第六章 世界一の魔導士は蜂を殺せない
神殿を出て三日目の朝、キースは、自分が馬車の揺れを甘く見ていたことを認めざるを得なくなった。
石畳の上を走っているあいだは、まだよかった。だが街道が土へ変わり、さらに轍の深い田舎道へ入ってからというもの、車体は大小の石を拾うたびに軋み、跳ね、そのたび容赦なく乗っている者の身体を揺さぶった。
本を読むなど、とてもできない。
最初の日、キースは意地でも頁を開いていた。半刻後には気分を悪くし、それ以来、三冊にまで減らされた貴重な本は荷物の奥へしまわれたままだ。
「ずいぶん静かになったねえ、世界一」
馬車の後方で外を眺めていたシビウが言った。
「誰かさんが本を読んで吐きそうになってから」
「吐いてはいない」
「似たようなもんだろ」
「違う」
「じゃあ次は読めば?」
キースは返事をせず、窓の外へ目を向けた。
シビウが鼻で笑う。
「分かりやすい坊やだね」
「坊やと呼ぶな」
「十八なんだろ?」
「成人している」
「あたしから見れば坊やさ」
「君だって、そこまで年上には見えない」
「見た目で決めるんじゃないよ」
「では何歳だ」
「女に訊くもんじゃない」
「自分から年上を主張しただろう!」
御者台からマーカスの笑い声が響いた。
「諦めろ、キース。シビウ相手に理屈で勝とうとすると疲れるぞ」
「誰が理屈が通じないって?」
「ほらな」
「マーカス!」
シビウが身を乗り出したところで、ローゼンが小さく笑った。
この三日間、だいたいこんな調子だった。
キースは、自分が想像していたよりも旅というものが単調であることも知った。
書物の中では、一つの町を出れば次の頁にはもう別の土地へ到着している。途中に描かれるのは、夕焼けや野営や旅人との出会いといった、美しい部分ばかりだ。
現実には、そのあいだに何時間もの移動がある。
同じ景色が続き、車輪が鳴り、馬が歩く。尻は痛くなり、食事は冷たく、夜は寒い。眠っても神殿の寝台ほど深く眠れない。
それでも、退屈ではなかった。
外には、見たことのないものが多すぎる。
野を横切る獣。遠くに見える村。道端の祠。名前も分からない小さな花。橋の下を流れる川。
本で読めば一行で済むものばかりなのに、現実ではそれぞれに匂いがあり、音があり、形があった。
キースは、それらを飽きもせず目で追い続けた。
昨日など、畑を耕していた農夫が昼食に食べていた黒パンが気になり、馬車を止めようとしてシビウに呆れられたほどだ。
「神官長様は、黒パンも見たことないのかい」
「食べたことはある」
「どこで?」
「神殿で」
「神殿の黒パンなんざ黒パンじゃないよ」
「では何なんだ」
「黒い高級パンだ」
違いはいまだに分からない。
だが、知りたいことは増えた。
それが妙に楽しかった。
だからキースは、少しだけ油断していたのかもしれない。
外の世界は広い。知らないものだらけだ。
それでも、知らないなら知ればいい。
知識があれば対応できる。
魔導があれば、なおさらだ。
その考えが間違いだったと知るまで、時間はかからなかった。
*
最初に異変へ気づいたのは、キースだった。
「……あれは何だ?」
馬車の左手、遠くの空に黒い点がいくつも見える。鳥にしては動きがおかしく、群れを成しているのに編隊を作らず、互いに絡み合うような軌道で飛んでいる。
「どれです?」
ローゼンが身を寄せる。
「あそこだ。林の上」
キースが指差すと、ローゼンの深紅の瞳が細まった。
次の瞬間、その声色が変わる。
「マーカス様! 前方左です!」
御者台のマーカスが振り返り、シビウも立ち上がった。
「何だい?」
「あれです」
シビウが目を凝らす。
数秒後、小さく舌打ちした。
「ちっ。キラービーだね」
「キラービー?」
その名を聞いた瞬間、キースの頭の中で知識が開いた。
大型肉食蜂種。平均体長は人の胴ほど。群れで活動し、森林や崖地に巨大な巣を作る。昆虫や小動物を捕食するが、餌が不足すると活動範囲を広げ、ときに人間や家畜まで襲う。
外殻は硬く、腹部末端の毒針には、成人男性を数刻で死に至らしめる量の神経毒がある。火を嫌い、翅の付け根が弱点。
「十……いや、十二匹」
キースは数えた。
「こちらへ来ている」
「馬車止めるぞ!」
マーカスが手綱を引いた。
馬たちも敵の気配を感じたのか、鼻息を荒くして足を乱している。
「ローゼン!」
シビウが腰のダンシングソードへ手を伸ばした。
「キースの坊やを中に入れときな!」
「誰が坊やだ!」
「今そこ気にするところかい!」
シビウとマーカスは同時に馬車を降りた。
ローゼンがキースの袖を掴む。
「キース様、こちらへ」
「待て」
「危険です」
「知っている」
「でしたら――」
「知っているから戦える」
自分でも少し意地になっていることは分かっていた。
シビウに坊や扱いされたからだけではない。
護衛に守られたまま北へ向かうのか。世界の崩壊を調べるために旅へ出た人間が、怪物一匹と戦えないままでいいのか。
それでは、何のために自分はここへ来たのか。
「キース様」
「大丈夫だ」
ローゼンの手をそっと外す。
「キラービーについては知っている」
それは事実だった。
生態も、弱点も、毒の作用も、効率のよい討伐術式も。
すべて学んでいる。
キースは馬車から降りた。
朝の草原を湿った風が渡っている。
空の黒点は、もう点ではなかった。
黄色と黒の縞。巨大な複眼。高速で動く翅。
低い羽音が、少しずつ大きくなってくる。
ブゥゥゥゥゥン――。
空気そのものが震えていた。
「本気かい?」
シビウが振り返る。
「ああ」
「邪魔になるよ」
「ならない」
「実戦経験、ないんだろ?」
「魔導士として必要な訓練は受けている」
「訓練と実戦は違う」
「術式は同じだ」
シビウは呆れた顔になったが、それ以上は言わなかった。
「勝手にしな。ただし、自分の身は自分で守りな」
「分かっている」
「マーカス」
「ああ」
大男が斧を両手で構えた。
普段の陽気な表情が消える。
その瞬間、キースは初めて、マーカスが戦士なのだと実感した。
立ち方が違う。
足幅も、重心も、斧の角度も、敵を見る目も。
何一つ無駄がない。
隣のシビウも同じだった。
鞘から抜かれたダンシングソードが朝日を反射する。彼女が手首をわずかに返すと、しゃらり、と刃の節がほどけ、長い刃鞭となって草の上を蛇のように這った。
「来るよ!」
羽音が爆発した。
群れが急降下する。
一匹目はマーカスへ向かった。
「ふんっ!」
大斧が横薙ぎに振るわれ、風を裂く轟音が響く。
巨大蜂の胴が、飛行の勢いを残したまま上下に分かれた。
黄褐色の体液が散り、二つの肉塊が地面へ落ちる。
キースの喉が動いた。
知っている。
昆虫型怪物の体液は、哺乳類ほど赤くない。
資料にも書いてあった。
だが、臭いまでは書いていなかった。
甘いような、腐った果実にも似た、妙な臭い。
二匹目、三匹目へ、シビウの剣が空を踊った。
節の外れた刃が弧を描き、翅を切断する。そのまま首へ巻きつくように走り、キラービーが回転しながら地面へ落ちた。
「次!」
シビウはすでに別の一匹を見ていた。
速い。
キースが術式を思い浮かべるより早く、二人は戦っている。
だが、自分にもできる。
キースは右手を上げ、呼吸を整えた。
魔力は正常。
イースも応答している。
術式展開。
火性第二構文。
投射型。
目標を翅基部へ限定。
過剰出力は不要。
キラービー程度なら、通常の三分の一で十分。
指先に青白い火が灯った。
成功。
何の問題もない。
「来るぞ!」
マーカスの声が飛ぶ。
一匹のキラービーが、キースへ進路を変えた。
複眼。六本の脚。開いた顎。
腹部の先端には、黒光りする毒針。
キースは冷静に分析した。
距離は二十歩。
速度は――。
火球を放てば当たる。
今だ。
そう判断し、右腕を伸ばす。
「――炎よ」
術式が起動した。
火球が真っ直ぐ飛ぶ。
完璧な軌道だった。
だが、キラービーは直前で身体を傾けた。
火球が翅の先を掠める。
「外した!」
キースは驚いた。
標的は動く。
もちろん知っている。
実戦教本にも書かれている。偏差を取れ。飛翔種には移動先を予測して撃て。
知っている。
次を撃てばいい。
魔力を集める。
二射目。
だが、キラービーはもう近かった。
十歩。
顎が開いている。
羽音が耳を打つ。
ブゥゥゥゥゥン。
大きい。
遠くから見ていたときとは、まるで違った。
巨大な複眼の一つ一つに朝日が反射している。毛の生えた脚。擦れ合う顎。
そして針。
黒い毒針。
あれが、自分へ刺さる。
その考えが浮かんだ。
ただ、それだけだった。
「キース!」
誰かが叫んだ。
術式は完成している。
右手には魔力もある。
火球は放てる。
放てばいい。
指を伸ばすだけだ。
頭では分かっている。
なのに、身体が動かなかった。
「……え」
呼吸が止まり、指先が冷える。
心臓だけが、異常なほど速く鳴っていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
時間が引き延ばされる。
キラービーが迫ってくる。
羽音が大きくなり、毒針が自分の腹へ向けられている。
刺される。
死ぬ。
その言葉が、初めて知識ではなくなった。
これまでキースにとって《死》は文字だった。
歴史書の死者。魔導事故の死者。戦争の死者。
病死。毒死。戦死。
数え切れないほど読んできた。理解しているつもりだった。
だが今、この身体に針が入る。
毒が血へ流れ、呼吸ができなくなり、心臓が止まる。
その瞬間、自分は存在しなくなる。
怖い。
思考が、それ一つで埋め尽くされた。
「撃て!」
マーカスが叫ぶ。
撃てない。
「避けろ!」
避けられない。
足が地面に縫いつけられたように動かず、目さえ閉じられない。
毒針が迫る。
黒い先端。
一歩。
半歩。
「キース!」
轟音が響いた。
視界の横から大きな影が飛び込み、次の瞬間、キラービーの身体が目の前で二つに割れた。
マーカスの斧だった。
黄色い体液がキースの頬へ飛ぶ。
熱い。
いや、温かい。
「――っ!」
ようやく身体が動いた。
膝が崩れ、地面へ手をつく。
そのすぐ横へキラービーの半身が落ちた。脚がまだ動き、毒針も痙攣している。
「何してやがる!」
マーカスの怒声が降ってきた。
キースは顔を上げる。
「戦えねえなら馬車の中に引っ込んでろ!」
言い返せない。
「まだ終わってねえ!」
マーカスはそれだけ言うと、すぐに背を向けた。
別の蜂が迫っている。
大斧を振るい、そのまま戦闘へ戻っていく。
キースは地面に手をついたままだった。
身体が震えている。
止めようとしても、止まらない。
「キース様!」
ローゼンが駆け寄ってきた。
「お怪我は?」
「……ない」
「本当に?」
「ああ」
答えた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
ローゼンが腕を取る。
「馬車へ」
「私は――」
「行きましょう」
「まだ戦える」
そう言いながら、立てない。
ローゼンは何も言わなかった。
キースの腕を自分の肩へ回し、身体を支える。
そのことが、さらに惨めだった。
世界一の魔導士。
十八歳。
大人。
神官長。
その自分が、精霊の少女に支えられなければ歩けない。
馬車の中へ入れられても、外ではまだ戦闘の音が続いていた。
斧の音。シビウの刃が空を切る音。羽音。叫び。
キースは両手を見る。
まだ震えていた。
そこへ意識を向ける。
魔力はある。
術式も組める。
試しに指先へ火を灯すと、小さな炎が現れた。
完璧だった。
「……使える」
キースは呟いた。
「キース様?」
「魔導は使える」
ローゼンは何も言わない。
「術式も間違っていなかった」
「はい」
「魔力も足りている」
「はい」
「なのに……撃てなかった」
炎が消える。
指先は、またかすかに震えていた。
外の音がやがて静かになる。
最後の羽音。
斧が何かを叩き落とす音。
しばらくして、馬車の扉が開いた。
マーカス。その後ろにシビウ。
二人とも、返り血ならぬ黄色い体液に汚れている。
「終わった」
マーカスが言った。
先ほど怒鳴ったときほど、声は荒くない。
シビウは何も言わず、キースを見た。
その目が痛かった。
軽蔑。
少なくとも、キースにはそう見えた。
「……すまない」
声が出た。
マーカスは斧を外へ立てかける。
「何がだ」
「足を引っ張った」
「そうだな」
即答だった。
キースは顔を伏せる。
「マーカス様」
ローゼンが咎めるように言った。
「嘘ついてどうする」
マーカスは馬車へ乗り込み、キースの向かいへ腰を下ろした。
「足は引っ張った。俺が助けに入ったせいで、シビウが二匹まとめて相手することになった」
「別に、あのくらいどうってことないよ」
シビウが言う。
「それでもだ」
マーカスはキースを見た。
「でもな、最初からできる奴なんか、そういねえ」
「……慰めるつもりか」
「俺が?」
マーカスが鼻で笑う。
「柄じゃねえよ」
そう言って、少しだけ身を乗り出した。
「お前、何匹見えた」
「十二」
「正解。キラービーの弱点は?」
「翅の付け根。次いで頭部と胸部の接合部。外殻は火に弱い。ただし高熱を与えすぎると体液が飛散するから――」
「毒は?」
「神経毒。刺入から平均一刻前後で筋肉麻痺。体重によってはもっと早い。即座に毒抜きを行い、抗毒草を――」
「十分だ」
マーカスは手を上げた。
「全部知ってるじゃねえか」
「だから余計に情けないんだ」
「逆だよ」
「何?」
「知ってるのと、できるのは別だ」
キースは眉を寄せる。
マーカスは自分の斧へ視線を向けた。
「お前は最初の一発、ちゃんと撃ってた。術も速かった。俺には魔導のことは分からんが、あれが当たってりゃ蜂は落ちてただろ」
「ああ」
「でも外れた」
「……ああ」
「それで次の一発が撃てなかった」
事実が一つずつ並べられていく。
「なぜだと思う」
「怖かったからだ」
「そうだ」
「分かっている」
「分かってねえ」
キースは目を上げた。
マーカスの声は穏やかだった。
だからこそ、言葉が重かった。
「お前、自分が魔導を失敗したと思ってるだろ」
「違うのか?」
「魔導は失敗してねえだろ」
「だが私は――」
「お前自身が、初めて死ぬのが怖いって知ったんだ」
キースは黙った。
「訓練場じゃ、失敗しても教官が止める。結界もある。治療師もいる。相手だって本気で殺しには来ない」
マーカスは続けた。
「外じゃ違う。相手は、お前が世界一だろうが神官長だろうが知らねえ。蜂はお前の肩書きなんか見ちゃいない」
シビウが腕を組む。
「昨日言ったろ」
――世界一だろうが何だろうが、外で死んだらただの死体。
その言葉が蘇る。
キースは唇を噛んだ。
「強いってのと、戦えるってのは違うんだよ」
マーカスが言った。
怒鳴ったわけではない。
だからこそ、深く刺さった。
「お前は強いんだろうさ。魔力なら」
「……ああ」
「だが、今のお前は戦えねえ」
否定できなかった。
キースがこれまで頼りにしてきたものが、一つずつ剥がされていくようだった。
魔導力。
知識。
神官長という肩書き。
世界一という評判。
どれも嘘ではない。
すべて本物だ。
だが、本物であることと、それで命を守れることは同じではなかった。
「どうすれば」
気づけば、そう訊いていた。
マーカスが少し驚く。
「何が?」
「戦えるようになる」
シビウもこちらを見る。
「私は、また同じことになるのか」
「分からん」
「おい」
「本当に分からん」
マーカスは肩をすくめた。
「次は動けるかもしれん。もっと駄目かもしれん」
「そんな無責任な」
「でも、一回怖いって知っただろ」
「それが何になる」
「怖いことを知らねえ奴よりは、一歩先だ」
シビウが小さく笑う。
「珍しくいいこと言うじゃないか」
「珍しくは余計だ」
「あんたは基本、酒と女の話しかしてないだろ」
「最近は反省してる」
「何を?」
「あたしとの結婚?」
「そこを掘るな!」
また始まりそうになり、シビウがため息を吐いた。
だが、そのやり取りのおかげで、馬車の空気が少しだけ緩んだ。
キースだけは、まだ笑えなかった。
*
昼過ぎ、街道から少し外れた泉で、一行は休憩を取った。
馬へ水を与えるためだ。
キラービーの死骸は放置してきた。巣から離れていた群れらしく、追撃はなかった。
キースは一人、泉から離れた倒木へ腰を下ろしていた。
手の震えはもうない。
頬についた黄色い体液も洗い、衣服も着替えた。
見た目だけなら、朝と変わらない。
けれど目を閉じると、毒針が見えた。
黒い先端。
自分へ迫ってくる。
身体が固まる。
何度思い出しても、同じだった。
「キース様」
ローゼンがやって来て、隣へ腰を下ろした。
少しだけ薔薇の香りがする。
「お身体は、本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
「お顔の色が、まだ」
「怪我はしていない」
「ですが――」
ローゼンは言葉を探しているようだった。
「初めてのことでございましたから」
キースは目を伏せる。
「慰めようとしているのか」
「もし、お嫌でなければ」
「やめてくれ」
ローゼンが黙った。
少し強く言いすぎた。
だが、今は優しくされる方がつらかった。
「すまない」
「いいえ」
「君が悪いわけではない」
「はい」
「ただ、慰められるようなことではない」
ローゼンは彼を見た。
「私は、自分が何もできなかったことを覚えていたい」
キースは両手を組んだ。
「怖かった」
その言葉を、自分の意志で口にする。
今度は、マーカスに言われたからではない。
自分で認める。
「死ぬと思ったら、何もできなかった。魔導もあった。知識もあった。撃てばいいと分かっていた。それでも動けなかった」
「キース様」
「それを『初めてだったから仕方がない』だけで終わらせたくない」
ローゼンは静かに聞いていた。
「私は……自分が世界一だと言われることが嫌いだった」
「存じております」
「でも、たぶん」
口にすると苦かった。
「どこかで頼っていた」
世界一。
神殿の天才。
誰より強い魔導力。
自分から名乗ったことなど一度もない。それでも、その言葉が自分を守る壁になっていた。
「何かあっても、魔導が使えるから大丈夫だと思っていた」
「それは、間違いなのでしょうか」
「今日、間違いだと分かった」
「ですが、キース様の魔導そのものが弱かったわけでは」
「だからだ」
キースはローゼンを見る。
「力があるのに使えないなら、もっと悪い」
ローゼンはすぐには答えなかった。
泉から水の音が聞こえる。遠くでマーカスが馬へ話しかけ、シビウはダンシングソードの刃を拭いている。
彼らにとって戦闘の後とは、こういうものなのだろう。
武器を手入れし、馬へ水を与え、怪我を確かめ、また旅へ戻る。
キースにとって人生を揺るがす出来事であっても、世界は止まってくれない。
「キース様」
ローゼンが静かに言った。
「わたくしは、キース様が戦えなかったことを笑いません」
「ああ」
「ですが、無理に大丈夫だったことにもしません」
キースは少し驚いた。
ローゼンは続ける。
「怖かったのであれば、怖かったのでしょう」
「……ああ」
「動けなかったのであれば、動けなかったのでしょう」
「ああ」
「では、そのことを覚えていればよいのではございませんか」
不思議な言葉だった。
励ますわけでもない。
責めるわけでもない。
ただ、起きたことをそのまま残す。
「記録みたいだな」
キースが言う。
ローゼンは首を傾げた。
「そうでしょうか」
「起きたことを、都合よく変えない」
メミスの神託を思い出した。
三百年間、答えがなかったから、人は答えを作った。
それによって守られたものもあった。
だが、自分自身のことまでそうしてはいけない。
キースは息を吐いた。
「ありがとう」
「慰めになりましたか?」
「だから慰めるなと言っただろう」
「申し訳ございません」
「でも」
キースは少しだけ笑った。
「助かった」
ローゼンも笑った。
*
再び馬車が動き始めた頃、キースはいつもの場所へは座らなかった。
御者台の横へ出る。
「どうした?」
マーカスが手綱を握ったまま尋ねた。
「ここにいてもいいか」
「狭いぞ」
「構わない」
「本は読めねえぞ」
「今日は読まない」
マーカスはちらりとキースを見る。
何か察したらしい。
「好きにしろ」
馬車が進む。
キースは道を見る。
森。草地。丘。遠くを飛ぶ鳥。
どこから何が出てくるか。
今までは景色として見ていた。
今度は違う。
「あの林は?」
「何が聞きたい」
「怪物が潜んでいる可能性」
「ある」
「種類は」
「この辺なら狼、ゴブリン、キラービー。運が悪けりゃロックスネイク」
「ロックスネイク……岩蛇か」
「知ってんのか」
「本で」
「ははっ」
マーカスは笑った。
「まあ、最初はそれでいい」
「最初は?」
「次に見たとき、本と同じか確かめろ」
キースは前を見る。
「違っていたら?」
「本を直せ」
何でもないように言われた。
だがキースは、妙にその言葉を気に入った。
世界一の魔導士。
神官長。
学者。
そんな肩書きは、今はどうでもいい。
自分には知らないことがある。
できないことがある。
怖いものがある。
それを知った。
城壁を出たときよりも、むしろ今の方が、キースは本当の意味で神殿の外へ出たのかもしれなかった。
街道の先には、小さな煙が上がっている。
村があるらしい。
まだ名も知らない村。
その中央に、神殿の記録には載らない小さな石像が祀られていることを、このときのキースはまだ知らなかった。
馬車は、ゆっくりとその煙へ向かって進んでいった。




