第四十八章 融合しない
キースとローゼンの胸に宿った光は、互いへ引かれるように明滅を繰り返していた。
二人が距離を取っても、その光は弱まらない。それどころか、《ガイアの臍》を走る巨大な根と、銀の湖へ沈む《夢》、そしてソーサイアを呑み込んだ〈混沌〉までもが、次第に同じ律動へ揃いつつあった。
世界のどこかに残されていた古い構文が、二人の存在を見つけた。
長く待っていた続きを、今になって再開しようとしている。
銀の湖面には、先ほど消えたはずの未来が再び浮かび上がっていた。
キースとローゼンが抱き合い、光に包まれていく。身体の境界が溶け、白い髪も、深紅の瞳も、キースの顔も声も失われる。やがて二人だったものは、男でも女でも、人間でも精霊でもない、一つの名を持たない〈存在〉へ変わった。
そこから世界は作り直される。
死者が帰り、過去の失敗は消え、人間魔導のない新しい世界が始まる。
一見すれば、幸福な未来だった。
だからこそ、キースには恐ろしかった。
「構文が進んでおりますわ」
メルリルが低い声で告げた。
彼女の視線は二人ではなく、足元を走る巨大な根へ注がれている。そこには古代文字とも魔導式とも異なる無数の光線が浮かび、その一本一本がキースとローゼンへ向かって伸びていた。
「こちらがキース。こちらがローゼン様。そして、この二本が中央で一つへ収束するよう組まれています」
「止められる?」
「構文だけなら、壊せるかもしれません。ですが、今は《ガイアの臍》そのものが反応しております」
「つまり?」
「下手に一部だけ壊せば、何が起きるか分かりません」
キースは苦い顔をした。
「最近、その答えに慣れてしまった自分が嫌だな」
「奇遇ですわね。わたくしもです」
シビウが二人を睨む。
「冗談言ってる場合かい」
「分かってる」
キースは胸元へ手を当てた。
光に熱はない。
痛みもない。
それでも、胸より遥かに深い場所――これまで魂核と呼んできたものが、どこかへ引かれている感覚だけははっきりしていた。
呼ばれている。
帰れ、と。
一つへ。
昔の形へ。
しかも、その感覚は不自然なほど心地よかった。
「……これが厄介だな」
「何がでございますか?」
ローゼンが尋ねる。
「嫌じゃないんだ」
その言葉に、彼女の表情が変わった。
キースは誤魔化さずに続けた。
「このまま君と一つになれば、何かが終わる気がする。全部分かる。もう迷わなくていい。そんな感じがする」
「わたくしも」
ローゼンは胸へ手を置いた。
「同じでございます」
怖い。
それなのに、懐かしい。
隣にいる相手との境界を失うことが、死ではなく、長い旅の果てに故郷へ帰ることのように感じられる。
それこそが、古い構文の最も危険なところなのだと、キースには思えた。
*
「二人とも」
シビウが二人の間へ入った。
「嫌なら嫌って言いな」
「簡単に言うな」
「簡単だろ」
「世界が懸かっている」
「だから何だい」
シビウは真顔だった。
「あんたらが一つになれば世界が助かるって? その話、誰が決めた?」
キースは答えられなかった。
「昔の記録?」
「ああ」
「サーガ?」
「正確には、サーガが持っている記録だ」
「じゃあ、昔の誰かだ」
「そうなる」
「だったら、その昔の誰かに、今のあんたらの人生まで決めさせんな」
マーカス。
つい先ほど、彼女自身が選んだこと。
死者を取り戻すために、現在までの人生を消さない。
「……強いな、君は」
「強くないよ」
シビウは即座に否定した。
「マーカスが帰ってくるところを見て、もう少しで飛び込むところだった」
肩の大斧、その柄を握る。
「だから分かるんだ。欲しい答えが目の前にある時ほど、誰がその答えを用意したのか考えなきゃ駄目なんだよ」
キースはゆっくり頷いた。
「そうだな」
「それで?」
シビウが問う。
「あんたは、どうしたい」
世界ではない。
構文でもない。
古い記録でも。
キルスでも。
《王》でもない。
キース自身が。
「私は」
胸の光へ目を落とした。
「融合したくない」
その言葉を口にした瞬間、光が大きく揺れた。
*
《真世界構文》が反応した。
湖面の未来に映っていた二人が、一瞬だけこちらを振り返る。
あり得ない。
それは過去に記録された、未来の像であるはずだった。
その像が、現在のキースを見ている。
そして声がした。
キルス。
自分とよく似ていて、それでも自分ではない男の声。
『なぜ拒む』
キースは目を細めた。
「君が本当にキルスなのかも分からない」
『魂は同じだ』
「そうかもしれない」
『ローゼンと一つになれば、失ったものを取り戻せる』
「それも、そうかもしれない」
『なら』
「それでも」
キースは胸の奥で、自分の名を確かめる。
「私はキルスではない」
未来の男の顔が僅かに歪んだ。
「君がローゼンを愛したことを否定しない。君が苦しんだことも、間違ったことも、私の中に残っている」
魂核。
同じものが続いている。
それ自体を、もう否定する必要はない。
先ほどサーガから聞いた言葉が、ふと胸を過った。
同じものが続いていることと、同じ人物であることは別。
あの時は、神話めいた説明の一つとして聞いていた。
今は違う。
これは、自分自身の問題だった。
「君の続きをそのまま生きることが、私の役目じゃない」
キースは湖面から目を逸らさなかった。
「私はキースだ」
未来の像が光へ崩れ、そのまま消えた。
*
今度はローゼンの前へ、人間だった彼女が現れた。
白い髪ではない。
深紅の瞳でもない。
酒場で働き、キルスを愛し、毒に倒れ、胸を裂かれ、魂を宿された。
あの日に死んだローゼン。
『あなたは私です』
その声を、ローゼンはしばらく黙って聞いていた。
「はい」
キースが驚いて彼女を見る。
人間ローゼンも僅かに微笑んだ。
『なら』
「あなた様は、わたくしへ続いております」
ローゼンは否定しなかった。
「あなた様がキルス様を愛したことも、死んだことも。そのあと何が起きたのかも。すべて、わたくしの中に残っております」
『なら、一つへ戻ればいい』
ローゼンは静かに首を振った。
「いいえ」
『なぜ?』
「わたくしは」
自分の白い髪へ手を添える。
「あなた様が死んだあとも、生きました」
ラルソウム。
大樹。
サファイア。
《夢》。
精霊たち。
キースとの旅。
マーカスの死。
フユ。
メルリル。
アムドア。
人間ローゼンの人生が終わったあとにも、今のローゼンには確かに生きた時間がある。
『でも、同じ魂』
「はい」
『同じローゼン』
「同じ名を持つことも」
ローゼンは静かに言った。
「同じ人物であることとは、違います」
それは、サーガが語った理屈だからではない。
旅の中で、ローゼン自身が何度も自分の名前を選び直してきたから、そう言えた。
「わたくしは、あの日死んだローゼンではありません」
未来の女性は何も言わなかった。
ローゼンは胸へ手を置く。
「わたくしは、今ここにいるローゼンでございます」
人間ローゼンの像もまた、光へ溶けて消えた。
*
二人は拒絶した。
そのはずだった。
それでも、《真世界構文》は止まらない。
「なぜ!」
メルリルが光る根へ駆け寄った。
「意志を拒否しても、収束が続いております!」
「当たり前なのかもしれない」
キースが言った。
「何がですの!」
「これは、私たちの意思を聞くための構文じゃない」
最初から目的は決まっている。
二つの魂を、一つへ戻す。
そういう仕組み。
「拒否という選択肢を、最初から持っていない」
「なら、壊します?」
シビウが剣を抜く。
「待て」
「まだ待つの?」
「壊したら、世界までどうなるか分からない」
「じゃあ、どうするんだい」
キースは答えられなかった。
サーガと呼ばれた女を見る。
「あなたなら?」
「記録にある方法は、一つです」
「融合?」
「はい」
「それ以外は?」
「記録されていません」
キースは苦笑した。
「なら、あなたにも分からない」
「はい」
女は、ただ彼を見る。
「ですが」
「何?」
「記録されていないことと、できないことは同じではありません」
キースの瞳が僅かに動いた。
それは、つい先ほどシビウがマーカスについて見せた選択と同じだった。
記録にない。
だから、間違いなのではない。
まだ誰も選ばなかっただけかもしれない。
*
「できると思うのか?」
「私は、そのようには申し上げていません」
「……そうだった」
「ただ」
女は二人の胸の光を示す。
「《真世界構文》が求めているものを、正確に見た方がよいでしょう」
「融合では?」
「それは結果です」
メルリルがすぐに反応した。
「結果?」
「はい」
「では、構文が必要としている条件は別?」
女は頷く。
「記録を読む限り、《真世界構文》が必要としているのは、二つの魂構造が《一つの構文として振る舞うこと》です」
キースの表情が変わった。
「待ってくれ」
「はい」
「一つの構文として振る舞う」
「はい」
「一つの人格になる、ではない?」
女は静かに答えた。
「その二つが同義であるとは、記録されていません」
メルリルが息を呑んだ。
「では、旧い術者が勝手に同義と解釈した可能性も?」
「それも分かりません」
「ですが!」
「記録の中では、魂構造を一つへ重ね、その結果として人格も一つになっています」
「でも、人格融合が必須だとは書いていない」
キースが言った。
「はい」
またしても、解釈だった。
世界そのものが決めたのではないかもしれない。
昔の誰かが、そう読むことしかできなかっただけかもしれない。
「だったら」
キースの胸が強く鳴った。
「別のやり方があるかもしれない」
*
「どうやって?」
シビウが尋ねる。
「それを考える」
「今から?」
「今しかない」
メルリルもすでに考え込んでいた。
「魂構造を、一つの構文として動作させればよい。しかし人格は保持する……」
「できる?」
「普通の魔導理論なら、不可能と言いたいところですが」
彼女はフユを見る。
「この数日で《普通》という言葉を使う自信を失いましたわ」
「何でフユ見るの」
「あなたが常識を壊すからです!」
「キースも」
「最近は彼もです!」
キースは少し笑った。
そして、不意に一つのことを思い出す。
「《旅水》」
フユが彼を見る。
「なに」
「離れた水を繋いだ」
「うん」
「一つの水にした?」
「してない」
即答だった。
「離れてる」
「でも、繋がった」
「うん」
キースの胸が強く脈打つ。
「これだ」
「何がですの?」
「一つにする必要はない」
キースはローゼンを見る。
「繋がればいい」
*
ローゼンの深紅の瞳が大きくなる。
「わたくしたちを?」
「ああ」
「すでに魂は接続しているのでは?」
「深くは繋がっている。でも、《真世界構文》はそれを一つへ潰そうとしている」
キースは両手を離して示した。
「なら、一つに見えるくらい深く重ねる」
二つの手を近づける。
ただし、触れ合わせない。
「でも、境界は残す」
メルリルも意図を理解した。
「二つの構文を同期させる?」
「そう」
「でも、名前は?」
キースは即答した。
「残す」
ローゼンが息を呑んだ。
「名が」
キースは言う。
「私たちの輪郭を保つ」
〈混沌〉の中。
キルスの記憶へ呑まれかけた時。
互いの名前を呼んだ。
キース。
ローゼン。
それだけで輪郭が戻った。
「名前は、存在を固定するためにも使える」
サファイア。
名が人格を形作ったかもしれない。
「でも同時に」
キースは自分の胸へ手を置く。
「自分が誰なのかを守ることにも使える」
ローゼンが静かに頷いた。
「わたくしは、ローゼン」
「私はキース」
「そのまま」
「一時的に重ねる」
シビウが眉を寄せた。
「それ、安全なの?」
「分からない」
「だと思ったよ!」
「でも、完全融合よりはましだ」
「比較対象がひどい!」
メルリルが腕を組んだ。
「理屈そのものは成立しますわ」
「本当?」
「魂を扱った経験はありません」
「駄目じゃないか!」
「最後まで聞きなさい!」
怒鳴り返してから、メルリルは続ける。
「魔導構文でも、二つの異なる術式を完全に一つへ混ぜず、同期させることで同じ現象を成立させる方法はあります」
「共鳴?」
「近いです。ただし、魂などという極端な対象で実行した例は知りません」
「なら」
キースは少し笑った。
「初めてだ」
「嬉しそうに言わないでくださいませ!」
*
「フユ」
キースは小さな四季使いへ向き直った。
「手伝ってほしい」
「何を」
「私たちを一つにしないでくれ」
フユは目を瞬く。
「一つにならなければいい」
「そのやり方を知りたいんだ!」
「キースはキース」
「うん」
「ローゼンはローゼン」
「そう」
「じゃあ大丈夫」
「どうして君の答えは、いつも最後だけ簡単なんだ!」
フユは本当に分からないという顔をした。
「名前違う」
キースが止まる。
「それだけ?」
「うん」
名前。
キース。
ローゼン。
「名前が残れば」
ローゼンが呟く。
「わたくしたちは、二人でいられる?」
フユは少し考えた。
「二人でいるなら」
答える。
「二人」
キースは笑った。
「そうだな」
ずっと難しく考えすぎていた。
だが今だけは、その単純さへ賭けてみたいと思った。
*
「やるの?」
シビウが確認する。
キースはローゼンを見る。
「私はやりたい」
「ローゼンは?」
今度は、自分が答えを決めない。
ローゼンは少し黙った。
旧い未来。
二人で一人。
名前を失い、世界を作る。
「キース様」
「何?」
「怖くございます」
「私も」
「途中で」
ローゼンは胸へ手を置いた。
「わたくしが、わたくしでなくなったら」
キースも同じことが怖かった。
「その時は」
少し考える。
「名前を呼ぶ」
「わたくしの?」
「ああ」
「わたくしも」
ローゼンは僅かに笑った。
「キース様のお名前をお呼びいたします」
「様はいらない」
ローゼンが目を丸くする。
「え?」
「いや」
自分でも、なぜこの時に口から出たのか分からない。
「ずっと思っていたんだ」
「今でございますか?」
「今だからかもしれない」
キースは少し照れた。
「魂まで重ねるのに、《様》は変じゃないか」
シビウが吹き出した。
「そこ気にするのかい!」
「重要だ!」
「何が!」
メルリルまで笑っている。
ローゼンは困ったようにキースを見た。
「では」
少し息を吸う。
「キース」
名前。
ただ、それだけだった。
それなのに、キースの胸は思った以上に強く鳴った。
「……うん」
「これでよろしいのでございますか?」
「今だけでも」
「では」
ローゼンは、今度は少し自然に。
「キース」
と呼んだ。
キースも、
「ローゼン」
と返した。
その瞬間、二人の胸に宿っていた光が変わった。
*
《真世界構文》が二人を掴んだ。
痛みではない。
自分という輪郭が、内側から果てしなく引き延ばされていく。
キースの中へ、ローゼンの記憶が流れ込んだ。
ラルソウム。
幼い頃。
サファイア。
大樹。
《夢》。
人間の世界を初めて旅した時の驚き。
マーカスが落ちた瞬間の恐怖。
そして、その時。
ローゼンはキースを見ていた。
ずっと。
自分の知らなかった、ローゼンの瞳から見た自分。
同時に、ローゼンへもキースの記憶が流れ込む。
メミス。
窓の少ない部屋。
書物。
双子の巫女。
外へ出る恐怖。
キラービー。
マーカス。
罪悪感。
キルス。
心臓。
そして、ローゼンを失った時の絶望。
「キース……!」
「いる!」
声にする。
「私はここにいる!」
自分の記憶の中へ、ローゼンがいる。
ローゼンの記憶の中にも、自分がいる。
境界が薄くなっていく。
「ローゼン!」
「はい!」
「君は誰だ!」
「ローゼンでございます!」
「私は!」
「キース!」
「そうだ!」
二つの光が重なった。
だが。
溶けなかった。
*
キースは自分でありながら、ローゼンを感じていた。
ローゼンもまた、自分でありながらキースを感じている。
視界は二つ。
身体も二つ。
心臓も二つ。
それなのに、世界を見る意識だけが、一つの場所へ重なっている。
メルリルが息を呑んだ。
「……成功?」
「まだ!」
キースとローゼンが同時に答えた。
二つの声が完全に重なる。
シビウが目を見開いた。
「気味悪いね!」
「ひどい!」
また二人が同時に返す。
「息まで合ってるじゃないか!」
「違う!」
同時。
「同じだよ!」
そんなやり取りができることに、キースは少し安心した。
笑える。
自分は残っている。
ローゼンも、別の場所で笑っている。
「どう?」
フユが尋ねる。
「二人」
キースが言う。
「一人みたい」
ローゼンが自然に続けた。
「でも」
二人が同時に言う。
「一人じゃない」
フユは満足そうに頷いた。
「うん」
*
《真世界構文》が激しく振動した。
古い未来は、二つの魂を一つへ潰そうとする。
名前。
境界。
人格。
すべてを削る。
キースの中へローゼンが入り込み、ローゼンの中へキースが流れ込む。どちらがどちらなのか、その区別さえ薄れかける。
『一つへ』
声。
昔のサーガか。
構文そのものか。
誰かの記録か。
分からない。
『戻れ』
「嫌だ!」
キースが叫ぶ。
『元は一つ』
「それが本当でも!」
ローゼンが続ける。
「今は二人でございます!」
世界の根が軋んだ。
『二人で一人』
「そうかもしれない!」
キース。
『一人で二人』
「それも、そうかもしれません!」
ローゼン。
ならば。
「どっちでもいい!」
二人の声が重なった。
《真世界構文》の振動が、一瞬止まる。
「二人で一人でも」
キースが言う。
「一人にならなければいい」
ローゼンが続ける。
「一人で二人でも」
微笑む。
「二人の名前を失わなければよいのでございます」
キース。
ローゼン。
二つの名前が、光の中へ浮かび上がった。
*
名前が構文へ入った。
《真世界構文》には、本来なら一つの〈存在〉へ収束する場所しかない。
その場所へ。
二つの名が並ぶ。
キース。
ローゼン。
構文が拒絶するように光を弾けさせた。
「危ない!」
メルリルが叫ぶ。
キースはローゼンを感じている。
ローゼンもキースを感じている。
離れる?
キースは声に出さずに問う。
それでも、意志は伝わった。
『いいえ』
ローゼンの答えが、自分の内側へ聞こえる。
『まだ』
そこでキースは気づいた。
今聞こえた言葉は、自分のものではない。
ローゼンの声だ。
だから、まだ二人でいる。
『キース』
『ローゼン』
互いを呼ぶ。
名前が境界になる。
壁ではない。
扉でもない。
隣り合う二人の間に引かれた、細い線。
その向こうに相手がいる。
触れられる。
けれど、侵さない。
「これでいい」
キースが言う。
ローゼンも答えた。
「はい」
二つの声。
同じ意志。
別の人格。
「私たちは融合しない」
キース。
「ですが」
ローゼン。
「離れもしません」
光が世界へ広がった。
*
《ガイアの臍》の巨大な根が、一斉に輝いた。
銀の湖。
《夢》。
古都。
〈混沌〉。
異なるものが同時に存在する。
どれか一つへ潰れない。
「構文が……」
メルリルが目を見開いた。
「書き換わっております」
「誰が?」
シビウが尋ねる。
「分かりません!」
「キースたち?」
「それだけではない!」
古い文字。
新しい文字。
二つが同じ場所へ重なっていく。
片方を消すことなく。
「元の《真世界構文》も残っています」
メルリルが震える声で言った。
「そこへ、別の構造が重なっている!」
「新しい構文?」
「分かりません。ただ――」
彼女は二人を見る。
「《一》だった場所に、《二》が入った」
サーガと呼ばれた女は、その光景を静かに見つめていた。
その表情には、先ほどシビウの選択を見た時と同じ、わずかな驚きがあった。
しかし今度は、すぐに何かを記録しようとはしない。
まず、見る。
いま目の前で起きている矛盾が、それでも壊れず存在していることを確かめるように。
「記録しますか?」
キースが尋ねる。
「はい」
「何て?」
女は少し考えた。
「《二つの名を持つ、一つの構造》」
「一つ?」
キースが顔をしかめる。
「でも」
ローゼンが女を見る。
「二人でございます」
「はい」
「矛盾しませんか?」
「します」
女は即答した。
「それで?」
「記録できます」
キースは息を止めた。
矛盾している。
それでも存在している。
ならば、一方を消して整える必要などない。
ふと、サーガから聞いた《貌》の話が胸を過った。
同じサーガでありながら、すべてが一つの人格、一つの思想へ収まるわけではない。
けれどキースは、その考えを口にはしなかった。
今ここにある二人は、サーガの説明を証明するために存在しているわけではない。
ただ。
似ているのかもしれない。
それだけで十分だった。
*
巨大な〈混沌〉が低く鳴った。
ソーサイアの意識が、まだその奥にあるのか。
ケーオスの一部なのか。
それより古い何かなのか。
分からない。
ただ、《真世界構文》が古い形のまま完成しなかった。
それだけは分かる。
『なぜ』
黒の中から、誰かの声がした。
『一つにならない』
キースとローゼンは互いを見る。
今は視界さえ重なっている。
相手から見た自分の姿まで分かる。
奇妙だ。
それでも、自分だ。
「なる必要がないから」
キースが答えた。
「わたくしたちは」
ローゼンが続ける。
「すでに、こうして繋がっております」
『不完全』
「誰にとって?」
キースが問う。
返事はない。
「完全って」
少し離れた場所から、シビウが言った。
「誰が決めたんだろうね」
その言葉に、メルリルも小さく笑う。
「少なくとも、昔の構文設計者でしょうね」
「今ここにいない奴じゃないか」
「ええ」
「じゃあ無視しな」
「豪快ですわね」
「死者に人生決められるのは、もう飽きたよ」
キースはその言葉を聞いた。
ローゼンも、同時に聞いた。
そして二人で笑った。
*
魂を重ねた状態は、長く保てそうになかった。
それも自然に分かった。
ローゼンの疲労がキースへ伝わる。
キースの胸の痛みを、ローゼンが感じている。
「そろそろ」
キースが言う。
「はい」
ローゼンが答える。
「離れる?」
「少しだけ」
完全には切らない。
もともと二人の魂は繋がっていた。
ただ深く重ねていたものを、元の距離へ戻す。
「キース」
「ローゼン」
二つの名を、もう一度呼ぶ。
重なっていた光が、ゆっくり二つへ分かれていった。
白い髪。
深紅の瞳。
ローゼン。
神官服。
キース。
二人が、それぞれの身体で立っている。
キースは自分の手を握った。
「私だ」
「はい」
ローゼンも、自分の胸へ触れる。
「わたくしも、わたくしでございます」
シビウが大きく息を吐いた。
「まったく」
「何?」
「紛らわしいことしないでくれ」
「私たちも好きでやったわけじゃない!」
「でも」
フユがキースとローゼンの間へ浮かぶ。
「まだつながってる」
キースはローゼンを見る。
以前と同じ。
いや。
少しだけ違う。
声は聞こえない。
記憶も見えない。
それでも相手がそこにいるということだけは、以前より近く感じられる。
「嫌?」
フユが尋ねる。
キースは少し考えた。
「いや」
ローゼンも首を振る。
「いいえ」
「じゃあいい」
「君は本当に、最後だけ簡単だな」
「簡単だから」
キースは苦笑した。
*
湖面から、一人の〈存在〉となる未来が消えていた。
代わりに映っているのは、二つの影。
キース。
ローゼン。
互いの輪郭を保ったまま、一部だけが重なっている。
どちらかへ戻らない。
どちらかを消さない。
女はその光景を見つめていた。
「これは」
キースが尋ねる。
「記録にあった?」
「いいえ」
「初めて?」
「少なくとも、現在の私が参照できる記録の中にはありません」
その答えにも、以前とは少し違う響きがあった。
知らないことへの戸惑いではない。
まだ名前のないものを、そのまま見ていようとする静かな興味。
キースは胸の奥で、何かが僅かに軽くなったように感じた。
「なら」
ローゼンが小さく笑う。
「わたくしたちが、初めて選んだ未来なのでございますね」
女はすぐには頷かなかった。
「そう記すことはできます」
「そこは慎重なんだな」
「未来そのものが初めてなのか、記録が初めてなのかは分かりませんから」
「……もう驚かない」
「成長されましたね」
「本当に褒めてる?」
「はい」
女は笑った。
銀の湖の下で、《世界の根》が再び脈打つ。
ただし今度は、先ほどまでとは違った。
一つの周期ではない。
二つ。
ほんの僅かにずれた、二つの鼓動。
それでも互いを壊さず、同じ世界を支えている。
キースは、その音を聞いた。
一つへ揃っていない。
それでも。
世界は、まだ続いていた。




