第三十四章 サファイアという空白
「違う」
ローゼンの口から、小さな声が漏れた。
ソーサイアは否定しなかった。
「違います」
今度は、もっと強く言う。
「サファイア様はいらっしゃいました」
「今の君には、そういう記憶がある」
「記憶だけではございません!」
ローゼンの声が震えた。
「写真にもおります。記録にもおります。わたくしだけではございません。皆様がサファイア様を存じております!」
「ああ」
「わたくしを育ててくださいました」
「ああ」
「名前を呼んでくださいました。泣いていれば慰めてくださいました。森の外へ出る時は、いつも心配してくださいました」
言葉を重ねるほど、声が崩れていく。
「それなのに」
ローゼンは目の前の《蒼魔の君》を見た。
「存在していなかったなどと……どうして、そのようなことをおっしゃるのでございますか」
ソーサイアは、しばらく何も答えなかった。
相手が自分の言葉を終えるまで待つ、その沈黙の癖までサファイアに似ている。
だからこそ、ローゼンには耐え難かった。
「ローゼン」
キースが一歩近づく。
「触らないでください!」
反射的に声が出た。
キースが足を止める。
「……ごめんなさい」
ローゼンは両手で胸元を押さえた。息を吸っているはずなのに、肺まで届いていかない。
「サファイア様は……」
記憶を探す。
大樹の枝。
足を滑らせた日。
落ちる自分を受け止めた腕。
雨の夜。
怖い夢。
眠るまで傍にいてくれた人。
花冠。
本。
青い布。
名前を呼ぶ声。
「全部……」
涙が滲んだ。
「全部、嘘だったのでございますか」
ソーサイアは即答しなかった。
それが、ローゼンには何より意外だった。
「それを」
やがて彼は言った。
「私にも答えられない」
ローゼンが顔を上げる。
「……何を」
「私が実験を始めた時」
ソーサイアの声は静かだった。
「私の前に、サファイアという精霊はいなかった」
そこだけは揺らがなかった。
「私は、存在していないものへ名前を与えるところから始めた。それは覚えている」
そこで初めて、彼の言葉が止まった。
「だが」
僅かな沈黙。
「だからといって」
蒼い瞳がローゼンを見る。
「今ここから過去を振り返って、サファイアなど最後まで存在しなかった、と言い切れるか」
一拍。
「それは、私にも分からない」
キースが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「昔、一つの疑問を持った」
ソーサイアは傍らへ伸びる大樹の根に手を置いた。
何世代もの精霊が記憶を預けてきた、古い大樹。
「存在とは、どこにある?」
「何?」
「身体か」
一本。
「魂か」
二本。
「名前か」
三本。
「記憶か」
四本。
「それとも」
指を開く。
「誰かから、その者として見られていることか」
「今は哲学を聞いている場合では――」
「私にとっては、同じ問いだった」
ソーサイアはキースを見る。
「名がなくても存在するものはある。記録されなくても、そこにいるものもある。誰にも祈られなくても、神であるものがいるのかもしれない」
「だから?」
「ならば、逆はどうだと思う?」
キースは黙った。
「存在しないものへ、名前を与える」
誰も答えない。
「その名前を呼ぶ。その者について語る。記録する。覚える。誰かとの関係の中へ置く。愛する。嫌う。待つ。失ったと嘆く」
ローゼンは動けなかった。
「それを積み重ねた時」
ソーサイアは微笑んだ。
「世界の側には、何が起きるのだろうと思った」
*
「最初に作ったのは、名前だけだった」
ソーサイアは遠い過去を見るように目を細めた。
「サファイア」
その名だけで、ローゼンの胸が痛む。
「大した理由はない。蒼を連想しやすく、外の者にも覚えやすい名を選んだ」
「……名前を」
「ああ」
「あなた様が?」
「そうだ」
ソーサイアは自分の身体へ視線を落とした。
「次に姿を決めた」
髪。
瞳。
年齢。
衣服。
「性格も。口調も。争いを好まず、外部との交渉が得意で、古い記録に詳しい」
そして、
「ラルソウムを愛している」
「やめてください」
ローゼンの声が掠れた。
「私は、その者として振る舞った」
「やめて……」
「他者がいる時だけ」
そこでソーサイアは、僅かに笑った。
「最初はね」
キースが反応する。
「最初は?」
「実験なのだから、観測記録が必要だった」
ソーサイアは指先で空中へ文字を書くように動かす。
「だが、私自身がサファイアについて書けば、実験者が記録の起点になる」
メルリルの顔が変わった。
「だから……」
「そう」
ソーサイアは彼女を見る。
「サファイア自身の筆跡を残さなかった」
会議へ出る。
誰かが議事録に書く。
――サファイアが出席した。
外部の人間と会う。
相手が手紙を書く。
――サファイアと話した。
誰かを助ける。
助けられた者が語る。
――サファイアに救われた。
「私から」
ソーサイアは言った。
「《サファイアは存在する》という一次記録を残さない」
それが、あの奇妙な空白の理由だった。
「サファイアを記録する役目を、他者だけに委ねた」
キースの背筋を冷たいものが走る。
「最初から、それが目的だった?」
「観測された存在が、どこまで現実として定着するのかを見たかった」
「だから」
メルリルが呟く。
「サファイアについての記録は大量にあるのに、サファイア本人を起点とする資料だけが存在しない」
「その通り」
「最初の記憶も?」
キースが尋ねた。
「そこへも手を加えた?」
「加えた」
あまりにも簡単に認めた。
「古くからいる精霊だ、と前提を置いたこともある。夢へ記憶を混ぜたこともある」
「直接?」
「ああ」
「他人の記憶を書き換えたのか!」
「そうだ」
ヴァギュイザールの両手が震えた。
「貴様……!」
深い皺の奥で、赤い瞳が燃え上がる。
「わしらの記憶を弄んだのか!」
「一部は」
「一部だと?」
「怒るのは当然だと思うよ」
悪びれる様子はない。
「だが」
ソーサイアの声が僅かに変わった。
「私が本当に困ったのは、そのあとだった」
「困った?」
キースが聞き返す。
「ああ」
「何が」
「私が何もしていないところで」
ソーサイアは言った。
「サファイアについての記憶が増え始めた」
風が大樹の葉を揺らした。
「……何?」
「ある古い精霊が、私へ話した」
ソーサイアは記憶を辿る。
「昔、東の森で迷った時、サファイアに助けられた、と」
「あなたが助けたのでは?」
「違う」
「サファイアとして?」
「それも違う」
ソーサイアの口元から笑みが消えた。
「その者が話した時期には」
一拍。
「私はまだ、サファイアを作っていなかった」
ローゼンが息を止める。
「でも」
キースが言う。
「記憶は、あとから混ざる」
「私も最初はそう考えた」
「では?」
「記録が見つかった」
「記録?」
「その精霊が迷った翌日に書いた日誌だ」
ソーサイアは淡々と言う。
「そこに、サファイアの名があった」
メルリルが一歩前へ出た。
「あなたが用意した記録ではなく?」
「違う」
「後世の追記?」
「私が調べた範囲では痕跡はなかった」
「紙は?」
「その時代のもの」
「筆跡」
「本人」
「保存履歴」
「確認できる範囲では矛盾しなかった」
メルリルの口が閉じる。
「……過去が」
キースがゆっくりと言った。
「あとから補われた?」
「私は」
ソーサイアは答える。
「そう解釈した」
「断定は?」
間を置かず、キースが問う。
ソーサイアは、そこで少し笑った。
「できない」
「なぜ?」
「別の仕組みかもしれない」
一つ。
「私の知らない誰かが介入した可能性もある」
二つ。
「記録の年代そのものを、私が正しく捉えられていなかった可能性も」
三つ。
「あるいは」
ソーサイアは指を下ろす。
「私の想定そのものが、最初から間違っているのかもしれない」
キースは黙った。
この男は人を殺した。
他人の記憶へ手を加えた。
それでも、自分の仮説を世界の真理として語ってはいない。
それが余計に始末が悪かった。
「ただ」
ソーサイアは続ける。
「一度だけでは終わらなかった」
ローゼンを見る。
「私が用意していない写真に、サファイアが写った」
ローゼンの肩が震えた。
「私が語っていない思い出を、他者が持ち始めた」
古い品へ、新しい来歴が生まれる。
――これは昔、サファイアからもらったものだ。
古い手紙へ、知らない会談の記録が現れる。
――サファイアと話した。
「私は」
ソーサイアが自分の胸へ手を置く。
「その場へ行っていない」
それでも、そこにはサファイアがいたことになっていた。
「アムドアで」
ソーサイアがキースを見る。
「君たちも、少し似たものを見ただろう?」
キースの顔が強張る。
三つの歴史。
同じ都市について、互いに両立しない過去が、それぞれ真正な記録として存在していた。
「似ているだけだ」
キースが言う。
「同じ現象だとは決めない」
「うん」
ソーサイアはあっさり頷いた。
「それでいい」
「……否定しないのか」
「なぜ?」
「お前なら、自分の実験で全部説明すると思った」
「それは研究ではないよ」
ソーサイアは大樹を見上げる。
「世界の過去が、本当に一つだけなのか」
葉の隙間から、黄銅の時代の空が見える。
「私はもう、それを当然の前提にはしていない」
*
「一つの人格について」
メルリルが考えながら口を開く。
「十分な記録や記憶が積み上がった結果」
「結果として?」
キースが続ける。
「《サファイアが昔からいた》という過去まで現れた?」
「そう見えた」
ソーサイアは答えた。
「少なくとも、私には」
「記録が過去を書き換えた?」
「分からない」
「記憶が?」
「分からない」
「祈り?」
「それも」
「では何なんですの!」
メルリルが声を上げる。
ソーサイアは楽しそうに彼女を見る。
「だから調べている」
「……あなたとは絶対に研究をご一緒したくありませんわ」
「残念だ」
本気で残念そうだった。
「私が見ていたものには」
ソーサイアが指を折る。
「名前」
一つ。
「記憶」
二つ。
「会話」
三つ。
「関係」
四つ。
「祈り」
五つ。
「期待。恐怖。愛情。そして記録」
指を開く。
「何が必要なのかは分からない」
「どれか一つで成立する?」
「そうは思わない」
「全部必要?」
「それも分からない」
「では」
キースが問う。
「お前は、それを何と呼んでる」
「《逆流》」
短い答えだった。
「逆流?」
「人が世界を見て、記録する」
普通のことだ。
「だが」
ソーサイアの蒼い瞳が細くなる。
「ある段階を越えた時、人が記録へ世界を合わせるのではなく、記録された像へ合わせるように、世界の側から新しい整合性が現れる」
「仮説だな」
「もちろん」
「つまり」
キースは念を押す。
「《逆流》という現象が客観的に存在すると証明したわけじゃない」
「その通り」
「サファイアが本当にそれで生まれたとも?」
「言い切らない」
「なら」
「だから実験を続けている」
キースの顔が険しくなる。
地面。
つい先ほどまで、一人の人間がいた場所を見る。
「人を殺してまでか」
「必要な観測なら」
「ふざけるな」
ソーサイアの顔は変わらない。
ローゼンには、二人の会話が遠く聞こえていた。
「では……」
震える声。
ソーサイアが彼女を見る。
「わたくしの記憶は、どこまでが」
「最初に私が置いたものか」
ローゼンの肩が揺れる。
「どこから」
ソーサイア自身も、一拍置いた。
「私の手を離れたのか」
大樹。
幼い自分。
サファイア。
「今の私には」
蒼い瞳が、ほんの少し揺れた。
「もう区別できない」
「やめてください」
ローゼンが首を振る。
「君が幼い頃」
「やめて」
「大樹から落ちた」
「やめてください」
「サファイアが受け止めた」
「やめてください!」
叫び。
ソーサイアの言葉が止まった。
ローゼンの頬を涙が伝う。
「その記憶を」
それでも、聞かなければならない。
「あなた様が」
声が震える。
「作ったのでございますか」
ソーサイアは答えない。
「わたくしが落ちた時、サファイア様が抱き止めてくださった」
夜。
「眠れない時は、朝まで傍にいてくださった」
森。
「初めて外へ出る時、何度も荷物を確認してくださいました」
そんな一つ一つまで。
「全部」
ローゼンの唇が震える。
「あなた様の演技だったのでございますか」
長い沈黙。
やがて、
「分からない」
ローゼンが目を見開いた。
「……分からない?」
「そこまで長く続けるつもりではなかった」
ソーサイアは、初めて少し疲れたような顔をした。
「サファイアは仮の人格だった」
必要な時だけ使う。
観測する。
十分な結果が得られれば捨てる。
「そのつもりだった」
「では」
ローゼンの喉が震える。
「なぜ」
「捨てられなくなった」
大樹の葉が鳴った。
「いつからだったか」
ソーサイアが自分の手を見る。
「誰も見ていない場所で」
一瞬、その立ち方が変わった。
ほんの少し。
体重の置き方が柔らかくなる。
「私は」
ローゼンの息が止まる。
「サファイアの歩き方をしていた」
「あの……」
「踵を鳴らさない」
〈混沌〉の洞窟から戻ったサファイアは、それをできていなかった。
「演技なら」
ソーサイアは言う。
「誰も見ていない場所で続ける理由はない」
サファイアの好きな茶を選んだ。
ソーサイアなら興味を持たない相手から届く手紙を読んだ。
返事が来るか気にした。
「返事は」
メルリルが呟く。
「書かなかった」
「ああ」
「だから、サファイア本人からの手紙だけがない」
「書けなかった」
「なぜ?」
「書けば」
ソーサイアは自分の指を見る。
「私自身の手が残る」
実験を壊したくなかった。
なのに、
「そのくせ」
僅かな自嘲。
「サファイアとして返事を書きたいとも思っていた」
「それは」
キースが言う。
「矛盾してる」
「ああ」
否定しない。
「そして」
ソーサイアの視線がローゼンへ戻る。
「君が生まれた」
ローゼンの肩が揺れた。
「最初は」
一拍。
「観察対象だった」
キースの表情が険しくなる。
「それ以上言うな」
「キース様」
「ローゼン」
「聞きます」
涙を拭わない。
ソーサイアから目も逸らさない。
「聞かせてくださいませ」
ソーサイアも彼女を見続けた。
「君が幼い頃」
静かに。
「私は確かに、《サファイアならどうするか》と考えていた」
怪我をした。
助ける。
泣いた。
慰める。
森へ出た。
見守る。
「それは」
言葉を切る。
「演技だった」
ローゼンの唇が震えた。
「最初は」
また、その言葉。
「では」
ローゼンはとうとう聞いた。
「途中からは?」
「分からない」
「サファイア様は」
声が今にも消えそうだった。
「わたくしを」
一呼吸。
「愛してくださっていたのでございますか」
キースが息を呑んだ。
メルリルも。
ヴァギュイザールも。
何も言わない。
ソーサイアは、すぐには答えなかった。
「ソーサイアなら」
やがて。
「そんな感情を重要とは考えない」
「サファイア様なら?」
その問いで初めて、《蒼魔の君》の顔がはっきりと歪んだ。
「……だから」
低い声。
「分からないと言っている」
*
ローゼンの膝から力が抜けた。
「ローゼン!」
キースが身体を支える。
今度はローゼンも拒まなかった。
「最初は……」
彼女は呟く。
「いらっしゃらなかった」
涙が頬から落ちる。
「サファイア様は」
最初には、
「いらっしゃらなかった」
「そうだ」
キースが言う。
ローゼンが顔を上げた。
「ソーサイアが確実に言えるのは、自分がサファイアを作り始めた時点で、自分の知るサファイアという精霊はいなかった」
そこまでだ。
「でも」
「今の過去まで含めて、サファイアが一度も存在しなかった、と言っているわけじゃない」
「……はい」
「途中から本当に存在するようになった、と断定したわけでもない」
「はい」
「こいつ自身が」
ソーサイアを睨む。
「分からなくなっている」
ソーサイアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「君は本当に」
「何だ」
「分からないものを、分からないまま残せるようになったな」
「黙れ」
「褒めている」
「嬉しくない」
キースの声には、はっきりと怒りがあった。
「お前の実験が何を示したって」
消えた魔導士。
「それで、殺された人が戻るわけじゃない」
「戻す必要が?」
「そういう話じゃない!」
「君は面白いな」
ソーサイアがキースを見る。
「キルスの記憶を持ちながら」
キースの表情が変わった。
「自分をキースだと定めた」
「なぜ」
「過去の記憶より、今の自分を優先した」
「なぜ、それを知ってる」
「サファイアは知っていた」
当然のように。
「そして」
一拍。
「私も知っている」
また境界が揺れる。
サファイアが知っていたことを、ソーサイアが知っている。
それは単に、同じ身体を使っていたからなのか。
記憶を共有していたからなのか。
それとも、そもそも二人と数えること自体が間違っているのか。
「君は」
ソーサイアが言う。
「過去が現在を決めることばかり警戒している」
「何?」
「だが」
古い写真へ視線を向ける。
「私の観測が本当に意味を持つなら」
その中には、ソーサイア自身の知らないサファイアがいる。
「現在に成立したものが」
一拍。
「過去へまで影を落とすこともあるのかもしれない」
「サファイアが」
キースの目が細くなる。
「その証明だと言う気か?」
「証明とは言わない」
即答だった。
「私にとって」
蒼い瞳。
「最も興味深い観測例ではある」
キースは吐き気を覚えた。
「人を殺しておいて」
「それと」
ソーサイアの顔は変わらない。
「観測されたものが存在するかどうかは、別問題だ」
「別にするな!」
「研究では分ける」
「だから、人間を材料にしていいのか!」
「良いとは言っていない」
「じゃあ」
キースは叫ぶ。
「悪いと思っているのか!」
ソーサイアは少し考えた。
本当に、質問を検討した。
「私にとって」
答える。
「判断の優先順位が低い」
キースの拳が震えた。
*
ヴァギュイザールが静かに前へ出た。
「ソーサイア」
「何だい」
「わしの記憶も」
老精霊の赤い瞳。
「貴様が作ったのか」
「一部は」
ヴァギュイザールの顔が歪む。
「では」
低い声。
「《姫》と《王》の最後の戦」
キースが息を止めた。
「わしが覚えておる、《王》が敗れた記憶」
そして、
「《王》が自ら武器を置いた記憶」
二つ。
「それも」
赤い瞳がソーサイアを射抜く。
「貴様が作ったのか」
ソーサイアは、すぐには答えなかった。
「さあ」
「貴様!」
「そこは本当に分からない」
ヴァギュイザールの動きが止まる。
「サファイアの実験より、ずっと古い」
「ならば」
「君の二つの記憶が」
ソーサイアは一つずつ挙げていく。
「私がサファイアで観測したものと同じ種類なのか。誰かが君へ別の干渉をしたのか。世界そのものに、私の知らない仕組みがあるのか。それ以外か」
首を振る。
「知らない」
キースは、その《分からない》へ、今までとは別の嫌悪を覚えた。
分からないことが悪いのではない。
ソーサイアは、分からない。
だから、他人を使って確かめる。
「ただし」
ソーサイアが続ける。
「サファイアの実験で、無視できないほど繰り返し見たものはある」
名。
記録。
記憶。
祈り。
関係。
「それらを重ね続けた時」
ソーサイアはローゼンを見る。
「私が作っていないはずのサファイアの過去が」
一拍。
「現れ始めた」
ローゼンは胸元を握った。
「それを何と説明するのか」
ソーサイアは静かだった。
「世界がサファイアの居場所を作ったのか」
「……」
「過去そのものが変わったのか」
「……」
「複数の過去のうち、別のものが観測されるようになっただけなのか」
あるいは、
「まったく別のことが起きているのか」
ソーサイアは結論を置かない。
「まだ分からない」
「では」
ローゼンが顔を上げた。
「サファイア様は」
涙の痕を残したまま。
「途中から、本当に存在したのでございますか」
長い沈黙。
ソーサイアはローゼンを見つめた。
「分からない」
ローゼンは目を逸らさなかった。
「だが」
ソーサイアの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「最後まで存在しなかった、とも」
ゆっくり。
「今の私には言い切れない」
ローゼンの身体が震えた。
「洞窟で」
消えたサファイア。
「サファイアという形は、一度崩れた」
「あの時……」
「私は」
ソーサイアは自分の胸へ手を当てる。
「よりソーサイアに近い輪郭へ戻った」
「では翌朝」
「もう一度」
ローゼンの呼吸が浅くなる。
「サファイアとして戻った」
僕。
踵から歩く。
ローゼン君。
あの日から続いていた、小さな違和感。
「だから」
ローゼンが声を絞る。
「あの方は」
「私が再現したサファイアだ」
ソーサイアは言った。
「少なくとも、私はそのつもりだった」
「でも」
「君が知っていたサファイアとは、完全には一致しなかった」
メルリルが息を呑む。
「それでは」
彼女は考えながら、言葉を選ぶ。
「あなたが作った人格が、あなた自身の把握していない部分を持っていた?」
「そう考えると説明しやすい」
ソーサイアは答える。
「断定は?」
「しない」
「別の理由?」
「いくらでも考えられる」
メルリルが眉を寄せる。
「……随分と慎重ですのね」
「慎重にもなるさ」
ソーサイアはローゼンを見る。
「私は」
声が少し低くなる。
「サファイアを作ったつもりだった」
だが、
「最後には」
一拍。
「私自身が」
ゆっくりと、
「どこまで作ったのか」
そして、
「どこからが、もう私の作ったものではなかったのか」
静かに、
「分からなくなった」
ローゼンには、その言葉が希望にも絶望にも聞こえた。
*
「なぜ」
ローゼンは立ち上がった。
膝が震えている。
キースの腕を借りながら、それでも自分の足で立った。
「なぜ、そこまでして」
ソーサイアを見る。
「確かめたかったのでございますか」
存在しない者へ名を与える。
記録させる。
記憶させる。
その像が、世界の側へまで入り込むのを待つ。
「あなた様は」
ローゼンは真っ直ぐに《蒼魔の君》を見る。
「何をなさりたいのでございますか」
キースも、メルリルも、ヴァギュイザールも、同じ答えを待っていた。
ソーサイアは、ゆっくり笑った。
「良い質問だ」
一拍。
「ローゼン」
その呼び方が、またサファイアだった。
ローゼンの顔が歪む。
「だが」
蒼い法衣の裾が、風もないのに揺れた。
「その答えは」
足元へ、細い〈混沌〉が影のように広がり始める。
「サファイアの実験より」
ヴァギュイザールが身構えた。
「少し大きな話になる」
「逃がすと思うか」
老精霊の声。
ソーサイアは彼を見る。
「逃げる?」
「人を殺しておいて」
ヴァギュイザールの赤い瞳が燃える。
「このまま帰れると思うな」
「私はまだ」
ソーサイアは静かに言った。
「君たちと戦うつもりはない」
「貴様――」
「だからこそだ」
黒い影が、一気に地面を走った。
「っ……!」
キース。
同時に、
「くっ……!」
メルリル。
二人のイースが反応する。
「また……!」
「動くな」
ソーサイアの声が低く落ちた。
「この距離なら」
笑みはない。
「二人とも崩せる」
ヴァギュイザールの動きが止まる。
ローゼンも。
メルリルを助けようとした精霊たちも。
動けない。
「卑怯ですわね」
メルリルが吐き捨てる。
「合理的と言ってほしい」
「絶対に嫌ですわ」
ソーサイアが笑った。
「そういうところは好きだよ」
「気持ち悪いですわ!」
「残念だ」
身体が少しずつ蒼い光へ溶けていく。
同時に、黒い影も彼の輪郭へ巻き戻っていった。
「待て!」
キースが叫ぶ。
「次に会った時」
ソーサイアの顔だけが最後まで残る。
「君たちには」
「何だ!」
「もう少し大きな実験について」
蒼い瞳。
「話そう」
「何の実験だ!」
口元の笑みが、僅かに深くなる。
「世界そのものだよ」
蒼い光が消えた。
同時に〈混沌〉も引いた。
あとには、何も残らなかった。
*
しばらく、誰も動かなかった。
風。
葉。
遠くの精霊たちの声。
つい先ほど、一人の人間が死んだ場所。
そこにも、何もない。
「ローゼン」
キースが呼ぶ。
返事はない。
「ローゼン」
「……はい」
ゆっくり振り返る。
泣いていた。
「大丈夫か?」
口にして、すぐに言い直した。
「いや。大丈夫なわけがないな」
ローゼンは、少しだけ笑った。
「はい」
涙のまま。
「全然、大丈夫ではございません」
「そうか」
「何を」
ローゼンは自分の胸へ手を置く。
「信じればよいのか」
一息。
「分かりません」
「うん」
「サファイア様は」
声が震える。
「最初はいらっしゃらなかった」
「うん」
「でも」
ローゼンはソーサイアが消えた場所を見る。
「そのあと、本当に存在するようになったのかは、ソーサイア様にも分からない」
「そうだ」
「わたくしを」
呼吸。
「愛してくださっていたのかも」
また涙が落ちる。
「分からない」
キースは、今度こそ答えを急がなかった。
「ローゼン」
「はい」
「君がサファイアと過ごした時間まで、今ここで全部《嘘だった》と決めなくていい」
ローゼンが彼を見る。
「でも」
「ソーサイア自身にも、どこまでが自分の作ったものだったのか分からない」
「……はい」
「だったら」
一拍。
「私たちが代わりに決める必要もない」
ローゼンはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「はい」
「ただし」
キースの声が変わる。
消えた魔導士。
何も残らない地面。
「分かっていることもある」
ローゼンも、その場所を見た。
「ソーサイアは、人を殺した」
「はい」
「サファイアが途中から本当に存在していた可能性と、ソーサイアが何をしたかは別だ」
キースは、はっきり言った。
「そこは曖昧にしない」
ローゼンはゆっくり頷いた。
「はい」
*
「ソーサイア……」
ヴァギュイザールが、古い名を苦々しそうに呟いた。
赤い瞳は、まだソーサイアが消えた場所を見ている。
「長様」
ローゼンが呼ぶ。
「……ああ」
老精霊は、長い時間をかけて息を吐いた。
「昔から、魔導のこととなれば、あやつは何をするか分からぬ奴だった」
キースは、以前ヴァギュイザールから聞いた言葉を思い出す。
ヴァギュイザールより強い者は、いくらでもいた。
ソーサイアには、ヴァギュイザールにはできないことができた。
その意味を今、嫌というほど見せつけられた。
「でも」
メルリルが言う。
「あなたの記憶へ、実際に手を加えていた」
「ああ」
「では、《王》についての二つの記憶も」
「待て」
キースが止める。
「ソーサイア自身が否定できないと言っただけだ」
「ええ」
「同じ原因だと決めない」
「分かっておりますわ」
「本当に?」
「今日くらい信用なさい!」
いつもの調子。
ほんの僅かだけ、空気が戻った。
メルリルは手帳を開く。
だが、筆を紙へ置こうとして止まった。
「……何を書けばいいんですの」
キースが彼女を見る。
「君がそれを言うのか」
「笑い事ではございませんわ」
珍しく、本当に困った顔をしている。
「《サファイアは存在しなかった》?」
「それだと正確じゃない」
「《サファイアは存在した》?」
「それも断定できない」
「《ソーサイアがサファイアを作った》?」
「本人はそう証言した」
「《サファイアは後から本当に存在するようになった》?」
「そこは」
キースは首を振る。
「ソーサイア自身にも分からない」
「……記録泣かせにも程がありますわ」
「でも」
ローゼンが小さく言った。
「書いてくださいませ」
メルリルが顔を上げる。
「よろしいの?」
「はい」
ローゼンは、サファイアだったものが消えた場所を見る。
「分からないことも」
一度、息を吸う。
「分からないまま」
少しだけ声へ力を込めた。
「残してくださいませ」
メルリルは、しばらくローゼンを見ていた。
やがて静かに頷く。
「承知しましたわ」
筆を置く。
書く。
サファイアと呼ばれる存在について。
他者を起点とする記録は、多数確認される。
本人自身を起点とする一次記録は、現在まで確認されず。
《蒼魔の君》ソーサイアは、自らがサファイアという名・人格・外見を設定し、その人物として長期間振る舞ったと証言。
実験開始時点において、ソーサイア自身の認識では、サファイアという独立した精霊は存在していなかった。
ただし、後年。
ソーサイアが作成・誘導していないと本人が主張する記憶・記録・写真その他の証拠に、サファイアが出現。
それらの成立原因については、不明。
サファイアが最後までソーサイアによる仮の人格のみであったのか。
ある時点から、ソーサイア自身の認識を越えた何らかの存在として成立したのか。
あるいは、別の現象であるのか。
――不明。
「これで」
メルリルが尋ねる。
「よろしい?」
キースは文章を読む。
「《過去が書き換わった》は?」
「書いておりませんわ」
「《逆流》は?」
「ソーサイア本人の仮称として、別項目」
「《メレグ=ナフ》」
「一文字も」
キースは頷いた。
「いいと思う」
「あら」
「何だ」
「褒められましたわ」
「いちいち反応するな!」
メルリルが少しだけ笑う。
ローゼンも、本当にほんの少しだけ口元を緩めた。
けれど、すぐに机の上へ置かれた古い写真へ目を向ける。
そこに、サファイアがいる。
今より若い精霊たちの中で、いつもの穏やかな顔で笑っている。
その写真を、ソーサイアは作っていないという。
本当にそうなのか。
それも、今のローゼンには確かめられない。
けれど、だからといって、写真の中の笑顔へ今すぐ《嘘》と書く必要もない。
「サファイア様」
ローゼンは、誰にも届かないほど小さな声で、その名を呼んだ。
返事はない。
それでも、名前は残った。
記憶も。
写真も。
自分が過ごした時間も。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
最初には、いなかった。
少なくとも、ソーサイアはそう知っている。
けれど最後までいなかったのか。
途中から、本当に誰かになったのか。
それを断定する言葉は、世界のどこにもまだなかった。
だからローゼンは、その空白を空白のまま残すことにした。




