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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
最終部 二人で一人、一人で二人
PR
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第四十八章 融合しない

 キースとローゼンの胸に宿った光は、互いへ引かれるように明滅を繰り返していた。


 二人が距離を取っても、その光は弱まらない。それどころか、《ガイアの臍》を走る巨大な根と、銀の湖へ沈む《夢》、そしてソーサイアを呑み込んだ〈混沌〉までもが、次第に同じ律動へ揃いつつあった。


 世界のどこかに残されていた古い構文が、二人の存在を見つけた。


 長く待っていた続きを、今になって再開しようとしている。


 銀の湖面には、先ほど消えたはずの未来が再び浮かび上がっていた。


 キースとローゼンが抱き合い、光に包まれていく。身体の境界が溶け、白い髪も、深紅の瞳も、キースの顔も声も失われる。やがて二人だったものは、男でも女でも、人間でも精霊でもない、一つの名を持たない〈存在〉へ変わった。


 そこから世界は作り直される。


 死者が帰り、過去の失敗は消え、人間魔導のない新しい世界が始まる。


 一見すれば、幸福な未来だった。


 だからこそ、キースには恐ろしかった。


「構文が進んでおりますわ」


 メルリルが低い声で告げた。


 彼女の視線は二人ではなく、足元を走る巨大な根へ注がれている。そこには古代文字とも魔導式とも異なる無数の光線が浮かび、その一本一本がキースとローゼンへ向かって伸びていた。


「こちらがキース。こちらがローゼン様。そして、この二本が中央で一つへ収束するよう組まれています」


「止められる?」


「構文だけなら、壊せるかもしれません。ですが、今は《ガイアの臍》そのものが反応しております」


「つまり?」


「下手に一部だけ壊せば、何が起きるか分かりません」


 キースは苦い顔をした。


「最近、その答えに慣れてしまった自分が嫌だな」


「奇遇ですわね。わたくしもです」


 シビウが二人を睨む。


「冗談言ってる場合かい」


「分かってる」


 キースは胸元へ手を当てた。


 光に熱はない。


 痛みもない。


 それでも、胸より遥かに深い場所――これまで魂核と呼んできたものが、どこかへ引かれている感覚だけははっきりしていた。


 呼ばれている。


 帰れ、と。


 一つへ。


 昔の形へ。


 しかも、その感覚は不自然なほど心地よかった。


「……これが厄介だな」


「何がでございますか?」


 ローゼンが尋ねる。


「嫌じゃないんだ」


 その言葉に、彼女の表情が変わった。


 キースは誤魔化さずに続けた。


「このまま君と一つになれば、何かが終わる気がする。全部分かる。もう迷わなくていい。そんな感じがする」


「わたくしも」


 ローゼンは胸へ手を置いた。


「同じでございます」


 怖い。


 それなのに、懐かしい。


 隣にいる相手との境界を失うことが、死ではなく、長い旅の果てに故郷へ帰ることのように感じられる。


 それこそが、古い構文の最も危険なところなのだと、キースには思えた。


          *


「二人とも」


 シビウが二人の間へ入った。


「嫌なら嫌って言いな」


「簡単に言うな」


「簡単だろ」


「世界が懸かっている」


「だから何だい」


 シビウは真顔だった。


「あんたらが一つになれば世界が助かるって? その話、誰が決めた?」


 キースは答えられなかった。


「昔の記録?」


「ああ」


「サーガ?」


「正確には、サーガが持っている記録だ」


「じゃあ、昔の誰かだ」


「そうなる」


「だったら、その昔の誰かに、今のあんたらの人生まで決めさせんな」


 マーカス。


 つい先ほど、彼女自身が選んだこと。


 死者を取り戻すために、現在までの人生を消さない。


「……強いな、君は」


「強くないよ」


 シビウは即座に否定した。


「マーカスが帰ってくるところを見て、もう少しで飛び込むところだった」


 肩の大斧、その柄を握る。


「だから分かるんだ。欲しい答えが目の前にある時ほど、誰がその答えを用意したのか考えなきゃ駄目なんだよ」


 キースはゆっくり頷いた。


「そうだな」


「それで?」


 シビウが問う。


「あんたは、どうしたい」


 世界ではない。


 構文でもない。


 古い記録でも。


 キルスでも。


 《王》でもない。


 キース自身が。


「私は」


 胸の光へ目を落とした。


「融合したくない」


 その言葉を口にした瞬間、光が大きく揺れた。


          *


 《真世界構文》が反応した。


 湖面の未来に映っていた二人が、一瞬だけこちらを振り返る。


 あり得ない。


 それは過去に記録された、未来の像であるはずだった。


 その像が、現在のキースを見ている。


 そして声がした。


 キルス。


 自分とよく似ていて、それでも自分ではない男の声。


『なぜ拒む』


 キースは目を細めた。


「君が本当にキルスなのかも分からない」


『魂は同じだ』


「そうかもしれない」


『ローゼンと一つになれば、失ったものを取り戻せる』


「それも、そうかもしれない」


『なら』


「それでも」


 キースは胸の奥で、自分の名を確かめる。


「私はキルスではない」


 未来の男の顔が僅かに歪んだ。


「君がローゼンを愛したことを否定しない。君が苦しんだことも、間違ったことも、私の中に残っている」


 魂核。


 同じものが続いている。


 それ自体を、もう否定する必要はない。


 先ほどサーガから聞いた言葉が、ふと胸を過った。


 同じものが続いていることと、同じ人物であることは別。


 あの時は、神話めいた説明の一つとして聞いていた。


 今は違う。


 これは、自分自身の問題だった。


「君の続きをそのまま生きることが、私の役目じゃない」


 キースは湖面から目を逸らさなかった。


「私はキースだ」


 未来の像が光へ崩れ、そのまま消えた。


          *


 今度はローゼンの前へ、人間だった彼女が現れた。


 白い髪ではない。


 深紅の瞳でもない。


 酒場で働き、キルスを愛し、毒に倒れ、胸を裂かれ、魂を宿された。


 あの日に死んだローゼン。


『あなたは私です』


 その声を、ローゼンはしばらく黙って聞いていた。


「はい」


 キースが驚いて彼女を見る。


 人間ローゼンも僅かに微笑んだ。


『なら』


「あなた様は、わたくしへ続いております」


 ローゼンは否定しなかった。


「あなた様がキルス様を愛したことも、死んだことも。そのあと何が起きたのかも。すべて、わたくしの中に残っております」


『なら、一つへ戻ればいい』


 ローゼンは静かに首を振った。


「いいえ」


『なぜ?』


「わたくしは」


 自分の白い髪へ手を添える。


「あなた様が死んだあとも、生きました」


 ラルソウム。


 大樹。


 サファイア。


 《夢》。


 精霊たち。


 キースとの旅。


 マーカスの死。


 フユ。


 メルリル。


 アムドア。


 人間ローゼンの人生が終わったあとにも、今のローゼンには確かに生きた時間がある。


『でも、同じ魂』


「はい」


『同じローゼン』


「同じ名を持つことも」


 ローゼンは静かに言った。


「同じ人物であることとは、違います」


 それは、サーガが語った理屈だからではない。


 旅の中で、ローゼン自身が何度も自分の名前を選び直してきたから、そう言えた。


「わたくしは、あの日死んだローゼンではありません」


 未来の女性は何も言わなかった。


 ローゼンは胸へ手を置く。


「わたくしは、今ここにいるローゼンでございます」


 人間ローゼンの像もまた、光へ溶けて消えた。


          *


 二人は拒絶した。


 そのはずだった。


 それでも、《真世界構文》は止まらない。


「なぜ!」


 メルリルが光る根へ駆け寄った。


「意志を拒否しても、収束が続いております!」


「当たり前なのかもしれない」


 キースが言った。


「何がですの!」


「これは、私たちの意思を聞くための構文じゃない」


 最初から目的は決まっている。


 二つの魂を、一つへ戻す。


 そういう仕組み。


「拒否という選択肢を、最初から持っていない」


「なら、壊します?」


 シビウが剣を抜く。


「待て」


「まだ待つの?」


「壊したら、世界までどうなるか分からない」


「じゃあ、どうするんだい」


 キースは答えられなかった。


 サーガと呼ばれた女を見る。


「あなたなら?」


「記録にある方法は、一つです」


「融合?」


「はい」


「それ以外は?」


「記録されていません」


 キースは苦笑した。


「なら、あなたにも分からない」


「はい」


 女は、ただ彼を見る。


「ですが」


「何?」


「記録されていないことと、できないことは同じではありません」


 キースの瞳が僅かに動いた。


 それは、つい先ほどシビウがマーカスについて見せた選択と同じだった。


 記録にない。


 だから、間違いなのではない。


 まだ誰も選ばなかっただけかもしれない。


          *


「できると思うのか?」


「私は、そのようには申し上げていません」


「……そうだった」


「ただ」


 女は二人の胸の光を示す。


「《真世界構文》が求めているものを、正確に見た方がよいでしょう」


「融合では?」


「それは結果です」


 メルリルがすぐに反応した。


「結果?」


「はい」


「では、構文が必要としている条件は別?」


 女は頷く。


「記録を読む限り、《真世界構文》が必要としているのは、二つの魂構造が《一つの構文として振る舞うこと》です」


 キースの表情が変わった。


「待ってくれ」


「はい」


「一つの構文として振る舞う」


「はい」


「一つの人格になる、ではない?」


 女は静かに答えた。


「その二つが同義であるとは、記録されていません」


 メルリルが息を呑んだ。


「では、旧い術者が勝手に同義と解釈した可能性も?」


「それも分かりません」


「ですが!」


「記録の中では、魂構造を一つへ重ね、その結果として人格も一つになっています」


「でも、人格融合が必須だとは書いていない」


 キースが言った。


「はい」


 またしても、解釈だった。


 世界そのものが決めたのではないかもしれない。


 昔の誰かが、そう読むことしかできなかっただけかもしれない。


「だったら」


 キースの胸が強く鳴った。


「別のやり方があるかもしれない」


          *


「どうやって?」


 シビウが尋ねる。


「それを考える」


「今から?」


「今しかない」


 メルリルもすでに考え込んでいた。


「魂構造を、一つの構文として動作させればよい。しかし人格は保持する……」


「できる?」


「普通の魔導理論なら、不可能と言いたいところですが」


 彼女はフユを見る。


「この数日で《普通》という言葉を使う自信を失いましたわ」


「何でフユ見るの」


「あなたが常識を壊すからです!」


「キースも」


「最近は彼もです!」


 キースは少し笑った。


 そして、不意に一つのことを思い出す。


「《旅水》」


 フユが彼を見る。


「なに」


「離れた水を繋いだ」


「うん」


「一つの水にした?」


「してない」


 即答だった。


「離れてる」


「でも、繋がった」


「うん」


 キースの胸が強く脈打つ。


「これだ」


「何がですの?」


「一つにする必要はない」


 キースはローゼンを見る。


「繋がればいい」


          *


 ローゼンの深紅の瞳が大きくなる。


「わたくしたちを?」


「ああ」


「すでに魂は接続しているのでは?」


「深くは繋がっている。でも、《真世界構文》はそれを一つへ潰そうとしている」


 キースは両手を離して示した。


「なら、一つに見えるくらい深く重ねる」


 二つの手を近づける。


 ただし、触れ合わせない。


「でも、境界は残す」


 メルリルも意図を理解した。


「二つの構文を同期させる?」


「そう」


「でも、名前は?」


 キースは即答した。


「残す」


 ローゼンが息を呑んだ。


「名が」


 キースは言う。


「私たちの輪郭を保つ」


 〈混沌〉の中。


 キルスの記憶へ呑まれかけた時。


 互いの名前を呼んだ。


 キース。


 ローゼン。


 それだけで輪郭が戻った。


「名前は、存在を固定するためにも使える」


 サファイア。


 名が人格を形作ったかもしれない。


「でも同時に」


 キースは自分の胸へ手を置く。


「自分が誰なのかを守ることにも使える」


 ローゼンが静かに頷いた。


「わたくしは、ローゼン」


「私はキース」


「そのまま」


「一時的に重ねる」


 シビウが眉を寄せた。


「それ、安全なの?」


「分からない」


「だと思ったよ!」


「でも、完全融合よりはましだ」


「比較対象がひどい!」


 メルリルが腕を組んだ。


「理屈そのものは成立しますわ」


「本当?」


「魂を扱った経験はありません」


「駄目じゃないか!」


「最後まで聞きなさい!」


 怒鳴り返してから、メルリルは続ける。


「魔導構文でも、二つの異なる術式を完全に一つへ混ぜず、同期させることで同じ現象を成立させる方法はあります」


「共鳴?」


「近いです。ただし、魂などという極端な対象で実行した例は知りません」


「なら」


 キースは少し笑った。


「初めてだ」


「嬉しそうに言わないでくださいませ!」


          *


「フユ」


 キースは小さな四季使いへ向き直った。


「手伝ってほしい」


「何を」


「私たちを一つにしないでくれ」


 フユは目を瞬く。


「一つにならなければいい」


「そのやり方を知りたいんだ!」


「キースはキース」


「うん」


「ローゼンはローゼン」


「そう」


「じゃあ大丈夫」


「どうして君の答えは、いつも最後だけ簡単なんだ!」


 フユは本当に分からないという顔をした。


「名前違う」


 キースが止まる。


「それだけ?」


「うん」


 名前。


 キース。


 ローゼン。


「名前が残れば」


 ローゼンが呟く。


「わたくしたちは、二人でいられる?」


 フユは少し考えた。


「二人でいるなら」


 答える。


「二人」


 キースは笑った。


「そうだな」


 ずっと難しく考えすぎていた。


 だが今だけは、その単純さへ賭けてみたいと思った。


          *


「やるの?」


 シビウが確認する。


 キースはローゼンを見る。


「私はやりたい」


「ローゼンは?」


 今度は、自分が答えを決めない。


 ローゼンは少し黙った。


 旧い未来。


 二人で一人。


 名前を失い、世界を作る。


「キース様」


「何?」


「怖くございます」


「私も」


「途中で」


 ローゼンは胸へ手を置いた。


「わたくしが、わたくしでなくなったら」


 キースも同じことが怖かった。


「その時は」


 少し考える。


「名前を呼ぶ」


「わたくしの?」


「ああ」


「わたくしも」


 ローゼンは僅かに笑った。


「キース様のお名前をお呼びいたします」


「様はいらない」


 ローゼンが目を丸くする。


「え?」


「いや」


 自分でも、なぜこの時に口から出たのか分からない。


「ずっと思っていたんだ」


「今でございますか?」


「今だからかもしれない」


 キースは少し照れた。


「魂まで重ねるのに、《様》は変じゃないか」


 シビウが吹き出した。


「そこ気にするのかい!」


「重要だ!」


「何が!」


 メルリルまで笑っている。


 ローゼンは困ったようにキースを見た。


「では」


 少し息を吸う。


「キース」


 名前。


 ただ、それだけだった。


 それなのに、キースの胸は思った以上に強く鳴った。


「……うん」


「これでよろしいのでございますか?」


「今だけでも」


「では」


 ローゼンは、今度は少し自然に。


「キース」


 と呼んだ。


 キースも、


「ローゼン」


 と返した。


 その瞬間、二人の胸に宿っていた光が変わった。


          *


 《真世界構文》が二人を掴んだ。


 痛みではない。


 自分という輪郭が、内側から果てしなく引き延ばされていく。


 キースの中へ、ローゼンの記憶が流れ込んだ。


 ラルソウム。


 幼い頃。


 サファイア。


 大樹。


 《夢》。


 人間の世界を初めて旅した時の驚き。


 マーカスが落ちた瞬間の恐怖。


 そして、その時。


 ローゼンはキースを見ていた。


 ずっと。


 自分の知らなかった、ローゼンの瞳から見た自分。


 同時に、ローゼンへもキースの記憶が流れ込む。


 メミス。


 窓の少ない部屋。


 書物。


 双子の巫女。


 外へ出る恐怖。


 キラービー。


 マーカス。


 罪悪感。


 キルス。


 心臓。


 そして、ローゼンを失った時の絶望。


「キース……!」


「いる!」


 声にする。


「私はここにいる!」


 自分の記憶の中へ、ローゼンがいる。


 ローゼンの記憶の中にも、自分がいる。


 境界が薄くなっていく。


「ローゼン!」


「はい!」


「君は誰だ!」


「ローゼンでございます!」


「私は!」


「キース!」


「そうだ!」


 二つの光が重なった。


 だが。


 溶けなかった。


          *


 キースは自分でありながら、ローゼンを感じていた。


 ローゼンもまた、自分でありながらキースを感じている。


 視界は二つ。


 身体も二つ。


 心臓も二つ。


 それなのに、世界を見る意識だけが、一つの場所へ重なっている。


 メルリルが息を呑んだ。


「……成功?」


「まだ!」


 キースとローゼンが同時に答えた。


 二つの声が完全に重なる。


 シビウが目を見開いた。


「気味悪いね!」


「ひどい!」


 また二人が同時に返す。


「息まで合ってるじゃないか!」


「違う!」


 同時。


「同じだよ!」


 そんなやり取りができることに、キースは少し安心した。


 笑える。


 自分は残っている。


 ローゼンも、別の場所で笑っている。


「どう?」


 フユが尋ねる。


「二人」


 キースが言う。


「一人みたい」


 ローゼンが自然に続けた。


「でも」


 二人が同時に言う。


「一人じゃない」


 フユは満足そうに頷いた。


「うん」


          *


 《真世界構文》が激しく振動した。


 古い未来は、二つの魂を一つへ潰そうとする。


 名前。


 境界。


 人格。


 すべてを削る。


 キースの中へローゼンが入り込み、ローゼンの中へキースが流れ込む。どちらがどちらなのか、その区別さえ薄れかける。


『一つへ』


 声。


 昔のサーガか。


 構文そのものか。


 誰かの記録か。


 分からない。


『戻れ』


「嫌だ!」


 キースが叫ぶ。


『元は一つ』


「それが本当でも!」


 ローゼンが続ける。


「今は二人でございます!」


 世界の根が軋んだ。


『二人で一人』


「そうかもしれない!」


 キース。


『一人で二人』


「それも、そうかもしれません!」


 ローゼン。


 ならば。


「どっちでもいい!」


 二人の声が重なった。


 《真世界構文》の振動が、一瞬止まる。


「二人で一人でも」


 キースが言う。


「一人にならなければいい」


 ローゼンが続ける。


「一人で二人でも」


 微笑む。


「二人の名前を失わなければよいのでございます」


 キース。


 ローゼン。


 二つの名前が、光の中へ浮かび上がった。


          *


 名前が構文へ入った。


 《真世界構文》には、本来なら一つの〈存在〉へ収束する場所しかない。


 その場所へ。


 二つの名が並ぶ。


 キース。


 ローゼン。


 構文が拒絶するように光を弾けさせた。


「危ない!」


 メルリルが叫ぶ。


 キースはローゼンを感じている。


 ローゼンもキースを感じている。


 離れる?


 キースは声に出さずに問う。


 それでも、意志は伝わった。


『いいえ』


 ローゼンの答えが、自分の内側へ聞こえる。


『まだ』


 そこでキースは気づいた。


 今聞こえた言葉は、自分のものではない。


 ローゼンの声だ。


 だから、まだ二人でいる。


『キース』


『ローゼン』


 互いを呼ぶ。


 名前が境界になる。


 壁ではない。


 扉でもない。


 隣り合う二人の間に引かれた、細い線。


 その向こうに相手がいる。


 触れられる。


 けれど、侵さない。


「これでいい」


 キースが言う。


 ローゼンも答えた。


「はい」


 二つの声。


 同じ意志。


 別の人格。


「私たちは融合しない」


 キース。


「ですが」


 ローゼン。


「離れもしません」


 光が世界へ広がった。


          *


 《ガイアの臍》の巨大な根が、一斉に輝いた。


 銀の湖。


 《夢》。


 古都。


 〈混沌〉。


 異なるものが同時に存在する。


 どれか一つへ潰れない。


「構文が……」


 メルリルが目を見開いた。


「書き換わっております」


「誰が?」


 シビウが尋ねる。


「分かりません!」


「キースたち?」


「それだけではない!」


 古い文字。


 新しい文字。


 二つが同じ場所へ重なっていく。


 片方を消すことなく。


「元の《真世界構文》も残っています」


 メルリルが震える声で言った。


「そこへ、別の構造が重なっている!」


「新しい構文?」


「分かりません。ただ――」


 彼女は二人を見る。


「《一》だった場所に、《二》が入った」


 サーガと呼ばれた女は、その光景を静かに見つめていた。


 その表情には、先ほどシビウの選択を見た時と同じ、わずかな驚きがあった。


 しかし今度は、すぐに何かを記録しようとはしない。


 まず、見る。


 いま目の前で起きている矛盾が、それでも壊れず存在していることを確かめるように。


「記録しますか?」


 キースが尋ねる。


「はい」


「何て?」


 女は少し考えた。


「《二つの名を持つ、一つの構造》」


「一つ?」


 キースが顔をしかめる。


「でも」


 ローゼンが女を見る。


「二人でございます」


「はい」


「矛盾しませんか?」


「します」


 女は即答した。


「それで?」


「記録できます」


 キースは息を止めた。


 矛盾している。


 それでも存在している。


 ならば、一方を消して整える必要などない。


 ふと、サーガから聞いた《貌》の話が胸を過った。


 同じサーガでありながら、すべてが一つの人格、一つの思想へ収まるわけではない。


 けれどキースは、その考えを口にはしなかった。


 今ここにある二人は、サーガの説明を証明するために存在しているわけではない。


 ただ。


 似ているのかもしれない。


 それだけで十分だった。


          *


 巨大な〈混沌〉が低く鳴った。


 ソーサイアの意識が、まだその奥にあるのか。


 ケーオスの一部なのか。


 それより古い何かなのか。


 分からない。


 ただ、《真世界構文》が古い形のまま完成しなかった。


 それだけは分かる。


『なぜ』


 黒の中から、誰かの声がした。


『一つにならない』


 キースとローゼンは互いを見る。


 今は視界さえ重なっている。


 相手から見た自分の姿まで分かる。


 奇妙だ。


 それでも、自分だ。


「なる必要がないから」


 キースが答えた。


「わたくしたちは」


 ローゼンが続ける。


「すでに、こうして繋がっております」


『不完全』


「誰にとって?」


 キースが問う。


 返事はない。


「完全って」


 少し離れた場所から、シビウが言った。


「誰が決めたんだろうね」


 その言葉に、メルリルも小さく笑う。


「少なくとも、昔の構文設計者でしょうね」


「今ここにいない奴じゃないか」


「ええ」


「じゃあ無視しな」


「豪快ですわね」


「死者に人生決められるのは、もう飽きたよ」


 キースはその言葉を聞いた。


 ローゼンも、同時に聞いた。


 そして二人で笑った。


          *


 魂を重ねた状態は、長く保てそうになかった。


 それも自然に分かった。


 ローゼンの疲労がキースへ伝わる。


 キースの胸の痛みを、ローゼンが感じている。


「そろそろ」


 キースが言う。


「はい」


 ローゼンが答える。


「離れる?」


「少しだけ」


 完全には切らない。


 もともと二人の魂は繋がっていた。


 ただ深く重ねていたものを、元の距離へ戻す。


「キース」


「ローゼン」


 二つの名を、もう一度呼ぶ。


 重なっていた光が、ゆっくり二つへ分かれていった。


 白い髪。


 深紅の瞳。


 ローゼン。


 神官服。


 キース。


 二人が、それぞれの身体で立っている。


 キースは自分の手を握った。


「私だ」


「はい」


 ローゼンも、自分の胸へ触れる。


「わたくしも、わたくしでございます」


 シビウが大きく息を吐いた。


「まったく」


「何?」


「紛らわしいことしないでくれ」


「私たちも好きでやったわけじゃない!」


「でも」


 フユがキースとローゼンの間へ浮かぶ。


「まだつながってる」


 キースはローゼンを見る。


 以前と同じ。


 いや。


 少しだけ違う。


 声は聞こえない。


 記憶も見えない。


 それでも相手がそこにいるということだけは、以前より近く感じられる。


「嫌?」


 フユが尋ねる。


 キースは少し考えた。


「いや」


 ローゼンも首を振る。


「いいえ」


「じゃあいい」


「君は本当に、最後だけ簡単だな」


「簡単だから」


 キースは苦笑した。


          *


 湖面から、一人の〈存在〉となる未来が消えていた。


 代わりに映っているのは、二つの影。


 キース。


 ローゼン。


 互いの輪郭を保ったまま、一部だけが重なっている。


 どちらかへ戻らない。


 どちらかを消さない。


 女はその光景を見つめていた。


「これは」


 キースが尋ねる。


「記録にあった?」


「いいえ」


「初めて?」


「少なくとも、現在の私が参照できる記録の中にはありません」


 その答えにも、以前とは少し違う響きがあった。


 知らないことへの戸惑いではない。


 まだ名前のないものを、そのまま見ていようとする静かな興味。


 キースは胸の奥で、何かが僅かに軽くなったように感じた。


「なら」


 ローゼンが小さく笑う。


「わたくしたちが、初めて選んだ未来なのでございますね」


 女はすぐには頷かなかった。


「そう記すことはできます」


「そこは慎重なんだな」


「未来そのものが初めてなのか、記録が初めてなのかは分かりませんから」


「……もう驚かない」


「成長されましたね」


「本当に褒めてる?」


「はい」


 女は笑った。


 銀の湖の下で、《世界の根》が再び脈打つ。


 ただし今度は、先ほどまでとは違った。


 一つの周期ではない。


 二つ。


 ほんの僅かにずれた、二つの鼓動。


 それでも互いを壊さず、同じ世界を支えている。


 キースは、その音を聞いた。


 一つへ揃っていない。


 それでも。


 世界は、まだ続いていた。

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