第三十八章 ガイアの臍
北へ進むにつれて、森から少しずつ色が失われていった。
最初に秋の名残をとどめていた草が消え、次には常緑樹の深い緑さえ途切れた。やがて地表を覆うものは雪と氷ばかりになったが、不思議なことに樹木そのものは姿を消さなかった。
ただ、その幹は透明だった。
氷の中へ閉じ込められたような細い枝が空へ伸び、朝日を受ければ青く透ける。夜になると月明かりを吸い込み、幹の奥から淡い光を返す。その姿は樹木というより、太古の森が冬そのものへ姿を変え、ここで眠り続けているようだった。
キースは何度目か分からないほど、その透明な幹を横目で見た。
「本当に生きているのか?」
「生きてる」
先頭を進むフユが答える。
「水もほとんど凍っている。葉もない」
「でも生きてる」
「どうやって?」
「冬だから」
「説明になっていない」
「春になったら分かる」
「ここに春は来るのか?」
フユは少し考えた。
「来る時は来る」
「来ない時もあるような言い方をするな」
後ろからメルリルが息を吐いた。
「いい加減、フユへ普通の地理学を期待するのはおやめなさい。わたくしは三日前に諦めましたわ」
「君の諦めは遅すぎる」
「あなたよりは早いです」
二人が言い合う横で、シビウは黙々と雪を踏んでいた。
先の戦いから数日。
フユはようやく自分の力で浮ける程度まで回復している。ただし普段より高度は低く、疲れるとすぐシビウの肩へ腰を下ろした。キロスも一見するといつもの調子へ戻っていたが、夜になると胸を押さえ、眠れないことが増えている。
《王》の残滓。
キルスという名。
そして、《ガイアの臍》。
それらの間に何らかの繋がりがあることは、もはや単なる偶然とは思いにくい。
それでもキースは、まだ無理に一つの答えへ結びつけなかった。答えがないのなら、今は《繋がっているらしい》という事実だけを覚えておけばいい。
「あと、どのくらいだ?」
シビウが尋ねた。
「近い」
フユが答える。
「昨日も聞いたよ、それ」
「昨日より近い」
「そりゃ北へ歩いてるんだから、そうじゃなきゃ困るね」
フユは不満そうに振り返った。
「今日は違う」
「何が?」
「下が近い」
全員の足取りが、僅かに緩んだ。
「下?」
キースが聞き返す。
フユは雪の下を指す。
「ガイアの臍」
「地下にあるのは聞いた」
「地下じゃない」
「では?」
「下」
「だから、その違いを説明してくれ」
フユは首を傾げた。
「地下は、地面の下」
「ああ」
「ガイアの臍は、もっと下」
キースは言葉を失った。
「分かりましたわ」
メルリルが真顔で言う。
「何が?」
「分からないということが」
「それは私も分かっている!」
キロスが笑った。以前ほど力のある声ではなかったが、笑えるだけまだいい。
「世界一と宇宙一が、フユちゃん一人に負け続けてるね」
「私は負けていない」
「わたくしもです!」
「二人とも同時に言うと、余計に説得力なくなるよ」
キースは言い返そうとして、そこでキロスが突然足を止めたことに気づいた。
「どうした?」
少年は前を見ていなかった。
氷の森の奥。そのさらに先にある、目では捉えられない何かへ意識を向けている。
「……ここ」
「知っている?」
「知らない」
いつもの答えだった。
ただ、声が違う。
「でも」
キロスは胸へ手を置いた。
「《王》が知ってる」
今度は、誰も軽口を返さなかった。
*
氷の森を抜けた先に、道はなかった。
代わりに、大地そのものが途切れている。
谷とも崖とも違う。白い平原の中央へ、巨大な裂け目が一本、まるで世界を縦に割った傷のように走っていた。幅は十数人が並んで歩けるほどあり、その奥は昼間にもかかわらず青黒く沈み、底まで見通すことができない。
雪だけが静かに裂け目へ吸い込まれていく。
けれど、いくら待っても落下音は聞こえなかった。
「ここから?」
シビウが縁へ近づき、下を覗き込む。
「うん」
「縄で?」
「違う」
フユは裂け目のそばへ歩み寄った。
「おい、落ちるなよ」
「落ちない」
片膝をつき、雪の下へ手を差し入れる。
「冬」
小さく、そう告げた。
すぐには何も起こらなかった。
キースは周囲を見回す。
雪。
氷。
冷たい風。
すでに、この土地そのものが冬だった。
「何を――」
問いかけようとした、その時だった。
森全体が鳴った。
きぃん、と、無数の薄い硝子を一斉に指先で撫でたような澄んだ音が響く。
透明な樹木が同時に光を宿した。幹の内側を青白い輝きが走り、枝から幹、幹から根へと降りていく。幾百もの木々を巡った光は雪の下で一つになり、ゆっくり裂け目へ向かって流れ始めた。
「魔力?」
メルリルが身を乗り出す。
「違う」
フユが答える。
「でも今は質問しませんわ」
「賢くなった」
「腹が立ちますわね!」
青白い光が雪の下を進み、裂け目へ流れ落ちる。
次の瞬間。
何もなかった空中に、一段の氷が現れた。
続いて二段目。
三段目。
透明な氷板が、暗闇へ向かって一つずつ形を持っていく。
「……氷?」
キースは目を見張った。
階段は崖壁へ取り付けられているわけではない。裂け目の空中へ、透明な氷の板だけが規則正しく浮かんでいる。
下へ。
そのさらに下へ。
どこまで続くのか分からないほど深く。
「これが特別な道?」
キロスが尋ねる。
「昔の道」
「誰が作った?」
「知らない」
「誰が使う?」
「昔の人」
「その昔の人って?」
「昔の人」
シビウがキロスの肩を軽く叩いた。
「諦めな」
「姐さん、学習したね」
「あんたらを見てりゃね」
フユは最初の氷段へ乗った。
「行く」
「待て」
キースが止める。
「安全なのか?」
「落ちなければ」
「それを安全とは言わない!」
「じゃあ落ちないで」
「君は……!」
メルリルが笑いを堪えている。
キースは彼女を睨み、しばらく階段を見つめたあと、結局自分から最初の一歩を踏み出した。
*
どれほど降りたのか。
途中から、誰も段数を数えなくなった。
最初は頭上に地上の白い光が見えていた。それが少しずつ小さくなり、針で穿った穴ほどになり、やがて完全に消えた。
それでも周囲は暗闇にはならなかった。
足元の氷段そのものが淡い青白い光を放ち、一行の進む先だけを静かに照らしている。
壁はない。
左右にはただ、果ての見えない空間が広がっていた。
「これ、本当に裂け目の中なのか?」
シビウが辺りを見回す。
「外から見た幅と合わない」
キースも同じことへ気づいていた。
地上から見た裂け目は、広いとはいえ数十歩ほどだった。
今いる場所では、横方向の端さえ見えない。
「また距離がおかしい?」
キロスが尋ねる。
「アムドアと同じ現象とは限らない」
キースは慎重に答えた。
「ただ、地上から観測した構造と一致していないのは確かだ」
「空間拡張術式?」
メルリルが周囲を観察する。
「残留魔力がありません。そもそも、これだけの規模を何千年も維持できる術式など――」
「ない?」
キースが尋ねる。
「わたくしが知らない、が正確ですわね」
「成長したな」
「あなたに言われると腹立たしいです」
さらに下降していくと、やがて空気が変わった。
「……暖かい?」
シビウが外套の襟元を緩める。
地上は氷雪に閉ざされていた。
ところが深く降りるほど、寒さが薄れていく。
しばらくすると、氷段の端から水滴まで落ち始めた。
「フユ」
キースが先頭を見る。
「このまま階段が溶けないか?」
「溶けない」
「水が落ちているぞ」
「それは水」
「氷が溶けた水だろう!」
「違う」
「何が!」
フユは説明する代わりに、階段の先を指した。
「着く」
その言葉とともに、視界が大きく開けた。
キースは、息をすることさえ忘れた。
*
地面の底に、空があった。
最初に浮かんだのは、そんな矛盾した言葉だった。
途方もなく巨大な空洞。
上を仰いでも天井は遥かに遠く、暗闇へ溶けて見えない。左右にも果てはなく、地底という閉ざされた場所にいるはずなのに、夜の大地へ放り出されたような広がりがある。
その暗い世界の中を、巨大な光の帯が幾筋も走っていた。
そして、その中央に。
都市があった。
「……嘘だろ」
シビウの声が、小さく空間へ響いた。
塔。
橋。
広場。
崩れた城壁。
数えきれない建物。
ただし、それを人間の都市と呼んでよいのかは分からない。
建物は石だけで作られていなかった。巨大な貝殻を思わせる滑らかな曲面。白く石化した樹木。光を透かす鉱物。巨大な生物の骨を思わせる長い梁。それらが本来なら異なる素材であることを忘れたように、継ぎ目もなく一つの建築へ組み合わされている。
ある建物は、二十メティートを超える巨大な殻をそのまま宮殿の屋根にしていた。
別の塔は、生きた根を思わせる柱へ巻きつき、遥かな上方へ伸びている。
「都市……」
メルリルが呟いた。
彼女でさえ、すぐには調査具を取り出さなかった。
「人が住んでいた?」
「少なくとも、そのための形には見える」
キースは遠くの街路を観察した。
道が広すぎる。
人間なら何十人も並べそうな大通りがある一方で、ごく普通の人間が使えそうな大きさの扉も見える。
「大小が混ざっている」
シビウが言った。
「住んでいた種族が違った?」
「分からない」
キースはキロスを見る。
少年は、その場に立ち尽くしていた。
「キロス?」
返事がない。
「聞こえるか?」
「……うん」
「《王》は?」
キロスの唇が僅かに震える。
「ここ」
胸へ手を置く。
「知ってる」
「《王》が?」
「たぶん」
「何を覚えている?」
キロスは目を閉じた。
けれど、すぐに大きく開く。
「駄目」
「何が?」
「いっぱい来る」
苦しそうに顔を歪める。
「道。声。人。花。火。鐘……」
「無理に見るな」
キースは即座に言った。
キロスが驚いて彼を見る。
「いいの?」
「ここへ着いたばかりだ。君を壊してまで知ることじゃない」
「……そっか」
少年の顔から、僅かに緊張が抜けた。
「でも」
もう一度、地下都市を見渡す。
「たぶん、ここは《王》の場所だった」
それ以上は言わなかった。
キースも、尋ねなかった。
*
《ガイアの臍》。
その名が指していたものは、都市だけではなかった。
「見て」
フユが言った。
地下都市のさらに奥。
空洞の中央を、巨大なものが上下に貫いている。
根。
そう呼ぶ以外に、適切な言葉が見つからなかった。
ラルソウムの大樹より、遥かに太い。
しかも一つではない。
何百。
何千。
上方の暗闇から降りてきた巨大な根が、空洞の中央で幾重にも絡み合い、そこからさらに深い地下へ沈んでいく。
色も一定ではなかった。木のように茶色い場所もあれば、白い石へ変じたような部分もある。透明な硝子のように光を透かす場所の隣には、周囲の暗闇よりなお暗い、何も映さない箇所さえあった。
一つの《根》の内部で、それらの質感が何の境界もなく移り変わっている。
「植物……ではありませんわね」
メルリルが言った。
「ローゼンなら、聞けたかもしれない」
キースは口にした直後、胸へ痛みを覚えた。
石や植物へ。
彼女はいつも、まず頼んだ。
命令するのではなく、聞いた。
「戻したら、聞いてもらえばいい」
シビウが言う。
「……ああ」
今は、それでいい。
キースは巨大な根へ近づいた。
手は触れない。
まずは観察する。
「フユ」
「なに」
「これは何だ?」
「根」
「何の」
フユは、普段より長く考えた。
「世界」
キースも、メルリルも固まった。
「……今、何と言った?」
「世界の根」
「比喩か?」
「知らない」
「本当に大地の構造を支えている?」
「知らない」
「この根の先は、どこへ続く?」
「下」
「その下は?」
「もっと下」
「フユ!」
シビウがキースの肩を叩いた。
「落ち着きな」
「しかし、『世界の根』だぞ!」
「フユがそう呼んでるだけかもしれないだろ」
キースは息を止め、一度深く呼吸した。
「……その通りだ」
分からない。
なら、決めない。
メルリルはすでに根へ近づいていたが、彼女も触れようとはしなかった。
「魔導で測る?」
キースが尋ねる。
「嫌ですわ」
「君が?」
「ソーサイアへ何度魔導を吸われたと思っていますの。正体不明の巨大構造へ、こちらからイースを繋ぐ趣味はございません」
「賢明だ」
「ただ、見える範囲だけでもおかしいですわ」
「何が?」
メルリルは都市と根の境界へ視線を向ける。
「これらの根は、都市を壊して生えたのではありません」
キースも同じ場所を見る。
街路。
建物。
橋。
確かに、それらは根へ押し潰されてはいない。
むしろ根を避けるように配置されている。
いや。
避けているだけではない。
根を柱として。
根を橋として。
根そのものを都市構造の一部として利用している。
「都市より古い」
キースが呟いた。
「そう見えます」
アムドア。
また、同じ順序だった。
穴が先にあり。
都市が後から作られた。
この場所にも、何かが先に存在し、その周囲へ《王》に関わる都市が築かれたように見える。
「だから《ガイアの臍》……?」
「断定しませんわよ」
メルリルが先に釘を刺した。
「分かっている!」
*
都市の内部には、不自然なほど記録が残されていなかった。
建物はある。
生活の痕跡もある。
石の器。
椅子。
壊れた灯具。
水路。
広場の中央には、干上がった噴水と思しき設備さえ残っている。
なのに、名がない。
「都市名の碑は?」
キースが尋ねる。
「見当たりませんわ」
「王宮なら、王名くらいありそうなものだが」
「ないね」
シビウが壁を軽く叩く。
「文字が嫌いな連中だったとか?」
「可能性はある」
「でも」
キロスが、ある建物の前で足を止めた。
「ここ、何かあった」
「何が?」
「名前」
キースが振り返る。
「見えるのか?」
「違う」
キロスは入口の上を指した。
そこには横長の石板が嵌め込まれている。
ただし、その中央に大きな傷があった。
「削られている?」
メルリルが近づく。
石板そのものは古く、周囲も長い年月を経て摩耗している。
だが、中央部だけは違う。
表面が低く、不自然なほど均一に抉り取られていた。
「風化ではない」
キースが言った。
「周囲の摩耗と違う」
「刃物?」
シビウが尋ねる。
「刃物か、魔導か。そこまでは分からない」
削られた部分の左右には、文字の欠片らしきものが残っている。
「読める?」
キロスが尋ねる。
「いや」
キースは首を振った。
「アムドアの文字とも違う。精霊文字に近い部分はあるが……」
ローゼンなら。
また、そう思った。
彼女がいないことで生じた空白が、旅のあちこちに増えている。
「行こう」
キースは自分から言った。
戻す。
そのために、今は先へ進む。
*
都市の中央広場で、巨人が待っていた。
もちろん、生きてはいない。
像だった。
巨大な石像。
周囲の建物よりさらに高く、頭部だけでも人間の家ほどの大きさがある。
だが、完全な姿ではなかった。
「うわ……」
キロスが思わず声を漏らす。
像の左半身が、存在しなかった。
肩から先だけではない。
顔の半分。
胸。
腰。
左脚。
身体を縦へ割るように、ごっそりと欠け落ちている。
「壊れた?」
シビウが見上げる。
「それにしては変ですわ」
メルリルが近づき、欠損部を観察する。
断面は滑らかだった。
「攻撃で砕けたなら、亀裂がもっと広がるはずだ」
キースも見上げる。
「削り取られた?」
「像の半分を?」
「それも不自然だ」
残っているのは、右半身だけだった。
その顔は巨大だが、人間とも精霊ともかけ離れた怪物の造形ではない。長い耳も、角もない。兜も王冠も身につけておらず、ただ右手だけを胸の前へ差し出している。
「ヨトゥナール?」
キースが呟く。
「断定はできませんわね」
「分かっている」
北方には巨人の伝承がある。
アムドアの古代構造でも、ヨトゥナール系の遺構ではないかと考えた。
けれど、これまで文献で見てきた伝承上の巨人像と、目の前の姿にはどこか違いがあった。
より、人に近い。
後世の神話が付け加えたような、怪物としての誇張がない。
「足元」
フユが言った。
巨大な円形の台座。
そこへ文字が刻まれている。
キースの胸が、嫌な脈を打った。
「……神名?」
台座には、複数の名前らしき文字列が区切られて並んでいた。その前後には、祈祷文と思われる定型的な文章が続いている。
「精霊名では?」
メルリルが言う。
「可能性はある」
「神なの?」
フユが尋ねる。
「それを調べている」
「神なら分かる?」
「普通は、ある程度は」
「普通じゃない」
「……そうだな」
奇妙なのは、その文字列の中央だった。
神名と思われる部分だけが、何ヶ所も欠けている。
「これは」
キースがしゃがみ込む。
「文字を削った、というだけじゃない」
「どういう意味ですの?」
「見てくれ」
一つ目の文章。
《――へ祈りを》
その後が欠け、その先へ、
《――王の門を守り》
と続いている。
文法上、中間には何らかの名前があったはずだった。
別の箇所では、
《我らは――の名のもとに》
とあり、肝心の名だけがない。
さらに、
《――は空を照らし》
という一節も、やはり同じ位置で失われている。
「名前の部分だけ?」
シビウが言った。
「そう見える」
「誰かが神様の名前だけ消して回ったってこと?」
「分からない」
「でも、偶然そこだけ全部壊れたとは思えないね」
それにはキースも頷いた。
「意図的な可能性が高い」
けれど。
誰が。
なぜ。
神を憎んだからなのか。
名を隠すためか。
守るためか。
忘れさせるためか。
どれにも、まだ証拠はない。
「キース」
キロスの声が低かった。
「どうした?」
「この像」
少年は巨人像を見上げている。
「《王》が知ってる?」
「違う」
「では?」
「怖がってる」
広場が静かになった。
「何を?」
キロスは首を振る。
「分かんない」
「像そのもの?」
「……たぶん違う」
胸へ手を置く。
「ここに、これがあること」
「巨人像が?」
「名前が消されてること」
「どっちだ?」
「分かんない!」
少年の声が強くなる。
「頭の中に、いっぱい来るんだよ!」
キースはすぐに彼のそばへ近づいた。
「もういい」
「でも」
「次で聞く」
「次?」
「今すぐ、無理に全部見なくていい」
キロスは荒くなった呼吸を、少しずつ整えていった。
「……うん」
その瞳の奥では、何かがまだ目覚めようとしているように見えた。
*
《ラグナ――》を見つけたのは、メルリルだった。
「キース」
彼女にしては珍しく、ほとんど囁くような声だった。
「こちらへ」
巨人像の背後。
都市中央部から、巨大な根へ続く回廊。
その壁面に、周囲とは明らかに異なる図が刻まれていた。
円環。
途中で切れた円。
そこから幾つもの線が、内側と外側へ伸びている。
アムドア。
あの古代構造で見たもの。
「同じ……」
キースは言いかけて、すぐに訂正した。
「いや。同系統だ」
「ええ」
「完全に同じとは限らない」
「分かっていますわ」
円環の下にも文字がある。
本来なら読めない。
そのはずだった。
なのに、また頭の中へ音が浮かんだ。
「……ラ」
キースの顔から血の気が引く。
「キース?」
「待て」
アムドアでも、知らない文字を自分だけが読んだ。
その直後、《王》は警告した。
――見るな。
――それを、終わった戦争の名だと思うな。
「読まない方がいい」
キースは一歩下がった。
「珍しいですわね」
「アムドアで何が起きたか、忘れたのか」
「忘れておりません」
それでもメルリルは文字を見続け、やがてある部分を指した。
「でも、ここ」
「何だ?」
「欠けていません」
キースの呼吸が止まった。
アムドアでは、
《ラグナ――》
その先の石そのものが欠けていた。
ここは違う。
壁面は残っている。
ただし、文字列がそこで途切れている。
「……削られている?」
《ラグナ――》
その直後だけ、壁の表面が浅く削り取られていた。
「続きがあった可能性がありますわ」
「誰かが消した?」
「それも断定できません」
「分かっている」
だが。
巨人像。
神名。
そして《ラグナ――》。
この都市では、複数の場所に同じ種類の不自然な欠落がある。
「誰かが」
後ろからシビウが言った。
「ここから、いろいろ消してるように見えるね」
「そう見える」
キースは答えた。
「でも、誰が、何のために、までは言えない」
「言えないことばっかりだね」
「最近は慣れた」
「それ、胸張ることかい?」
「少なくとも、間違った答えを作るよりいい」
キースは壁へ触れず、紙を取り出した。
「写す」
「全文?」
「見えるところだけ」
「続きは?」
「書かない」
メルリルが少し笑った。
「賢明ですわ」
紙へ書く。
《ラグナ――》
そこまで。
その先へは、何も足さなかった。
*
都市の最奥。
巨大な根の下には、一つの広場があった。
正確には、広場だったものだ。
床は幾つもの根に押し割られ、その隙間から青白い光が漏れている。中心には大きな石の台が置かれており、机にも見えれば、祭壇にも見えた。
その表面には、大量の文字が刻まれている。
「記録?」
メルリルが駆け寄りかけ、自分から足を止めた。
「危ない」
「分かっております」
キースたちは距離を保ったまま、文字を観察した。
長い文章。
精霊文字に似た箇所。
見知らぬ文字。
絵。
図。
名前らしきもの。
「残ってる」
シビウが言った。
「ここには文字がたくさんあるね」
「でも」
キースは、すぐに違和感へ気づいた。
「読めないからではない」
「何が?」
「文章が繋がっていない」
一行目では、ある出来事が記されている。
しかし途中が欠け、次にはまったく別の文章が始まる。
その先も、また途中だけが失われている。
長い記録の中から、特定の箇所だけを選んで切り取ったような欠け方だった。
「これ」
メルリルが声を低くする。
「自然損耗ではありませんわ」
「なぜ?」
「削られた深さが同じです」
彼女は触れずに表面を目で追った。
「ここ。こちらも。その隣も。すべて同じ幅で、表面だけを落としてあります」
「文字を選んで?」
「そう見えます」
キースは祭壇をぐるりと見渡した。
残された文章。
削られた箇所。
空白。
どこまでが、もともとの記録だったのか。
「誰かが、記録を削除した」
呟いてから、すぐに付け加える。
「可能性が高い」
「ほんと慎重になったねえ」
シビウが言う。
「大事なんだ」
「分かってるよ」
フユは祭壇より、その下を見ていた。
「フユ?」
「根が集まってる」
祭壇の真下。
巨大な根の束が、何百もの流れとなって一ヶ所へ集まり、そこからさらに深い場所へ沈んでいる。
「ここが」
フユが言った。
「臍」
キースたちは黙った。
「《ガイアの臍》」
「うん」
「地名ではなく?」
「地名でもある」
「何の臍なんだ?」
フユは足元へ目を落とした。
「知らない」
キースは、もう苛立たなかった。
この場所で分かったふりをする方が、よほど怖かった。
*
祭壇の向こうには、さらに階段が続いていた。
都市。
巨人像。
削られた神名。
《ラグナ――》。
それらのすべてより、さらに下へ。
「ソーサイアは?」
シビウが尋ねる。
「痕跡は?」
メルリルが周囲を慎重に見回した。
「〈混沌〉の反応はあります。でも、この場所全体へ薄く広がっていて、方向を絞れませんわ」
「ローゼンは?」
キースが問う。
メルリルは少し黙った。
「……すみません」
「謝るな」
怖い。
ここまで来ても、彼女の痕跡を掴めない。
それでも、フユは戻った。
ソーサイアの向かう目的地も合っていた。
道そのものは、間違っていない。
「下へ行く」
キースが言った。
「休んでからにしない?」
キロスが、珍しく自分から言った。
顔色が悪い。
「《王》が?」
「近すぎる」
「何が」
「分かんない」
胸を押さえる。
「この街に入ってから、ずっと僕の中で歩いてる」
キースが眉を寄せた。
「歩いてる?」
「僕が見てる景色と、《王》が見てる景色が重なる」
キロスは遠くの崩れた都市を指した。
「僕には廃墟に見える」
一度息を整える。
「でも、《王》には」
そこで言葉が詰まった。
「まだ人がいる」
キースの背筋へ、冷たいものが走った。
「記憶?」
「たぶん」
「無理に見るな」
「でも」
「今日はここで止まる」
キロスが驚く。
「ローゼンは?」
「助ける」
「だったら急いだ方が」
「君を壊してまで急ぐつもりはない」
キースは、はっきりと言った。
「それでローゼンを助けられるとは思わない」
シビウが満足そうに頷く。
「そうしよう。あたしも脚が疲れた」
「わたくしも、記録を整理したいですわ」
メルリルが大量の紙を抱える。
「触ってもいないのに、その量は何なんだ」
「見て書きました」
「いつの間に」
「宇宙一ですから」
「関係ない!」
フユも、その場へ座り込んだ。
「休む」
「君が一番素直だな」
「疲れたから」
当たり前のことだった。
けれど、今はそれが大切だった。
皆、生きている。
ローゼンも。
そうであってほしい。
願いだけで終わらせるつもりはない。
キースは祭壇の向こう、さらに地下へ続く階段を見る。
そこに何があるのか。
《王》は、ここで何をしたのか。
誰が神の名を消したのか。
誰が巨人像の半身を失わせたのか。
誰が《ラグナ――》の続きを削ったのか。
問いは、また増えた。
けれど今は、そのどれよりも一つの名が重い。
ローゼン。
胸の中で、その名を呼ぶ。
「待っていろ」
聞こえるかどうかは考えなかった。
返事も求めない。
それは、自分が次へ進むために口にした言葉だった。
*
眠りに入る前、キースはもう一度巨人像のもとへ戻った。
一人ではない。
シビウがついて来ている。
「見張りだよ」
「私の?」
「半分」
「残り半分は?」
「あんたが勝手に変な文字を読まないように」
「信用がないな」
「《ラグナ――》を二回も見てる人間に言われたくないね」
暗闇の中、巨人像は半分だけの姿で立っている。
失われた左半身。
削り取られた神名。
足元に残る古い傷。
キースはしばらく、それらを黙って見上げた。
「なあ、シビウ」
「何だい」
「記録を消すことは、その出来事をなかったことにするのと同じだと思う?」
シビウはすぐには答えなかった。
肩にある大斧の柄へ手を置く。
「マーカスの墓には、身体がない」
「ああ」
「残ってるのは名前だけだ」
「うん」
「でも、その名前を削ったって、あいつが死んだ日はなくならない」
キースは彼女を見た。
「少なくとも、あたしはそう思いたい」
「そうだな」
「ただ」
シビウは巨人像へ目を戻した。
「この世界は、記録を消したくらいじゃ済まないこともあるんだろ?」
「……あるかもしれない」
「じゃあ」
欠けた石像を見上げる。
「誰かがここで何を消したかったのかは、ちゃんと知らなきゃならないね」
「ああ」
「でも、今夜じゃない」
「分かっている」
「本当に?」
「本当に」
「なら戻るよ」
二人が歩き出した、その時だった。
背後から音が響いた。
石の崩れる音ではない。
低く。
遠く。
深い空洞のどこかから伝わってくる、鐘の音だった。
キースは振り返った。
地下都市は沈黙している。
「今……」
「ああ」
シビウも聞いていた。
「誰か鳴らした?」
「分からない」
鐘楼と思しき建物はいくつも崩れている。
人影もない。
風さえ吹いていない。
それでも、少し間を置いて二度目の鐘が響いた。
今度は、最初とは別の方角からだった。
シビウの手が《踊る剣》の柄へ移る。
「眠ってた街が起きた、とか言わないでよ」
「言わない」
「思ってる?」
「少し」
「言わないでって言っただろ」
三度目の鐘は鳴らなかった。
代わりに、遠くの休息場所からキロスの声が響いた。
「キース!」
ただ事ではない。
二人は同時に走り出した。
*
キロスは祭壇の前で膝をついていた。
「キロス!」
キースが駆け寄る。
メルリルが肩を支え、フユは少年の目の前へ浮かんでいる。
「何があった!」
「急に」
メルリルが答えた。
「眠っていたと思ったら、突然起き上がって……」
キロスが顔を上げる。
その瞳は、いつもの少年のものではなかった。
「……鐘」
低い声が漏れる。
「聞こえたのか?」
キースが尋ねる。
キロスは自分の口を押さえた。
「僕じゃない」
「《王》?」
「分かんない……!」
苦しそうに頭を抱える。
「街が」
「街?」
「呼んでる」
キースの胸が強く打った。
「何と?」
キロスは答えようとした。
けれど、息を呑み、自分の内側から知らない言葉が上がってくるのを恐れるように身体を強張らせる。
やがて。
「……帰ってきた」
そう呟いた。
誰の言葉なのか。
自分自身でも分からないような声だった。
「誰が?」
キースが問いかける。
キロスは答えなかった。
いや。
答えられなかった。
一筋の涙が、少年の頬を伝う。
「何で……」
声が、キロス自身のものへ戻る。
「僕、泣いてるんだろ」
誰も答えられない。
その時。
都市の奥。
巨大な根の、さらに下。
地の底よりも深い場所で、何かが低く脈打った。
《ガイアの臍》は、ただ世界最深部に残された廃墟ではなかった。
少なくとも、そこに刻まれた過去は。
まだ完全には死んでいなかった。




