終章 同じ朝について、三つの記録が残った
メミスの城壁が見えたとき、キースは思っていたほど懐かしさを覚えなかった。
白い石壁も、城門の上に掲げられた月神ムーミストの紋章も、旅立った日と何も変わっていない。遠くには神殿の尖塔が朝の光を受け、その向こうには幼い頃から見慣れた丘陵が広がっている。
帰ってきた。
その事実に間違いはない。それでも、同じ場所へ戻ってきたという感覚が、どうにも薄かった。
「どうされました?」
隣を歩くローゼンが尋ねる。
「いや」
キースは城門を見上げた。
「もっと、帰ってきたという感じがするものだと思っていた」
「なさらないのでございますか?」
「少しはする。でも、何というか……」
以前の自分にとって、この城壁の内側こそが世界だった。
神殿があり、書庫があり、神官会があり、巫女がいる。月神を奉じ、生まれた時から割り当てられた役目を果たす。それ以外の世界は、本の頁の向こうにしか存在しなかった。
けれど、城壁の外へ出た自分は、あまりにも何も知らなかった。
巨大な蜂一匹に怯え、竜との戦いでは仲間を死なせた。精霊たちの過去に戸惑い、〈混沌〉へ呑まれて、自分ではないはずの人生を見た。神話は一つではなく、記録も一つではなく、自分自身でさえ一つの過去だけでは説明できなかった。
「メミスが小さくなったのではございません」
ローゼンが言った。
「キースが、外をご覧になったのでございます」
「……そうかもしれない」
「世界一の魔導士が、ようやく世界を知った?」
後ろからメルリルの声が飛んできた。
「まだ知らない!」
「随分と自信を持って否定なさるようになりましたわね」
「知らないことが多すぎるんだ」
「それを知っただけでも大進歩ですわ」
シビウが笑った。
「出ていった時よりは、ちったぁ使える男になったよ」
「評価が低くないか?」
「最初が低すぎたからね」
「キース、蜂に負けた」
フユまで付け加える。
「あれは初めての実戦だったんだ!」
城門の衛兵たちが、何事かとこちらを見ていた。
やがて一人がキースの顔に気づき、目を見開く。
「神官長……?」
その声が、キースの帰還を告げた。
*
神殿は、キースが旅立った日のままだった。
白い廊下。高い天井。月光を模した青白い魔導灯。磨き上げられた床。長い年月をかけて守られてきた静謐な空気まで、記憶にあるものとほとんど変わらない。
だが、その整いすぎた場所へ足を踏み入れた瞬間、キースは以前ほど安心していない自分に気づいた。
整っていることと、正しいことは同じではない。
そのことを、もう知ってしまった。
「ずいぶん遅かったのう」
神殿奥の《月の間》で、巫女は旅立つ前と変わらぬ場所に座っていた。
個人名を持たない、月神ムーミストの巫女。そしてキースと同じアルセイドの血に生まれながら、その家名さえ公には名乗らない双子の片割れ。
彼女はゆっくり立ち上がると、しばらく弟の姿を眺めた。
「痩せたか?」
「少し」
「顔つきも悪うなった」
「それは褒めている?」
「外へ出れば、もっと立派な男になるものかと思っておった」
「帰ってきた直後に言うことじゃないだろ」
巫女は笑った。
けれど、その笑みは一瞬だけ揺れた。
キースが帰らなければ、神官長の座が空くだけでは済まなかった。次代を持たぬまま彼が死ねば、古い定めに従い、彼女自身が巫女の座を退き、途絶えかけた血を繋ぐ側へ回らされる可能性があった。
そんなことを、二人のあいだで今さら言葉にする必要はない。
キースは帰ってきた。
それだけで、少なくとも今日、彼女が別の人生を強いられることはない。
巫女は何も言わず、弟を抱きしめた。
「……帰ってきたか」
その声だけは、月神の巫女のものではなかった。
双生継承者でも、祭祀血統を守る者でもない。
ただ、家族の声だった。
「ああ」
キースも短く答える。
「ただいま」
*
問題は、その日のうちに持ち込まれた。
十三神官による緊急会議である。
キースの帰還。アムドアの大穴の拡大停止。そして、世界各地で確認されていた〈混沌〉異常の減衰。
それらを受け、神殿として民衆へ正式な宣言を出す必要があるという。その点には、キースも異論がなかった。
問題は、用意されていた宣言文だった。
「――月神ムーミストは、長き沈黙の末に御心を示され、神官長キースを遣わし、世界を滅びより救われた」
「駄目だ」
キースが遮ると、会議室が静まり返った。
老神官の一人が顔を上げる。
「まだ全文をお読みしておりません」
「必要ない。最初の一文で駄目だ」
「神官長様」
「ムーミストは何も言っていない」
重い沈黙が落ちる。
旅立つ前にも、よく似た場面があった。
あの時も神は何も語らなかった。
「しかし」
別の神官が慎重に口を開く。
「民は混乱しております。大穴、魔導事故、各地の〈混沌〉、長い不作。今こそ、この苦難にも神の御心があったと示す必要がございます」
「なぜ?」
「なぜ、と申されましても……」
「神が言っていないことを、なぜ私たちが神の言葉として発表する?」
「国を鎮めるためです」
「それを三百年続けた結果が、今のメミスだろう」
部屋の空気が変わった。
かつてなら口にすることさえ憚られた言葉を、神官長自身が平然と告げている。
「キース」
巫女が呼んだ。
彼女が止めるのかと思い、キースは視線を向ける。
だが違った。
「最後まで言え」
キースは頷いた。
「ムーミストが世界を救ったのか、私は知らない。神が何もしていないと言っているわけでもない。私には分からない。だが、少なくとも――」
旅立ちを決めたのは、人間だった。
戦ったのも人間だけではない。精霊がいて、妖精がいて、そして名を一つに定めることのできない存在たちがいた。
「私が聞いた神託は、一つもない」
十三神官は誰も、すぐには答えられなかった。
やがて一人が、掠れた声で尋ねる。
「では、民へ何と説明するのです」
キースはしばらく考えてから答えた。
「起きたことを、そのまま話せばいい」
「世界の根だの、複数の歴史だのを?」
「全部を一度に説明できるとは思っていない」
「では!」
「分からないものは、分からないと言えばいい」
自分でも、ずいぶん変わったものだと思う。
以前なら、神官長がそんな答えを口にするなど考えられなかった。
「民は不安になります」
「なるだろう」
キースは認めた。
「私だって不安だ」
だからといって、その不安へ神の名で蓋をしてよい理由にはならない。
「これから何をするかまで神に決めてもらったことにするのは、もうやめたい」
会議室の一番奥で、巫女が静かに立ち上がった。
「わらわもじゃ」
*
その日の午後、月神殿前の大広場は人で埋め尽くされた。
神官長の帰還を祝おうとする者。世界崩壊が止まった理由を知りたい者。家族を〈混沌〉で失った者。魔導士の出生減少に怯える者もいれば、大穴が閉じなかったという噂を聞き、不安に駆られてやってきた者もいた。
何千もの声が、巫女の姿が現れた瞬間に静まる。
彼女はこれまで、民衆の前へ立てば神の言葉を伝える者だった。
だから誰もが待っていた。
神託を。
巫女は月神の祭壇を背に、集まった人々を見渡した。
「これは神託ではない」
あまりにも簡単な言葉だった。
広場の奥まで、その意味が届くには少し時間がかかった。
「……何?」
誰かが声を漏らす。
巫女はもう一度、はっきりと言った。
「これからわらわが語ることは、ムーミストのお言葉ではない」
ざわめきが広がり、後方に控える神官たちも固まっている。
キースは巫女の少し後ろに立ち、黙ってその背を見ていた。
「神は三百年間、わらわに何も語っておらぬ」
一瞬、世界から音が消えたようだった。
次の瞬間、広場が爆発する。
「何だと!?」
「では今までの神託は!」
「嘘だったのか!」
「神は我々を見捨てたのか!」
「巫女様!」
怒号と悲鳴、泣き声と祈りが入り混じる。
警護の兵が前へ出ようとしたが、巫女は片手を上げて止めた。
「静まれとは言わぬ!」
大きな声だった。
ざわめきの向こうまで、確かに届いた。
「怒るがよい。疑うがよい。これまで何を神の言葉として聞かされてきたのか、問い直すがよい」
「巫女様、これ以上は……!」
青ざめた神官の一人が声をかける。
彼女は振り返らなかった。
「三百年、神が語らぬ間も、この国は続いた」
収穫を決めた。
税を決めた。
罪を裁き、婚姻を認め、戦を避け、時には始めた。
「それを神託と呼んだ者はおった」
自分たちだ。
神官であり、神官長であり、歴代の巫女たちだった。
「だが、決めたのは人じゃ」
広場が少しずつ静かになっていく。
「ならば」
巫女は祭壇から一歩、前へ出た。
「これからも、人が決めねばならぬ」
群衆のどこかから声が上がった。
「間違えたらどうする!」
巫女はその声の方を見る。
「責任を取る」
「神が罰を下したら!」
「その時は、その時に考える」
「そんな!」
「わらわにも分からぬ!」
巫女は笑った。
「神が何を思っておられるかなど、三百年も話してくださらぬのじゃ。知らぬものは知らぬ」
キースも思わず笑った。
その言葉が、いまの自分には妙によく馴染んだ。
「ただし」
巫女は民衆を見渡す。
「人が決めたことを、神のせいにはせぬ」
それが始まりだった。
*
翌日から国が突然、生まれ変わったわけではない。
十三神官は残った。
巫女も、神官長も、ムーミストの神殿も残った。祈る者たちも、変わらずそこにいた。
アルセイド家の双生継承も、貴族制度も、その翌朝に消えたわけではない。
キースは依然として神官長であり、巫女は依然として名を持たない。次代を誰が、どのように継ぐべきなのかという古い問いにも、何一つ答えが出てはいなかった。
当然、反発も起きた。
巫女は偽物だと叫ぶ者。
神官長が精霊に惑わされたと訴える者。
真の神託を求め、神殿の前から動かなくなる者。
一方で、三百年にわたる政治判断をすべて調べろと要求する者もいた。税制も、魔導士制度も、裁判も、一から見直すべきだと叫ぶ者もいる。
混乱は終わらなかった。
ただ、次に開かれた会議の記録から、一つだけ言葉が消えた。
《神託により決定》。
その代わり、決定へ賛成した者、反対した者、判断を保留した者――それぞれの名前が、人の名前として記された。
神は三百年間、答えなかった。
それでも朝は来ていた。
*
マーカスの墓には、遺体がなかった。
最初から分かっていたことだ。竜とともに谷底へ落ちた彼の身体を、回収することはできなかった。
だから墓の下に納められたのは、土と空白だけだった。
墓石を立てる際、石工がシビウへ尋ねた。
「碑文は、どうします?」
「碑文?」
「ええ。神官長様の旅に同行した方なのでしょう?」
シビウは少し嫌そうな顔をした。
「そうだけど」
「世界を救った一行の戦士だと聞いております。でしたら――」
石工は用意してきた紙を開く。
「《勇壮なる戦士マーカス、世界を滅びより救いし英雄、ここに眠る》などは」
「駄目」
即答だった。
「では、《神官長を守り命を捧げた忠勇の戦士》」
「それも駄目」
「……何と?」
シビウは、まだ何も刻まれていない白い墓石を見た。
「英雄じゃないよ」
石工が困った顔をする。
「しかし、皆そのように」
「皆が何と言ってるかは知らない」
マーカス。
うるさくて、豪快で、無神経で、よく笑う。戦う時だけは妙に頼りになる。
自分の元夫。
「世界を救ったつもりもないだろうしね」
あいつなら、《世界を救った英雄》などと墓に刻まれたら、腹を抱えて笑うだろう。
「じゃあ、何と彫ります?」
シビウはしばらく考えた。
「マーカス」
「はい?」
「それだけ」
「お名前だけ?」
「ああ」
「ですが、後世の方が見ても、どのような人物か――」
「分からなくていい」
石工は目を瞬いた。
「分からなくて……?」
「あたしは知ってる」
キースも、ローゼンも、メルリルも、マーカスを知っている。
それでいい。
未来の誰かがこの墓を見て、英雄だったと想像するかもしれない。ただの男だったと思うかもしれない。
それはもう、自分たちの手を離れた話だ。
「名前だけ彫ってくれ」
石工はなお迷った様子だったが、やがて黙って仕事へ取りかかった。
*
数日後、墓石には一つの名だけが刻まれていた。
《マーカス》
肩書きはない。
享年もない。
世界を救ったとも、誰かを守ったとも書かれていない。
シビウはその前に腰を下ろし、大斧を隣へ置いた。
「格好つかない墓だねえ」
当然、返事はない。
「まあ、あんたにはこれくらいが似合うよ」
風が吹き、シビウの髪を揺らす。
「あの時さ」
《真世界構文》の中で、生きているマーカスを見た。
「ほんのちょっとだけ」
嘘だった。
本当は、ほんのちょっとではない。
「戻ってきてほしいって、思ったよ」
今でも思う。
会いたい。
それでも。
「戻ってくんな」
シビウは笑った。
少しだけ泣いた。
「こっちはこっちで、生きてくから」
斧の柄へ手を置く。
「そっちは死んだまま、ちゃんと死んでろ」
一粒の涙が墓石へ落ちた。
名前のすぐ下だった。
シビウはそれを袖で拭う。
「これで十分さ」
石に残ったのは、やはりマーカスという名前だけだった。
*
ローゼンがラルソウムへ帰る日、薔薇が咲いていた。
季節としては少し早い。
「フユ?」
キースが小さな妖精を見る。
「なに」
「君がやった?」
「何を」
「薔薇」
「知らない」
「本当に?」
「春だから」
それで終わりだった。
結局キースは、最後まで四季使いの説明へ慣れきれなかった。
ラルソウムへ続く道の前で、ローゼンは一度メミスを振り返った。
白い髪と深紅の瞳。
初めて窓のない部屋へ現れた日と、姿そのものは変わっていない。
それでも、もう同じではなかった。
「キース」
彼女が呼ぶ。
「最近、様をつけなくなったね」
「お嫌でございますか?」
「いや」
「では」
ローゼンは少し笑った。
「キース」
「うん」
旅支度の紐を直しながら、彼女は言った。
「わたくしは、ラルソウムへ戻ります」
「ああ」
「キースはメミスへ」
「ああ」
「よろしいのでございますね」
「何が?」
ローゼンは少し困ったような顔をした。
「わたくしたちは、一緒には行かないのでございますね」
前世。
恋人。
魂。
深く繋がっていた二人。
キースは、その言葉をしばらく考えた。
「行きたい?」
「分かりません」
正直な答えだった。
「キースは?」
「私も分からない」
二人で笑った。
以前なら、答えが必要だったのかもしれない。
恋人だったのなら、今世でも恋人になる。
魂が一つだったのなら、一つへ戻る。
物語なら、その方が綺麗だ。
けれど。
「今すぐ決める必要はないだろう」
キースが言った。
「はい」
「君にはラルソウムでやることがある」
「ございます」
サファイアの記録。
ソーサイア。
精霊たち。
そして、《夢》に残された問い。
「私にもメミスでやることがある」
神託を使わない政治。
神官長という役目。
双生継承を含め、これから何を残し、何を変えるのか。
知らないことだらけだった。
「だから」
キースは手を差し出した。
「また会おう」
ローゼンは、その手を見る。
かつて魂を重ねた相手。
それでも、いま目の前にあるのは、ただ一つの手だった。
ローゼンも自分の手を重ねる。
「またお会いできますか?」
キースは少し考えた。
「前世ですら会えたんだ」
ローゼンが目を丸くする。
「今世なら、もっと簡単だろう」
数秒の沈黙のあと、ローゼンは口元へ手を当てた。
「どうした?」
「いえ」
「何?」
「キースは、時々とても恥ずかしいことを、平然とおっしゃいますね」
「何が!?」
「そのままで」
「分からない!」
「分からないままで、よろしゅうございます」
ローゼンは笑った。
薔薇の香りを運ぶ風が、二人のあいだを通り抜ける。
やがて手を離した。
それでも以前ほど、遠くなった気はしなかった。
*
ローゼンはラルソウムへ戻った。
大樹はまだ、そこにあった。
ソーサイアが残した傷も消えてはいない。《蒼魔の君》が何をし、サファイアが何者だったのかという問いも、残されたままだった。
古参精霊たちの記憶の中には、今もサファイアがいる。
幼いローゼンへ本を読み、手を引き、困った時には助けてくれた。
それらがソーサイアの演技だったのか。
後から補われた過去なのか。
それとも、本当にどこかからサファイアという人格が生まれていたのか。
ローゼンは、もう一つへ決めなかった。
サファイアの部屋へ入り、窓を開ける。
風が入った。
机も、椅子も、読まれた本も残っている。
誰の手書きも残っていない。
ローゼンは、その部屋から何も消さなかった。
新しく何かを足すこともしなかった。
「ただいま戻りました」
誰へ言ったのかは、自分にも分からない。
それでも部屋へ告げ、ローゼンは次の自分の一日へ歩き出した。
*
事件のあと、同じ朝について三つの記録が残った。
どの記録も、正式な記録として保存された。
第一の記録には、こうある。
> サーガが世界を創り、ケーオスとコスモスを生み、キースとローゼンへ新世界を託した。
そこには創世歌と、《夢》に残った証言が引用されていた。
サーガと呼ばれた存在。
ケーオスと呼ばれた黒。
コスモスと呼ばれた白。
キース。
ローゼン。
確かに、その場へ存在したと証言する者がいる。
だから、すべてが偽りとは言えない。
第二の記録には、こうあった。
> ケーオスとコスモスの世界再編を、サーガが観測した。
こちらにも証言はある。
黒は複数の可能性を開いたように見えた。
白は、それぞれの可能性へ形を与えたように見えた。
サーガと呼ばれた女は、それを観測していた。
だから、これもすべてが偽りとは言えない。
第三の記録には、こうある。
> 世界は自ら変化し、神々もサーガもそれを止められなかった。
この記録を支持する者は、フユの証言を重く見た。
世界。
彼女は何度もそう言った。
四季は世界から来る。
春、夏、秋、冬。
世界は自ら、それらを循環させている。
《ガイアの臍》で最後に何かが変わった時、神々は何も命じていない。
サーガは、ただ見ていた。
ならば、世界自身が変化したのではないか。
その記録もまた、完全な偽りではなかった。
*
三つの記録は、互いに食い違った。
第一を読めば、サーガが世界創造の中心にいる。
第二を読めば、ケーオスとコスモスが世界再編の主体となる。
第三を読めば、彼らさえ世界の変化へ立ち会った者にすぎない。
学者たちは議論し、神官たちは分類しようとした。精霊たちも自分たちの記憶と照らし合わせ、どれを正史とするのか決めようとする者もいた。
けれど奇妙なことに、三つとも消えなかった。
どれか一つを偽書と判定するための決定的な証拠は、最後まで見つからない。
すべてに当事者証言が含まれ、すべてに事実と一致する部分があった。
そして、すべてに別の記録とは両立しない部分もある。
以前なら、どれか一つだけが残されたのかもしれない。
その朝については、三つが三つのまま残った。
*
さらに、それらとは別に一枚の頁が残されている。
誰がどこで発見したのか、最初の記録はない。
紙とも、樹皮とも、石とも言えない。読む者によって、違うものへ見えた。
ただし、文章は同じだった。
筆跡は、《夢》でサーガと呼ばれた女が残した記録と一致すると判断する者が多かった。
けれど、完全一致という証明もない。
そこには、こう記されていた。
> 私は、ひとつの朝を観測した。
>
> キースは生きていた。
>
> ローゼンも生きていた。
>
> シビウは泣いた。
>
> フユは春を呼んだ。
>
> かつてキロスと呼ばれた青年は、自分を王とは呼ばなかった。
>
> それを私は記録した。
そこまでの文章は、ひどく静かだった。
世界を救ったとも、新世界を作ったとも書かれていない。
正しかったとも、間違っていたとも書かれない。
ただ、生きていた。
泣いた。
春を呼んだ。
王とは呼ばなかった。
それだけだった。
そして少し長い空白のあと、文章は続いている。
> ただし――
>
> あなたが今読んだ物語が、
> 私の記したその頁と同じものであるかについて、
> 私は保証しない。
そこで文章は終わっていた。
*
その下に、もう一行ある。
筆跡が違う。
明らかに、それまでの文章を書いた者とは別の手だった。
いつ書き加えられたのか。
誰が書いたのか。
何のために書いたのか。
分からない。
後世の研究者は、多くの説を残した。
古いサーガの別人格。
別の観測者。
記録を編集した者。
《夢》の住人。
ケーオス。
コスモス。
断絶した神格。
未来の誰か。
あるいは、ただの名も知られぬ書記。
どの説も、証明されなかった。
ただ、その一行だけが残った。
> **この物語は、真世界が生まれる以前の物語である。**
誰がそう記したのかは、今も分からない。
完




