第三十九章 王は何をしたのか
キロスは祭壇の前で膝をついたまま、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。
「……帰ってきた」
自分の口から零れた言葉を、誰より理解できていないのは本人だった。
廃墟となった古都に人影はない。広場を渡る風もなく、先ほど遠くから響いた鐘も、今は沈黙している。それでもキロスの瞳だけは、目の前には存在しない何かを追っていた。
キースが慎重に近づく。
「何が帰ってきた?」
「知らないよ」
返ってきたのは、キロス自身の声だった。
「本当に知らない。でも……」
少年は胸元を押さえ、崩れた塔を指した。
「ここに来てから、ずっと変なんだ。僕が見てるものと、《王》が見てるものが重なってる。僕には、半分なくなった塔にしか見えない。でも向こうには旗がある。青と白の旗。上の階には人がいて、誰かが鐘を鳴らしてる」
次に、巨大な根によって割られた広場へ視線を移す。
「僕には石しか見えない。でも《王》は、ここで誰かと話してた。たくさんの人がいる。精霊も、人間みたいな人も……もっと大きい奴も」
キースは欠けた巨人像を振り返った。
「巨人?」
「分からない。見ようとすると、別の景色まで一緒に来るんだ」
キロスが頭を抱える。
メルリルは彼の傍へ膝をつき、顔を覗き込んだ。
「無理に思い出さないでくださいませ。あなた自身の記憶ではございません」
「分かってる」
キロスは苦笑した。
「でも、分かってるってだけで止められたら楽なんだけどね」
その瞬間だった。
祭壇の下を走る巨大な根が、どくん、と脈打った。
木でも石でもない何かの内部を、青白い光が走る。
一本。
続いて二本。
それまで暗く沈んでいた《ガイアの臍》の根が、遠い空洞の彼方まで連鎖するように輝き始めた。
「下がれ!」
シビウが《踊る剣》を抜く。
キースも身構えたが、根が襲いかかってくる様子はなかった。光は祭壇の周囲を巡り、やがてキロスの足元まで伸びてくる。
「キロス!」
「待って」
少年が顔を上げた。
「来る」
「何が?」
「《王》が」
その瞳から、キロスらしい軽さが消えた。
*
最初に見えたのは、戦場だった。
キースたちは祭壇の前から動いていない。それなのに、廃都の姿へ別の時代の景色が薄く重なり始める。
都市はまだ生きていた。
地底の空には光が満ち、塔には旗が翻り、広場を武装した精霊たちが駆け抜けている。
その中央に、一人の男がいた。
姿は、どうしても正確には捉えられない。若く見えたかと思えば、次には老いているようにも見える。王冠はない。それでも、周囲のすべての者が彼を《王》として扱っていることだけは、説明されずとも分かった。
キロスが低い声で言った。
「私は《姫》と戦った」
本人の声ではない。
《王》。
後世に《精霊戦争》と呼ばれた戦いの、もう一方の中心。
景色が動いた。
対岸に、長い髪を持つ女が立っている。
《姫》。
二つの軍勢が向かい合い、武器を構える。《王》が片手を上げると、戦いが始まった。
光と炎が交錯する。
その狭間を、黒い何かが走る。
衝撃が空そのものを裂いたように見えた。
「これが……精霊戦争?」
メルリルが呟く。
だが、キロスの顔が激しい苦痛に歪み、重なっていた景色が崩れた。
「違う……」
「キロス?」
次の瞬間には、同じ都市、同じ広場、同じ《姫》が現れていた。
しかし、配置が違う。
今度の《王》は、《姫》の前に立っていた。
敵としてではない。
守るように。
都市へ押し寄せる黒い奔流を前に、《王》は両腕を広げ、自分の背後へ《姫》を庇っている。
「私は《姫》を守った」
キロスが言った。
「待て」
キースの声が漏れる。
「さっきは戦ったと――」
「知らない!」
キロス自身の声へ戻った。
「僕だって知らないよ!」
頭を抱える。
それでも記憶は止まらなかった。
三つ目の景色が現れる。
今度は都市ではない。
もっと深い場所。
巨大な根。
現在の《ガイアの臍》とよく似ている。
ただ、その根の間を黒いものが流れていた。
〈混沌〉。
その前には、何者かが立っている。
顔は見えない。
名も聞こえない。
ただ、世界そのものを形のない状態へ戻そうとしている――そんな意志だけが、記憶を通じて流れ込んでくる。
《王》は、その何者かへ剣を向けた。
「私は」
古い声が響く。
「世界を〈混沌〉へ還そうとする者に反逆した」
キースの背筋を冷気が走った。
ソーサイア。
一瞬、そう連想する。
けれど、これは遥か昔の記憶だ。
同じ目的を持つ別の存在なのか。
そもそも、その相手が一人の存在だったのか。
何一つ分からない。
三つの光景が、互いを否定しながら重なり合う。
《姫》と戦う《王》。
《姫》を守る《王》。
世界を〈混沌〉へ還そうとする何者かへ反逆する《王》。
「どれだ!」
キロスが叫んだ。
「どれが本当なんだよ!」
返事は、彼自身の喉から出た。
「どれも覚えている」
キロスの身体が震えた。
「そんなの、答えになってないだろ!」
「どれも」
《王》の声が繰り返す。
「覚えている」
「だったら、何が起きたんだ! 《姫》と戦ったのか、守ったのか! 戦争を始めたのは誰なんだ! 世界を壊そうとしたのは誰なんだ!」
どの問いにも、《王》は答えなかった。
ただ、互いに矛盾する記憶だけがそこに残った。
*
キロスは両手を石床についた。
「もう嫌だ」
声が震えている。
「知らない奴の人生が、自分の記憶みたいに出てくる。知らない街を懐かしいと思う。会ったこともない人を見て、好きだったとか嫌いだったとか……」
拳が石を打つ。
「何なんだよ、僕は」
キースは答えようとした。
その時、足元の根が再び脈打ち、今度は彼へ向かって光を伸ばした。
「……え?」
祭壇から一本の細い光が走ってくる。
「キース!」
シビウが腕を掴もうとする。
「待て」
キースは動かなかった。
「攻撃ではない」
「何で分かる!」
「分からない。でも……」
胸が熱い。
イースではなかった。
魔導を使う時に意識する場所とも違う。
もっと深い。
アムドアの〈混沌〉の中で、キルスの記憶へ触れた時と同じ場所。
「キルス……」
その名を呟いた瞬間、光がキースの胸へ入った。
*
痛みはなかった。
代わりに、自分が三人になったような感覚が押し寄せた。
キース。
白い神官服をまとった男――キルス。
そして、それより遥かに古い影。
《王》。
三つの人影が一瞬だけ、巨大な根を走る光の中へ映し出された。
「……何ですの」
メルリルの声が震えた。
「今の」
キースにも見えていた。
三人の姿は違う。
生きた時代も。
名前も。
人生も違う。
けれど、その胸の中央には同じ光があった。
小さな核。
魂と呼んでよいものなのか、キースには分からない。
ただ、三者の同じ位置で、同じ形の光が脈打っている。
「フユ」
メルリルが小さな妖精を見る。
「あなたには、どう見えます?」
フユはじっとキースを見つめていた。
「つながってる」
「何が」
「中」
「魂?」
「名前は知らない」
フユは首を振る。
「でも、《王》とキルスとキース。同じところから続いてる」
キースの呼吸が止まった。
メルリルは今度、キロスへ視線を移す。
「では、キロスは?」
フユはすぐに答えた。
「違う」
キロスが顔を上げる。
「……違う?」
「キロスの中には、《王》の中がない」
「何それ」
「外についてる」
フユは自分の胸を指した。
「キースは、ここ」
次に肩や背中の周囲を指す。
「キロスは、こっち」
「内側と外側?」
キースが尋ねる。
「うん」
メルリルも光の動きを凝視していた。
「確かに」
「君にも分かるのか?」
「分かるというより、現象として見えています」
彼女は祭壇を指した。
キースの足元では、根から伸びた光が身体の内側へ入っている。
一方、キロスを取り巻く光は肉体の中へは入らず、身体の外側を幾重にも巡っていた。
「同じ反応ではありませんわ」
メルリルの声が低くなる。
「キースに対しては、この構造が本人そのものを《王》と同系統の対象として認識しているように見える。でも、キロスには……」
「付属しているもの?」
シビウが言った。
「そう見えます」
キロスは呆然と自分の両手を見つめた。
「じゃあ」
小さく呟く。
「僕は《王》じゃない?」
「私は」
キースが答えた。
「そう思う」
「でも、記憶がある」
「ああ」
「力も」
「ああ」
「《王》の声もする」
「それでも」
キースは自分の胸へ手を置いた。
「君自身の中心は、《王》とは別だ」
キロスは長いあいだ、何も言わなかった。
*
「じゃあ」
ようやく口を開く。
「《王》だったのは」
キースを見る。
「君なの?」
その問いに、キースはすぐには答えなかった。
根の光。
《王》。
キルス。
キース。
同じ核。
何かが続いている。
少なくとも、この古代構造はそのように反応した。
フユも、同じ繋がりを感じている。
キース自身もキルスの記憶を持ち、そして今、《王》の記憶へ触れた時、そこに奇妙な懐かしさを覚えている。
「《王》からキルスへ」
メルリルが慎重に言った。
「そしてキルスからキースへ。同じ何かが連続している、と考えるのが一番自然ですわね」
「魂?」
シビウが尋ねる。
「そう呼んでもよいのかもしれません。でも、わたくしたちは魂そのものを測定したわけではありません」
「なら、魂核」
キースが言った。
「仮に、そう呼おう」
今は、分類のための仮称でいい。
「同じ魂核が、《王》からキルス、キルスから私へ続いている可能性が高い」
「転生?」
キロスが尋ねる。
キースは首を横へ振った。
「その言葉一つで、全部を分かったことにはしたくない」
「でも」
「続いていることと、同じ人間であることは違う」
それは、すでに自分自身について選んだ答えだった。
「私はキルスではない」
キースは言った。
「キルスの記憶を持っている。魂まで同じなのかもしれない。それでも、私はキースだ」
そして、根の光の向こうに残る《王》の影を見る。
「《王》だったのは、私のずっと前だ」
キロスの目が揺れる。
「なら」
キースは、はっきりと言った。
「それでも私は《王》ではない」
過去を否定するわけではない。
受け継ぐことまで拒む必要もない。
けれど、従う必要もない。
「《王》でもない。キルスでもない。私はキースだ」
キロスはその言葉を長く聞いていた。
やがて、小さく笑う。
「そっか」
「何だ」
「なんか」
目元を拭った。
「先に答え言われたみたいで、ちょっとずるい」
「何の?」
「僕もさ」
キロスは自分の胸を軽く叩いた。
「僕は《王》じゃない」
今度は、自分自身の声で言う。
「《王》の記憶があっても。力があっても。昔の街を見て泣いちゃっても。それは、僕が《王》だったからじゃない」
「ああ」
「《王》だったのは」
キースを見る。
「君の、ずっと前だ」
キースも少し笑った。
「そうらしい」
「でも君も《王》じゃない」
「ああ」
「じゃあ」
キロスは、ようやく少しだけ、いつもの軽さを取り戻した。
「《王》本人、どこにもいないじゃん」
「もう死んだのかもしれない」
「残ってるものばっかりだね」
「それが過去というものだろう」
キロスは顔をしかめた。
「嫌な言い方」
それでも、笑っていた。
*
そこで、再び根が脈打った。
今度はキロスの身体を取り巻いていた《王》の残滓へ、光が集まり始める。
「何?」
キロスが振り返る。
残滓が目に見える形を取り始めた。
これまで気配や光としてしか捉えられなかったものが、薄い人影になる。
《王》。
ただし、顔はない。
身体も確かなものではなく、輪郭だけが人の形を保っている。
その影から一本の光が伸びた。
キースへ。
「キース!」
メルリルが叫ぶ。
キースは動けなかった。
胸の魂核が激しく反応している。
呼ばれている。
引き合っている。
「まずい」
キロスがすぐに気づいた。
「これ」
「何が?」
「《王》が戻ろうとしてる」
キースの顔が強張る。
「私へ?」
「たぶん」
《王》の魂核。
《王》の残滓。
本来、一つだったもの。
それらが今、同じ場所へ揃っている。
「離れろ!」
キースが叫ぶ。
「どうやって!」
「私に聞くな!」
残滓がキロスの身体から剥がれ始め、光となってキースへ伸びてくる。
「駄目!」
フユが二人の間へ飛び込んだ。
「フユ!」
「キースに戻しちゃ駄目」
「なぜ?」
フユは珍しく、強い声で言った。
「混ざる」
キースの胸が冷えた。
《王》の魂核。
記憶。
意志。
権能。
それらすべてが、現在の自分へ戻ったら。
どこまでがキースとして残るのか。
「私が《王》へ戻る……?」
「分からない」
フユは首を振った。
「でも、増える」
キロスが《王》の残滓を見つめる。
「じゃあ」
笑った。
「返さなきゃいい」
「簡単に言うな!」
「だって、僕の中にあったんだから」
「何をするつもりだ」
「手放す」
キロスは立ち上がった。
*
「待て」
キースが制止する。
「それを失ったら、君はどうなる」
「知らない」
「君!」
「でも」
キロスは思いのほか穏やかだった。
「今まで僕は、《王》の力があったから役に立てると思ってた」
旅の中で、人を助けた。
圧倒的な術も使った。
普通の人間にはできないことを、幾つも成し遂げた。
「これがなかった頃の僕は、何やっても駄目でさ」
いつもの軽口の奥に、ずっと隠していた不安が滲む。
「魔導の才能はあった。でも上手くならなかった。格好つけても失敗するし、いざって時には怖くなるし。だから、《王》が来てから、やっと自分にも価値ができた気がしてた」
シビウは何も言わず、ただ彼を見ている。
「でも」
キロスはフユを見る。
「フユちゃんを助けようって決めたのは、《王》じゃない」
フユが瞬きをした。
「ここまで来たのも」
シビウ。
メルリル。
キース。
一人ずつ見ていく。
「《王》に言われたからじゃない」
キースは静かに頷いた。
「なら」
「うん」
キロスは笑った。
「もう、いいかなって」
残滓へ手を伸ばす。
影の指と、少年の指が重なった。
「ありがと」
誰へ言ったのかは分からない。
《王》へ。
あるいは、自分を救ってくれたと思っていた力へ。
「でも」
キロスの声が震えた。
「これは僕じゃない」
《王》の影が揺れた。
*
その瞬間、また《王》の記憶がキースの頭へ流れ込んだ。
《姫》と戦う。
《姫》を守る。
〈混沌〉へ世界を還そうとする何者かへ反逆する。
三つの過去が同時に流れ込み、どれも他と同じほど鮮明だった。
「待って!」
キロスが影へ叫ぶ。
「最後に、一つだけ」
《王》は答えない。
「どれが本当だったか」
問いかける。
影が彼を見る。
「……いや」
キロスは自分で首を振った。
「やっぱり、いい」
キースが目を見開く。
「決めなくていい」
キロスは言った。
「《王》が何をしたのか。どの過去が本当だったのか」
戦った。
守った。
反逆した。
「僕が決めることじゃない」
「キロス」
「僕は《王》じゃないから」
影は何も言わない。
「どれも覚えてるなら」
少年は少し寂しそうに笑った。
「どれも置いてってよ」
*
《王》の残滓が光へ変わった。
本来なら、キースへ向かう。
魂核へ戻ろうとする。
キロスは両腕で、その流れを押し止めた。
「そっちじゃない!」
歯を食いしばる。
「キースに行くな!」
根が応じるように脈打った。
《ガイアの臍》。
フユが《世界の根》と呼んだもの。
「フユちゃん!」
「なに」
「これ、ここに返せる?」
フユは光を見る。
「できるかも」
「どうやって!」
「返すって思って」
「君の説明、ほんと最後までそれだね!」
「早く」
「はいはい!」
キロスは残滓を巨大な根へ向けた。
「《王》」
そう呼ぶ。
「君の人生は、もう終わったんだろ」
答えはない。
「終わったかどうかも分かんない?」
少し笑う。
「まあ、そうだよね」
《ラグナ――》。
終わった戦争の名だと思うな。
この世界では、《終わった》という言葉さえ簡単には使えない。
「でも」
キロスは自分の胸を叩いた。
「僕の人生は、ここからも続く」
残滓を押し出す。
光が根へ触れた。
一瞬、世界最深部の巨大空洞すべてが、昼のような輝きに満たされた。
*
《王》が散っていく。
人の形を失い、無数の細い光へ分かれる。
幾千。
幾万。
光は巨大な根を伝って、上へ、下へ、横へと流れていった。都市の地下へ。空洞の彼方へ。どこへ続くのか、誰にも分からない。
「キースには?」
メルリルが叫ぶ。
「来ていない!」
キースは胸へ手を当てる。
魂核は、まだそこにある。
しかし、《王》の残滓は入ってこない。
「フユ!」
「世界に戻ってる」
「《ガイアの臍》へ?」
「ここにも」
フユは光の走る根を指した。
「もっと先にも」
「分散している?」
「うん」
メルリルは呆然と根を眺める。
「権能も、記憶も?」
「たぶん」
キースは最後に薄く残った《王》の影を見た。
顔は、やはり分からない。
ただ、影はこちらを向いた。
キースを一度だけ見た。
そして消えた。
胸の奥で、何か古いものが静かになった。
*
「……終わった?」
シビウが尋ねる。
「分からない」
キースは答えた。
「でも、キロスの中からは消えたように見える」
全員が彼を見る。
少年は、今までと変わらない姿で立っていた。
「うわ」
自分の手を見つめる。
「軽い」
「身体が?」
「中が」
胸を軽く叩いた。
「ずっと誰かが後ろに立ってたみたいだったのが、いなくなった」
「寂しい?」
フユが尋ねる。
キロスは少し考えた。
「ちょっと」
正直だった。
「でも、楽」
「ならよかった」
フユは、それだけで納得した。
「術は?」
メルリルが尋ねる。
「何か使えます?」
「宇宙一さん、そこ最初に聞く?」
「重要でしょう!」
「じゃあ」
キロスが軽く指を振る。
何も起こらない。
全員が黙った。
「ほら」
もう一度。
「出ろ!」
やはり、何も起こらない。
「ちょっと待って。いつもならこの辺で、こう、光って――」
「失われた可能性が高いですわね」
「結論早くない!?」
シビウが吹き出した。
「それでいいじゃないか」
「姐さん! 僕、戦力外だよ!」
「最初から腕っぷしで仲間を選んでないよ」
その言葉に、キロスは黙った。
シビウは、本当に何でもないことのように言っただけだった。
「……そっか」
「何だい」
「いや」
キロスは少しだけ目を赤くした。
「ありがと」
*
しばらくして、キースは一つのことを思い出した。
「一つ」
「何?」
キロスが振り返る。
「君の名前だ」
「僕の?」
「キルスとキロス」
空気が僅かに変わった。
ローゼンとフユが〈混沌〉へ呑まれたあの戦いで、《王》の力を使ったキロスは、知らないはずの名を口にしている。
――キルス?
「似すぎている」
メルリルもすぐに意図を理解した。
「確かに。今までの反応まで考えれば、単なる偶然として処理するには不自然ですわね」
「キロス」
キースは尋ねる。
「君は、いつからキロスという名を使っている?」
少年は口を開き、止まった。
「いつから……?」
「ああ」
「昔から」
答えた直後、自分で眉を寄せる。
「……いや」
胸へ手を当てる。
もう《王》はいない。
「違う」
「何が」
「昔からじゃない」
キロスは荷物を探り、小さな革袋の底から折り畳んだ紙片を取り出した。
「これ」
「何だ?」
「昔の通行証」
かなり古びている。
《王》の残滓を宿す以前。
まだ諸国を渡り歩くようになる前のものだという。
キロスは紙の上部を指で隠したまま、キースたちへ差し出した。
「名前が書いてある」
「見えない」
「見せてないから」
「なぜ!」
「そこは僕のだから」
キースは口を閉ざした。
「でも」
キロスは下部だけを見せる。
日付。
発行地。
本人照合印。
「ここに『キロス』とは書いてない」
メルリルの表情が変わる。
「残滓を宿したのは、このあと?」
「うん」
「では、それ以前にキロスを名乗っていた文書は?」
少年は記憶を探る。
「……思いつかない」
「最初にキロスと名乗ったのは?」
「いつだろ」
また考える。
「《王》の声を聞くようになった頃だ」
キースの胸が、小さく脈打った。
「誰かにつけられた?」
「違う」
「自分で?」
「たぶん」
「なぜ、その名前に?」
キロスは困った顔をした。
「分かんない。ただ」
自分の胸を指す。
「気づいたら、ここにあった」
キロス。
その名が自分のものだと、いつしか疑わなくなっていた。
「キルス」
キースが呟く。
自分より前の名。
「キロス」
目の前の少年が、どこかから借りたのかもしれない名。
メルリルは祭壇へ視線を向けた。
「同じ《王》の存在構造が」
慎重に言葉を選ぶ。
「一方では魂核としてキルスへ続き、もう一方では残滓として別の人間へ付着した」
「それが」
キースが続ける。
「名前にまで反響した?」
「証明はできません」
「でも」
キロスが笑った。
「それなら分かりやすいね」
キースを見る。
「君の方はキルス」
次に自分を指す。
「こっちはキロス」
「似た名を」
「同じ昔の奴から、別々にもらった」
少年は通行証をもう一度折り畳んだ。
「じゃあ」
少し寂しそうに、自分の名前を口にする。
「この名前も、借り物か」
誰もすぐには否定しなかった。
名前は大切だ。
だからこそ、安易な慰めで意味を決めるべきではない。
「借り物だから偽物、とは限らない」
キースが言った。
キロスが顔を上げる。
「君は、その名で生きた」
「ああ」
「私たちとも、その名で出会った」
「うん」
「なら、もう君の名でもある」
しばらく沈黙が続いた。
「でも」
キロスは首を横へ振った。
「いらない」
「キロス」
「嫌だからじゃないよ」
いつもの少し軽い笑顔だった。
「結構、好きだった」
世界一さん。
宇宙一さん。
姐さん。
フユちゃん。
軽口ばかりで。
頼りなく見えて。
それでも何度も皆を助けた。
その少年の名。
「でも、ここで返す」
巨大な根を見る。
「《王》の名前も、王の人生もいらない」
胸へ手を置く。
そこには、もう残滓はない。
「キロスって名前も、ここへ置いていくよ」
キースは何も言わなかった。
止めるべきではない。
名前を持ち続けることも。
手放すことも。
本人が選ぶのなら。
「じゃあ」
シビウが尋ねる。
「これから、何て呼べばいい?」
少年は古い通行証の名前の部分へ親指を置き、笑った。
「教えない」
「は?」
「僕の名前なんだから、僕が教えたくなるまで秘密」
「なんだそりゃ」
「いいでしょ?」
「まったく……」
シビウは呆れながらも笑った。
「好きにしな」
「そうする」
少年は、古い通行証を大切そうに革袋へ戻した。
*
「僕、ここまでにするよ」
その言葉は、少しして不意に出た。
キースが振り返る。
「ここまで?」
「うん」
少年は最深部へ続く階段を見た。
ソーサイア。
ローゼン。
この先に、最後の戦いが待っている。
「行かないのか?」
「行けない、の方が正しいかな」
両手を広げる。
《王》の力は、もうない。
「今の僕が行っても、たぶん足手まといになる」
「戦力だけで決める必要はない」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ」
少年はキースを見る。
「でも、僕は《王》の続きとして、あの戦いに行きたくない」
キースには、その意味が分かった。
「この先で」
少年は言う。
「《王》が何をしたか、本当の答えが出るかもしれない」
「出ないかもしれない」
「うん」
笑う。
「だから、どっちでもいい」
《姫》と戦った。
守った。
世界を〈混沌〉へ還そうとした者へ反逆した。
「僕がそれを決める必要はない」
「……ああ」
「もし《王》が悪い奴だったとしても、僕が謝ることじゃない」
「ああ」
「もし英雄だったとしても、僕の手柄じゃない」
「そうだ」
「なら」
少年は上へ続く道を振り返った。
「僕は僕の人生に戻る」
キースは少しだけ笑った。
「正しいと思う」
「世界一に認定された」
「その呼び方もやめないのか」
「最後くらいいいじゃん」
「最後?」
「しばらく会わないでしょ」
その言い方に、永遠の別れはなかった。
「次に会う時は」
キースが言う。
「名前を教えてくれる?」
「気が向いたら」
「なら」
キースは手を差し出した。
「また会おう」
少年はその手を見つめ、それから握った。
「うん」
その力は、ごく普通だった。
《王》の権能も。
人には不可能な魔導もない。
ただ一人の青年の手だった。
シビウにも、メルリルにも、フユにも、一人ずつ別れを告げる。
「姐さん、酒の約束忘れないでね」
「生意気。成人してから来な」
「もう飲める年だって!」
「信用できない」
「ひどい!」
次にフユを見る。
「フユちゃん」
「なに」
「助けられてよかった」
「うん」
「もうちょっと感動してくれても」
「ありがとうって言った」
「そうでした」
フユは少し考えた。
「またね」
少年が一瞬だけ黙る。
「うん」
今度は少しだけ泣いた。
*
彼は、上へ続く古い道を歩き始めた。
軽口を叩く、どこか頼りない少年。
《王》を宿した男。
キロス。
その名を、もう誰も呼ばなかった。
呼べないのではない。
本人が、ここへ置いていくと決めたからだ。
キースは小さくなっていく背中を見送った。
《王》の魂核は、自分へ続いている。
おそらくキルスを経て、今の自分まで。
その可能性を、もう否定するつもりはない。
けれど、その事実が今の自分へ何かを命令するわけでもない。
《王》が《姫》と戦ったから、自分が戦うのではない。
《王》が《姫》を守ったから、ローゼンを守るのでもない。
キルスが人間ローゼンを愛したから、今のローゼンを取り戻したいわけでもない。
「行こう」
キースは最深部へ向き直った。
シビウ。
メルリル。
フユ。
三人も彼の隣へ並ぶ。
「ローゼンを助ける」
それは過去の王の意思ではない。
死んだ神官の願いでもない。
十八歳まで外の世界をほとんど知らなかった青年が旅へ出て、人と出会い、失い、迷い、それでも今、自分で選んだことだった。
巨大な根が、もう一度だけ静かに脈打つ。
《王》は何をしたのか。
まだ分からない。
《姫》と戦った。
《姫》を守った。
〈混沌〉へ世界を還そうとする者へ反逆した。
どれも記憶にある。
ならば、今はどれも残せばいい。
キースは胸の奥へ続く古い魂核へ、答えを求めなかった。
「私はキースだ」
もう一度、自分の名を確かめる。
それから、ローゼンの待つ世界のさらに深い場所へ、歩き出した。




