第四十四章 サーガは嘘をつかない
銀の湖の向こうで、巨大な〈混沌〉は呼吸するように脈打っていた。
ソーサイアが最後に取り込んだ黒は、《夢》と《ガイアの臍》を重ね合わせたまま、いまだ消えてはいない。けれど、先ほどまでのように膨張を続けてもいなかった。
白い花と淡い青の花が黒の縁へ沿って咲き、巨大な根がその下を縫うように伸びている。
現実と夢のどちらが相手を押し留めているのか。
それさえ、まだ分からない。
サーガと呼ばれたことのある女は、湖畔に立ち、静かにその光景を見つめていた。
《精霊の君》。
《姫》。
《語り手》。
そして、サーガ。
どの名も彼女を指している。
だが、そのうちのどれか一つが彼女のすべてなのだとは、本人さえ言わなかった。
彼女はサーガである。
けれど、サーガという存在のすべてではない。
先ほど女から聞いた《貌》という言葉を、キースはまだ完全には理解していなかった。
さらに、《メレグ=ナフ》という古い名。
一柱の多貌神とも、複数の存在を一つへまとめた名とも、観測によって記憶や記録が別の形を取る現象そのものとも記録されてきたもの。
サーガの《貌》と、どこか似ている。
だが、似ていることと、同じであることは別だ。
それも、つい先ほど教えられた。
だからこそ。
そんな女の横顔をしばらく見つめてから、キースは口を開いた。
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「創世についてだ」
女の瞳が、ゆっくりとキースへ向く。
「ラルソウムには、三つの古い歌があった。私は最初、どれかが間違っていると思った」
「ええ」
「一つでは、サーガが最初に存在し、ケーオスを生み、そのケーオスからコスモスが生まれた」
ローゼンも覚えている。
《歌蔵》に保存されていた、世界の始まりを語る古歌。
「二つ目では、ケーオスとコスモスが先に存在していた。その動きを見て、記録する者としてサーガが現れた」
「はい」
「三つ目には、そもそも誰が最初だったという話がない。三者に始まりはなく、《始まり》という考えそのものが、後から生まれたと歌われていた」
キースは女から目を逸らさなかった。
「あなたなら、答えを知っているのか?」
メルリルも身を乗り出す。
学者としては当然の反応だった。
ここまで旅をし、創世神話に名を残す存在そのものかもしれない女を目の前にしている。これ以上ない機会である。
けれど、女はすぐには答えなかった。
「答えをお見せすることはできます」
「見せる?」
「ただし」
彼女は指先を静かに上げた。
「あなたの望む形の答えである保証はありません」
キースは少しだけ顔をしかめる。
「最近、その手の言い方には慣れた」
「それはよいことです」
「褒められている気がしないな」
「褒めていますよ」
シビウが鼻を鳴らした。
「この旅で一番成長したの、たぶんそこだろうね」
「君まで言うのか」
「世界一の魔導士より、分からないと言える神官長の方が幾分ましさ」
「……否定しにくい」
女は微笑み、それから銀色の湖へ手を伸ばした。
指先が水面へ沈む。
静かな波紋が広がった。
*
「これは」
女が言った。
「記録です」
銀の湖から、光が立ち上がった。
空も、花野も、崩れた《ガイアの臍》も、一瞬で遠ざかる。
キースには自分の身体があった。
隣にはローゼンたちもいる。
けれど、周囲には何もなかった。
黒ですらない。
闇と呼ぶためには、闇という概念そのものがまだ存在していないような、形のない領域。
「ここは……?」
「場所ではありません」
女の声だけが聞こえる。
「少なくとも、この記録には《場所》という概念が、まだ置かれていません」
時間もない。
距離も。
上も下も。
その中に、一つだけ何かがいた。
女。
先ほどまで湖畔に立っていた《精霊の君》と似ている。
けれど、同じ貌だとは言い切れない。
姿はもっと曖昧だった。
顔は見えるようで見えず、髪も衣も、認識しようとした瞬間に別の形へ変わってしまう。
「サーガ?」
キースが呟く。
女の声が答えた。
「その名で、この記録は後に整理されています」
影が、一人きりで何もないところへ手を伸ばす。
そこへ、黒が生じた。
形を持たない黒。
見つめていると、無限に別の何かへなり得るように感じられる。
「ケーオス……」
ローゼンが息を呑む。
黒いものは女の周囲を巡った。
触れる。
離れる。
混ざる。
やがて、その黒の内側から白い光が生まれる。
あまりにも白い。
黒と反対だから白いのではない。
何かが一つの形へ定まり、輪郭を持とうとすることそのものが、白い光として見えているようだった。
「コスモス」
メルリルが呟く。
「これは、第一歌……」
「はい」
女の声が応じる。
「私がケーオスを生み、ケーオスからコスモスが生じた――そう後に記されたものです」
キースは食い入るように、その光景を見つめた。
「本当に、あなたがケーオスを作ったのか?」
返事は静かだった。
「《サーガ》の記録として、私はこの観測を保持しています」
「質問の答えになっていない」
「今ここにいる私が、あの瞬間をこの貌で直接経験したと保証することはできません」
キースは言葉を止めた。
「でも、《サーガ》の記録ではある?」
「はい」
それ以上を、女は言わなかった。
同時に、光景も消えた。
*
二つ目の記録には、最初から黒と白があった。
ケーオス。
コスモス。
二つは、広大な何かの中で動いている。
黒が広がれば、白が境界を作る。
白が形を固定すれば、黒がその外側へ無数の別の可能性を開く。
競い合っているようにも見える。
あるいは、二つで一つのものを作っているようにも。
「最初から……いる」
メルリルが呟いた。
「ええ」
女はいない。
少なくとも、記録の冒頭には。
そこにあるのはケーオスとコスモスだけだった。
やがて遠くから、一つの視線が生まれる。
姿より先に。
見ること。
観測。
記憶。
そうしたものが、この光景へ入り込んできた。
そして、その後に女の輪郭が現れる。
「これが」
キースが言う。
「第二歌」
「そう呼ばれています」
「この記録では、サーガはこの時に初めて現れた?」
「そう見えます」
「でも?」
「先ほどの記録とは一致しません」
「分かってる!」
思わず声が強くなった。
「では、どうしてだ」
「まだ三つ目です」
キースが口を閉じる。
シビウが肩を叩いた。
「ほら、待ちな」
「分かっている」
「顔が全然分かってないけどね」
「私は学者なんだ!」
「だから待ちなって言ってんだよ」
メルリルが横から頷く。
「今回はシビウの方が正しいですわ」
「君まで!」
「わたくしだって気になりますけれど、記録を最後まで見ずに結論へ飛ぶなど研究者の恥です」
「……正論だ」
光景が、また消えた。
*
三つ目。
今度は、すでに世界があった。
空。
地。
海。
今と同じではない。
大陸の形も違い、空には見たことのない星が浮かび、海の一部は宙へ持ち上げられたまま巨大な水塊となって漂っている。
それでも、生命はいた。
森がある。
遠くには、石造りの集落さえ見えた。
「待て」
キースが言った。
「もう世界ができてる」
「はい」
「では、創世記録ではない?」
「世界成立について扱った資料群の一つです」
今度は、古い文書そのものが空間へ浮かび上がった。
石板。
樹皮。
骨。
金属。
幾種類もの記録媒体。
「古い……」
メルリルが目を凝らす。
「どの程度?」
「現在の年代体系へ正確に換算することはできません」
女の声が答えた。
「ですが、あなた方がラルソウムで見た創世歌より、原資料としては古いものを含みます」
「サーガは?」
キースが記録を探す。
ない。
ケーオス。
それらしい語はある。
コスモス。
これも表記の揺れはあるが、存在している。
「あなたの名前がない」
「はい」
「記録者は?」
「不明です」
メルリルも別の石板へ近づく。
「こちらにもありませんわ」
次の資料にもない。
その次にもない。
何十もの記録が流れていく。
世界の成立。
空と地。
形と可能性。
二つのもの。
それらを語る言葉。
けれど、サーガという名だけが現れない。
やがて資料群の中に、現在の神話体系へ近い言葉遣いを持つものが現れ始めた。
都市。
神殿。
初期の国家。
文字体系の安定。
その頃になって、初めて一つの名が記録へ現れる。
《サーガ》。
キースは声を失った。
「……世界ができた後だ」
「この資料群では、そう読めます」
「サーガという名は、世界成立後の記録にしかない」
「少なくとも、今お見せした資料では」
キースは目の前に浮かぶ文書を見つめた。
第三歌。
《始まり》という概念そのものが、後から生まれた。
その歌の言葉まで頭をよぎる。
「サーガは、最初からいなかった?」
女は静かに答えた。
「この資料群だけを根拠にするなら、その可能性を否定できません」
「でも、第一の記録では、サーガが最初にいた!」
「はい」
「第二では、ケーオスとコスモスの後に現れた!」
「はい」
「三つ目では、世界ができた後になって、ようやくサーガという名前が記録へ出てくる!」
「はい」
あまりにも静かに、すべてを認める。
だからこそ、キースはとうとう問いをぶつけた。
「どれが本当なんだ?」
*
すべての光景が消えた。
銀の湖。
白い花。
《ガイアの臍》。
巨大な〈混沌〉。
彼らは元の場所へ戻っていた。
サーガの《貌》の一つとしてここにいる女は、すぐ目の前に立っている。
「すべて」
彼女は答えた。
「《サーガ》の記録として残されている観測です」
キースは、一瞬その意味を理解できなかった。
「……何?」
「先ほどお見せした三つは、すべて、私が《サーガ》の記録として保持しているものです」
「同じあなたが見た?」
メルリルが問う。
女はそこで僅かに間を置いた。
「その問いには、注意が必要です」
「なぜですの?」
「《同じ私》という言葉が、何を意味するかを私は固定できないからです」
キースの顔が険しくなる。
「さっき言っていた《貌》の話か」
「それも関わります」
「でも、あなたは自分の記録だと言った」
「はい」
「第一も?」
「はい」
「第二も?」
「はい」
「第三も?」
「はい」
「なら」
キースは一歩前へ出た。
「なぜ違う?」
女は答えなかった。
キースはさらに問いを重ねる。
「同じ世界の歴史の繋がり方そのものが違っていたのか?」
創世について、一つではない接続が残されたのか。
「観測した貌が違ったのか?」
同じサーガという存在が、異なる相貌で異なるものを見たのか。
「記録が後から変わったのか?」
記録そのものが、後の観測によって別の意味を持つようになったのか。
「それとも、それら全部が混ざっている?」
女はキースの問いを一つずつ聞いたあと、静かに答えた。
「その答えを、私は記録していません」
*
「……知らない?」
メルリルが確認する。
「はい」
「あなたが?」
「はい」
「これだけの記録を持っているあなたが?」
「記録を持っていることと」
女は静かに答えた。
「その記録が、なぜそのようになったのかを知っていることは別です」
キースが僅かに目を細める。
「記録しているのに、意味は分からない?」
「場合によっては」
「原因も?」
「はい」
「どの歴史が今へ繋がっているのかも?」
「一つに定められない場合があります」
「どの貌が見たものだったのかも?」
女は少しだけ考えた。
「現在ここにいる私から、確定できない記録があります」
メルリルが信じられないものを見るような顔になる。
「サーガなのに?」
「サーガであることは、全知であることとは違います」
淡々とした言葉だった。
だが、そこに卑下も開き直りもない。
ただ、自分にできることと、できないことを区別している。
「創世に関わる存在かもしれないあなたが?」
「《かもしれない》という部分を忘れないでください」
「今そこを訂正します!?」
「重要ですから」
メルリルは頭を抱えた。
「あなたという方は……!」
キースは笑えなかった。
「本当に分からないのか」
「はい」
「何か隠しているわけではなく?」
「私が答えを持っていると期待しているのですね」
「当然だろう!」
声が銀の湖へ響いた。
「あなたはサーガだ。語り手とも呼ばれ、創世歌では世界の始まりにまで出てくる!」
「はい」
「なら――」
そこで、キースは口を閉じた。
それでは、また同じだ。
名前。
役割。
過去。
それらを根拠に、
《サーガなのだから、知っているはずだ》
と、目の前の女性を一つの役割へ押し込もうとしている。
彼女はサーガだ。
だが、サーガの全体ではない。
そのことを、つい先ほど教えられたばかりだった。
《メレグ=ナフ》という名についても、同じことをしていた。
多くの貌を持つ神。
そう名前を知れば、それだけですべてを説明できるように感じる。
だが、神なのか、現象なのか、それさえ記録は一つに定まっていなかった。
名前は答えではない。
「……すまない」
女は少し微笑んだ。
「いいのですよ」
「でも、納得はできない」
「それもよいと思います」
「よいのか?」
「納得させることは、記録することとは違いますから」
シビウが眉を寄せた。
「一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「あんたは」
女を見る。
「嘘をつかないのかい」
単純な問いだった。
だからこそ、皆が黙った。
女はすぐに「はい」とは答えなかった。
「嘘、という言葉にも多くの意味があります」
「難しいこと言わない」
シビウが即座に止める。
「知ってるのに、わざと違うこと言うかって聞いてるんだよ」
「その意味であれば」
女は頷いた。
「記録に、意図して偽りを置くことはしません」
「じゃあ」
「ですが」
彼女はその先を続けた。
「私が記録したことが、世界の唯一の真実であるという意味ではありません」
キースが、その言葉へ反応する。
「どう違う?」
「私は、見たものを記します」
女は銀の湖へ目を向けた。
「聞いたものを記します。触れたもの。起きたこと。時には、誰かが何を信じていたかも」
「それは事実だろう?」
「観測した事実です」
「なら、真実では?」
「真実です」
「……どっちなんだ!」
キースが頭を抱えた。
女は少し考えてから、両手で湖の水をすくった。
掌の上に揺れる水面へ、白い花が映っている。
「たとえば、あなたはここに白い花が映っているのを見ます」
「ああ」
「私は、それを記録できます」
「うん」
女が手を動かす。
角度が変わり、今度は水面へ空が映った。
「先ほどの記録は、嘘になりましたか?」
「……ならない」
「白い花は、確かに映っていました」
「ああ」
「ですが、その記録だけを読み、『この水面には永遠に白い花しか映らない』と考えれば?」
キースは答えなかった。
「それは」
ローゼンが小さく言う。
「記録より先を、読む者が決めております」
「はい」
女はローゼンを見る。
「記録されたことだけが真実とは限りません」
僅かに間を置く。
「ですが、記録された出来事まで、真実ではなかったことにする必要もありません」
キースは第一の創世記録を思い出した。
サーガがケーオスを生む。
そのように観測された記録がある。
第二。
すでに存在しているケーオスとコスモス。
それもまた、観測された。
第三。
世界成立後になるまで、サーガという名が現れない。
その資料も、確かに存在している。
「全部」
キースは呟いた。
「その観測の中では、本当だった?」
女は少しだけ目を細めた。
「その言い方なら、私が記録している範囲に近いでしょう」
「でも」
キースはなお食い下がった。
「同じ世界で全部は成立しないだろう」
「本当に?」
「え?」
「《同じ世界》とは、どこからどこまでを指しますか?」
「それは……」
今、自分たちが立っている世界。
そう答えかける。
けれど、アムドアには三つの歴史があった。
同じ土地。
近い年代。
それでも、互いに整合しない別々の過去が、それぞれ正式な記録として残されていた。
「過去の接続が変化しても、同じ世界と呼びますか?」
女が問う。
「観測する貌が変われば?」
「……」
「世界が一度〈混沌〉へ近づき、その後に別の形で続いていたら?」
「待ってくれ」
キースが止める。
「それは、実際に起きたのか?」
「分かりません」
「今、例として言っただけ?」
「はい」
「危ない!」
「何がでしょう」
「あなたが言うと全部、古代の真実に聞こえる!」
女が珍しく、少し困ったような顔をした。
「それは、気をつけます」
シビウが吹き出した。
「サーガに神話の例え話させると、全部神託になるね」
キースは一瞬だけ口を開き、それから言い直した。
「サーガではある。でも、この貌だけがサーガの全部じゃない」
シビウが彼を見る。
「ちゃんと学んでるじゃないか」
「うるさい」
女が少し楽しそうに笑った。
*
メルリルは、まだ納得していなかった。
当然だった。
「では、検証はどうするんですの?」
「何の?」
「歴史です!」
彼女は両手を広げた。
「過去の接続が変わったかもしれない。観測した貌が違ったかもしれない。記録が後から変化したかもしれない。そんなものを全部認めていたら、何一つ確定できませんわ!」
「確定できることもあります」
「たとえば?」
「あなたが今、そう言ったこと」
「それは!」
「キースが困った顔をしたこと」
「そこを記録する必要あります!?」
「フユが先ほどから花を数えていること」
全員がフユを見る。
小さな妖精は、青い花を指差していた。
「二十八」
「本当に数えてた!」
「二十九」
「増えたのか?」
「今咲いた」
女は穏やかに続ける。
「分からないことが増えるからといって、分かることまで失う必要はありません」
メルリルの表情が少し変わった。
「記録とは」
女は言う。
「すべてを知るためのものではありません」
「では?」
「知ったことを、知らなかったことにしないためのものでもあります」
その言葉に、ローゼンはサファイアを思った。
最初はいなかった。
少なくとも、ソーサイアはそう語った。
彼が作り始めた。
けれど途中から、本当に存在したのかもしれない。
今も、最初から存在しなかったと言い切れる者はいない。
ならば、どちらか一方だけを残せば、何かを消してしまう。
「分からないものを」
ローゼンが言う。
「分からないまま残す」
「はい」
ラルソウム。
ヴァギュイザール。
創世歌。
サファイア。
アムドア。
《メレグ=ナフ》。
旅の中で何度も、同じ場所へ戻ってきた。
「でも、それは逃げではございませんね」
ローゼンの言葉に、女が頷く。
「分からないと記すためには、どこまで分かったのかを知る必要があります」
メルリルが小さく息を吐いた。
「研究者としては、耳が痛いですわね」
「君が?」
キースが聞く。
「あなたほどではありません」
「なぜ必ず私を巻き込む!」
「二人で一人だから」
フユが花を数えながら言った。
「その評価、まだ続いているのか!」
「三十」
「聞いてない!」
シビウが笑った。
不思議だった。
世界の創世については、何一つ確定していない。
それなのに以前よりも、ほんの少しだけ世界が見えるようになった気がした。
*
「もう一つ」
キースは女へ向き直った。
「あなた自身について聞きたい」
「はい」
「第一の記録で、サーガは最初からいた」
「はい」
「第二では、後から現れた」
「はい」
「第三では、世界成立後になるまでサーガという名前がない」
「はい」
「それらを全部、《サーガ》の記録として君は持っている」
「はい」
キースは慎重に、次の問いを置いた。
「さっき、今のあなたは《貌》の一つだと言った」
「そのように考えることができます」
「なら」
一度、言葉を探す。
「別の記録に現れる《貌》が観測したものを、今ここにいる君も持っているのか?」
女はすぐには答えなかった。
これまでより、少し長い沈黙だった。
「《持っている》という表現なら」
やがて言う。
「《覚えている》よりは近いでしょう」
「どう違う?」
「私の中には」
女は自分の胸へ、そっと手を置いた。
「現在ここにいる私自身が、直接見たとは思えない記録があります」
キースの瞳が動く。
「でも、それを見せることはできる」
「はい」
「《サーガ》の記録として?」
「はい」
「なら、別の貌から受け継いだ?」
「そう表現できる可能性はあります」
「可能性?」
「私は、その仕組みを記録していません」
メルリルが横から食いついた。
「では、本体を介して共有しているのでは?」
「《本体》と呼べるものが、あなたの想定する形で存在するかどうかも、私はここで確定できません」
メルリルが止まる。
「では、貌が消えた際、記録が一つへ戻る?」
「分かりません」
「同時に複数の貌が存在して――」
「メルリル」
キースが止めた。
「さっき聞かないと決めたところへ、全部戻っている」
「ですが!」
「私も聞きたい!」
「なら!」
「だから危ないんだ!」
シビウが笑い出した。
「本当に似た者同士だねえ」
メルリルは不満そうだったが、渋々黙る。
キースは女へ戻った。
「では、もう一つだけ」
「はい」
「その記録は」
慎重に尋ねる。
「他人の記憶なのか?」
女の瞳が僅かに揺れた。
「それも」
彼女は静かに首を振る。
「言い切れません」
「今の君が直接見たわけではないものがある」
「はい」
「なのに、他人のものとも言い切れない」
「はい」
「《サーガ》のものではある?」
女は少しだけ考えた。
「その言い方が、今は最も近いでしょう」
キースは息を吐いた。
「なるほど」
「分かったんですの?」
メルリルが驚く。
「全然」
「何がなるほどですの!」
「分からない場所が分かった」
「最近、本当にそればかりですわね!」
「悪いか!」
「少し羨ましいですわ!」
女は微笑んでいた。
その笑みは、記録を読み上げる装置のものではなかった。
キースたちのやり取りを、明らかに面白がっている。
「では」
キースは続ける。
「あなた自身が変わった可能性は?」
「あります」
「貌ごとに違って見えるだけではなく?」
「それも含めて、区別できない場合があります」
「サファイアみたいに?」
ローゼンの肩が僅かに動いた。
女は少し考える。
「似ている部分があるかもしれません」
「誰かが《サーガ》という名や物語を積み重ねた結果、あなたがその名に近づいた?」
「可能性はあります」
「逆に、サーガという存在があり、そこから異なる貌が現れた?」
「そのように記した資料もあり得るでしょう」
「では、今ここにいるあなたは」
キースは一つずつ言葉を選ぶ。
「どの《サーガ》なんだ?」
女は答えなかった。
長い沈黙。
「分からない?」
キースが先に尋ねる。
「一つの年代や順序へ置くことが、適切な問いなのか分かりません」
キースが眉を上げた。
「今の私がいることは分かります」
「それは分かる」
「私が保持する記録もあります」
「ああ」
「ですが」
女は胸へ置いた手をそのままにした。
「記録に残された《サーガ》と、現在ここにいる私が、どの程度まで一つであるのか」
キース。
キルス。
《王》。
同じ魂核。
それでも、一人ではない。
「あなたなら」
女はキースを見る。
「その問題を、少しは想像できるのでは?」
キースは苦笑した。
「返されたな」
「はい」
「私は、キルスの記憶を持っている。同じ魂らしい。でも、キルスではない」
「はい」
「昔のことを覚えているからといって、その時の私と今の私が完全に同じになるわけではない」
「はい」
「なら、あなたも?」
「同じ構造だとは申しません」
「……そうだった」
すぐに止められる。
「似ている可能性は?」
「あります」
「それでいい」
キースは、もうそれ以上押さなかった。
同じ問いを、《メレグ=ナフ》へも向けることができる。
エル=ネフリド。
ラシュ=メフェル。
複数の貌。
もし本当に同じ神格の貌なら、そのあいだに何が共有されるのか。
そもそも共有する「本体」が存在するのか。
だが、サーガと似た問いを立てられるからといって、両者が同じ構造だとは限らない。
その線だけは越えなかった。
少し考え、それでも一つだけ確認する。
「つまり」
「はい」
「記録を持っているからといって、その出来事の意味まで分かるわけじゃない」
「そうです」
「誰が、なぜ、どんな意図でそうしたのか」
「記録に残っていなければ、分かりません」
「その貌が何を感じていたかも?」
「記録されていなければ」
女は静かに答えた。
「私は、それを知っているふりはできません」
そこでようやく、キースは創世の三つの記録へ戻った。
サーガは記録を持っている。
だから見せられる。
けれど、
なぜ三つが矛盾したのか。
世界の歴史的な接続が異なっていたのか。
貌が違ったのか。
記録そのものが変化したのか。
あるいは、その問い方そのものが間違っているのか。
その答えは、残っていない。
サーガは記録している。
だが、記録しているもののすべてを理解しているわけではない。
当たり前のことのようで。
神話の中の存在を相手にすると、忘れてしまいそうになることだった。
*
巨大な〈混沌〉が、遠くで再び脈打った。
銀の湖面が黒く揺れる。
女がそちらを見る。
「そろそろ」
「何だ」
「次へ進む必要があります」
「ソーサイア?」
「彼も」
「彼も?」
その言い方に、キースは嫌な予感を覚えた。
「まだ何かあるのか」
「あります」
「今度こそ、知ってること?」
「記録があります」
キースの眉が上がる。
「何の」
女はまずローゼンを見て、それからキースへ視線を移した。
二人を同時に見つめる。
「あなた方についてです」
ローゼンが息を呑んだ。
「わたくしたち?」
「はい」
人間ローゼン。
キルス。
死。
禁術。
魂。
転生。
そして今ここにいる、キースと精霊ローゼン。
「古い記録に」
女は静かに告げた。
「二つの魂と、〈混沌〉から新しい世界を成立させるための構文があります」
メルリルが即座に反応する。
「《真世界》?」
女は彼女を見る。
「その名で記された資料があります」
キースの胸が、嫌な音を立てた。
ソーサイアが求めていたもの。
真世界。
「それが」
キースは問う。
「本当に、世界の正しい未来なのか?」
女は答えなかった。
いや。
答えられるより先に、キース自身が気づいた。
「……そうか」
「何がでございますか?」
ローゼンが尋ねる。
「この人は」
キースは女を見る。
「そこも、知っているふりはしない」
女が小さく微笑んだ。
「はい」
銀の湖へ、新しい波紋が静かに広がっていく。
「私は」
彼女は言った。
「見たことを、見たと記します」
白い花が揺れる。
「見なかったものを、見たとは記しません」
巨大な黒が、世界の底で呼吸を続けている。
その声には、神託のような威厳も、絶対者の断定もなかった。
「保持している記録を、あると記します」
一拍。
「ですが、その意味まで知っているとは限りません」
キースは黙って聞いた。
「そして」
女は彼らを見る。
「分からないことを、分かったとは記しません」
キースは創世の答えを、とうとう得られなかった。
メレグ=ナフが神なのか、事象なのかという答えも。
サーガとメレグ=ナフが、本当に別なのかという答えも。
ケーオスとコスモスが、神だったのか、原理だったのかという答えも。
何一つ、世界の最深部を一つに閉じる答えは得られない。
それでも、目の前の女を以前より少しだけ信じられる気がした。
サーガは嘘をつかない。
少なくとも、自分が見ていないものを見たとは記さない。
保持していない記録を、あるとは言わない。
そして、知っていないものを、知っているとは言わない。
だからこそ。
世界について、知らないことがこれほど多く残っていた。




