第二十九章 心臓を喰う神官
月の光は、地下へ降りるごとに遠ざかっていった。
キルスは死んだローゼンを抱いたまま、神殿の螺旋階段を降りている。上階からはまだ人々の声が追ってきた。神官長、と呼ぶ声。お待ちください、と訴える声。誰かが治癒師を呼び、別の誰かが衛兵へ指示を飛ばしている。幾つもの足音が石壁へ反響しながら迫っていたが、キルスは一度も振り返らなかった。
腕の中のローゼンは軽かった。生きていた頃と身体そのものの重さが変わったはずはない。それでも、自ら身体を支える力を失った肉体は、キルスの知る彼女とはまるで別のものに感じられた。肩から落ちた腕が歩みに合わせて揺れ、長い髪が白い神官服の上を静かに滑っていく。
「やめろ」
〈混沌〉の中から、キースは過去の男へ呼びかけた。
声は届かない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「どこへ行くつもりだ」
答えは分かっている。
知らないはずなのに、知っている。
月神殿の地下。
歴代神官長だけが立ち入ることを許された宝物庫。そして、そのさらに奥には、神殿が公には存在を認めていない書物が収められている。
禁術。
名もない神から奪われた術。滅んだ魔導国から接収された術。術者と対象の境界そのものを曖昧にするため、人へ使うことを禁じられた術。
キルスは、その中の一冊を知っていた。
「キース様」
現在のローゼンの声が近くで響いた。
姿はまだ不鮮明だったが、彼女も同じ過去を見ているらしい。
「わたくしも、行き先が分かります」
「君も?」
「はい。けれど、どうして知っているのかは分かりません」
また、同じだった。
知らない場所なのに、記憶がある。
キースは死者を抱えて階段を降りる、自分によく似た男を睨みつけた。
「見届けよう」
ローゼンが小さく息を呑む。
「よろしいのでございますか」
「よくない」
キースは即答した。
「だが、ここで目を逸らしたら、私は自分に都合のいいところだけをキルスから受け取ることになる」
出会い。
恋。
迫害に抗った言葉。
ローゼンを守ろうとした意思。
そこまでなら、ひとつの美しい物語として語ることができる。
けれど、その先で彼が何をしたのかまで見なければ、キルスという男を知ったことにはならない。
ローゼンはしばらく黙ってから、「はい」と答えた。
二人は、死者を抱いて地下へ降りていく男の後を追った。
*
宝物庫の扉には、十三の封印が施されていた。
歴代神官たちの印。
月神の紋章。
開錠者の血統と魔力を同時に確かめる、古い術式。
本来なら、たとえ神官長であっても単独で開くことはできない。
キルスは片手でローゼンを抱え直すと、空いた手を重い扉へ押し当てた。
「開け」
月紋が淡く光った。
一つ目の封印が外れる。
続いて二つ目。
三つ目。
五つ目を越えたところで、術式が抵抗を始めた。残る封印は、神官会の承認を要求している。
それでもキルスは止まらなかった。
扉へ流し込む魔力を一気に増大させ、古い術式の構造へ力ずくで食い込ませる。封印は悲鳴にも似た高音を響かせ、幾つもの月紋が淡い銀から不吉な赤へと変色していった。
「キルス様!」
階段の向こうから神官が叫ぶ。
「おやめください! そこから先は――」
キルスが振り返った。
その瞳が、黒かった。
元の眼の色そのものが変わったというより、瞳の奥へ夜そのものが落ち込んだように見える。彼と目を合わせた神官たちは、見えない手で全身を掴まれたように、その場で動きを止めた。
誰一人、傷つけてはいない。
それでも、その行為は明らかな暴力だった。
自分より弱い者から、動く自由を奪っている。
「誰も入れるな」
キルスはそう命じ、最後の封印を力ずくで砕いた。
重い扉が開く。
奥から、長く閉ざされていた空気が流れ出した。金属と埃、それに乾ききった羊皮紙が混ざり合った匂いが、地下の冷たい空気へ滲んでいく。
宝物庫の内部には、歴代の神官たちが残した魔導具が整然と並んでいた。石棺に封じられた杖、使用者の名を奪うと伝えられる仮面、すでに祀る神の失われた祭具。その奥には幾つもの書架が並び、一冊ごとに封印布を巻かれた書物が収められている。
キルスはローゼンの身体を床へ寝かせた。
手つきだけは、どこまでも丁寧だった。
頭を打たないよう片手で支え、髪が身体の下へ挟まらないように整える。眠った恋人を寝台へ寝かせるような、その優しさが、かえってキースには耐えがたかった。
「そんな顔で触るな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ローゼンが彼を見る。
「キース様……」
「これからすることを知っているくせに」
過去のキルスには届かない。
彼は書架へ向かい、一冊ずつ封印を確かめていった。
「違う。これではない……これも」
焦りが指先から慎重さを奪っていく。
一冊が床へ落ちる。
続いて二冊目。
三冊目。
「どこだ」
呼吸が荒くなる。
「必ずある。読んだ。私は覚えている……!」
やがて最下段の奥から、一冊の本を引きずり出した。
表紙は黒ずんだ革。
題名はない。
開いた最初の頁には、赤い文字で警告が記されていた。
死者は死者である。
魂は器を失えば、術者の意志によって再び所有されるべきものではない。
キースは、その一文を読んだ。
キルスも、確かに読んだ。
だから、知らなかったのではない。
それでも彼は頁をめくった。
「……あった」
キルスの口元に笑みが浮かぶ。
喜び。
安堵。
あるいは狂気。
「ローゼン」
死んだ女を振り返る。
「大丈夫だ」
返事はない。
「君を消さない」
キースは拳を握りしめた。
「違う」
「キース様?」
「彼女が望んだことじゃない」
まだ禁術は始まっていない。それでも、すでに怒りが込み上げていた。
「キルスが望んでいるんだ」
*
その禁術は、死者を蘇らせるための術ではなかった。
書物の冒頭には、はっきりそう記されている。
失われた肉体を生へ戻すことはできない。
止まった時間を巻き戻すことも。
死に至ったという事実そのものを取り消すことも。
できるのは、魂を移すことだけだった。
本来なら肉体を離れ、どこかへ去っていくものを、術者自身の生命へ縫い止める。
その媒介として使うのが、死者の肉体の中心にあるもの。
心臓。
生きていた間、絶えず血を全身へ送り続けていた器官を、書物は《最後の器》と呼んでいた。
「読むな」
キースは言った。
もちろん、遅い。
キルスは頁をめくった。
そのときだった。
まだ次の記述へ目を落としていないのに、キルスの視線が不意に書物から外れた。
宝物庫の左奥。
いくつもの祭具が並ぶ棚の、最下段。
そこにある薄い硝子箱を、彼は見つめていた。
「……あれだ」
呟いた直後、自分自身で眉を寄せた。
「何が?」
〈混沌〉の中で、キースも思わず問い返した。
当然、過去の男には聞こえない。
それでもキルス自身も、自分がなぜそんな言葉を口にしたのか分かっていないようだった。
彼は一度、視線を本へ戻した。
次の行を読む。
術に用いる刃についての記述。
死者の《最後の器》を傷つけるため、特定の術式を刻んだ紫刃を用いること。
その保管場所。
月神殿宝物庫、左奥の最下段。
キルスの顔から、ほんの一瞬だけ感情が消えた。
「……なぜ」
もう一度、硝子箱を見る。
初めて読むはずだった。
この術を実際に使った経験などない。
紫刃がどこへ保管されているかも、少なくとも意識の上では知らなかったはずだ。
それなのに、文章を読むより先に、次に必要となるものを知っていた。
「前に……読んだのか?」
誰へともなく呟く。
答えはない。
記憶を探っても、同じ頁を読んだ覚えは浮かんでこない。
キースの胸へ、前に見た古い石片の記憶が蘇った。
初めて見る術式。
それなのに。
――これは閉じるための印ではない。
――境界を固定するためのものだ。
あのときも、キルスは自分がなぜ知っているのか分かっていなかった。
「……まただ」
キースが呟く。
「何がでございますか?」
現在のローゼンが尋ねる。
「キルスは、ときどき……」
キースは慎重に言葉を選んだ。
「知らないはずのことを、知っている」
「キース様にも?」
「いや」
少なくとも、今の自分にはない。
「理由は分からない」
それ以上、そこへ意味を与えることはできなかった。
過去のキルス自身も、数呼吸だけ硝子箱を見つめたあと、その疑問を捨てた。
今の彼にとっては、なぜ知っていたのかなど、ローゼンを失うことに比べればどうでもよかったのだろう。
書物へ視線を戻す。
最後まで読む。
そして、記された通りに立ち上がった。
薄い硝子箱を開く。
中に収められていた短剣は、刃そのものが淡い紫の光を帯びていた。儀礼用の装飾的な武器ではない。柄にも鍔にも宝石はなく、ただ肉を裂くための形だけを残したような刃だった。
キルスはそれを手に取り、ローゼンの傍らへ膝をついた。
「安心してくれ」
死者へ語りかける。
「必ず成功させる」
ローゼンは答えない。
「また一緒にいられる」
返事はない。
「今度こそ、誰にも君を傷つけさせない」
何も返らない。
キースの奥歯が軋んだ。
「返事をしていないだろう」
過去へ向かって叫ぶ。
「聞けよ。彼女は何も答えていない!」
キルスは短剣を両手で握った。
刃を高く掲げる。
その下に横たわっているのは、愛した女の死体だった。
キースは目を逸らさなかった。
ローゼンも。
次の瞬間、短剣が胸へ振り下ろされた。
鈍い音とともに、刃が衣服を裂き、その下にある肉へ深く沈み込んだ。
死者は悲鳴を上げない。
身体が、衝撃で僅かに揺れただけだった。
普通なら血が噴き出すほどの傷だったが、紫刃へ刻まれた術式が働いたのか、血液は傷口から外へ流れず、皮膚の下で黒い筋となって集まっていく。
キルスは刃を引き抜かなかった。
胸へ突き立てたまま、ゆっくり動かした。
肉が裂ける。
肋骨へ刃が触れ、硬い音が響く。
キルスは角度を変え、もう一度深く押し込んだ。紫色の光が強まり、骨と肉の境を無理やりこじ開けていく。
現在のローゼンが息を詰めた。
キースも吐き気を覚えた。
自分は見ているだけのはずなのに、手には確かな感触が残っていた。
肉を切る抵抗。
骨へ当たったときの震動。
濡れた刃が滑る感覚。
「……やめろ」
キースの声が震える。
それでもキルスは止まらない。
胸が開かれていく。
愛した女の身体を、自分の手で壊していく。
ようやく短剣を放り出すと、彼は裂けた胸へ素手を入れた。
「やめろ!」
キースは叫んだ。
指が肉の奥へ沈む。
死んでいる。
痛みはない。
そういう問題ではない。
身体はもう本人のものではないと、誰が決めた。
死者なら何をしても、本人は拒めない。
だからこそ。
「やめろ、キルス!」
手が、何かを掴んだ。
ゆっくりと引き抜く。
赤黒い塊。
ローゼンの心臓だった。
血を送る役目を失っても、形だけはまだ残っている。術式の紫光を浴び、その表面には異様な光沢が浮かんでいた。
キルスは心臓を見つめた。
泣いていた。
涙が頬を伝っている。
「これで」
それでも彼は笑った。
「これで、君は消えない」
その姿を見た瞬間。
キースは、ほんの一瞬だけ彼へ同情した。
分かってしまったからだ。
死を認められない。
ついさっきまで話していた人間が、もう何も返してくれない。
何でもする。
できることがあるのなら、禁じられていても。
自分の命を差し出してでも。
その考えへ至るほどの痛みを、キースも知っていた。
マーカスが崖から落ちたとき、自分も飛び降りようとした。
風の魔導で追えば助けられる。
まだ死んだと決めるな。
そう思った。
だからこそ、なおさら許せなかった。
「違う」
キースは言った。
「悲しいからって、何をしてもいいわけじゃない」
キルスが心臓へ口を寄せる。
「やめろ」
歯が肉へ沈んだ。
柔らかな組織が潰れ、噛み切られる。
口元が赤黒く汚れる。
咀嚼し。
飲み込む。
そしてもう一度、キルスは心臓へ食らいついた。
それは美しい儀式などではなかった。
聖なる奇跡でもない。
死んだ女の胸を裂き、その心臓へ歯を立て、肉として喰う。
神官長の白い衣へ血が滲み、唇から顎へ赤黒い筋が垂れていく。吐き気に身体を震わせながら、それでもキルスは止まらない。禁術の記述どおり、心臓を自分の内へ取り込むまで、一片ずつ噛み、呑み込んでいく。
キースは目を閉じたくなった。
それでも閉じなかった。
これも、キルスだ。
恋をした男。
身分差へ怒った男。
ローゼンへ「嫌なことを嫌だと言え」と言った男。
その同じ男が。
彼女が何も言えなくなった途端、その意思を確かめることなく、魂を自分へ縛ろうとしている。
最後の肉片が、キルスの喉を通った。
その瞬間、宝物庫の空気が変わった。
*
風が起きた。
地下深く。
閉ざされた宝物庫。
本来なら、風など入り込む余地のない場所だった。
書物の頁が一斉にめくれ、魔導具を覆っていた布が舞い上がる。キルスの身体から白い霧が立ち昇り、天井近くで大きな渦を巻き始めた。
キルスが胸を押さえる。
「う……!」
苦しそうに身体を折る。
自分自身の心臓。
その鼓動へ、もう一つの拍動が重なった。
一度。
二度。
キースにも聞こえた。
二つの鼓動。
やがて白い霧は、ゆっくりと人の輪郭を取った。
髪。
肩。
腕。
顔。
半透明の女が、キルスの前へ現れる。
「ローゼン……」
キルスは泣きながら笑った。
人間ローゼン。
毒に苦しんだ痕跡はない。
胸の傷もない。
生きていた頃と同じ顔をしている。
ただ、足元は薄く、身体全体が夜霧のように僅かに揺らいでいた。
女は、自分の手を見つめた。
「キルス様……」
声もローゼンだった。
キルスが立ち上がろうとして、身体を崩す。
「ローゼン!」
女が反射的に手を伸ばした。
触れない。
指先が、キルスの身体をすり抜ける。
ローゼンは驚き、もう一度自分の手を見た。
「わたくしは……?」
その問いが、古い記憶の奥からはっきりと聞こえた。
何を問おうとしていたのか。
自分は生きているのか。
死んでいるのか。
なぜここにいるのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
キルスは答えなかった。
正確には、その問いへ答える代わりに、別の言葉を返した。
「ずっと、一緒にいよう」
キースの中で、何かが切れた。
「違う!」
叫ぶ。
過去の景色が震えた。
「それは答えじゃない!」
キルスは半透明のローゼンへ手を伸ばす。実際には触れられない。それでも彼女を抱きしめるように両腕を閉じ、泣いていた。
「もう誰にも奪わせない」
「違う!」
「君は私の中にいる。これでもう――」
「彼女はお前のものじゃない!」
〈混沌〉が大きく揺れた。
現在のローゼンがキースを見る。
それでもキースは止まれなかった。
「死んだからといって、彼女の意思まで自分のものにしていいわけがない!」
声は過去へ届かない。
それでも、言う必要があった。
「愛していたなら、なおさらだ。なぜ聞かなかった。なぜ、彼女が何も答えられないことを、自分に都合のいい答えへ変えた!」
「キース様……」
ローゼンの声。
怒りは彼女へ向けたものではない。
過去のキルスへ。
そして、自分自身の内側にいるかもしれないキルスへ向けたものだった。
「死なせたくなかった。それは分かる。消えてほしくなかった。それも分かる。私だって……」
マーカス。
崖。
届かなかった手。
「私だって、死をなかったことにできるならと思った!」
それでも、シビウは言った。
死んだ人間は帰ってこない。
そのあと、もっと大切なことを教えた。
愛したままでいい。
死んだままでいい。
その人がいたことも、死んだことも、全部持って生きる。
「キルスは、それをしなかった」
キースは低く言った。
「ローゼンが死んだという事実より、自分が彼女を失うことに耐えられなかった」
それを愛ではなかったと言い切ることもできない。
彼は、確かにローゼンを愛していた。
だから狂った。
けれど、愛していたという事実は、何をしても許されるという免罪符にはならない。
*
「キース様」
現在のローゼンが、もう一度彼を呼んだ。
過去の景色はまだ続いている。
キルスと、魂となった人間ローゼン。
二人は互いを見つめている。
「わたくしは……」
ローゼンは言いにくそうに口を閉ざした。
「どうした?」
「分からないのでございます」
「何が?」
「人間だったローゼンが、嫌がっているように見えないのです」
キースも、そのことには気づいていた。
半透明のローゼンは混乱している。
自分が何なのか。
なぜここにいるのか。
何も理解していない。
それでも、泣いているキルスを見ると、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「泣かないでください」
「ローゼン」
「わたくしは、ここにおりますから」
キースは眉を寄せた。
「それは……」
「はい」
現在のローゼンが言う。
「彼女は、キルス様を愛していた」
否定できない。
禁術の前。
毒を盛られる前。
彼女は自分の意思でキルスを選んだ。
迫害を受けても。
苦しんでも。
出会いを間違いだったと思いたくないと。
あるいは、その苦しみまで含めて自分で選んだのだと。
記憶によって言葉は異なっていたが、核心は変わらなかった。
「だからといって」
キースは言う。
「今の行為が許されるわけじゃない」
「はい」
「彼女が生き返ったあとで、結果的にキルスを受け入れたとしても」
「はい」
「キルスは、それを知らずにやった」
そこが重要だった。
「彼女なら受け入れてくれると思ったかもしれない。ずっと一緒にいたいと言っていた。自分を愛していた。だから魂を自分へ宿しても、きっと望んでくれると考えたかもしれない」
キースは首を横へ振る。
「でも、それはキルスの推測だ。本人には聞いていない。聞くこともできなかった」
ならば。
「同意ではない」
ローゼンは静かに頷いた。
「そうでございますね」
そして少し間を置いてから、言葉を続ける。
「けれど、人間だったわたくしを、キルス様の被害者としてだけ見るのも……違うような気がいたします」
キースは彼女を見る。
「なぜ?」
「あの方は、キルス様を愛しておりました。神殿へ来ることも、ご自分で選んだ。最後まで、出会ったことを後悔していない」
「だから?」
「もし、あのあと本当に意識を取り戻して、自分が何をされたのか理解したうえで、それでもキルス様の傍にいることを選んだのなら。その選択まで、わたくしたちが否定することはできないと思うのです」
キースは答えられなかった。
正しい。
少なくとも、その可能性はある。
「でも」
ローゼンは続けた。
「それは、禁術を使う前に許したことにはなりません」
「ああ」
「二つは、別でございます」
キースは長く息を吐いた。
「君の方が整理できているな」
「いいえ」
ローゼンは首を振る。
「わたくしも、気持ちが悪いのでございます」
彼女から聞くには、珍しい言葉だった。
「気持ちが?」
「はい。人間のローゼンが胸を裂かれるところを見て、とても怖かった。でも、あの方が再びキルス様を見たとき……」
ローゼンは自分の胸へ手を当てる。
「嬉しい、と感じてしまいました」
キースは何も言わなかった。
「それが、あの方の感情なのか。わたくし自身の感情なのか。〈混沌〉が見せているものなのか。分かりません」
深紅の瞳が揺れる。
「もし、わたくしがあの人間と同じ魂なら。あのことを、わたくしはどう考えればよいのでしょう」
「今、決めなくていい」
キースは答えた。
ほとんど反射だった。
ローゼンが目を見開く。
「でも――」
「まだ分からない」
キースは続けた。
「魂が同じなのかも。見ているものが本当に過去なのかも。君が感じているものが誰の感情なのかも」
「はい」
「だから、今すぐ『これは私の恋だった』『これは私がされたことだ』と決める必要はない」
言いながら、その言葉は自分自身へも返ってきた。
キルス。
この男は自分なのか。
自分だったのか。
同じ魂なのか。
それも、まだ分からない。
*
過去は、そのまま続いていた。
魂となったローゼンは、キルスの身体から遠くへ離れることができないらしかった。宝物庫を出ようとしてキルスが歩けば、彼女の姿も引かれるようについていく。数歩以上離れようとすると輪郭が薄れ、キルスへ近づけば再び姿が濃くなった。
「なるほど」
キルスは満足そうだった。
「書物どおりだ」
ローゼンは、自分の半透明の腕を見つめている。
「わたくしは、あなた様の中にいるのでございますか?」
「ああ」
「では、これは?」
「君の魂が一時的に形を取っている。私の生命力を使って」
「生命力……?」
「心配はいらない。私なら十分にある」
その言葉を聞いて、キースは胸の奥に嫌なものを覚えた。
世界一の魔導力。
強い生命。
だから、できる。
できるのだから、する。
そんな理屈が、どこか旅へ出る前の自分と重なった。
「キルス様」
過去のローゼンが彼を見る。
「わたくしは、死んだのでございますか?」
ようやく、真正面から尋ねた。
キルスの表情が固まる。
「それは」
「覚えております。苦しくなって。あなた様のお顔が見えて……そのあと」
彼女は胸へ手を置いた。
傷はない。
そもそも、今の彼女には肉体がない。
「何もございません」
キルスは、しばらく答えなかった。
やがて。
「君はここにいる」
そう言った。
また、答えではない。
ローゼンは彼を見た。
「キルス様」
「何だ」
「わたくしは、死んだのでございますね」
キルスの目から涙が落ちた。
「……ああ」
ようやく、認めた。
「すまない」
「なぜ、あなた様が謝られるのですか」
「守れなかった」
「あなた様が毒を盛ったわけではございません」
「でも!」
「それなら」
ローゼンは、以前と同じように優しく言った。
「わたくしが転んだ時も、キルス様が悪かったことになってしまいます」
キルスの顔が歪んだ。
二人が初めて街を歩いた日。
ローゼンが追いかけて。
転んだ。
キルスが手を差し伸べた。
覚えている。
「そんなことと一緒にするな」
「同じでございます」
「違う」
「では、何が違うのでしょう」
キルスは答えられなかった。
現在のキースは、その姿を見つめていた。
愛していた。
間違いなく、二人とも。
だからこそ、単純ではない。
愛された男が、愛した女の意思を無視した。
意思を無視された女が、それでも男を愛していた。
どちらか一つを消してしまえば、話は簡単になる。
悪い男。
可哀想な女。
あるいは。
愛ゆえに死を越えた恋人たち。
けれど、どちらも違う。
「人って」
現在のローゼンが呟いた。
「難しいのでございますね」
「……ああ」
キースは答えた。
「精霊もだろ」
「そうかもしれません」
ローゼンが少しだけ笑った。
その直後。
過去の景色に亀裂が走った。
*
宝物庫の壁が、黒く滲み始めた。
過去のキルスも、人間ローゼンも、それには気づいていない。
彼らが生きている記憶そのものへ、〈混沌〉が少しずつ入り込んでいく。
「キース様」
「ああ」
二人の足元から、宝物庫の床が失われていく。
書架。
魔導具。
石壁。
古い扉。
すべてが輪郭を失い、黒とも呼べない未確定なものへ溶けていった。
過去のローゼンが、最後にキルスへ微笑んだ。
キルスも、その姿を見つめている。
やがて二人とも、黒い揺らぎの中へ消えた。
残されたのは、現在のキースとローゼンだけだった。
距離も時間もない〈混沌〉。
その中で、キースの口には、あるはずのない血の味が残っていた。
心臓へ歯を立てた感触まで、自分自身の記憶のように残っている。
吐き気がした。
「キース様?」
「大丈夫だ」
キースは自分の口元を拭った。
もちろん、何もついていない。
「私は……」
言いかけて、止まった。
キルスではない。
そう言いたかった。
けれど、まだその言葉を口にするには、自分の内へ流れ込んだ記憶があまりにも生々しかった。
「キース様」
ローゼンが、恐る恐る問いかける。
「わたくしたちは……あの二人なのでしょうか」
キースは答えようとした。
そのとき、遥か向こうに人影が現れた。
黒い。
〈混沌〉そのものと区別がつかないほど黒いのに、なぜか人の形だけは分かる。
男なのか。
女なのか。
人なのか。
そもそも生き物なのか。
何一つ判別できない。
ただ、その影がこちらを見た瞬間、キースの脳裏へ一つの名が浮かんだ。
創世歌。
《黒無相の君》。
ケーオス。
けれど、それが本当に同じ存在なのかは分からない。
黒い人影は、何も答えなかった。
ただ静かに、キースとローゼンの方へ手を差し伸べた。




