第二章 名を持たない巫女
メミスで最も高い場所に住む者には、名前がなかった。
それは秘密ではない。神殿に仕える者なら誰でも知っているし、都の民でさえ、月神ムーミストの巫女に個人の名がないことくらいは知っていた。
人々は彼女を《巫女》と呼び、神官たちは《巫女様》と呼ぶ。公文書には《月神奉祀巫女》と記され、祭儀の祝詞では《月を映す器》や《沈黙を聴く者》と称されることもある。
だが、そのどれも彼女自身の名前ではなかった。
生まれたときから、彼女には個人としての名が与えられていない。
それが、メミスの伝統だった。
*
「巫女様。西回廊の祈祷が終わりました」
若い女官がそう告げ、深く頭を垂れた。
白石を磨き上げた広間には、午後の柔らかな光が差し込んでいる。神殿の最奥にある《月の間》は、キースの私室とは違って大きな窓を持っていた。ただし昼であっても薄い銀幕が垂らされ、外から差す光は必ず一度、その布を透かしてから室内へ入る。
月の光は、太陽の光をそのまま受け取らない。ゆえに月へ仕える巫女も、世界を直接見るべきではない――そんな古い教義によるものだという。
広間の中央、高く設けられた座に巫女はいた。
白い祭衣を幾重にも重ね、長い髪を銀の飾り紐で束ねている。額には細い月冠が載せられていたが、首にも指にも余計な宝飾はない。
顔立ちはキースとよく似ていた。双子なのだから当然ではある。
しかし二人が並んで立てば、見間違える者はいないだろう。
キースは考えていることがすぐ顔に出る。苛立てば眉が寄り、納得できなければ口元が固くなる。神官長らしく振る舞おうとすればするほど、かえって十八歳らしい不器用さが目についた。
一方の巫女は、幼い頃から表情を隠すことを教え込まれている。
笑えば人が安心する。目を伏せれば、人はそこに神意を探す。黙れば、その沈黙さえ意味を持つ。
巫女の表情は、彼女個人のものではない。
そう教えられて育った。
「ご苦労であった」
巫女が答えると、女官はもう一度頭を下げ、そのまま退出しようとした。
だが、扉の前で足を止める。
「あの……巫女様」
「なんじゃ?」
まだ十代半ばほどだろう。奉仕に上がって日が浅い娘だった。叱責を覚悟しているのか、細い肩が目に見えて強張っている。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「許す」
「巫女様は……」
娘は一度ためらい、それでも意を決したように続けた。
「本当に、お名前をお持ちではないのでしょうか」
近くにいた年長の女官が息を呑んだ。
「何を申しているのです!」
「よい」
巫女は片手を上げて制した。
少女はすでに青ざめている。おそらく、聞いてから後悔したのだろう。
巫女はしばらく彼女を見つめ、それからわずかに笑った。
「持っておらぬよ」
「では、ご家族も……」
「わらわを巫女と呼ぶ」
「幼い頃から、ずっとですか?」
「そうじゃ」
少女の顔に困惑が浮かんだ。
幼い子どもには名前がある。親が呼び、兄弟が呼び、友人が呼ぶ。その当たり前を一度も持たずに育つことを、うまく想像できないのだろう。
「不便では、ありませんでしたか」
今度こそ年長の女官が止めようとしたが、巫女は視線だけでそれを制した。
「不便か」
思案するように繰り返し、少しだけ首を傾げる。
「さて。名を持ったことがないゆえ、名がある暮らしと比べようがないのう」
少女はますます困った顔になった。
「申し訳ありません」
「謝るほどのことでもあるまい。疑問を持つことまで禁じれば、神殿には鸚鵡しか残らぬ」
その言葉には、少女よりも年長の女官の方が複雑な表情を浮かべた。
巫女は面白そうに目を細める。
「下がってよいぞ」
「はい」
少女は深く礼をし、今度こそ退出した。
ほかの女官たちも祭具を片づけ、ほどなくして月の間には巫女一人だけが残された。
――いや。
「鸚鵡とは、ずいぶんな言い方だな」
柱の陰から声がした。
巫女は驚きもせずにそちらを見る。
「盗み聞きとは趣味が悪いぞ、キース」
「人聞きの悪いことを言うな。最初からいた」
「ならば、なお悪い」
柱の陰からキースが姿を現した。
神官長の正装ではなく、簡素な白衣をまとっている。評議を終えたあとらしく、いつにも増して疲れた顔をしていた。
「また揉めたのか?」
「また、とは何だ」
「その顔じゃ。おぬしは不満があると、眉間だけ十年ほど先に老ける」
キースは反射的に眉間へ手を当て、そこでようやく双子の片割れにからかわれたことに気づいて顔をしかめた。
「それを言うなら、お前は何を考えているか顔に出なさすぎる」
「巫女ゆえな」
「便利な言葉だ」
「便利じゃぞ。大抵のことはそれで済む」
巫女は座から降りた。
人前であれば、彼女が祭壇座を離れるだけでも女官が裾を支える。だが二人きりなら気にする様子もなく、長い祭衣を自分で持ち上げて窓際へ歩いていった。
銀幕の向こうに、メミスの町並みが白く霞んでいる。
「今日も豊穣を約束したそうじゃな」
キースは一瞬、返事をしなかった。
「ああ」
「葡萄は?」
「枯れている」
「オリーブは?」
「一部で実付きが悪い」
「羊は?」
「放牧地を移すことになる」
「なるほど」
巫女は静かに頷く。
「それでもムーミスト様は、豊穣を約束されたわけじゃ」
「やめてくれ」
キースの声が低くなった。
「今は誰もいない」
「だから言うておる」
「笑い事ではない」
「笑ってはおらぬよ」
巫女は銀幕へ指を触れた。薄布の向こうには遠くの農地まで見えるはずだったが、彼女の位置からは白い光に輪郭がぼやけるばかりだった。
「三百年。長いのう」
「お前まで他人事のように言うのか」
「わらわが生きたのは、そのうち十八年だけじゃ」
「それでも巫女だろう」
「そうじゃ」
「ムーミストの声を受けるために存在している」
「そう教えられた」
「なのに、何も聞こえない」
キースの声には怒りが滲んでいた。
もちろん、巫女へ向けた怒りではない。いったい誰に向ければいいのか、自分でも分からない怒りだった。
「お前が悪いとは思っていない。だが、神官たちは毎日、お前が神の声を聞いたことにする。今朝もそうだ。お前が聞いてもいない言葉を、あたかも神託のように――」
「キース」
「分かっている」
言葉を遮られ、キースは息を吐いた。
「民を不安にさせないためだ。国を保つためだ。神殿の権威が崩れれば、貴族も軍も混乱する。何度も聞いた」
「なら、なぜ毎度腹を立てる」
「納得していないからだ」
「正直じゃのう」
「お前は納得しているのか?」
巫女は答えなかった。
ただ、光の向こうにある都を見つめている。
キースはその横顔を見た。
二人は同じ日に生まれ、同じ血を持っている。幼い頃には同じ部屋で眠ったこともあった。
二人が生まれたアルセイド家は、メミスの現在の貴族制度よりも古くから月神ムーミストへ仕えてきた祭祀家系である。代々、その血統に男女の双子が生まれ、男児が神官長を、女児が巫女を継いできた。
キースには《キース=アルセイド》という個人名と家名が与えられた。
だが、彼女には個人名だけではなく、公に名乗る家名すら与えられなかった。
血を辿れば間違いなくアルセイド家の娘である。それでも神殿の記録において、彼女は誰かの娘でも、誰かの姉妹でもない。
ただ《巫女》だった。
物心がつく頃には、二人の役割は完全に分けられていた。
男児は神官長。
女児は巫女。
キースには名前があり、彼女にはなかった。
子どもの頃、それをおかしいと思ったことはない。世界とはそういうものだと信じていた。
月は夜空にある。石は地面へ落ちる。巫女には名前がない。
どれも同じくらい当然のことだった。
けれど、本を読むようになってから知った。
世界には、別の生き方がある。
土地ごとに神が違えば、祈り方も違う。生まれた子へ三つの名を与える土地もあれば、成人するまで仮の名で育てる民族もいる。
名を紙へ残さない者。名を潮へ預ける者。風の中だけで名を伝えるという、遠い北方の民。
そして近年、神学者たちの間では、もっと根本的な議論まで囁かれるようになった。
名を持たないものは、本当に存在しないのか。
記録されなかったものは、本当に世界から消えるのか。
古い教義ならば、答えは明白だった。
名は存在の輪郭であり、祈りは名を通じて届く。記されないものは、やがて世界の外へ零れ落ちる。
だが、それでは説明できないものが、世界のあちこちで見つかり始めている。
名もない。記録にもない。
それでも、確かにそこにいる者たち。
神殿の学者たちは例外と呼び、異端者は、それこそが本来の姿なのだと言った。
キースには、どちらが正しいのか分からない。
ただ、目の前の彼女だけは、昔から何も変わらずここに存在していた。
「なあ」
キースが言った。
「なんじゃ」
「お前は、自分に名前が欲しいと思ったことはないのか?」
巫女の指が止まった。
ほんのわずかな変化だったが、キースには分かった。人前では誰にも見せない種類の沈黙だった。
「急に何を言い出す」
「さっきの女官の話を聞いて、気になった」
「欲しいと言えば、つけてくれるのか?」
「……それは」
「ほれみろ」
巫女が笑う。
「答えられぬくせに尋ねるでない」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味じゃ」
キースは言葉を探した。
簡単な問いのようでいて、うまく形にならない。
「歴代巫女に名前を与えない理由は知っている」
「呪詛避け」
「ああ。真名を持たなければ、名を媒介にした呪術で直接狙われにくい。神格からの干渉も受けにくくなる。巫女を守るための制度だ」
「よく勉強しておる。さすが世界一の魔導士殿じゃ」
「茶化すな」
「褒めたのじゃが」
キースは顔をしかめ、それから今度はゆっくりと言った。
「名がないことで守れるとしても、本人がそれを望んでいなければ、それは守ったことになるのか?」
巫女は目を瞬いた。
次の瞬間、口元を押さえる。
「ふっ」
「何だ」
「いや」
肩が揺れた。
「何がおかしい」
「おぬしは、本当に神官長に向かぬな」
とうとう声を立てて笑い始めた巫女を前に、キースは不機嫌そうに腕を組んだ。
「どうしてそうなる」
「神官長ならば、こう答えるところじゃ。『古き制度には意味がある。巫女の安全は国家の安寧に通じる。個人の望みより、神殿と民を守ることが優先される』とな」
「それは十三神官が言うことだ」
「つまり、おぬしも神官長でなければ同意できるわけじゃ」
「……そうかもしれない」
「正直すぎると言うておる」
やがて笑いは小さくなり、巫女は窓際の小卓へ腰を預けた。祭壇座では決してしない姿勢だった。
「守る、か」
独り言のように呟く。
「この神殿は、その言葉が好きじゃ」
「否定できない」
「巫女を守る。神官長を守る。ムーミスト様への信仰を守る。国を守る。民を守る。秩序を守る」
一つずつ数えるように並べ、巫女は静かに続けた。
「そして守るためなら、檻を作ることも許される」
キースは黙った。
巫女は彼を見る。
「おぬしも同じであろう?」
「私?」
「十八にもなって、神殿の外へほとんど出してもらえぬ。婚姻を急かされ、子を残せと言われる。死なぬよう護衛をつけられ、危険な場所へは行くなと命じられる」
キースの顔が苦くなる。
「それは……」
「アルセイドの血統を守るためじゃ」
「分かっている」
「本当に分かっておるか?」
巫女は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「このところも、ずいぶん縁談を断っておるそうじゃな」
キースは露骨に嫌そうな顔をした。
「誰から聞いた」
「月神殿で神官長の縁談を秘密にできると思うておる方がおかしい」
「私の私生活だ」
「残念ながら、この神殿はそうは考えておらぬ」
「だから嫌なんだ」
キースは吐き捨てるように言った。
「顔も知らない相手の家柄と血統を並べた書類を渡されて、《この中から選べ》と言われる。それを婚姻と呼ぶのか?」
「世の貴族はだいたい似たようなものではないかの」
「だからといって、私まで納得しなければならない理由にはならない」
「おぬし、恋物語の読みすぎではないか?」
「関係ない」
「では、自由恋愛とやらへの憧れはどこから来た」
「……本を読むことの何が悪い」
「悪いとは言うておらぬよ」
巫女は楽しそうだった。
だがキースは笑えなかった。
「結婚したくないわけではない」
しばらくして、彼は小さく言った。
「ほう?」
「ただ、自分が誰を好きになるかも分からないうちから、神殿の方が先に私の妻を必要としているのが気に入らない」
巫女の笑みが少しだけ薄れた。
「妻だけではあるまい」
「ああ」
キースは眉を寄せる。
「まだ生まれてもいない子どもまでだ」
次の神官長。
次の巫女。
キースが誰と暮らしたいのか、子どもを望むのか、いつ家庭を持ちたいのか。そのようなことより先に、神殿は次代の双生継承者を必要としている。
キースという一人の青年よりも、《次の神官長の父》としてのキースを先に見ている。
「理屈は分かっている」
キースは言った。
「私たちの代で終わらせるわけにはいかない。そういう制度だ」
「そうじゃな」
「だから余計に腹が立つ」
「そこまで正直に言えるなら大したものじゃ」
「褒めているのか?」
「半分はな」
巫女は少しだけ視線を落とした。
「わらわは巫女であるかぎり、次代を残す側には回らぬ」
キースは黙って彼女を見る。
「ゆえに、通常ならばその役目はおぬしにある。神殿がおぬしの縁談に血眼になる理由も、理屈だけなら分かる」
「お前まで神官たちの味方をするのか」
「理屈が分かることと、好きであることは別じゃ」
巫女は自分の祭衣へ目を落とした。
「わらわには名がない。婚姻もせぬ。子も持たぬ。それが巫女として定められた生じゃ」
それからキースを見る。
「おぬしには名がある。家名もある。婚姻も許されておる。だが、誰と結ぶかまで自由とは限らぬ」
キースには名前があるが、自分の将来を自由に決められない。
彼女には名前すらなく、やはり自分の将来を決められない。
二人とも、神殿にとっては大切だから守られている。
大切だからこそ、人生の大半を先に決められている。
「わらわに名がないのと、よく似ておる」
そう言われるまで、キースは考えたことがなかった。
自分には彼女にはないものがある。
名前も、家名も、将来家庭を持つことさえ許されている。
それでも、その名でどんな人生を生きるかを、自分だけで決めることはできない。
「それでも、お前は私より自由に見える」
「それは、おぬしが勝手にわらわを大人物だと思っておるからじゃ」
「誰が」
「顔に書いてある」
「書いていない」
「なら、その名高き魔導で消したのかの」
キースは反論を諦めた。
巫女は笑いながら卓上の銀杯へ水を注ぎ、自分で一口飲んでから、もう一つの杯をキースへ差し出した。
正式な祭儀ならば、巫女が自ら給仕するなど許されない。
二人きりのときには、昔からこうだった。
「わらわにも、分からぬのじゃ」
不意に巫女が言った。
キースは杯を受け取ろうとした手を止める。
「何が?」
「名が欲しいかどうか」
先ほどまでの軽さは、もう声になかった。
「欲しいと思ったことがないわけではない。幼い頃、おぬしだけが呼ばれるのを羨ましいと思ったこともある」
「……初めて聞いた」
「言っておらぬからな」
「なぜ」
「言うて何になる」
穏やかな声だった。
諦めているようには聞こえない。むしろ、長いあいだ考え続けた末にたどり着いた言葉なのだろう。
「わらわは生まれた時から《巫女》じゃ。誰も別のものとしてわらわを知らぬ。なら、今さら名前を一つ与えられて、それが本当のわらわになるのか?」
「名前は名前だろう」
「そうか?」
巫女は杯の水面へ目を落とす。
「名は、その者を呼ぶためのものじゃ。だが、人は名に意味をつける。家をつけ、血をつけ、役をつけ、過去をつける。長く呼ばれれば呼ばれるほど、名の方が人を縛るようになる」
水面に細い光が揺れている。
「おぬしの《アルセイド》も、そうであろう?」
キースは答えなかった。
キース=アルセイド。
その名は彼自身を示すと同時に、月神殿の祭祀血統を示し、神官長という役職を示し、次代へ血を繋ぐ義務まで連れてくる。
名は、ただ自分を呼ぶためだけのものではない。
「わらわには、それがない」
「だから自由だと言うのか?」
「まさか」
巫女はすぐに否定した。
「名の代わりに《巫女》という役を背負わされておる。こちらの方が、よほど重い」
「なら――」
「じゃがな」
巫女はその先を遮るように続けた。
「名がないからといって、わらわが消えるわけでもない」
キースは口を閉ざした。
「ほれ。こうして腹も減るし、眠くもなる。おぬしに腹を立てることもあれば、笑うこともある。幼い頃、おぬしが神官長教育から逃げ出して貯蔵庫に隠れ、蜂蜜壺をひっくり返したことも覚えておる」
「その話は忘れろ」
「なぜじゃ。わらわの大切な記憶ぞ」
「人に話すなよ」
「名がなくとも、記憶はある」
巫女は笑った。
「好き嫌いもある。怖いものもある。欲しいものもある。ムーミスト様が黙っておられることに、腹が立つ日もある」
キースは驚いて彼女を見た。
巫女が神へ不満を口にしたのを、初めて聞いた。
「お前でも、そんなことを思うのか」
「なんじゃ、その言い方は」
「いや……」
「わらわを何だと思っておる」
「巫女」
「ほれ。それじゃ」
キースは言葉を失った。
巫女は楽しそうに笑っていたが、その目にはわずかな寂しさがあった。
「皆、そう呼ぶ。おぬしでさえな」
「では、何と呼べばいい?」
「知らぬ」
「それでは困るだろう」
「だから、わらわは《巫女》でよい」
「堂々巡りだ」
「人の名など、案外そのようなものかもしれぬぞ」
キースは杯の水を飲んだ。
冷たかった。
それだけのことが、妙に確かな現実として感じられた。
名がなくても、彼女はいる。
目の前で話し、笑い、水を飲んでいる。
その事実を証明するために、神殿の記録など必要ない。少なくともキースには、そう思えた。
「最近、妙な話を耳にする」
巫女が言った。
「どんな?」
「名を失っても消えなかった者。神殿に記録されておらぬのに、確かに生きている者。名を持たぬまま祈りを届けた者」
「神学者たちが議論している話か」
「おぬしも知っておったか」
「本なら読む」
「そうじゃったな。外には出ぬが、本の中ならどこへでも行く男じゃった」
「余計な一言だ」
「褒めておる」
「今日はそればかりだな」
巫女は笑った。
「昔ならば、名を失えば存在そのものが危うくなると教えられた。今も神殿ではそう教えておる」
「基本的には正しい」
「基本的には、な」
その言葉が、妙に耳へ残った。
正しい。
だが、絶対ではない。
世界のどこかで、これまでの教義から零れ落ちる何かが生まれている。
名を持たぬ者。記されぬ者。祈られぬもの。
それでも消えずに存在し続ける何か。
キースは、そんなものを自分の目で見たことがない。
本に書かれているだけだ。
いつものように。
「もし」
巫女が呟いた。
「もし?」
「名がなくとも生きられるのなら、名というものは、存在するために絶対必要なものではないのかもしれぬ」
「ずいぶん危険なことを言う」
「二人きりじゃ」
「私が告発するかもしれないぞ」
「おぬしにその度胸はない」
「……否定できないのが腹立たしい」
「じゃが、逆もあると思う」
巫女は真面目な顔になった。
「名がなくても生きられるからといって、名など不要だとも思わぬ」
「どういう意味だ?」
「先ほどの女官じゃ」
キースは、退出していった少女を思い出す。
「あの娘は、わらわに名がないことを不思議に思った。なぜじゃと思う?」
「普通は名前があるからだろう」
「それだけかの」
巫女は窓の向こうへ視線を戻した。
「誰かを、その人として呼びたいからではないか?」
キースは答えなかった。
「《巫女》は役じゃ。《神官長》も役じゃ。役だけで人を呼び続ければ、その者が役の下で何を考えているのか、いつか誰も見なくなる」
静かな言葉だった。
だが、それはキースの胸に妙な痛みを残した。
「名が存在を作るのか。存在が名を必要とするのか。わらわには分からぬ」
巫女は振り返った。
「だが、誰かを呼ぼうとすることそのものには、意味があるのかもしれぬな」
午後の光が、銀幕越しに彼女を照らしていた。
名前のない巫女。
月神の器。
沈黙を聴く者。
メミスでもっとも尊ばれ、そしてもっとも多くの者から役割だけで呼ばれる女。
けれど今、キースの目の前にいる彼女は、そのどれでもないように思えた。
十八年間、ともに生きてきた双子の片割れ。
それだけだった。
「何じゃ」
「いや」
「また難しい顔をしておる」
「考えていただけだ」
「本当に、おぬしは考えてばかりじゃな」
「悪いか?」
「悪くはない」
巫女は微笑んだ。
「ただ、たまには自分の目で世界を見てみるとよい」
キースは鼻で笑う。
「簡単に言うな。誰が私を外へ出してくれる」
「さてな」
「お前が許可してくれるのか?」
「巫女に、そのような神託は届いておらぬ」
真顔で言ってから、巫女は悪戯っぽく笑った。
キースは呆れた。
「三百年ぶりの神託がそれなら、民は怒るぞ」
「ならば、神に頼らず自分で決めればよい」
あまりに軽く口にされた言葉だった。
しかし、キースはすぐには返せなかった。
神に頼らず、自分で決める。
それは、この国で最も簡単そうに見えて、最も難しいことだった。
人々は三百年間、答えのない神へ問いを投げ続けてきた。神官たちはその沈黙に耐えきれず、自分たちで答えを書いた。
けれど、その答えを人間のものとして語る勇気までは持てなかった。
「……お前も本当は、神殿のやり方に納得していないんじゃないか」
キースが言った。
巫女はすぐには答えず、やがて月冠へ手を触れた。
「わらわは巫女じゃ」
「またそれか」
「だからこそ、簡単には捨てられぬものもある」
彼女は静かに続ける。
「この制度に守られた命もあろう。ムーミスト様の名があったから生きられた者もおる。神殿が嘘をついたから、戦わずに済んだ日もあったかもしれぬ」
「ああ」
「だから、すべて間違いだったとは言いたくない」
キースも同意した。
それが二人の苦しさだった。
腐っているから壊せばよい、と言えるほど単純ではない。
三百年続いた制度には、三百年ぶんの罪がある。
同時に、三百年ぶん守ってきた暮らしもある。
「じゃが」
巫女の声が、少しだけ低くなった。
「続いたことと、これからも続けるべきことは、同じではない」
キースは彼女を見た。
巫女はもう笑っていなかった。
窓の向こうには白い城壁があり、そのさらに先には、キースがまだ自分の足で歩いたことのない大地が広がっている。
「もし、いつか選ばねばならぬ日が来たなら」
巫女は言った。
「神が何を望むかではなく、おぬしが何を選ぶかを考えるがよい」
「神官長に言う言葉ではないな」
「だから言うたであろう」
ようやく彼女は笑った。
「おぬしは、本当に神官長に向かぬ」
「お前も、巫女に向いているとは思えない」
一瞬、静寂が落ちた。
それから巫女は、今度こそ心から楽しそうに笑った。
「なら、似た者同士じゃな」
キースも小さく笑った。
そのときだけは、神官長でも巫女でもなかった。
アルセイドの名を持つ者と、その名すら持たない者でもない。
ただ同じ日に生まれ、同じ神殿で育った二人の若者だった。
やがてキースは月の間を辞した。
長い回廊を自室へ戻りながら、何度も先ほどの言葉を思い返す。
名がなくても存在できる。それでも、誰かを呼ぶために名を求めることには意味がある。
そして、神が答えないなら、自分で選ぶ。
どれも神官学校ならば、教師から小言を受けそうな考えだった。
キースは苦笑しながら、自室の扉を開ける。
いつもと同じ、窓のない部屋。
いつもと同じ、本の匂い。
変わらない世界が、そこに待っていた。
少なくとも、その時のキースにはそう見えた。




