第四十三章 線は後から引かれる
「では」
メルリルが、今度は真剣な顔で尋ねた。
「その白銀の時代は、なぜ終わったのでございますの?」
女がメルリルを見る。
「どうして現在は、人間が世界の中心なのでしょう」
黄金。
白銀。
黄銅。
三つの時代。
「こちらについても」
サーガは答えた。
「一つの原因として記録されていません」
「また?」
「はい」
「では」
メルリルは少し息を整えた。
「どんな記録が?」
「人間の人口が増え」
一つ。
「国家が拡大し」
二つ。
「エルフの文明圏を、長い時間をかけて上回ったと記す資料があります」
黄銅の時代。
人間中心社会。
「それは」
キースが言う。
「普通の文明史だな」
「はい」
「戦争でエルフを滅ぼした、とかではなく?」
「そう記す地域史はあります」
サーガは答える。
「ですが」
一拍。
「世界全体の移行理由として、それだけを置く資料ばかりではありません」
「ほかは?」
「古い精霊技術が、少しずつ成立しなくなった、と記す資料があります」
メルリルの目が鋭くなる。
「世界側の変化?」
「そう解釈した者もいます」
「断定は?」
「しません」
「では、エルフ自身の問題?」
「白銀時代の文明が、内側から衰退したとする資料もあります」
「国の腐敗?」
「それも」
「人口?」
「それも」
「精霊との接続の低下?」
「そのように記したものも」
「人間の経済や制度に負けた?」
「それを重く見る歴史家もいます」
シビウが少し呆れた顔をした。
「なんでもあるねえ」
「歴史だからだろ」
キースが答えた。
「国ごとに違う」
ヴァギュイザールも、エルフの衰退についてそう言っていた。
「そして」
サーガは最後に一つ付け加えた。
「白銀の時代から黄銅の時代への移行について、特定の一つの事件を境界としない資料も多くあります」
キースは、その言葉へ反応した。
「黄金から白銀とは」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「違う?」
「同じ種類の変化だったと」
女は答える。
「私は記しません」
「黄金時代の終わりには」
キースは、これまで得た情報を並べていく。
「精霊の道が閉じた」
一つ。
「古い存在が姿を保てなくなった」
二つ。
「神格の現れ方まで変わったらしい」
三つ。
「世界そのものの条件が、変わったように見える痕跡がある」
「はい」
「でも」
白銀から黄銅。
「人間の人口や国家」
一つ。
「魔導技術の体系化」
二つ。
「貨幣」
三つ。
「契約」
四つ。
「物流」
五つ。
「そういう普通の歴史だけでも、かなり説明できる」
「はい」
サーガが頷く。
「なら――」
「しかし」
キースの言葉を、女は穏やかに止めた。
「それだけで、すべて説明できるとも」
一拍。
「私は記しません」
メルリルが息を呑む。
「エルフの衰退に、世界側の緩やかな変化が関わっていなかったと」
静かに。
「断定できる記録も、私は持っていません」
キースは、ゆっくり息を吐いた。
黄金から白銀。
世界の大断層である可能性が高い。
白銀から黄銅。
長い文明交代として説明できる部分が多い。
けれど、完全に別物ともまだ言えない。
「似た三つの名前を並べたからって」
キースは呟いた。
「全部同じ仕組みで時代が変わったとは限らない」
「はい」
「黄金」
「はい」
「白銀」
「はい」
「黄銅」
キースは少しだけ笑った。
「後世の人間は、ずいぶん綺麗に並べたんだな」
「歴史は」
サーガが答える。
「並べることで理解しやすくなります」
「でも」
「並べた線そのものが」
一拍。
「世界に最初から引かれていたとは限りません」
キースは、その言葉を覚えておくことにした。
*
「では」
メルリルが、まだ聞く。
「《ラグナ=ローク》は?」
キースの顔が変わった。
「メルリル」
「分かっておりますわ!」
先に言われた。
「同じだと決めません」
「本当に?」
「本当にです!」
彼女はサーガを見る。
「ただ」
一拍。
「黄金時代の終焉ほどの世界変化があったのであれば、《ラグナ=ローク》伝承を連想するのは自然ではございませんこと?」
女は、すぐには答えなかった。
「自然です」
メルリルの目が輝く。
「では!」
「連想することと、同じ出来事であることは別です」
「……キースみたいなことを」
「私も同じことを言おうとしてた」
「嫌ですわ!」
「なぜだ!」
女は僅かに笑った。
「黄金の時代の終焉を」
そして、はっきりと言う。
「私は、《ラグナ=ローク》とは記しません」
キースの表情が引き締まる。
「違うから?」
「いいえ」
「では」
「同じだと、確定できないからです」
「白銀時代の終わりは?」
「それも」
「別のラグナ=ロークだった可能性は?」
「そのように記した資料が存在する可能性を、私は否定しません」
一拍。
「ですが」
女は続ける。
「現在の私が、そう記す理由はありません」
キースは頷いた。
それでいい。
黄金の終わり。
白銀の終わり。
そして今、《ガイアの臍》で起きていること。
似ているから、同じ名前を置く。
それでは、ソーサイアと変わらない。
*
キースの頭に、別の名が浮かんだ。
アムドア。
三つの歴史。
同じ壁を見て描いたはずなのに、一致しなかった二枚の写し。
そして、古い神学書に残された名。
「……メレグ=ナフ」
女の視線がキースへ向いた。
「その名を、どこで知りましたか」
「メミスの神殿だ」
キースは答える。
「古い神学書にあった」
多くの《貌》。
記憶。
記録。
祈りの錯綜。
「後世の書物では」
キースは続ける。
「多重神格として整理されているものもある」
「はい」
「でも」
古い資料。
「さらに遡ると」
一拍。
「そもそも《メレグ=ナフ》が一柱の神の名なのか。それとも何かの現象を指した言葉なのか」
そこすら曖昧だった。
「その記録は」
女は答える。
「知っています」
「では」
キースは聞く。
「メレグ=ナフは本当に神なのか?」
サーガは、少なくともすぐには答えなかった。
「分かりません」
やがて、そう答えた。
メルリルが驚く。
「あなたにも?」
「私が持つ記録だけでは、一つに定められません」
「どんな記録が?」
「《メレグ=ナフ》を、一柱の神格として記した時代があります」
一つ。
「複数の神格」
二つ。
「あるいは複数の《貌》を、一つの名の下へまとめた記録もあります」
三つ。
「では、本体が複数?」
「そう記した者もいた」
「他には?」
「人格ではなく」
女は言葉を選んだ。
「《起きること》として、その名を使った記録もあります」
キースは息を止めた。
「起きること」
「はい」
「現象?」
「あなた方の言葉へ置き換えるなら」
女は少し考えた。
「それが近い場合もあるでしょう」
記憶が違う。
記録が違う。
見る者によって存在の輪郭が変わる。
同じものが違う貌を持つ。
黄金から白銀への歴史断層。
サファイア。
ヴァギュイザール。
アムドア。
いくつもの出来事がキースの頭へ浮かんだ。
けれど、すぐに止める。
「似ているからって」
自分へ言うように、
「今まで見たものを全部メレグ=ナフへ押し込む気はない」
「それがよいでしょう」
女は頷いた。
「では」
メルリルが尋ねる。
「《エル=ネフリド》という名は?」
女が彼女を見る。
「《メレグ=ナフの第一の貌》と記した資料があります」
「それは事実ですの?」
女はすぐには答えない。
キースが問い方を変えた。
「あなたは、それが世界の事実だと言っているわけじゃない?」
「私は」
女は答える。
「資料が、そのように記したことを記録しています」
キースは黙った。
肯定ではない。
否定でもない。
「ずるい答えですわね」
メルリルが言う。
「正確な答えだ」
キースが返す。
「あなたまでそちら側へ行かないでくださいませ!」
「事実と記録を分けろと言ってるだけだ!」
「今それをやられると腹が立ちますの!」
シビウがため息を吐いた。
「よくこんな状況で喧嘩できるねえ」
*
だが、キースの中には、もう一つだけ問いが残っていた。
目の前の女。
サーガ。
記録する者。
複数の《貌》。
そして、メレグ=ナフ。
神。
現象。
複数の貌。
同じ言葉。
似た構造。
「では」
キースは女を見る。
「あなたも?」
「何を尋ねていますか」
「サーガも」
一度、言葉を選ぶ。
「《メレグ=ナフ》の貌である可能性はあるのか?」
ローゼンが息を呑む。
メルリルも、今度は口を挟まない。
女は長く、キースを見つめた。
「そのように記す者が」
やがて静かに答える。
「いつか現れるかもしれません」
「では」
「ですが」
女は穏やかに遮る。
「それによって、私と《メレグ=ナフ》が同じものであるとは」
はっきりと。
「私は記しません」
「違うとも言わない?」
「似た構造を持つことと、同じ存在であることは別です」
「本当に別だとも」
「今の私には、一つに定められません」
キースは、しばらく女を見つめた。
そして、それ以上は追わなかった。
サーガがメレグ=ナフなのか。
メレグ=ナフがサーガの貌なのか。
あるいは、似た構造を持つだけの、まったく異なる存在なのか。
今、答えをつければ、その答えへ世界を押し込めることになる。
「分かった」
「何が?」
「今は、同じものだとも」
一拍。
「違うものだとも書かない」
女は僅かに微笑んだ。
「はい」
*
「ところで」
キースは問いを変えた。
「サーガ以外には」
「はい」
「何と呼ばれてきた?」
「《精霊の君》とも」
足元の花々が揺れる。
「《姫》とも」
遠い廃都。
黄金の時代。
《王》と争ったとされる存在。
「《語り手》とも」
最後の名に、キースが僅かに眉を寄せた。
「語り手?」
「はい」
「何を語る?」
「時代によって違います」
「歴史?」
「そう呼ばれたことも」
「神話?」
「それも」
「世界?」
女はすぐには答えなかった。
「世界を語ることと」
やがて、
「世界そのものになることは」
一拍。
「同じではありません」
その言葉を、キースは覚えておくことにした。
「あなたは」
一度、考える。
「世界の外にいるのか?」
女がキースを見る。
「外?」
「私たちの歴史を記録できるなら」
慎重に、
「物語の外から見ている?」
「そう思った」
女は花を一輪、指先へ乗せた。
「あなたが一冊の本を読む時」
「?」
「本の外にいますか?」
「いる」
「では、その本に書かれた出来事を、すべて知っていますか?」
「……いや」
「書き手が何を考えていたかは?」
「分からない」
「頁が失われていれば?」
「読めない」
「後から書き換えられていれば?」
キースは黙った。
「外にいることと」
女は言う。
「すべてを知ることは、同じではありません」
「では」
「私は」
そこまで女は言い、止めた。
「何だ?」
「あなたは今」
女は静かに続ける。
「私を一つの場所へ置こうとしています」
キースが息を止めた。
世界の内側。
外側。
どちらかへ。
「……悪い癖だな」
「悪いとは申しません」
女は微笑む。
「名前をつけることは、理解の始まりでもあります」
「でも?」
「終わりにしてしまうと」
花びらが落ちる。
「見えなくなるものがあります」
ソーサイア。
唯一の読者。
世界を一つの解釈へ閉じようとした男。
キースは小さく息を吐いた。
「分かった」
「何が?」
「今は決めない」
女は嬉しそうに、
「はい」
と答えた。
*
「ところで」
シビウが、ずっと我慢していたように口を開いた。
「一番大事なこと聞いていいかい」
「どうぞ」
「あれ」
親指を後ろへ向ける。
「何とかしてくれない?」
銀の湖の向こう。
《ガイアの臍》。
巨大な〈混沌〉が、夢と現実を重ねながら、いまだ膨張を続けている。
「ソーサイアが混ざってるんだろ?」
「はい」
「ケーオスも?」
女は、すぐには答えなかった。
「分かりません」
「そこも!?」
シビウが頭を抱える。
「何なら分かるんだい、あんたは!」
「シビウ!」
「だってさあ!」
女は怒らなかった。
「もっともな質問です」
「でしょう?」
「ただ」
彼女は黒を見る。
「私が知っているケーオスと、いまあなた方がケーオスと呼ぼうとしているものが、完全に同じ存在であるという記録を」
少し間を置く。
「私は持っていません」
「記録を?」
キースが反応する。
「はい」
「自分の記憶ではなく?」
「記憶もまた、記録の一つになり得ます」
ヴァギュイザール。
同じ戦場。
二つの因果。
その両方を、自分自身の経験として覚えていた。
キースは、その証言を思い出した。
「ですが」
女は銀の湖へ目を向ける。
「今は、その話より先にするべきことがあります」
巨大な〈混沌〉が《夢》へ触れた。
*
黒い波が銀の湖へ流れ込む。
触れた場所から、色が失われていく。
「来る!」
シビウが前へ出る。
「剣が通る?」
「試す!」
「待ちなさい」
女の声が響いた。
シビウの動きが止まる。
今までの穏やかな声とは違った。
湖。
花。
空。
《夢》全体が、彼女の一言へ反応したように静まる。
「ここでは」
女は黒い波を見る。
「剣より、名の方が近い」
「名?」
ローゼンが胸へ手を置く。
つい先ほど、〈混沌〉の内部で自分を保ったもの。
「わたくしの名前……」
「ええ」
女はローゼンを見る。
「あなたは、自分で戻ってきました」
「皆様に助けていただきました」
「それも事実です」
「では」
「どちらかへ減らす必要はありません」
ローゼンの深紅の瞳が揺れた。
「ソーサイアは」
女は続ける。
「一つへまとめすぎました」
世界。
過去。
人格。
名前。
読者。
すべてを唯一へ。
「ですが」
彼女は巨大な黒へ視線を戻す。
「彼が最後に取り込んだものは、彼の構文だけでは、もう扱えません」
「何なんだ」
キースが問う。
女は答えた。
「分かりません」
それでも、今度の言葉には奇妙な重みがあった。
「ただ」
白い花が一斉に揺れる。
「非常に古い」
キースの胸へ、いくつものものが浮かんだ。
アムドア。
《ラグナ――》。
半身を失った巨人像。
削り取られた神名。
何度目なのか分からない穴。
黄金の時代の終焉。
それより前から続いていたという古代戦乱。
そして、《メレグ=ナフ》。
だが、どれも今の黒と同じだと決める理由はない。
「古いって」
メルリルが尋ねる。
「精霊戦争より?」
女は答えない。
「黄金の時代より?」
それにも、すぐには答えない。
「セーレより以前?」
その問いにだけ、女ははっきり頷いた。
「はい」
それだけだった。
ソーサイアが始まりではない。
セーレも、始まりではない。
もっと古い。
けれど、何が始まりなのか。
そこまでは、まだ誰にも分からない。
*
黒い波が花畑へ入り込んだ。
白い花が消える。
フユが前へ出た。
「春」
「待って」
《精霊の君》が彼女を止める。
「なんで」
「消えた花を」
女はしゃがみ込む。
「同じ花として戻す必要はありません」
フユが不思議そうに首を傾げた。
「でも春」
「はい」
女は、花が消えた場所へ指先を置く。
「なら」
黒のすぐ脇から、新しい芽が伸びた。
先ほどまでとは違う。
淡い青の花。
「次の春にしましょう」
フユが目を大きくした。
「……うん」
キースは、その光景をじっと見ていた。
過去を戻すのではない。
消えたものを、なかったことにもしない。
その先へ、別の花を咲かせる。
黄金の時代が終わった。
だから黄金をそのまま取り戻すのではなく、残ったもので別の世界を作った。
ヴァギュイザールが白銀時代のエルフを語った時の言葉が、一瞬だけ頭をよぎる。
けれどキースは、それを同じものだとは決めなかった。
ただ、似ていると思っただけだ。
「あなたは」
キースが言う。
「これから何をする?」
女は立ち上がる。
「記録します」
「それだけ?」
「いいえ」
珍しく、少し楽しげに笑った。
「見ることもします」
「違いがあるのか」
「あります」
また問いが増える。
でも、今のキースはそれを嫌だとは思わなかった。
「なら」
ローゼンが女を見る。
「わたくしたちは、何をすれば?」
女はローゼン、キース、シビウ、メルリル、フユを一人ずつ見つめた。
「選んでください」
「何を?」
「これからを」
黒い世界。
白い花。
古代都市。
銀の湖。
夢。
現実。
黄金。
白銀。
黄銅。
名前を与えれば、歴史は分かりやすくなる。
けれど、名前がこれからまで決めてしまうわけではない。
「私は」
女は静かに言った。
「あなた方の代わりに」
一拍。
「続きを決めません」
ソーサイアとの、決定的な違いだった。
唯一の読者にはならない。
「なぜ」
キースが尋ねる。
「語り手なんだろう?」
「語り手と」
また僅かに訂正する。
「呼ばれたことがあります」
「語る者が」
キースは問う。
「結末を決めるんじゃないのか?」
「限りません」
「では」
「それを」
女は答えない。
代わりに、湖の上へ新しい道が現れた。
今度は花ではない。
文字。
見たことのない古い文字が、一つずつ銀の水面へ浮かんでいく。
キースには、読めないはずだった。
それでも胸の奥で、一つの音だけが形を持った。
サーガ。
彼は女を見る。
「あなたの名?」
「そう呼ばれたことがあります」
最後まで、それ以上は言わない。
キースも、もう聞き直さなかった。
今ここにいる彼女は、サーガだ。
それは疑っていない。
けれど、創世歌に記されたすべての《サーガ》を、目の前の一人へそのまま押し込めてよいわけではない。
《精霊の君》。
《姫》。
《語り手》。
それらを一つの意味へ固定する必要もない。
そして、《メレグ=ナフ》。
黄金の終焉。
白銀の衰退。
ラグナ=ローク。
似ているものを、すべて同じ答えへ閉じる必要もない。
同じなのか。
違うのか。
どこまでが一つで、どこからが別なのか。
まだ、分からない。
ただ、目の前の女は知っていることだけを語った。
知らないことを、知らないと言った。
記録にあるものと、世界の事実を同じものとして扱わなかった。
銀の湖の向こうでは、巨大な〈混沌〉が再び脈打っている。
《精霊の君》。
《姫》。
《語り手》。
そして、サーガの《貌》の一つとしてここにいる女は、その黒を見つめながら、静かに次の言葉を待っていた。




