↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【新約】ローゼン・サーガ  作者: 秋月キアラ
第七部 真世界と呼ばれた朝
PR
40/52

第三十九章 王は何をしたのか

 キロスは祭壇の前で膝をついたまま、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。


「……帰ってきた」


 自分の口から零れた言葉を、誰より理解できていないのは本人だった。


 廃墟となった古都に人影はない。広場を渡る風もなく、先ほど遠くから響いた鐘も、今は沈黙している。それでもキロスの瞳だけは、目の前には存在しない何かを追っていた。


 キースが慎重に近づく。


「何が帰ってきた?」


「知らないよ」


 返ってきたのは、キロス自身の声だった。


「本当に知らない。でも……」


 少年は胸元を押さえ、崩れた塔を指した。


「ここに来てから、ずっと変なんだ。僕が見てるものと、《王》が見てるものが重なってる。僕には、半分なくなった塔にしか見えない。でも向こうには旗がある。青と白の旗。上の階には人がいて、誰かが鐘を鳴らしてる」


 次に、巨大な根によって割られた広場へ視線を移す。


「僕には石しか見えない。でも《王》は、ここで誰かと話してた。たくさんの人がいる。精霊も、人間みたいな人も……もっと大きい奴も」


 キースは欠けた巨人像を振り返った。


「巨人?」


「分からない。見ようとすると、別の景色まで一緒に来るんだ」


 キロスが頭を抱える。


 メルリルは彼の傍へ膝をつき、顔を覗き込んだ。


「無理に思い出さないでくださいませ。あなた自身の記憶ではございません」


「分かってる」


 キロスは苦笑した。


「でも、分かってるってだけで止められたら楽なんだけどね」


 その瞬間だった。


 祭壇の下を走る巨大な根が、どくん、と脈打った。


 木でも石でもない何かの内部を、青白い光が走る。


 一本。


 続いて二本。


 それまで暗く沈んでいた《ガイアの臍》の根が、遠い空洞の彼方まで連鎖するように輝き始めた。


「下がれ!」


 シビウが《踊る剣》を抜く。


 キースも身構えたが、根が襲いかかってくる様子はなかった。光は祭壇の周囲を巡り、やがてキロスの足元まで伸びてくる。


「キロス!」


「待って」


 少年が顔を上げた。


「来る」


「何が?」


「《王》が」


 その瞳から、キロスらしい軽さが消えた。


          *


 最初に見えたのは、戦場だった。


 キースたちは祭壇の前から動いていない。それなのに、廃都の姿へ別の時代の景色が薄く重なり始める。


 都市はまだ生きていた。


 地底の空には光が満ち、塔には旗が翻り、広場を武装した精霊たちが駆け抜けている。


 その中央に、一人の男がいた。


 姿は、どうしても正確には捉えられない。若く見えたかと思えば、次には老いているようにも見える。王冠はない。それでも、周囲のすべての者が彼を《王》として扱っていることだけは、説明されずとも分かった。


 キロスが低い声で言った。


「私は《姫》と戦った」


 本人の声ではない。


 《王》。


 後世に《精霊戦争》と呼ばれた戦いの、もう一方の中心。


 景色が動いた。


 対岸に、長い髪を持つ女が立っている。


 《姫》。


 二つの軍勢が向かい合い、武器を構える。《王》が片手を上げると、戦いが始まった。


 光と炎が交錯する。


 その狭間を、黒い何かが走る。


 衝撃が空そのものを裂いたように見えた。


「これが……精霊戦争?」


 メルリルが呟く。


 だが、キロスの顔が激しい苦痛に歪み、重なっていた景色が崩れた。


「違う……」


「キロス?」


 次の瞬間には、同じ都市、同じ広場、同じ《姫》が現れていた。


 しかし、配置が違う。


 今度の《王》は、《姫》の前に立っていた。


 敵としてではない。


 守るように。


 都市へ押し寄せる黒い奔流を前に、《王》は両腕を広げ、自分の背後へ《姫》を庇っている。


「私は《姫》を守った」


 キロスが言った。


「待て」


 キースの声が漏れる。


「さっきは戦ったと――」


「知らない!」


 キロス自身の声へ戻った。


「僕だって知らないよ!」


 頭を抱える。


 それでも記憶は止まらなかった。


 三つ目の景色が現れる。


 今度は都市ではない。


 もっと深い場所。


 巨大な根。


 現在の《ガイアの臍》とよく似ている。


 ただ、その根の間を黒いものが流れていた。


 〈混沌〉。


 その前には、何者かが立っている。


 顔は見えない。


 名も聞こえない。


 ただ、世界そのものを形のない状態へ戻そうとしている――そんな意志だけが、記憶を通じて流れ込んでくる。


 《王》は、その何者かへ剣を向けた。


「私は」


 古い声が響く。


「世界を〈混沌〉へ還そうとする者に反逆した」


 キースの背筋を冷気が走った。


 ソーサイア。


 一瞬、そう連想する。


 けれど、これは遥か昔の記憶だ。


 同じ目的を持つ別の存在なのか。


 そもそも、その相手が一人の存在だったのか。


 何一つ分からない。


 三つの光景が、互いを否定しながら重なり合う。


 《姫》と戦う《王》。


 《姫》を守る《王》。


 世界を〈混沌〉へ還そうとする何者かへ反逆する《王》。


「どれだ!」


 キロスが叫んだ。


「どれが本当なんだよ!」


 返事は、彼自身の喉から出た。


「どれも覚えている」


 キロスの身体が震えた。


「そんなの、答えになってないだろ!」


「どれも」


 《王》の声が繰り返す。


「覚えている」


「だったら、何が起きたんだ! 《姫》と戦ったのか、守ったのか! 戦争を始めたのは誰なんだ! 世界を壊そうとしたのは誰なんだ!」


 どの問いにも、《王》は答えなかった。


 ただ、互いに矛盾する記憶だけがそこに残った。


          *


 キロスは両手を石床についた。


「もう嫌だ」


 声が震えている。


「知らない奴の人生が、自分の記憶みたいに出てくる。知らない街を懐かしいと思う。会ったこともない人を見て、好きだったとか嫌いだったとか……」


 拳が石を打つ。


「何なんだよ、僕は」


 キースは答えようとした。


 その時、足元の根が再び脈打ち、今度は彼へ向かって光を伸ばした。


「……え?」


 祭壇から一本の細い光が走ってくる。


「キース!」


 シビウが腕を掴もうとする。


「待て」


 キースは動かなかった。


「攻撃ではない」


「何で分かる!」


「分からない。でも……」


 胸が熱い。


 イースではなかった。


 魔導を使う時に意識する場所とも違う。


 もっと深い。


 アムドアの〈混沌〉の中で、キルスの記憶へ触れた時と同じ場所。


「キルス……」


 その名を呟いた瞬間、光がキースの胸へ入った。


          *


 痛みはなかった。


 代わりに、自分が三人になったような感覚が押し寄せた。


 キース。


 白い神官服をまとった男――キルス。


 そして、それより遥かに古い影。


 《王》。


 三つの人影が一瞬だけ、巨大な根を走る光の中へ映し出された。


「……何ですの」


 メルリルの声が震えた。


「今の」


 キースにも見えていた。


 三人の姿は違う。


 生きた時代も。


 名前も。


 人生も違う。


 けれど、その胸の中央には同じ光があった。


 小さな核。


 魂と呼んでよいものなのか、キースには分からない。


 ただ、三者の同じ位置で、同じ形の光が脈打っている。


「フユ」


 メルリルが小さな妖精を見る。


「あなたには、どう見えます?」


 フユはじっとキースを見つめていた。


「つながってる」


「何が」


「中」


「魂?」


「名前は知らない」


 フユは首を振る。


「でも、《王》とキルスとキース。同じところから続いてる」


 キースの呼吸が止まった。


 メルリルは今度、キロスへ視線を移す。


「では、キロスは?」


 フユはすぐに答えた。


「違う」


 キロスが顔を上げる。


「……違う?」


「キロスの中には、《王》の中がない」


「何それ」


「外についてる」


 フユは自分の胸を指した。


「キースは、ここ」


 次に肩や背中の周囲を指す。


「キロスは、こっち」


「内側と外側?」


 キースが尋ねる。


「うん」


 メルリルも光の動きを凝視していた。


「確かに」


「君にも分かるのか?」


「分かるというより、現象として見えています」


 彼女は祭壇を指した。


 キースの足元では、根から伸びた光が身体の内側へ入っている。


 一方、キロスを取り巻く光は肉体の中へは入らず、身体の外側を幾重にも巡っていた。


「同じ反応ではありませんわ」


 メルリルの声が低くなる。


「キースに対しては、この構造が本人そのものを《王》と同系統の対象として認識しているように見える。でも、キロスには……」


「付属しているもの?」


 シビウが言った。


「そう見えます」


 キロスは呆然と自分の両手を見つめた。


「じゃあ」


 小さく呟く。


「僕は《王》じゃない?」


「私は」


 キースが答えた。


「そう思う」


「でも、記憶がある」


「ああ」


「力も」


「ああ」


「《王》の声もする」


「それでも」


 キースは自分の胸へ手を置いた。


「君自身の中心は、《王》とは別だ」


 キロスは長いあいだ、何も言わなかった。


          *


「じゃあ」


 ようやく口を開く。


「《王》だったのは」


 キースを見る。


「君なの?」


 その問いに、キースはすぐには答えなかった。


 根の光。


 《王》。


 キルス。


 キース。


 同じ核。


 何かが続いている。


 少なくとも、この古代構造はそのように反応した。


 フユも、同じ繋がりを感じている。


 キース自身もキルスの記憶を持ち、そして今、《王》の記憶へ触れた時、そこに奇妙な懐かしさを覚えている。


「《王》からキルスへ」


 メルリルが慎重に言った。


「そしてキルスからキースへ。同じ何かが連続している、と考えるのが一番自然ですわね」


「魂?」


 シビウが尋ねる。


「そう呼んでもよいのかもしれません。でも、わたくしたちは魂そのものを測定したわけではありません」


「なら、魂核」


 キースが言った。


「仮に、そう呼おう」


 今は、分類のための仮称でいい。


「同じ魂核が、《王》からキルス、キルスから私へ続いている可能性が高い」


「転生?」


 キロスが尋ねる。


 キースは首を横へ振った。


「その言葉一つで、全部を分かったことにはしたくない」


「でも」


「続いていることと、同じ人間であることは違う」


 それは、すでに自分自身について選んだ答えだった。


「私はキルスではない」


 キースは言った。


「キルスの記憶を持っている。魂まで同じなのかもしれない。それでも、私はキースだ」


 そして、根の光の向こうに残る《王》の影を見る。


「《王》だったのは、私のずっと前だ」


 キロスの目が揺れる。


「なら」


 キースは、はっきりと言った。


「それでも私は《王》ではない」


 過去を否定するわけではない。


 受け継ぐことまで拒む必要もない。


 けれど、従う必要もない。


「《王》でもない。キルスでもない。私はキースだ」


 キロスはその言葉を長く聞いていた。


 やがて、小さく笑う。


「そっか」


「何だ」


「なんか」


 目元を拭った。


「先に答え言われたみたいで、ちょっとずるい」


「何の?」


「僕もさ」


 キロスは自分の胸を軽く叩いた。


「僕は《王》じゃない」


 今度は、自分自身の声で言う。


「《王》の記憶があっても。力があっても。昔の街を見て泣いちゃっても。それは、僕が《王》だったからじゃない」


「ああ」


「《王》だったのは」


 キースを見る。


「君の、ずっと前だ」


 キースも少し笑った。


「そうらしい」


「でも君も《王》じゃない」


「ああ」


「じゃあ」


 キロスは、ようやく少しだけ、いつもの軽さを取り戻した。


「《王》本人、どこにもいないじゃん」


「もう死んだのかもしれない」


「残ってるものばっかりだね」


「それが過去というものだろう」


 キロスは顔をしかめた。


「嫌な言い方」


 それでも、笑っていた。


          *


 そこで、再び根が脈打った。


 今度はキロスの身体を取り巻いていた《王》の残滓へ、光が集まり始める。


「何?」


 キロスが振り返る。


 残滓が目に見える形を取り始めた。


 これまで気配や光としてしか捉えられなかったものが、薄い人影になる。


 《王》。


 ただし、顔はない。


 身体も確かなものではなく、輪郭だけが人の形を保っている。


 その影から一本の光が伸びた。


 キースへ。


「キース!」


 メルリルが叫ぶ。


 キースは動けなかった。


 胸の魂核が激しく反応している。


 呼ばれている。


 引き合っている。


「まずい」


 キロスがすぐに気づいた。


「これ」


「何が?」


「《王》が戻ろうとしてる」


 キースの顔が強張る。


「私へ?」


「たぶん」


 《王》の魂核。


 《王》の残滓。


 本来、一つだったもの。


 それらが今、同じ場所へ揃っている。


「離れろ!」


 キースが叫ぶ。


「どうやって!」


「私に聞くな!」


 残滓がキロスの身体から剥がれ始め、光となってキースへ伸びてくる。


「駄目!」


 フユが二人の間へ飛び込んだ。


「フユ!」


「キースに戻しちゃ駄目」


「なぜ?」


 フユは珍しく、強い声で言った。


「混ざる」


 キースの胸が冷えた。


 《王》の魂核。


 記憶。


 意志。


 権能。


 それらすべてが、現在の自分へ戻ったら。


 どこまでがキースとして残るのか。


「私が《王》へ戻る……?」


「分からない」


 フユは首を振った。


「でも、増える」


 キロスが《王》の残滓を見つめる。


「じゃあ」


 笑った。


「返さなきゃいい」


「簡単に言うな!」


「だって、僕の中にあったんだから」


「何をするつもりだ」


「手放す」


 キロスは立ち上がった。


          *


「待て」


 キースが制止する。


「それを失ったら、君はどうなる」


「知らない」


「君!」


「でも」


 キロスは思いのほか穏やかだった。


「今まで僕は、《王》の力があったから役に立てると思ってた」


 旅の中で、人を助けた。


 圧倒的な術も使った。


 普通の人間にはできないことを、幾つも成し遂げた。


「これがなかった頃の僕は、何やっても駄目でさ」


 いつもの軽口の奥に、ずっと隠していた不安が滲む。


「魔導の才能はあった。でも上手くならなかった。格好つけても失敗するし、いざって時には怖くなるし。だから、《王》が来てから、やっと自分にも価値ができた気がしてた」


 シビウは何も言わず、ただ彼を見ている。


「でも」


 キロスはフユを見る。


「フユちゃんを助けようって決めたのは、《王》じゃない」


 フユが瞬きをした。


「ここまで来たのも」


 シビウ。


 メルリル。


 キース。


 一人ずつ見ていく。


「《王》に言われたからじゃない」


 キースは静かに頷いた。


「なら」


「うん」


 キロスは笑った。


「もう、いいかなって」


 残滓へ手を伸ばす。


 影の指と、少年の指が重なった。


「ありがと」


 誰へ言ったのかは分からない。


 《王》へ。


 あるいは、自分を救ってくれたと思っていた力へ。


「でも」


 キロスの声が震えた。


「これは僕じゃない」


 《王》の影が揺れた。


          *


 その瞬間、また《王》の記憶がキースの頭へ流れ込んだ。


 《姫》と戦う。


 《姫》を守る。


 〈混沌〉へ世界を還そうとする何者かへ反逆する。


 三つの過去が同時に流れ込み、どれも他と同じほど鮮明だった。


「待って!」


 キロスが影へ叫ぶ。


「最後に、一つだけ」


 《王》は答えない。


「どれが本当だったか」


 問いかける。


 影が彼を見る。


「……いや」


 キロスは自分で首を振った。


「やっぱり、いい」


 キースが目を見開く。


「決めなくていい」


 キロスは言った。


「《王》が何をしたのか。どの過去が本当だったのか」


 戦った。


 守った。


 反逆した。


「僕が決めることじゃない」


「キロス」


「僕は《王》じゃないから」


 影は何も言わない。


「どれも覚えてるなら」


 少年は少し寂しそうに笑った。


「どれも置いてってよ」


          *


 《王》の残滓が光へ変わった。


 本来なら、キースへ向かう。


 魂核へ戻ろうとする。


 キロスは両腕で、その流れを押し止めた。


「そっちじゃない!」


 歯を食いしばる。


「キースに行くな!」


 根が応じるように脈打った。


 《ガイアの臍》。


 フユが《世界の根》と呼んだもの。


「フユちゃん!」


「なに」


「これ、ここに返せる?」


 フユは光を見る。


「できるかも」


「どうやって!」


「返すって思って」


「君の説明、ほんと最後までそれだね!」


「早く」


「はいはい!」


 キロスは残滓を巨大な根へ向けた。


「《王》」


 そう呼ぶ。


「君の人生は、もう終わったんだろ」


 答えはない。


「終わったかどうかも分かんない?」


 少し笑う。


「まあ、そうだよね」


 《ラグナ――》。


 終わった戦争の名だと思うな。


 この世界では、《終わった》という言葉さえ簡単には使えない。


「でも」


 キロスは自分の胸を叩いた。


「僕の人生は、ここからも続く」


 残滓を押し出す。


 光が根へ触れた。


 一瞬、世界最深部の巨大空洞すべてが、昼のような輝きに満たされた。


          *


 《王》が散っていく。


 人の形を失い、無数の細い光へ分かれる。


 幾千。


 幾万。


 光は巨大な根を伝って、上へ、下へ、横へと流れていった。都市の地下へ。空洞の彼方へ。どこへ続くのか、誰にも分からない。


「キースには?」


 メルリルが叫ぶ。


「来ていない!」


 キースは胸へ手を当てる。


 魂核は、まだそこにある。


 しかし、《王》の残滓は入ってこない。


「フユ!」


「世界に戻ってる」


「《ガイアの臍》へ?」


「ここにも」


 フユは光の走る根を指した。


「もっと先にも」


「分散している?」


「うん」


 メルリルは呆然と根を眺める。


「権能も、記憶も?」


「たぶん」


 キースは最後に薄く残った《王》の影を見た。


 顔は、やはり分からない。


 ただ、影はこちらを向いた。


 キースを一度だけ見た。


 そして消えた。


 胸の奥で、何か古いものが静かになった。


          *


「……終わった?」


 シビウが尋ねる。


「分からない」


 キースは答えた。


「でも、キロスの中からは消えたように見える」


 全員が彼を見る。


 少年は、今までと変わらない姿で立っていた。


「うわ」


 自分の手を見つめる。


「軽い」


「身体が?」


「中が」


 胸を軽く叩いた。


「ずっと誰かが後ろに立ってたみたいだったのが、いなくなった」


「寂しい?」


 フユが尋ねる。


 キロスは少し考えた。


「ちょっと」


 正直だった。


「でも、楽」


「ならよかった」


 フユは、それだけで納得した。


「術は?」


 メルリルが尋ねる。


「何か使えます?」


「宇宙一さん、そこ最初に聞く?」


「重要でしょう!」


「じゃあ」


 キロスが軽く指を振る。


 何も起こらない。


 全員が黙った。


「ほら」


 もう一度。


「出ろ!」


 やはり、何も起こらない。


「ちょっと待って。いつもならこの辺で、こう、光って――」


「失われた可能性が高いですわね」


「結論早くない!?」


 シビウが吹き出した。


「それでいいじゃないか」


「姐さん! 僕、戦力外だよ!」


「最初から腕っぷしで仲間を選んでないよ」


 その言葉に、キロスは黙った。


 シビウは、本当に何でもないことのように言っただけだった。


「……そっか」


「何だい」


「いや」


 キロスは少しだけ目を赤くした。


「ありがと」


          *


 しばらくして、キースは一つのことを思い出した。


「一つ」


「何?」


 キロスが振り返る。


「君の名前だ」


「僕の?」


「キルスとキロス」


 空気が僅かに変わった。


 ローゼンとフユが〈混沌〉へ呑まれたあの戦いで、《王》の力を使ったキロスは、知らないはずの名を口にしている。


 ――キルス?


「似すぎている」


 メルリルもすぐに意図を理解した。


「確かに。今までの反応まで考えれば、単なる偶然として処理するには不自然ですわね」


「キロス」


 キースは尋ねる。


「君は、いつからキロスという名を使っている?」


 少年は口を開き、止まった。


「いつから……?」


「ああ」


「昔から」


 答えた直後、自分で眉を寄せる。


「……いや」


 胸へ手を当てる。


 もう《王》はいない。


「違う」


「何が」


「昔からじゃない」


 キロスは荷物を探り、小さな革袋の底から折り畳んだ紙片を取り出した。


「これ」


「何だ?」


「昔の通行証」


 かなり古びている。


 《王》の残滓を宿す以前。


 まだ諸国を渡り歩くようになる前のものだという。


 キロスは紙の上部を指で隠したまま、キースたちへ差し出した。


「名前が書いてある」


「見えない」


「見せてないから」


「なぜ!」


「そこは僕のだから」


 キースは口を閉ざした。


「でも」


 キロスは下部だけを見せる。


 日付。


 発行地。


 本人照合印。


「ここに『キロス』とは書いてない」


 メルリルの表情が変わる。


「残滓を宿したのは、このあと?」


「うん」


「では、それ以前にキロスを名乗っていた文書は?」


 少年は記憶を探る。


「……思いつかない」


「最初にキロスと名乗ったのは?」


「いつだろ」


 また考える。


「《王》の声を聞くようになった頃だ」


 キースの胸が、小さく脈打った。


「誰かにつけられた?」


「違う」


「自分で?」


「たぶん」


「なぜ、その名前に?」


 キロスは困った顔をした。


「分かんない。ただ」


 自分の胸を指す。


「気づいたら、ここにあった」


 キロス。


 その名が自分のものだと、いつしか疑わなくなっていた。


「キルス」


 キースが呟く。


 自分より前の名。


「キロス」


 目の前の少年が、どこかから借りたのかもしれない名。


 メルリルは祭壇へ視線を向けた。


「同じ《王》の存在構造が」


 慎重に言葉を選ぶ。


「一方では魂核としてキルスへ続き、もう一方では残滓として別の人間へ付着した」


「それが」


 キースが続ける。


「名前にまで反響した?」


「証明はできません」


「でも」


 キロスが笑った。


「それなら分かりやすいね」


 キースを見る。


「君の方はキルス」


 次に自分を指す。


「こっちはキロス」


「似た名を」


「同じ昔の奴から、別々にもらった」


 少年は通行証をもう一度折り畳んだ。


「じゃあ」


 少し寂しそうに、自分の名前を口にする。


「この名前も、借り物か」


 誰もすぐには否定しなかった。


 名前は大切だ。


 だからこそ、安易な慰めで意味を決めるべきではない。


「借り物だから偽物、とは限らない」


 キースが言った。


 キロスが顔を上げる。


「君は、その名で生きた」


「ああ」


「私たちとも、その名で出会った」


「うん」


「なら、もう君の名でもある」


 しばらく沈黙が続いた。


「でも」


 キロスは首を横へ振った。


「いらない」


「キロス」


「嫌だからじゃないよ」


 いつもの少し軽い笑顔だった。


「結構、好きだった」


 世界一さん。


 宇宙一さん。


 姐さん。


 フユちゃん。


 軽口ばかりで。


 頼りなく見えて。


 それでも何度も皆を助けた。


 その少年の名。


「でも、ここで返す」


 巨大な根を見る。


「《王》の名前も、王の人生もいらない」


 胸へ手を置く。


 そこには、もう残滓はない。


「キロスって名前も、ここへ置いていくよ」


 キースは何も言わなかった。


 止めるべきではない。


 名前を持ち続けることも。


 手放すことも。


 本人が選ぶのなら。


「じゃあ」


 シビウが尋ねる。


「これから、何て呼べばいい?」


 少年は古い通行証の名前の部分へ親指を置き、笑った。


「教えない」


「は?」


「僕の名前なんだから、僕が教えたくなるまで秘密」


「なんだそりゃ」


「いいでしょ?」


「まったく……」


 シビウは呆れながらも笑った。


「好きにしな」


「そうする」


 少年は、古い通行証を大切そうに革袋へ戻した。


          *


「僕、ここまでにするよ」


 その言葉は、少しして不意に出た。


 キースが振り返る。


「ここまで?」


「うん」


 少年は最深部へ続く階段を見た。


 ソーサイア。


 ローゼン。


 この先に、最後の戦いが待っている。


「行かないのか?」


「行けない、の方が正しいかな」


 両手を広げる。


 《王》の力は、もうない。


「今の僕が行っても、たぶん足手まといになる」


「戦力だけで決める必要はない」


「そう言ってくれるのは嬉しいよ」


 少年はキースを見る。


「でも、僕は《王》の続きとして、あの戦いに行きたくない」


 キースには、その意味が分かった。


「この先で」


 少年は言う。


「《王》が何をしたか、本当の答えが出るかもしれない」


「出ないかもしれない」


「うん」


 笑う。


「だから、どっちでもいい」


 《姫》と戦った。


 守った。


 世界を〈混沌〉へ還そうとした者へ反逆した。


「僕がそれを決める必要はない」


「……ああ」


「もし《王》が悪い奴だったとしても、僕が謝ることじゃない」


「ああ」


「もし英雄だったとしても、僕の手柄じゃない」


「そうだ」


「なら」


 少年は上へ続く道を振り返った。


「僕は僕の人生に戻る」


 キースは少しだけ笑った。


「正しいと思う」


「世界一に認定された」


「その呼び方もやめないのか」


「最後くらいいいじゃん」


「最後?」


「しばらく会わないでしょ」


 その言い方に、永遠の別れはなかった。


「次に会う時は」


 キースが言う。


「名前を教えてくれる?」


「気が向いたら」


「なら」


 キースは手を差し出した。


「また会おう」


 少年はその手を見つめ、それから握った。


「うん」


 その力は、ごく普通だった。


 《王》の権能も。


 人には不可能な魔導もない。


 ただ一人の青年の手だった。


 シビウにも、メルリルにも、フユにも、一人ずつ別れを告げる。


「姐さん、酒の約束忘れないでね」


「生意気。成人してから来な」


「もう飲める年だって!」


「信用できない」


「ひどい!」


 次にフユを見る。


「フユちゃん」


「なに」


「助けられてよかった」


「うん」


「もうちょっと感動してくれても」


「ありがとうって言った」


「そうでした」


 フユは少し考えた。


「またね」


 少年が一瞬だけ黙る。


「うん」


 今度は少しだけ泣いた。


          *


 彼は、上へ続く古い道を歩き始めた。


 軽口を叩く、どこか頼りない少年。


 《王》を宿した男。


 キロス。


 その名を、もう誰も呼ばなかった。


 呼べないのではない。


 本人が、ここへ置いていくと決めたからだ。


 キースは小さくなっていく背中を見送った。


 《王》の魂核は、自分へ続いている。


 おそらくキルスを経て、今の自分まで。


 その可能性を、もう否定するつもりはない。


 けれど、その事実が今の自分へ何かを命令するわけでもない。


 《王》が《姫》と戦ったから、自分が戦うのではない。


 《王》が《姫》を守ったから、ローゼンを守るのでもない。


 キルスが人間ローゼンを愛したから、今のローゼンを取り戻したいわけでもない。


「行こう」


 キースは最深部へ向き直った。


 シビウ。


 メルリル。


 フユ。


 三人も彼の隣へ並ぶ。


「ローゼンを助ける」


 それは過去の王の意思ではない。


 死んだ神官の願いでもない。


 十八歳まで外の世界をほとんど知らなかった青年が旅へ出て、人と出会い、失い、迷い、それでも今、自分で選んだことだった。


 巨大な根が、もう一度だけ静かに脈打つ。


 《王》は何をしたのか。


 まだ分からない。


 《姫》と戦った。


 《姫》を守った。


 〈混沌〉へ世界を還そうとする者へ反逆した。


 どれも記憶にある。


 ならば、今はどれも残せばいい。


 キースは胸の奥へ続く古い魂核へ、答えを求めなかった。


「私はキースだ」


 もう一度、自分の名を確かめる。


 それから、ローゼンの待つ世界のさらに深い場所へ、歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。