↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
最終部 二人で一人、一人で二人
PR
50/52

第四十九章 世界は一つの過去へ戻らない

 キースとローゼンの魂が深く重なったあと、《ガイアの臍》には二つの鼓動が残った。


 同じ速さではない。かといって完全にずれているわけでもなく、一方が鳴れば、ほんの僅かに遅れてもう一方が応える。二つの名を保ったまま、一つの構造として振る舞った彼らの状態を写すように、《世界の根》そのものが異なる律動を同時に刻んでいた。


 キースは胸へ手を当てた。


 ローゼンの思考はもう聞こえない。記憶も流れ込んではこない。それでも、彼女がすぐ隣に立っているという事実だけが、目や耳で確かめるより少し早く分かる。


「まだ繋がってる」


 フユが言った。


「さっきほど深くはない」


「うん」


「問題は?」


「知らない」


「そこはいつも通りだな」


「キースも」


「私も最近そうなってきたな……」


 ローゼンが小さく笑った。


「悪いことばかりではないと思います」


「君まで」


「分からないことを、分からないままにしておけるようになったのでございましょう?」


「それを成長と言っていいのかは、まだ分からない」


「では、それもそのままで」


「……そうしよう」


 二人が笑った、その時だった。


 《世界の根》が大きく震えた。


 揺れそのものは強くない。足元の石は動かず、銀の湖にもほとんど波は立たない。だが、身体の奥まで響くような低い音が、《ガイアの臍》全域をゆっくりと通り抜けていった。


 メルリルの表情が変わる。


「始まりましたわ」


「何が?」


「分かりません」


「君まで!」


「ですが、先ほどまでとは明らかに違います!」


 彼女が指した先で、古い光の線が浮かび上がっていた。


 《真世界構文》。


 二つの魂を一つへ戻し、〈混沌〉から新しい世界を成立させるために記録された、古い未来の構造。


 ただし今、その中央には二つの名が残っている。


 《キース》。


 《ローゼン》。


 本来なら一つの〈存在〉へ収束する場所に、二つの名が並んだまま消えない。


「まだ動いてるのか」


 シビウが大斧へ手を置く。


「構文そのものは止まっておりません」


「じゃあ、二人をまた一つにしようとしてる?」


「それが……違うんですの」


「何が?」


「分からないから見ているのです!」


 メルリルは地面すれすれまで身を屈め、光の流れを追った。


 古い構文は、まず二人の名へ集まる。そこまでは以前と同じだった。


 だが、一つへまとめられない。


 《キース》を消そうとすれば、《世界の根》が反応する。《ローゼン》を消そうとしても同じだった。


 二つを新たな一つの名へ置き換えようとすれば、《夢》の銀の湖に波紋が走り、文字そのものが崩れていく。


「拒否されていますわ」


 メルリルが呟いた。


「誰に?」


「それが分からない」


「私たち?」


 キースが尋ねる。


「あなた方だけではありません」


 メルリルの声が低くなる。


「もっと多い」


          *


 最初に現れたのは、黒だった。


 銀の湖の向こう。ソーサイアを呑み込んだ巨大な〈混沌〉の内部で、さらに濃い影がゆっくりと立ち上がる。


 以前、アムドアの深層でキースとローゼンを外へ送り出した人影によく似ていた。


「ケーオス……?」


 ローゼンが呟く。


 黒い影は答えない。


 いつもと同じだった。


 男にも、女にも、獣にも見える。あるいは、人の形に空いたただの穴のようにも見えた。


 サーガと呼ばれたことのある女が、その影を見つめる。


「私の記録の中で、ケーオスと呼ばれてきたものに近い反応です」


「本人とは言わないんだな」


 キースが確認する。


「はい」


「でも、無関係とも言わない」


「はい」


「分かった。それでいい」


 黒い影は、《真世界構文》へ手を伸ばした。


 触れた。


 何かが壊れる。


 キースは、そう思った。


 だが違った。


 構文の一部が増えた。


「……何?」


 一つだった線が、二本、三本と枝分かれしていく。


 同じ起点から、異なる方向へ。


「〈混沌〉」


 メルリルが息を呑んだ。


「可能性を増やしている?」


「そう見える」


 キースは答えた。


 断定はしない。


 黒は形を奪わなかった。むしろ、まだ一つへ決まっていなかった別の形を、構文の中にそのまま許していく。


 その直後、白い光が現れた。


          *


 黒と反対の場所ではなかった。


 黒の隣だった。


 まるで最初から、そこに並んでいたかのように。


 強い白。


 輪郭。


 秩序。


 形を持つということそのものが、光になったような存在。


 ローゼンは《夢》で、《精霊の君》の背後に見た二つの影を思い出した。


 黒と白。


 あの時、それらがケーオスとコスモスなのか、それともまったく別の何かなのかは分からなかった。


「こちらは?」


 キースが女へ尋ねる。


「私の記録では、コスモスと呼ばれたものに一致する特徴があります」


「やっぱり、そう言うか」


「今ここに現れたものの全存在を、その名だけで確定することはできません」


「もう分かってる」


 白い光も構文へ触れた。


 キースは、今度こそ一つへ戻されると思った。


 ケーオスが増やした可能性を、コスモスが一つの秩序へ選び直す。


 そう考えた。


 しかし、また違った。


 白い光は、分かれた線の一つ一つへ輪郭を与えていった。


「全部を……?」


 メルリルが立ち上がる。


「複数の構造を、同時に成立させておりますわ」


 黒が可能性を開く。


 白が、それぞれへ形を与える。


 一つには絞らない。


「ケーオスとコスモスが」


 キースが呟く。


「争ってない?」


「争った記録もあります」


 女が言った。


「協力した記録もあります」


「今は?」


 女は黒と白へ視線を向けた。


 ほんの僅かに、その瞳が見開かれる。


 自分の持つ記録へ照らして確認しているというより、目の前で起きているものを初めて見る者の目だった。


「今、見えているものを記すなら」


 少し遅れて、彼女は答えた。


「互いを消していません」


 それが重要だった。


          *


 次に、《夢》が反応した。


 銀の湖が幾つにも分かれた。


 水面そのものが割れたのではない。一つの湖へ、複数の景色が同時に映り始めたのだ。


 竜の峠。


 マーカスが落ちた世界。


 その隣には、落ちなかった世界。


 人間ローゼンが毒に倒れる夜。


 さらに隣には、彼女が生きたまま朝を迎える世界。


 アムドア。


 巨大魔導都市だった過去。


 古い穴を監視するために築かれた都市だった過去。


 そもそも都市そのものが存在しなかった過去。


 どれも消えず、同じ湖面に映っている。


「また……」


 キースの顔が険しくなる。


 シビウも湖を見る。


 そこには、生きているマーカスがいた。


 けれど、彼女はもう手を伸ばさなかった。


「好きに映ってな」


 それだけ言って、大斧の柄へ手を置く。


「こっちはこっちだから」


 すると、不思議なことが起きた。


 死ななかったマーカスの光景が消えなかった。


「……残る?」


 シビウ自身が驚いている。


 拒絶したのに、消えない。


 だからといって、こちらの現実へ重なってもこない。


 ただ、別の可能性として湖面の向こうにある。


「消さなくていい?」


 フユがシビウを見る。


「何を」


「あっち」


 生きているマーカス。


 シビウは長いあいだ、その男を見た。


「……そうだね」


 やがて、少しだけ笑う。


「あれがどこかにあったって、別に困らない」


「シビウ」


 キースが彼女を見る。


「あたしのマーカスが死んだことは変わらない」


 それで十分だった。


「死ななかった奴がどっかにいたって、それを殺す必要までないだろ」


 銀の湖が静かに光った。


 女もまた、その言葉を聞いていた。


 何も言わない。


 ただ、あのときシビウの選択を記録した時と同じように、一度だけ彼女へ視線を向けた。


          *


「秋」


 フユが突然言った。


「何?」


 キースが振り返る。


「秋」


 風が吹いた。


 続いて。


「冬」


 湖面の一部が凍る。


「春」


 氷の隙間から芽が出る。


「夏」


 花の周囲へ熱が満ちる。


 四季。


 通常なら、一つずつ順を追って移ろうもの。


 だが、今は違った。


 春の花が咲く隣で、冬の氷が残っている。


 夏の熱。


 秋の風。


 それらが互いを消さない。


「フユ」


 キースが目を丸くする。


「四季って、同時に使えたのか?」


「知らない」


「今使ってるだろ!」


「世界がやってる」


「君じゃなく?」


「フユも」


「世界も?」


「うん」


 小さな妖精は、難しいことなど何も起きていないような顔で、四つの季節を眺めている。


「春だから冬がなくなるわけじゃない」


「普通は季節が移るだろ」


「どこでも同じ?」


 キースが止まった。


 北。


 南。


 高い山。


 地下。


 同じ日でも、場所が違えば季節は違う。


「……そうか」


 世界には最初から、一つの季節だけが存在していたわけではない。


「四季は」


 キースが呟く。


「循環する。でも、世界全体を一つの季節へ揃えているわけじゃない」


「うん」


「場所が違えば、違う季節がある」


「うん」


「それでも、一つの世界」


 フユは当たり前のように、


「うん」


 と答えた。


          *


 《真世界構文》が大きく軋んだ。


 古い文字が、一つずつ崩れ始める。


「何が起きておりますの?」


 メルリルが構文へ目を凝らした。


「これは……」


 文字。


 意味。


 収束。


 統合。


 一つ。


 唯一。


 同一。


 そうした意味を持つ部分だけが、不自然に黒ずんでいる。


「ソーサイア」


 キースが気づいた。


「何?」


 シビウが尋ねる。


「これは《真世界構文》だけじゃない」


 古い構文へ、別の構造が重ねられている。


「ソーサイアが加えたもの?」


 ローゼンの瞳が険しくなる。


 唯一の読者。


 世界から他の解釈者を消す。


「彼は」


 ローゼンが言う。


「古い《真世界構文》を、そのまま使おうとしていたのではございません」


「自分の目的へ合わせた」


 メルリルも理解する。


「元の構文ですら一つの未来を要求していました。でもソーサイアは、さらにそこへ」


 彼女は文字を追った。


「解釈の固定」


「観測者の単一化」


「他の記録の消去」


 キースが一つずつ読む。


 いや。


 文字そのものを完全に読めているわけではない。


 意味だけが、胸の奥へ入ってくる。


「こいつは」


 キースの顔が険しくなった。


「《真世界》を作りたかったんじゃない」


 シビウが吐き捨てる。


「自分の世界を作りたかったんだろ」


「ああ」


 キースは頷く。


 正しい世界ではない。


 唯一、自分だけが読める世界。


 他の読み方が存在しない世界。


「だから」


 ローゼンが崩れ始めた構文を見る。


「今、壊れている」


 キースとローゼン。


 二つの名。


 ケーオスと呼ばれた黒。


 コスモスと呼ばれた白。


 《夢》。


 四季。


 《世界の根》。


 どれも、一つへ揃わない。


 それでも存在している。


 ソーサイアの構文だけが、その状態を許せない。


「なら」


 キースはローゼンを見る。


「壊す必要もない」


「え?」


「こっちから攻撃する必要はない」


 矛盾。


 それだけで十分だった。


「一つでしか成立できない構文の中に」


 キース。


 ローゼン。


 二つ。


「同時に違うものが存在すれば」


 メルリルの瞳が見開かれる。


「自壊する」


          *


 ソーサイアの声が、〈混沌〉の奥から響いた。


『違う』


 誰も、すぐには動かなかった。


 以前ほど強い声ではない。


『世界は一つでなければならない』


「世界は一つだよ」


 キースが答える。


 黒の奥で、僅かに蒼い光が揺れた。


『ならば』


「でも」


 キースはローゼンを見る。


「一つの世界に、一つの答えしか置けないとは限らない」


『矛盾する』


「ああ」


『過去が二つあれば、どちらかは偽りだ』


「そうとは限らない」


『同じ人物に複数の過去があれば、その者は何者だ』


「今の自分で決めればいい」


『一つの出来事に、異なる記録があるなら』


「残せばいい」


『真実は一つだ!』


 声が《夢》を震わせた。


 キースは、その言葉そのものを否定しなかった。


「真実は、ある」


 静かに答える。


「でも」


 サーガ。


 創世。


 三つの記録。


「真実が、永遠に同じ形で残るとは限らない」


 黒が揺れる。


「私が見たこと」


 キルス。


 ローゼン。


「ローゼンが見たこと」


 違う月。


 違う台詞。


 同じ夜。


「ヴァギュイザールが覚えていること」


 《王》は敗れた。


 《王》は自ら武器を置いた。


「《王》が覚えていたこと」


 《姫》と戦った。


 《姫》を守った。


「全部を一つへ潰せば」


 キースはソーサイアの黒を見る。


「分かりやすくはなる」


『それが秩序だ』


「違う」


 白い光。


 コスモスと呼ばれたものは、複数の構造へ、それぞれ輪郭を与えている。


「今、目の前で」


 キースが言う。


「一つにしなくても、形は保てている」


 返事はなかった。


          *


『なら』


 ソーサイアの声が、今度はローゼンへ向く。


『君は、どのローゼンだ』


 人間。


 精霊。


 キルスと一つだった魂。


 サファイアに育てられた娘。


 作られた物語の中の存在。


 どれなのか。


 以前なら、ローゼンを苦しめた問いだった。


 今の彼女は、静かに答える。


「すべて、わたくしへ続くものです」


『なら一つへ定義しろ』


「必要ございません」


『なぜ』


 ローゼンは白い髪へ触れた。


「わたくしは、今ローゼンでございますから」


『答えになっていない』


「わたくしには、十分でございます」


 黒が大きく震える。


『世界は曖昧になる』


「もともと」


 シビウが横から割って入った。


「あんたが思ってるほど、きっちりしてないんじゃない?」


『黙れ』


「嫌だね」


 大斧を肩へ担ぐ。


「あたしには前世も魂核も何もないけどさ、昨日思ってたことと、今日思ってることだって違う」


『それは変化だ』


「なら、世界が変わって何が悪い」


 ソーサイアが黙った。


「過去を全部同じにしなきゃ自分が分からない奴なんて」


 シビウは鼻で笑う。


「人間一人だって無理だろ」


 キースも少し笑った。


「確かに」


「今さら気づいた?」


「神官だったから、整合性を重視していたんだ」


「言い訳」


「そうだな」


          *


 構文の崩壊が始まった。


 派手な爆発ではない。


 一つの文字が意味を失う。


 《唯一》。


 消える。


 次に《固定》。


 そして《統合》。


 《他記録排除》。


 ソーサイアが《真世界構文》へ重ねた、世界を一つの読み方だけへ収束させるための部分が、黒い砂のようにほどけていく。


 ケーオスと呼ばれた黒が、他の可能性を残す。


 コスモスと呼ばれた白が、それぞれへ形を与える。


 《夢》は異なる記憶を同じ湖へ映す。


 四季は違う季節を同じ世界へ置く。


 《ガイアの臍》の根は、二つの鼓動を同時に運んでいる。


 キースとローゼンは二人のまま、それでも必要な時には一つの構造として重なれる。


 そして、サーガと呼ばれた女は、それらのどれか一つを《正しい形》へ直そうとはしなかった。


 手を伸ばせば、何かに触れることはできただろう。


 どれかを選び、どれかへ名前を与え、記録を一つへ整理することもできたのかもしれない。


 だが、女は何もしなかった。


 ただ、見ていた。


 目を逸らさずに。


          *


「サーガ!」


 メルリルが叫んだ。


「何が起きていますの!」


 女はすぐには答えなかった。


 銀の湖。


 黒。


 白。


 根。


 花。


 季節。


 キース。


 ローゼン。


 それらを一つずつ見ていく。


「記録しています」


「そうではなく!」


「今までの記録と比較しています」


「結果は!」


 女の瞳が、僅かに大きく開いた。


 これまで彼女が見せたことのないほど、はっきりとした戸惑いだった。


「一致するものがありません」


 キースが彼女を見る。


「初めて?」


「その言葉は慎重に使うべきですが」


 女は途中で言葉を切った。


 もう一度、周囲を見る。


 黒と白。


 同時にある四季。


 複数の過去。


 二つの名を残した構文。


 そこには僅かな恐れがあった。


 同時に。


 ほんの少しだけ、笑っているようにも見えた。


 未知のものを前にした者の顔だった。


「少なくとも」


 今度は、静かに続ける。


「私が現在参照できる記録にはありません」


「では」


 ローゼンが尋ねる。


「世界は、何になろうとしているのでございましょう」


「分かりません」


 女は正直に答えた。


 だが、その「分かりません」は、これまでとは少し違って聞こえた。


 答えを持たないことへの慎重さだけではない。


 自分さえ知らなかったものを、いま見ている。


 その事実を、彼女自身が受け止めようとしているようだった。


「ですが」


 女は空を見上げた。


          *


 空。


 それが《夢》のものなのか、《ガイアの臍》の天井なのか、もう分からない。


 けれど、何も起こらなかった。


 割れない。


 光の柱も立たない。


 新しい星も現れない。


 大地は増えず、山は動かず、海も逆流しない。


 世界が再創造されるような、大仰な奇跡は何一つ見えなかった。


「……何も変わらない?」


 シビウが周囲を見る。


「花は花」


 フユが言う。


「根も根」


「空も?」


「空」


「なら」


 メルリルは不安そうに辺りを見回した。


「何が変わったんですの」


 キースも、自分の身体を見る。


 変わらない。


 ローゼンも。


 シビウも。


 メルリルも。


 フユも。


 誰一人、別の存在にはなっていない。


 マーカスは戻ってこない。


 人間ローゼンも現れない。


 死者は死んだまま。


 アムドアも穴を抱えている。


 過去は消えていない。


「世界を作り直してない」


 キースが、ようやく気づいた。


「作り直しておりませんね」


 ローゼンも周囲を見る。


「じゃあ」


 シビウが眉を寄せる。


「結局、失敗?」


「違う」


 フユが即答した。


「何が?」


「変わった」


「どこが」


 フユは地面へ手を置き、目を閉じた。


「世界」


 それだけだった。


          *


 キースもしゃがみ込んだ。


 初めて四季へ触れた時のように、世界の中へすでに存在するものを感じ取ろうとする。


 根。


 水。


 熱。


 風。


 生命。


 そして、そのさらに奥。


 何かが違う。


 世界が、一つの形へ戻ろうとしていない。


「……あ」


「キース様?」


「待って」


 目を閉じる。


 アムドア。


 三つの歴史。


 以前なら、それらは互いに衝突しているように見えた。


 どれか一つだけが《唯一の現実》になろうとして、世界の境界を削っているかのように。


 今は違う。


 三つある。


 それでも、押し合わない。


「競争してない」


 キースが呟く。


「何が?」


 メルリルが問う。


「可能性」


 キースは顔を上げる。


「今までは、複数の過去が存在すると、どれも自分が《唯一の現実》になろうとしていた」


 アムドア。


 《王》。


 創世神話。


「だから衝突した」


 もちろん、それだけが原因だったと断定はできない。


 ただ、少なくともそう見える現象が起きていた。


「今は」


 キースはもう一度、根へ触れる。


「違う」


「共存?」


 メルリルが小さく問う。


「……たぶん」


「たぶん?」


「今はそれ以上言えない」


 サーガと呼ばれた女がキースを見ていた。


「近いと思います」


「あなたが言う?」


「私は」


 女は世界へ視線を戻す。


「異なる記録が、互いを訂正しようとしていない状態を観測しています」


 ローゼンの瞳が、静かに見開かれた。


          *


「それは」


 ローゼンがゆっくり言う。


「サファイア様にも?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 最初はいなかった。


 けれど、昔からいたという記録がある。


 幼いローゼンを育てた記憶。


 ソーサイアが作った人格。


 そして途中から、本当にサファイアという存在が生まれていた可能性。


「最初はいなかった」


 ローゼンは、自分で言葉にする。


「それでも、いたかもしれない」


 以前なら、どちらか一つを選ばなければ矛盾だった。


「両方を」


 深紅の瞳に涙が僅かに溜まる。


「そのまま残しても、よろしいのでございますね」


 サーガと呼ばれた女は、すぐには答えなかった。


「それを許可する立場に、私はありません」


 ローゼンが少し笑う。


「そうでございました」


「ですが」


 女も微笑んだ。


「現在の世界は、それを排除していません」


「はい」


 ローゼンは胸へ手を置く。


「それで十分でございます」


          *


 黒の奥で、ソーサイアの声がもう一度だけ聞こえた。


『曖昧だ』


 弱い。


 遠い。


『そんな世界は、真実を失う』


 キースは黒を見る。


「違う」


 答えた。


「真実を一つに固定しないだけだ」


『同じことだ』


「違う」


 今度はローゼンだった。


「過去を複数持つことと、過去を持たないことは同じではございません」


 シビウも続く。


「マーカスは死んだ」


 そこは変えない。


 けれど、死ななかったマーカスという可能性を、世界からわざわざ殺す必要もない。


「こっちには、こっちの過去がある」


 メルリルも記録紙を掲げる。


「記録は消しません」


 一冊。


 一つ。


 違う記録。


「矛盾していれば」


 彼女は少し笑った。


「両方調べますわ」


 フユが言う。


「春も冬もある」


 一番単純だった。


「だから世界」


 ソーサイアは、それ以上何も言わなかった。


          *


 蒼い光が、黒の中で最後に一度だけ灯った。


 サファイアの色だったのか。


 ソーサイアの色だったのか。


 ローゼンには分からなかった。


 そして、もう決めなかった。


 蒼い光は消えた。


 〈混沌〉そのものは残る。


 ケーオスと呼ばれた黒い影も、その向こうへ溶けていく。


 コスモスと呼ばれた白も輪郭を失った。


「消えた?」


 シビウが尋ねる。


「見えなくなった」


 フユが答えた。


「同じか?」


「違う」


「そうだね」


 この旅は、ずっとそうだった。


          *


 《夢》がゆっくりと薄くなっていく。


「崩れる?」


 キースが女を見る。


「分かりません」


「また?」


「以前も《夢》は閉じました」


「そうだったな」


「今は」


 女は銀の湖へ視線を落とした。


「閉じるというより、重なりが解けているように見えます」


 《ガイアの臍》。


 古代都市。


 巨大な根。


 現実側の輪郭が少しずつ濃くなる。


 一方で花野と銀の湖は、遠ざかっていく。


「あなたは?」


 ローゼンが女へ尋ねる。


「どちらへ?」


 サーガ。


 《精霊の君》。


 《姫》。


 《語り手》。


 女は少し考えた。


「分かりません」


 シビウが思わず笑う。


「最後までそれかい」


「はい」


「でも」


 キースが女を見る。


「あなたは、どちらか一つへ戻る必要はないのかもしれない」


 女の表情が僅かに変わった。


「なぜ?」


「世界が」


 キースは周囲を見る。


「一つへ決めなくなったから」


 女は答えなかった。


 ただ、長いあいだ世界を見つめていた。


 その沈黙を、キースは解釈しなかった。


          *


 何も起きなかった。


 それが奇跡だった。


 山は山のまま。


 空は空のまま。


 死者は戻らない。


 都市は増えない。


 過去が書き換わったという実感もない。


 キースの名前はキース。


 ローゼンはローゼン。


 シビウはマーカスの斧を背負っている。


 メルリルは自分の記録紙へ猛烈な勢いで何かを書き込んでいた。


「こんな時まで?」


 キースが呆れる。


「こんな時だからです!」


「何を書いてる?」


「分かりません!」


「分からないのに?」


「起きたことを書いてから考えるのです!」


 キースは笑った。


「正しい」


「何ですの、その上から目線!」


「世界一だから」


「久しぶりに腹が立ちましたわ!」


 フユがくすりと笑う。


 ローゼンも口元を綻ばせた。


 世界は、ほとんど何も変わっていない。


 けれどキースには、確かに分かった。


 今まで世界の底には、一つの強迫があった。


 どれが本当なのか。


 どれが唯一なのか。


 どれが正史なのか。


 複数あれば衝突し、どれかを消す。


 その方向へ、世界そのものが引かれていたように見えた。


 今は、その力が弱い。


 なくなったのか。


 別の形へ変わったのか。


 まだ分からない。


 ただ、三つの過去が三つのまま、静かにそこにいられる。


          *


 サーガと呼ばれたことのある女は、その様子を見ていた。


 その瞳に浮かんでいるものが、驚きなのか、安堵なのか、戸惑いなのか。


 それとも、もっと別の感情なのか。


 キースには決められない。


 女は銀の湖へ一歩進んだ。


 湖面には、複数の景色がまだ浮かんでいる。


 第一の創世。


 第二の創世。


 そして、サーガという名が世界成立後になって初めて現れる記録。


 三つ。


 どれも消えない。


 女は、そのうちの一つへ手を伸ばしかけた。


 指先が水面へ触れる直前で止まる。


 何もしない。


 どれかを選ばない。


 どれかを消さない。


 そのまま、手を下ろした。


「どうした?」


 キースが尋ねる。


 女は小さく息を吐いた。


「私は」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「長く、どの記録が次へ残るのかを見てきました」


「うん」


「一つの記録が強くなれば、別の記録が薄くなることもありました」


 サファイア。


 アムドア。


 創世。


「一つの過去が現実として定着すれば、別の過去が神話や誤記として押し出されることも」


「それが」


 キースは湖を見る。


「今は起きてない?」


 女は頷いた。


「少なくとも」


 慎重に。


「今、この瞬間には」


 異なる湖面。


 異なる記録。


 それでも互いを消さない。


 サーガと呼ばれた女は、その光景をもう一度見た。


 先ほどの戸惑いは、まだ消えていない。


 けれど今は、それに混じって、ほんの僅かな笑みがあった。


 ほとんど独り言のように呟く。


「……世界が、一つの続きを選ばなかった」


          *


 その言葉が、《ガイアの臍》の奥へ静かに落ちた。


 神託ではない。


 祝福でも、宣言でもない。


 ただの観測。


 今起きたことを、彼女がそう見た。


 それだけだった。


 キースは、その言葉が好きだった。


 一つの続きを選ばなかった。


 だからといって、何でもありになるわけではない。


 マーカスは死んでいる。


 人間ローゼンも死んだ。


 キルスは禁術を犯した。


 アムドアには穴がある。


 起きたことを消さない。


 そのうえで、それ以外の可能性まで殺さない。


「ローゼン」


「はい」


「私たちは」


 隣に立つ。


 二人。


「これからも二人?」


 ローゼンは少し不思議そうにキースを見た。


「一人になるご予定がございますか?」


「ない」


「では二人でございます」


「簡単だな」


「フユに教わりました」


「悪影響じゃないかな」


「聞こえてる」


 フユがむっとする。


「褒めてる」


「嘘」


「サーガに記録されるぞ」


 女が僅かに笑った。


「今の発言は、記録しないこともできます」


「選べるのか!」


「はい」


「見たこと全部、勝手に残っていくわけじゃない?」


「覚えてしまうことと、何を記録として残すかは同じではありません」


 キースが少し目を丸くする。


 女は続けた。


「すべてを、同じ重さで残すわけでもありません」


「では」


 ローゼンが尋ねる。


「何を残すかは、あなた様がお決めになる?」


「はい」


 一拍置く。


「記録することも、記録しないことも、私の選択です」


 それは当たり前の言葉のはずだった。


 けれどキースには、少し意外だった。


 目の前の女が、世界に起きたことを機械的に写し取っているだけではないことを、改めて思い知らされる。


「なんか急に怖くなってきた」


「なぜでしょう」


「私の格好悪い発言ばかり選んで残せるってことだろ」


「可能です」


「やめてくれ!」


 女が笑った。


 ほんの少し、皆も笑った。


          *


 その時。


 《ガイアの臍》の古代都市で、光が灯った。


 一つ。


 遠い壁面。


 欠けた円環。


 キースの笑みが消える。


「……あれ」


 アムドアで見たものと同じ系統の古い刻印。


 《ラグナ――》


 その文字が、暗闇の中でゆっくりと光を帯びている。


 完全な言葉にはならない。


 欠けたまま。


 ただ、今回の世界変化へ何か応えるように。


「キース様」


「ああ」


 ローゼンも見ている。


 サーガと呼ばれた女は、その刻印を黙ったまま見つめていた。


 先ほどまでの微笑みが消えている。


 けれど、恐怖とも断定できない。


 彼女はただ、遠い何かを思い出そうとするように、欠けた文字を見ていた。


 キースは問わなかった。


 まだ、名前を決める時ではない。


 世界は、一つの過去へ戻らなかった。


 そして、一つの未来へも戻らない。


 ならば、この出来事へ過去の終末の名を与えるべきなのか。


 それを問うのは、次だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。