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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第六部 サファイアはいつから存在したのか
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第三十六章 ローゼンを喰う

 ローゼンの足元に開いた〈混沌〉は、穴というより、世界の底だけが突然失われたように見えた。


 黒いものが大樹の床を呑み込み、木目も根も、ソーサイアの部屋に並んでいた書物や机も、触れた端から輪郭を失っていく。キースは反射的にローゼンの腕を掴み、自分の方へ強く引き寄せた。


「全員、部屋から出ろ!」


 叫んだ直後、床そのものが大きく裂けた。


 大樹の根の奥から蒼い光が迸り、その内部を縦に走っていく。壁が砕けたのではない。それまで一続きだった空間が、互いに異なる方向へ無理やり引き延ばされたように、部屋の形そのものが歪んだ。


「キース!」


 シビウが《踊る剣》を壁へ突き立て、揺れる身体を支える。メルリルは露出した根へしがみつき、フユは宙へ浮かび上がって崩落を逃れた。


 その向こうで、キロスだけが横手に生じた亀裂へ弾き飛ばされる。


「キロス!」


「平気!」


 少年の声はすぐに返ってきた。


 しかし、彼の背後に現れた細い通路の奥で、赤黒い光が一度だけ脈打つ。それを見た瞬間、キロスの顔色が変わった。


「……何だ、これ」


「戻れ!」


「待って!」


 キロスは胸を押さえた。


「中の《王》が、向こうに引っ張られてる!」


「今は追うな!」


「僕が追ってるんじゃない! 勝手に――」


 再び空間が激しく揺れた。


 黒く変色した根が壁のようにせり上がり、キロスの姿を遮る。


「キロス!」


 向こうから返事は聞こえた。


「遠回りして戻る! そっちは先に――」


 最後までは届かなかった。


 根の壁が閉じる。


 キースは追おうとしたが、その正面へ蒼い光が落ちた。


「余所を見る余裕があるのか?」


 ソーサイアだった。


          *


 《蒼魔の君》は、大樹の広間へ静かに降り立っていた。


 もうサファイアの姿ではない。長い蒼髪と幾重もの薄い法衣、その内側に〈混沌〉を宿した異形の精霊。足元へ広がる黒は床を侵食しながら、彼自身の影であるかのように不定形に蠢いている。


「ローゼン!」


 キースは彼女を背後へ押した。


「下がっていろ」


「ですが――」


「狙いは君だ」


「分かっております。だからこそ――」


「だったら!」


 そこまで言いかけて、キースは口を閉ざした。


 自分が何を言おうとしたのか、気づいてしまったからだ。


 守られていろ。


 何もするな。


 自分の判断に従え。


 キルスが人間ローゼンにしたこととは形が違う。だが、自分だけが彼女の選択を決めようとしているという一点では、同じものへ近づきかねない。


 ローゼンも、その躊躇の意味を悟ったらしい。


「キース様」


「……勝手にするな、とは言わない」


 キースはソーサイアから視線を外さずに言った。


「でも、死ぬな」


「はい」


「それだけは頼む」


「キース様も」


「ああ」


 二人は互いに距離を取った。


 ソーサイアは、そのやり取りを興味深そうに眺めている。


「やはり面白い」


「何がだ」


「キルスなら、彼女を自分の中へ閉じ込めた」


 キースの顔が険しくなる。


「お前は、外へ置いたまま守ろうとする」


「黙れ」


「どちらが正しいか、試してみたくなる」


「ローゼンを実験に使うな!」


 キースの周囲へ、幾重もの光の魔導式が展開した。


 放つ。


 白い奔流が一直線にソーサイアへ走る。


 命中する――はずだった。


 蒼魔の君は避けなかった。


 右手を軽く掲げただけで、襲いかかった光が掌の前で歪み、一本の流れへ細く絞られていく。さらに細く、糸ほどの光になったそれは、最後には彼の腕へ吸い込まれた。


「また……!」


 キースの胸でイースが激しく脈打つ。


 ソーサイアは満足そうに指を開閉した。


「素晴らしい量だ」


「人の魔導を食うのが、そんなに楽しいですの?」


 横合いからメルリルの声が飛んだ。


 無数の風刃が死角からソーサイアへ襲いかかる。


 その周囲で、黒い膜が一斉に開いた。


 風刃は膜へ触れた途端、音も残さず消えていく。


「ええ、予想どおりですわね!」


 メルリルは舌打ちしながら後退した。


「なら何度も撃つな!」


「確認です!」


「一度でしろ!」


「あなたも、さっき撃ったでしょう!」


「初撃だった!」


 こんな状況でさえ、いつものように言い争っている。


 けれど、声を交わしていなければ、目の前の事実へ呑まれてしまいそうだった。


 人間魔導が通じない。


 キースほどの魔力も。


 メルリルの精密な風術も。


 ソーサイアへ届くより先に、〈混沌〉がすべてを呑み込んでしまう。


「なら」


 シビウが低く言った。


「魔導じゃなければいいんだろ」


 次の瞬間、地を蹴った。


          *


 《踊る剣》が一気に伸びた。


 細い刃が鎖のように分節し、鋭い軌道を描いてソーサイアの横顔へ走る。


 彼は初めて身を引いた。


 それでも刃は頬を浅く掠め、一筋の蒼い光が血のように飛ぶ。


「……ほう」


「切れるじゃないか」


 シビウが笑った。


「偉そうなこと言ってても、剣は嫌いみたいだね」


「それは魔導具だろう?」


「動かす仕組みには魔導を使ってるさ。でも」


 手首を返す。


 分節した刃が大きな弧を描き、背後からソーサイアへ迫る。


「切ってるのは鉄だよ!」


 ソーサイアが身体を捻る。


 刃先が法衣を裂き、今度は明確な傷が残った。


 その瞬間、足元の黒い影が反射的に膨らみ、シビウへ向かって伸びる。


「姐さん!」


 ローゼンが岩へ呼びかけた。


 大樹の床には石が少ない。それでも、壁の一部へ埋め込まれていた古い礎石が応じ、床からせり上がった。


 〈混沌〉の触手が礎石へぶつかり、その進行が一瞬だけ止まる。


 シビウは、その間に大きく跳び退いた。


「助かった!」


「お気をつけください!」


「そっちもね!」


 ソーサイアの顔から笑みが薄れていく。


「物理的な形を維持したまま、直接打ち込むか。なるほど」


「今さら研究するな!」


 シビウが再び踏み込む。


 その頭上を、小さな影が飛び越えた。


「夏」


 フユだった。


 掌を振る。


 炎が生まれた。


 人間魔導による火とは違う。


 大樹の外で暖められていた空気。葉が受け止めていた陽光。土へ蓄えられた熱。それらが一斉に呼び起こされたように、部屋の内部へ真夏の熱気が満ちていく。


 炎がソーサイアへ襲いかかった。


 彼の〈混沌〉が正面から受け止める。


 だが、消えない。


「……何?」


 ソーサイアが初めて驚いた。


 炎の勢いは弱まりながらも、黒い膜の奥に赤い光を残し続けている。


「フユ!」


 キースも同時に気づいた。


「そのまま!」


「分かってる」


 フユは両手を広げる。


「冬」


 次の瞬間、真夏の熱気が反転した。


 冷気が走り、霜が広がる。空気中の水分が一斉に凍りつき、ソーサイアを包む黒い膜へ白い結晶が枝のように伸びていった。


 〈混沌〉が揺れる。


「なぜだ」


 ソーサイアが低く呟いた。


「なぜ完全に吸収できない」


 キースの中にも、同じ疑問が浮かんだ。


 人間魔導は呑まれる。


 だが、フユの四季は呑まれきらない。


 理由は、まだ分からない。


「秋」


 乾いた風が吹いた。


 ただの風ではない。


 葉の色を変え、実を地へ落とし、夏から冬へ世界そのものを渡していく季節の風だった。


 ソーサイアの法衣が大きく翻る。


「春」


 ひび割れた大樹の床から、若芽が一斉に吹き出した。無数の細い根が伸び、ソーサイアの足首へ絡みつく。


「今!」


 シビウが飛び込んだ。


 《踊る剣》の切っ先が、蒼魔の君の胸を正確に捉える。


          *


 届く。


 そう思った。


 刃の先端が法衣を裂く、その直前。


 ソーサイアが笑った。


「面白い」


 黒が爆発した。


「シビウ!」


 キースは咄嗟に防壁を広げる。


 だが、押し寄せた〈混沌〉へ触れた端から術式が失われ、防壁はみるみる削り取られていった。


 完全には防げない。


 シビウは《踊る剣》を縮めながら後方へ跳び、ローゼンが風へ頼んでその身体をさらに押し戻す。


 二人はほとんど同時に床へ転がった。


「大丈夫か!」


「まだ生きてる!」


「わたくしも!」


 メルリルもすぐに起き上がる。


 キースも体勢を立て直した。


 そこで、あることに気づく。


「フユ?」


 姿がない。


 視線を走らせる。


 黒い塊のすぐ前に、小さな妖精が浮いていた。


 動かない。


「フユ!」


 彼女の両腕へ、黒いものが絡みついている。


「離せ!」


 キースが反射的に魔導を放とうとした。


「駄目ですわ!」


 メルリルが、その腕を掴む。


「撃てば吸収されます!」


「だったら、どうする!」


「考えます!」


「今すぐ考えろ!」


「やっていますわよ!」


 その間もフユは逃げず、ソーサイアを見ていた。


「どうして」


 ソーサイアが呟く。


「君だけ違う?」


「知らない」


 フユは、いつもの調子で答えた。


「四季は、どこから来る」


「世界」


「その世界とは何だ」


「世界」


「答えになっていない」


「知らないなら、知らない」


 ソーサイアの眉が僅かに動いた。


「君は嫌いではない」


「フユは嫌い」


「そうか」


 黒いものが、フユの腰まで這い上がっていく。


「なら、内部から調べよう」


「フユ!」


 ローゼンが走り出した。


「来ないで!」


 その瞬間、フユが初めて強い声を上げた。


 ローゼンの足が止まる。


「でも――」


「来たら、二人」


 黒が胸元から肩へと這い上がる。


 フユは苦しそうに眉を寄せ、それでもローゼンを見た。


「逃げて」


 次の瞬間、〈混沌〉が小さな身体を完全に呑み込んだ。


「フユ――!」


 ローゼンの叫びが、大樹の内部へ響き渡った。


          *


 黒い塊が大きく膨らんだ。


 その内部から、一瞬だけ白い氷の刃が突き出す。


 一本。


 続いて二本。


 さらに幾本もの氷刃が内側から黒を突き破った。


 フユはまだいる。


「生きてる!」


 キースが叫ぶ。


「まだ抵抗してる!」


「助けます!」


 ローゼンが駆け出す。


「待て!」


「フユが!」


「分かっている!」


「なら――」


「同じことをするな!」


 ローゼンが振り返る。


 口にした言葉が、そのままキース自身へ返ってきた。


 マーカス。


 キルス。


 死者。


 失うことへの恐怖。


「……違う」


 ローゼンが言った。


「何が」


「フユは、まだ生きています」


 キースは息を呑む。


「まだ、中から戦っております」


 その通りだった。


 死んだ者を、死んでいないと否定しているのではない。


 今、この瞬間。


 目の前で。


 フユはまだ抵抗している。


「なら」


 ローゼンは自分の胸へ手を置いた。


「助けるために行きます」


 キースは、彼女を止める言葉を失った。


 その瞬間。


 ソーサイアがローゼンを見た。


「そうだ」


 蒼い瞳が輝く。


「君なら来ると思った」


 黒い床が、ローゼンの足元で開いた。


「ローゼン!」


 キースが手を伸ばす。


 掴んだ。


 ローゼンの指。


 その手。


「キース様!」


 黒いものが彼女の脚へ絡みつく。


「離すな!」


 キースは両手で引いた。


 〈混沌〉は、今度は彼へも伸びる。


 胸の奥でイースが猛烈に反応した。


「くっ……!」


 痛みが走る。


「キース!」


 シビウが背後から腰を掴み、メルリルも加わった。


「引きなさい!」


 三人がかりでローゼンを引く。


 だが、ソーサイアは笑っていた。


「キース」


「何だ!」


「君は一度、彼女を〈混沌〉の中まで追った」


 以前、〈混沌〉へ踏み込んだ時。


 あの時は、ローゼンがキースを追った。


「今度は逆だ」


「何を――」


「追っておいで」


 〈混沌〉がローゼンの腰まで、さらに胸元まで這い上がる。


「キース様!」


「ローゼン!」


 最後に残るのは、繋いだ手だけだった。


 指が少しずつ滑っていく。


「離さない!」


 キースは叫んだ。


「絶対に――」


 ローゼンが彼を見た。


 深紅の瞳。


 恐怖がある。


 それでも、その奥には自分を失うまいとする意志があった。


「キース様」


「何だ!」


 ローゼンは一度、息を吸った。


「わたくしは、ローゼンでございます」


 その言葉を残して。


 繋いでいた指が離れた。


「ローゼン!」


 白い髪が黒へ呑まれていく。


 最後まで残っていた深紅の瞳も、やがて〈混沌〉の奥へ消えた。


          *


 キースは迷わなかった。


 そのまま〈混沌〉へ飛び込もうとした。


「キース!」


 シビウの腕を振りほどく。


「離せ!」


「馬鹿!」


「ローゼンが中にいる!」


「分かってる!」


「なら!」


「考えろ!」


「考えている時間があるか!」


 黒い塊へ踏み込もうとした瞬間、背後から誰かに襟首を掴まれた。


「行くな!」


 聞き覚えのある声。


 次の瞬間、身体ごと後ろへ投げ飛ばされる。


「ぐっ!」


 床へ転がったキースが顔を上げた。


「キロス……!」


 少年が立っていた。


 息を切らし、服のあちこちが裂け、額から血を流している。


「どこにいた!」


「後で!」


「ローゼンが!」


「見た!」


「なら離せ!」


 立ち上がろうとするキースの胸を、キロスが押し返す。


「今入ったら、あんたまで喰われる!」


「私は一度戻ってきた!」


「前と同じだと思うな!」


 声が違った。


 その響きに、キースの動きが止まる。


 キロスの瞳。


 その奥で、もう一人の何かがこちらを見ている。


「……《王》?」


「分かんない!」


 キロスが頭を押さえた。


「ずっと向こうで、中のが騒いでたんだ! 道も知らないのに、こっちだ、こっちだって!」


「だから別の通路を?」


「うん! 途中から僕の足で歩いてるのか、《王》が歩かせてるのかも分かんなくなって……!」


 少年は胸元を強く掴む。


「ここに来たら、もっとひどくなった」


 キースの背筋が冷えた。


 《王》の残滓。


 同化。


 以前より、明らかに強くなっている。


「だったら、君も下がれ」


「嫌だね」


「キロス!」


「あんたに言われたくない!」


 キロスは〈混沌〉を見る。


 その内部から、再び氷の刃が突き出した。


「フユちゃんは、まだいる」


「ああ」


「ローゼンも?」


「分からない」


「でも、入ったばっかり」


「ああ」


「だったら」


 キロスはゆっくりと手を伸ばした。


「僕がやる」


「何を」


「引っ張る」


「どうやって!」


「知らない!」


 キースが言葉を失う。


「でも、《王》が知ってる!」


 その瞬間、キロスの身体から光が溢れた。


          *


 人間魔導ではない。


 キースには、見た瞬間に分かった。


 術式がない。


 命令文も。


 魔力を組み上げる段階も存在しない。


 キロスは、ただ手を伸ばした。


 それだけだった。


 空間が歪む。


 〈混沌〉の表面へ、一本の亀裂が走った。


 ソーサイアの顔色が初めて明確に変わる。


「その力」


 蒼い瞳がキロスを睨んだ。


「《王》か」


 少年の口が勝手に動いた。


「……返せ」


 キロス自身の声ではない。


 低く。


 古い。


「余の民を」


 〈混沌〉が激しく波打った。


 同時に、キースの胸の奥でも何かが応じる。


「っ……!」


 心臓ではない。


 もっと深い。


 魂と呼ぶしかない場所。


 キルス。


 過去の記憶が、一瞬だけ閃いた。


 白い神殿。


 人間ローゼン。


 禁術。


 そして、それよりさらに古い――見たことのない風景。


 巨大な城。


 冠。


 誰かの背中。


 キースは知らない。


 見たことなどない。


 それなのに、なぜか懐かしい。


「何だ……?」


 キロスも同時にキースを見た。


 瞳が大きく開かれる。


「……キルス?」


 世界が止まったように感じられた。


 キースの呼吸まで止まる。


「今」


 ゆっくり問い返す。


「何と言った」


 キロス自身も驚いていた。


「僕……?」


「キルスと言った」


「知らない」


「なぜ知っている」


「知らないよ!」


 少年の声が震える。


「誰、それ」


 キースの胸が強く脈打った。


 キロス。


 キルス。


 似た名前。


 これまでは、偶然ではないかと疑う理由さえなかった。


 だが今。


 キロスの中にいる《王》が、キースの内側に残るキルスへ反応した。


「キロス!」


 ソーサイアの黒が迫ってくる。


「今は後だ!」


 シビウが叫んだ。


 その通りだった。


 キロスも無理やり意識を戦いへ引き戻す。


「分かってる!」


 〈混沌〉へ両手を突き出した。


「誰でもいい!」


 叫ぶ。


「《王》でも僕でも!」


 光がさらに強くなる。


「今だけ貸せ!」


          *


 亀裂が広がった。


 黒い内部には、距離も形も見えない。


 その奥に、一つだけ白いものがあった。


「いた!」


 キロスが叫ぶ。


「フユ!」


 小さな身体。


 黒の中で、まだ氷を握っている。


「フユちゃん!」


 キロスの手が空間を越えた。


 本来なら届くはずのない距離へ伸び、フユの腕を掴む。


「引け!」


 キースも反射的にキロスの腰を支えた。


 シビウとメルリルも加わる。


 全員で引く。


 〈混沌〉は、獲物を手放すまいとするように抵抗した。


 それでも、フユの身体が少しずつ外へ現れる。


 半分。


 肩。


 腕。


「もう少し!」


 キロスが歯を食いしばった。


「返せ!」


 再び、《王》の声が重なる。


 光が爆ぜた。


 フユの身体が黒から弾き出された。


「フユ!」


 ローゼンではない。


 けれど、フユだ。


 間違いなく、小さな身体がキロスの胸へ落ちてくる。


「捕まえた!」


 その直後。


 ソーサイアが手を伸ばした。


「一人で十分だ」


 黒い衝撃が走る。


 キロスの身体が大きく揺れた。


「ぐっ……!」


 身体を包んでいた光が、根こそぎ抜き取られたように消える。


「キロス!」


 少年は膝をついた。


「大丈夫!」


 明らかに、大丈夫ではなかった。


 顔は青ざめ、両腕が震えている。


「ローゼンは!」


 キースは〈混沌〉を見る。


「もう一度!」


「無理!」


 キロスが叫んだ。


「今ので……ほとんど持っていかれた!」


「でも!」


「キース!」


 今度は、はっきりとキロス自身の声だった。


「入ったら駄目だ!」


「ローゼンがいる!」


「分かってる!」


「なら!」


「フユちゃんを見ろ!」


 キースの視線が止まった。


 シビウに抱かれている小さな妖精。


 意識はない。


 だが、胸が僅かに上下している。


「……生きてる」


 メルリルが震える指をフユの口元へ置いた。


「息がありますわ!」


 キースは〈混沌〉を見る。


 ローゼンは、その中にいる。


 フユは戻った。


 ならば。


「撤退する」


 自分の口から、その言葉が出た。


「キース?」


 シビウが彼を見る。


「ここでは勝てない」


 キースはソーサイアを睨んだ。


「ローゼンを置いていくのか?」


 蒼魔の君が笑っている。


 キースの手が震えた。


 それでも、答えた。


「置いていくんじゃない」


 視線を逸らさずに続ける。


「取り戻しに来る」


 その言葉を聞いたとき、ソーサイアの笑みがほんの僅かに薄れた。


          *


「走れる?」


 シビウがキロスへ尋ねる。


「たぶん」


「その言葉、信用できないんだけど」


「僕も」


「なら肩貸すよ」


「姐さん優しい!」


「喋れるなら自分で歩け」


「冷たい!」


 軽口はいつもどおりだった。


 けれど、声にはほとんど力がない。


 キロスは限界に近い。


「脱出路は!」


 キースが叫ぶ。


「閉じられておりますわ!」


 メルリルが大樹の壁を睨む。


 ソーサイアの〈混沌〉が、出口そのものを覆っている。


「普通の魔導では開けられない!」


「だったら――」


 キースはフユを見る。


 意識はない。


 四季の力には頼れない。


「キロス!」


「一回だけ!」


「何が」


「移動!」


「どこへ」


「分かんない!」


「それで使うな!」


「でも、ここにいたら全員食われるよ!」


 反論できないほど正しい。


「外ならどこでもいい!」


 シビウが叫んだ。


「頼んだ!」


「姐さんの、そういう雑な信頼好き!」


 キロスが片手を上げる。


 以前にも彼が見せた、人間には再現できない力。


 座標を計算しない。


 場所を指定しない。


 ただ、行き先を決める。


「ここじゃないところ!」


 キースは思わず頭を抱えた。


「そんな術式があるか!」


「《王》に言って!」


 光が全員を包み込む。


 ソーサイアの〈混沌〉が、一斉に迫ってきた。


 キースは最後に、黒い塊を振り返った。


「ローゼン!」


 返事はない。


 それでも叫ぶ。


「待っていろ!」


 次の瞬間、白い光が世界を塗りつぶした。


          *


 次に地面を感じたとき、キースは草の上へ倒れていた。


 夜だった。


 ラルソウムからかなり離れているらしい。


 近くには小さな村があり、遠くに家々の灯りが幾つか見えている。


「……どこだ」


「知らない……」


 隣ではキロスが仰向けに倒れていた。


「本当に知らない場所へ飛ばしたのか!」


「生きてるんだから、いいじゃん……」


 返す声も弱い。


 キースはすぐに起き上がった。


「フユ!」


 シビウの腕の中に、小さな妖精がいる。


 メルリルが脈を確かめていた。


「生きています」


 その一言が、暗い胸の奥へ小さな光を灯した。


「本当に?」


「ええ」


 メルリルは念を押すように何度も確かめる。


「かなり弱っています。でも、生きていますわ」


 〈混沌〉へ呑まれた。


 それでも、戻ってきた。


 キースは大きく息を吸った。


「なら」


 誰へ向けるでもなく、言葉が漏れる。


「ローゼンも」


 戻せる。


 まだ終わっていない。


 その横で、キロスが自分の胸を押さえていた。


「どうした?」


 キースが尋ねる。


 少年は苦しそうに顔をしかめる。


「分かんない」


「《王》か?」


「たぶん」


「何か言ってる?」


「違う」


 キロスはキースを見た。


 その顔には、怯えがあった。


「さっきの名前」


「キルス?」


 少年の身体が僅かに震える。


「うん」


「本当に知らない?」


「知らない」


 即答だった。


「でも」


 キロスは胸元を押さえたまま、苦しそうに笑った。


「僕の中のどこかが、ずっと前から知ってたみたいなんだ」


 キースは何も答えられなかった。


 キルス。


 キロス。


 《王》。


 魂。


 残滓。


 何が、どのように繋がっているのか。


 まだ分からない。


 けれど、一つだけ。


 これを単なる偶然と呼ぶことは、もうできなかった。


 夜の草原では、フユが小さく息をしている。


 ローゼンは、まだ戻っていない。


 キースは遠いラルソウムの方角へ目を向けた。


 絶望するには、すでに希望が一人分、〈混沌〉の中から戻ってきていた。

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