第五十章 これはラグナ=ロークなのか
《ガイアの臍》に残された古代文字が、静かな光を帯びていた。
欠けた円環。その内側から伸びる幾本もの線。そして、アムドアの深層でも見た文字列。
《ラグナ――》
そこから先は、やはり存在しない。
削られたのか。失われたのか。それとも、最初からそこまでしか刻まれていなかったのか。
ソーサイアの構文が崩れ、《夢》と現実の重なりが薄れ始めても、文字そのものが修復されることはなかった。ただ淡い光だけが、古びた刻印の輪郭をゆっくりとなぞっている。
まるで、いま起きた出来事へ応えているように。
「触るなよ」
シビウが先に言った。
キースは文字へ伸ばしかけていた手を止める。
「まだ何もしてない」
「する顔してた」
「観察しようと思っただけだ」
「その言葉で、あんたが何回危ないものへ近づいたと思ってるんだい」
「今回は近づいただけだ」
「それを言ってんだよ」
シビウは呆れたように息を吐いた。けれど、その声には、これまでのような張りつめたものはなかった。
戦いは終わった。
少なくとも、ソーサイアが世界を一つの解釈へ固定しようとしていた構文は崩れた。
〈混沌〉そのものが消えたわけではない。ケーオスと思われた黒い影も、コスモスと呼ばれてきたものに似た白い光も、どこへ行ったのかは分からない。
ただ、今この瞬間、何かを呑み込もうとはしていなかった。
《夢》との重なりも薄れつつある。銀の湖はすでに遠く、白い花野も透けるように消え、《ガイアの臍》の廃都が少しずつ以前見た輪郭へ戻ろうとしていた。
世界は元に戻っている。
そう言いたくなる。
だが、キースはその言葉を使わなかった。
元とは、いつのことだ。
ソーサイアが構文を始める前か。《夢》が重なる前か。アムドアに穴が開く前か。白銀の時代か。黄金の時代か。それとも、もっと前なのか。
何を《元》と呼ぶかを決めなければ、戻ったとも言えない。
「キース」
ローゼンが呼んだ。
魂を重ねて以来、彼女は時折、そう呼ぶようになった。以前と変わらず《キース様》と呼ぶこともある。
どちらか一つへ統一するつもりがあるのかは、まだ分からない。
それも悪くなかった。
「何?」
「文字が」
ローゼンの言葉に、キースは再び壁面を見る。
光が強くなっていた。
《ラグナ――》
文字列の後方。本来なら続きが刻まれていてもおかしくない空白へ、細い光の筋が走っている。
「続きが出ますの?」
メルリルが駆け寄った。
「待て!」
「触りませんわよ!」
「君は興奮すると何をするか分からない」
「あなたに言われたくありません!」
二人で壁面を睨む。
光は空白へ広がったが、文字にはならなかった。
「……何ですの、これ」
メルリルが眉を寄せる。
「書こうとしてる?」
シビウが言った。
「あるいは」
キースは慎重に答えた。
「書かれないまま、終わろうとしてる」
「どっち?」
フユが尋ねる。
「分からない」
「うん」
「そこで納得するのか」
「分からないから」
いつもの答えだった。
キースは少し笑い、それから欠けた文字へ視線を戻した。
ラグナ。
その音を、以前にも読んだ。
アムドアの底で。
あの時、《王》はキロスの口を借りて警告した。
見るな。
それを、終わった戦争の名だと思うな。
終わったと思うな。
あの言葉が何を意味していたのか、今も分からない。
キースは腰の鞄へ手を伸ばした。
「何を?」
メルリルが横から覗く。
「前に取った写しを確認する」
取り出したのは、アムドアへ入ってから使ってきた革張りの調査帳だった。
頁をめくる。
三つの歴史。
地下構造。
未知文字。
《ラグナ――》。
アムドア深層で、メルリルと二人、ほぼ同時に取った写し。
一箇所だけ一致しなかった。
キースは自分の頁へ目を落とし、指を止めた。
「……何だ、これ」
「どうなさいましたの?」
メルリルが近づく。
円環の写しは変わっていない。
少なくとも、そう見える。
問題は、その下だった。
余白に一行、見覚えのない文章がある。
――ならば、これは何度目の穴だ?
キースは、しばらく声を出せなかった。
「あなた、これ……」
メルリルも読む。
「書きましたの?」
「いや」
即答した。
それから、自信が揺らいだ。
文字を見れば見るほど、自分の字だった。線の入り方。払い。最後の文字を僅かに右へ流す癖。
「……待て」
キースは頁を顔へ近づけた。
「似ていますわね」
「似てるんじゃない」
他の文章と見比べる。
「私の字に見える」
「では」
「でも」
キースは一文字を指した。
「私は、この字をこう崩さない」
「確かに」
「それから、ここの繋ぎ方も使わない」
「ですが」
メルリルは前後を見比べる。
「知らない者が真似たにしては、似すぎておりますわ」
「ああ」
「あなたが書いたと言われれば?」
キースは答えられなかった。
筆跡だけなら否定できない。
だが、記憶がない。
アムドア深層から戻った夜、写しを整理した。補助線が一致しなかったことを書き、《メレグ=ナフ》とは記さなかった。その先へ《ラグナ=ローク》とも書かなかった。
そこまでは覚えている。
――ならば、これは何度目の穴だ?
こんな一文を書いた記憶はない。
考えた記憶もない。
自分の記録なのに、自分の記憶と一致しない。
その構造を、キースはすでに知っていた。
ヴァギュイザール。
同じ最後の戦場について、《姫》が勝った記憶と、《王》が自ら武器を置いた記憶。
三つのアムドア。
同時に有効な、互いに両立しない歴史。
二枚の写し。
一本の線と、二本の線。
そして――
「……メレグ=ナフ?」
声にした瞬間、自分で顔をしかめた。
名前をつけるな。
以前、メルリルへ言った言葉が、そのまま自分へ返ってきた。
「それですの?」
メルリルが尋ねる。
「分からない」
「でも」
「ああ」
キースは頷いた。
「似ている」
それ以上は言わなかった。
少し離れた場所に立っていた女へ、調査帳を向ける。
「サーガ」
女が振り返った。
「これを見てくれ」
彼女は近づき、頁へ目を落とした。
しばらく黙る。
「あなたが書いた?」
「いいえ」
返答は早かった。
キースは息を吐きかけ、止まる。
「少なくとも」
一拍。
「今ここにいる私は」
「……その言い方」
キースが眉を寄せた。
「安心させる気がないだろう」
「安心させるために、別のことを申し上げるわけにはいきません」
「そうだったな」
「別の《貌》が書いた、と申し上げているわけでもありません」
「分かってる」
キースは頁を見る。
「そこまで聞いたら、答え以上のものを勝手に足すところだった」
女は静かに頷いた。
「《メレグ=ナフ》なのかもしれない」
キースは呟く。
「あるいは、まったく違うものかもしれない」
「はい」
「名前をつければ」
苦く笑う。
「分かった気になれる」
「はい」
その返事に、解釈は足さなかった。
キースは調査帳を閉じる。
「なら、今は書かない」
メルリルが眉を上げた。
「この一文を消しますの?」
「違う。これは残す」
「では?」
「誰が書いたか。何を意味するか。何と呼ぶべきか。それは今は書かない」
帳面を軽く叩く。
「起きたことだけ残す」
自分の筆跡に見える。
しかし、自分には書いた記憶がない。
細部には、自分なら使わない癖もある。
サーガは、少なくとも現在ここにいる貌では、書いていないと言った。
そこまで。
原因は書かない。
《メレグ=ナフ》とも、《ラグナ=ローク》とも、まだ呼ばない。
キースが顔を上げる。
《ラグナ――》の文字は変わらず、淡く輝いていた。
何も答えなかった。
*
背後から足音がした。
全員が振り返る。
崩れかけた古道の上から、一人の青年が降りてきていた。
シビウが目を丸くする。
「あんた」
「やっと見つけた……」
青年はひどく疲れた顔をしていた。
かつてキロスと名乗っていた少年。
もう《王》の残滓はない。人には不可能だった力も失い、自分から《キロス》という名前さえ《ガイアの臍》へ置いていくと決めた。
「帰ったんじゃなかったのか?」
キースが尋ねる。
「帰ろうとしたんだよ!」
青年は珍しく本気で怒っていた。
「そしたら途中で道が湖になった!」
「湖?」
「銀色の! 次は花畑! 戻ろうとしたら、今度は知らない街が二つ重なってて!」
キースたちは顔を見合わせた。
《夢》と現実の重なりは、上層にまで及んでいたらしい。
「そこでずっと待ってたのかい?」
シビウが聞く。
「待つしかないでしょ! 《王》の力、もうないんだから!」
「普通の人間になった途端、大変だな」
「姐さんがそれ言う!?」
「普通の人間は大変なんだよ」
「もっと早く教えてよ!」
シビウが笑う。
青年も少し遅れて笑った。
その顔を見て、キースは少し安心した。
彼の内側にいた《王》の気配は、もう感じられない。
「終わった?」
青年が尋ねる。
「何をもって終わったと言うかによる」
「また面倒なこと言ってる」
「ソーサイアの構文は壊れた」
「じゃあ勝った?」
「たぶん」
「そこは言い切ってよ」
「世界そのものがどうなったかは、まだ分からない」
「やっぱり面倒だなあ、世界一」
「君に言われたくない」
青年は肩をすくめた。
その時、彼の視線が壁の文字へ向いた。
*
「……それ」
声が変わった。
キースが青年を見る。
「知ってる?」
「いや」
青年はゆっくりと壁へ近づいた。
ただし、触れない。
「知らないはずなんだけど」
《ラグナ――》
青年は文字列を見つめ、額を押さえた。
「何か、残ってる」
「《王》の記憶?」
「分かんない」
「中には?」
「もう誰もいない」
青年は胸へ手を置く。
「声もしない。勝手に身体を動かされる感じもない」
「なら」
「でも」
言葉を探す。
誰かと同じ身体を長く使った。
その相手が消えたからといって、そこで知った言葉も、恐怖も、感じ方も、すべて綺麗に切り離されるとは限らない。
「一個だけ」
青年は困ったように笑った。
「読める気がする」
キースの胸が僅かに強く打った。
「続き?」
「うん」
「何て?」
青年は、すぐには答えなかった。
自分でも、口にすることを少し恐れているようだった。
やがて欠けた文字へ向かい、静かに呟く。
「ラグナ=ローク」
*
何も起こらなかった。
雷も落ちない。
光も増さない。
地響きもない。
《ラグナ――》は、欠けたままだった。
「それが続き?」
メルリルが尋ねる。
「たぶん」
「どこで知ったのです?」
「知らない」
「《王》の記憶?」
「だから分かんないって」
「意味は?」
「それも」
青年は肩をすくめる。
「ただ、そういう音だった気がする」
キースは壁面を見た。
ラグナ=ローク。
古い名。
一般には、神々と巨人が争い、古い時代が終わった大戦として語られている。
けれど、それは後世から見た分かりやすい物語だった。
実際の古い記録は、もっと曖昧だ。
戦争。
都市の消失。
途切れた王統。
前後で繋がらない神々の系譜。
祈りとの接続を失った神格。
同じ土地なのに、古い記録と新しい記録で一致しない地名。
そして、キースがこの旅で見てきたもの。
精霊戦争の終結。
だが、そもそも《精霊戦争》は一つの戦争ですらなかった。
《姫》と《王》の戦いは、黄金時代末期に広がっていた巨大な戦乱の、一つの主要戦線にすぎなかった可能性が高い。
そして、その戦争が終わる前から、世界は変わり始めていた。
ヴァギュイザールは、そう証言した。
昨日まで通れた精霊の道が閉じた。
古い精霊が、以前と同じ姿を保てなくなった。
神格の直接的な顕現が減った。
世界そのものが、古い存在を以前と同じ形では受け入れなくなったように見えた。
それが黄金の時代の終焉。
だが、《姫》が《王》へ勝利したから黄金の時代が終わったのか。
違う。
少なくとも、そうは言えない。
ヴァギュイザールの記憶自体、一つではなかった。
《姫》が勝った。
《王》は敗れ、四者によって力を封じられた。
もう一つでは、《王》はまだ戦えた。それでも自ら武器を置き、自ら力を解いた。
二つの終戦。
どちらも、一人の精霊が自分自身の目で見たと語った。
ならば、《姫》の勝利、精霊戦争の終結、黄金時代の終焉。その三つを、一本の原因と結果として並べてよいのか。
分からない。
しかも、黄金のあと、すぐに人間の時代が来たわけではない。
白銀の時代。
エルフたちの時代。
彼らは黄金の神話そのものを取り戻したのではなく、失われたものと残ったもの、古い歌、精霊との交わり、土地との約束を、人型文明として組み直した。
長い時代だった。
その白銀も、いつしか終わった。
人間の人口が増えた。
国家が広がった。
魔導が体系化された。
法。
契約。
貨幣。
道路。
物流。
黄銅の時代。
神々や精霊が直接世界を動かすのではなく、短命な者たちが制度を作り、記録し、約束を交わしながら世界を維持する時代。
ドワーフは、その新しい文明へ恐ろしいほど器用に適応した。
産業。
鉱業。
金融。
商業。
人口では人間に及ばなくても、黄銅の社会で巨大な地位を築いた。
一方、白銀の時代に世界文明の中心へ立ったエルフたちは衰退した。
だが、その白銀の終焉には、黄金時代の終わりのような明確な大断層があったとは限らない。
人間文明の成長。
エルフ社会自身の変化。
古い技術の衰退。
それだけでも、かなり説明できる。
それでも、本当にそれだけだったのか。
世界の側は、一度も変わらなかったのか。
精霊との接続。
エルフの霊的能力。
古い文明技術。
それらが世界条件の緩やかな変化によって成立しにくくなった可能性まで、消えたわけではない。
黄金。
白銀。
黄銅。
三つの名前を並べれば、歴史はあまりにも綺麗になる。
けれど、その境界がすべて同じ種類の出来事だった保証はない。
黄金から白銀へ。
そこには、世界そのものの成立条件が変わったような痕跡がある。
白銀から黄銅へ。
こちらは長い文明史として説明できる部分が多い。
それを同じ一つの現象で説明する理由はない。
だが、完全に別だと言い切る証拠もない。
キースは《ラグナ――》を見つめる。
ラグナ=ローク。
もし、この言葉が黄金時代の終焉に関係するのなら、何を指していたのか。
精霊戦争そのものか。
戦争を終わらせた世界変化か。
戦争と世界変化を、後世が一つへまとめた名前か。
あるいは、そのどれでもない、もっと大きな何かなのか。
そして今回、《ガイアの臍》で起きたこと。
《夢》と現実が重なった。
〈混沌〉が存在の境界を曖昧にした。
ソーサイアは一つの世界解釈へ固定しようとした。
それは止まった。
けれど、今回の現象を古代のラグナ=ロークと同じものだと言えるのか。
分からない。
さらに、記憶と記録の不一致。
ヴァギュイザール。
三つのアムドア。
二枚の写し。
自分の筆跡に似た、書いた覚えのない一文。
古い神学が《メレグ=ナフ》という名で説明しようとしたものと、確かに似ている部分はある。
だが、
似ている。
だから、同じ。
その一行だけは、もう書けなかった。
「それが」
青年は周囲を見回した。
崩れた古代都市。
《世界の根》。
薄れゆく《夢》。
そして、欠けた文字。
「これが、ラグナ=ロークなのか?」
誰へ尋ねたのかは、分からない。
キースへ。
消えた《王》へ。
世界へ。
あるいは、ここで誰より多くの記録を持つ者へ。
全員の視線が、サーガと呼ばれたことのある女へ向いた。
*
女は答えなかった。
長い沈黙だった。
これまで彼女は、知らないことには比較的すぐ《分かりません》と答えた。
記録があるなら、記録がある。
複数の可能性があるなら、複数の可能性がある。
それ以上は足さない。
だが、今だけは違った。
女は《ラグナ――》を見ていた。
銀の湖の名残。
欠けた巨人像。
削り取られた神名。
光を失いつつある世界の根。
その視線がゆっくりとキースたちへ移る。
キース。
ローゼン。
シビウ。
メルリル。
フユ。
そして、《王》の残滓を手放した青年。
皆、まだここにいる。
「サーガ?」
キースが呼ぶ。
女の目が彼へ向く。
「知ってるなら、教えてほしい」
沈黙。
「知らないなら」
キースは言い直した。
「知らないと言ってくれればいい」
女は返事をしなかった。
代わりに、自分の胸元へ静かに手を置く。
キースは、その仕草を知っていた。
過去の貌について尋ねた時。
現在ここにいる自分が直接見たとは思えない記録について語った時。
――《覚えている》という言葉では、少し違います。
――現在ここにいる私自身が、直接見たとは思えない記録があります。
あの言葉を思い出す。
だが、今回の仕草が同じ意味なのか、そこまでは決めない。
「名前を」
ローゼンが静かに言った。
「お付けになりたくないのでございますか?」
女がローゼンを見る。
僅かに眉が寄った。
記録を照合している者というより、何かを選ばなければならない者の顔だった。
やがて胸元から手を下ろす。
「私は」
《ラグナ――》を見る。
「この出来事に」
一拍。
「その名を記しません」
*
それだけだった。
キースは続きを待ったが、来なかった。
「なぜ?」
メルリルが尋ねる。
「同じ現象ではないから?」
女は答えない。
「古代の《ラグナ=ローク》という言葉自体が、後世の誤解だから?」
それにも答えない。
「それとも」
キースはゆっくり言う。
「黄金時代の終焉と」
一つ。
「精霊戦争の終結と」
二つ。
「白銀時代の成立を」
三つ。
「一つの《ラグナ=ローク》という名前へ、私たちが勝手にまとめようとしている可能性があるから?」
女は彼を見る。
だが、肯定しない。
否定もしない。
「今回のことまで、そこへ加えたら」
キースは続ける。
古代。
現在。
異なる出来事。
「全部を同じ現象だったと、一つの名前が先に決めてしまう」
女の唇がほんの僅かに動いた。
それでも、答えにはしなかった。
「理由を」
やがて女が言う。
「一つにはできません」
キースは黙って聞く。
「記録上、同一だと確認できないから」
一つ。
「欠けた文字へ、私が続きを与えるべきではないと思うから」
二つ。
そこで女は、さらに言葉を止めた。
「それだけではありません」
「では?」
メルリルが尋ねる。
女は《ラグナ――》を見つめたまま、
「この名を、今回の出来事へ記すことに」
いつもより少し低い声で、
「抵抗があります」
キースの表情が変わる。
「理由は?」
「分かりません」
いつもの言葉だった。
だが、女自身がすぐに言い直す。
「いいえ。正確ではありません」
胸へ視線を落とす。
「理由と思えるものは、幾つかあります」
「でも」
「そのうちのどれを、現在の私の判断の根としてよいのか」
首を振る。
「私には」
「まだ?」
「はい」
女は答えた。
「まだ分かりません」
キースは、その言葉をそのまま受け取った。
現在ここにいるサーガ。
それ以前の貌。
創世歌。
黄金の時代。
精霊戦争。
ラグナ=ローク。
それらの記録を彼女がどのように保持しているのか。どこまでが現在の貌自身の感情なのか。
それをキースが代わりに決める理由はない。
まして、その曖昧さへ《メレグ=ナフ》という別の名を置けば、解決するわけでもない。
「分かった」
キースが言った。
メルリルが振り向く。
「分かりましたの?」
「いや」
「ではなぜ!」
「この人が、その名を書かないことを選んだ」
一拍。
「それだけ分かった」
女がキースを見る。
「それで十分だ」
ほんの僅かに、女の表情が和らいだ。
*
《ラグナ――》の光が、少しずつ薄れていく。
「消える?」
ローゼンが尋ねる。
「文字は残る」
キースは近づかず、目を凝らした。
「光だけ」
「続きは?」
青年が尋ねる。
「出ない」
「……そっか」
《ラグナ――》
最後まで、そのままだった。
世界が変わったからといって、過去の欠落が埋まるわけではない。
欠けたものは、欠けたまま残る。
「キース」
ローゼンが隣へ来る。
「残念でございますか?」
「何が?」
「最後まで、意味が分からなかったこと」
キースは少し考えた。
旅へ出た理由。
大穴発生より遥か昔の記録へ、すでに存在した《アムドアの穴》。
なぜ都市より古い穴の記録があるのか。
何が起きたのか。
知りたかった。
「残念ではある」
正直に答える。
ローゼンが微笑む。
「以前のキースでしたら、お怒りになった答えでございますね」
少しだけ、いたずらっぽい。
「今でも少し腹は立つ」
「やはり」
「でも」
キースは壁を見る。
「分からないことが、分かった」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
キースは指を折る。
「精霊戦争は一つの戦争ではなかった」
一つ。
「《姫》と《王》の最後には、二つの記憶がある」
二つ。
「黄金時代が終わる前から、世界は変わり始めていた」
三つ。
「そのあとすぐ人間時代になったわけではなく、白銀の時代があった」
四つ。
「白銀が黄銅へ変わった理由は、黄金の終わりと同じ仕組みだったとは限らない」
五つ。
「《ラグナ=ローク》という名前が、その全部を説明するとは、まだ言えない」
ローゼンは静かに頷く。
「たくさん」
「うん?」
「分からないことが」
ローゼンは笑う。
「増えましたね」
「……そう言われると、あまり進歩した気がしない」
「ですが」
彼女は欠けた文字を見る。
「最初より、どこが分からないのかは」
「分かる」
「はい」
キースも少し笑った。
「なら」
ローゼンが言う。
「このままにいたしましょう」
「ああ」
《ラグナ――》
それ以上、キースは書き足さなかった。
調査帳へ現れた、書いた覚えのない一文にも、意味も原因も神の名も、まだ与えなかった。
*
《夢》が完全に遠ざかろうとしていた。
銀の湖も花野も、一つずつ透明になっていく。
「あなたは?」
ローゼンが女へ尋ねた。
「また《夢》へ?」
「分かりません」
シビウが苦笑する。
「その答えにも慣れたよ」
「申し訳ありません」
「もう謝らなくていい」
サーガと呼ばれたことのある女は、ほんの少し笑った。
「記録は?」
キースが尋ねる。
「続ける?」
「はい」
「今回の出来事も?」
「はい」
「《ラグナ=ローク》とは書かない」
「はい」
「黄金時代の終焉を、《ラグナ=ローク》だったとも?」
「記しません」
「違うから?」
「同じだと確認できないからです」
「白銀の終焉も?」
「同様です」
「今回も?」
「はい」
キースは頷いた。
「それでいい」
「それから」
彼は自分の帳面を持ち上げる。
「これも?」
――ならば、これは何度目の穴だ?
「あなたの記録です」
「誰が書いたか分からないのに?」
「誰が書いたか分からない、という状態も含めて」
キースは一瞬黙り、それから笑った。
「そうだった」
「何がです?」
「そこまでが、起きたことだ」
「はい」
「なら」
少しだけ意地悪く尋ねる。
「あなた自身は、今回のことを何て書く?」
女は初めて、少し困った顔をした。
「まだ決めていません」
「あなたにも」
キースが笑う。
「記録する前に迷うことがあるんだな」
「あります」
「ちょっと安心した」
「なぜでしょう」
「私たちと同じだから」
女は一瞬、目を丸くした。
それから静かに笑った。
「それは」
少し考える。
「悪い比較ではないと思います」
キースも笑った。
*
《夢》が消えた。
世界は《ガイアの臍》へ戻った。
いや、それも正しくないのかもしれない。
彼らが立っていたのは、最初からずっとここだった可能性もある。
銀の湖はない。
花野も。
サーガと呼ばれた女も。
黒い影も。
白い光も。
もう見えない。
残っているのは、古代都市、巨大な根、欠けた巨人像、削り取られた神名、そして《ラグナ――》。
「終わった?」
青年がまた尋ねた。
キースは今度こそ、少し考える。
「この場所ですることは、たぶん」
「そこも、たぶんなんだ」
「絶対って言うと、何か起きそうだから」
「分かる気がする」
シビウが大斧を肩へ担いだ。
「じゃあ帰ろう」
フユも、
「帰る」
と言った。
メルリルだけは、大量の記録紙を抱えたまま名残惜しそうに周囲を見回している。
「その前に、上層の記録を――」
「帰るよ」
「まだ調査が!」
「何日いる気だい!」
「宇宙一の研究者として!」
「魔導士じゃなかったのか」
「両方ですわ!」
声が古い都市へ響いた。
何千年。
あるいは、それ以上。
誰も笑わなかったかもしれない場所に、人の声と、精霊の声と、妖精の声が響く。
キースは最後に一度だけ、壁を振り返った。
《ラグナ――》
欠けた文字。
答えはない。
でももう、答えがないことを無理に終わりだとは思わなかった。
*
同じ頃。
遥か南のアムドア。
封印区画の観測員は、最初、計測器が壊れたのだと思った。
「もう一度測れ!」
「測っています!」
「比較値は!」
「同じです!」
都市と、その周辺一帯を消した巨大な穴。
封印区画の外からでも底は見えない。
昨日まで、その縁は少しずつ広がっていた。一日ごとの差は僅かでも、確実に拡大していた。
「昨日の値は?」
記録を照合する。
同じ。
「三日前!」
違う。
そこまでは確かに広がっている。
「今日の朝から?」
「はい」
「止まっている?」
誰もすぐには答えなかった。
もう一度測る。
別の器具。
別の地点。
何度測っても、結果は同じだった。
アムドアの大穴は閉じていない。
小さくもなっていない。
〈混沌〉も残っている。
古い地下構造も封鎖されたまま。
《ラグナ――》と刻まれた石板が、本来何を意味していたのかも誰にも分からない。
それでも、ただ一つ観測できる事実があった。
穴は、広がっていない。
*
後日、その報告を受け取ったキースは、何度も紙を読み返した。
「閉じなかったのでございますね」
ローゼンが隣から報告書を覗き込む。
「ああ」
「残念でございますか?」
「少し」
キースは笑った。
「また少し?」
「でも、最初から穴を消しに行ったわけじゃない」
「世界崩壊を止めるために」
「うん」
大穴は残った。
謎も残った。
なぜアムドアが三つの歴史を持ったのか。
なぜ穴の記録が都市そのものより古いのか。
誰が地下の古代構造を作ったのか。
《ラグナ――》とは何なのか。
精霊戦争の終結。
黄金の時代の終焉。
古い神格や精霊、巨人、現在では存在分類すら難しいものたちが、それまでと同じ形では世界へ現れにくくなった時代。
その後、エルフたちが神話の残響を人型文明として継いだ白銀の時代。
さらに、その文明が長い時間をかけて衰え、人間人口、国家、法、契約、貨幣、魔導技術、物流といった制度が世界の中心へ出てきた黄銅の時代。
この三つを、一本の同じ現象で説明してよいのか。
分からない。
むしろ、黄金から白銀への境界と、白銀から黄銅への境界は、性質が違う可能性が高い。
黄金の終焉には、世界そのものの成立条件が変わったような痕跡がある。
白銀の終焉は、文明史だけでもかなり説明できる。
けれど、エルフの衰退まで本当に社会の変化だけだったのか。
それも、まだ分からない。
そして、黄金時代の巨大な断層へ《ラグナ=ローク》という名を置いてよいのか。
今起きたことを、同じ《ラグナ=ローク》と呼んでよいのか。
それも分からない。
アムドアの古代石板が発見された頃から――いや、もっと前から続いていたかもしれない、記憶と記録の不一致。
《メレグ=ナフ》という古い名は、それをどこまで言い表しているのか。
神なのか。
現象なのか。
その両方と呼ぶことに、それぞれ意味があるのか。
どれも完全には分からない。
だが、拡大は止まった。
それだけは事実だった。
「十分?」
ローゼンが尋ねる。
キースは少し考えた。
「今は、十分だ」
報告書の余白へ何かを書こうとして、筆が止まる。
頭に浮かんだ文字。
《ラグナ=ローク》
そして、もう一つ。
《メレグ=ナフ》。
どちらも書かなかった。
サーガが記さなかったからではない。
キース自身が、まだそう呼べないと思った。
名前を書けば、後にこの記録を読む者は、その名前から出来事を理解する。
《ラグナ=ローク》と書けば、古代の終末と今回の出来事は、最初から同じものとして読まれる。
《メレグ=ナフ》と書けば、記憶と記録の不一致も、書いた覚えのない一文も、穴も、すべて一つの神格か、一つの現象の働きとして読まれるだろう。
だが、そこまでは分かっていない。
ならば、観測されたことだけを書く。
――アムドアの大穴は、現在も存在する。
――規模縮小は確認されない。
――拡大のみ停止。
そこまで書いて、キースは筆を置いた。
穴は残った。
答えも――。
いや。
問いが残った。
黄金の時代は、なぜ終わったのか。
白銀の時代は、なぜ衰えたのか。
黄銅の時代は、本当にその二つを継いだだけなのか。
《ラグナ=ローク》とは、何だったのか。
《メレグ=ナフ》とは、誰だったのか。
あるいは、何が起きることをそう呼んだのか。
その答えを無理に一つへまとめなくても、世界は次の朝へ進んでいた。




