第三十三章 蒼魔の君
「何か、私に聞きたいことでも?」
広間の入口に立つサファイアは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
深い青の上着には銀糸の刺繍。青灰色の髪に、静かな目元。
幼い頃から、何度となく見上げてきた顔。
ローゼンは声を失った。
ヴァギュイザールも、すぐには答えなかった。
つい先ほどまで、彼自身が語っていたのだ。
サファイアとは何度も旅をした。議論を交わし、助けられたこともあれば、逆に面倒事を押しつけたこともある。
白銀の時代を越え、黄銅の時代へ至るまでの長い時間。そのすべてではないにせよ、ヴァギュイザールにとってサファイアは「ずっと知っている相手」だった。
なのに、最初だけがない。
初めて出会った日。
初めて名前を聞いた時。
初めて、サファイアという存在を《サファイア》として認識した瞬間。
そこだけが、ない。
思い出そうとすればするほど、その前の記憶にも、すでにサファイアがいる。
キースは机の上に置かれた古い写真へ一度目を落とし、それから入口の男へ視線を戻した。
「聞きたいことはある」
「そうか」
サファイアは静かに部屋へ入ってくる。
こつ、と踵が床を鳴らした。
その小さな音だけで、ローゼンの胸が縮んだ。
まただ。
以前のサファイアは、こんな歩き方をしなかった。
ほんの僅かな違い。他人なら気づかない程度のもの。
けれど、幼い頃から何千回、何万回とその背中を追ってきたローゼンには、どうしても見過ごせない違いだった。
「二百年前の記録にも君がいる」
キースは切り出した。
「百年前にも、五十年前にも。それ自体は、長命な存在なら不思議ではない」
「そうだね」
「だが」
キースは机上へ並べた紙を一枚ずつ指した。
「君自身が残した記録だけがない」
サファイアの笑みは変わらない。
「署名がない。自筆の報告書がない。私信もない。外交交渉を何度も担当しているのに、君自身の筆跡だと確認できるものが、一つもない」
「古いものだから、失われたのでは?」
「一つや二つなら、それでいいですわ」
メルリルが横から口を挟んだ。
「二百年以上ですわよ」
机へ指を置く。
会議録。
日誌。
他者からの手紙。
交易記録。
旅の同行者による記録。
写真。
絵。
口述を書き留めた紙片。
「あなたについて書かれた文書なら、山ほど残っておりますの」
メルリルはサファイアを見る。
「なのに、あなた自身から始まる記録だけが、綺麗にありませんのよ」
「偶然かもしれない」
「もちろん」
メルリルは頷いた。
「偶然の可能性はございます」
「なら――」
「ですから、偶然と決めつけず調べておりますの」
キースが僅かに口元を上げた。
少し前なら、逆だった。
異常だと気づけば、すぐに異常な原因へ飛びついた。今のメルリルは、一番面白そうな仮説を思いついても、それを事実とは言わない。
それでも、好奇心に満ちた目だけは、まったく変わっていなかった。
「サファイア」
キースが問いを戻す。
「君自身は、自分が書いた古い記録を覚えている?」
ほんの少し、間があった。
「昔のことだからね」
「それは答えになっていない」
「覚えていないものもある」
「では、覚えているものは?」
サファイアは机へ近づき、古い写真を一枚手に取った。
ラルソウムの古い集合写真。
何十人もの精霊が並ぶ中央付近に、サファイアがいる。
今とほとんど変わらない姿で。
「ずいぶん調べたんだね」
「答えになっておりませんわ」
「答えられないこともある」
その言葉で、キースの表情が僅かに変わった。
分からない。
この旅へ出てから、その言葉を何度聞いただろう。
以前のキースにとって、それは無知だった。敗北だった。自分が世界一ではないと認める言葉だった。
今は違う。
分からないものを、分かったことにしない。
それは時に、正しい答えを言うこと以上に難しい。
だからこそ、同じ「答えられない」でも、本当に答えを持たない者と、答えを持ちながら伏せている者の違いも、少しずつ分かるようになっていた。
「分からないのか?」
キースが尋ねる。
「それとも」
一拍。
「答えたくないのか?」
サファイアが顔を上げる。
二人はしばらく無言で見つめ合った。
先に口を開いたのは、ローゼンだった。
「サファイア様」
「何だい、ローゼン」
いつもの呼び方だった。
それだけで、胸が痛む。
「わたくしは」
ローゼンは両手を胸元で重ねた。
「あなた様を存じております」
「ああ」
「小さい頃から、ずっと」
「もちろんだ」
「ですが……」
声が止まる。
言葉にしてはいけない気がした。
口にした瞬間、これまでの人生そのものへ亀裂が入るような。
そんな恐怖があった。
それでも、聞かなければ、もう以前のようには笑えない。
「いつから」
ローゼンは顔を上げた。
「わたくしの傍にいらっしゃったのでございますか?」
サファイアの表情から、ほんの僅かに笑みが消えた。
「君が幼い頃からだよ」
「それは存じております」
「なら――」
「最初は」
ローゼンは続けた。
「いつでございますか」
沈黙。
「わたくしが初めてあなた様へお会いした日は?」
返事はない。
「初めて抱いていただいた日は?」
ない。
「初めて、わたくしを《ローゼン》と呼んでくださった日は?」
サファイアは答えない。
「初めて」
ローゼンの声が震えた。
「あなた様がサファイア様なのだと、わたくしが知った日は?」
答えはなかった。
ローゼンは胸へ手を当てる。
鼓動が速い。息を吸うたび、胸の中央に硬い石でも詰められているようだった。
「わたくしにも……ございません」
サファイアの瞳が細くなる。
「思い出せないのでございます」
幼い頃。
もっと幼い頃。
物心がつく前へ。
覚えている限界まで戻っても、
「どれほど昔の記憶へ戻っても、すでにサファイア様がいらっしゃる」
そこにいる。
けれど、最初だけがない。
「出会った記憶だけが、ございません」
「精霊の記憶は長い」
サファイアが答える。
「失われることもある」
「皆様も同じです」
ローゼンはヴァギュイザールを見る。
老いた《紅獅子の君》は何も言わず、ただサファイアを見つめている。
「サファイア様を知る古い方々は、皆様、そうでございました」
昔からいる。
知っている。
一緒にいた。
旅をした。
話した。
笑った。
助けられた。
なのに、誰も最初を知らない。
「昨日」
ローゼンは一度、息を整えた。
「わたくしは、この問いを口にできませんでした」
けれど、今なら。
「あなたは」
声が震える。
「誰なのでございますか」
広間が静まり返った。
サファイアは、長いあいだ何も答えなかった。
手にしていた写真を眺める。
そこに写っている、昔のサファイア。
やがて、小さく息を吐いた。
「惜しいな」
声が変わった。
音そのものは同じ。
だが、響きが違う。
いつもローゼンへ向けられていた柔らかさが、そこにはなかった。
「もう少し続くと思っていた」
「……サファイア様?」
「ローゼン」
男は微笑んだ。
「君は昔から、妙なところだけ鋭い」
顔はサファイア。
声もサファイア。
けれど、その笑い方をローゼンは知らない。
「どういう意味だ」
キースが一歩前へ出た。
サファイアは彼へ視線を移す。
「そのままの意味だよ」
「何が」
「君たちが私について調べ始めた時点で、この段階は終わりだと思っていた」
「段階?」
メルリルの手が、ゆっくり腰の魔導具へ近づく。
サファイアは止めない。
「メルリル」
「何ですの」
「君は本当に優秀だ」
「急に褒めても遅いですわよ」
「サファイアという記録の空白へ、よく気づいた」
「答えを」
メルリルの声が低くなる。
「褒め言葉で誤魔化すおつもり?」
「いいや」
サファイアは笑った。
「心から感心している」
そう言って、右手を上げた。
*
大樹の外で、悲鳴が上がった。
「何だ!」
キースが振り返る。
ほとんど同時に、若い精霊が広間へ駆け込んできた。
「ヴァギュイザール様!」
息を切らしている。
「北側の封鎖区で、人間の魔導士が倒れました!」
そこで精霊の声が震えた。
「指が……黒く――」
言葉が止まる。
サファイアがいることに気づいたのだ。
「ちょうどいい」
サファイアは静かに言った。
キースの顔が険しくなる。
「何が、ちょうどいい?」
「言葉より」
サファイアは踵を返した。
「見た方が早い」
「待て!」
ヴァギュイザールが低く叫ぶ。
だが、サファイアは振り返らなかった。
ローゼンたちも追う。
大樹の北側。
〈混沌〉の急増へ備えた簡易封鎖区。
アムドアから戻って以降、ラルソウム周辺でも異常が増えていた。近隣の人間居住地から、何人かの魔導士が調査と封鎖作業へ協力に来ている。
その一人が、地面へ倒れていた。
「手を!」
キースが駆け寄る。
両脇を精霊たちに支えられた男は、荒い息を吐きながら震えていた。
右手。
三本の指が、すでに黒い。
アムドアで見た、ラウルと同じ症状。
「いつからだ!」
「つい先ほどです!」
「魔導を使わせるな!」
「使っておりません!」
「最後に使ったのは?」
「一刻ほど前に、封鎖術を!」
「それから?」
「何も!」
男の瞳へ、黒い染みが広がり始めている。
キースの胸の奥で、イースが脈打った。
「この反応……」
アムドア。
同じだ。
少し離れた場所では、メルリルも胸へ手を当てていた。
「キース」
「君も?」
「ええ」
イースが何かを感じている。
「サファイア!」
キースが振り返った。
「何を知っている!」
「君たちよりは」
穏やかな返答だった。
「ずっと多くを知っている」
「何?」
「その症状について、私は長く観察してきた」
サファイアが患者へ近づく。
ローゼンは反射的に、サファイアと患者のあいだへ立った。
「離れてくださいませ」
「ローゼン」
「何をなさるおつもりです」
「確かめたいのだろう?」
「何を――」
サファイアの腕が伸びた。
人の腕ではなかった。
肘から先が滑るように長くなり、青い袖ごと細い蔓のような形へ変わって、患者の身体へ巻きつく。
「サファイア様!」
ローゼンが叫ぶ。
拘束された男も悲鳴を上げた。
「やめろ!」
キースは反射的に術を構成しかけた。
「キース、待て!」
ヴァギュイザールの怒声。
その一瞬の躊躇だけで、間に合わなかった。
男の身体が大きく脈打つ。
「がっ――!」
黒化が、一気に進んだ。
指から手首へ。
腕。
肩。
首。
顔。
アムドアでは何日もかけて進行した崩壊が、僅か数呼吸のうちに全身へ走る。
「助け……!」
声が濁った。
皮膚と衣服。
肉と骨。
身体の内と外。
人間を人間として分けていた境界が、崩れていく。
「やめてください!」
ローゼンが叫ぶ。
サファイアは止めない。
人間だったものが、黒い塊へ変わった。
〈混沌〉。
アムドアで最後に残った拳ほどの塊とは違う。
人ひとり分の、巨大な黒いもの。
形を持たず、蠢き、崩れ、膨らんでいく。
本来なら、触れたものを呑み込む。
そのはずだった。
だが今は、サファイアの長く伸びた腕へ絡みついたまま暴れている。
「キース……」
メルリルの声が震えた。
「これ……」
キースの顔から血の気が引く。
「お前が……」
サファイアは、その〈混沌〉へ素手を差し入れた。
「やめろ!」
キースの叫びと同時に、サファイアが掌を閉じる。
黒いものが潰れた。
いや、潰れたように見えた。
次の瞬間、それは掌から腕へ、肩へ、胸へと吸い込まれていく。
サファイアの身体を、黒い脈が一瞬だけ走った。
そして消えた。
人間も。
〈混沌〉も。
何も残らなかった。
「……吸収」
メルリルが呆然とする。
「なさいましたの?」
サファイアは自分の手を見る。
その表情に浮かんでいたのは、満足としか呼びようのないものだった。
「良質だ」
ローゼンが一歩、後ろへ下がった。
「サファイア様……」
「魔導士は扱いやすい」
彼は淡々と言った。
「少なくとも私の観測では、人間魔導と〈混沌〉の間には、一般に理解されているより近い関係がある」
「観測?」
キースが睨む。
「イースへ一定の刺激を与えると、肉体と外界を分けている境界が崩れやすくなる」
キースの瞳が見開かれた。
「アムドアの黒化症状」
「奇病と呼んでいるものかい?」
「お前がやったのか」
サファイアは小さく笑う。
「すべて、と言い切るつもりはない」
その言い方に、キースの背筋が冷えた。
「少なくとも、私が条件を整えた例は相当数ある」
「条件?」
「どの程度まで境界を崩せば、自律的な〈混沌〉化へ移行するのか」
指を折っていく。
「距離。魔力量。イースの強さ。感情。祈り。名への執着」
サファイアは手を下ろした。
「いろいろ試した」
キースの手が震える。
「人間で?」
「他に何を使う?」
あまりにも自然な問いだった。
キースの顔が歪む。
「ふざけるな!」
地面を蹴り、魔導式を立ち上げる。
だが、サファイアが片手を向けた。
それだけで、キースの胸の奥にあるイースが掴まれた。
「ぐっ……!」
膝が落ちる。
「キース様!」
「来るな、ローゼン!」
胸が痛い。
アムドアで〈混沌〉に引かれた時と似ている。
けれど、違う。
今回は明確な意志がある。
正確に、狙って、キースの内側だけを掴んでいる。
「やはり」
サファイアが嬉しそうに言った。
「君は素晴らしい」
「何……?」
「キース」
青灰色の瞳が、まるで宝石でも眺めるように彼を見る。
「そのイースは、これまで見た中でも飛び抜けて美しい」
「人を……」
息が詰まる。
「材料みたいに言うな!」
「材料?」
サファイアは本当に不思議そうだった。
「君たちも、世界を材料にして魔導を使うだろう」
「同じにするな!」
メルリルが術式を展開した。
「キースを離しなさい!」
風。
刃。
高速で編まれた魔導が放たれる。
だが、届かない。
サファイアの手前で、消えた。
防がれたのではない。
弾かれたのでもない。
術そのものが、なかったことになったように。
「わたくしの……」
メルリルの瞳が見開かれる。
「魔導が……」
「君も悪くない」
サファイアが彼女を見る。
「何を――」
「だが」
笑う。
「今はまだ要らない」
指を下ろす。
その瞬間、キースのイースを締めつけていた力も消えた。
「はっ……!」
大きく息を吸う。
ローゼンが駆け寄った。
「キース様!」
「大丈夫……だ」
胸を押さえたまま、顔を上げる。
そこにいる。
サファイア。
姿はまだ、サファイアだった。
けれど、もう。
キースにも。
ローゼンにも。
サファイアには見えなかった。
*
「サファイア」
ヴァギュイザールが低く、その名を呼んだ。
声には怒りだけではない、もっと古い感情が混じっている。
恐怖。
困惑。
それとも、長い年月の底へ沈めていた記憶が、無理やり浮かび上がろうとしているのか。
老精霊の手が僅かに震えた。
「お前は……何者じゃ」
サファイアはヴァギュイザールを見る。
「君まで、その質問をするのか」
「答えろ」
「ヴァギュイザール」
呼び方が変わった。
敬意も、親しみもない。
その名を昔から知っている者が、ただそのまま口にしたような響き。
「君は昔から、肝心な時に勘が鈍い」
ヴァギュイザールの瞳が赤く燃える。
「その物言い……」
声が震えた。
「懐かしいか?」
サファイアの口元が上がる。
老精霊の顔から表情が消えた。
「まさか……」
「ようやくか」
蒼い光が、サファイアの身体を包んだ。
炎のようには燃えず、水のように静かに輪郭を撫でていく。
深い青の上着も、銀糸の刺繍も、光の中へほどけていった。
青灰色の髪が長く伸び、色はさらに深くなる。
夜明け前の海を思わせる、暗い蒼。
顔立ちも変わった。
四十ほどに見えた穏やかな男から、年齢という尺度そのものが意味を失うような中性的な美貌へ。
若く見える。
同時に、途方もなく古くも見えた。
細い瞳の奥には、人間の一生では決して得られない冷たい知性が宿っている。
衣服は、幾重もの薄布を重ねた蒼い法衣へ変わった。その表面には、文字とも波ともつかない紋様が、見る角度によって形を変えながらゆっくりと流れている。
そして、身体の裂け目。
その内側に、黒いものがあった。
〈混沌〉。
人の形を、中から満たしているように。
「……ソーサイア」
ヴァギュイザールが、その名を吐いた。
キースの呼吸が止まる。
後世に《精霊戦争》と呼ばれる、黄金の時代末期の古い戦乱。
その中の一戦線。
《姫》と《王》。
後世に、その《姫》側の中心人物として語られる四者。
《紅獅子の君》。
《白光の君》。
《黒無相の君》。
そして、魔導そのものへ最も近づいた存在として、無数の魔導士たちがその名を伝説として語り継いだ者。
「《蒼魔の君》……」
キースが呟く。
幼い頃、本の中で読んだ。
憧れた。
ありとあらゆる魔導を知る者。
神々にすら届く術を操ったと語られる、古代の魔導者。
だがキースは、ラルソウムでヴァギュイザールから聞いた話を、もう知っている。
《四貴精霊》は、この四者自身が名乗った集団ではない。
そして四人が、本当にすべて《精霊》だったのかさえ、分からない。
男は優雅に頭を下げた。
「久しいな」
赤い古老を見る。
「ヴァギュイザール」
「貴様……!」
「それから」
蒼い瞳がキースたちへ向く。
「君たちには」
微笑む。
「初めまして、と言うべきかな」
「ソーサイア……」
キースは、その名を確かめる。
「あなたが」
「そう呼ばれていた」
男は訂正した。
キースの眉が動く。
「いた?」
「今もソーサイアではあるよ」
「では、《蒼魔の君》」
「それも後から随分と定着した名だ」
口元へ皮肉げな笑みが浮かぶ。
「悪い響きではない」
「《四貴精霊》も?」
キースが尋ねる。
ソーサイアは一瞬だけ、本当に意外そうな顔をした。
そして笑う。
「まだそんな呼び方をしているのか」
「あなたたちは四貴精霊だった」
「そう呼ばれるようになったらしいね」
「らしい?」
「私は」
ソーサイアはヴァギュイザールへ視線を向けた。
「そんな名前の集団を作った覚えはない」
ヴァギュイザールは何も言わない。
「《姫》の側にいた」
ソーサイアは続ける。
「ヴァギュイザールもいた。コスモスも。ケーオスも」
「だから後世が四人をまとめた?」
「そうなのだろう」
「全員、精霊だった?」
キースが尋ねる。
ソーサイアは今度こそ、明確に笑った。
「ケーオスやコスモスを?」
「……違うのか?」
「君たちの時代では」
面白そうに言う。
「本当に、あれを《精霊》として整理しているの?」
ヴァギュイザールと、ほとんど同じ反応だった。
「では、何なんだ」
「知らない」
キースが一瞬黙る。
「あなたまで?」
「コスモスはコスモスだった」
「ケーオスは?」
「ケーオス」
「分類は?」
「必要だった?」
ソーサイアが問い返す。
「黄金の時代には」
キースが慎重に言う。
「今ほど、神と精霊の分類そのものが――」
「後から整理された」
ソーサイアは頷いた。
「少なくとも、私たちが《姫》の側で戦っていた頃、互いの存在分類を確認してから並んだ覚えはないね」
「あなた自身は」
キースが食い下がる。
「精霊なのか?」
ソーサイアは少しだけ考えた。
「そう呼ばれて困ったことはない」
「断定は?」
「しない」
「なぜ?」
「長く生きすぎた」
肩をすくめる。
「それに、私は自分へ手を加えすぎた」
「自分へ?」
「魔導士なら興味があるだろう?」
「今はない」
「嘘だ」
「人を殺した直後の相手から講義を受けたいほど馬鹿じゃない!」
「残念だ」
心底残念そうな声だった。
メルリルがキースの横へ並ぶ。
「黄金の時代のあと」
彼女が尋ねる。
「あなたは白銀の時代もご覧になったのですか?」
「少しはね」
「少し?」
「私にとっては、あまり興味のある時代ではなかった」
その言い方に、ローゼンが僅かに眉を寄せた。
ソーサイアは気にしない。
「エルフたちは」
蒼い法衣の袖を軽く払う。
「随分とうまくやったと思うよ」
「何を?」
「残ったもので」
キースの瞳が動く。
「残った?」
「黄金の時代は終わった」
あまりにも簡単に、ソーサイアは言った。
その時代を実際に生きた者の口から。
「神々も、精霊も、昔と同じようには世界へ立てなくなった」
「なぜ?」
「知らない」
「精霊戦争が原因?」
「知らない」
「ラグナ=ローク?」
「キース」
ソーサイアの声が僅かに低くなる。
「君は最近、名前へ飛びつかなくなったと聞いたけれど」
キースの口が止まった。
「誰から――」
「サファイアは、君たちと長く話した」
また、その名。
「黄金の時代の終焉が何だったのか」
ソーサイアは続ける。
「私も一つの答えは持っていない」
「あなたほど古い存在でも?」
「古く生きたことと」
微笑む。
「世界を外から見られることは違う」
ヴァギュイザールが言っていたことと、同じだった。
「ただ」
ソーサイアは続ける。
「私たちの時代のあと、エルフたちは随分とうまくやったらしい」
「らしい?」
「私は、白銀の時代を最初から最後まで眺めていたわけではない」
「では」
「今の人間たちほど、神話から遠くもない」
一拍。
「私たちほど、神話そのものでもない」
それだけ言って、興味を失ったように視線を逸らした。
白銀。
黄金の残響。
ヴァギュイザールの証言とも、大きく矛盾はしない。
けれど、それ以上を聞くには、今は状況が違いすぎた。
「そんなことより」
ヴァギュイザールが低く言う。
「サファイアをどうした」
空気が変わった。
ローゼンの身体が、僅かに震える。
ソーサイアは赤い古老を見る。
「どうした、とは?」
「とぼけるな」
「私は何もとぼけていないよ」
「なら答えろ!」
ヴァギュイザールの怒声が、大樹の枝葉を震わせる。
「サファイアはどこじゃ!」
長い沈黙。
ローゼンも、ソーサイアを見る。
「では……」
ようやく声を出した。
「サファイア様は」
喉が震える。
「どちらにいらっしゃるのでございますか」
ソーサイアの視線が、ローゼンへ移る。
ほんの一瞬。
蒼い瞳の奥に、何かが揺れた。
懐かしさ。
痛み。
あるいは、それすらローゼンが見たいものを見ただけなのか。
分からない。
すぐに消えた。
「ローゼン」
その呼び方は、サファイアと同じだった。
「私が」
ソーサイアは静かに言った。
「サファイアを作り始めた時」
ローゼンの呼吸が止まる。
「そんな精霊は存在しなかった」
世界から、音が消えた。




