第四十五章 真世界構文
「あなた方についてです」
サーガと呼ばれたことのある女がそう告げると、銀の湖面に新しい波紋が生まれた。
その向こうでは、ソーサイアを呑み込んだ巨大な〈混沌〉が、いまだ呼吸するように脈打っている。白い花野と《ガイアの臍》の古代都市は同じ場所へ重なったまま、夢と現実の境はほとんど意味を失っていた。
それでも今すぐ、黒い波がこちらへ押し寄せてくる気配はない。
何かが始まる前にだけ与えられた、短い猶予。
そんな静けさだった。
「私たちについて?」
キースが聞き返す。
「はい」
女はキースとローゼンを交互に見た。
「正確には、あなた方だけについてではありません。あなた方へ至る記録と、あなた方から始まるものとして記された未来についてです」
「未来」
その言葉に、メルリルが即座に反応した。
「予言ですの?」
「いいえ」
「では、神託?」
「それも違います」
「未来の記録なのに?」
女は少し考えてから答えた。
「《未来として記された記録》と申し上げるのが、最も近いでしょう」
「同じに聞こえますわ!」
「違う」
キースが言った。
メルリルが振り返る。
「どこがですの?」
「《未来の記録》なら、これから起こる出来事を記したものに聞こえる。でも、《未来として記された記録》なら」
キースは女を見る。
「その記録が残された時点では、まだ未来だったものが書かれていた――そういう意味にも取れる」
女は頷いた。
「はい」
「つまり、それが今も未来だとは限らない」
「はい」
「今の私たちが、必ずそこへ行くとも」
「そのようには申し上げていません」
キースは少しだけ表情を緩めた。
メルリルは露骨に嫌そうな顔をする。
「また言葉一つで世界が面倒になりますのね」
「この旅は、最初からずっとそうだろう」
「あなたが慣れすぎなのです」
シビウが二人の間から顔を出した。
「それで、その記録ってのは何なんだい」
女は銀の湖へ手を向けた。
「まずは、過去からお見せしましょう」
*
湖面が鏡のように静まった。
最初に映ったものは、人だった。
いや。
キースは、すぐに違和感を覚えた。
人の形をしている。
だが、名前がない。
顔もよく見えない。
古びた記録の一部だけを無理に像へ起こしたように、輪郭のところどころが欠けていた。
その背後には、大きな都市が広がっている。
《ガイアの臍》で見た廃都によく似ていた。まだ崩れておらず、巨大な根の間を人々が行き交い、高い塔には旗が翻っている。
その中央に、一人の男が立っていた。
「《王》……」
キースが呟く。
女が答えた。
「この記録に残る呼称は、それだけです」
「本名は?」
「欠けています」
「種族は?」
「それも」
「人間?」
「断定できません」
「精霊?」
「同じです」
キースは眉を寄せた。
姿だけを見れば人間に近い。だが、それだけで分類するのは危険だ。
「これは、キロスが持っていた《王》の記憶と同じ?」
「関連する可能性は高いでしょう」
「可能性?」
「同一であると断定できる名前が欠落しています」
徹底していた。
記録にないものは、知っているふりをしない。
キースは苦笑しそうになる。
「ただし」
女が続けた。
「別の観測があります」
《王》の胸に、光が浮かんだ。
この古都で、《ガイアの臍》がキースへ示したもの。
魂核。
そう仮に名づけた、存在の中心にある光。
「この構造と」
光景が変わった。
月の神殿。
神官長キルス。
彼の胸にも、同じ光がある。
「この構造」
そして現在のキース。
湖面へ映った彼自身の胸の奥にも、同じ光が宿っていた。
「三者には、連続した反応があります」
女が言った。
「《ガイアの臍》の古代構造。あなた自身が持つ記憶。キロスへ付着していた《王》の残滓の反応。私が保持する記録。それぞれ独立した観測が、同じ方向を示しています」
「《王》からキルスへ」
「はい」
「キルスから私へ」
「はい」
キースは胸へ手を置いた。
もう、驚かなかった。
受け入れたからではない。
すでに自分で、答えを選んでいるからだ。
「同じ魂核」
「その呼び方を用いるなら」
その時、ローゼンが静かに尋ねた。
「《王》とキルス様とキース様は、同じ方なのでございましょうか」
女は、今度はすぐに答えた。
「いいえ」
キースが顔を上げる。
「はっきり言うんだな」
「はい」
「理由は?」
「同じものが続いていることと、同じ人物であることは別だからです」
その言葉は、キースが長い時間をかけて自分で辿り着こうとしてきた答えと同じだった。
「魂が同じでも?」
「魂を何と定義するかにもよります。ですが、仮に今あなた方が《魂核》と呼んでいるものが同一であったとしても」
女は《王》を示す。
「彼が選んだこと」
次にキルス。
「彼が選んだこと」
そして、現在のキース。
「あなたが選んだことは、それぞれ別に記録されています」
「なら」
キースは小さく笑った。
「私はやっぱり《王》ではない」
「はい」
「キルスでもない」
「はい」
「キースだ」
女は、それを訂正しなかった。
「現在のあなたは、そう名乗っています」
「ずいぶん記録者らしい言い方だな」
「私は、記録者と呼ばれたこともありますから」
「また増えた」
シビウが呆れる。
女は少しだけ笑った。
*
次に、キルスの人生が流れた。
ただし、すべてではない。
断片だった。
月神殿。
外の街。
人間ローゼン。
出会い。
丘。
月。
毒。
死。
そして宝物庫。
短剣。
キースは咄嗟に目を逸らした。
もう何度も見たい光景ではない。
ローゼンも僅かに身体を強張らせる。
湖は凄惨な場面を最後まで再現しなかった。
胸の奥から取り出された心臓。
キルスの中へ宿された魂。
そこまでだった。
「この先は?」
キースが尋ねる。
女は答えた。
「キルスは死にます」
静かな言葉だった。
「いつ?」
「この記録では、年代が欠けています」
「死因は?」
「それも」
「ローゼンは?」
今度はローゼン自身が尋ねた。
湖面へ、半透明の女性が現れる。
人間だったローゼン。
キルスへ宿された魂。
その姿が、ゆっくりと変化していく。
「これは……」
白い髪。
深紅の瞳。
今の精霊ローゼン。
ただし、変化の途中が見えない。
人間ローゼンの魂。
次の記録では、すでに精霊ローゼン。
「間が欠けていますわ」
メルリルがすぐに気づいた。
「はい」
「どうやって精霊になったのです?」
「記録がありません」
「サーガが?」
キースは言いかけて、途中で止めた。
女がこちらを見ている。
「……悪い。今のあなたが全部知ってるとは限らないんだった」
「はい」
「記録そのものを持っていても、経緯まで分かるとは限らない」
「その通りです」
「ケーオスが関わった?」
「その可能性を示す記録はあります」
ローゼンが顔を上げる。
「では、あなた様も?」
「私が関わったと読める資料もあります」
「実際には?」
「現在の私は、その出来事を自分の直接記憶として確定できません」
また欠けている。
人間ローゼンが、どのようにして精霊ローゼンになったのか。
そこは空白だった。
「でも」
ローゼンは湖面へ映る白い髪の少女を見る。
「わたくしへ、続いてはいる」
「はい」
「同じ魂?」
「そのように反応します」
「それでも」
ローゼンはキースを見る。
「同じ人間ではない」
女が頷いた。
「はい」
ローゼンは小さく息を吐いた。
もう、その答えを怖がらなかった。
*
次に、キルスの魂核が暗い場所を流れた。
どこなのかは分からない。
死後の世界なのか。
魂の循環なのか。
単なる記録上の表現なのか。
女も説明しなかった。
やがて光は、新しい身体へ宿る。
赤子。
成長。
神殿。
双子の巫女。
書物。
十八歳。
「キース様」
ローゼンが呟く。
「私だ」
分かる。
見たことのある人生だ。
「輪廻転生」
メルリルが言った。
「そう呼べる現象ですの?」
「後世の資料には、その呼称があります」
女が答える。
「後世?」
「はい」
「今より後の時代から、今以前を説明した資料?」
「そのような資料もあります」
「やめてくださいませ、時系列が壊れますわ!」
メルリルが額を押さえた。
「未来の記録まである場所で、今さら何を言ってるんだ」
キースが言う。
「あなたが順応しすぎです!」
「でも」
シビウが横から口を挟んだ。
「生まれ変わったこと自体は、かなり確からしいんだろ?」
女は頷く。
「複数の観測が一致します」
「なら、それでいいじゃないか」
「よくありませんわ! 機構を知りたいでしょう!」
「今知らなくても生きていける」
「研究者へ一番言ってはいけない言葉ですわよ!」
いつもの調子だった。
その会話の中で、キースはもう一度、自分の胸を見る。
《王》。
キルス。
キース。
続いているものはある。
けれど、一度として同じ人生ではない。
*
「ここまでが」
女が言った。
「過去として確認できる範囲です」
「確認できる?」
キースが聞き返す。
「記録同士に細かな不一致はあります。しかし、魂核の連続と、キルスからキースへの再生については、複数の観測が重なっています」
「ローゼンは?」
「人間ローゼンから現在のローゼンへ続く魂構造も同様です。ただし、先ほど申し上げた通り、精霊化へ至る過程は欠落しています」
「分かった」
女の視線が、そこで変わった。
「では」
銀の湖へ目を向ける。
「ここからが未来として記された部分です」
水面が黒く染まった。
*
〈混沌〉。
何も決まっていない。
空も。
大地も。
海も。
生き物も。
名前も、まだない。
その中に、二つの光が浮かんでいた。
一つは、キルスから続く魂核。
もう一つは、人間ローゼンから続く魂。
二つは、ゆっくりと互いへ近づいていく。
「これ……」
ローゼンの顔が僅かに強張った。
キースにも分かった。
二つが融合しようとしている。
「待て」
キースが言った。
「これは、過去の禁術と同じじゃないのか」
「違います」
女は答えた。
「どう違う?」
「一方が他方を、自分の中へ宿す構文ではありません」
キルスは、死んだローゼンの魂を自分の内側へ宿した。
これは違う。
「二つの魂構造を」
女が言う。
「どちらでもない一つへ戻します」
キースの顔が険しくなる。
「戻す?」
「この記録では、その言葉が使われています」
「どこへ?」
「一つであった状態へ」
「私たちは、元々一つだったのか?」
「それを示す完全な記録はありません」
「なのに、戻す?」
「はい」
「矛盾してないか?」
「記録上は、そう表現されています」
キースは嫌そうな顔をした。
「気に入らないな」
「キース様」
ローゼンも同じ未来を見ている。
「わたくしもでございます」
「でしょうね」
シビウが言った。
「ここまで散々、『昔がどうだろうと今は今』ってやってきたのに、最後に『実は一つだから戻りましょう』じゃ、台無しだよ」
女は反論しなかった。
「これは」
彼女は言った。
「《真世界構文》と記されています」
ソーサイア。
彼が追い求めた名。
《真世界》。
「これが……」
メルリルが声を低くする。
「ソーサイアの探していたもの?」
「関連は深いでしょう」
「同じものですの?」
「断定できません」
「なぜ?」
「彼が解釈していた《真世界》と、この資料に記された《真世界構文》が完全に同じ概念であると確認できないからです」
キースはソーサイアを思い出した。
世界をすべて〈混沌〉へ還す。
唯一の読者。
自分だけが次の世界へ名を与える。
「でも」
キースは湖を見る。
「これはソーサイア一人じゃない」
「はい」
二つ。
キース。
ローゼン。
「何をする構文なんだ」
女が湖へ手を伸ばす。
未来として残された記録が、動き始めた。
*
二つの光が一つになった。
キースは息を止めた。
今の自分と、ローゼンが抱き合う。
そのまま、身体の輪郭が光へ溶けていく。
白い髪。
人の手。
深紅の瞳。
キースの顔。
少しずつ、区別が失われる。
「……嫌だ」
ローゼンが小さく言った。
女は光景を止めなかった。
これは記録だ。
起きると決めるためではない。
何が記されているのかを見るため。
それでも、ローゼンの声を聞いた女の瞳が、ほんの僅かに彼女へ向いた。
記録を見せる者にも、感情がないわけではない。
ただ、その感情を理由に、記録そのものを書き換えない。
二人だったものは、一人になった。
男でも。
女でもない。
人間でも。
精霊でもない。
新しい〈存在〉。
そして、その一つになった存在は未来を見た。
*
空が違った。
最初、キースには何を見ているのか理解できなかった。
灰色の地面。
石とは違う。
平らに、どこまでも固められている。
その上には、途方もなく高い塔が幾つも並んでいた。無数の窓。人工の光。網の目のような道。その間を、数えきれない人々が歩いている。
「何ですの、この都市……」
メルリルが呆然とする。
人々の服装は見たことがない。
馬もいない。
代わりに、金属で作られた箱のようなものが地面を高速で走っている。
「馬車?」
シビウが言う。
「馬がいないよ」
空には巨大な金属の鳥が飛んでいた。
翼はある。
けれど、羽ばたかない。
さらにその先。
空よりも遠い、星々の間へまで人が進もうとしている。
「魔導?」
キースは、すぐに違うと感じた。
イースがない。
術式がない。
精霊の気配も見えない。
神々の気配さえ、ほとんどない。
それでも人は空を飛び、大地を削り、海を渡り、星へ届こうとしている。
「これが」
キースは言葉を失った。
「魔導のない未来?」
女は答えなかった。
記録はさらに進む。
森が切られる。
大地が掘られる。
煙によって空が濁る。
海が変わる。
無数のものを、人々は使う。
作る。
捨てる。
欲望。
夢。
発展。
破壊。
それらが同時に、世界の隅々へ広がっていく。
「……別に」
シビウが言った。
「魔導がなくなったからって、人間が賢くなるわけじゃないんだね」
皮肉だった。
けれど、その通りでもあった。
旧い世界では、魔導士が力を持った。
その力が、人々の間に差を作った。
けれど魔導がなくても、人は別の力を作る。
未来の人々は、多くの夢を叶えていた。
同時に、世界を傷つけてもいる。
「これは」
ローゼンが胸へ手を置く。
「悲しい未来なのでございましょうか」
女はすぐには答えなかった。
「私は、この未来を評価するためにお見せしているのではありません」
「では」
ローゼンが彼女を見る。
「あなた様は、これを望んでいらっしゃるのでございますか?」
初めて、その問いが直接向けられた。
女は銀の湖に映る未来を見た。
長い沈黙ではなかった。
けれど、即答もしなかった。
「これは、かつて未来として記されたものです」
静かに言う。
「現在ここにいる私が、望んでいる未来であるとは申し上げていません」
キースが女を見る。
「そこは、分けるんだな」
「はい」
「記録したものと、自分が望むものを」
「同じにする理由はありません」
女の声には、わずかな感情があった。
強い拒絶でもない。
肯定でもない。
ただ、自分の意思と記録を混同させないという、静かな線引きだった。
「では」
ローゼンはもう一度、未来へ目を向ける。
「この記録の中では、どうなのでございますか」
「一つとなった〈存在〉が、悲しんだと記されています」
未来の中で、一人となった者が泣いていた。
*
そして、その〈存在〉は過去を思い出した。
キースとローゼン。
二人が出会った世界。
薔薇の香り。
ラルソウム。
メミス。
旅。
仲間。
マーカス。
シビウ。
メルリル。
フユ。
空。
海。
森。
精霊。
神々。
「待て」
キースは嫌な予感を覚えた。
一つになった存在が手を伸ばす。
その先には何もない。
〈混沌〉。
「まさか」
その者が想像する。
いや。
創造した。
空と海が分かれる。
大地が広がる。
山。
森。
川。
生命。
世界が、もう一度形を得ていく。
「世界を」
メルリルが声を失う。
「作り直している……?」
「これが」
女が初めて、未来の記録へ説明を加えた。
「《真世界構文》と記されたものです」
二人を一人へ戻す。
その一人が〈混沌〉へ新しい世界の形を与える。
「旧い世界と」
キースは光景を見る。
「ほとんど同じ?」
「そう見えます」
「違うところは?」
女が答える前に、記録そのものが違いを見せた。
魔導がない。
人間はいる。
精霊もいる。
仲間たちは笑っている。
けれど、イースを通して〈混沌〉から現象を引き出す、人間魔導だけが見えなかった。
「魔導を」
キースが呟く。
「消した?」
記録の中の〈存在〉は、そう考えているようだった。
かつて力の象徴だった魔導は、もう必要ない。
世界は帰ってくる。
仲間たちが迎える。
マーカスも。
そこにいた。
シビウの顔が変わった。
「止めて」
女はすぐに湖面へ手を置いた。
未来が消えた。
*
《夢》。
銀の湖。
巨大な〈混沌〉。
現在へ戻ってきた。
誰も、すぐには喋らなかった。
シビウは顔を伏せている。
マーカス。
未来として記された、作り直された世界で。
生きていた。
「……今の」
低い声が落ちる。
「何なんだい」
女は答えた。
「記録です」
「そういうこと聞いてないよ」
「シビウ」
キースが止めようとする。
「いい」
シビウは手を上げた。
「まだ殴らない」
「まだ?」
「次によっては殴る」
「誰を?」
「分かんないから、今決めてる」
「やめてくれ」
女は怒らなかった。
「あなたが怒る理由は、理解できます」
「本当に?」
「少なくとも、今のあなたがマーカスの死を重要なものとして記憶していることは知っています」
シビウは女を睨んだ。
それ以上は言わない。
まだ答えを出す時ではない。
キースは別のことを尋ねた。
「この《真世界構文》は」
銀の湖を見る。
「誰が作った?」
「不明です」
「サーガではない?」
「私が作ったと読める記録もあります」
「あるのか!」
「ですが、別の資料では、構文そのものが私より古いとされています」
「またか……!」
「さらに」
「まだあるのか」
「《王》に関係する形で残った断片もあります」
キースは額を押さえた。
「結局、誰が作ったかは分からない」
「はい」
「何のためかは?」
「新しい世界を成立させるため、と説明されています」
「それが《真世界》?」
「その資料では」
「本当に真の世界なのか?」
「《真》という語の定義が――」
「分かった、そこはもういい!」
女が少しだけ口を閉じる。
「では」
ローゼンが尋ねた。
「なぜ、わたくしたちなのでございますか」
女は彼女を見る。
答えは、嫌な予感どおりだった。
「それも、完全には分かりません」
けれどローゼンは、不思議と落胆しなかった。
「分かっていることだけ、お願いいたします」
「はい」
女はキースとローゼン、その二人の間へ視線を置く。
「記録上、あなた方の魂は非常に深く接続しています」
「キルスの禁術のせい?」
「その影響はあるでしょう」
「それ以前は?」
「同じ起源を示唆する資料があります」
キースが顔をしかめる。
「同じ起源?」
「はい」
「元々、一人だった?」
「そう記した資料があります」
「それは事実?」
「保証できません」
「……危ないな」
「何がですか」
「《戻す》って構文の説明に、都合が良すぎる」
女の目が僅かに変わった。
「続けてください」
「二人を一人へ戻す構文がある。そして古い資料には、『この二人は元々一つだった』と書いてある」
キースはローゼンを見る。
「どちらが先だ?」
メルリルも気づいた。
「構文が先に存在していて、それを正当化するために《元々一つ》という過去が作られた可能性?」
「逆もある」
キースが答える。
「本当に一つだったから、その構文ができたのかもしれない」
「あるいは」
ローゼンが静かに言った。
「長くそう語られたことで、わたくしたちの魂が、本当に一つであった過去を世界が補った可能性もございます」
サファイア。
作られた人格。
後から過去を得たかもしれない存在。
全員が黙った。
「可能性はあります」
女が言った。
「……あなたが認めると余計に怖いな」
キースは苦笑した。
*
「それでも」
女は話を続けた。
「現在確認できることがあります」
「何だ」
「あなた方の魂構造は深く接続しています」
それ自体は、もう否定しない。
「はい」
ローゼンも頷いた。
「人間だったローゼンの魂を、キルスが自らへ宿しました。その後の経緯は欠けていますが、現在のあなた方にも、その接続の痕跡があります」
「〈混沌〉の中で」
キースが言う。
「互いの名前で輪郭を保てた」
「はい」
「私が四季構文へ触れたことにも関係ある?」
「可能性はあります」
「でも断定できない」
「はい」
「分かってる」
キースは今度は先回りした。
「では」
ローゼンが胸元へ手を置く。
「同じ魂であることと」
女を見る。
「同じ人物であることは?」
「別です」
明確だった。
また、即答。
「人間だったローゼンがキルスを愛したことは、今のあなたがキースを愛する義務にはなりません」
ローゼンの瞳が僅かに揺れる。
「《王》から続く魂核を持つことは、キースが《王》の人生へ戻る命令にはなりません」
「うん」
「そして」
女は、《真世界構文》が映っていた湖へ目を向けた。
「過去に、二人が一つになる未来が記されていたことは」
もう一度、キースとローゼンを見る。
「現在のあなた方が、その未来を選ぶ義務にはなりません」
銀の湖が静かに揺れた。
*
「……今」
キースがゆっくりと言った。
「何て言った?」
「どの部分でしょう」
「過去に、一つになる未来が記されていた」
「はい」
「過去?」
「はい」
「未来なのに?」
「はい」
「分からなくなってきた」
女は落ち着いて説明した。
「記録には、それが《これから起こること》として記されていました」
「誰にとって?」
「その記録が成立した時点の者たちにとって」
「いつ?」
「複数の年代が存在します」
「複数?」
「同じ《真世界構文》が、異なる年代の資料に《未来》として記されています」
メルリルが目を見開いた。
「同じ未来が、何度も?」
「内容が完全に一致するわけではありません」
「違う部分も?」
「あります」
「先ほど見せたものは?」
「最も完全な形で残っている一つです」
「つまり」
キースは言葉を選ぶ。
「あれは、かつて誰かにとって《これから来る未来》だった」
「はい」
「そして記録された」
「はい」
「でも、今の私たちにとっても同じ未来なのかは」
女は静かに答えた。
「私は、そのようには記していません」
キースは彼女を見る。
女は今度こそ、一つ一つの言葉を明確に置く。
「これは、かつて未来として記されたものです」
銀の湖へ、先ほど見た二人が一つになる光景が淡く戻る。
「現在ここにいる私が望む未来である、とも」
一度、言葉を切る。
「今も唯一の未来である、とも記していません」
光が二つへ分かれた。
キース。
ローゼン。
現在。
今。
二人はまだ、別々に立っている。
*
「未来は変わる?」
フユが珍しく、自分から尋ねた。
女は小さな妖精を見る。
「《変わる》という言葉が正しい場合もあります」
「違う場合は?」
「最初から複数あったのかもしれません」
「ふうん」
フユはそれだけで納得した。
「それでいいのか!」
キースが思わず声を上げる。
「うん」
「何で君は、こういう時だけ受け入れが早いんだ!」
「まだ来てないから」
キースの声が止まった。
「未来」
フユは花の上へ腰を下ろす。
「まだ来てない」
あまりにも単純だった。
けれど、その通りだ。
「……そうか」
キースは銀の湖を見る。
未来として記されたもの。
二人は一つになる。
新しい存在。
遠い未来。
金属の都市。
星へ届こうとする人々。
そして、もう一度世界を作る。
魔導のない世界。
死者も帰る。
皆が笑う。
幸せな世界。
旧い物語なら、そこで終われたのかもしれない。
けれど、今のキースは違う問いを知っている。
その世界でマーカスが生きていた。
ならば、彼が死んだことはどうなる。
人間ローゼンは。
今のローゼンは。
キルスは。
自分は。
二人が一つになれば。
誰が残る。
「真世界」
キースはその名を口にした。
以前なら、魅力的に聞こえたかもしれない。
本物の世界。
正しい世界。
完成した世界。
けれど今は。
「誰が」
小さく呟く。
「《真》だと決めたんだ」
女は何も答えなかった。
それでよかった。
*
ローゼンがキースの隣へ立った。
「キース様」
「何?」
「先ほどの未来をご覧になって」
少し迷う。
「どう思われました?」
「怖かった」
即答だった。
ローゼンが少し驚く。
「世界が崩壊するところが?」
「それも」
「人が世界を傷つけていたこと?」
「それも」
けれど、一番怖かったのは別のところだった。
「私たちが、一人になっていた」
ローゼンの瞳が静かになる。
「はい」
「誰だったんだろう」
「……」
「一つになった、あれは」
キースは自分の手を見る。
「キースだったのか」
次にローゼンを見る。
「ローゼンだったのか」
それとも。
「どちらでもない?」
女が代わりに答えた。
「記録では、《存在》とだけ呼ばれています」
「名前がない」
「はい」
その事実が、キースには重かった。
「名前を捨てて」
ローゼンが呟く。
「一つになる」
「そのように読めます」
女が答える。
ローゼンは自分の胸へ手を置いた。
何度も取り戻してきた名前。
人間ローゼンではない。
誰かに作られた道具でもない。
サファイアのためだけの娘でもない。
「ローゼン」
今の自分。
「……わたくしは」
言いかけて、止めた。
キースが彼女を見る。
「今決めなくていい」
「キース様」
「これは、未来として記されたものだ」
女の言葉を使う。
「でも」
キースは銀の湖を見る。
「まだ、私たちの未来とは決まっていない」
ローゼンはゆっくりと頷いた。
「はい」
その瞬間。
巨大な〈混沌〉の奥から、声がした。
*
女の声だった。
目の前にいる、サーガと呼ばれたことのある女とまったく同じ声。
けれど、彼女の口は動いていない。
「……何?」
シビウが《踊る剣》の柄へ手を置く。
声は黒の奥。
《夢》のさらに向こう。
まるで古い記録そのものが再生されるように響いた。
まだ言葉にはならない。
ただ、最初の呼吸だけ。
女の声。
目の前の女は、それを聞いていた。
驚かない。
否定もしない。
ただ、その声音を確かめるように、僅かに目を細めた。
「あなた?」
キースが尋ねる。
女は巨大な〈混沌〉を見た。
「その問いには」
静かに答える。
「まだ、答えられません」
黒の奥で、同じ声がもう一度息を吸った。
かつて未来として記された《真世界》。
そして、その未来を語った別の記録。
今と。
過去と。
まだ来ていないはずの未来が。
銀の湖の上で、再び重なろうとしていた。




