第三十二章 サファイアという記録
サファイアが戻った翌朝、ローゼンはメルリルの部屋を訪ねた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。サファイアが生きて戻ってきたこと自体は嬉しい。〈混沌〉に呑まれ、そのまま消えてしまったのではなかったと分かった瞬間には、本当に胸の奥から力が抜けるほど安堵した。
それでも、三つの違和感だけが消えずに残っていた。
一人称。
歩き方。
そして、自分の呼び方。
「なるほど」
話を最後まで聞いたメルリルは、笑わなかった。
もっとも、ローゼンの感覚を最初から全面的に信じたわけでもない。寝台の縁へ腰掛けた彼女に温かい茶を渡すと、自分は机へ肘をつき、指先で頬を支えながら考え込んだ。
「昨日まで一度も『僕』と言わなかった方が、一度だけ『僕』と言った。普段は足音を立てない方が、帰還後は踵から歩いた。そして、あなたを一度だけ『ローゼン君』と呼んだ」
「はい」
「ほかには?」
「ございません」
「記憶の混乱は?」
「サファイア様の方に、でございますか?」
「あなたの方ですわ」
予想していなかった問いに、ローゼンは瞬きをした。
「わたくし……?」
「あなたはつい先日、〈混沌〉の内部で別の人生の記憶まで見ています。人間だったローゼンの記憶と、自分自身の記憶とが混ざっている可能性を、最初に除外しておきたいのです」
言い方は相変わらず容赦がない。
けれど今のローゼンには、それが必要な確認なのだと分かった。
「人間だったローゼンは、サファイア様を存じません」
「そこは一致している?」
「はい。あの記憶の中に、サファイア様はいらっしゃいませんでした」
「では、あなた自身が昔の呼び方を忘れている可能性は?」
ローゼンは、手にした茶の表面へ視線を落とした。
絶対にない。
そう言いたかった。
だが、アムドアへ行く以前の自分ならともかく、今の彼女には、その断言を簡単に口にすることができなかった。
「……分かりません」
「よろしい」
メルリルは頷いた。
「その答えなら、調べる価値がありますわ」
「もし、わたくしの勘違いでしたら?」
「それが判明するなら、それも立派な成果でしょう。何も起きていないことを確認するのも調査です」
そこで扉を叩く音がした。
「入っていいか?」
キースの声だった。
「どうぞ」
中へ入った彼は、ローゼンとメルリルを交互に見る。
「やはり、ここにいたか」
「なぜ分かったのでございますか?」
「今朝、ローゼンがサファイアと会ったとき、妙に黙っていた。それからメルリルの部屋へ向かった」
「尾行ですの?」
「違う。たまたま見えた」
「神官長様は皆そうおっしゃるのでしょうね」
「変な疑いをかけるな!」
いつもの言い争いだった。
ただ、事情を聞いたキースはすぐに表情を改めた。
「私も昨日、少しだけ気になっていた」
「キース様も?」
「本人確認をしたときだ。受け答えは正確だった。でも……」
「でも?」
「正確すぎる、という言い方もできる」
メルリルの目が細くなる。
「どういう意味ですの?」
「質問したことには、全部答えた。でも、自分から昔の話を広げることがなかった。私たちが聞いた範囲では矛盾しなかった、というだけだ」
「それは昨日までのサファイア様も同じではございませんか?」
ローゼンが尋ねる。
「そうなんだ。だから、これも違和感以上のものではない」
キースは椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「ただ、一つだけ気になることがある。ラルソウムへ初めて来たときから、サファイアには似た問題があった」
ローゼンにも、すぐに分かった。
「最初に会った日」
「ああ」
サファイアを知らない者はいなかった。
ヴァギュイザールも。
里の古参精霊たちも。
ローゼン自身も。
それなのに、いつから彼がいるのかと尋ねると、誰も答えることができなかった。
昔から。
ずっと。
最初から。
返ってくるのは、そんな曖昧な言葉ばかりだった。
「昨日のことだけ調べても、たぶん答えは出ませんわね」
メルリルが立ち上がる。
「どうする?」
「過去を調べます」
「サファイア様の?」
「ええ。せっかくラルソウムには古い記録がございますもの。サファイアという精霊が、いつからこの里にいたのか。本人へ聞いて分からないなら、記録へ聞けばよろしいのです」
その言葉を聞いた瞬間、ローゼンはなぜか胸騒ぎを覚えた。
*
ラルソウムの記録は、人間の国のように一つの形式へ統一されてはいない。
文字で残されたものもあれば、木へ刻まれたものもある。古い歌として受け継がれる出来事もあれば、石へ触れた者へ色や匂いとして伝わる記憶もある。
一方、人間との交易や外交に関する資料は、比較的普通の文書として保存されていた。外部とやり取りをする以上、相手にも読める形へしておく必要があるからだ。
サファイアは長いあいだ、その外部交渉を担っていた。
だからメルリルは、記録そのものを見つけることには苦労しないだろうと考えていた。
「ありましたわ」
調査を始めて半刻もしないうちに、一冊目が見つかった。
大樹の根の内部に設けられた記録蔵。古い書棚から取り出した厚い帳面には、人間の街との交易記録がまとめられている。
「年代は?」
キースが尋ねる。
「約五十年前」
ローゼンも横から頁を覗き込んだ。
古い共通語で記された文書の中に、その名がある。
サファイア。
北方の人間集落との薬草取引を仲介。
精霊側の代表者の一人として会談へ出席。
冬季の街道封鎖に伴い、交易時期を変更。
「確かにいますわね」
メルリルはさらに頁をめくった。
「しかも一度ではありません。翌年も、その次も」
「不思議ではないだろう」
キースが言う。
「精霊なら、五十年前など最近だ」
「そうですわね」
ローゼンも、そこで少し安心しかけた。
「では、百年前」
メルリルが別の箱を開く。
保存布をほどき、さらに古い冊子を取り出した。
そこにも、サファイアの名があった。
森の南側で起きた人間との境界争いを仲裁。
傷ついた旅人を里へ運ぶ。
外部の学者から求められた精霊語資料の提供を断る。
「百年前にも」
ローゼンが呟く。
「見た目は?」
古い記録の間に、一枚の薄い紙が挟まれていた。
写真だった。
現在のものほど鮮明ではなく、輪郭は少し滲み、色も褪せている。それでも十数人の精霊たちが大樹の前に並んでいるのが分かる。
ヴァギュイザールもいた。
今より僅かに若く見える。
そして、その少し後ろに。
「サファイア様……」
ローゼンの指先が止まった。
青灰色の髪。
細身の長身。
深い青の衣服。
百年という時間を隔てているにもかかわらず、今とほとんど姿が変わっていない。
「精霊なら、珍しくはないのでしょう?」
メルリルが尋ねる。
「はい。百年ほどで大きく姿を変えない方はいらっしゃいます」
「なら、これも異常とは言えませんわね」
写真の裏には、撮影時の参加者名が記されている。
サファイアの名もあった。
そこでキースが、その文字へ目を留める。
「これは誰の字だ?」
ローゼンには分からなかった。
記録蔵を管理する精霊へ確認すると、当時の記録係が書いたものだという。
「サファイア本人ではない?」
「違います」
メルリルが答えた。
その時点では、まだ誰も深く考えなかった。
問題がはっきりと形を持ち始めたのは、二百年前の箱を開いてからだった。
*
「……おりますわね」
メルリルの声が低くなった。
二百年以上前。
ラルソウムから外部へ派遣された一団の記録。
そこにもサファイアはいた。
長い寒害の際、人間の村へ食糧援助を行った精霊たち。その責任者の一人として名を連ねている。
さらに別の記録では、森を抜ける古道について人間側の領主と交渉していた。
また別の記録では、水精霊と人間の漁師との争いを調停している。
名前はある。
何度も。
確かに。
「二百年前から外部交渉を担当していた」
キースが記録を並べる。
「少なくとも、この資料ではそうなる」
「もっと古いものも探します?」
ローゼンが尋ねた。
「その前に」
メルリルが手を上げた。
「少し変ですわ」
「何が?」
「五十年前、百年前、二百年前。これだけサファイア様の名前が出てくる」
「それが?」
「本人が書いたものは、どこですの?」
ローゼンは、すぐにはその意味を理解できなかった。
「サファイア様が……書いたもの?」
「ええ」
メルリルは机の上へ資料を広げ直した。
「ここにあるのは全部、サファイア様について書かれた記録です」
一冊ずつ、指で示していく。
「これは当時の記録係。こちらは人間側の領主から届いた報告書。これは交易帳。写真の裏書きも別人です」
「でも、サファイア様は外部との交渉を……」
「だからこそ、おかしいのです」
キースも同じことへ気づいた。
「外交を担当していたなら、本人の文書があるはずだ」
「そうですわ」
メルリルは立ち上がった。
「交渉報告。旅程。相手へ送った書状。受領の署名。何でもよろしい。二百年以上その仕事をしていたなら、本人の筆跡が一つくらい残らない方がおかしい」
その瞬間、調査の方向が変わった。
サファイアが存在した証拠を探すのではない。
サファイア自身が残した証拠を探す。
*
三人は、それから何時間も記録蔵を調べ続けた。
サファイアの名そのものは、いくらでも見つかった。
五十年前。
八十年前。
百年前。
百五十年前。
二百年前。
同行者の記録。
里の会議録。
交易帳。
外部から送られてきた書簡。
写真。
古い日誌。
サファイアという存在を疑う方が、よほど難しいほどだった。
ある手紙には、人間の商人がこう書いている。
サファイア殿には今回も大変世話になった。
別の手紙には、次回の会談にもサファイア殿の同席を願いたい、とある。
さらに別のものには、サファイアから口頭で伝えられた条件を了承する、と記されていた。
「手紙にもいる」
ローゼンが言う。
「ええ」
メルリルが答える。
「でも、全部、誰かがサファイア様について書いた手紙ですわ」
サファイアから誰かへ送った手紙はない。
受領したことを示す、彼自身の署名もない。
日記も。
調査報告書も。
覚え書きも。
見つからない。
「外部交渉役なのに?」
キースが何度目か分からない問いを口にする。
「口頭主義だった可能性は?」
メルリルは即座に首を横へ振った。
「二百年間、全部?」
「代書させていた?」
「なら、少なくとも『サファイアの口述を誰それが記す』くらいは残りますわ」
「署名を嫌う文化?」
「ローゼン」
メルリルが彼女へ向き直った。
「サファイア様は文字を書きませんでしたの?」
ローゼンは記憶を探った。
「書けます」
「見たことがあります?」
「はい」
答えた。
だが、次の瞬間、その言葉が喉の奥で止まった。
「……ある、はずです」
「はず?」
キースが振り返る。
「サファイア様は、多くの古い言葉をご存じです。人間の文字も。書けないはずはございません」
「書けるかどうかではない。実際に、書いているところを見た記憶は?」
ローゼンは目を閉じた。
幼い頃。
大樹の部屋。
サファイアが本を読んでいる。
ある。
地図を広げている。
ある。
手紙を受け取っている。
ある。
誰かと会談している。
ある。
では。
筆を持っている姿は。
文字を書いている姿は。
署名しているところは。
「……分かりません」
ローゼンは呟いた。
自分の声が、ひどく遠く感じられた。
「見たことが、ないのかもしれません」
メルリルも、すぐには何も言わなかった。
「二百年以上」
キースが机へ積まれた資料を見た。
「サファイアは人と会い、話し、交渉し、旅をしている。周囲の人間は、そのことを大量に書き残している」
「ああ」
「なのに」
続けたのはメルリルだった。
「サファイア本人自身が残した記録だけが、一つも存在しない」
その言葉が、記録蔵の静けさへ沈んでいった。
*
「まだ決めつけない」
キースは言った。
声に出すことで、自分自身にも言い聞かせているようだった。
「この記録蔵にないだけかもしれない。失われた。燃えた。劣化した。あるいは、別の場所へ保存されている」
「当然ですわ」
メルリルも頷く。
「だから次は、人へ聞きます」
「誰に?」
「古い方々です」
ラルソウムには、二百年前を直接覚えている精霊たちがいる。
人間の歴史調査なら、古文書から推測するしかない年代だ。
ここでは、当人へ尋ねることができる。
*
最初に尋ねたのは、苔樹の精霊だった。
老人のような姿をしているが、実際の年齢は人間の尺度では測れない。大樹の外縁で長く暮らし、二百年以上前のラルソウムも知っている。
「サファイア?」
名を聞いた老人は、すぐに笑った。
「知っておるとも」
「いつ頃からご存じですの?」
メルリルが尋ねる。
「昔からじゃ」
「二百年前には?」
「おったな」
「三百年前は?」
老人は少し考えた。
「……おったと思う」
「初めてお会いになったのは?」
そこで、老人の顔が止まった。
「初めて?」
「はい」
「……いつだったかの」
「どこで?」
「さて」
「誰かから紹介されました?」
「そうだったかもしれん」
「その方は?」
「覚えておらんな」
メルリルは、そこで話題を変えた。
二百年前の大雪について尋ねる。
老人は驚くほど細部まで覚えていた。どの木が折れたか。どの谷が凍ったか。誰が人間の村へ食料を運んだか。その話の中には、当然のようにサファイアも登場する。
「彼は何をしました?」
「人間と話しておった。あやつは昔から、外の者と話すのが上手かったからの」
「昔から?」
「そうじゃ」
「いつから?」
老人は、また答えられなかった。
*
二人目は、川の精霊だった。
「サファイアなら知っていますよ。昔、一緒に南へ行きました」
「いつ頃?」
「百六十年ほど前でしょうか」
「その時には、すでに親しかった?」
「ええ」
「いつから?」
「……さあ」
三人目は花精霊。
「ローゼンを小さい頃から面倒見ていたでしょう?」
「はい」
「あなたが生まれる前から、あの方はいましたよ」
「サファイア様と最初に会った日のことを覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん――」
そこで言葉が止まった。
「……あら?」
「どうされました?」
「変ね。覚えていると思ったのだけれど」
四人目は石精霊。
五人目は風精霊。
六人目は、古い樹の精霊。
皆、サファイアを知っていた。
好きな食べ物まで覚えている者がいる。
旅で失敗した話を笑いながら語る者もいる。
喧嘩をした記憶。
助けられた記憶。
一緒に働いた記憶。
それらは、いくらでも出てきた。
けれど。
「初めて会った日は?」
その問いを向けた瞬間だけ。
誰も、答えることができなくなった。
*
「気持ち悪いですわ」
メルリルが、珍しく率直な言葉を使った。
大樹の根元で、三人は集めた記録と聞き取りの内容を整理していた。
ローゼンは反論できなかった。
「全員が、同じ種類の忘れ方をしている」
キースが言う。
「普通の記憶の欠落とは思いにくい」
「しかも、サファイア様についてだけです」
「他の古参精霊でも試した?」
「ええ」
メルリルが別の紙を取り出す。
「ヴァギュイザール様との初対面を尋ねたところ、覚えている方がいました。大昔のことですから曖昧ではありますけれど、場所や状況くらいは答えられています」
「なら、精霊だから最初の記憶が曖昧になるわけではない」
「そうですわね」
ローゼンは膝の上で手を握り締めた。
「でも」
二人が彼女を見る。
「サファイア様は、いらっしゃったのでございます」
「ローゼン」
「写真にもおります。手紙にも。皆様の記憶にも」
「分かっている」
「わたくしの記憶にも、ずっと」
声が少し強くなる。
「大樹から落ちた時も。風の声が怖くて眠れなかった夜も。初めて森の外へ行った日も。全部、サファイア様がいらっしゃいます」
キースは、その記憶を否定しなかった。
「私も、サファイアが存在しなかったとは言っていない」
「でも……」
「むしろ逆だ」
キースは古い写真を手に取った。
二百年近く前。
大勢の精霊たちの中に、サファイアがいる。
「存在していた証拠は、多すぎる」
写真。
文書。
手紙。
記憶。
人間との交渉。
ラルソウムでの生活。
「だから、分からないんだ」
「何がでございますか」
「どうして、本人の記録だけがない」
ローゼンは俯いた。
「偶然では?」
「その可能性はある」
「全部、失われた」
「それも」
「サファイア様は、ご自分で記録を残すことを好まなかったのかもしれません」
「あり得る」
キースは一つずつ否定せずに受け止めた。
「でも、二百年以上だ」
そこで、ローゼンも言葉を失った。
「私なら、神官長として十八年生きただけでも、自分の署名が何百枚残っているか分からない」
「あなたは立場が特殊ですわ」
「なら、サファイアも同じだ。外部交渉を担当していた」
メルリルが腕を組む。
「一度も署名をしない。自筆の報告を残さない。誰かへ手紙を書かない。それを二百年以上続ける方が、むしろ難しいですわね」
つまり、記録がないことそのものが、不自然だった。
*
夕方。
ローゼンは一人で、幼い頃に暮らしていた部屋へ向かった。
今ではもう使われていない。大樹の内部に作られた小さな空間には、昔の品が幾つか残されている。
木の実で作った飾り。
初めて自分で編んだ花輪。
風精霊からもらった羽根。
そして、一つの箱。
サファイアからもらったものを入れていた。
「……ある」
蓋を開く。
小さな石。
外の街から持ってきてくれた硬貨。
青い布。
古い本。
どれもサファイアからもらったものだ。
覚えている。
「サファイア様が……」
ローゼンは本を手に取った。
表紙を撫でる。
幼い頃、彼がこれを渡してくれた。
その日のことまで思い出せた。
雨が降っていた。
大樹の内側。
サファイアの手。
――ローゼンには、少し難しいかもしれないね。
彼は、そう言って笑っていた。
「……字」
ローゼンは本を開いた。
贈り物なら。
名前くらい。
何か書いていないだろうか。
最初の頁。
何もない。
最後まで確かめる。
何もない。
紙が挟まれていた形跡もなかった。
次に青い布を見る。
刺繍はある。
けれど、サファイアの名はない。
硬貨にも、当然ながら彼の痕跡はない。
「そんな……」
ローゼンは箱の底まで探した。
サファイアからもらったものは、確かにある。
けれど、サファイアが作ったと分かるものはない。
サファイアが書いた文字。
彼の署名。
彼自身の手から生まれたと証明できる何か。
それだけが、一つもなかった。
「どうして……」
胸が苦しくなる。
洞窟でサファイアの姿が消えたときと、よく似た感覚だった。
「ローゼン」
背後から声がした。
身体が強張る。
振り返る。
サファイアが入口に立っていた。
「こんなところにいたのか」
「……サファイア様」
「何をしている?」
ローゼンは咄嗟に箱の蓋を閉じた。
「昔のものを、少し」
「懐かしいね」
彼が部屋へ入ってくる。
こつ、と踵が床へ触れた。
ローゼンの指へ、無意識に力が入る。
サファイアは箱の前へしゃがみ込み、青い布を手に取った。
「これは、まだ持っていたのか」
「覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん」
「いつ、くださいました?」
「君がまだ小さい頃だ」
「どこで?」
サファイアの動きが、僅かに止まった。
「……ここだったかな」
「違います」
ローゼンは、自分でも驚くほど早く答えていた。
「森の南にございます、小さな泉でございました」
「ああ」
サファイアは笑った。
「そうだった。私の記憶違いだ」
それだけだった。
普通なら、それで終わる。
「サファイア様」
「何だい?」
「この本も、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん」
「何とおっしゃって渡されました?」
サファイアは本へ目を落とした。
「難しい本だけれど、君なら読めるだろう、と」
違う。
正確には。
――ローゼンには、少し難しいかもしれないね。
似ている。
意味も、ほとんど同じだ。
でも、違う。
「ローゼン?」
サファイアが彼女を見る。
「どうしたんだ?」
深い青の瞳。
昔から、自分を見てきた目。
ローゼンは訊きたくなった。
あなたは誰ですか。
けれど、その言葉は口にできなかった。
「……何でもございません」
「そうか」
サファイアは青い布を箱へ戻し、立ち上がる。
「夕食にしよう。キースたちも待っている」
「はい」
彼が歩き出す。
こつ。
こつ。
硬い足音が少しずつ遠ざかっていく。
ローゼンは、すぐにはその背中を追えなかった。
*
その夜、ローゼンが部屋で見つけたものについて聞くと、メルリルは長いあいだ黙っていた。
「つまり」
やがて、慎重に口を開く。
「サファイア様からもらった品は残っている。でも、サファイア様自身が作ったと証明できるものはない」
「はい」
「そして帰還後のサファイア様は、過去の出来事を大筋では覚えているものの、細部があなたの記憶と一致しない」
「はい」
「昨日までの本人も細部を間違える可能性はありますけれどね」
「分かっております」
「なら」
メルリルは紙へ一本の線を引いた。
左側に、存在を示すものを書き並べる。
写真。
他者の手紙。
会議録。
交易記録。
古参精霊の記憶。
ローゼンの記憶。
贈られた品。
そして右側。
本人自身が残したもの。
そこには何も書かなかった。
空白だけが残る。
「妙ですわ」
「やはり?」
「ええ」
メルリルは、その空白を見つめた。
「サファイアという存在について書かれた記録なら、世界中にあるかもしれない」
「はい」
「でも」
指先が空白を軽く叩く。
「サファイアから世界へ向けて残された記録だけがない」
キースが息を吐いた。
「まるで――」
そこで言葉を止める。
「何ですの?」
「いや」
「途中で止めないでくださいませ」
「言葉にすると、推測が事実みたいになりそうで嫌なんだ」
「今さら慎重ですわね」
「大事だろう」
「では、推測としてお聞きします」
キースは少し迷った。
「まるで、サファイアという存在が」
ローゼンを見る。
言いにくい。
それでも続けた。
「周囲からしか作られていないみたいだ」
ローゼンの顔が強張った。
「作られて……?」
「違う」
キースはすぐに訂正した。
「そう見える、というだけだ。サファイア自身が存在しなかったという意味じゃない」
「でも」
メルリルが考え込む。
「面白い見方ですわね」
「面白いと言うな」
「研究上の意味です!」
「ローゼンの前だぞ」
「分かっていますわ」
メルリルはローゼンへ向き直った。
「ごめんなさい」
「いいえ」
ローゼンは首を横へ振った。
怖い。
けれど、調べたい。
それは今まで、キースたちが何度も選んできたことだった。
「続けてくださいませ」
メルリルは頷く。
「もし、サファイア様という方を、本人が残した記録ではなく、周囲の人間や精霊が残した記録だけで辿るとします」
写真にいる。
手紙にいる。
思い出の中にいる。
会話の中にいる。
誰かの人生の中には、確かに存在している。
「すると、わたくしたちが確認できるのは、『誰かがサファイアを見た』『誰かがサファイアと話した』『誰かがサファイアを覚えている』という事実ばかりになりますわ」
「本人の側から見たサファイアがない」
キースが言う。
「そうです」
ローゼンは震える手を握った。
「それでも」
小さく問いかける。
「人は存在できるのでしょうか」
二人が彼女を見る。
「本人の記録が一つもなくても。周囲の方々が、その人を覚えていれば」
キースは、すぐには答えなかった。
名のない祈り。
記録されなくても、存在できる。
これまで彼ら自身が、何度も考えてきたことだった。
「できると思う」
キースは答えた。
「記録を残さない者が、存在しないことになるわけじゃない」
「では」
「だから、そこなんだ」
キースの表情が険しくなる。
「本人の記録がないことだけなら、それで終わる。でも、誰も最初を覚えていない」
サファイアの問題は、一つではない。
記録だけなら、説明できるかもしれない。
記憶だけなら、それも説明できるかもしれない。
けれど、その二つが同じ場所で、同じように空白になっている。
*
翌日。
三人はヴァギュイザールのもとを訪れた。
《紅獅子の君》は大樹の外縁にある広間で、周辺の〈混沌〉発生について報告を受けていた。話が終わるのを待ってから、キースが尋ねる。
「ヴァギュイザール。一つ、昔のことを聞きたい」
「何じゃ」
「サファイアと初めて会ったのは、いつだ?」
老精霊の顔が止まった。
ほんの一瞬。
それだけの反応で、ローゼンは答えを予感した。
「サファイアか」
「そうだ」
「……古い話じゃ」
「どのくらい古い?」
「さての」
「場所は?」
「ラルソウムだったと思うが」
「誰かと一緒だった?」
ヴァギュイザールは目を閉じた。
記憶を探る。
長い沈黙が続いた。
「分からぬ」
キースもメルリルも、すぐには何も言わなかった。
「妙じゃな」
やがて、ヴァギュイザール自身が言った。
「何が?」
「わしは、あやつを知っておる」
古老の声が、ゆっくりと広間へ落ちていく。
「何度も話した。共に旅したこともある。外の国との面倒事を押しつけたことも、逆に助けられたこともある」
「はい」
ローゼンが答える。
「なのに」
ヴァギュイザールは、深く皺の刻まれた手を額へ当てた。
「最初がない」
ローゼンの胸が、強く痛んだ。
「思い出せないのではない」
ヴァギュイザールは続ける。
「思い出そうとすると、その前にもサファイアがおる」
「前にも?」
「そうじゃ」
「どこまで遡っても?」
老精霊は目を開いた。
「そう見える」
その言葉を聞いた瞬間、ローゼンが幼い頃から抱いてきた確信が、急に別の意味を帯びたように思えた。
ずっと一緒だった。
それは、これまで安心の証だった。
父親に近い人が、生まれたときから傍にいてくれた。
けれど、もし。
《ずっといる》ことと。
《いつからいるのか分からない》ことが。
同じ現象なのだとしたら。
「ローゼン」
ヴァギュイザールが彼女を見る。
「何を調べておる?」
ローゼンは答えようとして、ふと広間の入口へ目を向けた。
そこに、サファイアが立っていた。
「何の話をしているんだい?」
穏やかな声。
深い青の衣。
青灰色の髪。
昔から知っている顔。
ローゼンにとって、父親に近い人。
記録の中にもいる。
写真にもいる。
皆の記憶にもいる。
二百年以上前から、確かに。
それなのに、誰一人として、彼が世界へ現れた最初の日を知らない。
サファイアはいつものように微笑んだ。
「何か、私に聞きたいことでも?」
ローゼンはその顔を見つめた。
そして初めて。
この人を知っている、と言い切ることができなかった。




