第一章 三百年間、神は答えていない
月神ムーミストは、今年も豊穣を約束した。
白い神殿の正面階段、その最上段に立った神官がそう読み上げると、広場を埋め尽くしていた人々は一斉に頭を垂れた。
まだ朝日は低い。白く磨かれた石畳には夜の冷たさが残り、人々の吐息が淡い霧となって漂っている。農夫、商人、職人、兵士。幼い子どもを抱く母親もいれば、杖に体重を預けた老人もいる。丘の上に建つ月神殿から見下ろせば、無数の頭は風に揺れる麦穂のようだった。
ただし、本物の畑には、もうこれほど豊かな穂は残っていない。
「月は満ち、葡萄は実り、オリーブの枝は重く垂れるであろう。民よ、恐れることなく、それぞれの務めを果たせ。月神ムーミストは夜ごと汝らを見守り、その祈りを聞き届けておられる」
朗々とした声が、朝の冷たい空気を渡っていく。
人々のあいだから安堵の吐息が漏れた。今年は大丈夫だ。神はまだ私たちを見捨てていない。そんな囁きが、広場の端から端へ静かな波となって広がっていく。
神殿の高廊に立つキースは、その光景を見下ろしていた。
白と銀を基調とした高位神官服。その胸には、神官長を示す銀月章が輝いている。十八歳の青年が身につけるには、あまりにも重い装束だった。
キースは手すりへ置いた指に、わずかに力を込める。
――豊穣を約束した。
自分は、そんな文章を書いていない。
昨夜、神官会へ渡した《神託原文》には、今年の収穫を保証する言葉など一つも入れなかった。民へ備えを促すこと。土地の異変を軽視しないこと。倉を満たし、冬に備えること。そのように解釈できる文章にはした。
だが、十三神官による解釈を経て、今朝、民衆へ公布された言葉は――《月神ムーミストは、今年も豊穣を約束した》になっていた。
「……約束、か」
キースは小さく呟いた。
隣に控える老神官には聞こえなかったらしい。あるいは、聞こえないふりをしたのかもしれない。どちらでもよかった。
問題は、神官たちが言葉を飾ったことではない。もっと前にある。もっと深いところに、すべての始まりがある。
そもそも昨夜、月神ムーミストは何一つ語っていない。
*
神託の夜には、古くから定められた手順がある。
月神殿最上層の《月読室》へ巫女が入り、日没から夜明けまで、ただ一人で祈る。そこへ神官は入れない。神官長さえ例外ではない。
月神と巫女のあいだへ、人の言葉を挟んではならない。それが、メミスに古くから伝わる決まりだった。
朝になると巫女は月読室から出て、そこで受けた神意をまず神官長へ託す。
神の意思とは、人間の言葉のように明瞭なものとは限らない。夢であることもあれば、像や光、月相、方向、感覚として伝わることもある。ときには一つの言葉だけが残され、あるいは説明することのできない確信として巫女の内に宿る。
それらを神官長が《受託記録》として整え、神託原文へ変換する。そして十三神官が原文を解釈し、国政へ適用する。
巫女は受ける者。神官長は認証する者。十三神官は解釈する者。
それが、メミスという国を三百年以上支えてきた制度だった。
少なくとも、国民も、神官も、十三神官自身もそう信じている。
キースは広場へ響き渡る神託を聞きながら、今朝の出来事を思い返していた。
夜が明ける直前、月読室の白い扉が開き、薄い銀衣をまとった巫女が姿を現した。
キースと同じ日に生まれた、もう一人の人間。双子であり、同じ血を持ちながら、生まれた瞬間から別々の役割を与えられた者。
二人が生まれたアルセイド家は、今の貴族制度よりも古くから月神殿に仕えてきた祭祀血統だった。男児は神官長、女児は巫女――代々、同じ血に生まれた男女の双子が、この二つの座を受け継いできた。
彼女は何も言わなかった。キースも何も尋ねなかった。
必要がなかった。
巫女は一枚の薄い銀板を差し出した。《受託板》――本来ならば、そこには巫女が受けた神意の要点が記される。
キースはそれを受け取った。
何もなかった。
文字も、印も、構文反応もない。ただ磨かれた銀の表面に、疲れ切った自分の顔が映っているだけだった。
巫女は静かに言った。
「何もない」
それだけだった。
キースは驚かなかった。何もなかったのは昨夜だけではない。その前も、さらにその前も、彼女が巫女となってから一度として、月神ムーミストから神託と呼べるものは届いていない。
そして、それは彼女の代だけではなかった。
キースが神官長となった日、歴代神官長だけが開くことを許された地下書庫で、一冊の記録を渡された。
装飾のない黒い表紙。題名すらない。
最初の頁には、ただ一文だけが記されていた。
――月神より、明確なる応答なし。
次の頁にも、《応答なし》。
その次も同じだった。
さらに頁をめくっても、記された年月だけが進んでいく。巫女の代が変わり、神官長の名が変わる。王が死に、戦が起こり、飢饉が来て、疫病が流行し、国境が動く。
それでも記録された答えは、ひたすら同じだった。
――応答なし。
その記録は、三百年前まで遡った。
キースは、その日初めて知った。
月神ムーミストは三百年間、メミスへ神託と認証できる明確な答えを返していない。
そして、その事実を知ることそのものが、神官長という役職に課された秘密だった。
十三神官にも知らされない。神殿の高位神官にも、貴族にも、国民にも。
たとえアルセイドの血を引く者であろうと例外ではない。
知るのは、その代の巫女と神官長。そして次代へ秘密を渡すために残された、わずかな記録だけだった。
では、その三百年間に公布され続けてきた神託とは何だったのか。
答えは簡単だった。
人間が作った。
最初は、おそらくもっと慎重だったのだろう。月の形、気候、巫女が感じたわずかな違和感、古い神託との類似、祭具の反応、そして国家情勢。それらを読み解き、《もしかするとムーミストはこう望んでいるのではないか》と文章にした。
やがて、それは《前の神官長がそうしたから》《さらにその前もそうしたから》《国を混乱させるわけにはいかないから》という理由へ変わっていった。
そして三百年後。
十八歳のキースの机へ、空白の受託板が置かれた。
昨日の夜、キースはその空白を前にしながら、西部農区の収穫報告を読み、南部の気象記録を確認した。過去の豊穣神託を三十六件並べ、十三神官が求めている政治的判断を考えた。
そして文章を作った。
神の言葉として、自分の手で。
その文章が今、広場で読み上げられている。
「月神ムーミストは、今年も豊穣を約束した」
キースは目を伏せた。
ムーミストは何も約束していない。
約束したのは、人間だ。
その人間の一人が、自分だった。
*
神官会の円卓には、葡萄畑の地図が広げられていた。
朝の神託公布が終わってから、一刻も経っていない。
メミスを取り囲む農地は、かつてこの都市国家の誇りだった。丘陵には葡萄畑が連なり、乾いた平地ではオリーブが育つ。さらに外側の牧草地では、羊の群れが白い雲のように移動する。
旅の本には、今でもそう書かれている。
だが、円卓に広げられた地図の上に置かれた黒石の数は、年々増えていた。
「西部第七農区。収穫量は前年の八割」
十三神官の一人が報告書を読み上げる。
「南西部第三農区では葡萄樹の枯死が拡大しています。原因は確認できておりません」
「病害ではないのか?」
「葉腐れ、根腐れともに確認されておりません。土壌からも既知の毒性物質は検出されませんでした」
「ならば水だ」
「水路にも異常はありません」
別の神官が苛立たしげに机を指で叩く。
「何もないのに木が枯れるなど、あるものか」
「実際に枯れている」
キースが言うと、円卓が静まった。
ここにいる誰よりも若い。だが、彼は神官長だった。
キースは地図へ目を落とす。
「北東の牧草地は?」
「一部で変色が始まっております。家畜への異常は確認されていません。ただ、羊飼いたちから放牧地移動の嘆願が出ています」
「許可すべきだ」
「移動先はヴァレイン家の領地です」
「羊は領地境を知らない」
何人かの神官が眉をひそめた。
「草が死んでいる場所へ置き続けるよりいい。地主には神殿から補償を出す」
「前例がありません」
「ならば作ればいい」
「神官長」
最年長の神官が、諭すような声を出した。
「国の制度とは、そのように簡単に動かしてよいものではありません」
「葡萄の木は、我々が制度を整えるまで枯れるのを待ってくれない」
老人は口を閉ざした。
キースは小さく息を吐く。
まただ。いつも同じだった。
現実より前例。人命より家格。目の前で起きていることより、これまでどうしてきたか。そして最後には、神託へ行き着く。
「民の不安については、今朝の神託である程度収まるでしょう」
一人の神官が言った。その声には悪意がなく、本当にそう信じているのだと分かった。
「月神が豊穣を約束された以上、買い占めも落ち着くはずです」
キースの指が止まった。
「……豊穣を約束された?」
「はい」
神官は不思議そうにキースを見る。
「今朝、公布された神託です」
「私は、収穫が必ず増えるとは書いていない」
わずかな沈黙が落ちる。
「神官長が認証された原文には、《月は未だ民を見捨てず、備えある者に実りは還る》と」
「だから備えろ、という文章だ」
「ですが、それこそ豊穣の兆しではありませんか」
別の神官が口を挟んだ。
「巫女様が受けられた御心を神官長が言葉へ整えられ、それを我々が解釈した。民に不安だけを与えるより、神の加護を明確に伝えるべきだというのが評議の判断でした」
キースは何も言えなかった。
彼らは知らない。
この男は本気で、巫女が何かを受けたと思っている。今朝の神託のどこかに、ムーミスト本人の意思が存在すると信じている。
それは間違っている。
だが、その間違いを作ったのは十三神官ではない。
キースだった。
「……神託は、都合のよい言葉へ変えるためにあるのではない」
ようやく、それだけ言った。
老人が静かに答える。
「解釈とは、神意を人の世へ適用するためにあるものです」
「神意と、人の希望は違う」
「承知しております」
本当に承知しているのだろう。少なくとも、この老人自身は。
だからこそ、余計に苦しかった。
もしここで、《神意など最初からない》と言えたなら、どれほど楽だろう。
今朝の神託は巫女が受けたものではない。私が書いた。神は何も言っていない。三百年間、一度も。
そう言えばいい。
だが、その言葉のあとに何が起こるのかを、キースは知識として知っていた。
国の宗教的正統性。貴族の統治権。神殿の裁定。婚姻認可。魔導士資格。税制。過去の戦争。国境。刑罰。
そのすべてに、程度の差こそあれ神託が関わっている。
三百年間の神託が、実際には神の言葉ではなかった。
そう公表した瞬間、現在だけではなく、過去そのものが揺らぐ。
「神官長?」
呼ばれ、キースは思考を切った。
「……次へ進めてくれ」
若い神官が立ち上がり、新たな書類を配った。
「魔導士登録台帳についてです」
キースは最初の頁を見ただけで眉を寄せる。
「これだけか?」
「はい。今年度、イースを有すると確認された新生児は十一名。そのうち、正式な魔導士教育を受けられる家格に生まれた者は三名です」
「残りの八名は?」
「平民です」
キースは顔を上げた。
「なら、八名も訓練すればいい」
円卓の空気が固くなった。
「それは法に反します」
「知っている」
「でしたら――」
「知っているから言っている」
キースは報告書を机へ置いた。
「イースを持って生まれるかどうかを、人間が決められるのか?」
「いいえ」
「なら、なぜ魔導士になれるかを家柄で決める?」
「古くからの国法です」
「それは理由ではない。歴史だ」
誰も答えなかった。
メミスでは、イースを持って生まれただけでは魔導士にはなれない。神殿に登録され、然るべき教育を受け、資格を認められて、初めて正式な魔導士となる。
そして、その教育を受けられるのは原則として貴族だけだった。
平民にイースが現れても記録だけはされる。だが訓練は許されず、力が自然に目覚めれば封じられ、隠して使用すれば罪に問われる。
「神官長」
老人が低い声で言った。
「魔導は力です。誰にでも扱わせれば、国の秩序は崩れます」
「生まれた時点で、すでにその者の中にある」
「だから管理が必要なのです」
「貴族なら安全なのか?」
「教育と責任を負わせることができます」
「平民には教育そのものを与えていない。それで責任だけ求めるのか」
話が円を描いている。
キースは額に指を当てた。何度この議論をしたのか、もう覚えていない。
それでも数字は悪化し続けていた。
かつてメミスには、現在の十倍近い魔導士がいたという。古記録には、魔導士だけで軍団を組織できた時代さえ残されている。
空を飛ぶ部隊。炎の壁。一夜で引かれる水路。干魃の地へ雨を呼ぶ術者。怪物の群れを焼き払う術師。
キースが知っているのは、すべて記録の中だけだ。
今では辺境守備隊へ魔導士を一人配置することすら難しい。
しかも、減っているのは人数だけではなかった。
「先月の魔導事故は?」
「四件です」
「前年同月は?」
「一件」
「内訳を」
「共鳴炉の暴走一件。治癒術式の逆流一件。結界展開時の術式崩壊二件」
「術者の技量に問題は?」
「全員、正規教育修了者です。一名は二十年以上の経験を持っています」
キースは椅子へ深く背を預けた。
魔導士が減っている。土地が痩せている。残った魔導士の術まで不安定になり始めている。
一つなら偶然と呼べる。二つなら、それぞれに原因を探せる。
だが、すべてが同じ方向へ傾き始めている。
まるで世界を支えていた何かが、見えないところから少しずつ抜け落ちているようだった。
「この件については、公表を控えるべきです」
一人が言った。
「民衆の不安を煽ります」
キースは目を閉じた。また同じ言葉だった。
「事故の詳細は伏せてもいい。だが魔導士には共有しろ」
「しかし――」
「原因が分からない以上、同じ事故は起きる。知らずに死ぬ者が出る方が問題だ」
「……承知しました」
「それから、平民に生まれた八名の所在を確認しておいてくれ」
老人が眉を寄せる。
「何をなさるおつもりで?」
「何もしない。今は」
自分で言っておいて、情けなかった。
何もしない。
制度を変だと思っている。間違っているとも思っている。だが、それを壊したあとに何が起こるのかが分からない。
平民へ魔導教育を開放する。文章にするだけなら簡単だ。
だが貴族は反発する。神殿の権威も揺らぐだろう。魔導を持たない平民と、新たに魔導を学んだ平民との間に、別の階級が生まれるかもしれない。力を得た者が、必ず善良である保証もない。
改革。革命。解放。
歴史書では美しい言葉だった。
悪い王を倒し、腐った制度を壊し、英雄が新しい時代を作る。
だが現実には、制度を壊した翌日の頁など用意されていない。
自分は知らない。
世界を。人を。
神殿の外で、人々がどうやって暮らしているのかさえ。
そんな自分が、何を正しいと決められるのか。
「本日の評議はここまでにする」
キースが告げると、神官たちは次々に立ち上がった。何人かは、わずかに安堵しているようにも見えた。
難しい問題ほど、明日へ送れば今日は終わる。
キースはそれを責められなかった。自分も同じだったからだ。
三百年間、歴代の神官長は今日だけ国を壊さないために、明日へ真実を送り続けてきたのかもしれない。
その結果が、今だった。
*
神殿高層にあるキースの私室は、広さのわりに物が少なかった。
寝台、机、衣装櫃、小さな暖炉。そして、本。
壁一面の書架だけでは足りず、机の脇にも床にも、本が積み上げられている。世界地誌、神代史、魔導理論、精霊学、異国の紀行文、詩集、恋物語。神官長の部屋には相応しくないと注意された戯曲まであった。
キースは高位神官服を脱ぎ、椅子の背へ放った。胸から外した銀月章を机へ置くと、小さな音がした。
たったそれだけで、少し呼吸が楽になる。
手に取ったのは、南方を旅した商人の紀行だった。
見たこともない海。巨大な帆船。市場を埋める香辛料。肌の色も、話す言葉も違う人々。奇妙な果実。そして、夜になると青く光る海。
頁をめくる。
世界は広い。
キースは、それを知っている。
本で。
北には雪に閉ざされた土地があり、西には山脈を穿って都市を築く民がいる。海の向こうでは潮そのものへ祈る人々が暮らし、精霊は人間とは違う方法で世界へ触れる。竜は空を飛び、怪物は森に棲み、古い神の遺跡が大地のあちこちに眠っている。
文字になったことなら、何でも知っている。
だがキース自身は、メミスの城壁の外へほとんど出たことがなかった。遠出らしい遠出は幼い頃の一度きりで、都の市場へすら自由には降りられない。
神官長が街を歩けば警護が必要になる。暗殺の危険もある。そして何より神官会が、神官長という人間を失うことを許さない。
キース自身もまた、自分がいなくなれば、地下書庫の秘密を知る者が巫女一人だけになってしまうことを知っていた。
だから彼にとって、世界は本の中にある。
土の匂いも、海の味も、雪原を渡る風も、怪物の咆哮も、すべて誰かが書いた文章として知った。
そんな自分を、人々は《世界一の魔導士》と呼ぶ。
キースは本を閉じ、苦笑した。
「世界一……」
魔導力だけなら、間違いではないらしい。
幼い頃からキースのイースは異常なほど強かった。術式試験では歴代神官長の記録を次々に塗り替え、教官三人がかりの結界を一人で維持し、上級魔導書に記された術式も一度読めば大半を再現できた。
だが、それだけだ。
人へ向けて魔導を放ったことはない。本物の怪物と戦ったこともなく、誰かに殺されかけたことさえほとんどない。神殿の警護が、その前に危険を排除してきた。
力だけはある。
使うべき場所を知らない。
その自分が世界一と呼ばれるたび、キースは居心地の悪さを覚えた。
机には今日の報告書が積まれている。魔導士出生数、事故件数、農作物の収穫予測。そして一番下には、今朝公布された神託の写しがあった。
キースはそれを引き抜く。
正式公布文。月神殿の印。十三神官の解釈認証。そして神官長の承認。
自分の名がある。
キース=アルセイド。
その署名を見つめた。
神託が嘘なのではない。
それだけなら、まだ単純だった。
本当と嘘が、綺麗に分かれているわけではない。農地の異変は本当であり、民が不安に怯えているのも本当だ。買い占めを防ぎたいという十三神官の判断も理解できるし、備蓄を急ぐべきだというキースの考えも嘘ではない。
だから自分は、それらを一つの文章へまとめた。
そこに、ムーミストという名を載せた。
すると、それは神託になった。
キースは紙を机へ伏せた。
もし神が存在しないのなら、まだ簡単だったかもしれない。
だが、ムーミストはいる。
月神ムーミストという神格は、間違いなくこの世界に存在している。その神威も、神域も、祈りによって起こる現象もある。神の存在そのものを疑う必要はない。
だからこそ、なお悪かった。
存在している神の名を使い、その神が語らなかった言葉を、人間が語らせている。
しかもムーミストは反論しない。
三百年間。
いや――本当に三百年間、何も示していないのだろうか。
キースは時折、その疑問を抱く。
月神は沈黙の神でもある。人間の前へ頻繁に姿を見せる神ではない。神殿へ降りてきて王へ命令を与え、神官と談笑するような神格ではなかった。
ならば、人間が《神託》と呼べる形式で答えなくなっただけなのではないか。
月の光。仮面。夢。沈黙。記録されなかった何か。
人間が見落としているだけではないのか。
そして、もっと嫌な疑問もあった。
過去のムーミストは、本当に人間が記録したように語っていたのか。
三百一年前まで、国政について細かな命令を出していたのだろうか。税を決め、婚姻を認め、戦争を許し、王を選び、土地の境界まで定めていたのか。
その記録を書いたのも、結局は人間ではないのか。
「……考えたところで、答えはないか」
キースは目を閉じた。
月神本人に聞ければ、それが一番早い。
けれど、その月神が答えない。
机上の燭台が揺れた。燃料が尽きかけている。
キースは指先を向け、ごく簡単な魔導を使った。青白い光が一瞬だけ指を包み、消えかけていた炎が安定する。
神官学校へ入ったばかりの子どもでも使える術だった。
だがキースの魔導は、必要以上に澄んでいた。魔力の揺らぎがほとんどない。
この力だけを比べれば、今のメミスに彼を超える者はいない。世界を探しても、おそらくほとんどいないだろう。
それなのに、机の上にある一枚の報告書すら、どうすることもできない。
西部第七農区。収穫量、前年の八割。来年も同率で減少した場合、冬季備蓄に不足が生じる可能性あり。
魔導なら使える。炎も出せる。水も呼べる。石も砕ける。
それでも、なぜ大地が痩せているのかは分からない。なぜ魔導士が生まれなくなっているのかも、なぜ熟練の魔導士の術が突然崩れるのかも分からない。
そして、なぜ月神ムーミストが三百年間、神託と呼べる言葉を返さないのかも。
世界一の魔導士。
今夜は、その呼び名がひどく滑稽に聞こえた。
キースは椅子へ身体を預け、書架を見上げた。
そこには世界のすべてがあるように見える。地図があり、歴史があり、神々の名がある。精霊の研究書も、失われた文明の記録もある。
けれど、どれだけ本を読んでも、頁を閉じれば彼は窓のない部屋へ戻ってくる。
世界についてなら、いくらでも語れる。
世界がどんな匂いをしているのかは、知らない。
神についてなら、いくらでも講義できる。
自分が仕えている神が何を考えているのかは、知らない。
そのことを、十八歳のキースは誰にも言ったことがなかった。
いや、一人だけいる。
同じ秘密を知っている者が。
月読室で、毎夜、答えのない神を待つ巫女。
キースは少し迷ってから立ち上がった。今から彼女のところへ行っても、何も変わらない。尋ねたところで、きっと同じ答えが返ってくる。
――何もなかった。
それでも、今夜くらいは一人でいたくなかった。
そのとき、神殿の外で夜の鐘が鳴り始めた。
月神ムーミストへ祈りを捧げる時刻を告げる鐘だった。
一度。二度。三度。
都の家々で、人々が祈り始める。
葡萄が実りますように。病気が治りますように。子どもが無事に生まれますように。戦争が起こりませんように。そして、明日も今日と同じ日でありますように。
人間は神へ問い続けている。
救いを。正しい道を。未来を。
キースは机の上にある神託公布文へ目を向けた。
明日も十三神官は神託を解釈する。彼らは、その向こうに月神の意思があると信じている。国民も同じように信じている。
そして次に神託が必要になれば、また巫女は月読室へ入る。
彼女は夜明けまで待つ。月を見上げ、祈る。
そして、おそらく何も受け取らない。
その空白が、神官長であるキースのもとへ運ばれてくる。
そこで彼は選ばなければならない。
空白を、空白のまま差し出すのか。
それとも、また神の言葉を書くのか。
キースは目を閉じた。
彼が恐れているのは、ムーミストが答えないことではなかった。
神が答えないのなら、本来、人間は自分で考えればいい。自分で決め、自分で責任を負えばいい。
怖いのは、三百年も神が答えていないというのに、誰もそのことを知らないまま、この国が何事もなかったように続いていることだった。
そして何より、その沈黙を隠す最後の一人が――今は自分だということだった。




