第1話
リィラ・アリーチェ・イージス。
年齢二十二歳、ボクの八つ上の異母姉だ。
ボクという存在を無視する実父と、顔すら知らない実母に代わって、十四年間、ずっと面倒を見てきて育ててくれた命よりも大切な人だ。
彼女の為なら、このちっぽけな命なぞ何ら惜しくないほど最愛の人である。
誰もが眼を見張る眩い金色の長髪。
誰もが魅了される理知的で端麗な美貌。
誰もが羨望するたおやかで健康的な肢体。
文武両道才色兼備――どんな種類の人間にも分け隔てなく接することの出来る優しい人だ。しかも人望があり、カリスマがあり、誰からも好かれる人格者である。
およそ非の打ち所のない完璧なまでの淑女。
そんな彼女こそが、ボクの自慢で憧れで最愛で唯一の家族――リィラ姉さんである。
彼女こそ、ボクの女神だ。
彼女こそ、ボクの全てだ。
彼女に捧げるボクの愛は、とてもじゃないが、言葉などでは言い尽くせない。
ボクは彼女さえいれば他に何もいらなかったし、彼女が幸せになるならばどんな屈辱、恥辱にまみれても痛くもかゆくもない。何の躊躇もなく、この命さえ捧げられる。
ボクはそれくらい、リィラ姉さんを愛している。
世界中の誰よりも、一番ボクが愛している。
だからこそ、出来ることならば結婚して、ボクと幸せな家庭を築いて欲しかった。子供は、四人くらい産んで欲しかった。
これは異常だろうか――否、正常だろう。
正しい姉弟の関係は、互いに愛し合い結ばれるべきだと、ボクは常々そう思っている。死が二人を分かつまで、決して離れ離れになってはいけないだろう。
なのにいま、どうしてリィラ姉さんはここに居ないのか。
「リィラ姉さんは、いまどこにいるんだろう……」
ボクのしみじみと呟く言葉は、まったく虚しく風に消えていった。それを寂しく思いながら、はぁ、と疲れたように息を吐いた。
思わず感傷的になってしまう。同時に、現実逃避に過去を振り返ってしまう。
「……ボクはいま、とても困っています」
しかも、そんな独り言を思わず口にせずにはいられないほど、ボクは本当に困っている。というか、現在進行形で、絶賛途方に暮れている。
いまボクたちは、地上の楽園と言われた千年王国エンシェント・イージスの外界に居る。
紆余曲折を経る中で、エンシェント・イージスを護る伝説の三つの試練をなんとか突破して、ようやく広大な世界に足を踏み出したところだった。
そんなこんなで、ここはよく分からない小高い丘の上である。
眼下に広がるのは、遠目からでも分かるほどお祭りムードになっている大きな都市があった。都市からは時折、楽しげな声が風に乗って届き、香しい食べ物の匂いが漂ってくる。
そんな音と匂いを味わいながら、何故かボクは、膝を抱えて座り込んでいた。
「ええ、そうですね、ロゥ。あの馬鹿には本当に困りますね」
白い修道服に身を包んで、それよりも白くキメ細かい肌をした冷徹美女――シロさんが、開けているんだか閉じているんだか分からないほどの糸目で、ジッと地平の彼方を眺めていた。
風に舞う美しい銀髪が、夕焼けに染まって淡いピンク色に見える。
「待て、待てぇ! このクロさまから逃げられると思うなよぉ!」
一方で、踊り子みたいなフリフリのパレオが付いたビキニ衣装をした浅黒い肌の健康美女――クロさんが、薄汚い野良犬を嬉々として追い掛け回していた。
ドタバタ駆け回る際に、ぶるんぶるんと揺れる圧倒的迫力の巨乳が相変わらず目の毒である。
「…………ボクはいま、とても憂鬱で、困っています」
ボクは改めて溜息を漏らす。
この沈んだ気持ちなどお構いなく、あまりにも普段通りな二人の反応を見て、いっそう悩ましげに頭を抱えた。
これほど露骨に困っているアピールをしてるのに、どうして同情すらしてくれないのか――とは、心の中でチラと思ったが、そんなことより何よりも、旅を始めて早々にもう行き詰ってしまった。
どうしてここまで、リィラ姉さんの手がかりが見つからないのだろうか。
リィラ姉さんもボクと同じルートを通って外界にやってきたはずなのに、この周辺で全く目撃情報がないのはおかしいだろう。
街道を歩く通行人の誰に訊ねても、知らぬ存ぜぬ、首を横に振られるだけでもあった。
それでもここ三日、諦めず粘り強く、街道からも街からもよく見渡せる丘で待機して、通り過ぎる全ての通行人を観察してみたが、リィラ姉さんらしき人は通らなかった。
挙句に誰からも有益な情報は入手出来ず、何一つ進展がなかった。
「そんなはずはないのに……嗚呼、嗚呼、嗚呼、リィラ姉さん――リィラ姉さんはいま、いったいどこにいらっしゃるのですか?」
沈みゆく夕日を眺めながら、ボクは芝居じみた声を上げて、神に祈るように手を合わせた。
「――ロゥ。そろそろ夜になりますよ。もういい加減、諦めてはいかがでしょうか?」
涼やかな声が傍らから聞こえてくる。
振り向けば、シロさんの薄目が少しだけ開かれて、蒼空みたいに澄んだ瞳がボクを見詰めている。その口元はニンマリしていて、何故だかとても嬉しそうである。
「やだよ。何を諦めるのさ?」
「リィラを諦めましょう? だって、もう充分探したではありませんか? これだけ探して見付からないのですから、もう見切りをつけて、私のねぐらに戻りましょうよ」
「やだよ。全然、不十分だし、諦める理由がないでしょ?」
シロさんの自己都合を即座に却下した。
確かに手掛かりがなくてとても困っているが、諦めるという選択肢だけは存在しない。諦められるくらいならば、ボクの愛はここまで拗れていない。
「――うっし、捕まえたぞ! ね、ね、ロゥ。この犬を焼いて食べようぜ!」
カラッとした爽やかな声が投げ掛けられる。
見れば、先ほどまで野良犬と追いかけっこをしていたクロさんが、野良犬の首根っこを片手で掴んでブンブンと振り回していた。
ちなみに野良犬は、血と泥で汚れ放題のうえに、とても臭い。
「犬は食べないよ、クロさん。その犬、可哀想だから逃がしてあげてよ」
「そうですよ、ヴリトラ。まったく貴女は野蛮なうえに意地汚いですね。一度、死んでみたらいかがでしょうか?」
「――あぁ? 何だと、コラ。やんのか、馬鹿白雪!?」
シロさんの挑発に、怒りの形相で殺気をぶつけるクロさん。
毎度のことだが、二人とも口を開けば喧嘩をしようとする。本当に仲が悪い。
「ちょっと、落ち着いてよクロさん。シロさん、それは言い過ぎだよ?」
いまにも殺し合いが始まりそうな険悪な空気に、すかさず割って入った。
「チッ――仕方ねぇな。クロさまは寛大だから、今回はロゥに免じて許してやる。命拾いしたな、馬鹿白雪」
「ええ、本当に――命拾いしましたね、ヴリトラ?」
「だから、駄目だって!! 二人とも、喧嘩は止してよ!!」
二人は殺気をぶつけ合っただけで、事実として大気を震わせていた。その強烈過ぎる圧力に辟易しながらも、ボクは横から二人の腕を叩いた。
「――ええ、分かっていますよ、ロゥ。ご安心ください。こんなのは軽い戯れじゃないですか。ねぇヴリトラ? 貴女、いい加減その小汚い犬を離してあげたらどうです? 握り潰すおつもりですか?」
「ハッ! わぁってるての……いちいち、このクロさまに指図すんな、馬鹿白雪――ほれ」
クロさんがパッと手を離せば、野良犬は全速力で丘から走り去っていった。それを名残惜しそうに眺めて、どうしてかクロさんは口元の涎を拭っていた。
「さて、ロゥ。途方に暮れていないで、もうそろそろ決断しましょう? それとも、今宵もこの丘で野宿するおつもりでしょうか?」
「いや、それは……そろそろ、本気で、遠慮したい……けど……」
辺りは既に暗くなっていた。日が落ちきって、これから夜の時間が始まろうとしている。
「それならば、いい加減に覚悟を決めましょう? ご安心ください。ロゥの手は煩わせません」
意味が分かるとあまりにも恐ろしいシロさんのその台詞を聞き流しながら、ボクは丘の下に見える街灯りを眺めて、はぁ、と溜息を漏らす。
楽しげな喧騒は、ここまで聞えてきている。街行く人の噂によれば、ここ一週間は祭りらしい。
確かにシロさんの言う通り、野宿などしたくはない。けれど、しかし――
「――無銭飲食とか、人を襲って金品を強奪するなんてのは、絶対に駄目だよ」
ボクはシロさんに、分かってくれ、と頭を下げる。
いくらお金がなかったとしても、強盗するのは人の道を外れてしまう。そんなことをすればきっと、神の天罰がくだるに決まってる。
「駄目って言ってもさ、ロゥ。クロさまたちは、最悪、空腹で腹立つだけで死にゃしないけど、ロゥはもう三日も何も食ってないだろ? このままじゃ、そろそろ本当に死んじゃうぞ? 食料と水なら、命じてくれればすぐ、クロさまが街から調達してくるから――」
「――ヴリトラ、口を挟まないでくださらない? ロゥ。何もせずに死を待つなぞ、生物としては愚の骨頂ですよ? 選択肢は二つです。諦めて、私のねぐらに戻るか。それとも、諦めて素人狩りをするか。もういい加減、決断してください」
スッと立ち上がり、シロさんはボクの手を取った。
「何やらお祭り騒ぎをしているようですし、きっと誰もが浮き足立っていることでしょう。だから、酔っ払った馬鹿の一人や二人、すぐ見付かります。金は、その馬鹿から奪えば良いのです」
シロさんは、悪気が一切ない善意100パーセントで、平然と犯罪行為を提案してくる。
「おいおい、そりゃ強盗だろ、馬鹿白雪! あいっかわらず最低な考えだな」
クロさんのツッコミは完全に無視されて、シロさんは優しく微笑みながらボクを起こす。ボクは起き上がりながら苦笑いで返す。
「……確かに、いい加減ここから動かないといけない、のは分かる……けどね、シロさん。一応、クロさんの言う通り、人から奪うってのは、悪い発想だよ?」
「ロゥ。貴方は優し過ぎます。弱者は強者から奪われるだけの存在ですよ? だからそれは、自然界の掟でしょう?」
「馬鹿白雪!! ここは人間界だっつの。少しは考えて発言しろよ。頭悪いなぁ」
横槍を入れるクロさんは、ここぞとばかりに、本当に頭悪いなぁと、嬉しそうに連呼していた。シロさんに同じ台詞で馬鹿にされているから、仕返しのつもりで執拗に繰り返す。
「……頭が悪くて、失礼しました。けど一つ、妙案を思いつきましたよ、ヴリトラ。貴女が道端で裸踊りをして、金を恵んでもらえば良いではないですか? 無駄に大きなその胸をアピールすれば、低俗なオスどもが、興奮して恵んでくれるでしょう?」
シロさんの全身から冷気が立ち昇っていた。
またか、とボクは溜息を漏らして、ギスギスとした空気に辟易する。シロさんに握られたボクの手に力が篭り始めた。
空気が肌を刺すように痛いし、握られた手もただただ痛い。
「ああぁ? 何でクロさまが、ロゥ以外の人間に裸を見せないといけないんだよ? それこそ馬鹿白雪がやったらいいだろ? その貧相で貧弱な――」
「――はい、それ以上は駄目! クロさんもシロさんも、少し落ち着いてよ……で、ちなみに、シロさん。手が痛い……」
「あ! 申し訳ありません、ロゥ」
ボクの言葉で、シロさんはパッと手を離してくれた。
ヒラヒラと手を振って、苦笑しながら無事をアピールする。ただ、もう少し強く握られていたら、きっと骨が粉々に砕かれていたに違いない。
「おいおい、カッチン――だぞ!? この馬鹿白雪。何してんだっ! ロゥは魔力がそんなに使えない、か弱い子供なんだぞ?」
「存じていますけど、そんなか弱い子供に対して、先ほど野良犬を食べさせようとした馬鹿は、どこの誰でしょうか?」
ギャーギャー、とまたもや不毛な言い争いが始まった。もういい加減うんざりである。とはいえしかし、この言い争いを止めても何も解決しない。
事実として、現状を打破出来る妙案が何一つ思い浮かばない。
何故ならロゥたちは、そもそも街で暴れ過ぎたせいで、門番に出禁を言い渡されているのだから――
ボクは、ふたたび丘に腰を下ろした。
はぁ、と今日何度目になるか分からない溜息を漏らして、雲ひとつない夜空を見上げる。
――はたしてボクは、これからいったいどうすればよいのだろう。




