序章 アムドアには、穴ができる前から穴があった
穴の底には、夜があった。
少なくとも、初めてそれを見た者たちは、そう記録している。
もっとも、「黒い」という表現は正確ではない。黒とは光が失われたときに生じる色であり、そこには色と呼べるものすらなかった。深さは測れず、底も見えず、その向こう側があるのかさえ分からない。ただそこだけが世界から切り抜かれたかのように、何も存在していなかった。
人々は、いつしかそれを《アムドアの大穴》と呼ぶようになった。
北方大陸シェリグラートの中央部。かつてアムドアの都があったとされる場所を中心として、広大な大地そのものが失われている。地面が陥没したのではない。土も岩も、建物も人も、そこにあったはずのものが残骸ひとつ残さず消失し、その代わりに現れたのが〈混沌〉だった。
人の魔導が及ばぬもの。精霊ですら近づくことを嫌うもの。触れた物質を呑み込み、形あるものと形なきものの境界さえ曖昧にしていく、世界の始まりより以前から存在したとも語られるもの。
大穴の周囲には幾重もの封鎖線が張られていた。石柱と魔導杭が雪原を取り囲み、その間を淡い光の膜が渡っている。人の背丈よりも高い杭には毎朝、新しい観測値が刻み直された。昨日と同じ位置へ置いたはずの杭が、翌朝には半歩ぶんだけ穴へ近づいていることがあったためだ。
杭が動いたのか。大地が動いたのか。それとも、穴の方から近づいてきたのか。
誰にも分からなかった。
それでも調査は続けられていた。分からないからこそ、記録しなければならない。少なくとも、アムドアへ集められた魔導士たちはそう信じていた。
*
その日、発掘坑の最深部から知らせが上がったのは、昼を過ぎた頃だった。
「石積みが出ました」
知らせを受けた調査員たちは、初め何のことを言われたのか理解できなかった。
「石積み?」
「はい。自然岩ではありません。明らかに加工されています」
「都の基礎じゃないのか」
「それが……深すぎるんです」
その最後の言葉で、天幕の空気が変わった。
アムドアの都について分かっていることは少ない。〈混沌〉に呑まれたため、都市そのものを直接調査することができないからだ。それでも、封鎖地外縁に残された地層や崩れた石材、地下水路の断面などから、かつてどこまでが都市の建築層だったのか、おおよその範囲までは判明している。
発見された石積みは、そのはるか下にあった。
「見間違いではないのか?」
「三度測りました」
「なら、古い水路か何かだろう」
「水路なら、都市より古いことになります」
誰かがそう言ったきり、しばらく言葉が続かなかった。
やがて調査団の数人が、防寒具の上から観測用の外套を羽織り、発掘坑へ降りていった。
雪原を割って開かれた坑道は、地下へ向かうほど空気が乾いていった。松明の炎は妙に細く、ときおり風もないのに横へ倒れる。壁には地層の年代を示す細かな札が打たれており、降りていくにつれて《アムドア末期》《都市中期》《初期》と年代が遡っていった。
だが、初期の地層を過ぎても階段は終わらなかった。
やがて人の住居跡がなくなり、陶片も灰も姿を消し、文明の痕跡そのものが途絶える。
石積みが見つかったのは、そのさらに先だった。
「ここです」
先行していた魔導士が灯りを掲げると、岩肌の一部に不自然な直線が浮かび上がった。自然が作った割れ目ではない。灰白色の大石を切り出し、隙間なく積み上げた壁である。
しかも奇妙なことに、ほとんど風化していなかった。都市の最古層より深い場所にありながら、表面には刃で削ったような筋まで鮮明に残されている。
「……誰が作った?」
誰かが呟いたが、答える者はいなかった。
壁の中央には狭い入口があった。扉もなければ、封印らしきものもない。ただ、その先へ暗闇が続いている。
調査員の一人が、慎重に明かりを差し入れた。光は遮られることなく正常に奥まで届いたため、少なくとも〈混沌〉ではないと、その場では判断された。
中は小さな石室だった。装飾も、祭壇も、棺もない。壁画らしいものすら見当たらず、何のために造られた場所なのかを示すものは何ひとつ残されていなかった。
ただ中央に、ひとつだけ石板が置かれていた。
縦に長い黒灰色の板で、人ひとりで持ち上げるには重そうだが、巨石と呼ぶほどではない。表面を覆っていた薄い土を払うと、その下から浅く彫り込まれた線が現れた。
「円……?」
誰かが石板の前へ膝をついた。
中央には、大きな円が刻まれていた。だが、それは完全な円ではない。縁はところどころで途切れ、内側へ食い込むように歪んでいる。その周囲には短い線と小さな印が散らばり、地図のようにも、古い儀式図のようにも見えた。
ひとりの魔導士が紙を取り出した。現在の封鎖地を上空から写した観測図である。
石板の横へ並べられた二つの図を見て、誰も何も言わなかった。
言う必要がなかった。
石板に刻まれた歪な円環は、現在の《アムドアの大穴》と酷似していた。同じ場所が欠け、同じ場所が内側へえぐれている。偶然で片づけるには、あまりにも似すぎていた。
「待て」
別の研究者が石板へ顔を近づけた。
「まだ何かある」
円環の下、削れた石面に文字らしき痕跡が残されていた。調査員たちが集まり、その古い線を覗き込む。
少なくとも、現在のシェリグラートで用いられている文字ではない。精霊王朝の記号にも似ているものの、既知の体系とは合致しなかった。
それでも、完全に読めないわけではなかった。
文字は時代とともに形を変える。数百年、数千年を経ても、古い音が新しい言葉の中へ残ることはある。ひとりの研究者が、石面に触れないよう注意しながら指先で線を追った。
「……ラ……」
「何だ?」
「いや、待ってくれ」
指先が次の文字へ移る。
「ラグ……ナ」
そこで文字は途絶えていた。続きがあったはずの石面そのものが、大きく剥がれ落ちている。
読み取れるのは、そこまでだった。
誰かが野帳を開き、《ラグナ――》と記した。紙を擦る筆先の音が、妙に大きく石室へ響いた。
「何の名だ?」
「分からない」
「人名か?」
「それなら、この円は何だ」
「地名かもしれん」
「聞いたことがない」
ほどなくして議論が始まったが、その中でひとりだけ、黙ったまま石板を見つめている者がいた。まだ若い記録係だった。
彼が見ているのは文字ではない。その周囲だった。
「どうした?」
隣から声をかけられ、青年は顔を上げた。
「……いえ」
「何か気づいたのか?」
少し迷ってから、青年は首を振った。
「気のせいでしょう」
そう答えたものの、胸の奥に生じた違和感は消えなかった。
円環の外側、誰も注目していない場所に、細い線が幾重にも刻まれている。それは一つの円を描いた痕跡ではなかった。同じ場所へ何度も円を描き直したように、最初の線へ次の線が重なり、その上へさらに新しい線が刻まれている。
どれもよく似ている。
だが、完全には重ならない。
青年は一度だけ現在の観測図へ目をやり、再び石板へ視線を戻した。その瞬間、嫌な考えが脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。
そんなはずがない。
アムドアの大穴は、アムドアが消滅したときに生じたものだ。それが現在知られている歴史である。ならば、この石板に刻まれた図の方に別の意味がある。
そうでなければならない。
「この石室の年代を、もう一度調べてくれ」
誰かが言った。
「周囲の地層もだ。誤差を洗い直せ」
「しかし、もし今の測定が正しいなら……」
そこで言葉が途切れる。
「言え」
「この遺構は、アムドアの都市建設より古いことになります」
誰も動かなかった。静まり返った石室では、松明が燃える小さな音だけが聞こえていた。
やがて、ひとりの研究者が乾いた笑いを漏らす。
「だったら、この図は何だ?」
答える者はいない。
彼は石板を指した。その声からは、もう笑いが消えていた。
「この穴は、アムドアが消えたときにできたのではなかったのか?」
沈黙が落ちた。
それは問いでありながら、答えを求める声ではなかった。もし答えがあるのだとすれば、これまで信じてきた歴史のどこかが崩れる。
あるいは――歴史より先に、別の何かが崩れる。
若い記録係は、誰にも見られないよう自分の野帳を開いた。
そして、一行だけ記した。
穴は、都市より古い。
書き終えた文字を何度も見返した。間違いなく、自分自身の筆跡だった。
*
翌朝。
石板から文字が消えていた。
正確には、石板そのものが変わったわけではない。円環は残っている。周囲に刻まれていた細い線も、欠損した部分も昨夜と同じだった。
ただ、《ラグナ――》という文字だけが、最初から存在しなかったかのように消えていた。
「昨日、ここに文字がありましたよね?」
若い記録係が訊くと、石室にいた魔導士が怪訝そうに振り返った。
「何の話だ?」
「この下です。ここに文字があったでしょう」
「文字?」
「読みました。《ラグナ》と。続きが欠けていて――」
相手は眉を寄せた。
「私はそんなものを見ていない」
青年は別の者のもとへ向かったが、返ってきたのは同じ答えだった。さらに別の者にも確かめる。
知らない。
覚えていない。
そんな記録はない。
「いや、待ってください」
青年は石室を飛び出し、地上へ駆け戻った。
観測天幕へ飛び込むなり、前日の調査報告書を引っ張り出す。石室発見、推定深度、石材、円環図。調査した内容はすべて記載されている。
文字についての項目だけがなかった。
石板の写しにも存在しない。
青年は複数の人間がそれぞれ取った記録まで調べたが、どこにも一字として残されていなかった。まるでその場にいた誰一人として、文字など見ていなかったかのように。
「そんな……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
昨夜、自分は確かに見た。石に指を当てて文字を追った研究者がいて、誰かが《ラグナ》と読み、その場にいた全員がその音を聞いた。何を意味する名なのか、議論まで交わしたはずだ。
それなのに、なぜ。
青年は震える手で自分の鞄を探った。
取り出したのは、革張りの野帳だった。公式記録ではない。調査の途中で気づいたことを、自分自身のためだけに書き留めている私物である。
急いで頁をめくる。
昨日の日付。
発掘坑。
石室。
円環。
そして――あった。
穴は、都市より古い。
「……あった」
まず胸に広がったのは安堵だった。
間違いなく自分の字だ。
最後の文字を少しだけ右へ流す癖も、句点をやや小さく打つ癖も、いつもの自分と変わらない。
自分は狂っていない。
少なくとも昨夜の自分も、確かに同じものを見て、同じ疑問を抱いていた。
だが、その安堵は長く続かなかった。
一行の横に、もうひとつ文章があった。
青年は息を止めた。
前夜には、なかった。
それだけは覚えている。
昨夜、この一行を書いたあと、何度も頁を見返したのだ。余白には何もなかった。少なくとも――彼はそう記憶している。
そこには、こう記されていた。
――ならば、これは何度目の穴だ?
青年はしばらく、その文字を理解できなかった。
知らない文字ではない。意味も分かる。
問題は、筆跡だった。
「……僕の、字?」
思わず声が漏れた。
似ている、という程度ではなかった。
最初の一行と並べれば、同じ人間が続けて書いたと言われても疑わないだろう。文字の大きさ。筆圧。語尾へ向かうにつれて、わずかに右上がりになる癖。問いを記すとき、最後の符号だけ強く押しつける書き方まで、自分のものに見える。
それでも、違う。
青年は野帳へ顔を近づけた。
細部を追って、ようやく気づいた。
いくつかの文字が、自分なら絶対にしない崩れ方をしている。
普段なら一息に引く線が、途中でわずかに切れている。逆に、二度に分けて書くはずの箇所が、一続きになっている。
自分の字を、誰かが真似たのか。
そう考えて、すぐに否定できなかった。
あまりにも似ていた。
では、自分が書いたのか。
それも、否定しきれなかった。
筆跡だけを見れば、自分が書いたと言われた方が自然だった。
ただ。
書いた記憶がない。
昨夜の記憶を辿る。
石室から戻った。
野帳を開いた。
考えた末に、
穴は、都市より古い。
と書いた。
そのあと頁を閉じた。
それだけだ。
――ならば、これは何度目の穴だ?
こんな問いを考えた記憶さえなかった。
青年は、もう一度二つの文章を見比べた。
上の一行は、間違いなく自分が書いた。
下の一行も、自分が書いたようにしか見えない。
なのに、一方には記憶があり、もう一方にはない。
どちらを信じればいいのか分からなかった。
記憶か。
記録か。
もし片方だけが間違っているのだとしたら――どちらが?
青年は野帳から手を離した。
紙の上に残された二つの文章は、何事もなかったかのように並んでいる。
そのとき不意に、誰かが背後に立っているような感覚に襲われた。
振り返る。
だが、天幕の入口は閉じたままだった。
風ひとつ吹いていない。
誰もいない。
青年はしばらく動けなかった。
やがて遠くから、低い音が響いた。
地鳴りのようにも聞こえた。
あるいは――巨大な何かが、世界のずっと奥で頁をめくった音のようにも聞こえた。




