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【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
最終部 二人で一人、一人で二人
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第四十七章 失ったものを返す世界

 キースとローゼンの胸に灯った光は、互いに触れ合っていないにもかかわらず、まったく同じ周期で明滅していた。


 銀の湖の下では、《ガイアの臍》の巨大な根が次々と光を取り戻している。その脈動は《夢》の花野へまで伝わり、ソーサイアを呑み込んだ巨大な〈混沌〉もまた、同じ間隔で膨らんでは縮んでいた。


 まるで世界そのものが、かつて記録された一つの形を思い出し、その通りに動こうとしているようだった。


「近づかないでくださいませ」


 メルリルが二人の間へ入る。


「今のところ、接触しなくても反応しています。先ほど銀の湖に映し出された《真世界構文》と同じ現象だと決まったわけではありませんが、似た状態である以上、余計な条件を揃えるべきではありません」


「分かってる」


 キースは自分の胸へ手を当てた。


 光は熱くない。痛みもない。それでも胸より遥かに深い場所――これまで魂核と呼んできたものが、何かへ引かれている感覚だけは、はっきりとあった。


 少し離れたところで、ローゼンも胸元を押さえている。


「ローゼン、大丈夫?」


「はい。苦しくはございません。ただ……」


「何か感じる?」


「懐かしいのでございます」


 その答えに、キースの表情が曇った。


「どの記憶?」


「分かりません。人間だったローゼンのものとも、今のわたくしのものとも違うような……けれど、ずっと以前から知っていた場所へ帰ろうとしているような」


「帰る」


 その言葉へ、サーガと呼ばれたことのある女が目を向けた。


「《真世界構文》の古い資料にも、その語があります」


「言わなくていい」


 キースは即座に止めた。


 女が僅かに眉を上げる。


「記録の説明ですが」


「分かってる。でも今は、構文の言葉に私たちの感覚を合わせたくない」


 《帰る》と言われれば、ここではないどこかこそが本来の居場所なのだと思ってしまう。


 《一つへ戻る》と言われれば、現在別々に存在するキースとローゼンの方が、何かを失った不完全な状態であるかのように感じてしまう。


 名前には力がある。


 記録にも。


 それを、もう嫌というほど知っていた。


「承知しました」


 女は素直に引いた。


「その記録については、必要になるまで説明を控えます」


「助かる」


「キース様」


 ローゼンが彼を見る。


「では、わたくしが感じているものも、今は名前をつけない方がよろしいのでしょうか」


「君が自分でつけたいなら別だ」


「……いいえ」


 ローゼンは少し考え、首を振った。


「まだ分からないので、このままにいたします」


「うん」


 フユが二人をじっと見ていた。


「光、増えた」


「何?」


 キースが自分の胸を見下ろす。


 確かに、先ほどより明るくなっている。


 そして、銀の湖面に別の風景が映り始めた。


          *


 最初に見えたのは、峠だった。


 キースの呼吸が止まる。


 灰色の岩肌。


 細い街道。


 遥か下に見える谷底。


 忘れようとしたことなど、一度もない景色だった。


「……竜の峠」


 ローゼンも気づいた。


 シビウは何も言わなかった。ただ肩から提げている大斧の柄へ手を置き、湖面を見つめている。


 その中で、四本の角を持つ竜が咆哮した。


 若いキースが風の魔導を放つ。


 竜の巨体が持ち上がり、地面へ叩きつけられる。視界を失った竜が暴れ、マーカスが角へ組みついた。


 そして、崖へ。


「やめろ」


 キースが呟いた。


 マーカスと竜が落ちる。


 あの日と同じ。


 そのはずだった。


 だが、湖面が揺れた。


 景色が変わる。


 キースの風が、あとほんの僅か長く竜を支えた。


 シビウが一歩早く踏み込んだ。


 マーカスが角を離した。


 竜だけが谷底へ落ちる。


 男は崖際へ尻餅をつき、次の瞬間にはいつものように豪快な笑い声を上げた。


「危ねえ危ねえ! さすがに今のは死ぬかと思ったぜ!」


 シビウの身体が、目に見えて震えた。


「……マーカス」


 湖の中の男は、生きていた。


          *


 景色は、そのまま何年も先へ進んだ。


 マーカスの髪には白いものが混じっている。それでも大きな身体は変わらず、肩には使い慣れた斧がある。


 そして、その隣にはシビウがいた。


「だから、お前はもう少し女らしく――」


「誰があんたに女らしさを教わるって!?」


「昔はもっと可愛げがあったって言ってんだよ!」


「昔からこうだよ!」


「嘘つけ!」


 マーカスが笑う。


 シビウも怒鳴りながら笑っている。


 ローゼンは口元へ手を当て、キースは何も言えなかった。


 こうなっていたかもしれない。


 あの峠で、ほんの一つ何かが違っていれば。


「これは」


 シビウの声が掠れた。


「真世界の記録?」


 女が答える。


「完全に同じ記録とは確認できません。ただ、《真世界構文》が現在の世界へ干渉し始めたことで、成立し得る別の記録が表面化しているように見えます」


「成立し得る……」


「過去そのものが変わろうとしているのか、可能性として存在する別の履歴が重なっているのか、現在の私は判別できません」


 けれど、シビウはほとんど聞いていなかった。


 湖の中のマーカスだけを見ている。


 その男が、不意にこちらへ顔を向けた。


 偶然。


 そうであるはずだった。


 これは記録であり、映像であり、現在のマーカス本人ではない。


 それでも。


「シビウ!」


 男は呼んだ。


 彼女の名を。


「何ぼさっとしてんだ! 置いてくぞ!」


 シビウの唇が震える。


 大斧を握る指へ、強く力が入った。


 一歩。


 湖へ。


「シビウ」


 キースが呼ぶ。


 彼女は止まった。


「……分かってる」


 声が小さい。


「分かってるよ」


 それでも、目を逸らさなかった。


          *


 世界は、さらに形を変えた。


 まるで、誰もが最も見たいものを選んで差し出すように。


 アイリス。


 クローカス。


 《夢》の中にしかいなかった精霊たちが、ラルソウムの大樹の下を歩いている。


 消えずに。


 現実の精霊たちと笑い合っている。


「アイリス様……クローカス様」


 ローゼンが呟いた。


 《夢》が閉じる時。


 彼らがその後どうなったのか、誰にも分からなかった。


 次の景色には、人間の少女がいた。


 ローゼン。


 白い髪ではない。


 普通の人間だった頃の彼女が、丘の上を走っている。


 生きていた。


 毒など飲まない。


 胸も裂かれない。


 心臓も奪われない。


「……わたくし」


 ローゼンの顔から血の気が引く。


 人間ローゼンは幸せそうに笑っている。


 その隣にはキルス。


 だが、禁術は起こらない。


 ローゼンが死ななかったから。


 必要がない。


 キルスも壊れない。


 さらに景色が移る。


 アムドア。


 都市は巨大な穴になっていない。


 街路には人々が行き交い、奇病によって〈混沌〉へ変わった魔導士たちも生きている。


 何も失わなかった世界。


「やめろ」


 キースが、今度は強く言った。


「止めてくれ」


 女はすぐに湖面へ手を伸ばそうとした。


 だが、その指が止まる。


「私ではありません」


 光景は消えなかった。


「何?」


「私は、この記録を再生していません」


 サーガと呼ばれた女の顔にも、僅かな緊張が浮かんでいる。


 それは単に制御できない現象を前にした困惑だけではないように、キースには見えた。


「《真世界構文》が、現在の記録と接続し始めています」


「止められないのか!」


「方法を記した資料はあります」


「なら!」


「その方法そのものが」


 女はキースとローゼンを見る。


「あなた方の融合です」


 沈黙が落ちた。


 それでは、この現象を止めるために構文を完成させろというのか。


「ふざけている」


 キースが吐き捨てた。


「始まったから、完成させろ?」


「私は勧めていません」


「分かってる!」


 怒りを向ける相手が違う。


 女ではない。


 この構造。


 過去の記録。


 誰かが未来として残した、幸せな結末。


 それが今、現実になろうとしている。


          *


「もし」


 ローゼンが湖を見た。


「このまま〈混沌〉へ世界を還して、新しい世界を成立させたら」


 声が震えている。


「本当に、この方々は戻られるのでしょうか」


 女は慎重に答えた。


「可能性はあります」


 シビウが顔を上げる。


「可能性?」


「先ほどの記録と同じ形の世界が成立するなら」


 そこには、マーカスがいる。


 人間ローゼンも。


 アイリスも。


 クローカスも。


 失われた者たちがいる。


「じゃあ」


 シビウが呟いた。


「生き返らせられる?」


「その言葉が正しいかは分かりません」


「どういう意味だい」


「現在のマーカスが死から戻るのか。それとも、マーカスが死ななかった過去を持つ世界が成立するのか」


 女は湖を見る。


「この記録からは区別できません」


「どっちでも」


 シビウの声は、ひどく静かだった。


「生きてるんだろ?」


「その世界では」


「じゃあ……」


 その先が続かなかった。


 あの日。


 誰より望んだ。


 崖から落ちた。


 遺体もない。


 もしかしたら生きているのではないか。


 そう思いたかった。


 けれど、自分がキースを殴った。


 ――死んだ人間は帰ってこない。


 本当は帰ってきてほしかった。


 今も愛している。


 その男が、湖の中にはいる。


 笑っている。


 手を伸ばせば届くかもしれない。


「シビウ」


 ローゼンが小さく呼ぶ。


 彼女は大きく息を吸った。


 そして。


「ふざけるな」


 そう言った。


          *


 キースが彼女を見る。


「シビウ?」


「ふざけるなって言ってるんだよ!」


 怒鳴った。


 湖へ。


 世界へ。


 あるいは、誰とも分からない何かへ。


「勝手なことすんじゃないよ!」


 肩から大斧を外す。


 マーカスの形見。


「シビウさん……」


「死んだ精霊を戻す? 人間だったローゼンを死なせなかったことにする? 失敗したことを全部やり直す?」


 斧の柄を両手で強く握る。


「いい話みたいに言うな!」


 誰も、いい話だとは言っていない。


 それでも、あまりにも魅力的だった。


「マーカスが死んだことを」


 声が震える。


「……あんたたちの都合で、無かったことにするな」


 湖の中のマーカスが、まだ笑っている。


 シビウの瞳から涙が落ちた。


「私は」


 キースが言いかける。


「違う!」


 シビウが彼を睨んだ。


「キース、あんたにも言ってる!」


 身体が固まる。


「あの日のこと」


 彼女が近づいてくる。


「あんたが今でも後悔してるのは知ってる」


「……ああ」


「あんたの魔導が、あと少し上手かったら。判断が違ってたら。マーカスは落ちなかったかもしれない」


 否定はできない。


「でもね」


 シビウは泣きながら笑った。


「だからって今さら、上手くできたことにすんな」


 その言葉が、キースの胸へ深く入った。


          *


「失敗したんだよ」


 シビウは言う。


「あんたは失敗した。マーカスは、それでもあんたを助けた。あたしも間に合わなかった」


 峠。


 竜。


 崖。


「それが起きたんだ」


 痛い。


「どんなに嫌でも。どんなにやり直したくても」


 シビウは斧の刃へ指先を触れた。


「これは、あいつが死んだ後に、あたしが持ってきた」


 もしマーカスが生きていたなら、この大斧は彼自身の肩にある。


 シビウが背負うことはなかった。


「これを持って歩いた時間も」


 ラルソウム。


 アムドア。


 〈混沌〉。


 《ガイアの臍》。


「マーカスがいないから、あたしが一人で泣いた夜も」


 あの日、キースへ言った。


 ――あんたの人生まで、マーカスの死に使うんじゃない。


「全部」


 シビウは胸へ斧を抱いた。


「マーカスが死んだあとに、あたしが生きた時間なんだ」


 世界をやり直す。


 マーカスが死なない世界へ。


 ならば、その後に自分が歩いてきた時間はどうなる。


「それを消すな」


 シビウが言った。


「生き返らせるって言葉で、あたしが生きたものまで無かったことにすんな」


 キースは答えられなかった。


 ローゼンも涙を流していた。


 サーガと呼ばれた女も、何も言わなかった。


 けれど、その沈黙はこれまでとは違った。


 記録にないものを前に、答えを探しているだけではない。


 シビウの言葉を途中で分類せず、そのまま受け取ろうとしているような沈黙だった。


          *


「でも」


 メルリルが、珍しく慎重な声を出した。


「シビウ」


「何だい」


「本当に、いいのです?」


 残酷な問いだった。


 けれど、必要だった。


「戻る可能性があるのですよ」


「分かってる」


「マーカスが」


「分かってる!」


 シビウは叫んだ。


 それから、声を落とす。


「……分かってるよ」


 顔を背ける。


「会いたいさ」


 それが本音だった。


「会えるなら会いたい」


 喉が詰まる。


「馬鹿って言いたい。あたしより先に落ちてどうすんだって。勝手に死ぬなって」


 もう一度、あの笑い声を聞きたい。


「それで」


 斧を一発。


 本人ごと殴ってやりたい。


「……それでも」


 湖の中には、未来と可能性と幸福がある。


「いらない」


 メルリルが目を伏せた。


「なぜ」


「そのマーカスが」


 シビウは湖を見る。


「本当に、あたしが知ってるマーカスなのか分からないから」


 新しい世界で、死ななかったマーカス。


 あの崖から落ちなかった男。


 その後もシビウと喧嘩し、笑い、生きてきた男。


「でも、あたしが知ってるマーカスは」


 斧は重い。


「落ちた」


 その一言だけで、全部だった。


「死んだんだよ」


 その事実を守る。


「だから、あたしは」


 現在を選ぶ。


「死んだあいつを愛してる」


 ローゼンが目を閉じた。


          *


 キースの中で、キルスの記憶が蘇った。


 人間ローゼン。


 毒。


 死。


 認められなかった。


 心臓。


 禁術。


 魂。


 死という出来事を消せないのなら、死者そのものを自分の内側へ閉じ込める。


 キルスは愛していた。


 だから壊した。


 シビウも愛している。


 だから、死まで含めて守ろうとしている。


「分かった」


 キースが言った。


 シビウを見る。


「私は、やり直さない」


 胸の光が強くなる。


 《真世界構文》が誘っているようだった。


 もっと近づけ。


 ローゼンと一つになれ。


「マーカスが死んだことを」


 キースは自分で言葉にする。


「なかったことにしない」


 苦しい。


 あの日の自分の失敗も。


「私が失敗したことも、そのまま残す」


 シビウがキースを見る。


「後悔してる?」


「してる」


「これからも?」


「たぶん、一生」


 それでいい。


 忘れなくていい。


「でも」


 キースは少し笑った。


「君に言われたから」


 あの夜。


 マーカスの死に、自分の人生まで使うなと言われた。


「後悔したまま生きる」


 シビウの顔が崩れた。


「……覚えてたのかい」


「忘れるわけないだろ」


「なら、もうちょっと早く分かりな」


「難しかったんだ」


「世界一のくせに」


「関係ない」


「そうだったね」


 涙を拭う。


「外で死んだら、ただの死体だ」


「ひどい言い方だな」


「最初からそう言ってんだよ」


 キースは笑った。


          *


「わたくしも」


 ローゼンが一歩前へ出た。


「人間だったわたくしを、生き返らせなくてよろしゅうございます」


 キースが彼女を見る。


「ローゼン」


「死ななかった人間ローゼンを見た時」


 正直に言う。


「嬉しかったのでございます」


 毒を飲まない。


 キルスも壊れない。


 胸も裂かれない。


「よかった、と」


 そう思った。


「でも」


 ローゼンは自分の白い髪へ指を触れた。


「もし、あの方が死ななかったなら」


 今の自分は。


「わたくしは、ここにいるのでしょうか」


 誰にも分からない。


「人間ローゼンの死がなければ、精霊ローゼンは生まれないかもしれない」


 キースが言った。


「はい」


「それでも?」


「死んでよかった、と申しているわけではございません」


 ローゼンははっきりと言った。


「毒を盛られたことは悲しいことでございます。キルス様が禁術を行ったことも、正しかったとは思いません」


 起きた。


 その先を、生きた。


「ですが、その過去を通って、今のわたくしがここにおります」


 それを否定すれば、今の自分まで消えてしまう。


「人間だったローゼンを救うために」


 深紅の瞳がキースを見る。


「今のわたくしを、なかったことにはしないでくださいませ」


「ああ」


「キース様も」


「何?」


「キルス様の失敗を、消さないでください」


 胸が痛んだ。


「……あれも?」


「はい」


 心臓。


 血。


 愛。


 加害。


 選択。


「失敗であったからこそ」


 ローゼンは静かに言った。


「今のキース様が、同じことをしないと選べたのでございましょう?」


 キースは答えを失った。


 やがて、ゆっくり頷いた。


          *


「なるほど」


 サーガと呼ばれた女が、小さく言った。


 全員が彼女を見る。


「何が」


 シビウは、まだ少し警戒している。


「《真世界構文》の記録には」


 女は慎重に言葉を選んだ。


「失われたものを取り戻すことが、救いとして記されています」


「それが?」


「ですが」


 彼女はシビウ、ローゼン、キースへ順に視線を向けた。


 そして、すぐには次の言葉を続けなかった。


 驚いたというより、初めて見るものを壊さないよう、ひとつずつ確かめているような沈黙だった。


「失われたことそのものを残したい、という選択は」


 女の声が、ほんの僅かに柔らかくなる。


「私の持つ記録にはありません」


「じゃあ」


 シビウが眉を寄せる。


「間違ってるって言うのかい?」


「いいえ」


 女は首を振った。


 その動きは小さかったが、ためらいはなかった。


「まだ記録されていない、と申し上げています」


 シビウの表情が、少し変わった。


 女は彼女を見つめていた。


 珍しいものを観察する目ではない。


 価値を測る目でもない。


 いま生まれた選択を、そのまま失わずに覚えようとしている者の目だった。


「……そう」


「今」


 女は彼女を見る。


「記録しますか?」


 シビウは長いあいだ黙っていた。


「何て?」


 女は急かさず、ただ待つ。


「マーカスが死んだ」


「はい」


「遺体は戻らなかった」


「はい」


「それでも」


 シビウは斧を肩へ戻した。


「シビウは、マーカスを生き返らせるために世界をやり直すことを望まなかった」


「理由は?」


 一瞬、シビウの顔に怒りが浮かびかけた。


 けれど止まり、ゆっくりと言葉にする。


「死んだことまで」


 息を整える。


「マーカスの人生だからだ」


 女はすぐには頷かなかった。


 その言葉を、内側へ置くような間があった。


 やがて、静かに。


「はい」


 ほんの僅かに笑う。


 悲しそうにも、嬉しそうにも見える、名前を一つへ決められない表情だった。


「記録します」


 何かを書く動作はしなかった。


 それでも、銀の湖面に一つの文字列が浮かび上がった。


 キースには読めない。


 だが、何が記されたのかは分かったような気がした。


          *


 《真世界構文》の光が揺れた。


 キースとローゼンの胸。


 世界の根。


 巨大な〈混沌〉。


 それらを繋いでいた周期が、ほんの僅かにずれる。


「反応が変わりましたわ」


 メルリルがすぐに気づいた。


「何が?」


「先ほどまで構文は、現在の世界を古い記録へ合わせようとしていました」


「今は?」


 フユが地面へ手を置く。


「……迷ってる」


「世界が?」


「たぶん」


「なぜ?」


 フユはシビウを見る。


「昔にないから」


 新しい選択。


 失ったものを戻さない。


 死を消さない。


「記録にない答えが出たから」


 キースが呟く。


 《真世界構文》は、かつて未来として記録された。


 そこでは世界が戻る。


 死者も。


 仲間も。


 幸福も。


 けれど今、その未来を拒む者がいる。


「未来が」


 ローゼンが小さく言った。


「まだ決まっていない」


 サーガと呼ばれた女は答えなかった。


 代わりに、ほんの僅か微笑んだ。


 先ほどまでの笑みとは、少しだけ違って見えた。


 何かを知っていたからではない。


 知らなかったものを、いま初めて見たから。


 少なくともキースには、そう思えた。


          *


 湖の中のマーカスが、最後に振り返った。


 まだ記録が消えきっていない。


 大きな男。


 斧。


 笑顔。


 シビウは目を逸らさなかった。


「……じゃあね」


 小さく呟く。


「今度こそ」


 マーカスは聞いていない。


 聞くはずもない。


 可能性の中の男。


 死ななかった過去。


「ちゃんと死んでな」


 銀の湖面が静かに閉じた。


 シビウは泣いていた。


 それでも笑っていた。


 キースはその横へ立つ。


「シビウ」


「何だい」


「ありがとう」


「何が」


 キースは胸の光へ手を置いた。


「私も、危なかった」


 もし、マーカスが生きている未来だけを見せられていたなら。


 自分の失敗を消せると知ったなら。


 選んでいたかもしれない。


「人間ってのは」


 シビウが鼻をすすりながら言う。


「何回同じこと教えられりゃ覚えるんだろうね」


「人による」


「あんたは遅い」


「知ってる」


「世界一なのに」


「もういいだろ、それは」


「一生言うよ」


 キースは少し笑った。


「なら」


 ローゼンが隣へ来た。


「一生、お付き合いいただかなければなりませんね」


「そうなるね」


 シビウも笑った。


「ただし」


 大斧を軽く持ち上げる。


「マーカスは連れてこないよ」


 その男は、もう死んでいる。


 愛されて。


 記憶されて。


 死んだまま。


 それでも彼らと一緒に、ここまで来た。


 それでいい。


          *


 巨大な〈混沌〉が再び揺れた。


 まだ終わってはいない。


 《真世界構文》も消えていない。


 キースとローゼンの胸には、いまも同じ光が灯っている。


 二人を一つへ戻そうとする、古い未来。


「次は」


 メルリルが二人を見る。


「あなた方ですわね」


 キースはローゼンを見る。


 融合。


 一つになる。


 それこそが、この構文の核心。


「そうらしい」


「キース様」


「うん」


 ローゼンが少しだけ笑った。


「わたくしは、ローゼンでございます」


 キースも笑う。


「私はキースだ」


 まだ二人。


 それで、次の答えは。


 もう半分ほど出ていた。

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