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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第一部 世界一の魔導士は世界を知らない
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6/30

第五章 護衛は元夫婦

 旅立ちの朝、キースは荷物の多さをめぐって神官たちと揉めていた。


「ですから、これは必要ありません」


「必要でございます」


「銀食器が?」


「神官長たる御身が、旅先で木匙をお使いになるわけにはまいりません」


「使えるなら何でもいいだろう」


「よくございません」


 神殿正門前にはまだ朝靄が残り、白い石畳を淡く霞ませていた。


 旅装を整えたキースとローゼンの傍らには、大小さまざまな荷箱が積み上げられている。


 衣類、祭具、薬箱、魔導書、食料、予備の靴、天幕、毛布、水壺。そこまではキースにも理解できた。


 だが銀器一式、装飾付き燭台、神官長専用の洗面器、祭礼用法衣三組、果ては香油を詰めた小箱まで並べられているとなれば、さすがに話が違う。


「私は巡礼に行くのではないんだぞ」


「国外へ赴かれる以上、神官長としての格式を保つ場面もありましょう」


「〈混沌〉に呑まれそうになったとき、銀杯を持っていれば格式が守れるのか?」


 荷造りを担当した神官は、さすがに言葉を失った。


 少し離れた場所では、ローゼンが積み上がった荷物を興味深そうに眺めている。


「人間の旅には、ずいぶん多くの物が必要なのですね」


「必要ない物まで持たせようとしているんだ」


「しかし、どれも大切そうに見えます」


「燭台が?」


「美しいです」


「君まで向こう側につかないでくれ」


 キースが頭を抱えた、そのときだった。


 石段の下から豪快な笑い声が響く。


「はっはっは! こりゃあいい。北へ旅に出るって聞いて来てみりゃ、神官長様は引っ越しでもするつもりか!」


 声とともに、一人の大男が坂を上がってきた。


 背が高い。それ以上に横幅がある。


 厚い胸板に、丸太のような腕。日に焼けた顔には無精髭が浮かび、旅装の革鎧は細かな傷に覆われていた。


 右肩には巨大な戦斧を軽々と担いでいる。斧頭だけでキースの胸ほどの大きさがあり、この男が本気で振り回せば、人間どころか馬まで両断できそうだった。


「お前がマーカスか」


 キースが尋ねる。


「おう」


 男は斧を肩から下ろし、石畳へ立てた。


 ごつん、と重い音が響く。


「アースバド爺さんに雇われた。マーカスだ。護衛、道案内、荷馬車の修理、火起こし、野営地探し。まあ、その辺は一通りできる」


「ずいぶん幅広いな」


「旅先じゃ『それは俺の仕事じゃない』なんて言ってたら死ぬからな」


 さらりと言われ、キースは返事に詰まった。


 神殿の中では、役目は細かく分けられている。


 神官には神官の仕事があり、女官には女官の仕事がある。料理人、衛兵、厩番、書記官。それぞれが自分の役目をこなせば、生活は滞りなく回る。


 外では違うらしい。


「それで」


 マーカスはキースの後ろを覗き込んだ。


「どれを捨てる?」


「捨てる?」


「荷物だよ」


 当然のように言う。


「馬車一台で行くって聞いてるぞ。この量じゃ二台でも足りん」


 荷造りを担当した神官が慌てた。


「捨てるなどと! すべて神官長様に必要な品で――」


「じゃあ、あんたが背負って歩くか?」


「わ、私が?」


「ああ。山道で車輪が沈んだら、馬車から下ろして担ぐんだ。そんときゃ手伝ってくれるんだろ?」


「……」


「なら減らせ」


 神官は黙った。


 キースは、初対面の男にわずかな好感を覚えた。


「話が早くて助かる」


「だろ?」


「ただし、本は減らさない」


 マーカスの顔から笑みが消えた。


「何冊ある」


「三十二冊」


「減らせ」


「断る」


「今、話が早いって言ったばかりじゃねえか!」


「資料だ。北方の地誌、精霊学、魔導理論、〈混沌〉について記した古文献。必要になる可能性がある」


「三十二冊全部か?」


「ある」


「絶対か?」


「……おそらく」


「減らせ」


「嫌だ」


 二人が睨み合う。


 ローゼンは困ったように双方を見比べていた。


 そこへ、さらに別の声が飛んできた。


「三冊でいいよ」


 女の声だった。


 キースが振り返る。


 神殿外壁の陰に、一人の女が立っていた。


 いつからいたのか分からない。壁へ背を預け、腕を組んでこちらを眺めている。


 マーカスほどではないが背は高い。旅用の軽装に、身体の動きを邪魔しない革鎧。腰には細身の柄があった。


 ただし、普通の剣にしては鞘が妙に長く、しかも薄い。


 黒髪は無造作に後ろで束ねられている。端正な顔立ちではあるが、笑っていないと少々近寄りがたい。


「三冊?」


 キースが問い返す。


「一冊は魔導。もう一冊は北方の地図。最後は好きなの持ちな。夜、眠れないときに読む用さ」


「そんな乱暴な分類があるか」


「旅の途中で本棚を作る気かい?」


「必要な知識が――」


「頭に入ってるんだろ?」


 言葉を切られた。


「世界一の魔導士様なんだから」


 口調には、明らかな棘があった。


 キースは眉をひそめる。


「君は?」


「シビウ」


 それだけ告げると、女は壁から身体を離した。


「もう一人の護衛さ」


 マーカスが露骨に嫌そうな顔をした。


「聞いてねえぞ」


「あたしもさ」


「なんでお前が来るんだ」


「こっちの台詞だよ。爺さんは腕の立つ護衛を二人寄越すって言っただけで、あんただとは一言も言わなかった」


「俺だってお前と長旅するって知ってたら、もう少し考えた」


「何をだい?」


「断る理由を」


「へえ。よかったじゃないか。今からでも帰れば?」


「お前が帰れ」


「あんたが帰んな」


 出会って十呼吸も経たないうちに、喧嘩が始まった。


 キースは呆気に取られる。


 ローゼンが、そっと彼の袖を引いた。


「お知り合いなのでしょうか」


「どう見てもそうだろう」


「仲がおよろしいのですね」


 次の瞬間、シビウとマーカスの声がぴたりと重なった。


「よくない!」


 ローゼンが驚いて瞬く。


 キースは額を押さえた。


「……本当に、この二人で大丈夫なのか」


「大丈夫ですよ」


 背後からアースバドの声がした。


 いつの間にか老名誉神官が石段を降りてきていた。旅立ちを見送るためだろう。正式な神官服ではなく、厚手の灰色外套を羽織っている。


「二人とも腕は確かです」


「腕以外に問題があるようにしか見えないが」


「旅人というものは、少々問題があるくらいの方が長生きするのでございます」


「どういう理屈だ」


「私にも分かりませぬ」


「分からないのか」


 アースバドは咳払いをし、二人の護衛へ目を向けた。


「喧嘩はそこまでになさい」


 シビウは老人へ一瞥をくれる。


「別に喧嘩なんかしてないよ」


「そうだぞ。挨拶みたいなもんだ」


「それを喧嘩と呼ぶのです」


 アースバドはため息を吐いた。


「キース様。こちらの二人は以前、同じ傭兵団に所属しておりました。危険地帯の護衛経験も多く、北方街道も何度か通っております」


「同じ傭兵団?」


 キースは二人を見る。


「それだけか?」


 なぜか微妙な沈黙が落ちた。


 マーカスが頭を掻き、シビウが露骨に嫌な顔をする。


 アースバドは平然と続けた。


「元夫婦です」


「爺さん!」


「余計なこと言うんじゃないよ!」


 また二人の声が重なる。


 キースは思わず二人を見比べた。


「元、夫婦?」


「昔の話だ」


 マーカスが言う。


「大昔だよ」


 シビウが重ねる。


「そんなに昔でもないだろ」


「あたしには昔なんだよ」


「都合の悪いことだけ昔にするな」


「誰のせいで昔になったと思ってんだい?」


「ほら、そういう話になる!」


「始めたのはあんただろ!」


 再び喧嘩が始まる。


 だが、奇妙だった。


 口では互いを追い返そうとし、視線も険しい。


 それなのにシビウは、いつの間にかマーカスの斧に結ばれていた革紐の緩みに気づき、話しながら指で示している。マーカスも文句を言いながら結び直した。


 反対に、シビウの荷袋の留め金が外れかけていることへマーカスが気づき、黙って手を伸ばす。


「触るんじゃないよ」


「落とすぞ」


「自分でやる」


「じゃあやれ」


 悪態をつきながら、互いの装備をきちんと見ている。


 キースは、少しだけ分かった気がした。


 仲が悪い。


 おそらく、それは本当だ。


 だが、相手のことを信用していないわけではない。


 別れた理由と、戦場で背中を預けられるかどうかは別の話なのだろう。


「面白い方々ですね」


 ローゼンが微笑む。


「君は何でも好意的に見るな」


「よくないことでしょうか」


「時と場合による」


 その間にも、マーカスは荷箱を勝手に選別し始めていた。


「これは置いてくぞ」


「香油ですね」


「いらん」


「これは?」


「祭礼法衣」


「いらん」


「これは?」


「銀食器」


「論外」


 神官たちが悲鳴を上げる。


「待ってください!」


「これは神官長様の――」


「道中で野盗に襲われて銀食器を奪われるくらいなら、最初から持っていかない方がいい」


「お前、ずいぶん現実的だな」


 キースが感心すると、マーカスは笑った。


「道の上じゃ、持ってる物全部が重さになるからな。金も食料も武器も、本もだ」


「本だけ妙に強調したな」


「気のせいだ」


 キースは渋々、三十二冊から持っていく本を選び始めた。


 一冊目は北方大陸地誌。


 二冊目は古代魔導構造論。


 三冊目は、アムドア関連記録の写しを綴じた自作ノート。


「三冊だ」


 シビウが言った。


「これは本ではない。ノートだ」


「四冊目扱いにするよ」


「理不尽だな」


「外の世界はだいたい理不尽さ」


 シビウはそう言って、荷馬車の縁へ腰を預けた。


 キースはその腰にある剣へ目を向ける。


「その武器は?」


「ああ?」


「普通の剣ではないだろう」


「目だけはいいね」


 シビウは鞘から剣を抜いた。


 澄んだ金属音が響く。


 現れた刃を見て、キースは目を細めた。


 細い。


 異様なほどに。


 長剣ほどの長さがあるにもかかわらず、刃は幾つもの節へ分かれている。


 シビウが手首を軽く返した。


 すると一本の剣だった刃が、しゃらりと音を立ててほどけた。


「これは……」


 節と節を結ぶのは、細い魔導線。


 刃全体が鞭のようにしなっている。


 刃の鞭。


 だが再び彼女が手を返すと、ばらけていた節が瞬時に噛み合い、一振りの剣へ戻った。


「《踊る剣》――ダンシングソード」


 シビウは言った。


「親父の形見さ」


「魔導具か」


「ああ」


「かなり精巧だ。魔導線の伸縮と硬化を瞬時に切り替えているのか? しかも術者が魔力を送り続けなくても形状を――」


「待った待った」


 シビウが手を上げる。


「急に元気になるんじゃないよ。あたしは理屈なんざ知らない」


「だが、使っているなら機構くらいは」


「斬れりゃいい」


「よくないだろう」


「いいんだよ」


「壊れたらどうする」


「直せる奴を探す」


「魔導具をそんな扱いで――」


 シビウは呆れたようにマーカスを見る。


「こいつ、いつもこうなのかい?」


「今日初めて会った」


「じゃあ、あんたに聞いたあたしが馬鹿だったよ」


 マーカスが笑う。


「お似合いじゃねえか。口うるさい同士で」


「斬るよ」


「ほら怖え」


 口では怯えながら、マーカスは少しも身構えない。シビウも本気で刃を向けることはなかった。


 キースはもう一度、ダンシングソードを見る。


 魔導具。


 当然、その使い手も魔導士なのだろうと思った。


「君もイースを持っているのか?」


 その瞬間、シビウの表情が変わった。


 ほんのわずかだった。


 だが先ほどまでの喧嘩腰とは違う、硬い何かが瞳の奥をよぎった。


「持ってないよ」


「では、その剣はどうやって?」


「魔導具は何でも使い手が魔導士じゃなきゃ動かない、なんて決まりはないだろ」


「もちろん物による。蓄積式なら――」


「あたしの親父が魔導士だったんだ」


 キースは口を閉ざした。


 シビウは剣を鞘へ戻す。


「魔導具作りが得意な男だった。だから、これはあたしでも使えるように作ってある」


「そうだったのか」


「ああ」


 それで話は終わりだと言わんばかりに、彼女は荷馬車へ目を向けた。


 しかしキースは、ふと疑問を覚えた。


 メミスでは、イースを持つ魔導士の血筋は厳しく管理される。


 力が必ず遺伝するわけではない。それでも魔導士の子は、次代にイースを残す可能性のある者として扱われる。


 シビウの父が魔導士だったなら――。


「君の家も、魔導士の家系だったのか?」


「キース様」


 ローゼンが小さく彼を呼んだ。


 止めようとしたのだろう。


 だが、遅かった。


 シビウはキースを正面から見た。


「家系、ねえ」


 口元には笑みがある。


 目は笑っていない。


「あんたにゃ、そういうふうに見えるのか」


「どういう意味だ?」


「別に」


 シビウは肩をすくめた。


「親父にはイースがあった。あたしにはなかった。それだけさ」


 短い言葉だった。


 だが、その《それだけ》の中に何かが沈んでいる。


 キースにも分かった。


 それ以上、聞くべきではない。


 そう思った。


 だが――。


「イースがなくても、魔導士の子なら――」


 口にしてから、自分が何を言おうとしたのかに気づいた。


 家に守られるのではないか。


 魔導士の血筋なら、少なくとも生活には困らなかったのではないか。


 その程度の認識だった。


 シビウが乾いた笑いを漏らす。


「坊や」


 初めて、そう呼ばれた。


「あんた、本当に神殿の中しか知らないんだね」


 胸を刺されたような気がした。


「私は――」


「魔導士の家に生まれたからって、魔導士になれるとは限らない。イースがなきゃ、そこで終わりさ」


 その言葉には、重い実感があった。


「力のない子どもを、家が大事にしてくれるとも限らない」


 キースは何も言えなくなった。


 シビウはそれ以上、過去を語らなかった。


 ただ腰の剣へ、一度だけ手を触れる。


 それだけで、彼女にとって父親とこの剣がどれほど特別なのかは伝わった。


 マーカスも口を挟まない。


 いつもなら何か冗談を言いそうな男が、黙っている。


 きっと彼は知っているのだろう。


 シビウが、何を言わなかったのかまで。


「……悪かった」


 キースが言った。


 シビウが少し驚いた顔をする。


「何が」


「無神経だった」


「ああ」


 あっさり認められた。


「そこは否定してくれてもいいだろう」


「なんでさ。本当だろ?」


 キースは苦笑する。


「そうだな」


「でも、謝れるだけマシか」


「ずいぶん上からだな」


「あんたが今まで上にいすぎただけだよ」


 シビウの視線が、キースの神官長用旅装へ落ちる。


 金銀の装飾は極力外したものの、布地も仕立ても上等だ。


「生まれたときから神官長になるって決まってて、生まれたときからイースがあって、しかも馬鹿みたいに強い魔導力まで持ってた」


「馬鹿みたい、は余計だ」


「世界一なんだろ?」


「魔導力だけなら、と言われている」


「同じようなもんさ」


「違う」


「外じゃ誰も気にしないよ」


 シビウは荷馬車から身体を起こした。


「世界一だろうが何だろうが、外で死んだらただの死体さ」


 キースは黙った。


 ずいぶんな言葉だった。


 神殿の中なら、誰も彼へそんなことは言わない。


 神官長。世界一の魔導士。月神殿の血統。メミスの未来。


 いつだってキースには、役割や価値を示す言葉がついて回った。


 けれど、死ねばただの死体。


 乱暴で、品もない。


 それでも妙に嘘がなかった。


「シビウ」


 マーカスが横から言った。


「最初から脅かすなよ」


「脅してないさ。教えてやってんだよ」


「言い方ってもんがあるだろ」


「あんたが言うかい」


「俺はこう見えて繊細なんだぞ」


「その斧で繊細とか言われてもねえ」


「斧に罪はない」


「持ってる奴に問題があるんだよ」


「はいはい。昔から口が減らねえな」


「昔からなのは、あんたのその能天気さだろ」


 また始まった。


 だが今度は、キースも少しだけ笑えた。


 ローゼンも楽しそうだった。


 アースバドは額へ手を当てている。


「本当に、この護衛で大丈夫なのか……」


 キースが呟く。


 老人は疲れたように答えた。


「腕だけは保証いたします」


「そこだけ何度も強調するのが怖い」


「腕以外は、ご自分でお確かめください」


 完全に他人事だった。


          *


 荷物を半分近くまで減らした頃には、朝日はすっかり昇っていた。


 旅に使うのは、幌を張った四輪馬車一台。


 御者台にはマーカス。シビウは最初、後方を警戒するため荷台へ乗るという。キースとローゼンも馬車に乗る。


 本来なら護衛兵をさらに数名つける案もあったが、大人数になれば移動が遅くなり、目立ちすぎる。国外では神官長としての権威が、かえって危険を呼ぶこともある。


 そのため表向きは、北方調査へ向かう神殿学者の一行ということになった。


 キースは最後に、神殿を振り返った。


 白い壁。高い塔。銀色の月章。


 十八年間、ほとんどの時間をこの中で過ごした。


 外から神殿を見ることさえ、そう多くはない。


 不思議だった。


 中から見れば世界の中心のように思えた建物が、門の外へ数歩出ただけで、一つの大きな建物に見える。


「怖くなったか?」


 シビウが訊いた。


「少し」


 キースは正直に答えた。


「へえ」


「何だ」


「神官長様でも怖いって言うんだね」


「怖いものくらいある」


「なら結構」


「なぜ」


「怖いのを知らない奴は、早死にするからさ」


 キースは彼女を見る。


「君は怖くないのか」


「怖いよ」


 即答だった。


 意外だった。


「怪物も怖い。崖も怖い。毒も怖い。腹を空かせるのも嫌だし、夜道だって嫌いさ」


「そうは見えない」


「見せてどうすんの」


 シビウは笑った。


「怖いから剣を抜く。怖いから逃げ道を見る。怖いから、死なないようにするんだ」


「……なるほど」


「本に書いてなかった?」


「少なくとも、その言い方では」


「じゃあ一つ賢くなったね」


 シビウが馬車の後部へ飛び乗る。


「授業料は護衛代に入れとくよ」


「高そうだな」


「あたしは安くないよ」


「知ってるぞ」


 御者台からマーカスが言った。


「結婚してた頃から金が――」


 ダンシングソードの鞘が飛んだ。


「おわっ!」


 マーカスが首を伏せ、鞘が頭上を通り過ぎる。


「今度それ言ったら刃付きで飛ばすよ!」


「危ねえだろ!」


「当ててないだろ!」


「そういう問題じゃねえ!」


「今のはわざと外したのでございますか?」


 ローゼンが感心している。


「ああ。あいつ、あのくらいなら目つぶってても外せるぞ」


「へえ」


「余計な解説すんな!」


 また怒鳴り声が響く。


 キースはとうとう声を上げて笑った。


 神殿の者たちが驚いて彼を見る。


 自分でも、少し驚いた。


 こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


「キース」


 声がした。


 石段の上に、巫女が立っていた。


 正式な見送りの祭儀は行わないと決めたため、祭衣ではなく白い普段着だった。それでも周囲の者たちは自然に道を空ける。


 キースは馬車へ乗る前に、彼女のもとへ歩いた。


「見送りには来ないんじゃなかったのか」


「気が変わった」


「神託か?」


「来ておらぬ」


「だろうな」


 巫女は笑った。


 それからキースの外套の襟を直す。


 幼い頃へ戻ったような仕草だった。


「本当に三冊にしたのか?」


「三冊とノート一冊」


「シビウ殿に感謝せねばならぬな」


「なぜ知ってる」


「上から見ておった」


「趣味が悪いぞ」


「弟の旅立ちじゃ。見物くらいする」


 巫女はそう言って、少しだけ声を落とした。


「帰ってこい」


「ああ」


「約束じゃぞ」


「しただろう」


「もう一度しておけ」


 キースは彼女を見る。


 名前のない巫女。


 役目だけで呼ばれる、自分の双子。


「帰ってくる」


「よし」


 それだけで満足したらしい。


 巫女はキースの背中を軽く押した。


「行け」


 キースは石段を下り、馬車へ乗る。


 ローゼンがその隣へ腰を下ろし、シビウは後方へ。御者台ではマーカスが手綱を握った。


「忘れ物は?」


「ない」


「本当に?」


「たぶん」


「旅に出てから思い出すのが忘れ物ってやつだ」


 マーカスが笑う。


「じゃ、行くぞ」


 手綱が鳴った。


 二頭の馬が歩き始め、車輪が石畳を転がる。


 ごとり、と一度。


 たったそれだけの音なのに、キースの胸が大きく鳴った。


 神殿の正門を抜ける。


 その先には、メミスの市街が広がっていた。


 朝の市場。水を運ぶ女。焼きたてのパンを並べる店。家畜を追う少年。


 何度も書物で読んだ光景。


 同じ都に暮らしていながら、キースにはほとんど縁のなかった日常だった。


 人々が馬車に気づき、頭を下げる。神官長だと知っている者もいれば、知らずに珍しそうに眺めるだけの者もいる。


 やがて、市街の道が広くなった。


 正面には、メミスを囲む巨大な城門。


 その向こうに空が見える。


 キースは息を呑んだ。


 窓から切り取られた空ではない。


 神殿の中庭から見上げる空でもない。


 城壁の外へ、そのまま続いている空だった。


 馬車が門を抜ける。


 風が吹いた。


 土の匂いがした。


 家畜。草。遠くの畑。朝露。


 どれも知識としてなら知っている。


 だが、本物の匂いは一行も本に書かれていなかった。


「どうしたんですか、キース様」


 ローゼンが尋ねる。


「いや……」


 キースは答えながら、後ろを振り返った。


 城壁が少しずつ遠ざかっていく。


 その向こうには、神殿の塔が見えている。


 世界一の魔導士。


 神官長。


 月神の血統。


 メミスの政治を担う者。


 そんな名や役目をすべて乗せたまま、馬車は進んでいく。


 けれど城壁を出れば、シビウの言った通りなのかもしれない。


 自分が誰であろうと、道は平らになってくれない。


 怪物はこちらの身分を知らない。雨も寒さも飢えも、神官長だからと避けてはくれない。


 それを怖いと思った。


 同時に、胸の奥が奇妙なほど高鳴っていた。


「外ってのはな」


 御者台のマーカスが、前を向いたまま言った。


「思ってるより広いぞ」


「知っている」


 キースは答えた。


「地図では」


 マーカスが振り返り、大笑いする。


「じゃあ、今日から本物を覚えりゃいい!」


 シビウが鼻を鳴らした。


「その前に死ななきゃね」


「縁起でもないこと言うなよ」


「事実だろ」


「お前は本当に情緒ってもんが――」


「うるさいよ」


 二人の喧嘩声を乗せて、馬車は街道を北へ進んでいく。


 ローゼンの白い髪が風に揺れ、その中には微かに薔薇の香りが混じっていた。


 キースはもう一度だけ、遠ざかるメミスを見た。


 そして今度こそ、前を向いた。


 彼が本でしか知らなかった世界は、すでに頁の外で始まっていた。

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