第三章 薔薇の香りが窓のない部屋へ入る
その夜、キースは世界の北を読んでいた。
机の上には三冊の地誌と二枚の古地図が広げられている。どれも同じ土地について記したものだったが、山脈の形も街道の位置も、そこに書かれた地名さえ少しずつ異なっていた。
北方。
霧と雪の彼方に広がる大地。精霊たちが今なお多く残り、文字ではなく風や記憶によって昔語りを継ぐ土地。
さらに地誌を辿れば、西にはドワーフたちが山脈を穿って築いた都市があり、古い森には今もエルフの集落が点在しているという。どちらもキースにとっては、精霊や遠い国々の人々と同じく、本の頁で何度も読んできた世界の一部だった。
キースは、そこへ行ったことがない。
もちろん、南にも西にも東にも行ったことはないのだから、ことさら北だけを特別扱いする理由もない。それでも幼い頃から、北方の地誌だけは妙に彼の心を惹きつけてきた。
理由は単純だった。
書物ごとに、書いてあることが違うのだ。
中央大陸の都市なら、多少古い地図であっても、街道の位置や河川の流れが根本から食い違うことは少ない。王が代われば国境は変わるし、戦乱があれば町も滅びる。それでも、山が昨日と今日で別の場所へ移るわけではない。
ところが北方については、そんな当然が通用しなかった。
同じ森に二つの名前がある。同じ町が、ある本では湖の東にあり、別の本では西にある。ひとつの地誌で「千年前に滅んだ」とされる集落が、それより三百年後の旅行記には何事もなく登場する。
記録の不備。測量技術の問題。口承文化ゆえの誤伝。
学者たちは、いくらでも理由を挙げた。
キースも頭では理解している。それでも、ときどき思うのだ。
本当に、人間の記録だけが間違っているのだろうか、と。
「……考えすぎだな」
ひとりごちて、古地図から顔を上げる。
先ほど巫女と交わした会話が、まだ頭の隅に残っていた。
名がなくとも、人は存在する。
神が答えなければ、自分で決める。
神官長には似つかわしくない考えばかりが、近頃ますます増えている。いっそ難しい本でも読んで頭を疲れさせれば眠れるかと思ったのだが、どうやら逆効果だったらしい。
キースは椅子の背へ身体を預けた。
部屋は静まり返っている。
厚い石壁に囲まれた神官長の私室には窓がない。それは暗殺防止のためでもあり、神殿上層部に課された古い決まりでもあった。
外界と接する開口部は、重い扉が一つだけ。そこにも二重の錠が掛けられ、廊下には衛兵がいる。暖炉は壁の奥へ細い煙道を通しているが、人が通れるような幅ではない。
ゆえに、この部屋で風を感じることなどあるはずがなかった。
そのはずだった。
机の上で、紙が一枚だけ揺れた。
キースは目を落とす。
古地図の端が、ふわりと持ち上がっている。
「……?」
暖炉を見る。火は穏やかだった。
次に扉を見る。閉じたままだ。
すると今度は、地誌の頁がぱらりと一枚めくれた。
明らかに、風だった。
弱い。春先の野を渡ってきたような、柔らかな風が、窓のない部屋の中を吹き抜けている。
キースは椅子から立ち上がった。
身体が先に緊張した。
右手をわずかに開き、意識を掌へ集中させる。術式を完成させる必要はない。何かあれば、一瞬で火炎を放てる。
《世界一の魔導士》。
そう呼ばれるだけの力は、この部屋の中でも失われない。
だが、未知のものを前にすれば、力の大小など安心にはならなかった。
もう一度、風が吹く。
今度は、香りを運んできた。
甘い。けれど甘すぎず、その奥にわずかに青い葉の匂いを含んでいる。
キースは、自分の知識の中からそれを探し当てた。
「薔薇……?」
メミスにも薔薇は咲く。神殿の中庭にも何種類か植えられている。
だが今は花の盛りではない。そもそも中庭からこの部屋までは、幾重もの石壁と回廊を隔てている。香りが届くはずなどなかった。
そのとき、視界の端で白いものが揺れた。
キースは振り返る。
誰かがいた。
ほんの数歩先、書架と暖炉の間に、一人の人影が立っている。
心臓が大きく跳ねた。
「動くな」
鋭く告げると同時に、右手へ淡い光が集まる。
人影は逃げなかった。攻撃する様子もない。ただ、静かにキースを見つめている。
丈夫そうな革のブーツに、旅装らしい茶色の外套。その下には細い身体があり、肌は陶磁器を思わせるほど白かった。腰近くまで伸びた髪もまた、雪のような白色をしている。
老人ではない。人の年齢でいえば、キースとそう変わらぬほどに見えた。
娘――そう呼ぶのが、もっとも近い外見だろう。
だが、人間ではない。
キースには一目で分かった。
白い顔の中で、二つの瞳だけが深紅に輝いている。血の色より明るく、宝玉よりも深い、不思議な赤。
人間にはない色だった。
それ以上に奇妙なのは、その気配だった。
確かに目の前に立っている。姿も見えている。
それなのに、魔導士として感覚を研ぎ澄ませれば澄ませるほど、そこに「人」がいるという感覚だけが薄れていく。
風が人の形を取っている。
花の香りが衣をまとっている。
そんなあり得ない印象が、どうしても消えなかった。
「何者だ」
キースが問うと、白髪の者はそこで初めて、ゆっくりと頭を下げた。
「驚かせてしまいましたこと、お詫び申し上げます」
柔らかな声だった。
人間の言葉を話している。しかし、ひどく静かで、耳ではなく胸の奥へ届くような響きがあった。
「わたくしは、精霊の里にひとつ、ラルソウムより参りました。ローゼンと申します」
「精霊……」
「左様でございます」
キースは右手の光を消さないまま尋ねた。
「どうやって入った」
ローゼンは少し首を傾げる。
「入った、と申されますと?」
「ここへだ。この部屋には窓がない。扉には鍵が掛かっている。外には衛兵もいる。それなのに君は、いつの間にか私の目の前に立っていた」
「ああ」
ようやく意味が分かったらしい。
「風に道を尋ねました」
「……風に?」
「はい」
「風に道を聞けば、鍵の掛かった部屋へ入れるのか?」
「風が通れる場所でございましたので」
キースは黙った。
煙道か、と一瞬考え、すぐに否定する。あの幅を人の姿で通れるわけがないし、そもそも彼女の衣服には煤ひとつ付いていない。
「精霊とは、みなそういうものなのか」
「どうでしょう」
ローゼンは真面目に考え込んだ。
「わたくしたちは、それぞれ得意なことが違いますので」
答えになっていない。
ただし、本人にふざけている様子はなかった。
キースはため息を吐き、ようやく右手を下ろした。
少なくとも、すぐに殺しに来た相手ではないらしい。
ただ、《ラルソウム》という名には聞き覚えがあった。
北方の地誌に記された精霊の集落。
もっとも、場所は一定せず、地図によって記載位置が違う。実在を疑う学者すらいたはずだ。
「ラルソウムは、本当に存在したのか」
思わず口にすると、ローゼンが不思議そうに瞬いた。
「存在しております」
「そうか」
「……存在しないと記されているのでしょうか?」
「いや。そういう本もある、というだけだ」
「本とは難しいものでございますね」
ローゼンは心底そう思っているらしかった。
「そこに住んでいる者には、あるかないかなど迷いようがございませんのに」
キースは一瞬、返す言葉を失った。
地図の上で存在を論じていた自分と、その土地から実際にやって来た精霊。
先ほどまで読んでいた本が、急にひどく頼りないものに見えた。
「……それで」
キースは話を戻す。
「私に何の用だ」
ローゼンの表情から、わずかに柔らかさが消えた。
「キース様のお力をお借りしたく、参りました」
「私の?」
「はい」
「なぜ私を知っている」
「世界一の魔導士である、と伺っております」
キースは露骨に嫌な顔をした。
「誰から聞いた」
「いろいろな方から」
「その呼び方はやめてくれ」
「お気に召しませんか?」
「好きで名乗っているわけではない」
ローゼンは少し困った顔になった。
「では、キース様とお呼びいたします」
「様も必要ない」
「ですが、神官長様でいらっしゃいます」
「……もういい」
この調子では、呼び方だけで夜が終わりそうだった。
「私の力を借りたいと言ったな。何をさせるつもりだ?」
ローゼンは姿勢を正した。
「わたくしと共に、ラルソウムへお越しいただきたいのです」
「断る」
即答だった。
ローゼンの瞳が、わずかに大きくなる。
「……まだ理由を申し上げておりません」
「聞くまでもない。旅など無理だ」
「なぜでしょう」
「なぜも何もあるか」
キースは思わず声を荒らげた。
「私は神官長だ。メミスから勝手に出ることなどできない。そもそも神殿の外へさえ、ほとんど出たことがないんだぞ」
「存じております」
「知っていて誘ったのか?」
「はい」
「なお悪い」
ローゼンは黙った。
その表情は叱られた子どものようでもあり、自分が何を間違えたのか、本気で考えているようでもあった。
キースは少しだけ罪悪感を覚えたが、態度を変えるつもりはなかった。
巫女との会話で、外の世界を自分の目で見てみたいと思ったのは事実だ。
だが、そう思うことと、実際にすべてを放り出して旅へ出ることはまるで違う。
自分には責任がある。
国が揺らいでいる今なら、なおさらだった。
「帰ってくれ」
キースは言った。
「ラルソウムの長が何を期待しているのか知らないが、相手を間違えている。魔導力だけなら、確かに私は強い。だが旅人でも戦士でもない。世界を歩いた経験すらない人間を連れていって、何の役に立つ」
「それでも、長はキース様を、と」
「では、その長が間違っている」
かなり無礼な言い方だった。
しかしローゼンは怒らなかった。
「お話だけでも、お聞きいただけませんでしょうか」
「聞けば、私が旅に出るとでも?」
「それはキース様がお決めになることです」
その言葉に、キースは眉を寄せた。
――神が答えなければ、自分で決めればよい。
数刻前、巫女に言われたばかりの言葉が、思いがけないところから返ってきた。
「……話だけだ」
結局、キースは椅子へ座り直した。
「それ以上は約束しない」
「ありがとうございます」
ローゼンは深々と頭を下げる。
「座るか?」
「よろしいのでしょうか」
「立たれたままだと、こちらが落ち着かない」
ローゼンは向かいの椅子へ腰を下ろした。その動きには妙な慎重さがあり、もしかすると、人間の椅子へ座ること自体に慣れていないのかもしれない。
そんなことを考えながら、キースは先を促した。
「それで?」
ローゼンは一度、息を整える。
「世界が、壊れ始めております」
キースは何も言わなかった。
あまりにも大きな言葉だった。
「……何だって?」
「世界各地で、〈混沌〉が現れております」
今度は聞き間違いようがなかった。
キースの顔から、わずかに血の気が引く。
「〈混沌〉?」
「はい」
「比喩ではないんだな」
「わたくしたちが、その名で呼んでいるものと、キース様がお考えになっているものが同じであれば」
「物質も術式も区別なく呑み込み、形そのものを失わせるもの」
「同じものでございます」
キースは無意識に背筋を伸ばした。
〈混沌〉。
魔導を学んだ者なら、誰でもその名を知っている。
もっとも、「知っている」という表現が正しいのかさえ怪しい。人間がそれについて理解していることなど、ごくわずかしかないからだ。
魔導の大規模な暴走によって、ごく稀に黒い染みのようなものが空間へ発生することがある。拳ほどの大きさであっても、周囲の物質を呑み込みながら広がろうとするため、専門の魔導士が幾重もの封術を重ねて隔離する。
触れてはいけない。
内部を覗こうとしてはいけない。
原理を理解しようとしすぎてもいけない。
古い魔導書には、そう記されている。
術を究めようとする者に対して、ずいぶん不親切な教えだと昔は思った。
だが、それほど危険なのだ。
「どこで発生している?」
「確認されただけでも、北方だけではございません。森の中、山腹、旧い遺跡、街道の近く。ごく小さなものを含めれば、数は増え続けています」
「自然に発生しているのか?」
「分かりません」
「誰かが魔導実験を?」
「それも分かりません」
「発生条件は?」
「分かりません」
キースは眉間を揉んだ。
「分からないことばかりだな」
「はい」
ローゼンは素直に頷く。
「ですから、調べております」
反論できなかった。
「ラルソウムの者たちは、この異変をいつから?」
「小さな兆しそのものは、以前からございました。木々の声が途切れる場所。石へ呼びかけても答えが返らぬ場所。風が途中で消えてしまう場所」
「精霊には、そう見えるのか」
「見えるというより……」
ローゼンは表現を探すように少し考えた。
「そこだけ、世界から返事がないのです」
キースは黙った。
月神から三百年、返事がないメミス。
その言葉を聞いた瞬間、どうしてか思考がそこへ結びついた。
もちろん、何の根拠もない。神託の沈黙と〈混沌〉の発生が関係しているとは限らない。
「その中で、もっとも大きなものは?」
「アムドアです」
聞き覚えのある地名だった。
「北方の?」
「はい。アムドアの都があった場所です」
「あった?」
キースは問い返した。
ローゼンの深紅の瞳が、静かに彼を見る。
「都は、もうございません」
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。
「どういう意味だ」
「都市と、その周辺の大地が消失しました」
キースは数秒、その言葉を理解できなかった。
「……消失?」
「はい」
「破壊されたのではなく?」
「残骸はほとんど確認されておりません」
「陥没でもない?」
「いいえ」
「どれほどの範囲だ」
「およそ十五デティート」
キースの指が止まった。
一デティートは、旅程や広域測量に使われる距離単位だ。
十五。
頭の中で、その縮尺を地図へ置き直す。
冗談で済ませられる広さではない。
「それが全部、〈混沌〉に?」
「穴が開いたように見える、と報告されています」
「穴……」
「《アムドアの大穴》と呼ばれております」
キースは立ち上がり、背後の書架へ向かった。
北方地誌。
記憶にある。確か、このあたりだ。
一冊を抜き、急いで頁を繰る。
「アムドア……アムドア……」
あった。
北方中部。古い精霊王朝の痕跡が残る都市。記録の少ない土地。
そこまでは知っている。
だが、大都市ひとつが消えたなどという記載は当然ながら存在しない。目の前の地誌が書かれた時代には、まだ都市が存在していたのだから。
「いつだ」
「大規模な消失が確認されたのは、数年前です」
「そんな話が、なぜメミスまで届いていない」
「届いていないのでしょうか?」
「少なくとも、私は正式な報告を読んでいない」
神官長である自分にすら届いていない。
あるいは、届いていて誰かが止めたのか。
北方の遠い出来事。確証のない災害。国を不安にさせる情報。
メミスの神官たちなら、公表を控えても不思議ではない。
キースは歯を食いしばった。
「現在はどうなっている」
「世界各地から集まった魔導士と精霊たちが、周囲を封じております」
「封じられているなら、危機は去ったのではないか?」
「いいえ」
ローゼンは首を振った。
「封じているだけです」
その一言で、意味が分かった。
消したわけではない。
閉じたわけでもない。
そこにあり続けるものを、広がらぬよう押さえ込んでいるだけだ。
「しかも」
ローゼンは続ける。
「封鎖の内側で、少しずつ広がっております」
「どの程度だ」
「測るたびに異なるため、正確には申し上げられません。ただ、止まってはいない、と」
キースは椅子へ戻らず、机の上の北方地図を見下ろした。
地図の中では、アムドアは小さな文字でしかない。
その文字の下には、本物の都市があった。
人が暮らしていた。家があり、市場があり、道があり、今日の予定を考えていた者たちがいた。
それが、もうない。
紙の上には今もあるのに。
「ラルソウムでは、この件をどう見ている?」
「長たちは、アムドアだけの問題ではないと考えております。小さな〈混沌〉の発生地を調べるため、里から幾人も外へ出ました」
「君も調査員なのか」
「はい」
「それで、なぜ私を?」
ローゼンは少し姿勢を正した。
「長より、キース様をラルソウムへお招きするよう命を受けました」
「そこはさっき聞いた」
「はい」
「私が知りたいのは、なぜ私なのかだ。〈混沌〉を研究している魔導士なら、他にもいるだろう」
「魔導のためだけではございません」
意外な答えだった。
「何?」
「長は、キース様が神官長でもあることを重く見ております」
「神官長であることを?」
「はい。古い神話や祭祀の記録、人間の国に残された年代記にもお詳しいと伺いました」
キースは眉を寄せた。
「誰から、そんなことまで」
「いろいろな方から」
「便利だな、その《いろいろな方》は」
「はい」
「褒めてない」
「そうなのでございますか?」
「……続けてくれ」
ローゼンは少し考えながら話した。
「アムドアでは、〈混沌〉だけを調べればよいのではないそうです」
「どういう意味だ」
「大穴から持ち出された古い記録に、今知られているアムドアの歴史と合わないものがございます」
キースの表情が変わった。
「歴史と?」
「はい」
「それで?」
「ラルソウムにも、人間の国には残っていない古い記録がございます。文字になったものもございますが、古い歌や、精霊たち自身が覚えていることも」
「それを照合したい?」
「長は、そう申しております」
キースは少し黙った。
ようやく、ラルソウムが自分を求めた意味が見えてきた。
精霊だけで精霊の伝承を調べても、それがいつから変わったのか判断するのは難しい。
人間側の史料だけでも同じだ。
両方を並べる必要がある。
「つまり」
キースは確認する。
「私をラルソウムへ連れていって、人間側の記録と、君たちの古い記録を比較させたい」
「はい」
「そのために、魔導士であることだけではなく、神殿の古記録を読める人間が必要だった」
「長からは、そのように伺っております」
「そのあと、私はどうする?」
「アムドアへ」
ローゼンは答えた。
「ラルソウムで確認した記録をもとに、現地をご覧いただきたいと」
キースは目を細めた。
「待ってくれ」
「はい」
「アムドアを調べるのなら、なぜ直接アムドアへ行かない?」
それが一番単純だった。
大穴が危険なら、なおさら時間を使って精霊の里へ寄る理由が分からない。
ローゼンは少し困ったように考え込む。
「わたくしは学者ではございませんので、長がおっしゃったことを、うまくお伝えできるか分かりませんが」
「十分だ。聞かせてくれ」
「ラルソウムには、人間の国には残っていない古い記録がございます」
「うん」
「その中にも、アムドアから見つかったものと似た食い違いがあるそうなのです」
キースの眉が動いた。
「似た食い違い?」
「はい。ただ、同じものなのかは分からない、と」
精霊たち自身にも分からない。
だから、人間側の記録体系を知る者へ見せたい。
「長は、まずそれらをキース様にご覧いただきたいと申しております」
ローゼンは続ける。
「それからアムドアへ向かい、現地に残るものと比べていただきたい、と」
「予備調査をラルソウムで行ってから、現地調査へ入る」
「予備調査……」
ローゼンが言葉を繰り返す。
「人間の学者は、そのように申すのでございますね」
「普通はそうする」
「では、そのように」
真面目に頷く。
キースは少し考えた。
筋は通っている。
少なくとも、《世界一だから来てほしい》という無茶な話ではなくなった。
「ただし」
彼は言った。
「資料を比較する意味があるのは、それぞれが独立した記録ならだ」
「独立?」
「一方がもう一方を写しただけなら、同じ記述があっても証拠にはならない」
「なるほど」
「成立年代も必要だ。どこから伝わったのか。後世の加筆はないか。口伝なら、どの系統で伝わったかも確認したい」
ローゼンは目を瞬かせた。
「……キース様」
「何?」
「少し楽しそうでございます」
「そんなことはない」
「先ほどより、よくお話しになります」
「必要な確認をしているだけだ」
「左様でございますか」
ローゼンは微笑んだ。
キースは話題を戻す。
「それでも、人選が私でなければならない理由には弱い」
「長は、精霊たち自身の記憶もお見せしたいと」
「記憶?」
「古い時代を実際に知っている方が、ラルソウムにはいらっしゃいます」
キースの目が変わった。
「どのくらい古い?」
「わたくしより、ずっと」
「それでは分からない」
「精霊戦争をご存じの方も」
今度こそ、キースは黙った。
書物ではない。
伝承でもない。
その時代を実際に生きた者。
人間にはほとんど存在し得ない種類の史料だった。
「……それは」
キースは小さく息を吐いた。
「確かに、見てみたい」
「やはり楽しそうでございます」
「違う」
「左様で」
完全には信じていない顔だった。
*
「話は分かった」
キースは言った。
「だが、結論は同じだ」
ローゼンの表情が曇る。
「私は行けない」
「キース様」
「興味があることと、国を離れられることは別だ」
世界の危機だと言われれば、無視するつもりはない。
メミスからできることなら協力する。文献も調べる。必要なら魔導士を派遣するよう神官会へ提案してもいい。
だが、自分は神官長だ。
「この国を放り出して、見知らぬ精霊について行くわけにはいかない。それに――」
そこで言葉が詰まった。
それに、外が怖い。
そう続けそうになった。
世界を知らない。旅も知らない。怪物と戦ったこともない。
いくら本を読み、いくら強い魔導を持っていても、神殿を一歩出れば役立たずかもしれない。
その恐れを、初対面の相手に口にする気にはなれなかった。
「とにかく、今ここでは決められない」
ローゼンはしばらく黙っていた。
やがて、外套の内側へ手を入れる。
キースの視線が鋭くなった。
「何をする」
「お見せしたいものがございます」
取り出したのは、武器ではなかった。
細長く折り畳まれた革の包みを、ローゼンは両手で持ち、机の空いた場所へ置く。
「何だ?」
「アムドアで見つかった記録の写しです」
キースの目が変わった。
警戒より先に、興味が勝った。
「記録?」
「大穴の封鎖地で調査を続けている者たちが、地下より回収したと聞いております」
「原本ではないな」
「原本は持ち出せないそうです。これは文字を写したものです」
ローゼンが革紐を解くと、中から薄い紙束が現れた。
北方で一般的な紙ではない。植物繊維を粗く漉いたものらしく、ところどころ色が違う。
キースは反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触れても?」
「もちろんです。そのために持って参りました」
許可を得て、紙を取る。
写された文字列は古い。
現行の北方文字とも、メミスで使われる神殿古語とも違っている。
「これは……精霊文字か?」
「似ておりますが、ラルソウムの古い記録とも一致しないそうです」
「誰が解読した」
「何人もの方が」
「何人?」
「精霊と、人間の学者と、魔導士です。同じ箇所を別々に読ませ、共通した部分だけを残したと伺いました」
意外なほど慎重な手順だった。
キースの眉間から、わずかに険しさが消える。
頁をめくる。
円環。地層。欠けた文字。
その中に、翻訳された短い一節があった。
「……アムドア」
声に出す。
そこまではいい。
問題は、その後だった。
「《アムドアの穴》……?」
キースは顔を上げた。
「この記録は、いつのものだ」
「そこに」
ローゼンが端を指す。
年代記号。
キースは読み直した。
一度。
もう一度。
見間違いではない。
「あり得ない」
思わず声が漏れた。
「この年代が正しいなら……」
現在、《アムドアの大穴》と呼ばれている異変。
都市が消失したのは数年前だ。
ところが目の前の記録には、それより何百年も古い年代が記されている。
その時代に、《アムドアの穴》という言葉がすでに存在している。
「書写の誤りは?」
「確認したそうです」
「年代記号の読み違い」
「その可能性も調べたと」
「後世の追記では」
「それも分からない、と」
ローゼンは、分からないことを分からないまま答えた。
キースは紙へ視線を戻す。
胸の奥で、別の何かが動き始めていた。
恐怖ではない。
警戒でもない。
知りたい。
純粋で、そして彼にとって抗い難い欲求だった。
「原本は、どんな状態だった」
「石に刻まれていたそうです」
「石?」
「はい」
「なら、後世の追刻かどうかは刻線の風化である程度判別できる。周辺地層との比較は?」
「わたくしには……」
「拓本は他にも?」
「こちらに」
ローゼンが別の紙を差し出す。
キースはそれを受け取り、今度は椅子へ腰を下ろした。
「この円は何だ?」
「大穴に似ている、と聞きました」
「似ているどころじゃない」
机に広げていた現在の地図を引き寄せ、位置を合わせていく。
縮尺は違う。細部も合わない。
だが、円環の欠け方。北西側の歪み。南端の入り込み。
偶然と切り捨てるには、不気味な一致があった。
「……誰が、これを」
キースは呟く。
ローゼンは答えなかった。
答えられるはずもない。
数年前に生まれたはずの穴。
数百年前の記録。
その二つが、同じ名で呼ばれている。
もし古記録が正しいなら、今アムドアで起きていることは何なのか。
再発なのか。
古い異変の拡大なのか。
それとも、そもそも《数年前に大穴が生じた》という認識そのものに何か誤りがあるのか。
「この資料を、私に見せるために?」
「はい」
「長の指示か」
「それもございます」
「それも?」
ローゼンは少しだけ微笑んだ。
「本がお好きだと聞いておりましたので」
キースは紙から顔を上げた。
「誰からそんなことまで聞いた」
「いろいろな方から」
「私の噂は、どこまで広がっているんだ……」
頭を抱えたくなる。
それでも、紙から手を離すことはできなかった。
古記録。未知の文字。歴史の矛盾。そして〈混沌〉。
どれも、神殿の書庫へ籠もっているだけでは答えに届かないものだった。
しかも、ラルソウムには別系統の古記録と、古代を直接知る精霊までいる。
この一枚が偽書なら、それを確かめられるかもしれない。
偽書でないなら。
その先には、さらに大きな問題がある。
「この資料だけなら」
キースは呟いた。
「偽書の可能性を捨てるべきじゃない」
「はい」
「年代の読み違いも。後世に古い石へ追刻した可能性もある」
「はい」
「でも」
もう一度、紙を見る。
「ラルソウムに、これとは独立した古い資料があるなら」
ローゼンを見る。
「比較する価値はある」
深紅の瞳が、僅かに明るくなった。
「ございますか?」
「ああ」
答えてから、キースは気づいた。
自分で一歩、進んでしまった。
「ただし!」
「はい」
「行くとはまだ言っていない」
「承知しております」
「本当に?」
「はい」
どう見ても嬉しそうだった。
*
「仮に」
キースは言った。
「仮に、私が行くとする」
「はい」
「まずラルソウムで、何を見ればいい」
ローゼンは少し考える。
「アムドアより持ち出された記録の写しは、ほかにもございます」
「うん」
「それから、ラルソウムに昔から伝わるものを」
「文字記録?」
「それもございます。古い歌も。物語も」
「成立年代は分かる?」
「ものによります」
「伝承経路は?」
「……伝承経路?」
「誰から誰へ伝わったかだ」
「それも、長たちなら」
「精霊自身の記憶というのは?」
「直接、お話をお聞きいただけます」
「分かった」
キースは机の端にあった白紙を引き寄せた。
羽根ペンを取る。
「何を?」
「整理する」
まず一行。
《アムドアの穴――古記録》。
その下へ、短く書き加える。
年代。
記録媒体。
追記の有無。
人間側年代記との照合。
ラルソウム側古記録との照合。
長命精霊の証言。
そこまで書いて、手を止める。
「少なくとも」
キースは紙を見ながら言った。
「確認するべきなのは、アムドアの穴より古い時代に、本当に《穴》についての記録が存在したのか」
「はい」
「人間側と精霊側の記録が、どこから食い違っているのか」
「はい」
「そして、実際にその時代を知る精霊の記憶が、どちらと一致するのか」
「はい」
「その辺りだな」
「もう、お仕事をなさっておりますね」
ローゼンが言った。
キースは羽根ペンを止めた。
「これはただの整理だ」
「左様でございますか」
「そうだ」
「では、その整理の続きをラルソウムで」
「……君、案外しつこいな」
「よく言われます」
「誰に?」
「いろいろな方に」
「またそれか!」
ローゼンが小さく笑った。
*
先ほどまで確固としていた《行けない》という結論が、少しずつ形を失っていた。
代わりに、別の言葉が頭の中へ浮かぶ。
――自分の目で世界を見てみるとよい。
巫女の声だった。
「……ずるいな」
「はい?」
「いや。何でもない」
キースは古記録を慎重に机へ戻した。
「ローゼン」
「はい」
「まだ、君と旅に出ると決めたわけではない」
深紅の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「承知しております」
「だが、この記録については知りたい」
「はい」
「ラルソウムへ行けば、人間側とは別に残った資料を調べられる」
「はい」
「長く生きている精霊から、直接話も聞ける」
「はい」
「その結果を持って」
キースは北方地図のアムドアへ指を置いた。
「次に、ここへ行く」
「そのように、長はお願いしております」
「なるほど」
ようやく旅の形が見えた。
ただ精霊について北方へ行くのではない。
ラルソウムで資料を調べる。
そのあと、アムドアで現物を見る。
記録と現実を照合する。
その順番なら、少なくとも学者として意味は理解できる。
「今夜はここにいてくれ」
ローゼンが目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「この記録をもう少し調べたい。君にも聞きたいことがある」
「喜んで」
「それと」
キースは扉へ目を向けた。
「明日、神官会へ話をする」
ローゼンの顔が、ぱっと明るくなった。
「では――」
「まだだ」
先に釘を刺す。
「私は神官長だ。自分だけで決められる立場ではない。旅立つにしても、国を空けるための手続きがいる。そもそも許されるかどうかも分からない」
「はい」
「だから、そんなに嬉しそうな顔をするな」
「申し訳ございません」
謝りながら、まったく表情を隠せていなかった。
キースは諦めて、もう一度古記録へ目を落とした。
《アムドアの穴》。
指先で文字をなぞる。
数百年前。
あり得ない。
だからこそ、知りたかった。
書物の中で、世界はいつも整然としている。
年号があり、出来事があり、原因があり、結果がある。過去は終わったものとして頁へ閉じ込められ、読者は安全な場所からそれを眺めることができる。
だが、目の前の一枚は、その秩序をあっさりと壊していた。
過去が、現在と食い違っている。
どちらかが間違っているのか。
あるいは――。
そこまで考え、キースは首を振った。
考える材料が足りない。
分からないものを、分かったことにしてはいけない。
まずラルソウムで、別の記録を見る。
それでも食い違うなら、アムドアへ行って現実を見る。
答えは、そのあとだ。
「ところで」
キースは顔を上げた。
「何でしょう」
「薔薇の香りは、君のものなのか?」
ローゼンは少し考えてから、自分の白い髪へ鼻を近づけた。
「わたくしには、よく分かりません」
「自分で分からないのか」
「ラルソウムでは、いつも花の香りがしておりますので」
「なるほど」
本には書いていなかった。
キースは、なぜかそれが妙に可笑しかった。
世界について、何でも知っているつもりでいた。
ラルソウムという精霊の里についても読んだ。北方の地理も学んだ。ドワーフが山を穿って都市を築き、古い森にはエルフの集落が残っていることも知っている。精霊の性質も、〈混沌〉の危険性も知っている。
けれど、ラルソウムから来た精霊が薔薇の香りを連れてくることは知らなかった。
本当の風が、どんなふうに部屋へ入るのかも。
窓のない部屋の中で、キースは初めてそんなことを思った。
机の上の紙が、また小さく揺れた。
ローゼンが連れてきた風だった。
ほんのわずかな風。
それだけなのに、もう昨日までと同じ部屋には思えなかった。
まるで世界の方から、閉ざされた扉を叩きに来たような気がした。




