第四十二章 物語の外にいる女
《ガイアの臍》の闇に咲いた一輪の花を見て、ローゼンは息を止めた。
白い花弁は淡い光を宿し、根も土もない空間から、まるで初めからそこに咲いていたかのように細い茎を伸ばしている。
その花を、ローゼンは知っていた。
「《夢》に咲いていた花でございます」
キースは彼女の身体を支えたまま、闇に浮かぶ花へ視線を向けた。
「間違いない?」
「はい。ラルソウムにも似た花はございます。ですが、これは……」
ローゼンが最後まで言い終えるより先に、二輪目が咲いた。
続いて三輪。五輪。十輪。
白い花は《ガイアの臍》の巨大な根を覆うように増え、青白く発光する世界構造の上へ、季節も土壌も無視して花畑を広げていった。
「何が起きておりますの」
メルリルが周囲を見回す。
「四季?」
キースがフユを見る。
小さな妖精は首を振った。
「違う」
「では、精霊術?」
「違う」
「《夢》?」
今度は少しだけ考えた。
「夢。でも、夢じゃない」
「君の説明は最後までその調子なんだな」
「分からないから」
「……そうだな」
以前なら、キースはそこからさらに食い下がっていただろう。何が違い、どこまでが夢で、どこからが現実なのか。答えが出るまで質問を重ねたはずだ。
今は違う。
フユが分からないと言うなら、まずそこまでを事実として受け取る。
白い花の向こうで、景色がゆっくりと滲み始めた。
古代都市の廃墟が消えたわけではない。欠けた巨人像も、削り取られた神名も、世界の根も、確かにそこへ残っている。
けれど、それらの輪郭へ、別の風景が透けるように重なっていった。
銀色の湖。
どこまでも続く花野。
上下という概念を忘れたように浮かぶ透明な森。
そして、空へ向かって落ちていく雨。
ローゼンの指先が震えた。
「ここでございます」
「以前、君が行った場所?」
「はい」
《夢》。
現実世界から消え、継承を果たせなかった精霊たちが留まっていた場所。
そして――
「《精霊の君》……」
ローゼンがその名を口にした瞬間、世界の底で何かが目を開いたように感じられた。
*
それより先に、黒が動いた。
「下がれ!」
シビウの声と同時に、《踊る剣》が抜かれる。
ソーサイアの身体が崩れ落ちた場所には、もう何も残っていないはずだった。
だが、根の隙間へ流れ落ちていた〈混沌〉が、一つの場所へ集まり始めている。
最初は黒い水のように見えた。
けれど、すぐにその比喩では足りなくなる。
量が増えていく。
根の下。
都市のさらに下。
《ガイアの臍》そのものより深い場所から、夜を液体にしたようなものが、ゆっくりとせり上がってきていた。
「これ……」
メルリルの顔色が変わる。
「ソーサイアが持っていた量ではありませんわ」
「分かるのか?」
「先ほどまでとは規模が違いすぎます!」
キースの胸の奥で、イースが激しく反応した。
「っ……!」
痛い。
内側へ細い針を差し込まれ、脈動のたびにさらに奥へ押し込まれていくような痛みだった。
「魔導士だけ?」
シビウがキースを見る。
「メルリルも?」
「ええ……!」
彼女も胸元を押さえている。
フユには反応がない。
これまでと同じだった。
だが、ローゼンは黒を見つめていた。
「似ております」
「何に?」
「以前、キース様と〈混沌〉から戻る時に」
黒い人影。
二人へ手を差し伸べた存在。
人なのか。
原理なのか。
後世に《黒無相の君》と呼ばれたケーオスなのか。
最後まで何一つ断定できなかった影。
「ケーオス?」
キースが呟いた。
〈混沌〉が一度だけ脈打つ。
反応なのか。
偶然なのか。
それさえ分からない。
「……名前を決めるな」
キースはすぐ、自分の言葉を打ち消した。
「似ているだけだ」
「はい」
「ケーオスの一部かもしれない。まったく別の〈混沌〉かもしれない。そもそも、私たちが同じ《黒》として見ているだけかもしれない」
ローゼンも頷いた。
ラルソウムで、ヴァギュイザール本人が言っていた。
ケーオスはケーオスだった。
当時、それ以上の分類は必要なかった、と。
後世の人間が《四貴精霊》と呼んだからといって、現在目の前にある黒いものまで、その名へ押し込む理由はない。
その間にも、黒は増え続けていた。
「ソーサイアは?」
シビウが問う。
「もう死んだんじゃないのかい」
「身体を維持していた構文は崩れました」
メルリルが答える。
「でも、意識まで消えたかは――」
そこで、笑い声がした。
*
『まだ』
声は〈混沌〉の全域から響いた。
『終わっていない』
「ソーサイア!」
キースが叫ぶ。
けれど、以前とは違う。
一つの声ではない。
男の声へ、別の男。
女。
老人。
子ども。
幾重もの薄い響きが、一つの言葉へ重なっていた。
黒の一部が盛り上がり、人の顔を作ろうとする。
蒼い髪。
細い瞳。
ソーサイア。
だが、すぐに崩れた。
次にはサファイアの顔が浮かび、それも数瞬と保たず溶けていく。
「……見苦しいね」
シビウが剣を構えた。
「負けたことくらい認めたらどうだい」
『負けた?』
〈混沌〉が笑う。
『何に?』
「ローゼンにだよ」
シビウの返答は早かった。
『一つの人格を固定できなかっただけだ』
「それを負けたって言うんじゃない?」
『違う』
黒が一気に持ち上がった。
『実験が一つ終わった』
「同じ言い訳を研究者がしたら」
メルリルが吐き捨てる。
「わたくしが殴りますわよ」
『なら』
声が低くなる。
『次を始めればいい』
キースの胸を、嫌な予感が走った。
「何をするつもりだ」
『君たちは教えてくれた』
「何を」
『一人の解釈では、足りない』
ソーサイアが語っていた。
《唯一の読者》。
世界をすべて〈混沌〉へ還し、自分だけが名づけ直す。
彼が求めていたもの。
「まだ、その考えを――」
『だから』
声が変わる。
『私自身も』
一拍。
『一つである必要はない』
キースの顔から血の気が引いた。
「待て」
ソーサイアの残滓が、巨大な〈混沌〉へ自ら沈んでいく。
「ソーサイア!」
『私が読むのではない』
黒の中へ、蒼い顔が沈む。
サファイア。
さらに別の顔。
何十もの表情が、現れては消えていく。
『すべてを』
笑い。
『私の中へ入れればいい』
「やめろ!」
キースは反射的に魔導を構成しかけ、止めた。
通常魔導では吸われる。
ならば。
「フユ!」
「分かってる」
彼女が両手を広げた。
「春!」
白い花が増える。
キースもまた、世界の流れへ手を伸ばした。
芽吹くもの。
眠りから動き始めようとするもの。
「少しだけ……!」
根が伸びる。
〈混沌〉へ。
だが、今度は違った。
ソーサイアが吸収していた時のように、四季が黒を押し返さない。
触れた根そのものが、そこに存在していた場所を失った。
「消えた?」
「違う」
フユが言った。
顔が強張っている。
「どこに行った?」
「分からない」
「フユにも?」
「うん」
その返答を聞いた瞬間、キースは初めて本能的な恐怖を覚えた。
理解できない。
それ自体が、怖かった。
*
巨大な〈混沌〉が、ソーサイアを呑み込んだ。
いや、彼が呑んだのか。
呑まれたのか。
もう分からない。
境界さえ消えている。
黒の内部で、蒼い光が一度だけ強く閃いた。
『読める』
「何が見える!」
『これなら』
歓喜。
『全部だ』
答えた瞬間、《ガイアの臍》が崩れた。
*
最初に、上下がなくなった。
足元の根が立ち上がる。
いや、自分たちが倒れたのか。
都市全体が回転したのか。
それさえ分からない。
「掴まれ!」
シビウが近くの根へ《踊る剣》を突き立てる。
メルリルが彼女の腰を掴み、キースはローゼンを抱えた。
フユは飛ぼうとして、そもそも《空》という方向そのものを見失っている。
「どっちが上!」
「分からない!」
「世界一!」
「私も分からない!」
「宇宙一!」
「わたくしにも分かりませんわ!」
「役立たず!」
「フユにだけは言われたくありません!」
巨大な根が視界から消え、次の瞬間には銀色の湖へ変わる。
また廃都の塔へ戻り、花畑と巨人像が同じ場所を占めた。
「《夢》が!」
ローゼンが叫ぶ。
「重なっています!」
「どういう意味だ!」
「分かりません!」
今度はローゼンまで、同じ答えだった。
けれど、それ以外に言いようがない。
《夢》がこちらへ近づいているのか。
《ガイアの臍》が《夢》へ沈んでいるのか。
あるいは、そのどちらでもないのか。
現実と夢。
二つの場所が、互いを消すことなく同じ空間へ重なり始めていた。
「これもソーサイア?」
メルリルが叫ぶ。
「違うかもしれない!」
キースは巨大な黒を睨む。
「こいつが壊したせいで、もともと別にあったものが重なった可能性もある!」
「今分析する必要ございます!?」
「ない!」
「なら逃げますわよ!」
「どこへ!」
「それを今考えています!」
その時、ローゼンが突然動きを止めた。
「ローゼン?」
彼女は銀色の湖を見ている。
現れては消える、《夢》の湖。
「呼ばれております」
「誰に」
答えは、聞く前から分かった。
「《精霊の君》」
ローゼンは湖の向こうへ手を伸ばした。
*
道ができた。
魔導ではない。
四季でもない。
銀の湖面へ、一輪ずつ花が咲いていく。
こちらから向こうへ。
飛び石のように。
「罠?」
シビウが尋ねる。
「分かりません」
「今日は全員そればっかりだね!」
「でも」
ローゼンには、一つだけ確信があった。
「この道を」
花を見る。
「わたくしは知っております」
「以前、歩いた?」
「いいえ」
「なら、なぜ」
「……分かりません」
シビウが額へ手を当てる。
「もう好きにしてくれ」
背後で、巨大な〈混沌〉がまた膨張する。
選択肢は多くなかった。
「行こう」
キースが決める。
「キース?」
「ローゼンが一度会った相手なら」
黒を見る。
「少なくともソーサイアよりは話ができる」
「比較対象が最低すぎないかい?」
「それでも今は十分だ」
キースは最初の花へ足を置いた。
沈まない。
湖へ浮かぶ一輪の花が、人ひとりの重さを受け止める。
「これ、本当に夢なんだろうね」
シビウが続く。
「現実なら花がかわいそうだ」
「その感想なのか」
「踏んでるあんたが言うんじゃないよ」
メルリル。
フユ。
ローゼン。
五人は銀の湖を渡っていく。
背後には《ガイアの臍》の古都。
前方には《夢》の花野。
そのどちらも消えず、同じ視界の中に存在していた。
*
湖を半ばまで渡った時、黒い影が横手に現れた。
「……ケーオス?」
ローゼンが呟く。
以前、キースと彼女を〈混沌〉から送り出した黒い人影。
同じものに見える。
けれど、今回も形は定まらない。
男。
女。
獣。
外套をまとった者。
あるいは、ただ何もない人型の影。
「お前なのか?」
キースが尋ねる。
返事はない。
人影は、背後で膨張する巨大な〈混沌〉を見る。
その中にはソーサイアがいる。
ケーオスの一部なのか。
ケーオスとは別なのか。
そもそも、この影を一つの存在として数えること自体が正しいのか。
「さっきの黒と」
キースは尋ねる。
「お前は、同じものなのか」
人影が僅かに頭を傾けた。
「答える気はないか」
やはり何も言わない。
ただ、道の先へ手を向けた。
「行け、と?」
ローゼンが尋ねる。
黒い人影は、一瞬だけ人の姿へ近づいたように見えた。
そして、無数の花びらへ溶けるように消えた。
「……本当に説明してくれないな」
キースが呟く。
「前回もそうでございました」
「助けてくれるだけまし?」
シビウが言う。
「味方と決まったわけじゃない」
「そこはまだ疑うんだ」
「助けられたことと」
キースは言った。
「正体を知っていることは別だ」
「はいはい」
湖の先に、一人の女が立っていた。
*
ローゼンは足を止めた。
あの人だ。
《夢》で一度、会った。
美しい。
けれど、何が美しいのか説明できない。
若い女に見える。
次の瞬間には、永い時を生きた者にも見える。
髪は長い。
その色を決めようとすると、白にも、金にも、黒にも見えた。
瞳も同じだった。
優しい。
怖い。
懐かしい。
知らない。
見る者が言葉を与えようとするほど、その言葉の外へ零れていく。
彼女の足元では、花々が一斉に頭を垂れていた。
「……お久しゅうございます」
ローゼンが言う。
「《精霊の君》」
女は微笑んだ。
「お久しぶりです、ローゼン」
その声。
間違いない。
《夢》で聞いた声だ。
「わたくしを」
ローゼンが息を呑む。
「覚えていらっしゃるのですね」
「ええ」
「《夢》は……」
ローゼンは周囲を見る。
「閉じたはずでは?」
「閉じました」
「では」
銀色の湖。
花。
古代都市。
「ここは?」
女は湖面へ視線を落とした。
「どこでしょうね」
「……分からないのでございますか?」
「《どこ》という問いが」
女は静かに答える。
「今も以前と同じ意味を持っているのか」
一拍。
「それを私は確認できていません」
キースが僅かに眉を上げた。
分からない。
この女も、そう言う。
けれど、ソーサイアとは違う。
分からないからといって、世界を壊して確かめようとはしない。
「あなたが」
キースは前へ出た。
「《精霊の君》?」
「そう呼ばれています」
「《姫》?」
女が微笑む。
「そう呼ばれたこともあります」
以前、《夢》でローゼンが聞いた答えと同じだった。
「なら」
キースは、もう一つ問いを置いた。
「あなたは何者なんだ」
女はキースを見る。
「難しい質問ですね」
「名前を聞いている」
「どの名前でしょう」
「……どの?」
「人は」
女は湖面を歩き始めた。
水は揺れない。
「長く存在すると、多くの名を持つことがあります」
「異名?」
「それも」
「役割?」
「それも」
「別の人格?」
女が少しだけ笑った。
「それも、あり得ます」
キースは、そこで問いを止めた。
急いで一つへまとめない。
「では」
ローゼンが尋ねる。
「今、わたくしたちは」
一度、息を整える。
「あなた様を、何とお呼びすればよいのでしょう」
女は長いあいだ、ローゼンを見つめた。
そして初めて、自分について語った。
「私は」
一拍。
「サーガと呼ばれたことがあります」
キースの呼吸が止まった。
*
「サーガ……?」
メルリルの声が掠れる。
三つの創世歌。
第一歌。
サーガが先にあり、ケーオスを生み、ケーオスよりコスモスが生まれた。
第二歌。
ケーオスとコスモスがすでに存在し、それらを記す者としてサーガが現れる。
第三歌。
世界はすでにあり、古い記録にはケーオスやコスモスへ似た語があり、サーガという名はその後に現れる。
「まさか」
キースは女を見る。
「創世歌の」
「かもしれません」
「……かもしれない?」
「私は」
女は穏やかに訂正した。
「サーガと呼ばれたことがある、と申し上げました」
そして、
「《私が、あなたの知るすべてのサーガである》とは」
静かに、
「申し上げていません」
キースの表情が変わる。
小さな違い。
けれど、決定的な違いだった。
「では」
メルリルが一歩進む。
「別のサーガが存在する可能性が?」
女はすぐには頷かなかった。
「《別》と言い切るのも」
少し考え、
「正確ではありません」
「どういう意味ですの?」
メルリルが食いつく。
女は言葉を選んだ。
「神格は」
一拍。
「ときに一つの《貌》をもって、世界へ現れることがあります」
「貌?」
キースが聞き返す。
「はい」
「それは」
キースは慎重に考える。
「神格本人とは別の存在?」
「いいえ」
女は首を振った。
「貌は、その神格と別の存在ではありません」
「同じ?」
「はい」
「でも」
キースが眉を寄せる。
「それだけじゃない」
女の口元へ、僅かな笑みが浮かぶ。
「その神格のすべてでもありません」
キースは、しばらく黙った。
「つまり」
言葉にする。
「あなたは、サーガだ」
「はい」
「でも」
目の前の女を見る。
「サーガという存在のすべてではない」
「今は」
女は答えた。
「その理解が近いでしょう」
「今は?」
「これ以上を説明しようとすれば」
少しだけ笑う。
「別の言葉が必要になります」
「聞きたいですわ!」
メルリルが即座に身を乗り出した。
「やめろ」
キースが止める。
「なぜですの!」
「今聞いたら絶対もっと分からなくなる!」
「だからこそ聞くのでしょう!」
「危機の真っ最中だぞ!」
「創世神話に名前のある存在が、神格の構造について説明してくださるのですわよ!」
「気持ちは分かる!」
「分かるのですか!」
「ものすごく分かる!」
「なら!」
「だから駄目なんだ!」
シビウが額を押さえた。
「研究馬鹿が二人いると面倒だねえ」
フユは花を見ていた。
「貌」
「何だ?」
キースが見る。
「顔?」
「私も最初そう思った」
「違う?」
女がフユへ微笑む。
「違うとも言い切れません」
「また増えた!」
キースが頭を抱えた。
女は少し楽しそうだった。
*
「では」
キースはひとまず問いを変えた。
「あなたは」
サーガと呼ばれた女を見る。
「精霊戦争のことを覚えている?」
女の表情は変わらない。
「記録を持っています」
「覚えている、ではなく?」
「はい」
キースの眉が動いた。
だが、その違いを掘るのは今ではない。
「ヴァギュイザールは、後世に《精霊戦争》と呼ばれるものは一つの戦争ではなかったと言った」
「そのように記した資料があります」
「《姫》と《王》の戦争は、その一部?」
「そのように整理できる記録があります」
「あなた自身は?」
女は少しだけ、キースを見る目を変えた。
「私自身の理解と」
静かに、
「私が保持している記録を、今ここで同じものとして扱わない方がよいでしょう」
キースは一拍置いて頷いた。
「分かった」
そして、以前から聞きたかった問いへ進む。
「精霊戦争のあと」
空気が僅かに変わった。
「何が起きた?」
誰も口を挟まない。
「どうして」
キースは続ける。
「黄金の時代は終わった」
一つ。
「古い精霊たちの時代が終わって」
二つ。
「そのあと」
現在の歴史を思い浮かべる。
「エルフたちの白銀の時代になった?」
女は、すぐには答えなかった。
銀色の湖へ花びらが一枚落ちる。
けれど、水面は揺れない。
「一つの答えとして」
やがて、
「記録されていません」
「一つじゃない?」
「はい」
女は静かに語り始めた。
「《姫》が《王》を退け」
一つ。
「古い戦争が終わった」
後世の歴史。
「そう記す資料があります」
「それは知っている」
「別の資料では」
女は続ける。
「戦争の終結よりも」
一拍。
「古い存在たちが、それまでと同じ形では世界へ留まりにくくなったことを、黄金の終焉としているものがあります」
キースの表情が変わる。
ヴァギュイザール。
戦争の終わりより前から、精霊の道が閉じた。
古い精霊が姿を保てなくなった。
神々の直接顕現が減った。
「では」
「ほかには」
女はまだ続ける。
「精霊たちが世界から去った、と記す資料があります」
「去った?」
「はい」
「どこへ?」
「その資料は、それを明確には記していません」
「別の記録は?」
「去ってはいない、と記すものもあります」
「……逆じゃないか」
「はい」
「では何が変わった?」
「精霊たちが」
女は言葉を選んだ。
「それまでと同じ形では、観測されなくなった」
「観測?」
「そのように記した資料があります」
キースは、すぐに《メレグ=ナフ》やソーサイアの《逆流》へ結びつけようとする自分を止めた。
似ている。
でも、同じ原因だとは限らない。
「そして」
女は続ける。
「その後」
銀色の湖へ視線を向ける。
「エルフと呼ばれる者たちが、長い文明を築いた記録があります」
「白銀の時代」
「そう呼ぶ時代区分があります」
「あなたは」
キースは慎重に尋ねた。
「黄金の時代が終わったから、エルフの時代が始まったと思う?」
「私は」
女は静かに答える。
「《終わったから始まった》という一つの因果として」
一拍。
「記しません」
「では」
「黄金の時代の変化と」
女は続ける。
「精霊戦争の終結と」
さらに、
「後のエルフ文明の成立」
三つ。
「それらが近接した歴史として記録されていることはあります」
「でも」
「どれが原因で」
一拍。
「どれが結果だったのか」
女の声は変わらない。
「あるいは、もっと根本的に、一つの原因と結果へ結べる出来事だったのか」
女は首を横へ振った。
「一つには定められません」
キースは、しばらく黙った。
欲しかった答えではない。
けれど、ヴァギュイザールの証言とも矛盾しない。
戦争の終わり。
黄金の終わり。
白銀の始まり。
後世の歴史書では、数頁で繋がる。
けれど、実際の世界はもっと複雑だった。




