第三十一章 消えたサファイア
ラルソウムから急報が届いたのは、アムドア深層への立ち入り禁止が決まった、その日の夕刻だった。
記憶の森の北側で、〈混沌〉の発生が急増しているという。
最初に見つかったのは、木々の間へ浮かぶ拳ほどの小さなものだった。一つを封じた翌日には別の場所で二つ、そのさらに翌日には五つ。どれもアムドアの《大穴》と比べれば取るに足らない規模ではあったが、発生数だけを見れば、ローゼンが旅立つ以前とは比較にならない。
しかも、ラルソウムの精霊たちは、人間のように城壁を築いてその内側だけで暮らしているわけではない。森も谷も川も、人の目には里の外側に見える土地まで含めて、精霊たちの暮らしと緩やかに繋がっている。外縁部で生じた〈混沌〉を放置すれば、やがて里そのものへ侵入する可能性があった。
「戻った方がいい」
急報を読み終えたキースへ、ゼクスは迷わずそう言った。
「しかし、アムドアも――」
「こっちは俺たちの仕事だ」
ゼクスは《大穴》の方角へ視線を向ける。
深層調査は禁止されたが、封鎖そのものが終わったわけではない。むしろキースたちが〈混沌〉へ呑み込まれたことで、地下への警戒はこれまで以上に強化しなければならなくなった。
「お前らが見つけた資料もある。地下に何があるのかも、前より少しは分かった。十分だ」
「十分とは思えない」
「だからって、同時に二か所へはいられねえだろ」
返す言葉がなかった。
ゼクスはアムドアを離れられない。封鎖施設の魔導士であるだけでなく、現地の異常をもっとも長く見てきた者の一人でもある。
「ゼクス一人では、人手が足りないだろう」
キースがそう言うと、別の場所から声が上がった。
「あたしが残るよ」
シビウだった。
肩には、今もマーカスの大斧を担いでいる。
「君が?」
「あんたらはラルソウムへ戻って調べるんだろ?」
「ああ」
「あたしが行ったところで、精霊の術だの古い記録だのじゃ大して役に立たない。それより、こっちは封鎖線の見回りにまで人手を取られてる」
シビウは《大穴》を見た。
「黒いのが出てきた時に、ぶん殴れる奴は一人でも多い方がいいさ」
「〈混沌〉を斧で殴るな」
「分かってるよ。たとえばの話だ」
「君の場合、本当にやりそうだから怖い」
「その時はゼクスが止めるだろ」
「俺に押しつけんな!」
ゼクスが怒鳴ると、シビウは久しぶりに少しだけ笑った。
それから、改めてキースを見る。
「行ってきな」
「しかし――」
「ずっと一緒に歩かなきゃ仲間じゃない、なんて歳でもないだろ」
その言葉に、キースは口を閉ざした。
旅を始めた頃なら、同行者が別れることへ、もっと単純な不安を覚えたかもしれない。だが今は、それぞれが自分で選んだ場所に残り、それでも必要なら再び同じ道を歩けることを知っている。
「ここが落ち着いたら、また合流するよ」
「……分かった」
「ローゼンを頼んだよ」
「なぜ私だけに言う」
「さあね」
意味ありげに笑われた。
「あと、死ぬんじゃないよ」
「君もだ」
「分かってる」
シビウは肩の大斧を持ち直した。
「こいつまで持って死んだら、マーカスに何言われるか分かったもんじゃないからね」
そうしてゼクスとシビウはアムドアへ残り、キース、ローゼン、メルリル、フユの四人は、急ぎラルソウムへ戻ることになった。
*
通常の街道を経てラルソウムへ戻った頃には、精霊の里を取り巻く景色にも異変の痕跡が現れ始めていた。
森の北側には立ち入りを避けるための精霊灯が点々と並び、そのさらに奥では、何人もの精霊が木々や地面へ語りかけながら封鎖を続けている。知らせを受けた時点で想像していたより、事態は明らかに進行していた。
「帰って早々、休ませてはもらえませんわね」
メルリルはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。アムドアで最後の深層調査へ同行できなかったことが、まだ心残りらしい。
「君は少しくらい休むことを覚えろ」
「それは、あなたにだけは言われたくありませんわ」
「私は休んでいる」
「昨晩、ヴァギュイザール様からお借りした記録を夜半まで読んでいらしたでしょう?」
「どうして知っている」
「隣室まで頁をめくる音が聞こえておりましたもの」
「それは休息の範囲だ」
「あなたの休息は、一般人の労働ですわね」
二人の言い争いを聞きながら、ローゼンは少しだけ笑った。
ラルソウムへ帰ってきた。
大樹の香りも、花々の淡い光も、葉の擦れ合う音も変わらない。けれど、森の向こうでは確実に〈混沌〉が増えている。
アムドアで人間だったローゼンの記憶を見たあとだからこそ、この場所へ立つと、自分がどちらの人生を生きているのか、以前よりはっきり分かる気がした。
ここは、人間だったローゼンの故郷ではない。
今の自分が育った場所だ。
「ローゼン」
呼ばれて、振り返る。
サファイアが立っていた。
深い青の上着には細い銀糸の刺繍が走り、青灰色の髪が森を抜ける風へ静かに揺れている。顔には、ローゼンが幼い頃から知っている穏やかな笑みがあった。
「サファイア様」
「戻ってきて早々で悪いが、少し手を借りたい」
「〈混沌〉でございますか?」
「ああ」
サファイアは頷いた。
「北西の洞窟で、今朝から拡大が始まった。ヴァギュイザール様たちが周辺の封鎖へ回っている。私は洞窟内部を確認するつもりだが、君たちにも来てもらえると助かる」
「私たちに?」
キースが尋ねた。
「アムドアで〈混沌〉を見てきた者の目が欲しい。もちろん、危険なら引き返す。私は君たちを無理に連れていくつもりはない」
私は。
ローゼンは、その一人称を聞き流した。
いつものサファイアだった。
「わたくしも参ります」
「ありがとう、ローゼン」
名前の呼び方も、昔から変わらない。
幼い頃、大樹から落ちたときも。
初めて《夢》の話をしたときも。
外の世界へ旅立つ前も。
サファイアはいつも、ただ《ローゼン》と呼んだ。
*
洞窟は、ラルソウムから歩いて半日ほどの森の奥にあった。
入口は苔むした岩壁の裂け目へ隠れ、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうなほど目立たない。かつては小さな水精霊たちが暮らしていたらしいが、数年前から姿を見せなくなり、現在ではほとんど使われていない場所だという。
今回の封印任務へ向かったのは、キース、ローゼン、メルリル、フユ、サファイアの五人だった。周辺でも複数の〈混沌〉が同時に発生しており、動ける者を一か所へ集める余裕がない。
入口へ着くなり、フユは嫌そうに鼻を押さえた。
「臭い」
「臭い?」
キースも空気を嗅いでみたが、湿った土と苔の匂いしか感じられない。
「何も感じないが」
「春が腐ってる」
「……どういう意味だ?」
「そのまま」
「全然そのままではない!」
横からメルリルが洞窟の壁へ手を近づける。
「植物の季節循環が乱れている、という意味かもしれませんわね」
「分かるのか?」
「分かりませんわ」
「自信満々に言うな!」
「仮説です!」
二人を無視して、フユは一人で洞窟へ入ろうとした。
「待ちなさい、フユ」
サファイアの声で、小さな妖精が足を止める。
「一人で先へ行ってはいけない。私が前を歩く」
「フユの方が強い」
「そうかもしれないね。それでもだ」
サファイアは穏やかに笑い、油灯を手に洞窟へ入った。
ローゼンも、その背中を追う。
歩き方まで、よく知っていた。
サファイアは足音が小さい。精霊だから、というだけではない。踵を強く落とさず、岩の凹凸へ合わせて足先から柔らかく体重を移していく。幼いローゼンは、姿が見えなくても、その静かな足音だけで彼が近づいてくることを何度も当てた。
今も同じだった。
慣れ親しんだ足取り。
見慣れた背中。
ローゼンは何の疑いも抱かず、その後を歩いた。
*
洞窟の奥へ進むほど、壁面を覆っていた苔は少なくなっていった。
最初は鮮やかな緑だったものが次第に灰色へ変わり、その先では触れれば崩れそうな白へと色を失っている。天井から落ちていた水滴も途中で途絶え、湿っていたはずの空気が、奥へ進むにつれて奇妙に乾いていった。
「ここからだ」
サファイアが立ち止まる。
細い通路の先に、大きな空洞が開いていた。
黒い。
灯りが届かないのではない。
空洞の中央に、〈混沌〉が浮かんでいる。
人間の背丈ほどもある黒い塊は、球体に見えたかと思えば、次の瞬間には細長く引き伸ばされ、壁から壁へ渡された膜のように形を変えた。
アムドアで見たものと似ている。
だが、キースはすぐに違いへ気づいた。
「脈打っている」
表面が一定の間隔で収縮していた。
膨らみ、縮む。
まるで呼吸しているように。
「アムドアの深層で私たちを襲ったものに近い」
「意思があるように動いた、というものですのね」
メルリルの表情から、いつもの軽さが消える。
「刺激はしない方がいい」
キースは周囲へ視線を走らせながら言った。
「人間魔導には反応する可能性が高い。私とメルリルは、最後まで術を使わない方が――」
言い終えるより先に、〈混沌〉が動いた。
五人全員が身構える。
黒い塊の表面から一本の突起が伸び、まっすぐキースへ向かってきた。
「やはり私か!」
横へ跳ぶ。
触手が石床を掠めた瞬間、そこにあった石が音もなく失われた。
続いて二本目が伸びる。
今度の標的はメルリルだった。
「わたくしも!?」
「魔導士を見分けている!」
「随分と失礼な選り好みですわね!」
メルリルが後退する。そのすぐ横では、黒い触手がフユの傍らを通り過ぎた。
やはり、彼女へは向かわない。
「フユ!」
「見てない」
アムドアと同じだった。
四季使いに対する反応は、明らかに薄い。
「ローゼン、岩へ頼めるか!」
「やってみます!」
ローゼンが洞窟の壁へ両手を触れる。
「お願いがございます。少しだけ、力を貸していただけませんか」
石壁が低く鳴った。
命令を受けて動く人間魔導とは違う。洞窟そのものがしばらく考えたように細かく震えたあと、壁の一部がゆっくりと盛り上がり、〈混沌〉とキースたちの間へ岩壁を作る。
黒い触手がぶつかった。
岩が削られる。
「長くは保ちません!」
「十分だ!」
サファイアが前へ出た。
「フユ、入口側へ冬を呼べるか?」
「できる」
「水脈を凍らせてほしい。〈混沌〉が地下水へ入れば、外へ広がる」
「分かった」
フユが両手を広げた。
「冬」
一息で空気が変わった。
刺すような冷気が洞窟を満たし、奥から流れていた細い地下水が凍っていく。岩壁へ霜が走り、白い結晶が枝を伸ばすように広がった。
「キース、メルリル」
サファイアが振り返る。
「君たちには封印を頼む。ただし、〈混沌〉そのものへ術式を当てないように」
「周囲を囲うだけか」
「ああ。私が中心を押さえる」
「危険だ」
「分かっている」
その返答が、妙に静かだった。
「私には精霊としての方法がある。君たちほど直接〈混沌〉へ引かれない」
キースは一瞬だけ迷った。
しかし、考え続ける時間はない。
「分かった。メルリル!」
「ええ!」
二人は別方向へ走った。
人間魔導を〈混沌〉そのものへ当てず、その周囲の現実を固定する。石床へ術式を刻み、洞窟の形がこれ以上崩れないよう、外側から押さえていく。
キースの光とメルリルの風が、異なる位置から伸びて一つの円環を形作った。
その瞬間、〈混沌〉が激しく脈打つ。
「来ますわ!」
黒い触手が一斉に伸びた。
十本。
二十本。
やがて数える意味さえなくなり、ローゼンが作った岩壁を次々と削り取っていく。
「サファイア様!」
「ローゼン、下がっていなさい!」
サファイアの周囲に、淡い蒼の光が生まれた。
人間の魔導式とは違う。
精霊術とも、少なくともローゼンが普段使うものとは異なっている。細い光の線が幾重にも重なり合い、透明な織物を広げるように空間へ張り巡らされていった。
キースは一瞬、その術へ目を奪われた。
「何だ、あれは……」
「今は観察している場合ではありませんわ!」
「分かっている!」
蒼い光が〈混沌〉を包み込む。
黒いものは収縮と膨張を繰り返して激しく抵抗し、そのたびに洞窟全体が低く震えた。
「封印を閉じる!」
キースが叫ぶ。
「三、二――」
「待って!」
ローゼンの声が飛んだ。
〈混沌〉が突然、サファイアのいる方向へだけ大きく膨れ上がった。
「サファイア様!」
黒い壁と蒼い光が、正面から衝突する。
次の瞬間、サファイアの姿が半ばまで黒へ呑み込まれた。
「ローゼン、来るな!」
彼が叫ぶ。
いつもの声だった。
「でも!」
「私なら大丈夫だ!」
ローゼンが一歩踏み出す。
キースは咄嗟にその腕を掴んだ。
「離してください!」
「今行ったら、君まで呑まれる!」
「サファイア様が!」
「分かっている!」
黒はサファイアの肩まで包み込んでいた。それでも彼は片腕を伸ばし、蒼い光をさらに強める。
「今だ、キース!」
「サファイア!」
「閉じろ!」
迷えば、〈混沌〉が洞窟の外へ溢れる。
閉じれば、サファイアまで封じ込めるかもしれない。
ほんの数呼吸。
以前のキースなら、そこで選べなかったかもしれない。
今は違う。
「メルリル!」
「ええ!」
二人が同時に術式を閉じた。
円環が完成し、洞窟の床から幾重もの光が立ち上がる。〈混沌〉そのものではなく、それが存在する空間を外側から締め上げるように、封印が閉じていった。
「サファイア様!」
ローゼンの叫びが洞窟へ響く。
黒いものは蒼い光ごと急速に収縮し、一点へ集まり――そのまま消えた。
*
洞窟へ静寂が戻った。
中央には、何もなかった。
「……サファイア様?」
ローゼンの声だけが、空洞の中へ残る。
返事はない。
「サファイア様!」
キースの手を振りほどき、ローゼンが走った。
「待て、ローゼン!」
すでに〈混沌〉の気配は消えている。だが、それで危険までなくなった保証はない。
ローゼンは聞かなかった。
先ほどまでサファイアが立っていた場所へ膝をつき、石床へ両手を這わせる。
「サファイア様!」
衣服もない。
血もない。
魔力の残滓さえ、ほとんど感じられなかった。
メルリルが慎重に周囲を調べる。
「〈混沌〉も消えていますわ」
「移動した?」
キースが尋ねた。
「分かりません。少なくとも、ここには反応がありません」
「サファイアは?」
その問いには、メルリルも答えられなかった。
ローゼンが顔を上げる。
「呑まれたのでございますか」
誰も、すぐには返事をできなかった。
「そんな……」
声が震える。
「サファイア様が……?」
ローゼンにとって、サファイアは幼い頃からそこにいた。
最初に会った日のことは覚えていない。
それでも、記憶をどこまで遡っても彼がいる。
大樹の根から落ちたとき。
初めて遠出したとき。
《夢》で怖いものを見て泣いた朝。
精霊の里を出ると決めた夜。
サファイアは、いつもそこにいた。
「探します」
ローゼンが立ち上がる。
「どこを?」
「洞窟の奥を。別の通路へ移されたのかもしれません」
「ローゼン」
「まだ決まっておりません!」
深紅の瞳へ涙を浮かべたまま、ローゼンはキースを見た。
「呑まれたと決まったわけではございません!」
「ああ」
キースは否定しなかった。
「探そう」
ローゼンが僅かに息を詰める。
「ただし、一人で走らない。まず洞窟全体を確認する」
「はい」
メルリルも頷いた。
「わたくしも手伝いますわ。〈混沌〉が消えた場所とサファイア様が消えた場所が同じなら、転移のような現象が起きた可能性もあります」
「分かるのか?」
「今から調べるのです!」
「そうだったな」
フユだけは、先ほどから何も言っていなかった。
空洞の中央――サファイアが消えた場所を、ただじっと見つめている。
「フユ?」
「いない」
ローゼンの顔が強張った。
「やはり……」
「死んだとは言ってない」
フユが振り返る。
「いないだけ」
それが慰めなのか、単なる観察なのかは分からない。
「探そう」
キースがもう一度言った。
ローゼンは、強く頷いた。
*
洞窟を隅々まで探した。
脇道。
地割れ。
地下水の流れ。
封じられた古い空洞。
見落としがないよう何度も行き来したが、どこにもサファイアはいなかった。〈混沌〉も消えたままで、別の場所へ移動した痕跡さえ見つからない。
夕方になる頃には、調べられる場所そのものがなくなった。
「一度、里へ戻ろう」
キースが言った。
ローゼンは反論しなかった。
そのことの方が、キースには辛かった。
いつもの彼女なら、もう少しだけ、まだ探すと口にしたかもしれない。今は唇を噛み、視線を伏せたまま、ただ静かに答えた。
「はい」
帰り道に、サファイアの足音はなかった。
五人で来た道を、四人で戻る。
ローゼンは何度も背後を振り返った。森のどこかから、あの静かな足取りが追いついてくるような気がした。
もちろん、誰も来なかった。
*
その夜、ローゼンは眠らなかった。
大樹の内部へ作られた自室で、窓代わりの葉の隙間を長いあいだ見つめていた。以前なら眠れば《夢》へ行けることがあり、そこでアイリスやクローカスへ話せば、何か知っているのではないかと思えたかもしれない。
だが、《夢》はもう閉じている。
こんなときになって、失った場所の大きさまで、あらためて胸へ戻ってきた。
扉を叩く音がした。
「ローゼン」
キースの声だった。
「入っても?」
「はい」
扉が開き、キースは湯気の立つ杯を二つ持って入ってきた。
「メルリルが、眠れないなら飲めと言っていた」
「メルリル様が?」
「正確には、『眠らないならせめて温かいものを飲みなさい。研究対象が体調を崩すと困りますわ』だ」
ローゼンは少しだけ笑った。
「メルリル様らしいですね」
「ああ」
キースは向かいへ座り、杯を置いた。
しばらく、二人とも話さなかった。
「キース様」
「何だ」
「もし……」
ローゼンは言葉を探した。
「サファイア様が〈混沌〉に呑まれていたら」
そこで声が続かなくなった。
キースは、安易に「大丈夫だ」とは言わなかった。
マーカス。
死んだ人間は帰ってこない。
あの日、根拠のない希望がどれほど残酷になり得るのかを知った。
「分からない」
だから、そう答えた。
「生きているかもしれない。そうでないかもしれない」
ローゼンの瞳から涙が落ちる。
「でも、明日また探す」
「はい」
「見つかるまでは、分からないままにしておこう」
ローゼンは涙を拭い、ゆっくりと頷いた。
「はい」
その夜、彼女はほとんど眠らなかった。
*
朝。
里のざわめきで、ローゼンは目を覚ました。
最初は、また〈混沌〉が発生したのだと思った。
寝台から飛び起き、大樹の外へ出る。根元の広場には多くの精霊たちが集まっていた。
その輪の中心に、人影がある。
ローゼンの足が止まった。
「……サファイア様」
深い青の服。
銀糸の刺繍。
青灰色の髪。
昨日までと、何も変わらない姿。
サファイアが立っていた。
「ローゼン」
彼が笑った。
その笑顔を見た瞬間、ローゼンは考えるより先に走っていた。
「サファイア様!」
胸へ飛び込む。
サファイアは、その身体を受け止めた。
「ご無事だったのですね!」
「ああ。心配をかけた」
「どこにいらしたのですか! 昨日、洞窟から消えて……わたくし……」
その先は言葉にならなかった。
涙が止まらない。
サファイアは、彼女の背中へそっと手を置く。
「大丈夫だよ」
ローゼンの呼吸が、一瞬だけ止まった。
「僕は、こうして戻ってきた」
僕。
ローゼンは顔を上げた。
サファイアは、いつもの顔で笑っている。
「……サファイア様?」
「どうした?」
「あの……」
言えなかった。
サファイアが自分を《僕》と呼んだことなど、覚えている限り一度もない。
いつも《私》だった。
「どこか痛むのか?」
「いいえ」
「ならよかった」
彼はローゼンの頭へ手を置く。
その仕草は知っている。
幼い頃から、何度もしてもらった。
「何があったんだ!」
そこへキースとメルリルが走ってくる。
サファイアが二人を見る。
「キース。メルリル。心配をかけたね」
「本当にサファイアなのか?」
「随分な挨拶だな」
「昨日、目の前で〈混沌〉に呑まれたんだぞ!」
「正確には、呑まれてはいない」
「では何が起きた?」
「私にも、すべては分からない」
私。
戻った。
ローゼンは、余計に分からなくなった。
「黒いものに包まれたあと、洞窟の別の場所へ押し出されたようだ。そこから地上へ出るまで少し時間がかかった」
「別の場所?」
「かなり離れていた。森へ出た時には夜だったよ」
「なぜ、すぐ戻らなかった」
「方向を見失った。あの辺りは〈混沌〉の影響で、森の道もずれていたらしい」
説明としては成立している。
不自然だと断定できるほどのことはない。
「身体は?」
メルリルが尋ねる。
「問題ない」
「調べさせてくださいませ」
「もちろん」
サファイアは穏やかに応じ、そのまま歩き出した。
ローゼンは、少し遅れて彼の背中を見た。
一歩目。
靴の踵が地面へ触れる。
こつ。
二歩目も、同じ音がした。
一定の間隔で、僅かに硬い足音が続く。
ローゼンの胸の奥で、何かが冷えた。
「……違う」
思わず声が漏れた。
キースが振り返る。
「何が?」
「いえ」
ローゼンは首を横へ振った。
「何でもございません」
言えなかった。
そんなことで、何を疑うというのか。
ただ、歩き方が違う。
それだけだ。
昨日までのサファイアは、もっと静かに歩いた。
踵から地面へ足を落とすことはなかった。
だが、人の歩き方など日によって変わることもある。洞窟で身体を痛めたのかもしれない。疲労が残っているだけかもしれない。
ローゼンは、そう考えようとした。
*
メルリルの検査では、異常は見つからなかった。
魔力。
精霊としての気配。
身体構造。
記憶。
簡単な質問を重ねても、サファイアは正しく答えていった。
「ローゼンが幼い頃、大樹から落ちたことは?」
キースが尋ねる。
「何度もある」
「最初は?」
サファイアは笑った。
「幼すぎて、ローゼン本人は覚えていないだろうね」
ローゼンは覚えていない。
けれど、サファイアは知っている。
「ヴァギュイザールとの最初の会話は?」
「それは……」
サファイアは少し考えた。
「ずいぶん昔だから、正確には覚えていないな」
また、最初がない。
ただし、それは以前からそうだった。
サファイアがいつからラルソウムへいるのか、誰も最初を思い出せない。
だから、今になって生じた異常とは言えない。
キースも、それ以上は追及しなかった。
「今のところ、本人と考える方が自然か」
「当然だろう?」
サファイアは苦笑した。
「私が私であることを証明しろと言われても、意外と難しいものだな」
その言葉を聞いた瞬間、キースの表情が僅かに変わった。
キルス。
私はキースだ。
自分が自分であること。
つい最近まで、自分自身について考え続けてきた問いだった。
「すまない」
キースは言った。
「疑っているわけではない。ただ、〈混沌〉から戻った者に何が起きるか分からない」
「分かっているよ」
サファイアは穏やかに頷いた。
「君自身も呑まれたのだから、慎重になるのは当然だ」
話はそこで終わった。
少なくとも、キースとメルリルにとっては。
ローゼンにとっては、終わらなかった。
*
昼。
ローゼンはサファイアを誘い、大樹の外縁を二人で歩いた。
戻ってきたことを、心から喜びたかった。
だから自分から誘った。
「昨日は、本当に心配いたしました」
「ああ。すまなかった」
「もう突然いなくならないでくださいませ」
「努力するよ」
「約束ではございませんね」
「〈混沌〉相手に約束するのは難しい」
「それは、そうでございますけれど」
サファイアが笑った。
いつもの声。
いつもの笑顔。
大丈夫。
やはり、自分が神経質になっているだけなのだ。
「ローゼン君」
ローゼンの足が止まった。
サファイアは二歩ほど先まで歩いてから、振り返る。
「どうした?」
ローゼンは彼を見つめた。
「……今」
「何だい?」
「わたくしを、何とお呼びになりました?」
サファイアが僅かに眉を寄せる。
「ローゼン、と」
「いいえ」
「そうだったかな」
「ローゼン君、と」
短い沈黙があった。
サファイアは困ったように笑う。
「そう呼ぶこともあるだろう?」
ローゼンは答えられなかった。
ない。
一度もない。
幼い頃から、ずっと。
《ローゼン》。
ただ、それだけだった。
「嫌だったか?」
サファイアが尋ねる。
「……いいえ」
ローゼンは首を横へ振った。
「少し、珍しいと思っただけでございます」
「なら、いつもどおりにしよう」
サファイアはごく自然に言った。
「行こう、ローゼン」
「はい」
また、いつもの呼び方へ戻った。
彼が歩き出す。
こつ。
こつ。
踵から地面へ落ちる、僅かに硬い足音。
ローゼンはその後ろを歩いた。
サファイアは帰ってきた。
顔も、声も、記憶も同じだった。ローゼンが幼い頃から知っていることも、彼は知っている。
ならば、サファイアなのだろう。
そう考えるべきなのだろう。
それでも。
昨日まで《私》と言っていた人が、一度だけ《僕》と言った。
音もなく歩いていた人の踵が、地面を鳴らす。
自分を《ローゼン》としか呼ばなかった人が、《ローゼン君》と呼んだ。
どれも、他人なら気にも留めないほど小さな違いだった。
だからこそ、ローゼンには怖かった。
サファイア様は帰ってきた。
そう信じたい。
けれど彼女の記憶の中では、三つの小さな違いだけが、どうしても消えずに残っていた。




