導く立場にある。
けれど、その隣にローゼンはいない。
彼女は、この議論への参加すら許されなかった。
「理由は?」
「神官長の伴侶となる者には、相応の血統が求められます」
「どの法に書いてある」
沈黙が落ちる。
「慣例です」
「法ではない」
「しかし、神官長の血統は――」
「私の子を、次の神官長にする決まりはない」
「可能性の問題です」
「なら、子を持たなければいい」
神官たちがざわめいた。
「キルス神官長!」
「話を逸らすな。私が誰を愛するかに、君たちの許可が必要だという法文を持ってこい」
誰も持ってこられなかった。
制度上、禁止されてはいない。
だが、許されていることと、受け入れられることは違う。
ローゼンは神殿へ住むことを許された。
そして、それが迫害の始まりになった。
*
最初は、視線だけだった。
神官の妻たち。
貴族の娘たち。
神殿へ出入りする魔導士たち。
皆が、酒場の娘を見る。
神官長に取り入った女。
身分を越えようとした女。
魔導を使えない女。
月神に仕える神殿へ、世俗の匂いを持ち込んだ女。
やがて視線は言葉になった。
「お召し物だけは立派になりましたね」
「礼儀は、衣服と一緒には身につきませんもの」
「神官長様もお若いから」
「しばらくすれば飽きられるでしょう」
聞こえるように言う。
ローゼンは、それでもキルスの前では笑っていた。
「何かあったか」
「何もございません」
「嘘だ」
「どうして?」
「笑い方が違う」
ローゼンは困ったように微笑んだ。
「そこまで分かるようになってしまったのですね」
「言え」
「本当に、大したことではありません」
「大したことかどうかは、君が決める」
しばらく黙ったあと、ローゼンは静かに言った。
「慣れております」
キルスが顔をしかめる。
「酒場にいた頃も、魔導士様や貴族様に失礼がないようにするのは普通でした。あの頃より、少し言われることが増えただけです」
「それを慣れていると言うな」
「でも」
「嫌なことを嫌だと言えないことに、慣れる必要などない」
キースは、その言葉に胸を刺された。
シビウ。
名を持たない巫女。
ローゼン。
違う人生の中で、何度も同じものを見る。
キルスは制度を憎んでいた。
だからローゼンを守ろうとした。
けれど、守ろうとすればするほど、彼女が《神官長の特別な女》であることが周囲へ強調されていく。
護衛をつければ、神官たちが反発した。
宴席から外せば、貴族たちは礼儀を知らないから隠されたのだと囁いた。
キルス自身の部屋の隣へ移せば、今度は神官長を籠絡し、神殿を私物化した女と呼ばれた。
何をしても、悪意は新しい理由を見つけた。
「私が神官長でなければ」
ある夜、キルスが言った。
「君は、こんな目に遭わなかった」
ローゼンは首を横へ振る。
「でも、神官長でなかったら、わたしたちは出会っていなかったかもしれません」
「そんなことは――」
「分かりませんよ」
彼女は笑った。
「違うキルスさんなら、あの日、市場へ出なかったかもしれないでしょう?」
「それでも」
「わたしは」
ローゼンはキルスの手へ触れた。
「あなたと出会ったことを、間違いだったとは思いたくありません」
キルスも、その手を握り返した。
その瞬間、現在のローゼンが〈混沌〉の中で小さく息を呑んだ。
「覚えている?」
キースが尋ねる。
「はい」
「言葉は?」
「……違います」
「またか」
「キース様には?」
「『出会ったことを、間違いだったとは思いたくない』」
ローゼンは目を伏せた。
「わたくしには、『苦しいことまで含めて、あなたを選んだことを後悔したくない』と」
似ている。
それでも、違う。
ただ、どちらの人間ローゼンも、自分の意思でキルスを愛していた。
その核心だけは一致している。
「重要なのは」
キースは言った。
「言葉が違っても、彼女が嫌々ここにいたわけではないことだ」
「はい」
ローゼンは答えた。
「でも、それで周囲が彼女へしたことまで許されるわけでもございません」
「ああ」
愛していた。
だから、苦しんでいいわけではない。
自分で選んだ。
だから、殺されてもいいわけではない。
その先にある記憶を、二人ともすでに感じ取っていた。
*
その日の夕食には、何の異常もなかった。
少なくとも、見た目には。
温かい肉の煮込み。
薄いパン。
季節の野菜。
果実酒。
二人だけの食卓。
最近では、神官たちとの会食を減らしていた。ローゼンへ向けられる視線を、キルスが嫌ったからだ。
「また逃げていますね」
ローゼンが言う。
「何から」
「神官長のお仕事から」
「今日は全部終えた」
「お食事会があります」
「それは仕事ではない」
「皆様はお待ちですよ」
「待たせればいい」
「悪い神官長様ですね」
「知っている」
ローゼンが笑った。
キースは、この記憶の結末を知りながら見ていた。
だから、どうしても止めたかった。
「食べるな」
声にする。
当然、過去には届かない。
ローゼンが匙を取る。
「やめろ」
煮込みを口へ運ぶ。
「ローゼン!」
何も変わらない。
二人はそのまま、しばらく普通に話を続けた。
それが、かえって恐ろしかった。
いつ毒が入ったのか。
誰が入れたのか。
料理なのか。
酒なのか。
水なのか。
何も分からない。
「キース様」
今のローゼンが近くで言った。
「わたくしにも止められません」
「分かってる」
分かっているのに、身体が過去へ手を伸ばそうとする。
やがて、人間ローゼンが言葉を止めた。
「……どうした?」
キルスが尋ねる。
彼女は喉へ手を当てた。
「少し……」
咳を一つ。
「むせた、だけ……」
もう一度、咳き込む。
手から食器が滑り、床へ落ちた。
「ローゼン?」
立ち上がろうとした彼女の身体が揺れ、椅子が倒れる。
「ローゼン!」
キルスが抱き止めた。
ローゼンの身体が震えている。
息を吸おうとしても、うまく肺へ入らない。
「何だ……!」
キルスは魔導を使った。
治癒。
解毒。
身体の状態を探る。
それでも、何もできない。
彼は治癒師ではない。
どれほど強大な魔導力を持っていても、知らないことはできない。
「誰か!」
キルスが叫ぶ。
「治癒師を呼べ!」
足音が響く。
神官たち。
侍従。
人々が部屋へ集まってくる。
「どけ!」
キルスが怒鳴った。
「毒だ! 解毒を――」
「神官長、何を召し上がられました!」
「私は何でもいい! ローゼンを見ろ!」
人間ローゼンの手が、キルスの衣を掴んだ。
「キル……ス……」
「喋るな」
「ごめん……なさい」
「何を謝っている!」
「また……困らせ……」
「黙れ!」
キルスの声が壊れていく。
「君は何も悪くない!」
彼女の指先が、キルスの頬へ触れた。
弱い。
冷たい。
「よかった……」
「何が」
「会えて……」
「やめろ」
キルスは何度も首を横へ振った。
「そんな言い方をするな」
毒が身体を壊していく。
呼吸が浅くなる。
「ローゼン」
「……はい」
「ここにいろ」
それは命令だった。
「聞こえているな。私を見ろ」
世界一の魔導力も。
神官長の権威も。
神殿の宝も。
何一つ役に立たない。
「ローゼン!」
彼女の手が頬から落ちた。
身体から力が抜ける。
キルスは、しばらく何が起きたのか理解できなかった。
治癒師が何かを言っている。
脈がどうした。
呼吸がどうした。
もう、耳へ入らない。
「ローゼン?」
呼ぶ。
返事はない。
「ローゼン」
もう一度。
何もない。
「……嘘だ」
キースはその言葉を、自分自身の胸の中でも聞いた。
マーカスが崖から落ちたとき、自分も同じものを感じた。
まだ助けられる。
死んだと決めるな。
何かできる。
何か。
何かあるはずだ。
けれど、シビウは言った。
死んだ人間は帰ってこない。
キルスには、その言葉を言ってくれる者がいなかった。
*
景色が、また二つへ割れた。
キースの見ている記憶では、窓の外に細い月が浮かんでいる。あの告白の夜と似た、刃のような月だった。
現在のローゼンが、震える声で言う。
「違います」
キースは、もう驚かなかった。
「君には?」
「満月です」
毒殺された夜。
同じ部屋。
同じ食卓。
同じ死。
それなのに、空にある月だけが違う。
「会話は?」
キースは尋ねた。
聞くのが怖かった。
「人間のわたくしは……」
ローゼンは目を閉じる。
「最後に、『あなたと出会えて、幸せでした』と」
キースは首を横へ振った。
「私の方では違う」
「何と?」
「『会えてよかった』」
それだけだった。
幸せだった、という言葉はない。
それでも、キルスへ触れる指も、表情も、瞳に残った感情も、同じものに見えた。
「どっちが本当だ」
キースが呟く。
〈混沌〉は答えない。
「もしかすると」
ローゼンが言う。
「どちらも、本当だったのでしょうか」
「また?」
「分かりません」
三つのアムドア。
精霊戦争の二つの結末。
《王》の矛盾する記憶。
ここでもまた、同じように過去が揺れている。
「でも」
ローゼンは続けた。
「どちらの人間も、キルス様を愛しています」
「ああ」
「どちらのキルス様も、あの方を愛している」
「ああ」
そこだけは揺れない。
ただ、愛していたからこそ。
この次にキルスが何をするのか。
キースは知らない。
まだ知らないはずなのに、胸の奥では、すでにその先を恐れていた。
*
過去のキルスは、死んだローゼンを抱いたまま動かなかった。
周囲の神官たちが、彼女の身体を運ぼうと近づく。
「触るな」
「神官長」
「触るな!」
魔力が爆発した。
部屋の窓が一斉に割れ、飛び散った硝子とともに人々が吹き飛ばされる。
「キルス様!」
「医師を――」
「死者の間へお運びしなければ――」
「死者?」
キルスが顔を上げた。
目が変わっていた。
「誰が死んだと言った」
誰も答えられない。
「ローゼンは死んでいない」
嘘だ。
キースには分かる。
キルスにも、本当は分かっている。
だからこそ、否定している。
「神官長、どうか――」
「黙れ」
キルスはローゼンの身体を抱き上げた。
軽い。
あまりにも軽い。
「キース様」
現在のローゼンが隣で言った。
「この先を……」
「見たくない?」
しばらく返事はなかった。
「怖いです」
「ああ」
「でも」
ローゼンは、過去の自分を見た。
「見ます」
キースも頷いた。
「私もだ」
キルスが神殿の廊下を歩き始める。
死んだローゼンを抱いたまま。
その向かう先を、キースはなぜか知っていた。
神殿地下。
宝物庫。
禁じられた魔導書が眠る場所。
まだ何をするのか見ていないというのに、キースの胸へ強い嫌悪が込み上げた。
「やめろ」
思わず声が漏れる。
「キルス。それ以上、行くな」
過去の男には届かない。
白い神官服の裾に沿って、ローゼンの腕が力なく揺れている。
キルスは、その身体を抱いたまま階段を降りていく。
月の光が一段ごとに遠ざかり、やがて完全に届かなくなった。
そして〈混沌〉の中で、キースは初めて、自分とよく似た男へ、はっきりとした怒りを抱いた。




