第三十章 私はキースだ
黒い人影は、手を差し伸べたまま動かなかった。
〈混沌〉の内側には光源など存在しない。それでも、キースはその人影を見失わずにいた。輪郭が黒いから見えているのではない。むしろ周囲よりもさらに深く、色という概念が生まれる以前の暗さをまとっているからこそ、そこだけが異質な形として認識できる。
人に似ていた。
頭があり、胴があり、二本の腕があるようには見える。けれど目を凝らすほど輪郭は定まらず、長い外套をまとった男にも、髪を垂らした女にも、二本脚で立つ獣にも見えた。見る側が形を求めるたび、その期待から少しずつ逃れていくようだった。
キースは差し伸べられた手を見つめたまま、動けなかった。
「キース様」
隣でローゼンが囁く。
「見えているか?」
「はい」
「人……なのか?」
「分かりません」
いつもの答えだった。
けれど、今ほどその言葉を頼もしいと感じたことはない。
分からない。
だから、分かったことにはしない。
黒い人影は、二人が何を話していても急かさなかった。ただ静かに手を差し出している。その仕草だけを見れば、こちらを助けようとしているようにも思える。
「罠かもしれない」
キースが言った。
「はい」
「触れたら、もっと深く〈混沌〉へ引き込まれる可能性もある」
「ございますね」
「……止めないんだな」
「キース様も、触れるおつもりでしょう?」
見抜かれていた。
「ほかに出口が見えない」
「わたくしも同じでございます」
ローゼンがキースの隣へ並ぶ。
過去の記憶を見る前なら、彼女はもっと無邪気にその手を取ったかもしれない。だが、今は違う。
怖れている。
それでも、自分で選んでここに立っている。
キースは人影へ向き直った。
「あなたは、誰だ」
返事はない。
「私たちを助けようとしているのか?」
やはり答えない。
ただ、人影の頭らしき部分が、ほんの僅かに傾いた。
「ケーオス……?」
ローゼンが、その名を口にした。
〈混沌〉が震えた。
大きな変化ではない。遠い場所で静かな水面へ雨粒が一つ落ちたように、黒とも白ともつかない領域へ細い波が走る。
人影は否定しなかった。
肯定もしない。
代わりに、差し出していた手をゆっくり返し、掌を上へ向けた。
そこへ何かが生まれた。
光ではない。
白でも黒でもない。
一筋の境界だった。
それまで何一つ分けられていなかった〈混沌〉の中へ、細い線が引かれる。線が生まれたことで初めて、こちら側と向こう側という区別ができ、その先に遠い石床の色が覗いた。
「出口……?」
ローゼンが息を呑む。
そこで、黒い人影が初めて声を発した。
「名を」
低いとも高いとも言えない声だった。耳から聞こえたのか、それとも言葉そのものが意識へ落ちてきたのか、キースには判別できない。
「失うな」
それだけだった。
キースは眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
答えはない。
「ここは何なんだ。なぜキルスの記憶がある。なぜローゼンまで同じものを見た。あの二人は私たちの――」
問いを重ねるほど、人影の輪郭が薄れていく。
「待て!」
キースは反射的に手を伸ばしたが、指先は何にも届かなかった。
黒い姿は周囲の〈混沌〉へ静かに溶け、最後には、人影だった場所から一言だけが残った。
「行け」
次の瞬間、境界の向こうから風が吹いた。
*
風がある。
頬へ空気が触れた、その感覚だけで、キースは向こう側に外の世界があると分かった。
〈混沌〉の内側には風がなかった。温度も距離も時間もなく、自分と外界を分けるものさえ曖昧だった。けれど今は、空気の冷たさが肌にあり、土の匂いが鼻へ届く。
そして、誰かが自分の名を叫んでいる。
「キース!」
シビウだった。
境界の向こうから彼女が駆けてくる。手には《踊る剣》を握り、肩へ掛けていたマーカスの大斧は、走る勢いでずり落ちかけていた。
「ローゼンもいる!」
ゼクスの声も聞こえた。
「二人とも、こっちだ!」
キースは咄嗟にローゼンの腕を掴んだ。
今度は触れた。
衣服越しに確かな感触があり、その下に彼女の身体が存在している。
「ローゼン!」
「はい!」
二人は同時に境界へ飛び込んだ。
身体が強く引かれ、上下の感覚が一瞬だけ反転する。胃の中身が持ち上がるような不快感の直後、キースは硬い石床へ肩から転がった。
「ぐっ……!」
「キース!」
シビウが襟を掴み、さらに後ろへ引きずる。
「痛い!」
「生きてるなら文句言うんじゃないよ!」
「ローゼンは!」
「ここでございます!」
すぐ隣から返事があった。
ローゼンも石床へ座り込んでいる。白い髪は乱れ、衣服も埃にまみれていたが、見える範囲に大きな傷はなかった。
そこへフユが飛んできた。
まずローゼンの顔を両手で挟む。
「ローゼン」
「はい」
「いる」
「おります」
続いてキースの前へ移り、額へ小さな手を当てた。
「キース」
「なんだ」
「いる」
「ああ。いる」
「よかった」
短い言葉だった。
それだけだったが、フユがこれほどはっきり安堵を口にするのは珍しい。
「しゃべるのは後だ」
ゼクスが二人の間へ割って入った。
「まず手を見せろ」
その言葉で、キースの表情が変わる。
黒化。
忘れていた。
ゼクスは油灯を近づけ、キースの指先を一つずつ確認した。爪、皮膚、手首から腕へと視線を移し、異常がないことを確かめていく。
「異常なし。次、目だ。こっち見ろ」
キースが顔を上げると、ゼクスは左右の瞳をじっくり覗き込み、ようやく息を吐いた。
「見た感じは平気だ」
「ローゼンは?」
「精霊に症状が出た例はないが、一応見る」
ローゼンにも異常はなかった。
「よかった……」
シビウがその場へ座り込んだ。
初めて、張りつめていた足から力が抜けたようだった。
キースは彼女を見る。
「シビウ」
「何だい」
「……すまなかった」
「何が」
「呑まれる直前に、マーカスの名前を使った」
シビウの表情が僅かに強張った。
「君を離れさせるためだったとはいえ、言い方が――」
「生きて帰ってから謝られると、怒りにくいねえ」
シビウは大きく息を吐いた。
「でも、次にあいつを盾に使ったら殴るよ」
「ああ」
「今度は加減しない」
「前もしていなかったと思うが」
「してたよ」
「……本当か?」
「試してみる?」
「遠慮する」
シビウは鼻で笑った。
その目の端が、少しだけ赤かった。
キースは、それ以上何も言わなかった。
*
「それで」
ゼクスが広間の中央へ目を向けた。
「何があった?」
キースとローゼンを呑み込んだ〈混沌〉は、すでに消えていた。石床には黒い染みも、削れた跡も、何一つ残っていない。
「消えた?」
ローゼンが立ち上がる。
「お前らが出てきた瞬間にな」
ゼクスが答えた。
「正確には縮んだ。最初は部屋いっぱいに広がってたのが、急に一点へ集まって、そのまま消えた」
「私たちが中へ入ってから、どのくらい経った?」
「さあな」
ゼクスが眉を寄せる。
「俺には随分長く感じた」
「あたしは一刻くらいかね」
シビウも記憶を確かめるように言った。
「でも、身体の感じじゃ、そんなに経ってない気もする」
「フユは?」
「少し」
「少しとは」
「少し」
「何の参考にもならない!」
キースが頭を抱えると、フユは不満そうに頬を膨らませた。
ただ、笑って済ませられる話ではない。
〈混沌〉の中で、キースは一人の人間の人生を見た。
出会い。
恋。
迫害。
死。
禁術。
体感としては、何年にも及ぶ記憶が一度に流れ込んできた。それが外側では、ほんの短い時間しか経っていないらしい。
「やはり、中では通常の時間が成立していない」
「中?」
ゼクスが眉を寄せる。
「説明する」
キースは答えたが、すぐに広間を見回して言い直した。
「ただ……ここではやめよう」
もう一度、何も残っていない石床へ目を向ける。
何もない。
だからこそ怖かった。
「地上へ戻ってからだ」
「賛成」
シビウがすぐに応じた。
「今日はもう十分だよ」
誰も反対しなかった。
五人は深層を離れた。
*
帰りの階段を上りながら、キースは何度も自分の名を確かめていた。
声には出さない。
キース。
胸の内で、繰り返す。
あの黒い人影は言った。
――名を失うな。
なぜ、そんなことを告げたのか。
〈混沌〉の中では、自分の名前を口にしたときだけ輪郭が戻った。ローゼンも同じだった。
名前そのものが存在を固定したのか。
それとも、ただ自我を保つための拠り所になっただけなのか。
人影はその仕組みを知っていたのか。何を知っていたのか。そして、本当にあれはケーオスだったのか。
問いを一つ考えれば、その先にまた幾つもの問いが生まれる。
ただ、その中に一つだけ、これまでとは種類の異なるものがあった。
キルス。
自分は、あの男なのか。
階段を上るたびに、胸の奥で心臓が打つ。その鼓動さえ、キルスが死者の魂を宿したときの二つの拍動と重なって聞こえた。
口の中に、血の味はない。
けれど、記憶にはある。
心臓へ歯を立てた感触。
肉を噛み切った抵抗。
呑み込んだときの吐き気。
「キース様」
前を歩いていたローゼンが振り返った。
「どうした?」
「お顔が」
「何でもない」
反射的に答え、すぐに自分で首を振った。
「いや。嘘だな」
ローゼンは急かさず、続きを待った。
「少し、気持ちが悪い」
「わたくしもでございます」
彼女も胸元へ手を当てる。
「わたくしには、胸を裂かれた記憶がございます」
キースの足が止まった。
「……君の側から?」
「はい」
「痛かったのか?」
「いいえ。死んでおりましたから、痛みそのものはございません。ただ、自分の身体へ短剣が入っていくところを……どこか遠くから見ていたような感覚がございます」
途中で言葉が途切れた。
「怖かったか」
「はい」
「私もだ」
二人はしばらく、それ以上話さなかった。
ただ並んで、地上へ続く階段を上っていった。
*
地上へ戻ると、メルリルが怒っていた。
「遅いですわ!」
封鎖施設へ姿を見せるなり、大声で迎えられた。
「無事かどうかを確認するより先にそれか!」
「無事だから怒っているのです! 無事でなかったら、怒る相手がいないでしょう!」
「理屈がおかしい!」
「どこがですの!」
メルリルはキースの前まで来ると、まず顔を見た。次に手。それからローゼンへ視線を移す。
「黒化は?」
「出ていない」
「本当に?」
「ゼクスも確認した」
「なら、わたくしも確認します」
「信用されてねえな、俺」
ゼクスが苦笑する。
メルリルは容赦なくキースの瞼まで引き上げて確認し、続いて魔導測定具を取り出しかけた。
「待て」
キースが止める。
「〈混沌〉へ直接呑まれた直後だ。イースへ刺激を与える測定は避けたい」
メルリルの手が止まった。
「……その通りですわね」
判断すると、すぐに器具を戻す。
「では、非魔導式の検査だけにします」
「頼む」
簡単な診察が終わるまで、誰も〈混沌〉内部で見た過去については語らなかった。
キースも。
ローゼンも。
まだ、それを人前で言葉へ変える準備ができていなかった。
*
その夜、アムドア外縁の宿舎は珍しく静かだった。
ゼクスは夜警へ出ている。シビウも交代で見張りへ立ち、フユはどこで眠っているのか分からない。メルリルは深層で何があったのか聞きたがったが、キースの顔を見ると、
「明日にしますわ」
とだけ言い、自分の部屋へ引き上げた。
キースは眠れず、宿舎の裏手へ出た。
遠くにはアムドアの《大穴》がある。
夜の中では、その黒ささえ見えない。ただ星の並びが途中で不自然に欠け、そこだけ空と地上の境界が曖昧になっている。
「こちらにいらしたのですね」
背後からローゼンの声がした。
振り返ると、白い髪が夜風へ揺れている。
「君も眠れない?」
「はい」
「そうだろうな」
ローゼンはキースの隣へ立った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
これまでなら、この距離を特別に意識することなどなかった。
けれど、過去を見てしまった。
キルスと、人間ローゼン。
恋人だった二人。
その記憶が、今は自分たちの中にある。
自分たちは、どうすればいいのか。
先に口を開いたのはローゼンだった。
「キース様」
「何だ」
彼女は少し迷ってから、尋ねた。
「キース様は、キルス様なのでしょうか」
来ると思っていた問いだった。
それでも、すぐには答えられなかった。
キースは自分の手を見た。
十八年間、この手で生きてきた。
神殿で本をめくった。
妹の衣を直した。
初めて外の土へ触れた。
魔導を放った。
竜と戦った。
マーカスへ届かなかった。
ローゼンの手を取った。
そして今日、知らない男の手で死者の胸を裂いた記憶まで持っている。
「分からない」
キースは答えた。
ローゼンは驚かなかった。
「魂というものが、本当に一つの人生から次の人生へ渡るのなら、魂は同じなのかもしれない」
「はい」
「キルスの記憶が私にある。あの神殿を知っていた。見たことのない禁術の場所も、読むより先に分かった」
「わたくしにも、人間だったローゼンの記憶がございます」
「なら、何かしらの繋がりはあるんだと思う」
そこまでを、怖いからと否定する必要はない。
すべてを偶然にしてしまう必要もない。
「前世、と呼ぶのが一番簡単なのかもしれない」
ローゼンは黙って聞いていた。
「ただ」
キースは顔を上げ、彼女を見た。
「それでも、私はキルスではない」
ローゼンの瞳が揺れた。
「……違うのでございますか」
「ああ」
そこだけは迷わなかった。
「キルスが存在しなかったと言っているわけじゃない。彼の人生も、ローゼンへの愛も、彼が犯したことも、全部あったのかもしれない。魂まで同じなのかもしれない」
それでも。
「私はキースだ」
声にする。
〈混沌〉の中で、自分の輪郭を繋ぎ止めた名前だった。
「私は十八年間、キースとして生きてきた。キルスの記憶が戻ったからといって、その十八年が前世の続きを演じるための準備だったことにはならない」
ローゼンは静かに聞いている。
「キルスは、死んだローゼンを失うことに耐えられず、彼女の意思を確かめないまま魂を自分へ宿した」
胸が痛んだ。
あの男を、完全には嫌いになれない。
彼の痛みを理解できるからだ。
「私なら絶対に同じことをしない、と言い切れるほど、自分を信用しているわけでもない」
ローゼンが少し驚いた顔をする。
「マーカスが落ちた時、私は死を認められなかった。あの場に禁術があったら……使わなかったと断言できるかは分からない」
「キース様……」
「だから、キルスを怪物にして終わらせたくない」
そうしてしまえば簡単だった。
あいつは自分とは違う。
狂った悪人だった。
そう切り捨てれば、自分の中にもあるかもしれない同じ弱さを見なくて済む。
「でも、同じ弱さを持っていることと、同じ人間であることは別だ」
キースはローゼンをまっすぐ見る。
「過去にキルスが何をしたとしても、それは私が同じことをしなければならない理由にはならない。彼が誰を愛したとしても、私が同じ相手を同じように愛さなければならない理由にもならない」
ローゼンの瞳が僅かに見開かれた。
ここは言わなければならない。
最も大切なところだった。
「人間だったローゼンがキルスを愛していた。その事実が、今の君に私を愛する義務を負わせることもない」
夜風が二人の間を抜けた。
ローゼンは長いあいだ何も言わなかった。
「……それを」
ようやく口を開く。
「少し、怖がっておりました」
「何を?」
「わたくしが、キース様を見ているのか。キルス様を見ているのか」
ローゼンは胸へ手を置いた。
「人間だったローゼンの気持ちが、わたくしの中にございます。キルス様を見れば嬉しかった。手を握られれば安心した。死んだあとでさえ、あの方の傍にいたいと思った」
声が僅かに震えた。
「その気持ちが、今のわたくしの感情と混ざってしまったら……わたくしは、何を自分で選んだと言えるのでしょう」
キースは答えなかった。
答えを与えるべき問いではない。
「ですが」
ローゼンが、少しだけ笑った。
「今、分かりました」
「何が?」
「キース様がキルス様ではないのでしたら」
一度、静かに息を吸う。
「では、わたくしもあの人間ではありません」
キースは何も言えなかった。
ローゼンは続ける。
「魂は同じなのかもしれません。人間だったわたくしの記憶もございます。あの方がキルス様を愛していたことも、否定したくありません」
「うん」
「でも、わたくしはラルソウムで生まれました」
その声に、少しずつ力が戻っていく。
「サファイア様に、何度も大樹から落ちるところを助けていただきました。ヴァギュイザール様のお話を聞いて育ちました。アイリス様やクローカス様と《夢》でお話をして、精霊の皆様と花や風の声を聞いてまいりました」
人間ローゼンにはない人生だった。
「そして、キース様をお迎えにメミスへ参りました」
薔薇の香り。
窓の少ない部屋。
初めて会った日。
「それは、あの人間のローゼンが生きた人生ではございません」
「ああ」
「わたくしの人生です」
ローゼンは微笑んだ。
「ですから、わたくしはローゼンでございます」
同じ名。
だからこそ、意味がある。
過去の人間ローゼンという名を否定するのではない。
今ここにいる精霊ローゼンもまた、自分自身の人生によって、その名を生きている。
「不思議だな」
キースが言った。
「何がでございますか?」
「同じ名前なのに、違うと分かる」
ローゼンは少し考えた。
「名は、同じ文字だけでできているわけではないのかもしれませんね」
「君まで神学者みたいなことを言うようになった」
「キース様の影響でしょうか」
「責任重大だな」
「嫌でございますか?」
「いや」
キースも少し笑った。
「悪くない」
*
しばらくして、ローゼンが尋ねた。
「では、わたくしたちは、これからどういたしましょう」
「どう、とは?」
「キルス様と人間ローゼンは、恋人同士でした」
「ああ」
「その……」
ローゼンにしては珍しく、言葉に詰まる。
「わたくしたちも、そうなるべきなのでしょうか」
キースは思わず笑ってしまった。
「キース様!」
「いや、すまない」
「わたくしは真剣に!」
「分かっている。だからだ」
ローゼンが不満そうに頬を膨らませる。
精霊で。
昔の人間ローゼンと魂が同じなのかもしれない。
それでも、こんな顔をするのは今のローゼンだった。
「なるべき、は違う」
キースは答えた。
「前世の二人が愛し合っていたから、私たちも恋人になる。そんなのは、神官会に『生まれたから神官長になれ』と言われるのと変わらない」
ローゼンの表情が変わった。
「……役割になってしまう」
「ああ」
「前世という役割」
「そうだ」
キースはずっと、与えられた役割から外へ出ようとしてきた。
神官長。
世界一。
月神の血筋。
その次に、《キルスの転生者》という役割を背負うのなら、檻の名前が変わっただけだ。
「もし」
ローゼンが言う。
「これからわたくしが、キース様を好きになったら?」
「その時に考えよう」
「キース様が、わたくしを好きになったら?」
「同じだ」
「もう好きでしたら?」
「…………」
キースが固まった。
ローゼンが首を傾げる。
「キース様?」
「君は、たまに本当に恐ろしいことを言うな」
「どうしてでございますか?」
「いや」
答えられない。
ローゼンは本気で分かっていないような顔をしていた。
しばらくして、小さく笑う。
わざとだった。
「ローゼン」
「はい」
「分かって言ったな?」
「何のことでございましょう」
目を逸らした。
「君……!」
ローゼンが笑う。
キースも、結局は笑ってしまった。
過去は消えない。
キルスも。
人間ローゼンも。
二人が愛したことも。
禁術によって行われたことも。
すべて、自分たちの内側へ残っている。
けれど、それによって、この先の答えまで過去に書かれているわけではない。
*
翌朝、キースは全員へ、〈混沌〉の内側で見たことを話した。
キルス。
人間ローゼン。
毒殺。
禁術。
心臓。
魂。
黒い人影。
省かず、すべてを話した。
誰も途中で口を挟まなかった。
話し終えると、最初に口を開いたのはメルリルだった。
「転生」
「可能性の一つだ」
キースは答える。
「断定は?」
「しない」
「賢明ですわね」
いつもなら、もっと勢いよく食いついてくるところだった。
今日は違う。
「そもそも、魂という言葉そのものの定義が曖昧ですもの」
メルリルは指を一本立てた。
「記憶の継承なのか」
二本目。
「魂と呼ばれる何らかの構造が再利用されたのか」
三本目。
「本当に同一存在が、別の身体へ生まれ直したのか」
四本目を立てかけ、そこで止める。
「あるいは、まだわたくしたちが考えついていない仕組みか」
「今の情報では分けられない」
「ええ」
メルリルは頷いた。
「ですから、キルス様の記憶があることと、キースがキルス様そのものであることは、同じ命題ではありませんわ」
シビウが腕を組んだ。
「難しい言い方するねえ」
「では、あなたならどう言いますの?」
「昔の奴のことを全部覚えてたって、今日ここで飯食ってるのはキースだろ」
キースが顔を上げる。
シビウは肩をすくめた。
「違うのかい?」
「……いや」
「過去の奴が何を食ったか知らないけどさ。こいつが朝から本を広げて、メルリルとどうでもいいことで喧嘩して、あたしに小言を言ってるのは、この旅でずっと見てきたキースだよ」
「どうでもいいことで喧嘩とは何ですの!」
「ほら始まった」
「君が余計なことを――」
言いかけて、キースは止まった。
確かに。
いつもの自分だった。
フユがパンを持ったまま、小さく手を上げる。
「キースはキース」
シビウが笑った。
「ほら。もっと簡単にされた」
「フユはフユ」
「君の話はしてない」
「大事」
「まあ、大事だね」
自然と小さな笑いが起きた。
ローゼンも静かに笑っている。
シビウがキースを見る。
「で」
「何だ」
「自分ではどうなんだい」
答えは、もう昨夜出ていた。
「私はキースだ」
「そうかい」
それだけだった。
シビウは満足したように頷き、次にローゼンを見る。
「そっちは?」
「ローゼンでございます」
「分かりやすくていいね」
メルリルは呆れたように溜息をついた。
「あなた方、学術的な問題を感覚だけで片づけないでくださる?」
「片づけてないよ」
シビウが返す。
「誰かって話と、どういう仕組みかって話は別だろ」
今度はメルリルが黙った。
「……たまに鋭いことを仰いますわね」
「たまには余計だよ」
また、少しだけ笑いが起きた。
その中で、ゼクスだけは腕を組み、別のことを考えていた。
「その黒い奴」
「何だ」
「ケーオスって言ったか」
「ローゼンがそう呼んだ。ただし、本人は認めていない」
「否定も?」
「していない」
「何をした」
「出口を作った」
「それだけ?」
「『名を失うな』と言った」
ゼクスが眉を寄せる。
「意味は?」
「分からない」
「またか」
「ああ」
キースは少し笑った。
「だが、今回は急いで意味を作らない」
黒い人影。
ケーオス。
《黒無相の君》。
三つの創世歌では、世界そのものへ関わる名。
精霊戦争では、ヴァギュイザールと並ぶ四貴精霊の一柱として伝えられている。
けれど、本当に《精霊》だったのか。
〈混沌〉そのものと同一なのか。
それとも、まったく別の存在なのか。
今は何も分からない。
ただ、あれが二人を助けた。
そこまでは、起きたこととして残せる。
「記録しておく」
キースは帳面を開いた。
黒い人影。
人型に見えたが、形は一定せず。
ローゼンが《ケーオス》と呼称。
反応あり。
肯定・否定なし。
「名を失うな」。
出口と思われる境界を形成。
二名帰還。
そこまで。
余計な推測は書かなかった。
*
昼過ぎ、アムドア深層への当面の立ち入り禁止が決まった。
〈混沌〉が魔導士を選んで狙うように動いたこと。
キースを内部へ取り込んだこと。
その内部で、未知の記憶現象が起きたこと。
何より、現状の装備と知識では、呑み込まれた者を外から救出する手段がない。
無理に進むべきではない。
ゼクスたちは封鎖を強化し、メルリルはここまでに集めた資料を整理することになった。
キースは《大穴》を見た。
世界崩壊の原因を探すために、ここへ来た。
答えはほとんど得られていない。
代わりに得たのは、三つの歴史。
都市より古い構造。
《ラグナ――》。
生きているように動く〈混沌〉。
キルス。
人間ローゼン。
そして、ケーオスかもしれない黒い人影。
答えよりも、問いの方が遥かに増えた。
「嫌になりました?」
隣へローゼンが来た。
「少し」
キースは正直に答える。
「でも」
「はい」
「神殿にいた頃より、世界は面白い」
ローゼンが笑った。
「それは、よろしゅうございました」
「君に連れ出されたせいだ」
「後悔なさっておりますか?」
キースは少し考えるふりをした。
「マーカスのことまで含めれば、簡単に『よかった』とは言えない」
ローゼンの表情が静かになる。
「旅に出なければ、彼は死ななかったかもしれない」
それもまた、可能性の一つだった。
「でも、だからといって、旅そのものをなかったことにしたいとも思わない」
シビウの言葉を思い出す。
マーカスの死に、自分の人生まで使うな。
「起きたことは持っていく」
キルスも。
人間ローゼンも。
そこへ含まれる。
「過去を忘れるつもりはない。でも、過去に続きを決めてもらうつもりもない」
ローゼンはゆっくりと頷いた。
「わたくしもです」
大穴の上を風が渡っていく。
黒い欠落は、今もそこにある。
世界が救われたわけではない。
何一つ終わっていない。
それでもキースは、以前より少しだけ、自分が立っている場所を知っていた。
キルスの記憶を持つ者。
月神殿の神官長。
世界一と呼ばれた魔導士。
マーカスを救えなかった旅人。
ローゼンとともに〈混沌〉から帰ってきた人間。
そのどれもが、自分の一部ではある。
けれど、どれ一つとして自分のすべてではない。
キースは胸へ手を置いた。
イースが、静かに脈打っている。
その奥にキルスの魂があるのかもしれない。
ないのかもしれない。
今は、どちらでもよかった。
この身体で。
この名前で。
次に何をするのかを決める者は、過去の神官ではない。
キースは遠い《大穴》から目を離した。
「行こう、ローゼン」
「はい、キース様」
呼ばれた名へ、迷わず振り返る。
それで十分だった。




