第四十一章 蒼魔の君の終わり
《ガイアの臍》を渡った秋の風が、ソーサイアの蒼い法衣を大きく翻した。
人間魔導によって生み出された風ではない。〈混沌〉から新たな現象を組み上げたのでもなかった。春に芽吹き、夏に熱を巡らせた世界そのものが、次の季節へ移ろおうとしている。その流れへ、フユとキースが触れている。
キースには、まだフユのように自在に扱うことはできない。それでも、これまで使ってきた魔導とは決定的に違うことだけは分かった。
何もない場所へ現象を命じるのではない。
すでに世界の中にあるものへ、そっと手を添える。
自分一人で術を成立させている感覚がない。むしろ、世界の側が許した僅かな動きへ、自分の指を遅れて重ねているようだった。
ソーサイアが右手を払った。
黒い膜が広がり、秋風を呑み込もうとする。
だが、消えない。
風は勢いを弱めながらも黒の内側を抜け、ソーサイアの長い蒼髪を揺らした。
「不愉快だな」
《蒼魔の君》の口元から、ついに笑みが消える。
「自分が喰えないものがあるから?」
シビウが地を蹴った。
《踊る剣》が伸びる。分節した刃が左右からソーサイアを挟み込むように襲いかかった。
ソーサイアは片側を黒い触手で払い落とした。しかし、魔導制御を切られたもう一方の刃は、ただの鋼鉄として慣性のまま軌道を変え、その脇腹を深く裂いた。
蒼い光が血のように飛び散る。
「シビウ!」
「まだ浅い!」
彼女は踏み込みを止めない。
ソーサイアが掌を向けると、足元の〈混沌〉から黒い槍が幾本も伸びた。シビウは身を捻ってかわすが、その一本が頬すれすれを通り抜け、背後の岩を音もなく削り取る。
「触れたら終わりですわよ!」
メルリルの声が飛んだ。
「分かってる!」
「でしたら、もう少し余裕を持って避けなさい!」
「余裕があったら苦労しないよ!」
メルリル自身は、もう攻撃魔導を撃たなかった。どれほど精密に術式を組んでも、ソーサイアへ届く前に吸収されることは分かっている。
だからこそ彼女は戦場の外周を走りながら、〈混沌〉の動きと、根を走る光の変化だけを追っていた。
「キース! 右側の黒が遅れています!」
「分かるのか?」
「四季が触れた場所だけ、再構成が遅いのです!」
キースはソーサイアの脇腹を見る。
シビウが刻んだ傷へ黒が集まり、塞ごうとしていた。しかし、フユの冬で冷え、秋風に晒された部分だけ、輪郭が安定していない。
「フユ!」
「見てる」
小さな妖精が両手を上げる。
「冬」
巨大な根の内側を流れていた水分が、一斉に冷えた。
氷そのものを作ったのではない。
そこにあった水が、冬へ移る。
ソーサイアの足元に霜が走った。
黒い影そのものは凍らない。それでも、影と現実の世界とが触れ合っている境界だけが白く浮かび上がる。
「そこだ!」
キースが叫ぶ。
シビウの刃が走った。
今度は胸。
蒼い法衣ごと深々と切り裂く。
ソーサイアの身体が大きく傾いた。
それでも倒れない。
開いた胸の奥に、肉も骨もなかった。
あるのは黒。
ただ〈混沌〉だけが、人の形を維持している。
「もう身体って呼んでいいのか怪しいね」
シビウが距離を取る。
「形など重要ではない」
ソーサイアは裂けた胸へ自ら手を入れた。
人の肉体なら致命傷であるはずの傷口へ指を差し込み、内側の黒を掴む。引き寄せるようにして傷を閉じると、蒼い法衣までゆっくり元の形へ戻っていった。
「名も、身体も、人格も、必要なら作ればよい。サファイアが証明した」
ローゼン。
その名を思っただけで、キースの表情が険しくなる。
「まだ同じことを言うのか」
「同じではない」
ソーサイアの蒼い瞳が光った。
「サファイアは、一つの人格についての実験だった。次は、もっと根源的なものを確かめる」
足元の〈混沌〉が脈打つ。
その奥に、ローゼンがいる。
*
自分の名前さえ、分からなくなりかけていた。
最初に失ったのは距離だった。
どちらへ進んでも同じ場所へ戻る。前も後ろもなくなり、近いという感覚も遠いという感覚も意味を失った。
次に時間が崩れた。
ラルソウムで過ごした幼い日。
キースに初めて出会った日。
人間だった自分が毒に倒れた夜。
それらが順序を失い、同じ瞬間に存在している。
そして今。
ローゼンには、自分がどの姿をしているのかさえ分からなかった。
白い髪。
深紅の瞳。
確かにある。
そう思った次の瞬間には、違う。
日焼けした人間の手。
酒場で働いていた頃の服。
キルスへ返そうとした金貨。
また景色が変わる。
死んだ身体。
胸へ沈む短剣。
自分の心臓を手に持つキルス。
「……違う」
ローゼンは声にした。
本当に声が出たのかどうかも分からない。
それでも言う。
「わたくしは、ローゼンでございます」
自分の名を呼ぶ。
以前、キースとともに〈混沌〉へ呑まれた時も、そうだった。
名を口にすると、自分の輪郭が僅かに戻る。
だが、今回は別の声が応じた。
『ローゼン』
ソーサイア。
姿はない。
思考だけが、〈混沌〉の全域から染み込むように届いてくる。
『君はキルスに愛された女だ』
「それは、人間だったローゼンです」
『同じ魂だろう?』
酒場。
丘。
月。
神殿。
キルスの手。
過去の記憶が押し寄せる。
『君は彼と出会い、彼を愛した』
「はい」
ローゼンは否定しなかった。
『彼の中へ宿った』
「それも、あったのだと思います」
『なら、なぜ拒む?』
人間ローゼンが現れる。
半透明の魂となり、キルスの隣へ立っている。
――ずっと、一緒にいよう。
過去の言葉。
『君は一度、キルスと一つになった』
ローゼンの身体が引かれた。
自分を形作る境界が、知らない男の魂へ溶け込もうとする。
「やめてください」
『なぜ? これは君の歴史だ』
「はい」
『では受け入れればいい』
「受け入れております」
一瞬。
ソーサイアの思考が止まった。
『……何?』
「人間だったローゼンは、キルス様を愛しておりました」
ローゼンは静かに言う。
「毒を盛られて死にました。そしてキルス様は、あの方の胸を裂き、心臓を食べ、その魂をご自分の中へ宿した」
忘れない。
綺麗な物語へもしない。
なかったことにも、しない。
「それは、わたくしの過去です」
〈混沌〉が揺れた。
「でも」
ローゼンは、もう一度自分の名を選ぶ。
「わたくしは、ローゼンでございます」
『だから同じだと言っている』
「いいえ」
白い髪が戻ってくる。
一房。
また一房。
「今のわたくしではありません」
*
外側では、ソーサイアの身体が突然大きく歪んだ。
「何だ?」
キースが異変へ気づく。
ソーサイアの右肩だけが、一瞬サファイアへ変わった。
深い青の上着。
銀糸の刺繍。
次の瞬間には、《蒼魔の君》の法衣へ戻る。
「ローゼン」
キースは直感した。
「中から何かしてる」
「何を?」
シビウが問う。
「分からない。でも、ソーサイアの形が崩れた!」
メルリルも異変を見ていた。
「形だけではありませんわ!」
彼女が根の上を指す。
ソーサイアの周囲に、無数の細い青線が浮かんでいる。
「これは?」
「構文です!」
「魔導式?」
「違います。もっと……」
メルリルは言葉を探した。
「名前と記憶を、ひとつの存在へ結びつけるための構造に見えます!」
青線の中に、文字とも概念ともつかないものが浮かぶ。
ローゼン。
キルス。
魂。
恋。
死。
再生。
同一。
それらが、ひとりの存在を固定するように互いへ結びつけられている。
「こいつ」
キースの顔が険しくなる。
「ローゼンを、過去のローゼンに戻そうとしている」
「戻す?」
言ってから、自分で首を振った。
「違う。固定しようとしている」
今のローゼン。
ラルソウムで育った。
精霊として生きた。
サファイアに育てられた。
《夢》へ行った。
キースと旅をした。
シビウと出会った。
メルリルと喧嘩じみた会話を交わし。
フユと歩いた。
それらすべてを、過去の人間ローゼンという一つの物語へ従属させようとしている。
「自分の解釈に合わせてるんだ」
唯一の読者。
ソーサイアが望んだ世界。
矛盾を許さない。
複数の過去を許さない。
ならば、一人の中に存在する複数の意味も許さない。
「ふざけるな」
キースの声が低くなった。
「ローゼンを、お前の読みやすい物語にするな」
ソーサイアが振り返る。
「読みやすい?」
その顔には明確な苛立ちが浮かんでいた。
「私は整合させているだけだ。魂は同じ。名も同じ。愛した相手の魂も同じ系譜へ続いている。ならば、同一人物として扱う方が合理的だろう」
「だから何だ」
「何?」
「合理的なら、本人もそうならなきゃいけないのか?」
キースは足元へ手を置いた。
春。
世界へ触れる。
命令はしない。
「ローゼンは、自分で答えを出した」
白い芽が伸びる。
「私はキルスではない」
キースは言う。
「ローゼンも、人間だったローゼンではない」
「魂が同じなのに?」
「魂が同じなら、人生まで同じになるのか?」
芽が開き、小さな花になる。
「過去は、現在への命令じゃない」
ソーサイアの黒が大きく膨らんだ。
「それは君たちの願望だ!」
「そうかもしれない!」
キースは否定しなかった。
「でも、お前の解釈だって同じだ!」
ソーサイアの瞳が見開かれる。
「何だと?」
「魂が同じだから同一人物。記録が繋がるから一つの物語。世界は一つの過去へ揃うべきだ」
キースは一つずつ、ソーサイア自身の思想を並べていく。
「全部、お前の読み方だろう!」
ソーサイアは、初めて言葉を失った。
*
「春!」
フユの声が響いた。
白い花が一斉に開く。
キースが呼び寄せた僅かな春とは違う。
フユの四季。
何千、何万もの根が同時に芽吹き、長く眠っていた《ガイアの臍》の深部へ生命の色が走り始める。
「そんなもの!」
ソーサイアが黒を広げる。
吸収しようとする。
だが、消えない。
「なぜ!」
「春だから」
フユは平然と答えた。
「答えになっていない!」
「フユにはなる」
根が伸び、ソーサイアの足首へ絡みつく。
「キース」
「分かってる!」
キースも手を伸ばす。
同じ春。
けれど、フユほど強く扱えない。
ならば、無理に増やす必要はない。
「少しだけ貸してくれ」
自分へ応じた一本の根だけを、ソーサイアへ伸ばす。
黒い触手が襲いかかった。
「シビウ!」
「任せな!」
《踊る剣》が横合いから触手を断つ。
一つ。
二つ。
三つ。
魔導制御を切り、ただの鋼として、シビウは切り続ける。
「メルリル!」
「左胸!」
「何が?」
「構文の収束点です!」
彼女は攻撃できない。
その代わり、見ていた。
「ソーサイア自身を維持する構文と、ローゼンを固定する構文が、一か所で繋がっています!」
「どこ!」
「シビウの二歩右!」
「分かりにくい!」
「動いてるんです!」
「もっと分かりやすく言いな!」
「そこ!」
メルリルが拾った石を投げた。
小さな石が、ソーサイアの胸の僅かに左へ当たる。
「それなら最初から投げな!」
「位置が変わったのです!」
シビウが跳ぶ。
刃を振り抜く。
ソーサイアが黒い壁を作った。
そこへキースの春が絡みつく。
吸われきらない。
ほんの一瞬だけ、黒の密度が薄くなった。
その隙間へ《踊る剣》が走る。
刃が、ソーサイアの胸を貫いた。
「――ッ!」
《蒼魔の君》が、初めて膝をついた。
*
『君はローゼンだ』
〈混沌〉の内側では、ソーサイアの声が焦りを帯び始めていた。
『キルスに愛されたローゼン。キルスと魂を分け合ったローゼン。死後も彼と一つになったローゼン』
「はい」
ローゼンは答える。
『なら、それが君だ!』
「違います」
『なぜ!』
黒の中へラルソウムが現れた。
大樹。
光る花。
石。
風。
幼いローゼン。
そこにサファイアがいる。
記憶。
ソーサイアが作ったのかもしれない。
世界が後から補ったのかもしれない。
それでも。
「わたくしは、ラルソウムで育ちました」
『それもソーサイアが作った記憶かもしれない』
「そうかもしれません」
『なら!』
「それでも」
ローゼンは幼い自分を見る。
大樹から落ちる。
誰かが受け止める。
サファイア。
演技だったのか。
世界が作ったものだったのか。
本当に途中からサファイアという人格が存在するようになっていたのか。
分からない。
「その記憶を持って、生きたのはわたくしです」
風景が変わる。
薔薇の香り。
メミス。
窓の少ない部屋。
十八歳の神官長。
「わたくしは、キース様を迎えに行きました」
竜の峠。
マーカス。
シビウ。
メルリル。
フユ。
《夢》。
《精霊の君》。
アムドア。
キルス。
「わたくしは、過去を見ました」
人間ローゼン。
その人生を。
「でも、見たから戻ったのではございません」
ローゼンは胸へ手を当てる。
精霊として生きてきた身体。
今の自分。
「それは、わたくしの過去です」
もう一度、はっきりと言う。
「今のわたくしではありません」
黒が割れた。
*
外側で、ソーサイアが絶叫した。
「何をした!」
キースたちにも見えた。
ローゼンを固定していた青い構文。
《キルス》。
《ローゼン》。
《同一》。
《結合》。
《愛》。
《魂》。
文字とも概念ともつかないそれらの間へ、新しい一本の線が入る。
ソーサイアが書いたものではない。
《今》。
続いて。
《ラルソウム》。
《精霊》。
《旅》。
《キース》。
《シビウ》。
《メルリル》。
《フユ》。
無数の関係が、今のローゼンを形作るものとして新しく結びついていく。
「駄目だ!」
ソーサイアが叫ぶ。
「そんなものは余分だ!」
「余分?」
キースの怒りが、かえって冷たくなる。
「それがローゼンだ」
「違う!」
ソーサイアは胸を貫いているシビウの剣を掴んだ。
黒いものが刃を伝い始める。
「離れな!」
シビウは即座に制御を切り、剣そのものを手放した。
そして腰の後ろへ手を伸ばす。
マーカスの大斧。
一瞬も躊躇しなかった。
「借りるよ、馬鹿!」
大斧を両手で握り、全身の力で振り抜く。
ソーサイアの右腕が飛んだ。
蒼い光。
黒い飛沫。
「シビウ!」
「まだだ!」
切断された腕が黒へ戻ろうとする。
「フユ!」
「夏」
熱が巡る。
春によって動き始めた根の内部から、一斉に。
黒が吸収しようとする。
できない。
「キース!」
フユが叫ぶ。
「夏!」
「分かってる!」
キースも世界へ手を添える。
「少しだけ!」
根を巡っていた熱が強く流れ始める。
ソーサイアの黒い身体が、内側から揺れた。
「やめろ!」
《蒼魔の君》の声に、初めてはっきりと恐怖が混じった。
*
「なぜだ」
ソーサイアは、自分の身体を見下ろした。
再生しない。
四季に触れた場所。
シビウに切られた傷。
そこから、人の形を維持していた構文そのものが少しずつほどけ始めている。
「私は世界の構造を理解した」
「理解したつもりだったんですの」
メルリルが言った。
「何?」
「あなたは、観測と記録が現実へ作用することを見つけた。サファイア様を作り、実際に世界が過去を補う現象まで観測した」
「それがどうした!」
「でも」
メルリルは崩れていく青線を見る。
「世界は、あなたの命令どおりに補ったわけではなかった」
サファイア。
ソーサイア自身が知らないところで。
彼の想定を越えた人格へ育っていったかもしれない存在。
「サファイアは、お前の解釈からはみ出した」
キースが言う。
「ローゼンも同じだ」
「違う!」
「違わない」
「私は!」
ソーサイアが〈混沌〉を集める。
「私が読む!」
世界の唯一の読者。
「私が名づける!」
黒が再び身体を包み、人型へ戻ろうとする。
「私が!」
その時。
内側から声がした。
「いいえ」
ローゼン。
その場にいる全員に、はっきり聞こえた。
〈混沌〉の中から。
「わたくしの名前は」
黒い身体の胸へ、白い亀裂が走る。
「わたくしが名乗ります」
ソーサイアの瞳が見開かれた。
「ローゼン」
白い髪が一房、黒の中から現れる。
「ローゼン」
深紅の瞳。
「ローゼン」
白い手。
「わたくしは」
その手が、ソーサイアの胸を内側から押し開く。
「ローゼンでございます」
構文が崩れた。
*
音はなかった。
それでもキースには、世界のどこかで巨大な文章が破れたように感じられた。
ソーサイアを包んでいた無数の青線が、一斉に切れていく。
サファイア。
《蒼魔の君》。
唯一の読者。
魔導。
〈混沌〉。
人としての形。
彼が長い時間をかけて積み上げてきたあらゆる構文が、互いを支えられなくなっていた。
「待て」
ソーサイアが自分の胸へ手を伸ばす。
「違う」
指先から黒へ崩れていく。
「私は」
顔の半分が、サファイアのものへ変わった。
青灰色の髪。
穏やかな表情。
次の瞬間にはソーサイアへ戻り、またサファイアへ変わる。
「私は……」
黒の中から現れたローゼンが、その顔を見た。
「サファイア様」
その呼び方に、男の動きが止まった。
「……」
「あなた様が本当に、どこから存在していたのか」
ローゼンの目から涙が落ちる。
「わたくしには、分かりません」
サファイアの顔が、苦しそうに笑った。
「私にも……」
一瞬。
その声は、ソーサイアのものではなかった。
「分からないよ、ローゼン」
ローゼンの涙が増えた。
それでも、彼へ手を伸ばしはしない。
「はい」
サファイアの顔が、再び《蒼魔の君》へ戻った。
「なら!」
ソーサイアが叫ぶ。
「なぜ私を拒む!」
ローゼンは静かに首を横へ振った。
「サファイア様を否定しているのではございません」
「……」
「あなた様が、わたくしを一つの過去だけへ閉じ込めることを拒んでいるのです」
ソーサイアの瞳に、理解できないという色が浮かぶ。
「物語には」
ローゼンは静かに続けた。
「続きがございます」
その言葉とともに、最後の青線が切れた。
*
ソーサイアの身体が崩れた。
蒼い法衣。
長い髪。
腕。
顔。
それらすべてが黒い粒へ変わり、《ガイアの臍》の根の上へ降り注ぐ。
「ローゼン!」
キースが走った。
崩れ落ちた胸の内側から、白い身体が落ちてくる。
「ローゼン!」
受け止める。
重さ。
温度。
確かな身体。
白い髪。
深紅の瞳。
「キース……様」
掠れた声が返った。
「分かる?」
「はい」
「名前は?」
ローゼンは少しだけ笑った。
「また、それをお尋ねになるのでございますか?」
キースの目から、自分でも気づかないうちに涙が落ちた。
「確認だ」
「ローゼンでございます」
「ああ」
抱きしめたい。
そう思った。
けれど、一瞬だけ腕を止める。
先にローゼンが、自分からキースの衣を掴んだ。
だから今度は、迷わず腕を回した。
「帰ってきた」
「はい」
「本当に」
「はい」
それ以上の言葉は続かなかった。
*
「感動しているところ悪いけど!」
シビウの声が飛んだ。
「まだ終わってないよ!」
キースが振り返る。
ソーサイアの身体は、もうない。
だが、崩れた黒い粒――〈混沌〉そのものは消えていなかった。
それらは《ガイアの臍》の根の間へ集まり、ゆっくりとさらに深い場所へ流れ込もうとしている。
「再生?」
メルリルが身構える。
「分かりません!」
「ソーサイア!」
キースが呼ぶ。
返事はない。
黒は人の形を取らないまま、根の下へ、さらに深いところへ沈んでいく。
「追う?」
シビウが尋ねる。
「待て」
キースはローゼンを支えたまま、黒い流れを見つめた。
「今のソーサイアの構文は壊れた」
「でも、本人が死んだとは限らない?」
「ああ」
メルリルもゆっくりと頷いた。
「少なくとも、《蒼魔の君》として人型を維持していた構造は崩壊しました。でも、〈混沌〉へ溶けた意識まで消滅したかどうかは観測できません」
フユは、沈んでいく黒をじっと見ていた。
「まだいる」
全員が彼女を見る。
「ソーサイア?」
「たぶん」
「どこに」
フユは足元を指した。
世界の根の、さらに下。
「もっと奥」
嫌な沈黙が落ちる。
ローゼンがキースの腕の中で、僅かに身体を起こした。
「聞こえます」
「何が?」
遠い。
あまりにも遠い。
世界の底で、何かがゆっくり呼吸している。
そんな音。
「ソーサイアでは」
ローゼンは目を閉じ、意識をそこへ向ける。
「ございません」
「では?」
「分かりません」
それでも、何か巨大なものがそこにある。
黒。
形を持たないもの。
《ガイアの臍》の根よりも、さらに深い場所。
長いあいだ、眠り続けていたような何か。
その時、メルリルが顔を上げた。
「根が……」
それまで青白い光を帯びていた《世界の根》から、ゆっくりと色が失われていく。
白。
黒。
その境界さえ曖昧になり始める。
「何が起きてる!」
「分かりません!」
空間そのものが揺れた。
キースはローゼンを抱き寄せる。
「立てる?」
「少しなら」
「無理するな」
「ですが」
ローゼンが遠くを見る。
本来、そこには何もない。
それなのに。
「知っております」
「何を?」
深紅の瞳が大きく開いた。
「この感じを」
花。
水。
白い湖。
昼も夜もない空。
「《夢》……?」
その一言とともに、《ガイアの臍》の闇へ一輪の花が咲いた。




