第五章 護衛は元夫婦
旅立ちの朝、キースは荷物の多さをめぐって神官たちと揉めていた。
「ですから、これは必要ありません」
「必要でございます」
「銀食器が?」
「神官長たる御身が、旅先で木匙をお使いになるわけにはまいりません」
「使えるなら何でもいいだろう」
「よくございません」
神殿正門前にはまだ朝靄が残り、白い石畳を淡く霞ませていた。
旅装を整えたキースとローゼンの傍らには、大小さまざまな荷箱が積み上げられている。
衣類、祭具、薬箱、魔導書、食料、予備の靴、天幕、毛布、水壺。そこまではキースにも理解できた。
だが銀器一式、装飾付き燭台、神官長専用の洗面器、祭礼用法衣三組、果ては香油を詰めた小箱まで並べられているとなれば、さすがに話が違う。
「私は巡礼に行くのではないんだぞ」
「国外へ赴かれる以上、神官長としての格式を保つ場面もありましょう」
「〈混沌〉に呑まれそうになったとき、銀杯を持っていれば格式が守れるのか?」
荷造りを担当した神官は、さすがに言葉を失った。
少し離れた場所では、ローゼンが積み上がった荷物を興味深そうに眺めている。
「人間の旅には、ずいぶん多くの物が必要なのですね」
「必要ない物まで持たせようとしているんだ」
「しかし、どれも大切そうに見えます」
「燭台が?」
「美しいです」
「君まで向こう側につかないでくれ」
キースが頭を抱えた、そのときだった。
石段の下から豪快な笑い声が響く。
「はっはっは! こりゃあいい。北へ旅に出るって聞いて来てみりゃ、神官長様は引っ越しでもするつもりか!」
声とともに、一人の大男が坂を上がってきた。
背が高い。それ以上に横幅がある。
厚い胸板に、丸太のような腕。日に焼けた顔には無精髭が浮かび、旅装の革鎧は細かな傷に覆われていた。
右肩には巨大な戦斧を軽々と担いでいる。斧頭だけでキースの胸ほどの大きさがあり、この男が本気で振り回せば、人間どころか馬まで両断できそうだった。
「お前がマーカスか」
キースが尋ねる。
「おう」
男は斧を肩から下ろし、石畳へ立てた。
ごつん、と重い音が響く。
「アースバド爺さんに雇われた。マーカスだ。護衛、道案内、荷馬車の修理、火起こし、野営地探し。まあ、その辺は一通りできる」
「ずいぶん幅広いな」
「旅先じゃ『それは俺の仕事じゃない』なんて言ってたら死ぬからな」
さらりと言われ、キースは返事に詰まった。
神殿の中では、役目は細かく分けられている。
神官には神官の仕事があり、女官には女官の仕事がある。料理人、衛兵、厩番、書記官。それぞれが自分の役目をこなせば、生活は滞りなく回る。
外では違うらしい。
「それで」
マーカスはキースの後ろを覗き込んだ。
「どれを捨てる?」
「捨てる?」
「荷物だよ」
当然のように言う。
「馬車一台で行くって聞いてるぞ。この量じゃ二台でも足りん」
荷造りを担当した神官が慌てた。
「捨てるなどと! すべて神官長様に必要な品で――」
「じゃあ、あんたが背負って歩くか?」
「わ、私が?」
「ああ。山道で車輪が沈んだら、馬車から下ろして担ぐんだ。そんときゃ手伝ってくれるんだろ?」
「……」
「なら減らせ」
神官は黙った。
キースは、初対面の男にわずかな好感を覚えた。
「話が早くて助かる」
「だろ?」
「ただし、本は減らさない」
マーカスの顔から笑みが消えた。
「何冊ある」
「三十二冊」
「減らせ」
「断る」
「今、話が早いって言ったばかりじゃねえか!」
「資料だ。北方の地誌、精霊学、魔導理論、〈混沌〉について記した古文献。必要になる可能性がある」
「三十二冊全部か?」
「ある」
「絶対か?」
「……おそらく」
「減らせ」
「嫌だ」
二人が睨み合う。
ローゼンは困ったように双方を見比べていた。
そこへ、さらに別の声が飛んできた。
「三冊でいいよ」
女の声だった。
キースが振り返る。
神殿外壁の陰に、一人の女が立っていた。
いつからいたのか分からない。壁へ背を預け、腕を組んでこちらを眺めている。
マーカスほどではないが背は高い。旅用の軽装に、身体の動きを邪魔しない革鎧。腰には細身の柄があった。
ただし、普通の剣にしては鞘が妙に長く、しかも薄い。
黒髪は無造作に後ろで束ねられている。端正な顔立ちではあるが、笑っていないと少々近寄りがたい。
「三冊?」
キースが問い返す。
「一冊は魔導。もう一冊は北方の地図。最後は好きなの持ちな。夜、眠れないときに読む用さ」
「そんな乱暴な分類があるか」
「旅の途中で本棚を作る気かい?」
「必要な知識が――」
「頭に入ってるんだろ?」
言葉を切られた。
「世界一の魔導士様なんだから」
口調には、明らかな棘があった。
キースは眉をひそめる。
「君は?」
「シビウ」
それだけ告げると、女は壁から身体を離した。
「もう一人の護衛さ」
マーカスが露骨に嫌そうな顔をした。
「聞いてねえぞ」
「あたしもさ」
「なんでお前が来るんだ」
「こっちの台詞だよ。爺さんは腕の立つ護衛を二人寄越すって言っただけで、あんただとは一言も言わなかった」
「俺だってお前と長旅するって知ってたら、もう少し考えた」
「何をだい?」
「断る理由を」
「へえ。よかったじゃないか。今からでも帰れば?」
「お前が帰れ」
「あんたが帰んな」
出会って十呼吸も経たないうちに、喧嘩が始まった。
キースは呆気に取られる。
ローゼンが、そっと彼の袖を引いた。
「お知り合いなのでしょうか」
「どう見てもそうだろう」
「仲がおよろしいのですね」
次の瞬間、シビウとマーカスの声がぴたりと重なった。
「よくない!」
ローゼンが驚いて瞬く。
キースは額を押さえた。
「……本当に、この二人で大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ」
背後からアースバドの声がした。
いつの間にか老名誉神官が石段を降りてきていた。旅立ちを見送るためだろう。正式な神官服ではなく、厚手の灰色外套を羽織っている。
「二人とも腕は確かです」
「腕以外に問題があるようにしか見えないが」
「旅人というものは、少々問題があるくらいの方が長生きするのでございます」
「どういう理屈だ」
「私にも分かりませぬ」
「分からないのか」
アースバドは咳払いをし、二人の護衛へ目を向けた。
「喧嘩はそこまでになさい」
シビウは老人へ一瞥をくれる。
「別に喧嘩なんかしてないよ」
「そうだぞ。挨拶みたいなもんだ」
「それを喧嘩と呼ぶのです」
アースバドはため息を吐いた。
「キース様。こちらの二人は以前、同じ傭兵団に所属しておりました。危険地帯の護衛経験も多く、北方街道も何度か通っております」
「同じ傭兵団?」
キースは二人を見る。
「それだけか?」
なぜか微妙な沈黙が落ちた。
マーカスが頭を掻き、シビウが露骨に嫌な顔をする。
アースバドは平然と続けた。
「元夫婦です」
「爺さん!」
「余計なこと言うんじゃないよ!」
また二人の声が重なる。
キースは思わず二人を見比べた。
「元、夫婦?」
「昔の話だ」
マーカスが言う。
「大昔だよ」
シビウが重ねる。
「そんなに昔でもないだろ」
「あたしには昔なんだよ」
「都合の悪いことだけ昔にするな」
「誰のせいで昔になったと思ってんだい?」
「ほら、そういう話になる!」
「始めたのはあんただろ!」
再び喧嘩が始まる。
だが、奇妙だった。
口では互いを追い返そうとし、視線も険しい。
それなのにシビウは、いつの間にかマーカスの斧に結ばれていた革紐の緩みに気づき、話しながら指で示している。マーカスも文句を言いながら結び直した。
反対に、シビウの荷袋の留め金が外れかけていることへマーカスが気づき、黙って手を伸ばす。
「触るんじゃないよ」
「落とすぞ」
「自分でやる」
「じゃあやれ」
悪態をつきながら、互いの装備をきちんと見ている。
キースは、少しだけ分かった気がした。
仲が悪い。
おそらく、それは本当だ。
だが、相手のことを信用していないわけではない。
別れた理由と、戦場で背中を預けられるかどうかは別の話なのだろう。
「面白い方々ですね」
ローゼンが微笑む。
「君は何でも好意的に見るな」
「よくないことでしょうか」
「時と場合による」
その間にも、マーカスは荷箱を勝手に選別し始めていた。
「これは置いてくぞ」
「香油ですね」
「いらん」
「これは?」
「祭礼法衣」
「いらん」
「これは?」
「銀食器」
「論外」
神官たちが悲鳴を上げる。
「待ってください!」
「これは神官長様の――」
「道中で野盗に襲われて銀食器を奪われるくらいなら、最初から持っていかない方がいい」
「お前、ずいぶん現実的だな」
キースが感心すると、マーカスは笑った。
「道の上じゃ、持ってる物全部が重さになるからな。金も食料も武器も、本もだ」
「本だけ妙に強調したな」
「気のせいだ」
キースは渋々、三十二冊から持っていく本を選び始めた。
一冊目は北方大陸地誌。
二冊目は古代魔導構造論。
三冊目は、アムドア関連記録の写しを綴じた自作ノート。
「三冊だ」
シビウが言った。
「これは本ではない。ノートだ」
「四冊目扱いにするよ」
「理不尽だな」
「外の世界はだいたい理不尽さ」
シビウはそう言って、荷馬車の縁へ腰を預けた。
キースはその腰にある剣へ目を向ける。
「その武器は?」
「ああ?」
「普通の剣ではないだろう」
「目だけはいいね」
シビウは鞘から剣を抜いた。
澄んだ金属音が響く。
現れた刃を見て、キースは目を細めた。
細い。
異様なほどに。
長剣ほどの長さがあるにもかかわらず、刃は幾つもの節へ分かれている。
シビウが手首を軽く返した。
すると一本の剣だった刃が、しゃらりと音を立ててほどけた。
「これは……」
節と節を結ぶのは、細い魔導線。
刃全体が鞭のようにしなっている。
刃の鞭。
だが再び彼女が手を返すと、ばらけていた節が瞬時に噛み合い、一振りの剣へ戻った。
「《踊る剣》――ダンシングソード」
シビウは言った。
「親父の形見さ」
「魔導具か」
「ああ」
「かなり精巧だ。魔導線の伸縮と硬化を瞬時に切り替えているのか? しかも術者が魔力を送り続けなくても形状を――」
「待った待った」
シビウが手を上げる。
「急に元気になるんじゃないよ。あたしは理屈なんざ知らない」
「だが、使っているなら機構くらいは」
「斬れりゃいい」
「よくないだろう」
「いいんだよ」
「壊れたらどうする」
「直せる奴を探す」
「魔導具をそんな扱いで――」
シビウは呆れたようにマーカスを見る。
「こいつ、いつもこうなのかい?」
「今日初めて会った」
「じゃあ、あんたに聞いたあたしが馬鹿だったよ」
マーカスが笑う。
「お似合いじゃねえか。口うるさい同士で」
「斬るよ」
「ほら怖え」
口では怯えながら、マーカスは少しも身構えない。シビウも本気で刃を向けることはなかった。
キースはもう一度、ダンシングソードを見る。
魔導具。
当然、その使い手も魔導士なのだろうと思った。
「君もイースを持っているのか?」
その瞬間、シビウの表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だが先ほどまでの喧嘩腰とは違う、硬い何かが瞳の奥をよぎった。
「持ってないよ」
「では、その剣はどうやって?」
「魔導具は何でも使い手が魔導士じゃなきゃ動かない、なんて決まりはないだろ」
「もちろん物による。蓄積式なら――」
「あたしの親父が魔導士だったんだ」
キースは口を閉ざした。
シビウは剣を鞘へ戻す。
「魔導具作りが得意な男だった。だから、これはあたしでも使えるように作ってある」
「そうだったのか」
「ああ」
それで話は終わりだと言わんばかりに、彼女は荷馬車へ目を向けた。
しかしキースは、ふと疑問を覚えた。
メミスでは、イースを持つ魔導士の血筋は厳しく管理される。
力が必ず遺伝するわけではない。それでも魔導士の子は、次代にイースを残す可能性のある者として扱われる。
シビウの父が魔導士だったなら――。
「君の家も、魔導士の家系だったのか?」
「キース様」
ローゼンが小さく彼を呼んだ。
止めようとしたのだろう。
だが、遅かった。
シビウはキースを正面から見た。
「家系、ねえ」
口元には笑みがある。
目は笑っていない。
「あんたにゃ、そういうふうに見えるのか」
「どういう意味だ?」
「別に」
シビウは肩をすくめた。
「親父にはイースがあった。あたしにはなかった。それだけさ」
短い言葉だった。
だが、その《それだけ》の中に何かが沈んでいる。
キースにも分かった。
それ以上、聞くべきではない。
そう思った。
だが――。
「イースがなくても、魔導士の子なら――」
口にしてから、自分が何を言おうとしたのかに気づいた。
家に守られるのではないか。
魔導士の血筋なら、少なくとも生活には困らなかったのではないか。
その程度の認識だった。
シビウが乾いた笑いを漏らす。
「坊や」
初めて、そう呼ばれた。
「あんた、本当に神殿の中しか知らないんだね」
胸を刺されたような気がした。
「私は――」
「魔導士の家に生まれたからって、魔導士になれるとは限らない。イースがなきゃ、そこで終わりさ」
その言葉には、重い実感があった。
「力のない子どもを、家が大事にしてくれるとも限らない」
キースは何も言えなくなった。
シビウはそれ以上、過去を語らなかった。
ただ腰の剣へ、一度だけ手を触れる。
それだけで、彼女にとって父親とこの剣がどれほど特別なのかは伝わった。
マーカスも口を挟まない。
いつもなら何か冗談を言いそうな男が、黙っている。
きっと彼は知っているのだろう。
シビウが、何を言わなかったのかまで。
「……悪かった」
キースが言った。
シビウが少し驚いた顔をする。
「何が」
「無神経だった」
「ああ」
あっさり認められた。
「そこは否定してくれてもいいだろう」
「なんでさ。本当だろ?」
キースは苦笑する。
「そうだな」
「でも、謝れるだけマシか」
「ずいぶん上からだな」
「あんたが今まで上にいすぎただけだよ」
シビウの視線が、キースの神官長用旅装へ落ちる。
金銀の装飾は極力外したものの、布地も仕立ても上等だ。
「生まれたときから神官長になるって決まってて、生まれたときからイースがあって、しかも馬鹿みたいに強い魔導力まで持ってた」
「馬鹿みたい、は余計だ」
「世界一なんだろ?」
「魔導力だけなら、と言われている」
「同じようなもんさ」
「違う」
「外じゃ誰も気にしないよ」
シビウは荷馬車から身体を起こした。
「世界一だろうが何だろうが、外で死んだらただの死体さ」
キースは黙った。
ずいぶんな言葉だった。
神殿の中なら、誰も彼へそんなことは言わない。
神官長。世界一の魔導士。月神殿の血統。メミスの未来。
いつだってキースには、役割や価値を示す言葉がついて回った。
けれど、死ねばただの死体。
乱暴で、品もない。
それでも妙に嘘がなかった。
「シビウ」
マーカスが横から言った。
「最初から脅かすなよ」
「脅してないさ。教えてやってんだよ」
「言い方ってもんがあるだろ」
「あんたが言うかい」
「俺はこう見えて繊細なんだぞ」
「その斧で繊細とか言われてもねえ」
「斧に罪はない」
「持ってる奴に問題があるんだよ」
「はいはい。昔から口が減らねえな」
「昔からなのは、あんたのその能天気さだろ」
また始まった。
だが今度は、キースも少しだけ笑えた。
ローゼンも楽しそうだった。
アースバドは額へ手を当てている。
「本当に、この護衛で大丈夫なのか……」
キースが呟く。
老人は疲れたように答えた。
「腕だけは保証いたします」
「そこだけ何度も強調するのが怖い」
「腕以外は、ご自分でお確かめください」
完全に他人事だった。
*
荷物を半分近くまで減らした頃には、朝日はすっかり昇っていた。
旅に使うのは、幌を張った四輪馬車一台。
御者台にはマーカス。シビウは最初、後方を警戒するため荷台へ乗るという。キースとローゼンも馬車に乗る。
本来なら護衛兵をさらに数名つける案もあったが、大人数になれば移動が遅くなり、目立ちすぎる。国外では神官長としての権威が、かえって危険を呼ぶこともある。
そのため表向きは、北方調査へ向かう神殿学者の一行ということになった。
キースは最後に、神殿を振り返った。
白い壁。高い塔。銀色の月章。
十八年間、ほとんどの時間をこの中で過ごした。
外から神殿を見ることさえ、そう多くはない。
不思議だった。
中から見れば世界の中心のように思えた建物が、門の外へ数歩出ただけで、一つの大きな建物に見える。
「怖くなったか?」
シビウが訊いた。
「少し」
キースは正直に答えた。
「へえ」
「何だ」
「神官長様でも怖いって言うんだね」
「怖いものくらいある」
「なら結構」
「なぜ」
「怖いのを知らない奴は、早死にするからさ」
キースは彼女を見る。
「君は怖くないのか」
「怖いよ」
即答だった。
意外だった。
「怪物も怖い。崖も怖い。毒も怖い。腹を空かせるのも嫌だし、夜道だって嫌いさ」
「そうは見えない」
「見せてどうすんの」
シビウは笑った。
「怖いから剣を抜く。怖いから逃げ道を見る。怖いから、死なないようにするんだ」
「……なるほど」
「本に書いてなかった?」
「少なくとも、その言い方では」
「じゃあ一つ賢くなったね」
シビウが馬車の後部へ飛び乗る。
「授業料は護衛代に入れとくよ」
「高そうだな」
「あたしは安くないよ」
「知ってるぞ」
御者台からマーカスが言った。
「結婚してた頃から金が――」
ダンシングソードの鞘が飛んだ。
「おわっ!」
マーカスが首を伏せ、鞘が頭上を通り過ぎる。
「今度それ言ったら刃付きで飛ばすよ!」
「危ねえだろ!」
「当ててないだろ!」
「そういう問題じゃねえ!」
「今のはわざと外したのでございますか?」
ローゼンが感心している。
「ああ。あいつ、あのくらいなら目つぶってても外せるぞ」
「へえ」
「余計な解説すんな!」
また怒鳴り声が響く。
キースはとうとう声を上げて笑った。
神殿の者たちが驚いて彼を見る。
自分でも、少し驚いた。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
「キース」
声がした。
石段の上に、巫女が立っていた。
正式な見送りの祭儀は行わないと決めたため、祭衣ではなく白い普段着だった。それでも周囲の者たちは自然に道を空ける。
キースは馬車へ乗る前に、彼女のもとへ歩いた。
「見送りには来ないんじゃなかったのか」
「気が変わった」
「神託か?」
「来ておらぬ」
「だろうな」
巫女は笑った。
それからキースの外套の襟を直す。
幼い頃へ戻ったような仕草だった。
「本当に三冊にしたのか?」
「三冊とノート一冊」
「シビウ殿に感謝せねばならぬな」
「なぜ知ってる」
「上から見ておった」
「趣味が悪いぞ」
「弟の旅立ちじゃ。見物くらいする」
巫女はそう言って、少しだけ声を落とした。
「帰ってこい」
「ああ」
「約束じゃぞ」
「しただろう」
「もう一度しておけ」
キースは彼女を見る。
名前のない巫女。
役目だけで呼ばれる、自分の双子。
「帰ってくる」
「よし」
それだけで満足したらしい。
巫女はキースの背中を軽く押した。
「行け」
キースは石段を下り、馬車へ乗る。
ローゼンがその隣へ腰を下ろし、シビウは後方へ。御者台ではマーカスが手綱を握った。
「忘れ物は?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「旅に出てから思い出すのが忘れ物ってやつだ」
マーカスが笑う。
「じゃ、行くぞ」
手綱が鳴った。
二頭の馬が歩き始め、車輪が石畳を転がる。
ごとり、と一度。
たったそれだけの音なのに、キースの胸が大きく鳴った。
神殿の正門を抜ける。
その先には、メミスの市街が広がっていた。
朝の市場。水を運ぶ女。焼きたてのパンを並べる店。家畜を追う少年。
何度も書物で読んだ光景。
同じ都に暮らしていながら、キースにはほとんど縁のなかった日常だった。
人々が馬車に気づき、頭を下げる。神官長だと知っている者もいれば、知らずに珍しそうに眺めるだけの者もいる。
やがて、市街の道が広くなった。
正面には、メミスを囲む巨大な城門。
その向こうに空が見える。
キースは息を呑んだ。
窓から切り取られた空ではない。
神殿の中庭から見上げる空でもない。
城壁の外へ、そのまま続いている空だった。
馬車が門を抜ける。
風が吹いた。
土の匂いがした。
家畜。草。遠くの畑。朝露。
どれも知識としてなら知っている。
だが、本物の匂いは一行も本に書かれていなかった。
「どうしたんですか、キース様」
ローゼンが尋ねる。
「いや……」
キースは答えながら、後ろを振り返った。
城壁が少しずつ遠ざかっていく。
その向こうには、神殿の塔が見えている。
世界一の魔導士。
神官長。
月神の血統。
メミスの政治を担う者。
そんな名や役目をすべて乗せたまま、馬車は進んでいく。
けれど城壁を出れば、シビウの言った通りなのかもしれない。
自分が誰であろうと、道は平らになってくれない。
怪物はこちらの身分を知らない。雨も寒さも飢えも、神官長だからと避けてはくれない。
それを怖いと思った。
同時に、胸の奥が奇妙なほど高鳴っていた。
「外ってのはな」
御者台のマーカスが、前を向いたまま言った。
「思ってるより広いぞ」
「知っている」
キースは答えた。
「地図では」
マーカスが振り返り、大笑いする。
「じゃあ、今日から本物を覚えりゃいい!」
シビウが鼻を鳴らした。
「その前に死ななきゃね」
「縁起でもないこと言うなよ」
「事実だろ」
「お前は本当に情緒ってもんが――」
「うるさいよ」
二人の喧嘩声を乗せて、馬車は街道を北へ進んでいく。
ローゼンの白い髪が風に揺れ、その中には微かに薔薇の香りが混じっていた。
キースはもう一度だけ、遠ざかるメミスを見た。
そして今度こそ、前を向いた。
彼が本でしか知らなかった世界は、すでに頁の外で始まっていた。




