第七章 名のない祈りは奇跡を起こす
街道の先に見えていた煙は、村の炊事場から立つものだった。
森を抜けた先、ゆるやかな丘陵の窪みに、二十戸ほどの家が身を寄せ合っている。石と土を積んだ低い家々の屋根には乾いた草が厚く葺かれ、その間を細い道が縫っていた。
城壁も、見張り塔もない。村を囲っているのは、ところどころ朽ちた木柵だけだった。
キースは御者台の隣から周囲を見渡した。
「怪物の痕跡は?」
「たぶんねえよ」
手綱を握るマーカスが答える。
「たぶん?」
「絶対って言葉は、道の上じゃ使わん方がいい」
「昨日から君たちに、ずいぶん世界の不確かさを教えられている気がする」
「いいことじゃねえか。神官様にはちょうどいい」
「神官長だ」
「似たようなもんだ」
「違う」
反射的に言い返しながらも、キースの視線は街道脇の茂みや林縁を追っていた。
昨日までなら、遠くの村を見ることだけに夢中になっていただろう。
今は違う。
倒木の陰。草の揺れ。鳥の飛び立ち方。何気ない風景の一つ一つが、何かが潜んでいる兆候に見える。
自分でも少し神経質になっているとは思う。
毒針は、もうどこにもない。
それでも耳の奥では、ときおりあの羽音が蘇った。
「そんなに睨んでいたら、木まで怪物に見えてくるよ」
荷台からシビウの声が飛んだ。
「警戒しているだけだ」
「警戒と怯えるのは違う」
昨日の自分を思い出し、キースは黙った。
シビウはそれ以上何も言わなかった。意地悪く見えて、踏み込んではいけないところでは妙に引く女だった。
「ここで少し休ませてもらおう」
マーカスが言った。
「馬にも水をやりてえ。次にまともな宿があるのは、今日中に着けるか微妙だからな」
「村に宿は?」
「ありゃ儲けもんだ」
そんな会話をしているうちに、馬車は村へ入った。
*
最初に気づいたのは、子どもたちだった。
「馬車だ!」
「旅の人だ!」
裸足の少年たちが道端から駆けてくる。
メミスでは、キースが街へ出れば衛兵が先に人を遠ざける。子どもがこれほど無遠慮に近づいてくることなどなかった。
「触るんじゃないよ。蹴られるぞ」
シビウが馬を指して言う。
「この馬、噛む?」
一人の少年が訊いた。
「マーカスよりは噛まない」
「俺を何だと思ってんだ」
「餌代のかかる獣」
「誰が獣だ!」
子どもたちが笑い、マーカスも一緒になって笑った。
キースには、その輪へどう入ればいいのか分からなかった。ただ、ほんの少し羨ましいと思った。
やがて大人たちも集まってくる。外から来る者が珍しいらしく、旅商人か、傭兵か、神官かと質問が飛び交った。
キースは身分を隠すため、神官長を示す月章を外套の内側へしまっている。それでも仕立てのよい服や話し方までは隠せず、村人たちは彼をどこかの貴族か神殿学者だと思ったようだった。
ローゼンについては、もっと露骨だった。
白い髪に、深紅の瞳。
村人たちは驚きはしたものの、逃げる者はいない。
「エルフの人?」
子どもの一人が、母親の陰からローゼンを見上げて訊いた。
「いや。エルフの旅人なら、この辺りでもたまに通るが」
腰の曲がった老人が、目を細めてローゼンを見る。
「この方は違うねえ。精霊様かね」
「ローゼンと申します」
彼女が丁寧に頭を下げると、老人も慌てて頭を下げた。
「こりゃどうも、ご丁寧に」
「なぜあなたまで頭を下げるのですか?」
「そりゃあ精霊様が頭を下げなさるから」
「では、わたくしももう一度」
「いやいやいや!」
何度も頭を下げ合いそうになり、マーカスが止めに入った。
キースは思わず笑った。
ラルソウムから来た精霊と、辺境の老人。どちらも礼儀正しくしようとした結果、終わらなくなっている。
それにしても、こんな小さな村の子どもですら、エルフという存在そのものには驚かない。
本で知るのと、実際に人々の生活の中で語られるのを聞くのとでは、やはり感覚が違った。
世界というのは、本当に本には書かれていないことばかりだった。
村長らしき中年の男が、泉の場所と馬を休ませる空き地を教えてくれた。
「たいしたもてなしはできんが、昼飯くらいなら用意するよ」
「ありがてえ」
マーカスが即答する。
「お前が決めるのか」
「旅先じゃ、食えるときに食っとけ」
「昨日から、そればかりだな」
「大事だからな」
荷物を下ろしていると、村の奥から女の叫び声が聞こえた。
「誰か――!」
笑っていた村人たちの顔が変わった。
数人が駆け出す。
キースも声の方へ視線を向けた。
「何かあったのか?」
「病気の子がいるんだ」
村長が低く答えた。
「昨日から熱が酷くてな」
*
病人は、七つか八つほどの少年だった。
小さな家の奥、藁を詰めた寝台に横たわり、全身を汗で濡らしている。頬は赤く、呼吸も速い。
母親らしい若い女が、何度も濡らした布を額へ載せ直していた。
「水は飲めているか?」
キースが尋ねる。
「朝までは。でも、昼からはほとんど……」
「吐いた?」
「二度」
「発疹は?」
「ないです」
「腹痛は?」
「昨日は痛いって……」
母親は不安そうに答える。
キースは少年の瞼を開き、喉を見て、脈を取った。
自分が治療師ではないことは分かっている。
ただ、神殿で基礎医学は学んでいた。高位神官が疫病や飢饉に際して、最低限の判断さえできないのでは困るからだ。
「村に薬師は?」
「三日前に隣村へ出ていて」
「いつ戻る」
「分かりません」
キースは眉を寄せた。
熱は高い。
だが、今この瞬間に何の病か断定できる材料はない。
魔導で無理に体温だけを下げることはできる。しかし原因が分からない状態で身体の反応へ干渉するのは危険だった。
治癒魔導は、傷口を塞ぐ程度なら便利だ。
病は違う。
誤った術式は、患者自身の身体まで壊しかねない。
「清潔な水を少しずつ。無理に飲ませるな。吐くようなら間を空ける。身体は冷やしすぎない方がいい」
「助かるんでしょうか」
母親が訊いた。
キースは答えに詰まった。
神殿にいたなら、治療師を呼べばよかった。必要なら高価な薬も使えた。
だが、ここには何もない。
「……分からない」
キースは答えた。
母親の顔が曇る。
それでも、嘘はつけなかった。
「私には、助かるとは約束できない。だが、できることをしよう」
数日前、メミスの神官たちは、実りもしない豊穣を神の名で約束した。
同じことを、自分がしてはいけない。
母親は俯き、何度も頷いた。
家の外へ出ると、村人たちが集まっていた。その何人かは、すでに村の中央へ向かおうとしている。
「どこへ?」
キースが訊く。
「お祈りだよ」
答えたのは、一人の老婆だった。
小柄で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。手には小さな木皿を持ち、その上には麦の穂が数本と、小さな花が載せられていた。
「祈り?」
「そうさ」
「神殿があるのか?」
「神殿?」
老婆は笑った。
「そんな立派なもん、うちの村にはないよ」
そう言って村の中央へ歩いていく。
キースは気になって後を追った。
ローゼンもついてくる。
マーカスとシビウは馬の世話を続けていた。
村の中心には、大きな樫の木が一本立っていた。
その根元、草花に半ば埋もれるようにして、小さな石像がある。
高さはキースの膝ほど。
ひどく古く、風雨に削られて顔もほとんど分からない。
人の姿なのか、獣なのか、神なのか。
手のようにも見える出っ張りと、頭部らしき丸みが残っているだけだった。
足元には乾いた花、木の実、古い布切れ、小さな陶器の杯と、いくつもの供物が置かれている。
老婆はそこへ木皿を置いた。
村人たちも次々と集まってくる。
「これは何の神だ?」
キースは訊いた。
「知らないよ」
老婆はあっさり答えた。
聞き間違えたのかと思った。
「知らない?」
「ああ」
「神名は?」
「ないねえ」
「昔の名が失われたということか?」
「さあ」
老婆は首を傾げる。
「わたしが生まれた頃には、もうこうだったからね」
「祭司は?」
「いないよ」
「祭儀書は?」
「何だい、それ」
「祈祷文。祝詞。契約文でもいい。神格との接続を定める何かがあるだろう」
「難しいことは知らないねえ」
老婆は困ったように笑った。
キースは石像へ目を向ける。
神殿なし。
神官なし。
神名なし。
正式な神格記録もない。
少なくとも、キースの知識に該当するものはなかった。
「では、誰に祈っているんだ?」
ますます分からずに尋ねると、老婆は一瞬きょとんとした。
そんなことを訊かれるとは思っていなかったのだろう。
やがて、笑った。
「誰でもいいよ」
「……何?」
「聞いてくれるなら」
キースは言葉を失った。
老婆は、ごく当たり前のことを言ったような顔で石像の前へ膝をつく。
「昔からね、病気の人が出たときはここへ来るんだよ。子どもが生まれるときも。雨が降らないときも。帰ってこない人がいるときも」
「誰へ?」
「だから、知らないって」
「それでは祈りにならない」
思わず口を挟むと、老婆が振り返った。
「そうなのかい?」
「祈りには対象がいる」
キースは、神官として知っていることを説明した。
「神格には名があり、その名によって祈りの行き先が定まる。神名は単なる呼び名ではない。祈祷と神格を結ぶための――」
途中で言葉を止めた。
老婆はまったく理解していない顔をしている。
周囲の村人たちも同じだった。
「つまり?」
老婆が訊く。
「……誰へ祈るか分からなければ、届かないということだ」
「そうかねえ」
「少なくとも、神学上は」
「でも、わたしたちはずっとこうしてきたよ」
「それは、祈ったことで安心しているだけかもしれない」
口にした瞬間、少し言いすぎたと思った。
だが、老婆は怒らなかった。
「そうかもしれないねえ」
あっさり認める。
今度はキースの方が戸惑った。
「いいのか?」
「何が?」
「それで」
「祈ったからって、何でも叶ったわけじゃないからね」
老婆は石像へ花を供えた。
「死ぬ人は死んだし、雨が降らない年もあった。うちの爺さんだって、帰ってくれって何日も頼んだけど、戦から帰ってこなかったよ」
声は穏やかだった。
何十年も前の傷を、もう痛みごと抱えて生きている者の声だった。
「じゃあ、なぜ祈る」
「さあね」
老婆は笑う。
「聞いてくれるかもしれないだろ?」
「……」
「誰も聞いてくれなくても、言わないよりはいい」
それだけ言うと、両手を組んだ。
ほかの村人たちも膝をつく。
決まった祝詞はない。
声を揃えることもない。
ある者は小声で少年の名を呼び、ある者はただ目を閉じている。母親は石像へ額をつけ、幼い妹らしい少女は、摘んできた小さな黄色い花を置いた。
祈りとしては、あまりに雑然としていた。
神殿の祭儀とは比べようもない。
月相も、定められた姿勢も、正しい祝詞も、祭具もない。
神官もいない。
巫女もいない。
ただ人が集まり、一人の子どもに生きてほしいと思っている。
それだけだった。
「ローゼン」
キースは小声で訊いた。
「はい」
「何か感じるか?」
精霊ならば、人間には分からない何かを感じ取るかもしれない。
ローゼンはしばらく、石像を見つめた。
樫の木。
風。
供物。
祈る人々。
やがて首を振る。
「わたくしには、分かりません」
「精霊の気配は?」
「この土地そのものにはございます。木にも石にも、土にも。ですが、それはこの像に神様がいらっしゃるという意味ではございません」
「では何もいない?」
「それも、分かりません」
まただ。
分からないものを、分からないと答える。
キースは石像へ目を戻した。
名のないものへ向けられる祈り。
神学的には不完全。
いや、祈りとして成立しているかどうかさえ怪しい。
それなのに、なぜだろう。
馬鹿げているとは、もう思えなかった。
*
その日の出発は取りやめになった。
馬が疲れていたこともあるし、次の宿場まで進めば夜になる可能性が高かったこともある。
何よりマーカスは、寝床と夕食を提供してくれる村をわざわざ離れるほど馬鹿ではない、と言った。
村には宿屋がなかったため、一行は使われていない穀物小屋を借りることになった。
「悪くねえな」
マーカスは藁束へ寝転んだ。
「屋根がある。風が来ねえ。最高じゃねえか」
「神殿と比較すると、かなり基準が違う」
キースが言う。
「そのうち分かる。屋根のありがたさが」
「雨に降られた経験すらろくにない坊やには、まだ早いね」
シビウが笑う。
「だから坊やと呼ぶな」
「蜂に立ち向かえるようになったら考えるよ」
言い返せなかった。
まだ、その話は胸の奥に刺さっている。
それでも昨日ほどではない。
恐怖そのものを、なかったことにはしない。
そう決めたからだ。
夕食は、豆を煮込んだ薄いスープと黒パンだった。
キースは黒パンを一口食べる。
「……硬い」
「これが黒パンだ」
マーカスが誇らしげに言う。
「君が作ったわけでもないだろう」
「神殿の黒い高級パンとは違うだろ?」
シビウが笑った。
たしかに違った。
噛んでもなかなか崩れず、酸味が強い。
けれど、スープへ浸すと不思議によく合う。
「なるほど」
「何がなるほどなんだい」
「本物の黒パンについて知った」
「大げさな奴だねえ」
食事の途中、村長の妻が穀物小屋へ駆け込んできた。
「すみません!」
顔色が悪い。
「子どもが……」
キースはすぐに立ち上がった。
*
少年の熱は、昼より上がっていた。
呼吸も荒い。
眠っているというより、意識が深く沈んでいる。
「水を」
キースが言う。
母親が匙で少量を口へ入れるが、ほとんど飲み込めない。
ローゼンも寝台の脇へ膝をついた。
「何かできないか?」
キースが訊く。
「わたくしに、ということでしょうか」
「ああ」
ローゼンは少年の額へ手を置き、目を閉じた。
長い白髪が肩から滑り落ちる。
しばらくして、目を開いた。
「精霊の術で病を治すことは、わたくしにはできません」
「植物へ呼びかけたりは?」
「薬草を探すお手伝いはできます。ですが、薬そのものの知識でしたら、キース様の方がお詳しいと思います」
「そうか」
落胆が声に出た。
ローゼンが申し訳なさそうな顔をする。
「すまない。君を責めているわけではない」
「分かっております」
キースは再び少年を見る。
何か。
できること。
知識の中を探す。
症状。原因候補。薬草。治療法。
だが、手元には必要なものがない。
知っていても使えない。
昨日と同じだった。
キラービーを知っていた。
それでも動けなかった。
今日は病を知っている。
それでも治せない。
知識は万能ではない。
その事実を、世界は容赦なく教えてくる。
「冷却魔導なら」
母親が縋るようにキースを見る。
「熱を下げることはできないのですか?」
「できる」
「なら!」
「だが、危険だ」
キースは首を振った。
「身体が熱を上げている理由が分からない。無理に下げれば、かえって悪くなる可能性もある。魔導で病の原因そのものを消せるわけじゃない」
母親は俯いた。
「ごめんなさい」
「謝ることではない」
キースは拳を握った。
自分も同じことを考えた。
魔導なら何とかできるのではないか。
それは結局、《力があるなら使えばいい》という発想だ。
使えることと、使うべきことは違う。
マーカスの言葉が、また別の形で戻ってくる。
強いことと、戦えることは違う。
ならば、力を持っていることと、救えることもまた違う。
外から鐘の代わりに、小さな木板を叩く音が聞こえた。
村人たちが集まる合図だった。
「また、祈るのか」
キースが訊く。
母親は頷いた。
「はい」
少年の手を握ったまま、目を閉じる。
「わたしは、ここにいます」
「行かなくていいのか?」
「ここからでも聞いてくださるでしょうから」
「……誰が?」
母親は泣きそうな顔で、それでも笑った。
「誰かが」
キースは何も言えなかった。
*
夜半を過ぎても、村は静かだった。
キースは眠れず、穀物小屋の外へ出た。
空には星が満ちている。
メミスでも星は見えた。
だが神殿の高楼から眺める星とは違って見えた。
遮るものがない。
地平から地平まで、夜空そのものが巨大な天蓋となって覆いかぶさっている。
村の中央、樫の木の根元には、まだ小さな灯があった。
石像の前で、あの老婆が座っている。
「まだ祈っているのか」
キースが近づくと、老婆は振り返った。
「眠れないのかい?」
「少し」
「わたしもだよ」
キースは石像を見る。
昼間と同じ。
何も変わっていない。
ただ月明かりを受けた石が、青白く見える。
「毎回、こうするのか」
「ああ」
「一晩中?」
「眠くなったら寝るよ」
「……ずいぶん自由な祭儀だな」
「さいぎ?」
「祈りのやり方だ」
「やり方なんてないよ」
老婆は笑う。
「頼みたいことを言って、あとは待つだけさ」
「名も呼ばずに」
「そうさ」
「それで、本当に何か起きたことがあるのか?」
老婆は顎へ手を当てた。
「昔、日照りが続いたことがあったね」
「雨が降った?」
「三日後にね」
「三日もあれば、天候が変わるのは自然だ」
「そうかい」
「ほかには?」
「行方不明になった羊が戻った」
「羊は自分で帰ってくる」
「隣村へ嫁に行った娘に子ができた」
「それは……祈りとは関係ない可能性が高い」
「そうかねえ」
何を言っても、老婆は怒らない。
だからこそ、キースの方が困った。
「だったら、奇跡だったと証明できるものは何もないじゃないか」
「そうだねえ」
「それでも信じている?」
「信じてるかどうかなんて、考えたこともないよ」
キースは眉を寄せた。
「祈っているのに?」
「祈るのに、証明がいるのかい?」
不意に言葉が詰まった。
神殿ならば、いる。
神格には系譜があり、神名があり、権能がある。過去の神託と奇跡が記録され、どの神へ何を願うべきか分類されている。
それは信仰を守るためでもある。
偽神や悪しきものへ祈りを捧げないため。
祈りの行き先を誤らないため。
力ある名を不用意に呼ばないため。
すべてに意味はある。
「若い神官さん」
老婆が言った。
「何だ」
「あんたは、神様に会ったことがあるのかい?」
キースは答えられなかった。
ムーミスト。
人生のすべてを、その神へ仕える者として生きてきた。
神官長。
神の声を制度へ変換する役目。
けれど――。
「ない」
キースは答えた。
「声を聞いたことは?」
「……ない」
「じゃあ、わたしとあんまり変わらないねえ」
「違う」
反射的に否定した。
「ムーミストには神殿がある。記録がある。三百年以上前には実際に神託が――」
そこまで言って止まった。
老婆は何も知らない。
三百年の沈黙も、神官たちがその間に何をしてきたかも。
それなのに、自分が今口にしていることが妙に空虚に聞こえた。
「……いや」
キースは息を吐く。
「何でもない」
「難しいことを考えるんだねえ」
「神官だからな」
「大変だ」
「軽く言うな」
老婆は声を立てて笑った。
その笑いを聞きながら、キースは石像を見る。
名がない。
だから誰なのか分からない。
本当に神なのかすら分からない。
ただの石かもしれない。
昔、何者かを模して彫られた像だったかもしれない。
とうに失われた神の残骸なのかもしれない。
あるいは、最初から何の神でもなかったのかもしれない。
それでも何十年、何百年と、この村の人間たちは願いをここへ持ってきた。
生まれてほしい。
生きてほしい。
帰ってほしい。
雨がほしい。
助けてほしい。
その思いだけが、石の前へ積もっている。
「誰でもいい」
キースは昼間の言葉を繰り返した。
「聞いてくれるなら」
「ああ」
老婆は頷いた。
「それで十分さ」
*
夜明け前。
キースは寝入りかけたところを、激しく扉を叩く音で起こされた。
「旅の神官様!」
飛び起きる。
マーカスもすぐに身を起こし、シビウはもう剣へ手を伸ばしている。
「何だ!」
扉を開ける。
少年の母親だった。
泣いている。
「子どもが――」
キースの胸が冷えた。
「どうした」
「熱が」
母親が息を整える。
「熱が、下がったんです」
キースは一瞬、その意味を理解できなかった。
「下がった?」
「はい!」
少年の家へ駆ける。
寝台に横たわる顔は、昨日までのように赤く火照ってはいなかった。まだ青白いものの、苦しげな赤みが引いている。
呼吸も穏やかだった。
キースは額へ手を置く。
熱は残っている。
だが、明らかに低い。
脈も昨夜より落ち着いている。
「水」
少年の目がわずかに開いた。
「……飲みたい」
母親が泣いた。
匙ではなく、小さな杯で水を飲ませる。少年はむせながらも、自分で飲み込んだ。
「もう少し」
「一度に飲むな」
キースが止める。
「少しずつだ」
少年は不満そうな顔をした。
その表情を見て、母親がまた泣いた。
今度は喜びの涙だった。
キースは立ち上がる。
理解できない。
病が峠を越した?
あり得る。
身体が自力で回復した?
十分にあり得る。
昨夜与えた水分と休息が効いた?
それもある。
村人が使っていた薬草に効果があった可能性もある。
突然熱が下がる病など珍しくない。
奇跡を持ち出さなくても、説明はいくらでもできる。
「ローゼン」
「はい」
彼女も少年を見ていた。
「何かしたか?」
「いいえ」
「昨夜、精霊術を?」
「使っておりません」
「本当に?」
問いが強くなってしまう。
ローゼンは怒らず頷いた。
「本当です」
キースは自分の感覚を探った。
魔導の残滓。
術式が使われた場所には、わずかながら魔力の乱れが残る。
ない。
少なくとも、キースが知る魔導が使われた痕跡はなかった。
治癒術も、冷却術も。
精霊術については完全には理解していないが、ローゼンが嘘をついているとも思えない。
「どうなさったのですか?」
ローゼンが訊く。
「いや」
キースは首を振った。
「何でもない」
外が明るくなり始めていた。
*
村を出る前、キースはもう一度、樫の木の下へ向かった。
石像の前には、新しい花が置かれている。
少年の母親が供えたものらしい。
昨日の老婆もいた。
「治ったねえ」
「まだ治ったとは限らない」
キースは即座に言った。
「熱が下がっただけだ。数日は安静が必要だし、また上がる可能性もある。食事も急に戻さない方がいい。水は十分に。薬師が帰ってきたら、必ず診てもらえ」
「伝えておくよ」
キースは石像を見る。
「……祈りが届いたと思うか?」
老婆は肩をすくめた。
「さあねえ」
「さあ、なのか?」
「治ってきたなら、それでいいだろ」
キースは呆れた。
「君たちは、何のために祈っているんだ」
「治ってほしかったからさ」
「なら、治ったら神のおかげだと思うものじゃないのか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「それでいい?」
「いいよ」
老婆は笑った。
「聞いてくれた誰かがいるなら、ありがとう。誰もいなかったなら、あの子が頑張ったんだろうよ」
キースは、また返す言葉を失った。
神殿なら、奇跡が起これば記録する。
神格との関係を調べ、どの神の権能かを判定する。正式な奇跡と認定されれば神殿史へ記され、人々はその奇跡を語り、さらに祈る。
この村は違う。
誰が聞いたのかすら、どうでもいい。
少年が生きた。
それだけで満足している。
「キース様」
ローゼンの声がした。
馬車の準備ができたらしい。
「ああ。今行く」
キースは石像へ最後に目を向けた。
祈られた神の名は、どこにもない。
そもそも神がいるかどうかも分からない。
そして昨夜起きたことも、奇跡と呼ぶ必要はない。
病は自然に快方へ向かった。
おそらく、それが最も合理的な説明だ。
そう結論づけることはできる。
ただ、名がなければ祈りは届かない。
昨日までなら、その命題に迷いはなかった。
名は祈りの宛先である。
名を通して、人と神は結ばれる。
それが神学の基礎だった。
だが、もし祈りが先にあり、その祈りを聞く何かへ後から名が与えられることもあるのなら。
「……馬鹿な」
小さく呟く。
証拠はない。
たった一人の少年の熱が下がっただけだ。
自然治癒で十分説明できる。
神学を覆すような話ではない。
それでも、完全に無意味な祈りだったと断言することも、なぜかもうできなかった。
キースは石像に祈らなかった。
頭も下げなかった。
ただ、そこにあることを覚えておこうと思った。
名前のない石。
誰でもいいと言って祈る人々。
そして、夜が明ける前に下がった一人の子どもの熱。
それだけを。
都合よく奇跡にせず。
都合よく偶然とも決めつけず。
起きたこととして。
「キース!」
遠くからマーカスが呼ぶ。
「置いてくぞ!」
「今行く!」
馬車へ戻る。
キースが乗り込むと、マーカスが手綱を鳴らした。
車輪が回り始め、村が少しずつ遠ざかっていく。
ローゼンが隣から訊いた。
「何をお考えだったのですか?」
「祈りについて」
「答えは出ましたか?」
「いや」
キースは即答した。
そして少しだけ笑う。
「分からないことが一つ増えた」
「それは、よいことでしょうか?」
「昔なら悪いことだと思った」
神官は答えを持つ者。
そう教えられてきた。
だが今は、少し違う。
「今は、少し違う」
前方では、街道がやがて山地へ向かって伸びていた。
遠くに峠が見える。
北へ進む最短の道。
険しい岩山の間を縫う、細い道だった。
マーカスがそこを見ながら、難しい顔をしている。
「どうした」
キースが訊く。
「次の道だ」
「何か問題が?」
「問題だらけだな」
マーカスは答えた。
「早く行くなら、あの峠を越える」
指差す。
「安全を取るなら?」
「東へ大きく迂回だ。数日は余計にかかる」
キースは峠を見た。
昨日までなら、本で危険度を調べ、数字と記録から答えを探しただろう。
だが世界には、本に載っていないものがある。
知っていても、できないことがある。
そして名すらないのに、人が祈り続ける場所もある。
「少し考えさせてくれ」
キースは言った。
マーカスは頷く。
「ああ。今度は、お前が決めろ」
馬車は北へ進んでいく。
背後の村では、小さな石像の前に朝の花が揺れていた。
その祈りを誰が聞いたのか。
あるいは、誰も聞かなかったのか。
その答えを知る者は、どこにもいなかった。




