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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第六部 サファイアはいつから存在したのか
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第三十五章 唯一の読者になりたい男

 ソーサイアが消えたあとも、ラルソウムの空気には薄い〈混沌〉の気配が残っていた。


 それは煙のように目で追えるものではない。大樹の葉が風もないのに同じ方向へ傾き、花々が一斉に蕾を閉じる。石へ問いかけても返事は鈍く、水の精霊たちは川底へ潜ったまま、なかなか姿を見せようとしなかった。


 何よりも不穏なのは、魔導士であるキースとメルリルのイースが、途切れることなく微かな警告を発し続けていることだった。


「近くにいる」


 キースが胸元へ手を当てて言うと、メルリルも同じように指先を置いた。


「ええ。ですが、場所が特定できませんわ。東にいると思えば北から反応する。少なくとも、一点に留まっているわけではなさそうです」


「〈混沌〉を介しているのか?」


「それが分かれば苦労しません」


 大樹の広間には、ローゼン、シビウ、キロス、フユも集まっていた。周辺の封鎖へ回っていたシビウたちは、ソーサイアの正体が明らかになったという報せを受け、急いで戻ってきたのである。


 一連の話を聞き終えたシビウは、かなり長いあいだ黙っていた。


「つまり」


 やがて彼女は、肩に担いでいたマーカスの斧を壁へ立てかけながら言った。


「ローゼンの親代わりだった男は、実は昔からいたわけじゃない。ソーサイアが作った偽物だった。でも長く演じすぎたせいか、本当にその人間が昔からいたみたいに、記憶や記録の方まで変わり始めた。それで本人も、どこまでが偽物だったのか分からなくなった」


「大雑把だが、おおむね合っている」


 キースが答える。


「嫌な話だねえ」


「もっと怒るかと思った」


「怒ってるよ。ただ、何に一番怒ればいいのか多すぎて決められないだけさ」


 シビウはそう言ってから、ローゼンへ目を向けた。


「そっちは?」


「……わたくしも、まだ分かりません」


 ローゼンは膝の上で両手を重ねていた。泣き腫らした痕はまだ残っている。それでも昨日よりは、自分の声で話せるようになっていた。


「サファイア様が最初はいらっしゃらなかった。そのことは、ソーサイア自身が認めました。でも、わたくしが知っていたサファイア様まで、すべてソーサイアの演技だったのかは……」


「分からない」


「はい」


 シビウは鼻を鳴らした。


「だったら、今はそれでいいんじゃないかい」


 ローゼンが顔を上げる。


「でも――」


「死んだ奴の気持ちだって、生きてる人間が全部分かるわけじゃないんだ。いたのか、いなかったのかまで分からない奴なら、なおさらだろ」


 言い方は相変わらず乱暴だった。


 それでも、ローゼンは少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「礼を言われるようなことは言ってないよ」


 その横で、キロスが片手を上げた。


「質問」


「何だ」


「そのソーサイアって人、何がしたいの?」


 広間が静かになった。


 もっとも単純で、まだ誰にも答えられない問いだった。


「人を〈混沌〉に変えて吸うんでしょ?」


「ああ」


「サファイアも何百年かけて実験した。でもさ、何のため?」


 キースは眉を寄せた。


 魔導研究。


 〈混沌〉。


 世界の歴史さえ揺らぐ現象。


 そこまでは少しずつ見えてきた。


 だが、ソーサイアが最後に何を求めているのかは分からない。


「旧い伝承では、《蒼魔の君》は魔導の真理を求めた存在だった」


 ヴァギュイザールが答えた。


 古老は広間の端に立ったまま、大樹の外へ視線を向けている。かつての仲間が敵として現れた衝撃を、ローゼンのように表へ出してはいない。それでも、昨日から一度も腰を下ろしていなかった。


「昔のあやつなら、より強い魔導を求めたと言えば納得できた。あらゆる術を知り、あらゆる構文を己がものとする。それがソーサイアじゃった」


「最強の魔導士になりたい?」


 キロスが尋ねる。


 ヴァギュイザールは首を横へ振った。


「もう、それだけではあるまい」


「私もそう思う」


 キースが続けた。


 もし力だけが目的なら、サファイアという存在を何百年もかけて育てる必要はない。


 名前。


 記憶。


 写真。


 手紙。


 他者との関係。


 そして世界の側に、存在しなかったはずの過去まで現れ始めた現象。


 あれは、単純に魔力を増やすための実験ではなかった。


「世界が、どこまで物語によって変わるのかを調べていた」


 キースは呟く。


「でも、何のために……」


 そのときだった。


 大樹の壁に、青い文字が浮かび上がった。


          *


「下がれ!」


 ヴァギュイザールの声が飛ぶ。


 全員が一斉に身構えた。


 生きた木肌の上を、青い線が走っていく。一文字、二文字と形を結び、それはやがて文章へ変わっていった。


 ラルソウムの文字ではない。


 人間の一般的な魔導式でもない。


 だが、キースには見覚えがあった。


「ソーサイア系の構文」


 メルリルもすぐに気づく。


「大樹そのものへ入り込んでいますわ!」


「いつからだ?」


「分かりません!」


 青い線はさらに増え、ひとつの文章を形作った。


 《聞きたいのなら、読めばいい》


 シビウが露骨に顔をしかめる。


「趣味が悪いね」


「誘っている」


 キースは文字へ近づかなかった。


「どこへ?」


 すると文章が崩れ、別の文字列へ組み替わる。


 《サファイアの部屋へ》


 ローゼンの肩が震えた。


「……わたくしの?」


「違う」


 キースはすぐに訂正した。


「サファイアが使っていた部屋だ」


 それでも、ローゼンにとって意味は大きく変わらなかった。


「行くつもり?」


 シビウが尋ねる。


「ああ」


「罠だよ」


「分かっている」


「分かってて行くのが、最近あんたの悪い癖になってないかい?」


「今回は、全員で行く」


「そういう問題じゃないんだけどね」


「でも」


 ローゼンが立ち上がった。


「わたくしも参ります」


 シビウが彼女を見る。


「大丈夫?」


「大丈夫ではございません」


 昨日から、ローゼンはその言葉を無理に使わなくなっていた。


「それでも、聞きたいのでございます」


「何を?」


「サファイア様を作った理由を」


 少しだけ間を置く。


「そして、何のために、わたくしたちの世界を壊しているのかを」


 誰も止めなかった。


          *


 サファイアの部屋は、大樹のかなり高い位置にあった。


 ラルソウムの外部交渉を担っていたため、人間の地図や書籍が多く置かれている。古い街道図、各国の貨幣、交易の記録、精霊には本来必要のないはずの文房具まで、棚へ整然と収められていた。


 ローゼンは、この部屋へ何度も入ったことがある。


 記憶の中では、いつもサファイアがいた。


 窓際の椅子。


 机。


 茶器。


 本。


 どれも同じ場所にあるのに、今は以前とは意味が違って見える。


「触るな」


 キースが言った。


「まず確認する」


「はい」


 彼とメルリルが二手に分かれ、慎重に室内を確認する。


 明確な魔導反応はない。


 〈混沌〉の反応は微弱。


 一見しただけなら、異常なものは何も見当たらなかった。


「ここ」


 フユが言った。


 机の下を指している。


「何が?」


「穴」


「穴?」


 そこにあるのは普通の木床にしか見えない。


 フユはしゃがみ込み、指先で軽く叩いた。


「ここだけ、木じゃない」


 ローゼンも床へ手を当てる。


 目を閉じ、しばらく大樹の声を探った。


「……返事がございません」


「大樹なのに?」


「はい」


 キースとメルリルが顔を見合わせる。


「開けられるか?」


 ローゼンは木へ頼もうとして、途中で手を止めた。


「この部分は、大樹ではないのでございます」


 ならば、人間の方法を使うしかない。


 シビウが前へ出た。


「壊せばいいのかい」


「待て」


「待ってたら、また文字が増えるよ」


「そういう意味ではなく――」


 シビウは剣の柄で床を叩いた。


 硬い。


「中が空洞だね」


「だから待てと言っている!」


「壊すよ」


「だから!」


「壊す」


 キースは数秒だけ抵抗したあと、諦めたように息を吐いた。


「……やってくれ」


「最初からそう言えばいいのさ」


 《踊る剣》の刃が伸び、床板の継ぎ目へ差し込まれる。シビウが柄を持ち上げると、一枚の板が外れた。


 その下に、青い箱があった。


 誰も、すぐには触れなかった。


「ソーサイアが見せたがってるものだね」


 シビウが言う。


「たぶん」


「嫌だなあ」


 キロスが素直に顔をしかめた。


「僕、帰っていい?」


「駄目」


「なんで?」


「《王》が反応するかもしれない」


「また観測道具扱いされてる」


「嫌なら言ってくれ」


「そこを真面目に返されると困るんだよね」


 そう言いながらも、キロスは残った。


 箱を開ける。


 中に収められていたのは、一冊の古文書だった。


          *


 書物というより、異なる時代の資料を束ねた断片集に近かった。


 薄い石板。


 乾燥した樹皮。


 金属片。


 古い紙。


 素材も年代も統一されておらず、後世の誰かが一つへまとめたものらしい。


「原典ではありませんわね」


 メルリルが最初に言った。


「ああ。複数資料の断片集だ」


 キースは直接触れず、まず見える範囲の文字を追った。


 読めるもの。


 読めないもの。


 精霊文字。


 古人語。


 見たことのない系統の文字まで混じっている。


「サファイア様が、集めていらしたのでしょうか」


 ローゼンが尋ねる。


「いや」


 キースは首を横へ振った。


「ソーサイアだ」


 その確信は、説明より先に訪れた。


 最初の頁には、青いインクで短い注釈が記されていた。


 《観測と存在の相関について》


 サファイアの筆跡ではない。


 そもそも、サファイアの筆跡など誰も知らない。


「見てくださいませ」


 メルリルが一つの記述を示す。


 《名は器をつくる》


 別の断片には、


 《祈りは、名へ向けられた観測である》


 さらに別の箇所には、


 《記録された事象は、再び観測されることで強度を得る》


 とあった。


「これ」


 キースが眉を寄せる。


「全部、同じ作者ではない」


「年代も違いますわ」


「都合のいい部分を集めた?」


「そう見えます」


 そのとき、部屋の奥から拍手が聞こえた。


「正解だ」


 全員が一斉に振り返った。


 サファイアが使っていた椅子に、ソーサイアが座っていた。


          *


 蒼い法衣。


 長い髪。


 年齢という尺度そのものを拒むような、人ならざる美貌。


 《蒼魔の君》。


「いつからいた!」


 キースが身構える。


「君たちが来る前から」


「嘘だ」


「そう思うなら、それでいい」


 ソーサイアは椅子の肘掛けへ頬杖をついた。


「そこは、サファイア様の椅子です」


 ローゼンが言った。


 ソーサイアの目が僅かに動く。


「そうだね」


「立ってくださいませ」


「私が用意した部屋だ」


「それでも」


 ローゼンは震えながら彼を見る。


「その椅子に座っていた方は、あなた様ではありません」


 沈黙が落ちた。


 ソーサイアは少しだけ笑った。


「なるほど」


 そして立ち上がった。


 なぜ従ったのかは、誰にも分からない。


「昨日の答えを聞きに来た」


 キースが前へ出る。


「世界そのものを使った実験とは何だ」


「そこにある」


 ソーサイアが断片集へ視線を向ける。


「それが答えですの?」


 メルリルが眉を上げた。


「研究の出発点だ」


 ソーサイアは部屋の中を歩き始めた。


 踵は鳴らない。


 ローゼンが息を止めた。


 昨日、無理に再現したサファイアではなく。


 今のソーサイアが。


 サファイアの歩き方をしている。


 本人がそれに気づいているのかは分からない。


「私は長いあいだ、世界の魔導を研究した」


 ソーサイアは話し始めた。


「人間魔導。精霊術。祈祷。神殿構文。名による契約。記憶による土地の固定。どれも違うように見えた」


「実際に違うだろう」


「表面はね」


 彼は机の上へ指先を滑らせる。


「だが、妙な共通点がある」


 名前。


 記録。


 観測。


 祈り。


「人が何かに名前をつける」


 ソーサイアは花瓶を指した。


「これは花だ、と」


「何の話だ」


「最後まで聞け」


 花瓶から一輪の白い花を抜き取る。


「百人が、この花を《白月花》と呼ぶ」


「それで?」


「千人が、その名を覚える」


 指先で花をゆっくり回す。


「十万人が、その花には月の加護があると信じる。神殿が記録する。詩人が歌う。恋人が贈る。死者の墓へ供える。病人が癒やしを願って祈る」


 白い花を机へ置く。


「さて」


 ソーサイアがキースを見る。


「いつまで、これはただの花でいられる?」


 キースは答えなかった。


「最初は何も起きない。百年後も、何もないかもしれない。だが、ある日、本当に月夜だけ咲くようになったら?」


 ローゼンは、サファイアのことを思った。


「それが……」


「私が見つけたものだ」


 ソーサイアは言った。


「人間は世界を観測し、記録しているつもりでいる」


 キースの顔が険しくなる。


「でも?」


「世界もまた、観測された形へ近づく」


 名。


 記録。


 祈り。


 関係。


「サファイアは、それを確かめるための実験だった」


「何度も聞いた」


「なら、その先だ」


 ソーサイアは笑った。


「一つの存在で起こるなら、世界全体でも起こせると思わないか?」


 部屋の空気が、目に見えないほど静かに冷えた。


          *


「……何を言っている」


 キースが低く問う。


「サファイアという人格に十分な観測を集めれば、過去まで補われる。なら、世界というものについて十分な観測を集めれば?」


「世界の歴史を変える?」


「もっと大きい」


 ソーサイアは窓の外へ目を向けた。


 ラルソウム。


 大樹。


 森。


「問題は、観測者が多すぎることだ」


 キースが眉を寄せる。


「問題?」


「君たちは皆、違う世界を見ている」


 ソーサイアは指を一本立てた。


「ヴァギュイザールは、《王》が敗れた世界を覚えている。同時に、《王》が自ら力を捨てた世界も覚えている」


 二本目。


「キロスの《王》は、自分が戦争を始めた過去と、《姫》が先に自分を封じようとした過去を持っている」


 三本目。


「アムドアには、都市が事故で滅んだ歴史と、穴を監視するために建てられた歴史と、そもそも都市が存在しなかった歴史がある」


 キースが目を細める。


「なぜ知っている」


「サファイアとして、君たちから聞いた」


 ほんの一拍。


「便利だったよ。信頼されるというのは」


 ローゼンの顔が歪んだ。


 ソーサイアも、それに気づいた。


 ごく僅かに言葉を止めたが、やがて続ける。


「問題は、どれも捨てられないことだ」


「なぜ捨てる必要がある」


「矛盾しているからだ」


「だから?」


 キースの返答に、ソーサイアが彼を見る。


「世界は一つであるべきだ」


「誰が決めた」


 静かな問いだった。


 ソーサイアは少し笑った。


「いいね。君はそこを疑うか」


「答えろ」


「誰も決めていない」


「なら」


「だから私が決める」


 そこでシビウが口を開いた。


「なるほど」


 全員の視線が集まる。


「何が?」


「こいつ、頭いいふりしてるけど、最後はそれなんだね」


 ソーサイアの目が細くなる。


「何だと?」


「『みんな言ってることが違って面倒だから、俺が決める』」


 シビウは肩をすくめた。


「長々話してたけど、それだけじゃないか」


 キロスが吹き出した。


「確かに」


「笑うところか?」


「ちょっと」


 ソーサイアは怒らなかった。


 むしろ、面白そうにシビウを見る。


「単純化としては、悪くない」


「だろ?」


「ただし、一つ違う」


「何が」


「私は、人々を説得して一つの解釈へ従わせたいわけではない」


 その言葉で、僅かに生まれた笑いが消えた。


「説得する必要などない」


「……どういう意味だ」


 キースが問う。


 ソーサイアは古文書の頁をめくった。


「解釈者を一人にすればいい」


          *


 誰も、すぐには意味を掴めなかった。


 最初に顔色を変えたのはメルリルだった。


「まさか」


「分かった?」


「他の観測者を……」


「消す」


 ソーサイアは、あまりにも簡単に言った。


 ローゼンの唇が開く。


「消す?」


「名を呼ぶ者。記録を書く者。祈る者。見る者。読む者」


 一つずつ数えていく。


「皆が世界を違う形で解釈するから、世界も揺れる」


「だから殺す?」


 キースの声が低くなる。


「殺す、では不正確だ」


「同じだ!」


「違う」


 ソーサイアは即座に否定した。


「死者は記録を残す。記憶も残す。死後に神格化される者さえいる。殺した程度では、観測者は世界から消えない」


 キースの背筋が冷えた。


 この男が言っていることは、もっと大きい。


「〈混沌〉へ還す」


 ソーサイアが答えた。


 部屋の端から、黒いものが滲み出す。


「身体を」


 床を這う。


「名を」


 壁へ伸びる。


「記録を」


 天井を伝う。


「関係を」


 黒いものが、部屋をゆっくりと囲んでいく。


「すべて、まだ何にも決まっていない状態へ」


「世界中の人間を?」


 ローゼンが尋ねる。


「人間だけではない」


「精霊も?」


「ああ」


「神々も?」


「可能なら」


「世界そのものを?」


 ソーサイアは微笑んだ。


「それが一番正確だ」


 沈黙が落ちる。


「狂ってる」


 キロスが言った。


 今度は軽口ではない。


「たぶん」


 ソーサイアは平然と答えた。


「君たちから見ればね」


「自分では違うと?」


「狂気という言葉は、少数派の解釈へ貼られる名だ」


「そういうところが一番怖いんだよ」


 キロスの顔から笑みが消えている。


「全部なくして、自分一人だけ残る?」


「そう」


「寂しくない?」


 その質問に、ソーサイアがほんの僅かに止まった。


 キースは、それに気づいた。


「……何?」


「いや」


 ソーサイアは再び笑う。


「必要な犠牲だ」


「それ」


 キロスが首を傾げた。


「寂しくないとは言わないんだね」


 ソーサイアは答えなかった。


          *


「仮に」


 キースが言った。


「世界すべてを〈混沌〉へ還せたとする」


「仮にではない。可能だ」


「まだ証明していない」


「いいだろう」


「そのあと、どうする」


 その問いを聞いた瞬間、ソーサイアの表情が変わった。


 これまでで、最も嬉しそうだった。


「読む」


「何を」


「世界を」


「世界はなくなっているだろう」


「形がなくなっているだけだ」


 ソーサイアは両手を広げた。


「〈混沌〉は無ではない」


 キースの胸に、アムドアでの記憶が蘇る。


 あの中には、キルスの記憶があった。


 距離も。


 時間も。


 形もない。


 それでも、何かは確かにあった。


「可能性」


 ソーサイアが言う。


「まだ名づけられていないもの。まだ一つへ決まっていないもの。世界になり得るもの」


「それを」


 メルリルが呟く。


「あなたが読む?」


「ああ」


「一人で?」


「一人で」


 ソーサイアの声が静かに響いた。


「私だけが残る」


 誰も名を呼ばない。


 誰も記録しない。


 誰も祈らない。


 誰も別の解釈をしない。


「私が最初に見る」


 ソーサイアは続けた。


「私が最初に名づける。私が何を人と呼び、何を精霊と呼び、何を神と呼び、何を善と呼び、何を悪と呼ぶかを決める」


「それは……」


 ローゼンが青ざめる。


「あなた様が、世界のすべてへ名前をつけるということですか」


「そうだ」


「でも、名前だけでは」


「サファイアを忘れた?」


 ローゼンの表情が固まる。


「一つの嘘でも、十分に観測を重ねれば、世界は過去まで用意した」


 ソーサイアの瞳が蒼く輝く。


「なら、他の解釈者が一人もいない状態で、私だけが読み続けた世界は、どうなる?」


 キースには、答えが分かった。


 分かりたくなかった。


「お前が解釈した世界へ」


「近づく」


 ソーサイアが頷いた。


 そして笑う。


「いや。他の読み手がいないなら、近づくという言葉さえ不要かもしれない」


 その声に、奇妙な確信が宿る。


「それが世界になる」


          *


「唯一の読者」


 ローゼンが呟いた。


 ソーサイアは彼女を見る。


「いい呼び方だ」


 その声は、昔サファイアがローゼンを褒めるときのように穏やかだった。


「私は、世界の唯一の読者になりたい」


 ローゼンの身体が僅かに震えた。


「読者は」


 キースが言う。


「普通、物語を読んでも、その物語の中身を勝手に変えない」


「本当に?」


「何?」


「同じ物語を読んで、百人が百通りに解釈する。ある者には英雄で、ある者には暴君。ある者には救いで、ある者には呪い」


「それは解釈だ」


「この世界では」


 ソーサイアが遮る。


「解釈が現実へ戻る」


 サファイア。


 それが、彼の観測例だった。


「だから」


 ソーサイアはゆっくり言う。


「読者とは、世界の外にいる無力な者ではない」


 名前を呼ぶ。


 記録を残す。


 祈る。


 見る。


「読者もまた、世界を書く」


 キースは言葉を失った。


 理屈は分かる。


 だからこそ、危険だった。


「一つだけ聞く」


 キースは言った。


「なぜ、お前でなければならない?」


 ソーサイアが眉を上げる。


「世界を一つの解釈へ統一する必要があるとして」


「その前提を認めるのか?」


「仮定だ」


「なるほど」


「それでも聞く。なぜ、お前なんだ」


 キースは彼を睨んだ。


「ヴァギュイザールでも、ケーオスでも、コスモスでも、精霊の君でもない。もっと言えば、名前も知らない農夫でもいいはずだ」


 ソーサイアは笑わなかった。


「お前は結局」


 キースは続けた。


「世界を一つにしたいんじゃない」


 静寂が深まる。


「自分の世界にしたいだけだ」


 シビウが小さく、


「それだ」


 と言った。


 ソーサイアはしばらくキースを見つめた。


「否定はしない」


「しないのか」


「なぜ、する必要がある?」


 表情へ傲慢さが戻る。


「私が最も多くを知っている」


「それだけ?」


「魔導。神格。精霊。〈混沌〉。歴史構文。名。祈り。観測。私は何百年も調べた」


「だから、自分が一番正しい?」


「少なくとも」


 ソーサイアの声は冷たい。


「無知な者たちが互いに矛盾する世界を語り続けるより、私一人が読む方が遥かに美しい」


「美しい?」


「矛盾のない世界」


 キースは、アムドアを思い出した。


 三つの歴史。


 キルスとローゼンの異なる月。


 ヴァギュイザールが持つ二つの記憶。


「そんなもの、本当にあるのか?」


 ソーサイアの目が細くなる。


「だから作るのだ」


          *


 ソーサイアは、古文書を開いた。


「これを見せよう」


 キースたちが近づこうとすると、すぐに声が飛ぶ。


「触るな」


「誰が触るか」


 頁には、古い文字が残されている。


 キースにもすべては読めない。


 だが、一つだけ妙に目へ入る言葉があった。


「《真世界》……?」


 ローゼンが聞き返す。


「何でございますか、それは」


「読めるのか?」


 メルリルが身を乗り出した。


「その二文字だけだ。いや、正確には《真なる世界》とも、《真に成った世界》とも読める。前後が欠けている」


 ソーサイアが満足そうに頷いた。


「私は《真世界》と呼んでいる」


「お前が?」


「ああ」


「古文書そのものに、そういう固有名として書かれている保証は?」


「ない」


 あまりにもあっさりした返答だった。


「待て」


 キースが顔を上げる。


「では、お前が勝手に――」


「解釈した」


「……!」


「そう」


 ソーサイアは笑った。


「皮肉だろう?」


「何が」


「世界の解釈を一つにしたい男が、古代文書を自分の解釈で読んでいる」


「笑い事ではありませんわ!」


 メルリルが叫ぶ。


「その文書が何を意味しているのかも分からないのでしょう!」


「分からない」


「なら、それを根拠に世界を壊すつもりですの!?」


「根拠ではない」


 ソーサイアは頁を閉じた。


「道標だ」


「同じだ!」


「違う」


 彼は淡々と続ける。


「私は、この文書が絶対に正しいとは思っていない。《真世界》というものが実在したとも、これから成立するとも断定していない」


「なら――」


「それでも、この言葉は興味深い」


 真世界。


「古代の誰かが、世界には今とは異なる成立状態があると考えていた」


「そうとは限らない」


「もちろん」


 また、あっさり認める。


「宗教的比喩かもしれない。政治用語かもしれない。別の地方名かもしれない。《世界》という翻訳自体が間違っている可能性もある」


「だったら!」


「だから自分で確かめる」


 キースは言葉を失った。


 ソーサイアは、本当にそういう存在なのだ。


 分からないから保留するのではない。


 分からないから、世界そのものを実験台にする。


「私が世界を〈混沌〉へ還し」


 ソーサイアは古文書へ手を置いた。


「そこから新しい世界を読む」


「……」


「その結果が《真世界》であるなら、それでいい」


「違ったら?」


 キースが尋ねる。


 ソーサイアは少しだけ考えた。


「その時、初めて分かる」


 シビウがゆっくり剣へ手をかける。


「やっぱり殴っていいかい、こいつ」


「待て」


「十分待ったよ」


「気持ちは分かる」


「なら」


「まだ聞く」


「学者って本当に面倒だねえ!」


          *


「お前の理屈には、一つ大きな穴がある」


 キースは言った。


「何だい?」


「サファイアだ」


 ローゼンが顔を上げる。


「お前は、他の解釈者を消せば、自分の解釈だけが世界になると言った」


「ああ」


「でも、サファイアは違った」


 ソーサイアの笑みが少し薄くなる。


「お前が作ったサファイアは、お前自身が知らないところで変わった。世界が勝手に過去を補い、他人は、お前の知らないサファイアを覚え始めた」


「それが?」


「つまり、お前一人が作り手だった時ですら」


 キースは、はっきりと言った。


「サファイアは、お前の解釈どおりにはならなかった」


 静寂が落ちる。


 ローゼンの瞳が大きく見開かれた。


「唯一の読者になれば、世界を自分だけの解釈へ固定できる?」


 キースは首を横へ振る。


「お前は、それを一度も証明できていない」


 ソーサイアの顔から笑みが消えた。


「サファイアは成功例だ」


「同時に失敗例でもある」


「違う」


「なぜ?」


「世界が反応した。そこが目的だった」


「でも、反応の仕方はお前に従わなかった」


 ソーサイアは答えない。


「なら」


 キースは一歩、前へ出た。


「すべてを〈混沌〉へ戻して、お前一人になったとしても、世界は本当にソーサイアだけの読み方に従うのか」


 正面から問う。


「誰が保証する?」


 ソーサイアは答えなかった。


 初めて、長い沈黙が生まれた。


          *


「保証など」


 やがてソーサイアは口を開いた。


「必要ない」


「なぜ」


「試すからだ」


 キースの拳が強く握られる。


「やっぱり、それか」


「世界とは、そういうものだよ」


「違う」


「何が?」


「お前にとって、だ」


 ソーサイアがキースを見る。


「世界が何なのかを、お前一人の言葉へすり替えるな」


 その言葉を境に、部屋の空気が変わった。


 床や壁へ薄く広がっていた〈混沌〉の線が、一斉に濃さを増す。


「キース!」


 シビウが剣を抜いた。


「下がれ!」


 ヴァギュイザールの声が響く。


 同時に、ソーサイアの身体から蒼い光が溢れた。


「もう十分だ」


 彼は言った。


「何が」


「君たちには、私の目的を話した」


「なぜわざわざ」


 メルリルが問い返す。


「隠す必要がなくなったからだ」


 黒いものが壁を伝い、床を這い、天井へまで広がっていく。


「次の段階へ進む」


 ローゼンが身体を強張らせた。


「次……?」


 ソーサイアの視線が、彼女へ向く。


 それまで世界の構造を語っていた学者の目が、突然、対象を測る観察者の目へ変わった。


「サファイアの実験で、私は一つの人格を世界へ逆流させた」


 ローゼンは息を呑む。


「次は」


 ソーサイアは彼女を見たまま続ける。


「もっと古く」


 ローゼンの胸が痛む。


「もっと深く」


 キースが彼女の前へ立った。


「見るな」


「興味深い」


 ソーサイアの口元が、ゆっくりと歪む。


「一度死んだ人間」


 キースの顔が変わった。


「やめろ」


「魂を別の者へ宿され」


「黙れ」


「精霊として再び形を持ち」


「ソーサイア!」


「しかも」


 蒼い瞳が細くなる。


「現在の自分と、過去の自分を別人だと定義した」


 ローゼンの指が震えた。


 ソーサイアは静かに言った。


「君は、世界を作り直すための実験体として、あまりにも美しい」


 キースが魔導を放った。


 光が一直線にソーサイアへ走る。


 だが、届く寸前で黒い〈混沌〉へ呑み込まれ、何の残滓もなく消えた。


「キース様!」


「逃げろ!」


 ソーサイアは笑っていた。


「ようやく」


 部屋そのものが、黒へ沈み始める。


「次の頁だ」


 ローゼンの足元から〈混沌〉が大きく口を開いた。

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