第四章 出発を許す神託は存在しない
翌朝、キースは神官会の円卓に一枚の古記録を置いた。
いつもの評議なら、農地の収穫量や税収、魔導士登録台帳が並ぶ卓である。そこへ、メミスではほとんど使われない粗い北方紙が置かれたことで、十三人の神官たちは揃って訝しげな顔をした。
さらに、円卓から少し離れた場所には、白髪の精霊が立っている。
ローゼンだった。
神殿へ仕える者たちにとって、精霊そのものが珍しいわけではない。古い盟約や祭儀を通じて、人ならざる者と接する機会はいまもある。
だが、昨日まで誰一人として存在を知らなかった精霊が、朝になって神官長に伴われて神官会へ現れたとなれば話は別だった。
しかも当のキースは、十三神官を前にして、開口一番こう告げた。
「私はメミスを出る」
沈黙が落ちた。
誰かが咳払いをする音さえない。
キースはそのまま続けた。
「北方へ向かう。まず精霊の里ラルソウムへ行き、そこから世界各地で発生している〈混沌〉について調べる」
今度こそ、円卓がざわめいた。
「お待ちください」
「神官長、それは――」
「北方と申されましたか?」
「ラルソウムなど、実在すら議論される土地ではありませんか」
「それより〈混沌〉とは、どういうことでございます」
声が次々に重なる。
キースは、彼らが静まるまで黙って待った。
昨夜はほとんど眠っていない。ローゼンが持参した古記録を何度も読み返し、自分の書庫にある北方地誌と照合した。年代記号の読み方も調べ、アムドアについて記した資料を、神殿書庫から可能な限り引っ張り出した。
何度確かめても、ひとつの事実だけは変わらなかった。
現在の《大穴》が生じたとされる年代よりも、この記録の方が古い。
ただし、それが何を意味するのかは分からない。
だからこそ、行く必要がある。
「まず、これを見てもらいたい」
キースは古記録を円卓の中央へ押し出した。
「アムドア封鎖地の地下から発見された石刻記録の写しだ。年代判定が正しければ、現在知られている《大穴》の発生より数百年前のものになる」
「数百年前?」
数人が身を乗り出す。
「その文面に、《アムドアの穴》という記述がある」
ざわめきが消えた。
神官たちは政治家であると同時に、神学と魔導を修めた者でもある。それが何を意味するのか、理解するまでに時間はかからなかった。
「後世の追記では?」
一人が訊いた。
「分からない」
キースは答える。
「年代判定そのものが誤っている可能性は?」
「ある」
「では、現在の《大穴》とは異なる何かを指している可能性も」
「ある」
神官の顔に困惑が浮かんだ。
「分からないことばかりではありませんか」
「ああ」
キースは頷いた。
「だから確かめに行く」
昨夜、ローゼンから聞いた言葉が、そのまま自分の口から出た。
分からないものを、分かったことにはしない。
当たり前のことのはずだった。
だが、この神殿では、ときとしてそれが何より難しい。
「それだけではない」
キースは続けた。
「世界各地で〈混沌〉の発生が増えている。アムドアでは都市と周辺一帯が失われ、現在も封鎖が続けられている。メミスでも土地が痩せ、魔導士が減り、魔導事故が増えている」
「それらが同一の原因によるものだと?」
「分からない」
「また、ですか」
「分からないことを、分からないと言っているだけだ」
皮肉ではなく答えた。
「関係がないのなら、それを確かめればいい。関係があるなら、なおさら知らなければならない」
キースはローゼンへ視線を送った。
彼女は一歩前へ出ると、神官たちへ丁寧に一礼する。
「改めてご挨拶申し上げます。わたくしは精霊の里にひとつ、ラルソウムより参りましたローゼンと申します」
「あなたはアムドアを直接見たのですか」
神官の一人が問う。
「いいえ。わたくし自身は、まだ」
「では伝聞ですね」
「左様でございます」
「大穴がいまなお拡大しているという話も?」
「封鎖地からラルソウムへ届いた報告に基づいております」
「その報告の信頼性は、誰が保証するのです」
問い詰めるような口調だった。
ローゼンは少し考えた。
「保証はできません」
神官が眉を上げる。
「ですが、保証できないからこそ、調べております」
あまりにも率直な答えだった。
キースは口元を緩めそうになった。
神官たちには、その簡潔さがかえって理解しづらかったらしい。
「つまり」
別の神官が言った。
「世界が滅びるかもしれないという確証のない話のために、我が国の神官長を北方へ連れ出そうというのですか?」
「いいえ」
ローゼンは即答した。
「わたくしがキース様を連れ出すのではございません」
十三人の視線が集まる。
「お決めになるのは、キース様です」
そのまま視線がキースへ移った。
「私が決めた」
キースは言う。
「行く」
「なりません!」
円卓を叩く乾いた音が響いた。
アースバドだった。
八十を越えてなお背筋の曲がらぬ老神官。現在は名誉神官へ退いているものの、若い頃には十三神官の席にも就き、今なお神殿内でその言葉を軽んじられる者は少ない。
何より、キースと巫女にとっては、幼い頃から教育を受けてきた相手だった。
「考え直されよ、キース様」
老人は本気で怒っていた。
「北方への旅がどれほど危険なものか、お分かりになっておられるのですか」
「本でなら」
「本!」
白い眉が跳ね上がる。
「旅は本の中を歩くことではございませんぞ!」
「分かっている」
「いいえ、分かっておられぬ!」
アースバドは退かなかった。
「神殿の外へ何度出られました」
「……数えるほどだ」
「国境を越えたことは?」
「ない」
「野営は?」
「ない」
「盗賊に襲われた経験は?」
「ない」
「旅先で怪物と戦った経験は?」
「ない」
「ならば何をもって、ご自分が北方まで旅できるとお考えなのです!」
すべて事実だった。
魔導なら知っている。北方についても知っている。旅に必要な装備も、道程も、野営の方法も、本でなら知っている。
だが、知っていることと経験したことは違う。
「それでも、行く必要がある」
キースは言った。
「なぜです」
「私が知りたいからだ」
一瞬、十三神官たちの顔が固まった。
国益。神命。使命。
もっと立派な理由を期待していたのだろう。
「もちろん、メミスのためにもなると思っている」
キースは続ける。
「〈混沌〉が本当に拡大しているなら、北方だけの問題では済まない。だが、それだけを理由にして立派なことを言うつもりはない」
古記録へ指先を置く。
「私は知りたい。この記録が何なのか。なぜ、数百年前の石に《アムドアの穴》と刻まれているのか」
昨夜読んだ報告書が脳裏をよぎる。
痩せる土地。減少する魔導士。崩れる術式。
「メミスで起きている異変と、世界で増えている〈混沌〉に関係があるのか」
そこで一度、言葉を切った。
本当なら、もう一つある。
――なぜムーミストは三百年間、答えないのか。
だが、その言葉だけは飲み込んだ。
ここにいる十三人は、その事実を知らない。
いま言うべきではない。
少なくとも、まだ。
「だから、自分の目で見たい」
キースは言った。
「本の中ではなく」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは、アースバドではない。
「ですが、神官長には別の問題がございます」
年嵩の神官が慎重に言った。
「御身は、御身だけのものではありません」
キースの顔がわずかに強張る。
何を言われるか、分かっていた。
「キース様には、まだ御子がおられない」
やはり、それだった。
「承知している」
「月神殿の祭祀継承は、アルセイドの血統に生まれる神官長と巫女、その二つの座によって維持されております。御二人が同じ祭祀血統から生まれる双生継承者であることは、キース様ご自身が何よりよくご存じのはず」
「だから何だ」
分かっていても、声が硬くなる。
神官は怯まずに続けた。
「神官長の座が空いたこと自体なら、過去にもございます」
キースは眉を動かした。
「先代が早くに亡くなり、次代がまだ幼かったため、神官長代行を置いた例もある。病や事故によって一時的に座が空き、神官会が行政を預かった時代もございました」
「知っている」
「巫女の座も同じです。祭礼実務を高位祭司が代行した記録は残っております。ただし、正式な巫女そのものを他家の者で代えることはできません」
円卓の何人かが静かに頷く。
これは脅しではない。
歴史の確認だった。
キースがいなくなっただけで、明日からメミスが滅びるわけではない。
神官会は残る。行政官も軍も残る。税は徴収され、街道は使われ、市場も開く。
実際、過去のメミスは神官長が不在でも国を動かしてきた。
だからこそ、次の言葉が重かった。
「ですが、今回は事情が違います」
老神官の視線がキースへ向く。
「キース様には、まだ次代がない」
キースは黙った。
「神官長が後継を残さぬまま旅先で亡くなれば、単に役職が一つ空くという話では済みません」
「それも知っている」
「では、その場合に何が起きるかも?」
「言わせたいのか」
声に苛立ちが混じる。
神官は一瞬ためらった。
だが、言わなければならないと判断したのだろう。
「必要とあらば、巫女様に御座を退いていただくことになります」
部屋の空気が重くなった。
ローゼンだけが、意味を測りかねているように静かに二人を見ている。
「巫女の座を退き、アルセイドの血統を次代へ繋ぐ側へ回っていただく。古くから定められた非常措置です」
「分かっている」
「一度その道を選ばれれば、巫女様は原則として、二度と正式な巫女へ戻ることはできません」
「分かっていると言っている!」
キースの声が円卓へ響いた。
誰も続けなかった。
知っている。
幼い頃から教えられてきた。
男児は神官長。
女児は巫女。
通常、次代を残すのは神官長側。
だからキースは婚姻を求められ、子を残せと言われ続けている。
そして彼が後継を持たぬまま死ねば、その義務は残された片割れへ移る。
巫女という役を捨てさせて。
彼女が望むかどうかに関係なく。
――守るためなら、檻を作ることも許される。
昨日、巫女が口にした言葉が蘇った。
キースが死ねば、国は残る。
だが、彼女の人生は変わる。
彼が神殿の外で命を落とした瞬間、メミスに残った双子の片割れへ、別の人生が制度によって割り当てられる。
そのことが、何より腹立たしかった。
「さらに言えば」
別の神官が静かに続けた。
「過去には、神官長と巫女を同じ世代でともに失った例もあります」
キースはそちらを見る。
「その際はアルセイドの傍系へ継承権を移し、次の双生継承者が生まれ、二つの座を担える年齢へ達するまで、長く神官会が実務を代行した」
「だから?」
「国は存続しました」
神官は率直に言った。
「我らは、神官長がおらねば何一つできぬとは申しません」
それは意外なほど冷静な言葉だった。
「ですが、存続できることと、何も失わないことは違う」
キースは答えなかった。
「二つの座が長く空けば、月神殿の祭祀上の正統性は揺らぎます。アルセイド本家の継承が断たれれば、傍系を巡る争いも起こり得る。巫女様が御座を退かれることになれば、月神殿は正式な巫女まで失う」
「……ああ」
「我々が恐れているのは、あなた一人がおらねば国政ができないからではありません」
老神官は言った。
「御身の死が、御身だけの死では済まぬからです」
その主張は、正しかった。
だから厄介だった。
古い制度にしがみつく老人たちが、意味もなく若者を閉じ込めようとしているだけなら、怒鳴りつけて終われる。
だが違う。
彼らは現実に存在する危険を語っている。
キースが死ねば困る。
継承制度も揺らぐ。
残された巫女の人生まで変える。
それを無視して旅立つことを、勇気と呼ぶつもりはなかった。
「……それでもだ」
キースは言った。
「それでも、行く」
「神官長」
「国が残ることは分かっている。私がいなくなれば、神官会が行政を預かることも、代行を立てることもできる」
一人ずつ見渡す。
「過去にそうしてきたのだから、今もできる」
「しかし――」
「だからといって、私の血統を守ることだけを理由に、世界で何が起きているのか目を閉じることはできない」
声はもう荒れていなかった。
「もし〈混沌〉が本当に拡大しているなら、メミスの継承制度が何百年続いていようと関係ない。国そのものが失われるかもしれない」
「『かもしれない』話でしょう!」
「だから確かめると言っている!」
キースも声を上げた。
「ここに座って子どもを作れば、世界が安全になるのか? アムドアの穴が閉じるのか? 魔導士が増えるのか? 枯れた葡萄が蘇るのか?」
「それとこれとは――」
「違わない」
キースは低く言った。
「私たちは、目の前にある制度を守ることばかり考えすぎている」
自分も含めて。
「何かが変われば、前例がないと言う。分からないことがあれば伏せる。民が不安になるからと、安心できる形へ整える」
朝の豊穣神託が脳裏をよぎる。
そこから先は言えない。
言えば、もっと深い嘘まで引きずり出してしまう。
「そして今度は、外で何が起きているか確かめることより、私の血を残す方が大事だと言うのか」
「国を守るためです!」
「国とは何だ!」
声が広間へ反響した。
「城壁か。神殿か。血統か。古い法律か」
キースは一度、息を吸う。
「そこに暮らしている人間ではないのか」
沈黙が落ちた。
キースは目を伏せる。
頭に血が上っている。それは自分でも分かっていた。
神官たちの懸念は間違っていない。
自分が死ねば、国そのものは残っても、継承制度は大きく揺らぐ。
そして何より、ここに残る巫女の人生まで、自分の死によって制度へ差し出される。
だから簡単ではない。
だからこそ、誰かが決めなくてはならない。
そのときだった。
「では」
一人の神官が、慎重に口を開いた。
「月神ムーミスト様へ、伺いを立ててはいかがでしょう」
キースの呼吸が、一瞬止まった。
「……何?」
「我ら人の考えだけでは結論が出ないのであれば、守護神たるムーミスト様の御意志を仰ぐ。それこそ神殿国家メミスの正しい形ではありませんか」
何人かが頷く。
「確かに」
「神官長の国外行となれば、神意を確認するに十分な事案でしょう」
「巫女様へ正式な《伺いの儀》をお願いすべきです」
キースは、円卓を囲む十三人を見た。
誰もふざけていない。
誰も悪意を持っていない。
本気なのだ。
巫女がムーミストから神意を受ける。神官長がそれを認証し、自分たちは解釈する。
それがメミスなのだと。
「神官長?」
呼ばれて、キースは口を開いた。
「……神託が来るとは限らない」
「もちろんでございます」
提案した神官は答えた。
「神意は人が強いるものではありません」
その言葉に、キースは笑いそうになった。
笑えなかった。
「それでも、伺うべきです」
アースバドも低く言った。
「少なくとも、我々だけで決めてしまうよりは」
キースはしばらく黙った。
拒否することもできる。
だが、拒否すれば理由を問われる。
なぜ神託を恐れるのか。なぜ巫女へ伺うことを避けるのか。
何より、キース自身にも、ほんのわずかな期待がなかったわけではない。
世界がこれほど大きく揺らぎ始めている。
アムドア。混沌。痩せる大地。消えていく魔導。
もし、今日だけは。
何かが来るのではないか。
キースは自分の中に浮かんだ期待を、すぐに嫌悪した。
三百年間、歴代の神官長たちも同じことを考えたのかもしれない。
今度こそ。
次こそ。
この危機なら。
神は答えてくださる。
「……分かった」
キースは言った。
「正式な《伺いの儀》を行う」
*
月が昇るまで待った。
《月読室》は、神殿最上層にある。
白い二重扉に銀の月紋。窓はなく、天井だけが細く開かれ、夜空から月光が落ちる。
そこへ入ることを許されているのは巫女だけで、神官長であるキースさえ扉を越えることはできない。
その夜、十三神官とキースは、月読室の前に設けられた《受託の間》へ集まっていた。
アースバドもいる。
ローゼンは本来ならば立ち会いを認められない。だが今回の旅の発端となった者であり、キース自身が求めたため、もっとも外側の席へ控えることだけを許された。
やがて巫女が現れた。
白い祭衣。顔の上半分を覆う銀布。
普段の彼女とはまるで違う。
双子の片割れではない。
月神ムーミストの巫女。
神意を人間世界へ受け取る者。
十三神官が一斉に頭を垂れる。
キースだけは、彼女の目を見た。
一瞬、視線が合う。
それだけで十分だった。
――分かっておるな。
そう言われた気がした。
何も来ない。
少なくとも、いつも通りなら。
巫女は何も言わず、月読室へ入った。
白い扉が閉じ、銀錠が下りる。
誰も声を発さない。
月の位置だけが、少しずつ変わっていく。
一刻。
さらに一刻。
受託の間では、灯火すら最小限に抑えられていた。神意を待つ間、人間の言葉を増やしてはならない。
それも古い規則だった。
キースは膝の上で手を組んだ。
期待するな。
そう何度も自分へ言い聞かせる。
それでも、扉の向こうにいる巫女が突然神の声を聞く可能性は、ゼロではない。
ムーミストは存在する。
消えた神ではない。
神威もあり、信仰も届いている。
ただ、答えない。
だからこそ、もし今夜だけ、月が強く光ったら。
神格構文が動いたら。
巫女が扉を開き、初めて聞く言葉を口にしたら。
キースは目を閉じた。
情けない。
結局、自分も求めている。
自分で決めるのが怖いから、神に答えを出してほしいのだ。
長い時間が過ぎた。
やがて、銀錠が鳴った。
全員が顔を上げる。
白い扉が開き、巫女が出てきた。
表情は銀布の奥に隠れている。
その手には、一枚の薄い銀板。
《受託板》。
十三神官が深く頭を垂れた。
キースは立ち上がる。
巫女は彼の前まで歩み寄り、何も言わずに受託板を差し出した。
キースは両手で受け取る。
冷たい。
表面を見る。
何もなかった。
文字も、紋様も、神格構文の痕もない。
光さえない。
ただ磨かれた銀に、キース自身の顔が映っている。
何度見ても、同じだった。
空白。
十三神官は、その空白を知らない。
彼らが待っているのは、このあとだ。
巫女が受け取った神意を、神官長が人間の言葉へ整える。そして十三神官へ《神託原文》として示す。
いつもの手順。
キースの横へ記録官が進み出た。
白紙の神託紙。銀墨。神官長印。
机の上へ並べられる。
「神官長」
十三神官の一人が静かに促した。
「御神意を」
キースは白紙を見る。
次に筆を見る。
朝の光景が蘇る。
――月神ムーミストは、今年も豊穣を約束した。
自分が作った原文。
十三神官が解釈し、さらに言葉を足し、民衆へ届いた。
今度は、自分自身の旅だ。
書こうと思えば、何でも書ける。
《月は若き神官長に北方への道を示した》
そう書けば行ける。
逆に、《月は神官長へ聖都を離れることを禁じた》と書けば、残る理由にもなる。
どちらでもいい。
神は何も言っていないのだから。
キースが決めればいい。
そしてムーミストの名を載せれば、人間の決定が神の決定になる。
「神官長?」
再び呼ばれた。
キースは筆へ手を伸ばした。
指先が触れる。
そこで止まった。
三百年。
何人の神官長が、この筆を握ったのだろう。
最初は何を考えていたのか。
民を混乱させたくなかった。
戦争を止めたかった。
飢饉を乗り切りたかった。
次の夜には、きっと神が答えると思った。
今回だけ。
この危機だけ。
そうして空白へ文字を置いた。
キースは筆から手を離した。
「私は書かない」
誰も動かなかった。
「……神官長?」
聞き間違いを疑う声だった。
キースはもう一度言った。
「書かない」
「何を、おっしゃっているのです」
「御神意を神託原文へ整えるのが神官長の役目ではありませんか」
「巫女様がお受けになった御心を――」
「受けていない」
キースの声が、それを遮った。
受託の間が凍りついた。
「……何と?」
「今夜、巫女は何も受けていない」
キースは受託板を机へ置いた。
十三神官の視線が巫女へ向かう。
一人が戸惑いながら尋ねた。
「巫女様」
巫女は答える。
「その通りじゃ」
神官たちは顔を見合わせた。
明らかに困惑している。
ただ、まだ彼らが理解したのは今夜のことだけだった。
「では」
一人が慎重に言う。
「今夜は御神意が下らなかった、と」
「そうじゃ」
「……珍しいことではありますが」
別の者が続ける。
「神が沈黙をもって示されることもございます」
キースの眉が動いた。
「沈黙そのものを神意として解すれば――」
「やめろ」
「しかし神官長」
「何もないものに意味を足すな」
「意味を読み取るのが我々の役目です」
「入力があればな」
神官の表情が変わった。
「入力?」
「巫女が何かを受けたなら、それをどう解釈するかは十三神官の仕事だ」
キースは受託板を示した。
「だが、これは空白だ」
「空白にも意味が――」
「それを決めるのは誰だ」
答えはない。
「神か?」
キースは続けた。
「巫女か? それとも、我々か?」
沈黙が落ちた。
そのときだった。
「キース」
巫女が呼んだ。
弟を見る声ではない。
巫女としての声だった。
「もうよい」
キースは彼女を見る。
銀布の向こうから、静かな視線が返ってくる。
「言うぞ」
一瞬、キースは迷った。
今日ここで明かせば、戻れない。
十三神官はもう、これまでと同じように神託を受け取れなくなる。
少なくとも、何も知らなかった頃には。
「……ああ」
キースは答えた。
「言おう」
巫女は十三神官へ向き直る。
「今夜だけではない」
最初、誰も意味を理解できなかった。
「巫女様?」
「わらわが巫女となってから、一度として」
空気が変わった。
「ムーミスト様より神託を受けたことはない」
一人の神官が口を開いたが、声が出ない。
「ですが」
別の者が、ようやく言った。
「これまでの神託は」
「わらわが受けたものではない」
「では、先代の巫女様は」
「同じじゃ」
「その前は」
「同じ」
巫女は静かに答え続けた。
「歴代巫女にのみ伝えられる記録がある」
十三神官の顔から血の気が引いていく。
「最後に、月神ムーミストより《神託》と認証できる明確な応答が確認されたのは――」
巫女は一度、息を吸った。
「およそ三百年前じゃ」
何かが落ちた。
音はしない。
それでも、それまでこの場所を支えていたものが崩れたように感じられた。
「三百……」
誰かが呟く。
「年?」
「はい」
今度はキースが答えた。
十三神官の視線が一斉に彼へ向く。
その目に、初めて怒りが混じった。
「神官長」
「あなたは」
「ご存じだったのですか」
キースは逃げなかった。
「ああ」
「いつから」
「神官長になった日から」
「では」
年嵩の神官が震える声で言う。
「我々がこれまで解釈してきた神託は」
キースは答えなければならなかった。
「歴代神官長が作った《受託記録》だ」
「作った……?」
「過去の神託、巫女の祭儀記録、月相、気候、神殿に起きた現象、国政上の状況、前例」
キースは、自分の罪を数えるように一つずつ言葉を置いていく。
「それらをもとに、歴代神官長が《神意である可能性》を文章へした」
「可能性?」
「そして十三神官がそれを解釈した」
「我々は……」
一人が椅子から立ち上がった。
「我々は、巫女様がお受けになった神託を解釈していたのではないのですか!」
「そう教えられてきたはずだ」
「なら、あなたは我々を騙していたのですか!」
「そうだ」
キースは答えた。
言い訳はしなかった。
「少なくとも私は」
朝のことを思い出す。
「今朝の豊穣神託もそうだ」
空気がさらに凍る。
「あれも?」
「巫女は何も受けていない」
「では――」
「原文を書いたのは私だ」
キースは言った。
「西部農区の報告を読み、過去の記録と比較し、民の不安を抑えながら備蓄を促せる文章を作った」
「それを」
神官の声が震える。
「ムーミスト様の御言葉として?」
「ああ」
誰かが机を叩いた。
今度の音には、はっきりと怒りがあった。
「ふざけるな!」
十三神官の一人が立ち上がっている。
「我々は何だったのです!」
その怒りは正しかった。
「三十年!」
男は胸を叩いた。
「私は三十年、神託を読み、この国のために解釈してきた! 何度も眠らず議論した! 戦を止めるために! 税を下げるために! 飢饉の際には配給を増やすために!」
キースは何も言えない。
「そのすべてが!」
「違う」
巫女の声だった。
男が振り返る。
「そなたがしたことまで、嘘になるわけではない」
「ですが!」
「そなたは国のために考えたのであろう」
「神意に従ったのです!」
「違う」
巫女はもう一度言った。
「そなた自身が考えたのじゃ」
男が黙る。
「それを神の手柄にする必要があったのか、という話をしておる」
誰も動かなかった。
今度は別の神官が言った。
「……公表すべきです」
すぐに別の声が重なる。
「馬鹿な!」
「三百年間の神託が偽りだったと民に言うのですか!」
「偽りではない!」
「では何と呼ぶ!」
「いま公表すれば国が割れる!」
「だから隠し続けるのか!」
「過去の裁定はどうする!」
「神託によって認められた婚姻は!」
「神託を根拠とした領地裁定は!」
「戦争は!」
「処刑された者は!」
声が次々に重なっていく。
それは、先ほどまでの神官会とは違った。
誰も神の名を使わない。
いや、使えない。
初めて、彼らは人間だけで問題を抱えていた。
アースバドは一言も発していなかった。
老人はただ、キースを見ている。
その目が一番痛かった。
「アースバド」
キースが呼ぶ。
「……あなたも知らなかったのか?」
「知るわけがございません」
声は低かった。
「私は十三神官であった」
キースは目を伏せる。
「申し訳ない」
「謝れば済む話ではございません」
「ああ」
「ですが、いま怒鳴れば済む話でもない」
老人は目を閉じ、深く息を吐いた。
「私はあなたを神官長へ育てたつもりだった」
キースの胸が痛んだ。
「神の御言葉を正しく人へ伝える者へ」
「……ああ」
「まさか」
老人は笑わなかった。
「神が語らぬことを知る者へ育てていたとは」
誰も、その言葉に続けなかった。
長い時間が過ぎた。
やがて巫女が口を開く。
「公表の話は、今夜決めることではない」
反論しかけた者へ、手を上げる。
「隠し続けよと言うておるのではない。三百年の制度を、一晩でほどけると思うな」
それは現実的な言葉だった。
「何が神託によって決まり、何が人の法によって決まり、どこまで遡ればよいのか。調べもせず民へ投げつければ、それは告白ではない」
「責任放棄だ」
キースが続けた。
十三神官が彼を見る。
「まず記録を調べる」
キースは言った。
「歴代神官長の極秘記録も開示する。どの神託が、どの資料をもとに作られたものなのか。可能な限り確認する」
「その間、民には?」
「いままで通り神託を出す」
そう言った神官がいた。
全員が彼を見る。
本人も、自分が何を口にしたのか理解したらしい。
キースは首を振る。
「私はもう書かない」
はっきり言った。
「少なくとも、神から何も来ていないものを神託とは書かない」
「それでは国政が――」
「国政はする」
キースは答える。
「税も決める。農政もする。兵の配置も決める」
そして続けた。
「人間の決定として」
沈黙が落ちる。
「失敗すれば、人間が責任を負う」
それがどれほど恐ろしいことか、今になってよく分かった。
神の名を借りれば、正しかったときは神の加護。間違えたときは神意の深さ。
人間は、いつでも一歩退くことができた。
だが、自分で決めるなら逃げ場所はない。
「ならば」
先ほどまでキースの旅へ反対していた神官が言った。
「今回の出立も」
「ああ」
キースは答える。
「神託では決めない」
視線が巫女へ集まる。
アースバドが尋ねた。
「巫女様は」
「わらわは許可せぬ」
即答だった。
何人かが息を呑む。
キースも彼女を見る。
「止めもせぬ」
「……どういう意味でございます」
「言葉通りじゃ」
巫女は銀布を外した。
キースとよく似た若い顔が露わになる。
「わらわがムーミスト様の代わりに、行けと言うのか?」
誰も答えない。
「それでは何も変わらぬ」
彼女はキースを見る。
「おぬしの旅じゃ」
「ああ」
「おぬしが決めよ」
キースはゆっくり立ち上がった。
背後には、月読室の白い扉がある。
その向こうで、今日も神は答えなかった。
だが、それでいいのかもしれない。
少なくとも、この決定については。
「神官長キースとして決める」
キースは十三神官を見た。
「私はメミスを離れる。北方へ向かい、アムドアと〈混沌〉について調査する」
そして、はっきりと続けた。
「これはムーミストの命令ではない」
自分自身にも言い聞かせる。
「巫女の許可でもない」
ローゼンを見る。
「ローゼンに命じられたわけでもない」
最後に一度、息を吸った。
「私が決めた」
その言葉が、不思議なほど重かった。
*
そこからの評議は長かった。
これまでより、ずっと。
神の名前を使わなくなっただけで、話し合わなければならないことが驚くほど増えた。
神官長不在時の代理権限。国境を越えるための外交文書。キースが死亡した場合の継承手続き。巫女の座に関する非常措置。旅費。連絡方法。北方諸国への通知。調査結果を誰が保管するか。どこまで国民へ公表するか。護衛を何人つけるか。そして、その費用を誰が負担するのか。
反対者もいた。
最後まで、アースバドは反対だった。
「私は認めませぬ」
老人は言った。
「神託として?」
キースが尋ねる。
「人間としてです」
キースは少し笑った。
「なら、ありがたい」
「何がです」
「初めて、あなた自身に止められている気がする」
アースバドは心底嫌そうな顔をした。
「昔から私自身が止めております」
「そうだったか?」
「そうです!」
十三神官の何人かが、小さく笑った。
ほんのわずかだったが、この夜になって初めて、人間らしい音がした。
「しかし」
アースバドは続ける。
「決定された以上、準備は万全にいたします」
「まだ決定していないだろう」
「あなたが神官長として行くと決めた」
「十三神官は?」
「それを止める法的根拠について、現在全員で必死に探しましたが」
老人は円卓の書類を指した。
「見つかりませんでした」
「……そうなのか」
「まったく。普段から御自分の権限くらい把握しておきなされ」
「本には載っているはずなんだが」
「だから本ではなく実務を覚えろと言うておるのです!」
また叱られた。
キースは少し肩をすくめた。
「ただし」
アースバドは指を立てる。
「護衛はつけます」
「必要ない」
「必要です」
「私は魔導士だぞ」
「旅をしたことがないでしょう」
「……」
「野営経験は」
「ない」
「盗賊に襲われた経験」
「ない」
「寝込みを狙われた経験」
「ない」
「食べられる野草と毒草を現物で見分けられますか」
「本でなら」
「駄目です」
即答だった。
「魔導力が世界一であろうと、寝ている間に喉を掻かれれば死にます」
「結界を張れば」
「毎晩、一晩中維持なさるおつもりで?」
「……」
「旅慣れた者をつけます」
「誰を」
「戦える者。道を知る者。野営ができる者。そして必要なら、神官長を殴ってでも危険から遠ざけられる者」
「最後の条件は要るのか?」
「最重要です」
嫌な予感がした。
「そんな人間がメミスにいるのか」
「おります」
老人の口元に、ようやく少し意地の悪い笑みが浮かんだ。
「二人ほど」
キースは、それ以上聞かないことにした。
今日の自分には、もう十分すぎるほど大きな問題が起きている。
*
すべてが終わった頃には、月は天頂近くまで昇っていた。
十三神官は一人ずつ受託の間を出ていった。
いつもなら、この部屋を出る神官たちの手には、神託を解釈した記録がある。
今夜は違う。
それぞれが持っているのは、自分自身の署名が入った評議記録だけだった。
神託ではない。
人間の決定。
反対した者は、反対したと記録された。
賛成した者は、賛成したと記録された。
誰もムーミストの名の後ろへ隠れることはできない。
ローゼンも、アースバドに旅支度について呼ばれ、先に退室した。
最後に残ったのは、キースと巫女だけだった。
月読室の扉は、もう閉じられている。
今夜も、その中には何も残っていない。
「……やったな」
キースが言った。
「何をじゃ」
「十三神官に全部言った」
「おぬしも言ったであろう」
「そうだな」
巫女は壁へ背を預けた。
もう銀布は外している。
儀式の巫女ではない。
キースと同じ十八歳の、ただの人間に見えた。
「怖くなかったのか」
「怖かったぞ」
あっさり答えた。
キースは少し驚く。
「お前でも?」
「わらわを何だと思うておる」
「巫女」
「役職を聞いたのではない」
「……双子の片割れ?」
「疑問形にするな」
巫女は少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「三百年じゃ」
巫女は言った。
「三百年続いたものを、今日一日で終わらせたわけではない」
「ああ」
「明日から急に、この国が正しくなるわけでもない」
「ああ」
「十三神官の中には、今夜のことをなかったことにしたい者もおるであろう」
「いるだろうな」
「わらわたち自身も、いつかまた、神の名を借りたくなるかもしれぬ」
キースは黙った。
否定できなかった。
人間だけで決める。
美しい言葉だった。
だが、実際にやってみれば、ひどく面倒だ。
何時間も議論し、誰も正解を知らず、責任だけが残る。
「今日だけでも」
巫女は言った。
「神託が一つあれば、ずっと楽だったのう」
キースは苦笑する。
「ああ」
「『キースを北方へ遣わせ』」
「便利だな」
「反対なら『神官長は聖都を離れるべからず』」
「もっと便利だ」
「何でもできる」
「だから三百年続いたんだろうな」
言ってから、二人とも黙った。
最初に嘘を書いた神官長を、キースは知らない。
名前も、理由も。本当に悪意だったのかさえ。
もしかすると、今日の自分と同じだったのかもしれない。
国を壊したくなかった。
誰かを救いたかった。
次には神が答えてくれると思った。
だから、一度だけ空白へ文字を書いた。
「キース」
「何だ」
「行くのじゃな」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
「怖くないのか」
キースは少し考えた。
「怖い」
「ほう」
「意外そうにするな」
「世界一の魔導士様だからの」
「やめろ」
巫女は笑った。
「怖いなら、帰ってきてもよいぞ」
「まだ出発もしていない」
「先に言うておく」
彼女の声が少しだけ真面目になる。
「世界を救わなくてもよい」
キースは顔を上げた。
「何も分からぬまま帰ってきてもよい」
「それでは格好がつかないな」
「格好で命は拾えぬ」
「アースバドと同じことを言う」
「長く一緒におるからの」
巫女はキースを見つめる。
「途中で怖くなって帰ってきてもよい」
「ああ」
「負けてもよい」
「ああ」
「分からぬことを、分かったふりだけはするな」
昨夜、ローゼンから聞いた言葉。
そして今日、自分たちがようやく始めたこと。
「分かった」
「それから」
巫女は一度、視線を落とした。
「帰ってこい」
簡単な言葉だった。
「おぬしが死ねば、神官長を失う」
「分かっている」
「次代もおらぬ」
「ああ」
「神殿も揉める」
「そうだな」
巫女はしばらく黙った。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「わらわの人生まで、勝手に変えられてしまう」
キースの胸が詰まった。
前に彼女が口にした言葉が蘇る。
――わらわは巫女であるかぎり、次代を残す側には回らぬ。
その《巫女であるかぎり》を終わらせる原因が、自分になるかもしれない。
「……ああ」
「じゃが」
巫女は顔を上げた。
「それだけではない」
キースは彼女を見る。
「わらわが困る」
神官長ではない。
世界一の魔導士でもない。
アルセイドの血統でも、次代を残す者でもない。
キースという一人の人間が帰ってこなければ、彼女が困る。
それだけだった。
「……ああ」
キースは頷いた。
「帰ってくる」
「神に誓うか?」
キースは少し考え、それから首を横に振った。
「いや」
巫女が微笑む。
「私が約束する」
「それでよい」
月神ムーミストは、その夜も何も答えなかった。
旅立てとも、留まれとも。
キースを守るとも、世界を救えとも。
ただ月だけが、三百年前と変わらぬ光を白い神殿へ落としていた。
だから、その夜、メミスでは一つの決定が下された。
神託ではない。
月神の命令でもない。
巫女の許可でもない。
神官長キースは、世界各地で発生する〈混沌〉およびアムドア封鎖地について調査するため、国外へ赴く。
決定書には、神官長と十三神官の名が記された。
賛成した者。
反対した者。
条件を付した者。
それぞれの意思が、それぞれの人間の名で残された。
末尾に、月神ムーミストの御名はなかった。
神の沈黙を、人間の言葉で埋めなかった。
それは三百年続いたメミスの歴史から見れば、あまりにも小さな一枚の紙だった。
国が変わったわけではない。神殿が清くなったわけでも、過去の嘘が消えたわけでもない。アルセイドの双生継承も、貴族と魔導をめぐる古い制度も、その夜に消えたわけではなかった。
何一つ、解決していない。
ただ、人間が決めたことを、神が決めたことにしなかった。
その一度だけだった。
そして翌朝。
夜明けの鐘が鳴るよりも早く、キースの初めての旅へ向けた準備が、神殿中を巻き込んで始まった。




