↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第六部 サファイアはいつから存在したのか
PR
34/39

第三十三章 蒼魔の君

「何か、私に聞きたいことでも?」


 広間の入口に立つサファイアは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。


 深い青の上着には銀糸の刺繍。青灰色の髪に、静かな目元。


 幼い頃から、何度となく見上げてきた顔。


 ローゼンは声を失った。


 ヴァギュイザールも、すぐには答えなかった。


 つい先ほどまで、彼自身が語っていたのだ。


 サファイアとは何度も旅をした。議論を交わし、助けられたこともあれば、逆に面倒事を押しつけたこともある。


 白銀の時代を越え、黄銅の時代へ至るまでの長い時間。そのすべてではないにせよ、ヴァギュイザールにとってサファイアは「ずっと知っている相手」だった。


 なのに、最初だけがない。


 初めて出会った日。


 初めて名前を聞いた時。


 初めて、サファイアという存在を《サファイア》として認識した瞬間。


 そこだけが、ない。


 思い出そうとすればするほど、その前の記憶にも、すでにサファイアがいる。


 キースは机の上に置かれた古い写真へ一度目を落とし、それから入口の男へ視線を戻した。


「聞きたいことはある」


「そうか」


 サファイアは静かに部屋へ入ってくる。


 こつ、と踵が床を鳴らした。


 その小さな音だけで、ローゼンの胸が縮んだ。


 まただ。


 以前のサファイアは、こんな歩き方をしなかった。


 ほんの僅かな違い。他人なら気づかない程度のもの。


 けれど、幼い頃から何千回、何万回とその背中を追ってきたローゼンには、どうしても見過ごせない違いだった。


「二百年前の記録にも君がいる」


 キースは切り出した。


「百年前にも、五十年前にも。それ自体は、長命な存在なら不思議ではない」


「そうだね」


「だが」


 キースは机上へ並べた紙を一枚ずつ指した。


「君自身が残した記録だけがない」


 サファイアの笑みは変わらない。


「署名がない。自筆の報告書がない。私信もない。外交交渉を何度も担当しているのに、君自身の筆跡だと確認できるものが、一つもない」


「古いものだから、失われたのでは?」


「一つや二つなら、それでいいですわ」


 メルリルが横から口を挟んだ。


「二百年以上ですわよ」


 机へ指を置く。


 会議録。


 日誌。


 他者からの手紙。


 交易記録。


 旅の同行者による記録。


 写真。


 絵。


 口述を書き留めた紙片。


「あなたについて書かれた文書なら、山ほど残っておりますの」


 メルリルはサファイアを見る。


「なのに、あなた自身から始まる記録だけが、綺麗にありませんのよ」


「偶然かもしれない」


「もちろん」


 メルリルは頷いた。


「偶然の可能性はございます」


「なら――」


「ですから、偶然と決めつけず調べておりますの」


 キースが僅かに口元を上げた。


 少し前なら、逆だった。


 異常だと気づけば、すぐに異常な原因へ飛びついた。今のメルリルは、一番面白そうな仮説を思いついても、それを事実とは言わない。


 それでも、好奇心に満ちた目だけは、まったく変わっていなかった。


「サファイア」


 キースが問いを戻す。


「君自身は、自分が書いた古い記録を覚えている?」


 ほんの少し、間があった。


「昔のことだからね」


「それは答えになっていない」


「覚えていないものもある」


「では、覚えているものは?」


 サファイアは机へ近づき、古い写真を一枚手に取った。


 ラルソウムの古い集合写真。


 何十人もの精霊が並ぶ中央付近に、サファイアがいる。


 今とほとんど変わらない姿で。


「ずいぶん調べたんだね」


「答えになっておりませんわ」


「答えられないこともある」


 その言葉で、キースの表情が僅かに変わった。


 分からない。


 この旅へ出てから、その言葉を何度聞いただろう。


 以前のキースにとって、それは無知だった。敗北だった。自分が世界一ではないと認める言葉だった。


 今は違う。


 分からないものを、分かったことにしない。


 それは時に、正しい答えを言うこと以上に難しい。


 だからこそ、同じ「答えられない」でも、本当に答えを持たない者と、答えを持ちながら伏せている者の違いも、少しずつ分かるようになっていた。


「分からないのか?」


 キースが尋ねる。


「それとも」


 一拍。


「答えたくないのか?」


 サファイアが顔を上げる。


 二人はしばらく無言で見つめ合った。


 先に口を開いたのは、ローゼンだった。


「サファイア様」


「何だい、ローゼン」


 いつもの呼び方だった。


 それだけで、胸が痛む。


「わたくしは」


 ローゼンは両手を胸元で重ねた。


「あなた様を存じております」


「ああ」


「小さい頃から、ずっと」


「もちろんだ」


「ですが……」


 声が止まる。


 言葉にしてはいけない気がした。


 口にした瞬間、これまでの人生そのものへ亀裂が入るような。


 そんな恐怖があった。


 それでも、聞かなければ、もう以前のようには笑えない。


「いつから」


 ローゼンは顔を上げた。


「わたくしの傍にいらっしゃったのでございますか?」


 サファイアの表情から、ほんの僅かに笑みが消えた。


「君が幼い頃からだよ」


「それは存じております」


「なら――」


「最初は」


 ローゼンは続けた。


「いつでございますか」


 沈黙。


「わたくしが初めてあなた様へお会いした日は?」


 返事はない。


「初めて抱いていただいた日は?」


 ない。


「初めて、わたくしを《ローゼン》と呼んでくださった日は?」


 サファイアは答えない。


「初めて」


 ローゼンの声が震えた。


「あなた様がサファイア様なのだと、わたくしが知った日は?」


 答えはなかった。


 ローゼンは胸へ手を当てる。


 鼓動が速い。息を吸うたび、胸の中央に硬い石でも詰められているようだった。


「わたくしにも……ございません」


 サファイアの瞳が細くなる。


「思い出せないのでございます」


 幼い頃。


 もっと幼い頃。


 物心がつく前へ。


 覚えている限界まで戻っても、


「どれほど昔の記憶へ戻っても、すでにサファイア様がいらっしゃる」


 そこにいる。


 けれど、最初だけがない。


「出会った記憶だけが、ございません」


「精霊の記憶は長い」


 サファイアが答える。


「失われることもある」


「皆様も同じです」


 ローゼンはヴァギュイザールを見る。


 老いた《紅獅子の君》は何も言わず、ただサファイアを見つめている。


「サファイア様を知る古い方々は、皆様、そうでございました」


 昔からいる。


 知っている。


 一緒にいた。


 旅をした。


 話した。


 笑った。


 助けられた。


 なのに、誰も最初を知らない。


「昨日」


 ローゼンは一度、息を整えた。


「わたくしは、この問いを口にできませんでした」


 けれど、今なら。


「あなたは」


 声が震える。


「誰なのでございますか」


 広間が静まり返った。


 サファイアは、長いあいだ何も答えなかった。


 手にしていた写真を眺める。


 そこに写っている、昔のサファイア。


 やがて、小さく息を吐いた。


「惜しいな」


 声が変わった。


 音そのものは同じ。


 だが、響きが違う。


 いつもローゼンへ向けられていた柔らかさが、そこにはなかった。


「もう少し続くと思っていた」


「……サファイア様?」


「ローゼン」


 男は微笑んだ。


「君は昔から、妙なところだけ鋭い」


 顔はサファイア。


 声もサファイア。


 けれど、その笑い方をローゼンは知らない。


「どういう意味だ」


 キースが一歩前へ出た。


 サファイアは彼へ視線を移す。


「そのままの意味だよ」


「何が」


「君たちが私について調べ始めた時点で、この段階は終わりだと思っていた」


「段階?」


 メルリルの手が、ゆっくり腰の魔導具へ近づく。


 サファイアは止めない。


「メルリル」


「何ですの」


「君は本当に優秀だ」


「急に褒めても遅いですわよ」


「サファイアという記録の空白へ、よく気づいた」


「答えを」


 メルリルの声が低くなる。


「褒め言葉で誤魔化すおつもり?」


「いいや」


 サファイアは笑った。


「心から感心している」


 そう言って、右手を上げた。


          *


 大樹の外で、悲鳴が上がった。


「何だ!」


 キースが振り返る。


 ほとんど同時に、若い精霊が広間へ駆け込んできた。


「ヴァギュイザール様!」


 息を切らしている。


「北側の封鎖区で、人間の魔導士が倒れました!」


 そこで精霊の声が震えた。


「指が……黒く――」


 言葉が止まる。


 サファイアがいることに気づいたのだ。


「ちょうどいい」


 サファイアは静かに言った。


 キースの顔が険しくなる。


「何が、ちょうどいい?」


「言葉より」


 サファイアは踵を返した。


「見た方が早い」


「待て!」


 ヴァギュイザールが低く叫ぶ。


 だが、サファイアは振り返らなかった。


 ローゼンたちも追う。


 大樹の北側。


 〈混沌〉の急増へ備えた簡易封鎖区。


 アムドアから戻って以降、ラルソウム周辺でも異常が増えていた。近隣の人間居住地から、何人かの魔導士が調査と封鎖作業へ協力に来ている。


 その一人が、地面へ倒れていた。


「手を!」


 キースが駆け寄る。


 両脇を精霊たちに支えられた男は、荒い息を吐きながら震えていた。


 右手。


 三本の指が、すでに黒い。


 アムドアで見た、ラウルと同じ症状。


「いつからだ!」


「つい先ほどです!」


「魔導を使わせるな!」


「使っておりません!」


「最後に使ったのは?」


「一刻ほど前に、封鎖術を!」


「それから?」


「何も!」


 男の瞳へ、黒い染みが広がり始めている。


 キースの胸の奥で、イースが脈打った。


「この反応……」


 アムドア。


 同じだ。


 少し離れた場所では、メルリルも胸へ手を当てていた。


「キース」


「君も?」


「ええ」


 イースが何かを感じている。


「サファイア!」


 キースが振り返った。


「何を知っている!」


「君たちよりは」


 穏やかな返答だった。


「ずっと多くを知っている」


「何?」


「その症状について、私は長く観察してきた」


 サファイアが患者へ近づく。


 ローゼンは反射的に、サファイアと患者のあいだへ立った。


「離れてくださいませ」


「ローゼン」


「何をなさるおつもりです」


「確かめたいのだろう?」


「何を――」


 サファイアの腕が伸びた。


 人の腕ではなかった。


 肘から先が滑るように長くなり、青い袖ごと細い蔓のような形へ変わって、患者の身体へ巻きつく。


「サファイア様!」


 ローゼンが叫ぶ。


 拘束された男も悲鳴を上げた。


「やめろ!」


 キースは反射的に術を構成しかけた。


「キース、待て!」


 ヴァギュイザールの怒声。


 その一瞬の躊躇だけで、間に合わなかった。


 男の身体が大きく脈打つ。


「がっ――!」


 黒化が、一気に進んだ。


 指から手首へ。


 腕。


 肩。


 首。


 顔。


 アムドアでは何日もかけて進行した崩壊が、僅か数呼吸のうちに全身へ走る。


「助け……!」


 声が濁った。


 皮膚と衣服。


 肉と骨。


 身体の内と外。


 人間を人間として分けていた境界が、崩れていく。


「やめてください!」


 ローゼンが叫ぶ。


 サファイアは止めない。


 人間だったものが、黒い塊へ変わった。


 〈混沌〉。


 アムドアで最後に残った拳ほどの塊とは違う。


 人ひとり分の、巨大な黒いもの。


 形を持たず、蠢き、崩れ、膨らんでいく。


 本来なら、触れたものを呑み込む。


 そのはずだった。


 だが今は、サファイアの長く伸びた腕へ絡みついたまま暴れている。


「キース……」


 メルリルの声が震えた。


「これ……」


 キースの顔から血の気が引く。


「お前が……」


 サファイアは、その〈混沌〉へ素手を差し入れた。


「やめろ!」


 キースの叫びと同時に、サファイアが掌を閉じる。


 黒いものが潰れた。


 いや、潰れたように見えた。


 次の瞬間、それは掌から腕へ、肩へ、胸へと吸い込まれていく。


 サファイアの身体を、黒い脈が一瞬だけ走った。


 そして消えた。


 人間も。


 〈混沌〉も。


 何も残らなかった。


「……吸収」


 メルリルが呆然とする。


「なさいましたの?」


 サファイアは自分の手を見る。


 その表情に浮かんでいたのは、満足としか呼びようのないものだった。


「良質だ」


 ローゼンが一歩、後ろへ下がった。


「サファイア様……」


「魔導士は扱いやすい」


 彼は淡々と言った。


「少なくとも私の観測では、人間魔導と〈混沌〉の間には、一般に理解されているより近い関係がある」


「観測?」


 キースが睨む。


「イースへ一定の刺激を与えると、肉体と外界を分けている境界が崩れやすくなる」


 キースの瞳が見開かれた。


「アムドアの黒化症状」


「奇病と呼んでいるものかい?」


「お前がやったのか」


 サファイアは小さく笑う。


「すべて、と言い切るつもりはない」


 その言い方に、キースの背筋が冷えた。


「少なくとも、私が条件を整えた例は相当数ある」


「条件?」


「どの程度まで境界を崩せば、自律的な〈混沌〉化へ移行するのか」


 指を折っていく。


「距離。魔力量。イースの強さ。感情。祈り。名への執着」


 サファイアは手を下ろした。


「いろいろ試した」


 キースの手が震える。


「人間で?」


「他に何を使う?」


 あまりにも自然な問いだった。


 キースの顔が歪む。


「ふざけるな!」


 地面を蹴り、魔導式を立ち上げる。


 だが、サファイアが片手を向けた。


 それだけで、キースの胸の奥にあるイースが掴まれた。


「ぐっ……!」


 膝が落ちる。


「キース様!」


「来るな、ローゼン!」


 胸が痛い。


 アムドアで〈混沌〉に引かれた時と似ている。


 けれど、違う。


 今回は明確な意志がある。


 正確に、狙って、キースの内側だけを掴んでいる。


「やはり」


 サファイアが嬉しそうに言った。


「君は素晴らしい」


「何……?」


「キース」


 青灰色の瞳が、まるで宝石でも眺めるように彼を見る。


「そのイースは、これまで見た中でも飛び抜けて美しい」


「人を……」


 息が詰まる。


「材料みたいに言うな!」


「材料?」


 サファイアは本当に不思議そうだった。


「君たちも、世界を材料にして魔導を使うだろう」


「同じにするな!」


 メルリルが術式を展開した。


「キースを離しなさい!」


 風。


 刃。


 高速で編まれた魔導が放たれる。


 だが、届かない。


 サファイアの手前で、消えた。


 防がれたのではない。


 弾かれたのでもない。


 術そのものが、なかったことになったように。


「わたくしの……」


 メルリルの瞳が見開かれる。


「魔導が……」


「君も悪くない」


 サファイアが彼女を見る。


「何を――」


「だが」


 笑う。


「今はまだ要らない」


 指を下ろす。


 その瞬間、キースのイースを締めつけていた力も消えた。


「はっ……!」


 大きく息を吸う。


 ローゼンが駆け寄った。


「キース様!」


「大丈夫……だ」


 胸を押さえたまま、顔を上げる。


 そこにいる。


 サファイア。


 姿はまだ、サファイアだった。


 けれど、もう。


 キースにも。


 ローゼンにも。


 サファイアには見えなかった。


          *


「サファイア」


 ヴァギュイザールが低く、その名を呼んだ。


 声には怒りだけではない、もっと古い感情が混じっている。


 恐怖。


 困惑。


 それとも、長い年月の底へ沈めていた記憶が、無理やり浮かび上がろうとしているのか。


 老精霊の手が僅かに震えた。


「お前は……何者じゃ」


 サファイアはヴァギュイザールを見る。


「君まで、その質問をするのか」


「答えろ」


「ヴァギュイザール」


 呼び方が変わった。


 敬意も、親しみもない。


 その名を昔から知っている者が、ただそのまま口にしたような響き。


「君は昔から、肝心な時に勘が鈍い」


 ヴァギュイザールの瞳が赤く燃える。


「その物言い……」


 声が震えた。


「懐かしいか?」


 サファイアの口元が上がる。


 老精霊の顔から表情が消えた。


「まさか……」


「ようやくか」


 蒼い光が、サファイアの身体を包んだ。


 炎のようには燃えず、水のように静かに輪郭を撫でていく。


 深い青の上着も、銀糸の刺繍も、光の中へほどけていった。


 青灰色の髪が長く伸び、色はさらに深くなる。


 夜明け前の海を思わせる、暗い蒼。


 顔立ちも変わった。


 四十ほどに見えた穏やかな男から、年齢という尺度そのものが意味を失うような中性的な美貌へ。


 若く見える。


 同時に、途方もなく古くも見えた。


 細い瞳の奥には、人間の一生では決して得られない冷たい知性が宿っている。


 衣服は、幾重もの薄布を重ねた蒼い法衣へ変わった。その表面には、文字とも波ともつかない紋様が、見る角度によって形を変えながらゆっくりと流れている。


 そして、身体の裂け目。


 その内側に、黒いものがあった。


 〈混沌〉。


 人の形を、中から満たしているように。


「……ソーサイア」


 ヴァギュイザールが、その名を吐いた。


 キースの呼吸が止まる。


 後世に《精霊戦争》と呼ばれる、黄金の時代末期の古い戦乱。


 その中の一戦線。


 《姫》と《王》。


 後世に、その《姫》側の中心人物として語られる四者。


 《紅獅子の君》。


 《白光の君》。


 《黒無相の君》。


 そして、魔導そのものへ最も近づいた存在として、無数の魔導士たちがその名を伝説として語り継いだ者。


「《蒼魔の君》……」


 キースが呟く。


 幼い頃、本の中で読んだ。


 憧れた。


 ありとあらゆる魔導を知る者。


 神々にすら届く術を操ったと語られる、古代の魔導者。


 だがキースは、ラルソウムでヴァギュイザールから聞いた話を、もう知っている。


 《四貴精霊》は、この四者自身が名乗った集団ではない。


 そして四人が、本当にすべて《精霊》だったのかさえ、分からない。


 男は優雅に頭を下げた。


「久しいな」


 赤い古老を見る。


「ヴァギュイザール」


「貴様……!」


「それから」


 蒼い瞳がキースたちへ向く。


「君たちには」


 微笑む。


「初めまして、と言うべきかな」


「ソーサイア……」


 キースは、その名を確かめる。


「あなたが」


「そう呼ばれていた」


 男は訂正した。


 キースの眉が動く。


「いた?」


「今もソーサイアではあるよ」


「では、《蒼魔の君》」


「それも後から随分と定着した名だ」


 口元へ皮肉げな笑みが浮かぶ。


「悪い響きではない」


「《四貴精霊》も?」


 キースが尋ねる。


 ソーサイアは一瞬だけ、本当に意外そうな顔をした。


 そして笑う。


「まだそんな呼び方をしているのか」


「あなたたちは四貴精霊だった」


「そう呼ばれるようになったらしいね」


「らしい?」


「私は」


 ソーサイアはヴァギュイザールへ視線を向けた。


「そんな名前の集団を作った覚えはない」


 ヴァギュイザールは何も言わない。


「《姫》の側にいた」


 ソーサイアは続ける。


「ヴァギュイザールもいた。コスモスも。ケーオスも」


「だから後世が四人をまとめた?」


「そうなのだろう」


「全員、精霊だった?」


 キースが尋ねる。


 ソーサイアは今度こそ、明確に笑った。


「ケーオスやコスモスを?」


「……違うのか?」


「君たちの時代では」


 面白そうに言う。


「本当に、あれを《精霊》として整理しているの?」


 ヴァギュイザールと、ほとんど同じ反応だった。


「では、何なんだ」


「知らない」


 キースが一瞬黙る。


「あなたまで?」


「コスモスはコスモスだった」


「ケーオスは?」


「ケーオス」


「分類は?」


「必要だった?」


 ソーサイアが問い返す。


「黄金の時代には」


 キースが慎重に言う。


「今ほど、神と精霊の分類そのものが――」


「後から整理された」


 ソーサイアは頷いた。


「少なくとも、私たちが《姫》の側で戦っていた頃、互いの存在分類を確認してから並んだ覚えはないね」


「あなた自身は」


 キースが食い下がる。


「精霊なのか?」


 ソーサイアは少しだけ考えた。


「そう呼ばれて困ったことはない」


「断定は?」


「しない」


「なぜ?」


「長く生きすぎた」


 肩をすくめる。


「それに、私は自分へ手を加えすぎた」


「自分へ?」


「魔導士なら興味があるだろう?」


「今はない」


「嘘だ」


「人を殺した直後の相手から講義を受けたいほど馬鹿じゃない!」


「残念だ」


 心底残念そうな声だった。


 メルリルがキースの横へ並ぶ。


「黄金の時代のあと」


 彼女が尋ねる。


「あなたは白銀の時代もご覧になったのですか?」


「少しはね」


「少し?」


「私にとっては、あまり興味のある時代ではなかった」


 その言い方に、ローゼンが僅かに眉を寄せた。


 ソーサイアは気にしない。


「エルフたちは」


 蒼い法衣の袖を軽く払う。


「随分とうまくやったと思うよ」


「何を?」


「残ったもので」


 キースの瞳が動く。


「残った?」


「黄金の時代は終わった」


 あまりにも簡単に、ソーサイアは言った。


 その時代を実際に生きた者の口から。


「神々も、精霊も、昔と同じようには世界へ立てなくなった」


「なぜ?」


「知らない」


「精霊戦争が原因?」


「知らない」


「ラグナ=ローク?」


「キース」


 ソーサイアの声が僅かに低くなる。


「君は最近、名前へ飛びつかなくなったと聞いたけれど」


 キースの口が止まった。


「誰から――」


「サファイアは、君たちと長く話した」


 また、その名。


「黄金の時代の終焉が何だったのか」


 ソーサイアは続ける。


「私も一つの答えは持っていない」


「あなたほど古い存在でも?」


「古く生きたことと」


 微笑む。


「世界を外から見られることは違う」


 ヴァギュイザールが言っていたことと、同じだった。


「ただ」


 ソーサイアは続ける。


「私たちの時代のあと、エルフたちは随分とうまくやったらしい」


「らしい?」


「私は、白銀の時代を最初から最後まで眺めていたわけではない」


「では」


「今の人間たちほど、神話から遠くもない」


 一拍。


「私たちほど、神話そのものでもない」


 それだけ言って、興味を失ったように視線を逸らした。


 白銀。


 黄金の残響。


 ヴァギュイザールの証言とも、大きく矛盾はしない。


 けれど、それ以上を聞くには、今は状況が違いすぎた。


「そんなことより」


 ヴァギュイザールが低く言う。


「サファイアをどうした」


 空気が変わった。


 ローゼンの身体が、僅かに震える。


 ソーサイアは赤い古老を見る。


「どうした、とは?」


「とぼけるな」


「私は何もとぼけていないよ」


「なら答えろ!」


 ヴァギュイザールの怒声が、大樹の枝葉を震わせる。


「サファイアはどこじゃ!」


 長い沈黙。


 ローゼンも、ソーサイアを見る。


「では……」


 ようやく声を出した。


「サファイア様は」


 喉が震える。


「どちらにいらっしゃるのでございますか」


 ソーサイアの視線が、ローゼンへ移る。


 ほんの一瞬。


 蒼い瞳の奥に、何かが揺れた。


 懐かしさ。


 痛み。


 あるいは、それすらローゼンが見たいものを見ただけなのか。


 分からない。


 すぐに消えた。


「ローゼン」


 その呼び方は、サファイアと同じだった。


「私が」


 ソーサイアは静かに言った。


「サファイアを作り始めた時」


 ローゼンの呼吸が止まる。


「そんな精霊は存在しなかった」


 世界から、音が消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。