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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第五部 私はキルスではない
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第二十八章 人間ローゼン

 キースの名を呼ぶ声と、過去の女がキルスの名を呼ぶ声が、同じ場所で重なった。


 〈混沌〉の内側には距離がない。そう理解したつもりでいても、キースには今のローゼンがどこにいるのか分からなかった。白い髪と深紅の瞳が一瞬だけ闇の中へ浮かんだかと思えば、その姿は知らない町の雑踏へ溶け、いつの間にか人間の女の横顔へ変わっている。


 女の名も、ローゼンだった。


 ただし、今のローゼンではない。白い髪ではなく、精霊特有の気配もなく、風や花と語り合うこともできない。少し日に焼けた頬と働き慣れた手を持つ、ごく普通の人間の娘だった。


 それでもキースは、彼女を見た瞬間から知っていた。


 ローゼンだ。


 なぜそう思うのかを問うよりも早く、キルスの記憶が流れ込んできた。


          *


 キルスにとって、酒場は本の中にしか存在しない場所だった。


 昼間から人々が酒を飲み、大声で笑い、見知らぬ者同士が肩を叩き合っている。神殿では誰か一人が少し声を張れば、それだけで周囲の神官たちが振り返る。ところがここでは、三人が同時に怒鳴り、別の卓では五人が歌っているというのに、誰一人気に留めていない。


 あまりの騒がしさに、キルスは入口で足を止めた。


「いつも、このような場所なのか?」


 隣にいた娘が笑う。


「今日は少し賑やかですね。でも、酒場なんて大体こんなものですよ」


 ローゼン。


 少し前、街の市場で出会った娘だった。


 神殿を抜け出したキルスは、外套の頭巾を深く被り、一人でメミスの街を歩いていた。外へ出た経験がないわけではない。神官長として祭礼や視察へ赴くことはあったが、常に護衛と神官が付き従い、歩く道も、会う相手も、口にする言葉さえある程度は先に決められていた。


 だから、人々が自分を神官長だと知らない状態で街を歩くのは、これが初めてだった。


 市場では立ち止まりすぎて商人に邪魔だと怒鳴られ、果物一つの値段も知らずに金貨を差し出して呆れられた。そのとき、横から笑いながら助けてくれたのがローゼンだった。


「そんな金貨を出したら、お店ごと買えてしまいますよ」


 キルスが見ている記憶の中で、彼女はそう言った。


「そうなのか。金は難しいな」


 その返事に、ローゼンが吹き出す。


「お金が難しいという方、初めて見ました」


「私も今日初めて使った」


「……本当に、どちらのお坊ちゃまなんですか?」


 彼女は冗談のつもりだったらしい。


 キルスは答えず、代わりに名を尋ねた。


「ローゼンです」


「ローゼンか。いい名だな」


 その言葉を口にしたとき、キルスは初めて、自分の外側にいる誰かをもっと知りたいと思った。


 記憶が、そこで不意に揺れた。


「違います」


 今のローゼンの声が聞こえた。


 キースは過去の景色の中で振り返ろうとする。


「ローゼン?」


「わたくしにも見えております。でも……少し違います」


「何が?」


「今のところでございます」


 過去の景色が、ゆっくりと二重になった。


 一方では、市場の前でキルスが言っている。


 ――ローゼンか。いい名だな。


 だが、もう一方。


 現在のローゼンが見ている記憶では、同じ場所に同じ二人が立ち、同じ瞬間に、キルスは僅かに笑って別の言葉を口にしていた。


 ――薔薇の名か。君によく似合う。


 キースは息を呑んだ。


「同じ会話じゃない」


「はい」


「どちらかが聞き違えている?」


「分かりません」


 人間ローゼンは、どちらの記憶でも同じように頬を赤らめていた。場面そのものは変わらない。二人の距離も、彼女の表情も、そこへ至る流れも同じで、違うのは言葉だけだった。


「先を見よう」


 キースは言った。


「はい」


 二つの過去は、再び重なり合って一つになった。


          *


 ローゼンの父が営む酒場には、魔導士の客がいた。


 ザッハークという男だった。


 酒に酔い、周囲へ威張り散らしながら女給たちを呼びつけている。ローゼンは彼の姿を見つけた瞬間、ほんの僅かに足を止めた。


「知り合いか?」


「お客様です」


「嫌いなのか」


「キルスさん」


「顔に書いてある」


 ローゼンは困ったように笑った。


「魔導士様ですから」


 答えになっていない。


 キルスはまだ、それが答えとして成立する社会をよく理解していなかった。


 自分も魔導士だ。けれど彼にとって、魔導士であることは、生まれつき身体に備わった能力でしかなかった。強いイースを持って生まれたため、神殿から神官長になるための教育を受け、それを当然のものとして育ってきた。


 外の世界では違う。


 魔導士であるというだけで、人は席を譲る。店主は頭を下げ、平民は多少の無礼を受けても逆らわない。


 キルスがその事実を知識として理解していることと、目の前で実際に見ることとのあいだには、想像以上に大きな隔たりがあった。


 ザッハークがローゼンを呼んだ。


 彼女は嫌そうな顔を隠し、客席へ向かう。しばらくすると男の腕がローゼンの腰へ回り、彼女が身体をずらして逃れようとする。それでも手は離れず、さらに指が伸びた。


「おやめください」


 ローゼンは、小さな声で言った。


「固いこと言うなよ。酒場の娘だろ?」


「仕事がありますので」


「父親に言ってやるよ。俺の相手してたってな」


 ローゼンの顔が強張った。


 キルスは立ち上がった。


「やめろ」


 酒場の喧騒が、少しだけ静まった。


 ザッハークが振り返る。


「何だ、坊主」


「彼女が嫌がっている」


「だから何だよ」


「手を離せ」


「キルスさん、いいんです」


 ローゼンが慌てて口を挟んだ。


「相手は魔導士様ですから」


「それが何だ」


「あなたには関係ありません!」


 その声は、キルスを拒んでいるのではなかった。


 彼を守ろうとしている。


 それが、余計に腹立たしかった。


 彼女が嫌なことをされているのに、なぜ立場の低い彼女の方が、誰かを守らなければならないのか。


「魔導士なら、嫌がる人間へ何をしてもいいのか」


「そうは言ってねえだろ」


「なら離せ」


「ガキが――」


 ザッハークが立ち上がり、キルスへ手を伸ばした。


 その指が届くより早く、透明な魔導壁が二人の間へ生まれる。男の身体が真正面から壁へぶつかり、鈍い音を立てた。


「ぐっ……!」


 鼻を押さえたザッハークが、目を見開く。


「お前、魔導士か」


「そうだ」


 キルスは頭巾を取った。


 顔を見た瞬間、ザッハークから血の気が引いていく。


「キ……」


 声にならない。


 神官長。


 月神殿において、並の魔導士が逆らえる相手ではない。


 さっきまでローゼンへ触れていた男は、何も言わず酒場から飛び出していった。残された人々の視線が、一斉にキルスへ集まる。


 そこでようやく、彼自身も何をしてしまったのかに気づいた。


「まずい」


「え?」


「帰る」


「ちょっと、キルスさん!」


 金貨を一枚カウンターへ置き、キルスは逃げるように酒場を出た。


 その背中を、ローゼンが追ってくる。


 しばらく歩いたところで、背後から短い悲鳴と、何かが地面へ転がる音がした。


 振り返ると、ローゼンが道へ転んでいる。


 キルスは引き返し、手を差し出した。


「大丈夫か?」


 ローゼンはその手を取って立ち上がり、膝についた土を払った。


「ありがとうございます。昔から、こういうところでよく転ぶんです」


「なぜ追ってきた」


「これを」


 開いた掌には、金貨があった。


「酒代なら置いた」


「多すぎます。こんなの受け取れません」


「どのくらい多い?」


「お父さんが、しばらくお店を休んでも困らないくらいです」


 キルスは真剣に考えた。


「酒一杯とは、それほど安いのか」


「そちらに驚くんですか?」


 ローゼンが笑う。


 キルスも少し遅れて笑った。


 誰かと、何の役割もなく笑う。


 それが、彼には初めてのことだった。


          *


 恋は、一日で完成したわけではなかった。


 それからキルスは、何度も神殿を抜け出した。最初は酒場へ通い、次は市場へ行き、やがてローゼンの仕事が終わる時刻を覚え、二人で街を歩くようになった。


 ローゼンは、キルスの知らないものを知っていた。


 パンが焼き上がる時間。


 雨の日には野菜が安くなること。


 店先で値切る方法。


 橋の下で冬を越す者たち。


 誰が妻を亡くし、誰の子どもが病気で、どの家が今月の税を払えずに困っているか。


 一方、キルスはローゼンの知らないものを知っていた。星の運行、古代魔導文字、月神殿の禁書庫に残る歴史、神官たちだけが知る国政。


 互いに知らないものが違うからこそ、二人の話題は尽きなかった。


 ただ、その記憶の中に一度だけ、キースにも説明できない出来事が混じった。


 市場の外れにある古物商で、ローゼンが一枚の石片を手に取ったときのことだった。


「これは何でしょう」


 掌ほどの大きさで、表面には崩れかけた術式らしい線が刻まれている。


 キルスは石片を受け取った。


「古い魔導文字だ」


「読めるのですか?」


「いや。この系統は初めて見る」


 そう答えた。


 はずだった。


 ところが次の瞬間、キルスの指が石片の中央に刻まれた一つの記号をなぞった。


「これは閉じるための印ではない」


 言葉が、考えるより先に出た。


「境界を固定するためのものだ」


 ローゼンが目を瞬く。


「お分かりになるのではありませんか」


「……いや」


 キルス自身も、困惑したように石片を見つめていた。


「分からない」


「でも、今」


「ああ」


 もう一度、記号を見る。


 知らない。


 見た記憶もない。


 書物で学んだ覚えもない。


 それなのに、何に使われるものかだけは、最初から知っていたような感覚が残っている。


「変だな」


 キルスは呟いた。


「初めて見るはずなんだが」


「昔、お勉強なさったことを忘れているのでは?」


「そうかもしれない」


 その時は、それ以上気にしなかった。


 石片も買わなかった。


 けれど、〈混沌〉の内側からその記憶を見ているキースだけが、そこへ僅かな違和感を覚えた。


 キルスは強かった。


 優れた魔導士だった。


 だから古い術式を直感的に読み解いたとしても、不思議ではないのかもしれない。


 それでも。


 ――初めて見るはずなんだが。


 自分自身でそう口にしたキルスの声だけが、妙に耳へ残った。


 記憶は何事もなかったように先へ進んでいく。


「あなたは、本当に神官長なのですね」


 正体を知ったあとも、ローゼンはしばらく信じられないような顔をしていた。


「そうだ」


「もっとこう……何でもご存じなのかと思っていました」


「何でもは知らない」


「卵一つの値段も?」


「それは最近覚えた」


「では、成長なさいましたね」


「馬鹿にしているな?」


「少しだけ」


 その頃には、ローゼンはキルスの前で身分を理由に言葉を飲み込まなくなっていた。


 キルスも、それが嬉しかった。


 ある夜、二人は神殿から遠く離れた丘へ並んで座っていた。


 眼下にはメミスの街灯が散らばり、その向こうに月神殿の白い塔が浮かんでいる。キースが見ている空には、刃のように細い三日月がかかっていた。


「戻らなくていいのですか?」


 ローゼンが尋ねる。


「戻りたくない」


「神官長様が、そのようなことをおっしゃってよいのでしょうか」


「神官長だから言う」


 その言葉が、キースには妙に馴染んだ。


 キルスは神殿を嫌っていた。


 ムーミストを憎んでいるわけではない。


 巫女となった妹を嫌っているのでもない。


 むしろ愛している。


 だからこそ、制度を壊せない。


「妹がいる」


 キルスは言った。


「双子だ」


「巫女様ですね」


「ああ」


「お会いしたことはありませんが、街ではとても美しい方だと」


「美しいかどうかは知らない。私と顔は似ている」


「では、美しいのですね」


「どういう意味だ?」


 ローゼンが笑った。


 キルスは少し困った顔をしてから、再び街へ目を向けた。


「私は、あの子を守るために神官長になった」


「ご自分で?」


「違う」


 夜の空気が、少し冷たく感じられた。


「生まれた時から決まっていた。妹は巫女。私は神官長。そういう双子として育てられた」


「……嫌だったのですか」


「嫌だと思っていいと知ったのが、最近だ」


 キルスは街を見下ろしたまま続けた。


「神殿の中では、役割を与えられることを祝福と呼ぶ。魔導士として生まれたことも、神官長であることも、月神の血を継ぐことも、全部、光栄なことだと教えられる」


 ローゼンは黙って聞いている。


「違うのでしょうか」


「光栄ではあるのかもしれない」


 キルスは答えた。


「だが、選べなかった」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがてローゼンが、少し考えるようにして口を開く。


「では、わたしといる時くらいは、神官長でなくてもよいのではありませんか」


 キルスが彼女を見る。


「何になればいい?」


「キルスさんで」


 細い月の下で、それだけを言われた。


 キルスは、その瞬間に救われたと思った。


「ローゼン」


「はい」


「私は君が好きだ」


 飾る言葉を知らなかったわけではない。


 恋愛詩は読んだことがある。


 英雄譚に記された愛の告白も知っている。


 それなのに、自分の口から出た言葉は驚くほど簡単だった。


 ローゼンは目を見開き、少しだけ泣きそうな顔をしてから答えた。


「わたしもです」


          *


「……違う」


 今のローゼンの声が聞こえた。


 キースは過去から引き戻される。


「また?」


「はい」


 〈混沌〉の中で、二人の姿がぼんやりと重なっている。キースの身体には、まだ丘の冷たい草の感触が残っていた。


「何が違う?」


「月でございます」


「月?」


「あの夜です」


 ローゼンは空を確かめるように顔を上げた。


「わたくしが見ている記憶では、満月でございます」


 キースの背筋へ冷たいものが走った。


「そんなはずはない」


「ですが」


「私は三日月を見た」


「わたくしには、丸い月が見えております」


 二人の間に、同じ丘が浮かぶ。


 同じ街。


 同じ神殿。


 同じキルス。


 同じ人間ローゼン。


 それなのに、空だけが二つある。


 一方には細い三日月。


 もう一方には満月。


「別の日?」


 キースが言う。


「同じ会話でございます」


「告白した日が別だった?」


「キース様の記憶では、何と?」


「『私は君が好きだ』」


 ローゼンが目を見開いた。


「わたくしには……」


 少し躊躇ってから続ける。


「『君といる時だけ、私は自分でいられる』と」


 キースは黙った。


「そのあと、人間のわたくしが、『それなら、ずっと一緒にいてください』と答えています」


「私の方では、『わたしもです』だ」


 意味は似ている。


 関係も。


 結果も。


 けれど、同じではない。


「どちらかが……」


 キースは言いかけた。


 記憶違い。


 そう続けるつもりだった。


 だが、ヴァギュイザール、キロス、三つの創世歌、そして三つのアムドアが脳裏をよぎる。


 これまで何度も、矛盾するものを見てきた。


 どちらか一方を安易に捨ててはいけない。


「……今は、両方覚えておこう」


「はい」


 今の二人にできるのは、それだけだった。


          *


 やがて、人間ローゼンは神殿へ入った。


 正式な神官になったわけではない。


 キルスが、自分の伴侶として彼女を迎えたいと神官団へ申し出たのだ。


 その瞬間から、二人の恋は二人だけのものではなくなった。


「認められません」


 老神官が言った。


 円卓には十三人。


 普段であればキルス自身が上座に座り、議論を導く立場にある。


 けれど、その隣にローゼンはいない。


 彼女は、この議論への参加すら許されなかった。


「理由は?」


「神官長の伴侶となる者には、相応の血統が求められます」


「どの法に書いてある」


 沈黙が落ちる。


「慣例です」


「法ではない」


「しかし、神官長の血統は――」


「私の子を、次の神官長にする決まりはない」


「可能性の問題です」


「なら、子を持たなければいい」


 神官たちがざわめいた。


「キルス神官長!」


「話を逸らすな。私が誰を愛するかに、君たちの許可が必要だという法文を持ってこい」


 誰も持ってこられなかった。


 制度上、禁止されてはいない。


 だが、許されていることと、受け入れられることは違う。


 ローゼンは神殿へ住むことを許された。


 そして、それが迫害の始まりになった。


          *


 最初は、視線だけだった。


 神官の妻たち。


 貴族の娘たち。


 神殿へ出入りする魔導士たち。


 皆が、酒場の娘を見る。


 神官長に取り入った女。


 身分を越えようとした女。


 魔導を使えない女。


 月神に仕える神殿へ、世俗の匂いを持ち込んだ女。


 やがて視線は言葉になった。


「お召し物だけは立派になりましたね」


「礼儀は、衣服と一緒には身につきませんもの」


「神官長様もお若いから」


「しばらくすれば飽きられるでしょう」


 聞こえるように言う。


 ローゼンは、それでもキルスの前では笑っていた。


「何かあったか」


「何もございません」


「嘘だ」


「どうして?」


「笑い方が違う」


 ローゼンは困ったように微笑んだ。


「そこまで分かるようになってしまったのですね」


「言え」


「本当に、大したことではありません」


「大したことかどうかは、君が決める」


 しばらく黙ったあと、ローゼンは静かに言った。


「慣れております」


 キルスが顔をしかめる。


「酒場にいた頃も、魔導士様や貴族様に失礼がないようにするのは普通でした。あの頃より、少し言われることが増えただけです」


「それを慣れていると言うな」


「でも」


「嫌なことを嫌だと言えないことに、慣れる必要などない」


 キースは、その言葉に胸を刺された。


 シビウ。


 名を持たない巫女。


 ローゼン。


 違う人生の中で、何度も同じものを見る。


 キルスは制度を憎んでいた。


 だからローゼンを守ろうとした。


 けれど、守ろうとすればするほど、彼女が《神官長の特別な女》であることが周囲へ強調されていく。


 護衛をつければ、神官たちが反発した。


 宴席から外せば、貴族たちは礼儀を知らないから隠されたのだと囁いた。


 キルス自身の部屋の隣へ移せば、今度は神官長を籠絡し、神殿を私物化した女と呼ばれた。


 何をしても、悪意は新しい理由を見つけた。


「私が神官長でなければ」


 ある夜、キルスが言った。


「君は、こんな目に遭わなかった」


 ローゼンは首を横へ振る。


「でも、神官長でなかったら、わたしたちは出会っていなかったかもしれません」


「そんなことは――」


「分かりませんよ」


 彼女は笑った。


「違うキルスさんなら、あの日、市場へ出なかったかもしれないでしょう?」


「それでも」


「わたしは」


 ローゼンはキルスの手へ触れた。


「あなたと出会ったことを、間違いだったとは思いたくありません」


 キルスも、その手を握り返した。


 その瞬間、現在のローゼンが〈混沌〉の中で小さく息を呑んだ。


「覚えている?」


 キースが尋ねる。


「はい」


「言葉は?」


「……違います」


「またか」


「キース様には?」


「『出会ったことを、間違いだったとは思いたくない』」


 ローゼンは目を伏せた。


「わたくしには、『苦しいことまで含めて、あなたを選んだことを後悔したくない』と」


 似ている。


 それでも、違う。


 ただ、どちらの人間ローゼンも、自分の意思でキルスを愛していた。


 その核心だけは一致している。


「重要なのは」


 キースは言った。


「言葉が違っても、彼女が嫌々ここにいたわけではないことだ」


「はい」


 ローゼンは答えた。


「でも、それで周囲が彼女へしたことまで許されるわけでもございません」


「ああ」


 愛していた。


 だから、苦しんでいいわけではない。


 自分で選んだ。


 だから、殺されてもいいわけではない。


 その先にある記憶を、二人ともすでに感じ取っていた。


          *


 その日の夕食には、何の異常もなかった。


 少なくとも、見た目には。


 温かい肉の煮込み。


 薄いパン。


 季節の野菜。


 果実酒。


 二人だけの食卓。


 最近では、神官たちとの会食を減らしていた。ローゼンへ向けられる視線を、キルスが嫌ったからだ。


「また逃げていますね」


 ローゼンが言う。


「何から」


「神官長のお仕事から」


「今日は全部終えた」


「お食事会があります」


「それは仕事ではない」


「皆様はお待ちですよ」


「待たせればいい」


「悪い神官長様ですね」


「知っている」


 ローゼンが笑った。


 キースは、この記憶の結末を知りながら見ていた。


 だから、どうしても止めたかった。


「食べるな」


 声にする。


 当然、過去には届かない。


 ローゼンが匙を取る。


「やめろ」


 煮込みを口へ運ぶ。


「ローゼン!」


 何も変わらない。


 二人はそのまま、しばらく普通に話を続けた。


 それが、かえって恐ろしかった。


 いつ毒が入ったのか。


 誰が入れたのか。


 料理なのか。


 酒なのか。


 水なのか。


 何も分からない。


「キース様」


 今のローゼンが近くで言った。


「わたくしにも止められません」


「分かってる」


 分かっているのに、身体が過去へ手を伸ばそうとする。


 やがて、人間ローゼンが言葉を止めた。


「……どうした?」


 キルスが尋ねる。


 彼女は喉へ手を当てた。


「少し……」


 咳を一つ。


「むせた、だけ……」


 もう一度、咳き込む。


 手から食器が滑り、床へ落ちた。


「ローゼン?」


 立ち上がろうとした彼女の身体が揺れ、椅子が倒れる。


「ローゼン!」


 キルスが抱き止めた。


 ローゼンの身体が震えている。


 息を吸おうとしても、うまく肺へ入らない。


「何だ……!」


 キルスは魔導を使った。


 治癒。


 解毒。


 身体の状態を探る。


 それでも、何もできない。


 彼は治癒師ではない。


 どれほど強大な魔導力を持っていても、知らないことはできない。


「誰か!」


 キルスが叫ぶ。


「治癒師を呼べ!」


 足音が響く。


 神官たち。


 侍従。


 人々が部屋へ集まってくる。


「どけ!」


 キルスが怒鳴った。


「毒だ! 解毒を――」


「神官長、何を召し上がられました!」


「私は何でもいい! ローゼンを見ろ!」


 人間ローゼンの手が、キルスの衣を掴んだ。


「キル……ス……」


「喋るな」


「ごめん……なさい」


「何を謝っている!」


「また……困らせ……」


「黙れ!」


 キルスの声が壊れていく。


「君は何も悪くない!」


 彼女の指先が、キルスの頬へ触れた。


 弱い。


 冷たい。


「よかった……」


「何が」


「会えて……」


「やめろ」


 キルスは何度も首を横へ振った。


「そんな言い方をするな」


 毒が身体を壊していく。


 呼吸が浅くなる。


「ローゼン」


「……はい」


「ここにいろ」


 それは命令だった。


「聞こえているな。私を見ろ」


 世界一の魔導力も。


 神官長の権威も。


 神殿の宝も。


 何一つ役に立たない。


「ローゼン!」


 彼女の手が頬から落ちた。


 身体から力が抜ける。


 キルスは、しばらく何が起きたのか理解できなかった。


 治癒師が何かを言っている。


 脈がどうした。


 呼吸がどうした。


 もう、耳へ入らない。


「ローゼン?」


 呼ぶ。


 返事はない。


「ローゼン」


 もう一度。


 何もない。


「……嘘だ」


 キースはその言葉を、自分自身の胸の中でも聞いた。


 マーカスが崖から落ちたとき、自分も同じものを感じた。


 まだ助けられる。


 死んだと決めるな。


 何かできる。


 何か。


 何かあるはずだ。


 けれど、シビウは言った。


 死んだ人間は帰ってこない。


 キルスには、その言葉を言ってくれる者がいなかった。


          *


 景色が、また二つへ割れた。


 キースの見ている記憶では、窓の外に細い月が浮かんでいる。あの告白の夜と似た、刃のような月だった。


 現在のローゼンが、震える声で言う。


「違います」


 キースは、もう驚かなかった。


「君には?」


「満月です」


 毒殺された夜。


 同じ部屋。


 同じ食卓。


 同じ死。


 それなのに、空にある月だけが違う。


「会話は?」


 キースは尋ねた。


 聞くのが怖かった。


「人間のわたくしは……」


 ローゼンは目を閉じる。


「最後に、『あなたと出会えて、幸せでした』と」


 キースは首を横へ振った。


「私の方では違う」


「何と?」


「『会えてよかった』」


 それだけだった。


 幸せだった、という言葉はない。


 それでも、キルスへ触れる指も、表情も、瞳に残った感情も、同じものに見えた。


「どっちが本当だ」


 キースが呟く。


 〈混沌〉は答えない。


「もしかすると」


 ローゼンが言う。


「どちらも、本当だったのでしょうか」


「また?」


「分かりません」


 三つのアムドア。


 精霊戦争の二つの結末。


 《王》の矛盾する記憶。


 ここでもまた、同じように過去が揺れている。


「でも」


 ローゼンは続けた。


「どちらの人間も、キルス様を愛しています」


「ああ」


「どちらのキルス様も、あの方を愛している」


「ああ」


 そこだけは揺れない。


 ただ、愛していたからこそ。


 この次にキルスが何をするのか。


 キースは知らない。


 まだ知らないはずなのに、胸の奥では、すでにその先を恐れていた。


          *


 過去のキルスは、死んだローゼンを抱いたまま動かなかった。


 周囲の神官たちが、彼女の身体を運ぼうと近づく。


「触るな」


「神官長」


「触るな!」


 魔力が爆発した。


 部屋の窓が一斉に割れ、飛び散った硝子とともに人々が吹き飛ばされる。


「キルス様!」


「医師を――」


「死者の間へお運びしなければ――」


「死者?」


 キルスが顔を上げた。


 目が変わっていた。


「誰が死んだと言った」


 誰も答えられない。


「ローゼンは死んでいない」


 嘘だ。


 キースには分かる。


 キルスにも、本当は分かっている。


 だからこそ、否定している。


「神官長、どうか――」


「黙れ」


 キルスはローゼンの身体を抱き上げた。


 軽い。


 あまりにも軽い。


「キース様」


 現在のローゼンが隣で言った。


「この先を……」


「見たくない?」


 しばらく返事はなかった。


「怖いです」


「ああ」


「でも」


 ローゼンは、過去の自分を見た。


「見ます」


 キースも頷いた。


「私もだ」


 キルスが神殿の廊下を歩き始める。


 死んだローゼンを抱いたまま。


 その向かう先を、キースはなぜか知っていた。


 神殿地下。


 宝物庫。


 禁じられた魔導書が眠る場所。


 まだ何をするのか見ていないというのに、キースの胸へ強い嫌悪が込み上げた。


「やめろ」


 思わず声が漏れる。


「キルス。それ以上、行くな」


 過去の男には届かない。


 白い神官服の裾に沿って、ローゼンの腕が力なく揺れている。


 キルスは、その身体を抱いたまま階段を降りていく。


 月の光が一段ごとに遠ざかり、やがて完全に届かなくなった。


 そして〈混沌〉の中で、キースは初めて、自分とよく似た男へ、はっきりとした怒りを抱いた。

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