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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第六部 サファイアはいつから存在したのか
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35/41

第三十四章 サファイアという空白

「違う」


 ローゼンの口から、小さな声が漏れた。


 ソーサイアは否定しなかった。


「違います」


 今度は、もっと強く言う。


「サファイア様はいらっしゃいました」


「今の君には、そういう記憶がある」


「記憶だけではございません!」


 ローゼンの声が震えた。


「写真にもおります。記録にもおります。わたくしだけではございません。皆様がサファイア様を存じております!」


「ああ」


「わたくしを育ててくださいました」


「ああ」


「名前を呼んでくださいました。泣いていれば慰めてくださいました。森の外へ出る時は、いつも心配してくださいました」


 言葉を重ねるほど、声が崩れていく。


「それなのに」


 ローゼンは目の前の《蒼魔の君》を見た。


「存在していなかったなどと……どうして、そのようなことをおっしゃるのでございますか」


 ソーサイアは、しばらく何も答えなかった。


 相手が自分の言葉を終えるまで待つ、その沈黙の癖までサファイアに似ている。


 だからこそ、ローゼンには耐え難かった。


「ローゼン」


 キースが一歩近づく。


「触らないでください!」


 反射的に声が出た。


 キースが足を止める。


「……ごめんなさい」


 ローゼンは両手で胸元を押さえた。息を吸っているはずなのに、肺まで届いていかない。


「サファイア様は……」


 記憶を探す。


 大樹の枝。


 足を滑らせた日。


 落ちる自分を受け止めた腕。


 雨の夜。


 怖い夢。


 眠るまで傍にいてくれた人。


 花冠。


 本。


 青い布。


 名前を呼ぶ声。


「全部……」


 涙が滲んだ。


「全部、嘘だったのでございますか」


 ソーサイアは即答しなかった。


 それが、ローゼンには何より意外だった。


「それを」


 やがて彼は言った。


「私にも答えられない」


 ローゼンが顔を上げる。


「……何を」


「私が実験を始めた時」


 ソーサイアの声は静かだった。


「私の前に、サファイアという精霊はいなかった」


 そこだけは揺らがなかった。


「私は、存在していないものへ名前を与えるところから始めた。それは覚えている」


 そこで初めて、彼の言葉が止まった。


「だが」


 僅かな沈黙。


「だからといって」


 蒼い瞳がローゼンを見る。


「今ここから過去を振り返って、サファイアなど最後まで存在しなかった、と言い切れるか」


 一拍。


「それは、私にも分からない」


 キースが眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「昔、一つの疑問を持った」


 ソーサイアは傍らへ伸びる大樹の根に手を置いた。


 何世代もの精霊が記憶を預けてきた、古い大樹。


「存在とは、どこにある?」


「何?」


「身体か」


 一本。


「魂か」


 二本。


「名前か」


 三本。


「記憶か」


 四本。


「それとも」


 指を開く。


「誰かから、その者として見られていることか」


「今は哲学を聞いている場合では――」


「私にとっては、同じ問いだった」


 ソーサイアはキースを見る。


「名がなくても存在するものはある。記録されなくても、そこにいるものもある。誰にも祈られなくても、神であるものがいるのかもしれない」


「だから?」


「ならば、逆はどうだと思う?」


 キースは黙った。


「存在しないものへ、名前を与える」


 誰も答えない。


「その名前を呼ぶ。その者について語る。記録する。覚える。誰かとの関係の中へ置く。愛する。嫌う。待つ。失ったと嘆く」


 ローゼンは動けなかった。


「それを積み重ねた時」


 ソーサイアは微笑んだ。


「世界の側には、何が起きるのだろうと思った」


          *


「最初に作ったのは、名前だけだった」


 ソーサイアは遠い過去を見るように目を細めた。


「サファイア」


 その名だけで、ローゼンの胸が痛む。


「大した理由はない。蒼を連想しやすく、外の者にも覚えやすい名を選んだ」


「……名前を」


「ああ」


「あなた様が?」


「そうだ」


 ソーサイアは自分の身体へ視線を落とした。


「次に姿を決めた」


 髪。


 瞳。


 年齢。


 衣服。


「性格も。口調も。争いを好まず、外部との交渉が得意で、古い記録に詳しい」


 そして、


「ラルソウムを愛している」


「やめてください」


 ローゼンの声が掠れた。


「私は、その者として振る舞った」


「やめて……」


「他者がいる時だけ」


 そこでソーサイアは、僅かに笑った。


「最初はね」


 キースが反応する。


「最初は?」


「実験なのだから、観測記録が必要だった」


 ソーサイアは指先で空中へ文字を書くように動かす。


「だが、私自身がサファイアについて書けば、実験者が記録の起点になる」


 メルリルの顔が変わった。


「だから……」


「そう」


 ソーサイアは彼女を見る。


「サファイア自身の筆跡を残さなかった」


 会議へ出る。


 誰かが議事録に書く。


 ――サファイアが出席した。


 外部の人間と会う。


 相手が手紙を書く。


 ――サファイアと話した。


 誰かを助ける。


 助けられた者が語る。


 ――サファイアに救われた。


「私から」


 ソーサイアは言った。


「《サファイアは存在する》という一次記録を残さない」


 それが、あの奇妙な空白の理由だった。


「サファイアを記録する役目を、他者だけに委ねた」


 キースの背筋を冷たいものが走る。


「最初から、それが目的だった?」


「観測された存在が、どこまで現実として定着するのかを見たかった」


「だから」


 メルリルが呟く。


「サファイアについての記録は大量にあるのに、サファイア本人を起点とする資料だけが存在しない」


「その通り」


「最初の記憶も?」


 キースが尋ねた。


「そこへも手を加えた?」


「加えた」


 あまりにも簡単に認めた。


「古くからいる精霊だ、と前提を置いたこともある。夢へ記憶を混ぜたこともある」


「直接?」


「ああ」


「他人の記憶を書き換えたのか!」


「そうだ」


 ヴァギュイザールの両手が震えた。


「貴様……!」


 深い皺の奥で、赤い瞳が燃え上がる。


「わしらの記憶を弄んだのか!」


「一部は」


「一部だと?」


「怒るのは当然だと思うよ」


 悪びれる様子はない。


「だが」


 ソーサイアの声が僅かに変わった。


「私が本当に困ったのは、そのあとだった」


「困った?」


 キースが聞き返す。


「ああ」


「何が」


「私が何もしていないところで」


 ソーサイアは言った。


「サファイアについての記憶が増え始めた」


 風が大樹の葉を揺らした。


「……何?」


「ある古い精霊が、私へ話した」


 ソーサイアは記憶を辿る。


「昔、東の森で迷った時、サファイアに助けられた、と」


「あなたが助けたのでは?」


「違う」


「サファイアとして?」


「それも違う」


 ソーサイアの口元から笑みが消えた。


「その者が話した時期には」


 一拍。


「私はまだ、サファイアを作っていなかった」


 ローゼンが息を止める。


「でも」


 キースが言う。


「記憶は、あとから混ざる」


「私も最初はそう考えた」


「では?」


「記録が見つかった」


「記録?」


「その精霊が迷った翌日に書いた日誌だ」


 ソーサイアは淡々と言う。


「そこに、サファイアの名があった」


 メルリルが一歩前へ出た。


「あなたが用意した記録ではなく?」


「違う」


「後世の追記?」


「私が調べた範囲では痕跡はなかった」


「紙は?」


「その時代のもの」


「筆跡」


「本人」


「保存履歴」


「確認できる範囲では矛盾しなかった」


 メルリルの口が閉じる。


「……過去が」


 キースがゆっくりと言った。


「あとから補われた?」


「私は」


 ソーサイアは答える。


「そう解釈した」


「断定は?」


 間を置かず、キースが問う。


 ソーサイアは、そこで少し笑った。


「できない」


「なぜ?」


「別の仕組みかもしれない」


 一つ。


「私の知らない誰かが介入した可能性もある」


 二つ。


「記録の年代そのものを、私が正しく捉えられていなかった可能性も」


 三つ。


「あるいは」


 ソーサイアは指を下ろす。


「私の想定そのものが、最初から間違っているのかもしれない」


 キースは黙った。


 この男は人を殺した。


 他人の記憶へ手を加えた。


 それでも、自分の仮説を世界の真理として語ってはいない。


 それが余計に始末が悪かった。


「ただ」


 ソーサイアは続ける。


「一度だけでは終わらなかった」


 ローゼンを見る。


「私が用意していない写真に、サファイアが写った」


 ローゼンの肩が震えた。


「私が語っていない思い出を、他者が持ち始めた」


 古い品へ、新しい来歴が生まれる。


 ――これは昔、サファイアからもらったものだ。


 古い手紙へ、知らない会談の記録が現れる。


 ――サファイアと話した。


「私は」


 ソーサイアが自分の胸へ手を置く。


「その場へ行っていない」


 それでも、そこにはサファイアがいたことになっていた。


「アムドアで」


 ソーサイアがキースを見る。


「君たちも、少し似たものを見ただろう?」


 キースの顔が強張る。


 三つの歴史。


 同じ都市について、互いに両立しない過去が、それぞれ真正な記録として存在していた。


「似ているだけだ」


 キースが言う。


「同じ現象だとは決めない」


「うん」


 ソーサイアはあっさり頷いた。


「それでいい」


「……否定しないのか」


「なぜ?」


「お前なら、自分の実験で全部説明すると思った」


「それは研究ではないよ」


 ソーサイアは大樹を見上げる。


「世界の過去が、本当に一つだけなのか」


 葉の隙間から、黄銅の時代の空が見える。


「私はもう、それを当然の前提にはしていない」


          *


「一つの人格について」


 メルリルが考えながら口を開く。


「十分な記録や記憶が積み上がった結果」


「結果として?」


 キースが続ける。


「《サファイアが昔からいた》という過去まで現れた?」


「そう見えた」


 ソーサイアは答えた。


「少なくとも、私には」


「記録が過去を書き換えた?」


「分からない」


「記憶が?」


「分からない」


「祈り?」


「それも」


「では何なんですの!」


 メルリルが声を上げる。


 ソーサイアは楽しそうに彼女を見る。


「だから調べている」


「……あなたとは絶対に研究をご一緒したくありませんわ」


「残念だ」


 本気で残念そうだった。


「私が見ていたものには」


 ソーサイアが指を折る。


「名前」


 一つ。


「記憶」


 二つ。


「会話」


 三つ。


「関係」


 四つ。


「祈り」


 五つ。


「期待。恐怖。愛情。そして記録」


 指を開く。


「何が必要なのかは分からない」


「どれか一つで成立する?」


「そうは思わない」


「全部必要?」


「それも分からない」


「では」


 キースが問う。


「お前は、それを何と呼んでる」


「《逆流》」


 短い答えだった。


「逆流?」


「人が世界を見て、記録する」


 普通のことだ。


「だが」


 ソーサイアの蒼い瞳が細くなる。


「ある段階を越えた時、人が記録へ世界を合わせるのではなく、記録された像へ合わせるように、世界の側から新しい整合性が現れる」


「仮説だな」


「もちろん」


「つまり」


 キースは念を押す。


「《逆流》という現象が客観的に存在すると証明したわけじゃない」


「その通り」


「サファイアが本当にそれで生まれたとも?」


「言い切らない」


「なら」


「だから実験を続けている」


 キースの顔が険しくなる。


 地面。


 つい先ほどまで、一人の人間がいた場所を見る。


「人を殺してまでか」


「必要な観測なら」


「ふざけるな」


 ソーサイアの顔は変わらない。


 ローゼンには、二人の会話が遠く聞こえていた。


「では……」


 震える声。


 ソーサイアが彼女を見る。


「わたくしの記憶は、どこまでが」


「最初に私が置いたものか」


 ローゼンの肩が揺れる。


「どこから」


 ソーサイア自身も、一拍置いた。


「私の手を離れたのか」


 大樹。


 幼い自分。


 サファイア。


「今の私には」


 蒼い瞳が、ほんの少し揺れた。


「もう区別できない」


「やめてください」


 ローゼンが首を振る。


「君が幼い頃」


「やめて」


「大樹から落ちた」


「やめてください」


「サファイアが受け止めた」


「やめてください!」


 叫び。


 ソーサイアの言葉が止まった。


 ローゼンの頬を涙が伝う。


「その記憶を」


 それでも、聞かなければならない。


「あなた様が」


 声が震える。


「作ったのでございますか」


 ソーサイアは答えない。


「わたくしが落ちた時、サファイア様が抱き止めてくださった」


 夜。


「眠れない時は、朝まで傍にいてくださった」


 森。


「初めて外へ出る時、何度も荷物を確認してくださいました」


 そんな一つ一つまで。


「全部」


 ローゼンの唇が震える。


「あなた様の演技だったのでございますか」


 長い沈黙。


 やがて、


「分からない」


 ローゼンが目を見開いた。


「……分からない?」


「そこまで長く続けるつもりではなかった」


 ソーサイアは、初めて少し疲れたような顔をした。


「サファイアは仮の人格だった」


 必要な時だけ使う。


 観測する。


 十分な結果が得られれば捨てる。


「そのつもりだった」


「では」


 ローゼンの喉が震える。


「なぜ」


「捨てられなくなった」


 大樹の葉が鳴った。


「いつからだったか」


 ソーサイアが自分の手を見る。


「誰も見ていない場所で」


 一瞬、その立ち方が変わった。


 ほんの少し。


 体重の置き方が柔らかくなる。


「私は」


 ローゼンの息が止まる。


「サファイアの歩き方をしていた」


「あの……」


「踵を鳴らさない」


 〈混沌〉の洞窟から戻ったサファイアは、それをできていなかった。


「演技なら」


 ソーサイアは言う。


「誰も見ていない場所で続ける理由はない」


 サファイアの好きな茶を選んだ。


 ソーサイアなら興味を持たない相手から届く手紙を読んだ。


 返事が来るか気にした。


「返事は」


 メルリルが呟く。


「書かなかった」


「ああ」


「だから、サファイア本人からの手紙だけがない」


「書けなかった」


「なぜ?」


「書けば」


 ソーサイアは自分の指を見る。


「私自身の手が残る」


 実験を壊したくなかった。


 なのに、


「そのくせ」


 僅かな自嘲。


「サファイアとして返事を書きたいとも思っていた」


「それは」


 キースが言う。


「矛盾してる」


「ああ」


 否定しない。


「そして」


 ソーサイアの視線がローゼンへ戻る。


「君が生まれた」


 ローゼンの肩が揺れた。


「最初は」


 一拍。


「観察対象だった」


 キースの表情が険しくなる。


「それ以上言うな」


「キース様」


「ローゼン」


「聞きます」


 涙を拭わない。


 ソーサイアから目も逸らさない。


「聞かせてくださいませ」


 ソーサイアも彼女を見続けた。


「君が幼い頃」


 静かに。


「私は確かに、《サファイアならどうするか》と考えていた」


 怪我をした。


 助ける。


 泣いた。


 慰める。


 森へ出た。


 見守る。


「それは」


 言葉を切る。


「演技だった」


 ローゼンの唇が震えた。


「最初は」


 また、その言葉。


「では」


 ローゼンはとうとう聞いた。


「途中からは?」


「分からない」


「サファイア様は」


 声が今にも消えそうだった。


「わたくしを」


 一呼吸。


「愛してくださっていたのでございますか」


 キースが息を呑んだ。


 メルリルも。


 ヴァギュイザールも。


 何も言わない。


 ソーサイアは、すぐには答えなかった。


「ソーサイアなら」


 やがて。


「そんな感情を重要とは考えない」


「サファイア様なら?」


 その問いで初めて、《蒼魔の君》の顔がはっきりと歪んだ。


「……だから」


 低い声。


「分からないと言っている」


          *


 ローゼンの膝から力が抜けた。


「ローゼン!」


 キースが身体を支える。


 今度はローゼンも拒まなかった。


「最初は……」


 彼女は呟く。


「いらっしゃらなかった」


 涙が頬から落ちる。


「サファイア様は」


 最初には、


「いらっしゃらなかった」


「そうだ」


 キースが言う。


 ローゼンが顔を上げた。


「ソーサイアが確実に言えるのは、自分がサファイアを作り始めた時点で、自分の知るサファイアという精霊はいなかった」


 そこまでだ。


「でも」


「今の過去まで含めて、サファイアが一度も存在しなかった、と言っているわけじゃない」


「……はい」


「途中から本当に存在するようになった、と断定したわけでもない」


「はい」


「こいつ自身が」


 ソーサイアを睨む。


「分からなくなっている」


 ソーサイアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「君は本当に」


「何だ」


「分からないものを、分からないまま残せるようになったな」


「黙れ」


「褒めている」


「嬉しくない」


 キースの声には、はっきりと怒りがあった。


「お前の実験が何を示したって」


 消えた魔導士。


「それで、殺された人が戻るわけじゃない」


「戻す必要が?」


「そういう話じゃない!」


「君は面白いな」


 ソーサイアがキースを見る。


「キルスの記憶を持ちながら」


 キースの表情が変わった。


「自分をキースだと定めた」


「なぜ」


「過去の記憶より、今の自分を優先した」


「なぜ、それを知ってる」


「サファイアは知っていた」


 当然のように。


「そして」


 一拍。


「私も知っている」


 また境界が揺れる。


 サファイアが知っていたことを、ソーサイアが知っている。


 それは単に、同じ身体を使っていたからなのか。


 記憶を共有していたからなのか。


 それとも、そもそも二人と数えること自体が間違っているのか。


「君は」


 ソーサイアが言う。


「過去が現在を決めることばかり警戒している」


「何?」


「だが」


 古い写真へ視線を向ける。


「私の観測が本当に意味を持つなら」


 その中には、ソーサイア自身の知らないサファイアがいる。


「現在に成立したものが」


 一拍。


「過去へまで影を落とすこともあるのかもしれない」


「サファイアが」


 キースの目が細くなる。


「その証明だと言う気か?」


「証明とは言わない」


 即答だった。


「私にとって」


 蒼い瞳。


「最も興味深い観測例ではある」


 キースは吐き気を覚えた。


「人を殺しておいて」


「それと」


 ソーサイアの顔は変わらない。


「観測されたものが存在するかどうかは、別問題だ」


「別にするな!」


「研究では分ける」


「だから、人間を材料にしていいのか!」


「良いとは言っていない」


「じゃあ」


 キースは叫ぶ。


「悪いと思っているのか!」


 ソーサイアは少し考えた。


 本当に、質問を検討した。


「私にとって」


 答える。


「判断の優先順位が低い」


 キースの拳が震えた。


          *


 ヴァギュイザールが静かに前へ出た。


「ソーサイア」


「何だい」


「わしの記憶も」


 老精霊の赤い瞳。


「貴様が作ったのか」


「一部は」


 ヴァギュイザールの顔が歪む。


「では」


 低い声。


「《姫》と《王》の最後の戦」


 キースが息を止めた。


「わしが覚えておる、《王》が敗れた記憶」


 そして、


「《王》が自ら武器を置いた記憶」


 二つ。


「それも」


 赤い瞳がソーサイアを射抜く。


「貴様が作ったのか」


 ソーサイアは、すぐには答えなかった。


「さあ」


「貴様!」


「そこは本当に分からない」


 ヴァギュイザールの動きが止まる。


「サファイアの実験より、ずっと古い」


「ならば」


「君の二つの記憶が」


 ソーサイアは一つずつ挙げていく。


「私がサファイアで観測したものと同じ種類なのか。誰かが君へ別の干渉をしたのか。世界そのものに、私の知らない仕組みがあるのか。それ以外か」


 首を振る。


「知らない」


 キースは、その《分からない》へ、今までとは別の嫌悪を覚えた。


 分からないことが悪いのではない。


 ソーサイアは、分からない。


 だから、他人を使って確かめる。


「ただし」


 ソーサイアが続ける。


「サファイアの実験で、無視できないほど繰り返し見たものはある」


 名。


 記録。


 記憶。


 祈り。


 関係。


「それらを重ね続けた時」


 ソーサイアはローゼンを見る。


「私が作っていないはずのサファイアの過去が」


 一拍。


「現れ始めた」


 ローゼンは胸元を握った。


「それを何と説明するのか」


 ソーサイアは静かだった。


「世界がサファイアの居場所を作ったのか」


「……」


「過去そのものが変わったのか」


「……」


「複数の過去のうち、別のものが観測されるようになっただけなのか」


 あるいは、


「まったく別のことが起きているのか」


 ソーサイアは結論を置かない。


「まだ分からない」


「では」


 ローゼンが顔を上げた。


「サファイア様は」


 涙の痕を残したまま。


「途中から、本当に存在したのでございますか」


 長い沈黙。


 ソーサイアはローゼンを見つめた。


「分からない」


 ローゼンは目を逸らさなかった。


「だが」


 ソーサイアの瞳が、ほんの僅かに揺れる。


「最後まで存在しなかった、とも」


 ゆっくり。


「今の私には言い切れない」


 ローゼンの身体が震えた。


「洞窟で」


 消えたサファイア。


「サファイアという形は、一度崩れた」


「あの時……」


「私は」


 ソーサイアは自分の胸へ手を当てる。


「よりソーサイアに近い輪郭へ戻った」


「では翌朝」


「もう一度」


 ローゼンの呼吸が浅くなる。


「サファイアとして戻った」


 僕。


 踵から歩く。


 ローゼン君。


 あの日から続いていた、小さな違和感。


「だから」


 ローゼンが声を絞る。


「あの方は」


「私が再現したサファイアだ」


 ソーサイアは言った。


「少なくとも、私はそのつもりだった」


「でも」


「君が知っていたサファイアとは、完全には一致しなかった」


 メルリルが息を呑む。


「それでは」


 彼女は考えながら、言葉を選ぶ。


「あなたが作った人格が、あなた自身の把握していない部分を持っていた?」


「そう考えると説明しやすい」


 ソーサイアは答える。


「断定は?」


「しない」


「別の理由?」


「いくらでも考えられる」


 メルリルが眉を寄せる。


「……随分と慎重ですのね」


「慎重にもなるさ」


 ソーサイアはローゼンを見る。


「私は」


 声が少し低くなる。


「サファイアを作ったつもりだった」


 だが、


「最後には」


 一拍。


「私自身が」


 ゆっくりと、


「どこまで作ったのか」


 そして、


「どこからが、もう私の作ったものではなかったのか」


 静かに、


「分からなくなった」


 ローゼンには、その言葉が希望にも絶望にも聞こえた。


          *


「なぜ」


 ローゼンは立ち上がった。


 膝が震えている。


 キースの腕を借りながら、それでも自分の足で立った。


「なぜ、そこまでして」


 ソーサイアを見る。


「確かめたかったのでございますか」


 存在しない者へ名を与える。


 記録させる。


 記憶させる。


 その像が、世界の側へまで入り込むのを待つ。


「あなた様は」


 ローゼンは真っ直ぐに《蒼魔の君》を見る。


「何をなさりたいのでございますか」


 キースも、メルリルも、ヴァギュイザールも、同じ答えを待っていた。


 ソーサイアは、ゆっくり笑った。


「良い質問だ」


 一拍。


「ローゼン」


 その呼び方が、またサファイアだった。


 ローゼンの顔が歪む。


「だが」


 蒼い法衣の裾が、風もないのに揺れた。


「その答えは」


 足元へ、細い〈混沌〉が影のように広がり始める。


「サファイアの実験より」


 ヴァギュイザールが身構えた。


「少し大きな話になる」


「逃がすと思うか」


 老精霊の声。


 ソーサイアは彼を見る。


「逃げる?」


「人を殺しておいて」


 ヴァギュイザールの赤い瞳が燃える。


「このまま帰れると思うな」


「私はまだ」


 ソーサイアは静かに言った。


「君たちと戦うつもりはない」


「貴様――」


「だからこそだ」


 黒い影が、一気に地面を走った。


「っ……!」


 キース。


 同時に、


「くっ……!」


 メルリル。


 二人のイースが反応する。


「また……!」


「動くな」


 ソーサイアの声が低く落ちた。


「この距離なら」


 笑みはない。


「二人とも崩せる」


 ヴァギュイザールの動きが止まる。


 ローゼンも。


 メルリルを助けようとした精霊たちも。


 動けない。


「卑怯ですわね」


 メルリルが吐き捨てる。


「合理的と言ってほしい」


「絶対に嫌ですわ」


 ソーサイアが笑った。


「そういうところは好きだよ」


「気持ち悪いですわ!」


「残念だ」


 身体が少しずつ蒼い光へ溶けていく。


 同時に、黒い影も彼の輪郭へ巻き戻っていった。


「待て!」


 キースが叫ぶ。


「次に会った時」


 ソーサイアの顔だけが最後まで残る。


「君たちには」


「何だ!」


「もう少し大きな実験について」


 蒼い瞳。


「話そう」


「何の実験だ!」


 口元の笑みが、僅かに深くなる。


「世界そのものだよ」


 蒼い光が消えた。


 同時に〈混沌〉も引いた。


 あとには、何も残らなかった。


          *


 しばらく、誰も動かなかった。


 風。


 葉。


 遠くの精霊たちの声。


 つい先ほど、一人の人間が死んだ場所。


 そこにも、何もない。


「ローゼン」


 キースが呼ぶ。


 返事はない。


「ローゼン」


「……はい」


 ゆっくり振り返る。


 泣いていた。


「大丈夫か?」


 口にして、すぐに言い直した。


「いや。大丈夫なわけがないな」


 ローゼンは、少しだけ笑った。


「はい」


 涙のまま。


「全然、大丈夫ではございません」


「そうか」


「何を」


 ローゼンは自分の胸へ手を置く。


「信じればよいのか」


 一息。


「分かりません」


「うん」


「サファイア様は」


 声が震える。


「最初はいらっしゃらなかった」


「うん」


「でも」


 ローゼンはソーサイアが消えた場所を見る。


「そのあと、本当に存在するようになったのかは、ソーサイア様にも分からない」


「そうだ」


「わたくしを」


 呼吸。


「愛してくださっていたのかも」


 また涙が落ちる。


「分からない」


 キースは、今度こそ答えを急がなかった。


「ローゼン」


「はい」


「君がサファイアと過ごした時間まで、今ここで全部《嘘だった》と決めなくていい」


 ローゼンが彼を見る。


「でも」


「ソーサイア自身にも、どこまでが自分の作ったものだったのか分からない」


「……はい」


「だったら」


 一拍。


「私たちが代わりに決める必要もない」


 ローゼンはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。


「はい」


「ただし」


 キースの声が変わる。


 消えた魔導士。


 何も残らない地面。


「分かっていることもある」


 ローゼンも、その場所を見た。


「ソーサイアは、人を殺した」


「はい」


「サファイアが途中から本当に存在していた可能性と、ソーサイアが何をしたかは別だ」


 キースは、はっきり言った。


「そこは曖昧にしない」


 ローゼンはゆっくり頷いた。


「はい」


          *


「ソーサイア……」


 ヴァギュイザールが、古い名を苦々しそうに呟いた。


 赤い瞳は、まだソーサイアが消えた場所を見ている。


「長様」


 ローゼンが呼ぶ。


「……ああ」


 老精霊は、長い時間をかけて息を吐いた。


「昔から、魔導のこととなれば、あやつは何をするか分からぬ奴だった」


 キースは、以前ヴァギュイザールから聞いた言葉を思い出す。


 ヴァギュイザールより強い者は、いくらでもいた。


 ソーサイアには、ヴァギュイザールにはできないことができた。


 その意味を今、嫌というほど見せつけられた。


「でも」


 メルリルが言う。


「あなたの記憶へ、実際に手を加えていた」


「ああ」


「では、《王》についての二つの記憶も」


「待て」


 キースが止める。


「ソーサイア自身が否定できないと言っただけだ」


「ええ」


「同じ原因だと決めない」


「分かっておりますわ」


「本当に?」


「今日くらい信用なさい!」


 いつもの調子。


 ほんの僅かだけ、空気が戻った。


 メルリルは手帳を開く。


 だが、筆を紙へ置こうとして止まった。


「……何を書けばいいんですの」


 キースが彼女を見る。


「君がそれを言うのか」


「笑い事ではございませんわ」


 珍しく、本当に困った顔をしている。


「《サファイアは存在しなかった》?」


「それだと正確じゃない」


「《サファイアは存在した》?」


「それも断定できない」


「《ソーサイアがサファイアを作った》?」


「本人はそう証言した」


「《サファイアは後から本当に存在するようになった》?」


「そこは」


 キースは首を振る。


「ソーサイア自身にも分からない」


「……記録泣かせにも程がありますわ」


「でも」


 ローゼンが小さく言った。


「書いてくださいませ」


 メルリルが顔を上げる。


「よろしいの?」


「はい」


 ローゼンは、サファイアだったものが消えた場所を見る。


「分からないことも」


 一度、息を吸う。


「分からないまま」


 少しだけ声へ力を込めた。


「残してくださいませ」


 メルリルは、しばらくローゼンを見ていた。


 やがて静かに頷く。


「承知しましたわ」


 筆を置く。


 書く。


 サファイアと呼ばれる存在について。


 他者を起点とする記録は、多数確認される。


 本人自身を起点とする一次記録は、現在まで確認されず。


 《蒼魔の君》ソーサイアは、自らがサファイアという名・人格・外見を設定し、その人物として長期間振る舞ったと証言。


 実験開始時点において、ソーサイア自身の認識では、サファイアという独立した精霊は存在していなかった。


 ただし、後年。


 ソーサイアが作成・誘導していないと本人が主張する記憶・記録・写真その他の証拠に、サファイアが出現。


 それらの成立原因については、不明。


 サファイアが最後までソーサイアによる仮の人格のみであったのか。


 ある時点から、ソーサイア自身の認識を越えた何らかの存在として成立したのか。


 あるいは、別の現象であるのか。


 ――不明。


「これで」


 メルリルが尋ねる。


「よろしい?」


 キースは文章を読む。


「《過去が書き換わった》は?」


「書いておりませんわ」


「《逆流》は?」


「ソーサイア本人の仮称として、別項目」


「《メレグ=ナフ》」


「一文字も」


 キースは頷いた。


「いいと思う」


「あら」


「何だ」


「褒められましたわ」


「いちいち反応するな!」


 メルリルが少しだけ笑う。


 ローゼンも、本当にほんの少しだけ口元を緩めた。


 けれど、すぐに机の上へ置かれた古い写真へ目を向ける。


 そこに、サファイアがいる。


 今より若い精霊たちの中で、いつもの穏やかな顔で笑っている。


 その写真を、ソーサイアは作っていないという。


 本当にそうなのか。


 それも、今のローゼンには確かめられない。


 けれど、だからといって、写真の中の笑顔へ今すぐ《嘘》と書く必要もない。


「サファイア様」


 ローゼンは、誰にも届かないほど小さな声で、その名を呼んだ。


 返事はない。


 それでも、名前は残った。


 記憶も。


 写真も。


 自分が過ごした時間も。


 それが何を意味するのかは、まだ分からない。


 最初には、いなかった。


 少なくとも、ソーサイアはそう知っている。


 けれど最後までいなかったのか。


 途中から、本当に誰かになったのか。


 それを断定する言葉は、世界のどこにもまだなかった。


 だからローゼンは、その空白を空白のまま残すことにした。

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