第四十九章 世界は一つの過去へ戻らない
キースとローゼンの魂が深く重なったあと、《ガイアの臍》には二つの鼓動が残った。
同じ速さではない。かといって完全にずれているわけでもなく、一方が鳴れば、ほんの僅かに遅れてもう一方が応える。二つの名を保ったまま、一つの構造として振る舞った彼らの状態を写すように、《世界の根》そのものが異なる律動を同時に刻んでいた。
キースは胸へ手を当てた。
ローゼンの思考はもう聞こえない。記憶も流れ込んではこない。それでも、彼女がすぐ隣に立っているという事実だけが、目や耳で確かめるより少し早く分かる。
「まだ繋がってる」
フユが言った。
「さっきほど深くはない」
「うん」
「問題は?」
「知らない」
「そこはいつも通りだな」
「キースも」
「私も最近そうなってきたな……」
ローゼンが小さく笑った。
「悪いことばかりではないと思います」
「君まで」
「分からないことを、分からないままにしておけるようになったのでございましょう?」
「それを成長と言っていいのかは、まだ分からない」
「では、それもそのままで」
「……そうしよう」
二人が笑った、その時だった。
《世界の根》が大きく震えた。
揺れそのものは強くない。足元の石は動かず、銀の湖にもほとんど波は立たない。だが、身体の奥まで響くような低い音が、《ガイアの臍》全域をゆっくりと通り抜けていった。
メルリルの表情が変わる。
「始まりましたわ」
「何が?」
「分かりません」
「君まで!」
「ですが、先ほどまでとは明らかに違います!」
彼女が指した先で、古い光の線が浮かび上がっていた。
《真世界構文》。
二つの魂を一つへ戻し、〈混沌〉から新しい世界を成立させるために記録された、古い未来の構造。
ただし今、その中央には二つの名が残っている。
《キース》。
《ローゼン》。
本来なら一つの〈存在〉へ収束する場所に、二つの名が並んだまま消えない。
「まだ動いてるのか」
シビウが大斧へ手を置く。
「構文そのものは止まっておりません」
「じゃあ、二人をまた一つにしようとしてる?」
「それが……違うんですの」
「何が?」
「分からないから見ているのです!」
メルリルは地面すれすれまで身を屈め、光の流れを追った。
古い構文は、まず二人の名へ集まる。そこまでは以前と同じだった。
だが、一つへまとめられない。
《キース》を消そうとすれば、《世界の根》が反応する。《ローゼン》を消そうとしても同じだった。
二つを新たな一つの名へ置き換えようとすれば、《夢》の銀の湖に波紋が走り、文字そのものが崩れていく。
「拒否されていますわ」
メルリルが呟いた。
「誰に?」
「それが分からない」
「私たち?」
キースが尋ねる。
「あなた方だけではありません」
メルリルの声が低くなる。
「もっと多い」
*
最初に現れたのは、黒だった。
銀の湖の向こう。ソーサイアを呑み込んだ巨大な〈混沌〉の内部で、さらに濃い影がゆっくりと立ち上がる。
以前、アムドアの深層でキースとローゼンを外へ送り出した人影によく似ていた。
「ケーオス……?」
ローゼンが呟く。
黒い影は答えない。
いつもと同じだった。
男にも、女にも、獣にも見える。あるいは、人の形に空いたただの穴のようにも見えた。
サーガと呼ばれたことのある女が、その影を見つめる。
「私の記録の中で、ケーオスと呼ばれてきたものに近い反応です」
「本人とは言わないんだな」
キースが確認する。
「はい」
「でも、無関係とも言わない」
「はい」
「分かった。それでいい」
黒い影は、《真世界構文》へ手を伸ばした。
触れた。
何かが壊れる。
キースは、そう思った。
だが違った。
構文の一部が増えた。
「……何?」
一つだった線が、二本、三本と枝分かれしていく。
同じ起点から、異なる方向へ。
「〈混沌〉」
メルリルが息を呑んだ。
「可能性を増やしている?」
「そう見える」
キースは答えた。
断定はしない。
黒は形を奪わなかった。むしろ、まだ一つへ決まっていなかった別の形を、構文の中にそのまま許していく。
その直後、白い光が現れた。
*
黒と反対の場所ではなかった。
黒の隣だった。
まるで最初から、そこに並んでいたかのように。
強い白。
輪郭。
秩序。
形を持つということそのものが、光になったような存在。
ローゼンは《夢》で、《精霊の君》の背後に見た二つの影を思い出した。
黒と白。
あの時、それらがケーオスとコスモスなのか、それともまったく別の何かなのかは分からなかった。
「こちらは?」
キースが女へ尋ねる。
「私の記録では、コスモスと呼ばれたものに一致する特徴があります」
「やっぱり、そう言うか」
「今ここに現れたものの全存在を、その名だけで確定することはできません」
「もう分かってる」
白い光も構文へ触れた。
キースは、今度こそ一つへ戻されると思った。
ケーオスが増やした可能性を、コスモスが一つの秩序へ選び直す。
そう考えた。
しかし、また違った。
白い光は、分かれた線の一つ一つへ輪郭を与えていった。
「全部を……?」
メルリルが立ち上がる。
「複数の構造を、同時に成立させておりますわ」
黒が可能性を開く。
白が、それぞれへ形を与える。
一つには絞らない。
「ケーオスとコスモスが」
キースが呟く。
「争ってない?」
「争った記録もあります」
女が言った。
「協力した記録もあります」
「今は?」
女は黒と白へ視線を向けた。
ほんの僅かに、その瞳が見開かれる。
自分の持つ記録へ照らして確認しているというより、目の前で起きているものを初めて見る者の目だった。
「今、見えているものを記すなら」
少し遅れて、彼女は答えた。
「互いを消していません」
それが重要だった。
*
次に、《夢》が反応した。
銀の湖が幾つにも分かれた。
水面そのものが割れたのではない。一つの湖へ、複数の景色が同時に映り始めたのだ。
竜の峠。
マーカスが落ちた世界。
その隣には、落ちなかった世界。
人間ローゼンが毒に倒れる夜。
さらに隣には、彼女が生きたまま朝を迎える世界。
アムドア。
巨大魔導都市だった過去。
古い穴を監視するために築かれた都市だった過去。
そもそも都市そのものが存在しなかった過去。
どれも消えず、同じ湖面に映っている。
「また……」
キースの顔が険しくなる。
シビウも湖を見る。
そこには、生きているマーカスがいた。
けれど、彼女はもう手を伸ばさなかった。
「好きに映ってな」
それだけ言って、大斧の柄へ手を置く。
「こっちはこっちだから」
すると、不思議なことが起きた。
死ななかったマーカスの光景が消えなかった。
「……残る?」
シビウ自身が驚いている。
拒絶したのに、消えない。
だからといって、こちらの現実へ重なってもこない。
ただ、別の可能性として湖面の向こうにある。
「消さなくていい?」
フユがシビウを見る。
「何を」
「あっち」
生きているマーカス。
シビウは長いあいだ、その男を見た。
「……そうだね」
やがて、少しだけ笑う。
「あれがどこかにあったって、別に困らない」
「シビウ」
キースが彼女を見る。
「あたしのマーカスが死んだことは変わらない」
それで十分だった。
「死ななかった奴がどっかにいたって、それを殺す必要までないだろ」
銀の湖が静かに光った。
女もまた、その言葉を聞いていた。
何も言わない。
ただ、あのときシビウの選択を記録した時と同じように、一度だけ彼女へ視線を向けた。
*
「秋」
フユが突然言った。
「何?」
キースが振り返る。
「秋」
風が吹いた。
続いて。
「冬」
湖面の一部が凍る。
「春」
氷の隙間から芽が出る。
「夏」
花の周囲へ熱が満ちる。
四季。
通常なら、一つずつ順を追って移ろうもの。
だが、今は違った。
春の花が咲く隣で、冬の氷が残っている。
夏の熱。
秋の風。
それらが互いを消さない。
「フユ」
キースが目を丸くする。
「四季って、同時に使えたのか?」
「知らない」
「今使ってるだろ!」
「世界がやってる」
「君じゃなく?」
「フユも」
「世界も?」
「うん」
小さな妖精は、難しいことなど何も起きていないような顔で、四つの季節を眺めている。
「春だから冬がなくなるわけじゃない」
「普通は季節が移るだろ」
「どこでも同じ?」
キースが止まった。
北。
南。
高い山。
地下。
同じ日でも、場所が違えば季節は違う。
「……そうか」
世界には最初から、一つの季節だけが存在していたわけではない。
「四季は」
キースが呟く。
「循環する。でも、世界全体を一つの季節へ揃えているわけじゃない」
「うん」
「場所が違えば、違う季節がある」
「うん」
「それでも、一つの世界」
フユは当たり前のように、
「うん」
と答えた。
*
《真世界構文》が大きく軋んだ。
古い文字が、一つずつ崩れ始める。
「何が起きておりますの?」
メルリルが構文へ目を凝らした。
「これは……」
文字。
意味。
収束。
統合。
一つ。
唯一。
同一。
そうした意味を持つ部分だけが、不自然に黒ずんでいる。
「ソーサイア」
キースが気づいた。
「何?」
シビウが尋ねる。
「これは《真世界構文》だけじゃない」
古い構文へ、別の構造が重ねられている。
「ソーサイアが加えたもの?」
ローゼンの瞳が険しくなる。
唯一の読者。
世界から他の解釈者を消す。
「彼は」
ローゼンが言う。
「古い《真世界構文》を、そのまま使おうとしていたのではございません」
「自分の目的へ合わせた」
メルリルも理解する。
「元の構文ですら一つの未来を要求していました。でもソーサイアは、さらにそこへ」
彼女は文字を追った。
「解釈の固定」
「観測者の単一化」
「他の記録の消去」
キースが一つずつ読む。
いや。
文字そのものを完全に読めているわけではない。
意味だけが、胸の奥へ入ってくる。
「こいつは」
キースの顔が険しくなった。
「《真世界》を作りたかったんじゃない」
シビウが吐き捨てる。
「自分の世界を作りたかったんだろ」
「ああ」
キースは頷く。
正しい世界ではない。
唯一、自分だけが読める世界。
他の読み方が存在しない世界。
「だから」
ローゼンが崩れ始めた構文を見る。
「今、壊れている」
キースとローゼン。
二つの名。
ケーオスと呼ばれた黒。
コスモスと呼ばれた白。
《夢》。
四季。
《世界の根》。
どれも、一つへ揃わない。
それでも存在している。
ソーサイアの構文だけが、その状態を許せない。
「なら」
キースはローゼンを見る。
「壊す必要もない」
「え?」
「こっちから攻撃する必要はない」
矛盾。
それだけで十分だった。
「一つでしか成立できない構文の中に」
キース。
ローゼン。
二つ。
「同時に違うものが存在すれば」
メルリルの瞳が見開かれる。
「自壊する」
*
ソーサイアの声が、〈混沌〉の奥から響いた。
『違う』
誰も、すぐには動かなかった。
以前ほど強い声ではない。
『世界は一つでなければならない』
「世界は一つだよ」
キースが答える。
黒の奥で、僅かに蒼い光が揺れた。
『ならば』
「でも」
キースはローゼンを見る。
「一つの世界に、一つの答えしか置けないとは限らない」
『矛盾する』
「ああ」
『過去が二つあれば、どちらかは偽りだ』
「そうとは限らない」
『同じ人物に複数の過去があれば、その者は何者だ』
「今の自分で決めればいい」
『一つの出来事に、異なる記録があるなら』
「残せばいい」
『真実は一つだ!』
声が《夢》を震わせた。
キースは、その言葉そのものを否定しなかった。
「真実は、ある」
静かに答える。
「でも」
サーガ。
創世。
三つの記録。
「真実が、永遠に同じ形で残るとは限らない」
黒が揺れる。
「私が見たこと」
キルス。
ローゼン。
「ローゼンが見たこと」
違う月。
違う台詞。
同じ夜。
「ヴァギュイザールが覚えていること」
《王》は敗れた。
《王》は自ら武器を置いた。
「《王》が覚えていたこと」
《姫》と戦った。
《姫》を守った。
「全部を一つへ潰せば」
キースはソーサイアの黒を見る。
「分かりやすくはなる」
『それが秩序だ』
「違う」
白い光。
コスモスと呼ばれたものは、複数の構造へ、それぞれ輪郭を与えている。
「今、目の前で」
キースが言う。
「一つにしなくても、形は保てている」
返事はなかった。
*
『なら』
ソーサイアの声が、今度はローゼンへ向く。
『君は、どのローゼンだ』
人間。
精霊。
キルスと一つだった魂。
サファイアに育てられた娘。
作られた物語の中の存在。
どれなのか。
以前なら、ローゼンを苦しめた問いだった。
今の彼女は、静かに答える。
「すべて、わたくしへ続くものです」
『なら一つへ定義しろ』
「必要ございません」
『なぜ』
ローゼンは白い髪へ触れた。
「わたくしは、今ローゼンでございますから」
『答えになっていない』
「わたくしには、十分でございます」
黒が大きく震える。
『世界は曖昧になる』
「もともと」
シビウが横から割って入った。
「あんたが思ってるほど、きっちりしてないんじゃない?」
『黙れ』
「嫌だね」
大斧を肩へ担ぐ。
「あたしには前世も魂核も何もないけどさ、昨日思ってたことと、今日思ってることだって違う」
『それは変化だ』
「なら、世界が変わって何が悪い」
ソーサイアが黙った。
「過去を全部同じにしなきゃ自分が分からない奴なんて」
シビウは鼻で笑う。
「人間一人だって無理だろ」
キースも少し笑った。
「確かに」
「今さら気づいた?」
「神官だったから、整合性を重視していたんだ」
「言い訳」
「そうだな」
*
構文の崩壊が始まった。
派手な爆発ではない。
一つの文字が意味を失う。
《唯一》。
消える。
次に《固定》。
そして《統合》。
《他記録排除》。
ソーサイアが《真世界構文》へ重ねた、世界を一つの読み方だけへ収束させるための部分が、黒い砂のようにほどけていく。
ケーオスと呼ばれた黒が、他の可能性を残す。
コスモスと呼ばれた白が、それぞれへ形を与える。
《夢》は異なる記憶を同じ湖へ映す。
四季は違う季節を同じ世界へ置く。
《ガイアの臍》の根は、二つの鼓動を同時に運んでいる。
キースとローゼンは二人のまま、それでも必要な時には一つの構造として重なれる。
そして、サーガと呼ばれた女は、それらのどれか一つを《正しい形》へ直そうとはしなかった。
手を伸ばせば、何かに触れることはできただろう。
どれかを選び、どれかへ名前を与え、記録を一つへ整理することもできたのかもしれない。
だが、女は何もしなかった。
ただ、見ていた。
目を逸らさずに。
*
「サーガ!」
メルリルが叫んだ。
「何が起きていますの!」
女はすぐには答えなかった。
銀の湖。
黒。
白。
根。
花。
季節。
キース。
ローゼン。
それらを一つずつ見ていく。
「記録しています」
「そうではなく!」
「今までの記録と比較しています」
「結果は!」
女の瞳が、僅かに大きく開いた。
これまで彼女が見せたことのないほど、はっきりとした戸惑いだった。
「一致するものがありません」
キースが彼女を見る。
「初めて?」
「その言葉は慎重に使うべきですが」
女は途中で言葉を切った。
もう一度、周囲を見る。
黒と白。
同時にある四季。
複数の過去。
二つの名を残した構文。
そこには僅かな恐れがあった。
同時に。
ほんの少しだけ、笑っているようにも見えた。
未知のものを前にした者の顔だった。
「少なくとも」
今度は、静かに続ける。
「私が現在参照できる記録にはありません」
「では」
ローゼンが尋ねる。
「世界は、何になろうとしているのでございましょう」
「分かりません」
女は正直に答えた。
だが、その「分かりません」は、これまでとは少し違って聞こえた。
答えを持たないことへの慎重さだけではない。
自分さえ知らなかったものを、いま見ている。
その事実を、彼女自身が受け止めようとしているようだった。
「ですが」
女は空を見上げた。
*
空。
それが《夢》のものなのか、《ガイアの臍》の天井なのか、もう分からない。
けれど、何も起こらなかった。
割れない。
光の柱も立たない。
新しい星も現れない。
大地は増えず、山は動かず、海も逆流しない。
世界が再創造されるような、大仰な奇跡は何一つ見えなかった。
「……何も変わらない?」
シビウが周囲を見る。
「花は花」
フユが言う。
「根も根」
「空も?」
「空」
「なら」
メルリルは不安そうに辺りを見回した。
「何が変わったんですの」
キースも、自分の身体を見る。
変わらない。
ローゼンも。
シビウも。
メルリルも。
フユも。
誰一人、別の存在にはなっていない。
マーカスは戻ってこない。
人間ローゼンも現れない。
死者は死んだまま。
アムドアも穴を抱えている。
過去は消えていない。
「世界を作り直してない」
キースが、ようやく気づいた。
「作り直しておりませんね」
ローゼンも周囲を見る。
「じゃあ」
シビウが眉を寄せる。
「結局、失敗?」
「違う」
フユが即答した。
「何が?」
「変わった」
「どこが」
フユは地面へ手を置き、目を閉じた。
「世界」
それだけだった。
*
キースもしゃがみ込んだ。
初めて四季へ触れた時のように、世界の中へすでに存在するものを感じ取ろうとする。
根。
水。
熱。
風。
生命。
そして、そのさらに奥。
何かが違う。
世界が、一つの形へ戻ろうとしていない。
「……あ」
「キース様?」
「待って」
目を閉じる。
アムドア。
三つの歴史。
以前なら、それらは互いに衝突しているように見えた。
どれか一つだけが《唯一の現実》になろうとして、世界の境界を削っているかのように。
今は違う。
三つある。
それでも、押し合わない。
「競争してない」
キースが呟く。
「何が?」
メルリルが問う。
「可能性」
キースは顔を上げる。
「今までは、複数の過去が存在すると、どれも自分が《唯一の現実》になろうとしていた」
アムドア。
《王》。
創世神話。
「だから衝突した」
もちろん、それだけが原因だったと断定はできない。
ただ、少なくともそう見える現象が起きていた。
「今は」
キースはもう一度、根へ触れる。
「違う」
「共存?」
メルリルが小さく問う。
「……たぶん」
「たぶん?」
「今はそれ以上言えない」
サーガと呼ばれた女がキースを見ていた。
「近いと思います」
「あなたが言う?」
「私は」
女は世界へ視線を戻す。
「異なる記録が、互いを訂正しようとしていない状態を観測しています」
ローゼンの瞳が、静かに見開かれた。
*
「それは」
ローゼンがゆっくり言う。
「サファイア様にも?」
誰も、すぐには答えなかった。
最初はいなかった。
けれど、昔からいたという記録がある。
幼いローゼンを育てた記憶。
ソーサイアが作った人格。
そして途中から、本当にサファイアという存在が生まれていた可能性。
「最初はいなかった」
ローゼンは、自分で言葉にする。
「それでも、いたかもしれない」
以前なら、どちらか一つを選ばなければ矛盾だった。
「両方を」
深紅の瞳に涙が僅かに溜まる。
「そのまま残しても、よろしいのでございますね」
サーガと呼ばれた女は、すぐには答えなかった。
「それを許可する立場に、私はありません」
ローゼンが少し笑う。
「そうでございました」
「ですが」
女も微笑んだ。
「現在の世界は、それを排除していません」
「はい」
ローゼンは胸へ手を置く。
「それで十分でございます」
*
黒の奥で、ソーサイアの声がもう一度だけ聞こえた。
『曖昧だ』
弱い。
遠い。
『そんな世界は、真実を失う』
キースは黒を見る。
「違う」
答えた。
「真実を一つに固定しないだけだ」
『同じことだ』
「違う」
今度はローゼンだった。
「過去を複数持つことと、過去を持たないことは同じではございません」
シビウも続く。
「マーカスは死んだ」
そこは変えない。
けれど、死ななかったマーカスという可能性を、世界からわざわざ殺す必要もない。
「こっちには、こっちの過去がある」
メルリルも記録紙を掲げる。
「記録は消しません」
一冊。
一つ。
違う記録。
「矛盾していれば」
彼女は少し笑った。
「両方調べますわ」
フユが言う。
「春も冬もある」
一番単純だった。
「だから世界」
ソーサイアは、それ以上何も言わなかった。
*
蒼い光が、黒の中で最後に一度だけ灯った。
サファイアの色だったのか。
ソーサイアの色だったのか。
ローゼンには分からなかった。
そして、もう決めなかった。
蒼い光は消えた。
〈混沌〉そのものは残る。
ケーオスと呼ばれた黒い影も、その向こうへ溶けていく。
コスモスと呼ばれた白も輪郭を失った。
「消えた?」
シビウが尋ねる。
「見えなくなった」
フユが答えた。
「同じか?」
「違う」
「そうだね」
この旅は、ずっとそうだった。
*
《夢》がゆっくりと薄くなっていく。
「崩れる?」
キースが女を見る。
「分かりません」
「また?」
「以前も《夢》は閉じました」
「そうだったな」
「今は」
女は銀の湖へ視線を落とした。
「閉じるというより、重なりが解けているように見えます」
《ガイアの臍》。
古代都市。
巨大な根。
現実側の輪郭が少しずつ濃くなる。
一方で花野と銀の湖は、遠ざかっていく。
「あなたは?」
ローゼンが女へ尋ねる。
「どちらへ?」
サーガ。
《精霊の君》。
《姫》。
《語り手》。
女は少し考えた。
「分かりません」
シビウが思わず笑う。
「最後までそれかい」
「はい」
「でも」
キースが女を見る。
「あなたは、どちらか一つへ戻る必要はないのかもしれない」
女の表情が僅かに変わった。
「なぜ?」
「世界が」
キースは周囲を見る。
「一つへ決めなくなったから」
女は答えなかった。
ただ、長いあいだ世界を見つめていた。
その沈黙を、キースは解釈しなかった。
*
何も起きなかった。
それが奇跡だった。
山は山のまま。
空は空のまま。
死者は戻らない。
都市は増えない。
過去が書き換わったという実感もない。
キースの名前はキース。
ローゼンはローゼン。
シビウはマーカスの斧を背負っている。
メルリルは自分の記録紙へ猛烈な勢いで何かを書き込んでいた。
「こんな時まで?」
キースが呆れる。
「こんな時だからです!」
「何を書いてる?」
「分かりません!」
「分からないのに?」
「起きたことを書いてから考えるのです!」
キースは笑った。
「正しい」
「何ですの、その上から目線!」
「世界一だから」
「久しぶりに腹が立ちましたわ!」
フユがくすりと笑う。
ローゼンも口元を綻ばせた。
世界は、ほとんど何も変わっていない。
けれどキースには、確かに分かった。
今まで世界の底には、一つの強迫があった。
どれが本当なのか。
どれが唯一なのか。
どれが正史なのか。
複数あれば衝突し、どれかを消す。
その方向へ、世界そのものが引かれていたように見えた。
今は、その力が弱い。
なくなったのか。
別の形へ変わったのか。
まだ分からない。
ただ、三つの過去が三つのまま、静かにそこにいられる。
*
サーガと呼ばれたことのある女は、その様子を見ていた。
その瞳に浮かんでいるものが、驚きなのか、安堵なのか、戸惑いなのか。
それとも、もっと別の感情なのか。
キースには決められない。
女は銀の湖へ一歩進んだ。
湖面には、複数の景色がまだ浮かんでいる。
第一の創世。
第二の創世。
そして、サーガという名が世界成立後になって初めて現れる記録。
三つ。
どれも消えない。
女は、そのうちの一つへ手を伸ばしかけた。
指先が水面へ触れる直前で止まる。
何もしない。
どれかを選ばない。
どれかを消さない。
そのまま、手を下ろした。
「どうした?」
キースが尋ねる。
女は小さく息を吐いた。
「私は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「長く、どの記録が次へ残るのかを見てきました」
「うん」
「一つの記録が強くなれば、別の記録が薄くなることもありました」
サファイア。
アムドア。
創世。
「一つの過去が現実として定着すれば、別の過去が神話や誤記として押し出されることも」
「それが」
キースは湖を見る。
「今は起きてない?」
女は頷いた。
「少なくとも」
慎重に。
「今、この瞬間には」
異なる湖面。
異なる記録。
それでも互いを消さない。
サーガと呼ばれた女は、その光景をもう一度見た。
先ほどの戸惑いは、まだ消えていない。
けれど今は、それに混じって、ほんの僅かな笑みがあった。
ほとんど独り言のように呟く。
「……世界が、一つの続きを選ばなかった」
*
その言葉が、《ガイアの臍》の奥へ静かに落ちた。
神託ではない。
祝福でも、宣言でもない。
ただの観測。
今起きたことを、彼女がそう見た。
それだけだった。
キースは、その言葉が好きだった。
一つの続きを選ばなかった。
だからといって、何でもありになるわけではない。
マーカスは死んでいる。
人間ローゼンも死んだ。
キルスは禁術を犯した。
アムドアには穴がある。
起きたことを消さない。
そのうえで、それ以外の可能性まで殺さない。
「ローゼン」
「はい」
「私たちは」
隣に立つ。
二人。
「これからも二人?」
ローゼンは少し不思議そうにキースを見た。
「一人になるご予定がございますか?」
「ない」
「では二人でございます」
「簡単だな」
「フユに教わりました」
「悪影響じゃないかな」
「聞こえてる」
フユがむっとする。
「褒めてる」
「嘘」
「サーガに記録されるぞ」
女が僅かに笑った。
「今の発言は、記録しないこともできます」
「選べるのか!」
「はい」
「見たこと全部、勝手に残っていくわけじゃない?」
「覚えてしまうことと、何を記録として残すかは同じではありません」
キースが少し目を丸くする。
女は続けた。
「すべてを、同じ重さで残すわけでもありません」
「では」
ローゼンが尋ねる。
「何を残すかは、あなた様がお決めになる?」
「はい」
一拍置く。
「記録することも、記録しないことも、私の選択です」
それは当たり前の言葉のはずだった。
けれどキースには、少し意外だった。
目の前の女が、世界に起きたことを機械的に写し取っているだけではないことを、改めて思い知らされる。
「なんか急に怖くなってきた」
「なぜでしょう」
「私の格好悪い発言ばかり選んで残せるってことだろ」
「可能です」
「やめてくれ!」
女が笑った。
ほんの少し、皆も笑った。
*
その時。
《ガイアの臍》の古代都市で、光が灯った。
一つ。
遠い壁面。
欠けた円環。
キースの笑みが消える。
「……あれ」
アムドアで見たものと同じ系統の古い刻印。
《ラグナ――》
その文字が、暗闇の中でゆっくりと光を帯びている。
完全な言葉にはならない。
欠けたまま。
ただ、今回の世界変化へ何か応えるように。
「キース様」
「ああ」
ローゼンも見ている。
サーガと呼ばれた女は、その刻印を黙ったまま見つめていた。
先ほどまでの微笑みが消えている。
けれど、恐怖とも断定できない。
彼女はただ、遠い何かを思い出そうとするように、欠けた文字を見ていた。
キースは問わなかった。
まだ、名前を決める時ではない。
世界は、一つの過去へ戻らなかった。
そして、一つの未来へも戻らない。
ならば、この出来事へ過去の終末の名を与えるべきなのか。
それを問うのは、次だった。




