第四十六章 私は全てにうんざりしている
黒の奥で、女の声が息を吸った。
目の前に立つ《精霊の君》――サーガと呼ばれたことのある女と、まったく同じ声だった。高さも響きも、言葉を発する直前にほんの僅か置かれる間さえ同じである。
けれど、彼女の唇は閉じたままだった。
銀の湖の向こうでは、ソーサイアを呑み込んだ巨大な〈混沌〉がゆっくりと膨らみ、《夢》の花野へ黒い影を落としている。そのさらに奥から、声だけが異様なほど鮮明に届いた。
「私は、すべてのことにうんざりしている」
キースの背筋を、冷たいものが走った。
ローゼンも息を呑み、メルリルは反射的に周囲へ視線を走らせる。シビウだけは険しい表情のまま、声の続きを待つように黒を睨んでいた。
目の前の女もまた、黒を見ている。
無表情ではなかった。
ほんの僅かに瞳が細められている。
驚いているというより、ひどく遠い場所から聞こえてきた懐かしい音へ、どう向き合うべきか迷っているようにも見えた。
だが、キースはそれを何と呼ぶか決めなかった。
声は静かだった。
怒りを含んでいるわけでもない。
悲嘆に沈んでもいない。
長い旅の末、もう十分だと結論した者が、その事実だけを告げているような声だった。
「だから、すべてを〈混沌〉に還し、真世界を創ろう」
銀の湖が大きく揺れた。
白い花々の間を黒い波紋が走り、《ガイアの臍》の巨大な根にも同じ振動が伝わる。遠い古都の廃墟では、すでに壊れているはずの鐘が一つだけ、低く鳴った。
「……は?」
シビウの声が、ひどく静かだった。
キースは彼女を見る。
まずい。
そう思った時には、シビウはすでに女へ向かって歩き出していた。
「あんた」
片手は《踊る剣》の柄へ掛かっている。
「今、何て言った?」
目の前の女は逃げなかった。
「私は何も言っていません」
「同じ声だっただろ!」
シビウの怒声が花野を震わせた。
「聞こえなかったなんて言わせないよ! 世界にうんざりした? だから全部ぶっ壊して作り直す? それが《真世界》だって?」
「聞こえていました」
「だったら!」
シビウが剣を抜きかける。
キースはすぐに腕を伸ばした。
「シビウ」
「止めるな!」
「止めてない。話を聞こうと言ってる」
「こんなの聞いて何になる!」
「今の声が誰なのか、まだ分からない」
「同じ声だろうが!」
「声が同じことと、同じ人物が今ここで喋ったことは同じじゃない」
その言葉に、シビウの腕が一瞬だけ止まった。
「……何だって?」
「サファイアを忘れたのか」
キースは女を見たまま続けた。
「名前も、記憶も、話し方も、関係も。十分に積み上がれば、作った本人の意図から離れて、人格らしきものさえ成立することがある」
「だから何だい」
「今聞こえた声も、見た目どおりのものとは限らない」
シビウは納得していなかった。
当然だった。
キース自身も、納得などしていない。
「なら」
シビウは女を指した。
「あんたが説明しな」
目の前の女は、巨大な〈混沌〉から目を逸らさなかった。
「はい」
穏やかな声だった。
黒の奥から聞こえたものと、やはり同じ響きをしている。
「私は、その言葉を語ったサーガの記録を持っています」
シビウの顔が強張った。
「否定しないのかい」
「否定できません」
「自分じゃないって言えばいいだろ」
「それも、今の私には言えません」
「ふざけるな!」
今度こそ《踊る剣》が抜かれた。
鋼の刃が、花野の淡い光を映す。
女は動かなかった。
「シビウ!」
「だってそうだろ!」
シビウはキースへ振り返る。
「世界を壊そうとしたって記録がある! 声も同じ! 目の前に本人までいる! それなのに『私かどうか分かりません』で終わり? そんな都合のいい話があるか!」
「都合がいいとは思っていません」
女が答える。
「なら何なんだ!」
「今、聞こえている声については」
女は僅かに言葉を選んだ。
「分からないのです」
シビウは剣を握ったまま、唇を噛んだ。
その横で、フユが黒い〈混沌〉と女を交互に見ていた。
「声、違う」
全員の視線が集まる。
「何が違う?」
キースが尋ねた。
「音は同じ」
「では?」
「いる場所」
フユは耳ではなく、自分の胸のあたりを指す。
「こっちのサーガは、ここにいる。あっちの声は……」
黒へ目を向けた。
「いっぱいの中」
「ソーサイア?」
「違う」
「ケーオス?」
「知らない」
「では何だ?」
「だから、知らない」
キースは息を吐いた。
「そうだったな」
フユは少し考え、もう一度だけ言った。
「同じ声。でも、今は同じじゃない」
それ以上は分からないらしい。
けれど少なくとも、フユにも二つを完全に同一視できない感覚がある。
*
「整理しよう」
キースは女へ向き直った。
「さっき、『その言葉を語ったサーガの記録を持っている』と言った」
「はい」
「記録には、誰が言ったとある?」
「《サーガ》と」
「なら」
一度言葉を切る。
「それは、本当にサーガだったのか?」
「はい」
今度の返答は早かった。
キースが目を見開く。
シビウも剣を持ったまま動きを止めた。
「……そこは、はっきり言うんだね」
「少なくとも」
女は続ける。
「その思想を持ち、その言葉を語った《サーガの貌》が、過去に存在したという記録があります」
「貌」
キースは以前聞いた言葉を繰り返した。
「今の君と同じように?」
「同じ貌であった、とは申しません」
「でも、サーガではあった」
「はい」
「誰かが後から作った偽物じゃない?」
「その存在そのものを、そう扱う根拠はありません」
女は静かに答えた。
「過去に現れた、一つの《貌》。その貌もまた、サーガです」
シビウが低く息を吐いた。
「じゃあ結局、昔のあんたじゃないか」
女は否定しなかった。
「そう呼ぶことはできます」
「だったら何で、さっきから私かどうか分からないなんて言うんだい」
「昔、その言葉を語った貌がサーガであったことと」
女は黒の奥へ視線を向ける。
「今この場所で聞こえている声が、その貌自身であることは別だからです」
キースは、ようやく違いを掴んだ。
「過去のサーガは実在した」
「はい」
「でも、今喋っているものの正体が分からない」
「はい」
「昔の貌本人がここへ現れているのか」
「分かりません」
「その貌が残した記録なのか」
「可能性があります」
「誰かが記録を再生しているのか」
「それも」
「あるいは、語り継がれたその貌の言葉が、もう一度現象として成立しているのか」
ローゼンが続ける。
「それも、否定できません」
女は頷いた。
シビウは、ようやく剣先を少し下げた。
「……最初からそう言いな」
「説明する順番を誤りました」
「認めるんだ」
「はい」
「神様も説明下手なんだねえ」
「神と決めないでください」
キースが反射的に言った。
女が少し笑った。
「そこも、以前より慎重になりましたね」
「誰のせいだと思ってる!」
*
メルリルは別の点に引っかかっていた。
「ですが」
女へ鋭い視線を向ける。
「一つ疑問がございますわ」
「どうぞ」
「同じサーガの《貌》なのでしょう?」
「はい」
「なら、なぜそこまで考えが違うのです?」
女の表情が僅かに変わった。
「違う?」
「昔の貌は、世界にうんざりして、すべてを〈混沌〉へ還して《真世界》を創ろうとした」
メルリルは黒を指す。
「今のあなたは、先ほどの《真世界構文》を見せながら、それが自分の望む未来とは言っていない」
「はい」
「どちらもサーガなのに」
研究者らしい、真っ直ぐな問いだった。
「同じ存在が、そんなに違う思想を持つものなのでございますか?」
女は少し考えた。
すぐに答えなかったのは、知らないからではないように見えた。
言葉を雑に選びたくない。
そんな沈黙だった。
「《貌》は」
やがて女が言う。
「サーガのすべてを、一度に世界へ表すものではありません」
「前にも聞いた」
キースが言う。
「はい」
「その続き?」
「ある時代には」
女は銀の湖へ目を向けた。
「ある考えが、強く現れることがあります」
「思想が?」
「感情も。願いも。恐れも」
シビウの眉が僅かに上がる。
「本体には全部ある?」
「そのように単純に整理できるかは分かりません」
「またそこは決めないんだな」
「はい」
女は少しだけ笑った。
「ただ、一つの貌が持つ思想を、そのままサーガという存在の全体へ広げることはできません」
「では」
メルリルが問う。
「昔の貌には、世界への倦怠が強く出た」
「そう読むことはできます」
「今のあなたには?」
女は答えかけて、止まった。
「自分で言うのは難しいですね」
「そこは分からないのです?」
「自分の思想を完全に客観視できる存在であるとは思っていません」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
最初に笑ったのはシビウだった。
「そこは案外、人間と変わらないんだね」
「そうかもしれません」
「神だって、自分のこと全部分かるわけじゃない」
「神と決まったわけでは――」
「キース、今はいいよ」
「なぜ私だけ止められる!」
女は、今度こそ少し楽しそうに笑った。
*
「まだあります」
女が言った。
「今の声について?」
「はい」
黒の奥へ視線を戻す。
「過去の貌が残した記録そのものが、再生されている可能性があります」
「再生?」
キースが聞き返す。
「過去に記された声を、そのまま現象として再現している者がいる可能性です」
「誰が」
「分かりません」
「ソーサイア?」
「可能性はあります」
「ケーオス?」
「同じです」
「あなた自身?」
「否定できません」
「……自分でやっていても分からないのか?」
「現在ここにいる私が、意図して行ってはいません」
「それしか言えない?」
「はい」
キースは額へ手を当てた。
嘘はつかない。
だからこそ、都合のいい否定をしてくれない。
「もう一つ」
ローゼンが静かに言った。
「その言葉を信じた方々が」
女はローゼンを見る。
「はい」
ローゼンの声が僅かに震えた。
「再び、《サーガの声》として成立させた可能性……でございますか?」
「あります」
シビウが顔をしかめる。
「どういう意味だい」
ローゼンはサファイアを思い出しながら答えた。
「多くの方が、『サーガはそう語った』と信じた」
「うん」
「その話を語り継いだ。書き残した。恐れた方も、信じた方も、祈った方もいらしたかもしれません」
「それで?」
「この世界では」
ローゼンは自分の言葉そのものを怖がるように、ゆっくり続ける。
「記録された物語が、現実へ戻ることがございます」
サファイア。
存在しなかったはずの人格。
長い時間をかけ、周囲へ存在を信じさせた。
その結果、世界自身が、彼の存在していた過去を補ったかもしれない。
「つまり」
シビウは黒を見た。
「あの言葉は、本当に昔のサーガが言った」
「ああ」
キースが引き継ぐ。
「そこは否定しない」
「でも」
メルリルが続ける。
「今喋っているのが、その昔の貌そのものとは限らない」
「記録が再生されているのかもしれない」
「誰かが再現しているのかもしれない」
「あるいは」
ローゼンが静かに結ぶ。
「その言葉が長く観測され続けたことで、もう一度《サーガの発言》として現実へ戻ってきたのかもしれない」
「はい」
女が答えた。
シビウはゆっくり剣を下ろした。
納得したのではない。
ただ、怒りをどこへ向けるべきなのか、少しだけ変わった。
「嫌な世界だね」
ぽつりと言う。
「死んだ奴の言葉まで、勝手に生き返るのか」
キースはマーカスを思った。
胸の奥が、僅かに痛んだ。
*
「一つだけ」
シビウは女へ向き直った。
「今度は、あんた自身について答えな」
「はい」
「もし」
剣を完全には収めない。
「昔のサーガが、本当にそう思ってたとする」
――私は、すべてのことにうんざりしている。
だから、すべてを〈混沌〉に還す。
真世界を創る。
「いや」
シビウは言い直した。
「もう、そこは《もし》じゃないんだったね」
女は黙っている。
「そう思ってたサーガの貌は、本当にいた」
「はい」
「なら」
シビウは女の目を真っ直ぐ見た。
「今のあんたは、どう思ってる?」
キースがシビウを見る。
重要な問いだった。
過去がどう記録されたかではない。
今、ここにいる貌が何を選ぶのか。
女はすぐには答えなかった。
銀の湖へ視線を落とす。
白い花。
青い花。
黒。
古代都市。
幾つもの世界が重なる光景。
「私は」
やがて言った。
「今、この世界を〈混沌〉へ還したいとは考えていません」
シビウの目が細くなる。
「本当だろうね」
「現在ここにいる私の意志について答えるなら」
女は、はっきりと頷いた。
「はい」
「昔とは違う」
「はい」
「同じサーガなのに?」
キースが尋ねた。
女は彼を見る。
「長く存在することと」
静かな声だった。
「変わらないことは、同じではありません」
誰もすぐには口を挟まなかった。
「神格でも?」
メルリルが尋ねる。
「神格であっても」
女は少しだけ考え直した。
「少なくとも、私について言えば」
言葉を選び直す。
「見たものが増えれば、考えることも増えます」
「失敗も?」
シビウが問う。
「あります」
「後悔も?」
少しだけ沈黙があった。
「あります」
その答えだけは、これまでより僅かに小さかった。
キースは女の顔を見る。
何について後悔したのかは聞かなかった。
聞けば、おそらくまた「一つにはできません」と返される。
それでも。
神が長く生きることと、永遠に同じ考えを持つことは別なのだ。
人間とは時間の尺度が違う。
ただ、それだけなのかもしれない。
*
シビウは、しばらく女を見ていた。
やがて《踊る剣》を鞘へ戻す。
「もう一個」
「はい」
「昔のあんたが本当に世界にうんざりして」
言葉を選ぶように間を置いた。
「全部一つにしようとして」
黒の奥で、古い声の残響が揺れている。
「それで、何かが起きたんだろ」
女の目が僅かに動いた。
「記録があります」
「今のあんたには」
シビウは女の胸元を指した。
「何も残ってないのかい」
女は答えなかった。
長い沈黙だった。
これまでのように、記録を探しているだけの沈黙とは少し違う。
やがて彼女は、自分の胸へ手を置いた。
先ほど、過去の貌の記録について語った時と同じ仕草。
「記憶とは」
静かに言う。
「少し違います」
キースが息を止める。
「違う?」
「はい」
「では、何だ?」
女は答えを探すように目を伏せた。
「言葉にすると」
一度、息をつく。
「別のものへしてしまいそうです」
シビウは急かさなかった。
女は胸へ手を置いたまま、黒の向こうを見る。
「ですが」
ほんの僅かに指先へ力が入る。
「残っているものはあります」
「何が?」
メルリルが聞きかけた。
キースが止めた。
「そこまででいい」
「ですが!」
「本人も言葉にできないと言ってる」
「研究者としては!」
「今は駄目だ」
メルリルは不満そうに口を閉じた。
女はキースを見る。
「ありがとうございます」
「別に」
キースは少し視線を逸らす。
「私にも似たものがあるから」
キルスの記憶。
《王》の残滓。
自分自身が経験したわけではないのに、自分と無関係とも言えないもの。
「覚えている、だけじゃないんだろ」
「はい」
「でも、忘れているとも違う」
「はい」
「なら」
キースは小さく息を吐く。
「それでいい」
女の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
*
「でもさ」
シビウが腕を組む。
「だったら、昔のあんたが間違ってたって言えるんじゃないのかい」
女は再び彼女を見る。
「なぜですか?」
「今は違うんだろ」
「はい」
「昔のあんたは世界を一つにしようとした。今のあんたは、こっちに続きを選ばせるって言った」
「はい」
「なら昔の方が間違いだった」
女は少し考えた。
「そう結論することはできます」
「できる、じゃなくて」
「ですが」
彼女は静かに続けた。
「過去の貌が何を見て、どのように傷つき、何を失い、どのような時間の果てにその結論へ至ったのか」
黒を見つめる。
「私は、そのすべてを現在の私自身の経験として知っているわけではありません」
「うんざりしたって言ってるじゃないか」
「それは記録されています」
「十分だろ」
「いいえ」
女の声に、初めて僅かな硬さが混じった。
「私は、その過去の選択を正しいと言っているのではありません」
「なら?」
「分からない部分を」
女はシビウへ視線を戻す。
「今の私の怒りや後悔だけで埋めたくないのです」
シビウの表情が変わった。
「……後悔はしてるのかい」
女はすぐには答えなかった。
「あります」
先ほどと同じ答えだった。
「でも、何についてかは言わない」
「一つにはできません」
「本当に腹立つね」
「申し訳ありません」
「謝られるともっと腹立つ!」
キースは少しだけ笑った。
今度は笑ってもいい気がした。
*
黒の奥から、また声がした。
「世界は、生まれ変わる」
同じ声。
同じサーガの声。
けれど、目の前の貌の唇は動いていない。
「壊すのではない」
古い声が《夢》へ染み込んでいく。
「終わらせるのではない」
銀の湖に映像が浮かんだ。
世界。
〈混沌〉。
そして二つの光。
キース。
ローゼン。
「二人で一人」
ローゼンの肩が跳ねる。
「一人で二人」
先ほど見た《真世界構文》。
二人を一つへ戻す構文。
「新しい世界のために」
「やめろ」
キースが黒へ一歩踏み出した。
「今は誰が喋ってる」
返事はない。
「過去の貌か?」
声はない。
「その貌が残した記録か?」
何もない。
「誰かが再生してるのか?」
応じない。
「それとも」
キースは歯を食いしばる。
「私たちが、聞こうとしているから聞こえるのか?」
巨大な〈混沌〉が脈打った。
答えではない。
それさえ、もう勝手に意味づけない。
*
「キース様」
ローゼンが隣へ来た。
「怖い?」
「少し」
「わたくしもです」
キースは彼女を見る。
「さっきの未来?」
「はい」
一つになる。
名前を失う。
《存在》となる。
世界を再び創る。
「もし」
ローゼンは黒へ目を向けた。
「昔のわたくしたちが、本当にそれを望んでいたとしても」
キースの表情が変わる。
「今のわたくしたちまで、望む必要はございませんね」
「ああ」
すぐに答えられた。
「それは、もう決めた」
《王》。
キルス。
人間ローゼン。
過去から続くもの。
それでも、現在を命令することはできない。
「じゃあ」
少し離れた場所からシビウが言った。
「サーガも同じじゃないのかい」
女が彼女を見る。
「何がですか」
「昔のあんたが、本当に世界にうんざりしてたとしても」
シビウはもう剣へ手を伸ばさなかった。
「今のあんたまで、同じこと考えなきゃいけない理由はないだろ」
女はしばらく答えなかった。
その顔へ、今度こそ明確に驚きに近いものが浮かんだ。
ほんの一瞬。
永い時間を生きてきた者ではなく、思いがけない言葉を受け取った一人の女のように見えた。
「……そうですね」
「何だい」
シビウが眉を上げる。
「そこ、自分で分かってなかったの?」
「分かっていたつもりでした」
珍しい答えだった。
「つもり?」
「はい」
女は少し考え、苦笑に近いものを浮かべる。
「誰かから言われることと、自分で記録していることは、違うようです」
キースが目を丸くした。
「サーガでも?」
「はい」
「人から何かを教わることがある?」
「あります」
「……何か安心した」
「なぜでしょう」
「分からない」
今度は女が笑った。
小さな笑いだった。
だが、黒の奥の古い声とは明らかに違う笑い方だった。
*
空気が僅かに緩んだのも束の間、メルリルが黒へ鋭い視線を向けた。
「非常に重要な問題が残っていますわ」
「何だ」
「今の声です」
彼女は巨大な〈混沌〉を指す。
「発言の由来を決められないのは分かりました。でも、なぜ今、この場で再生されたのです?」
キースの顔から表情が消えた。
そうだ。
過去の記録が、なぜ今。
「偶然?」
シビウが言う。
「この状況で?」
メルリルは首を振る。
「考えにくいです」
《夢》。
《ガイアの臍》。
巨大な〈混沌〉。
《真世界構文》。
今ここにいるサーガの貌。
キース。
ローゼン。
そして、かつてすべてを〈混沌〉へ還し、真世界を創ろうとしたサーガの貌が残した言葉。
「条件が」
キースが呟く。
「揃った?」
女が彼を見る。
「何の?」
「《真世界構文》が記された時と」
銀の湖に浮かんだ二つの光を思い出す。
「似た条件が」
ローゼンが息を呑む。
「今、再び……?」
「分からない」
キースはすぐに言った。
「でも、調べた方がいい」
「ええ」
メルリルも頷く。
「少なくとも、声の再生と同時に《ガイアの臍》の根が反応しています」
見る。
《夢》の花野の下。
現実側の巨大な根が淡く光っている。
一本。
次に二本。
さらに奥の根へ、光が連鎖していく。
「これは」
キースの胸が嫌な脈を打った。
魂核。
反応。
「キース様」
ローゼンも胸元へ手を置く。
「わたくしも……」
二人の間。
目には見えない場所へ、何かの線が生まれようとしている。
「離れろ!」
キースが一歩後ろへ下がる。
ローゼンも同時に距離を取った。
光は二人を追ってはこない。
けれど、根も、湖も、〈混沌〉も、同じ周期で脈打ち始めている。
「フユ!」
「知ってる」
「何が起きてる!」
「知らない」
「そこじゃない!」
「でも」
フユは足元へ手を置いた。
「世界が、昔の形を思い出そうとしてる」
その言葉に、誰も声を出せなかった。
*
「昔の形?」
キースが、ようやく聞き返した。
「うん」
「《真世界構文》?」
「名前は知らない」
「なら」
「同じになろうとしてる」
何と何が。
フユにも、それ以上は説明できない。
ただ世界そのものが、以前に記された何かの形へ寄ろうとしている。
「さっきの声のせい?」
ローゼンが尋ねる。
フユは首を傾げた。
「声が先?」
「何?」
「世界が先?」
誰も答えられなかった。
「世界が《真世界構文》へ近づいたから、過去の貌が残した声が再生された」
メルリルが言う。
「逆に、声が再生されたことで、世界がその記録へ寄り始めた」
キースが続けた。
「あるいは両方」
ローゼンが小さく言う。
「どちらが最初だったのか、もう分からない」
サファイア。
また同じだった。
物語が現実を作る。
現実が物語を作る。
どちらが先なのか。
「だから」
キースは目の前の女を見る。
「あなたにも分からないのか」
「はい」
女は巨大な黒と、光り始めた根を同時に見つめていた。
けれど、その横顔には先ほどまでと違うものが残っている。
過去の貌の言葉を聞いたからなのか。
シビウに言われた言葉のせいなのか。
キースには分からない。
ただ、無関係な古記録を眺めている者の顔ではなかった。
「私は、この形に似た記録を持っています」
「でも?」
「今起きていることが、その記録と同じ出来事であるとは、まだ記せません」
世界の底で、古い鐘がもう一度鳴った。
その音へ重なるように、黒の奥から同じ女の声が最後に囁く。
「真世界を」
そこで声は途切れた。
続きを言わなかった。
あるいは、まだ言葉になる前なのかもしれない。
キースは光り始めた自分の胸を見下ろした。
少し離れた場所では、ローゼンの胸にも同じ光が灯っている。
二人の間には、まだ何も繋がっていない。
それなのに。
《真世界構文》だけが、二人を知っているようだった。




