第0話/ヴリトラ沼地
嗚呼、リィラ姉さん。貴女は今どちらに居るのでしょうか。
ボクは今、二つ目の試練にして、死の沼地と呼ばれる荒廃した毒の大地に立ち、絶体絶命の危機を迎えているところです。
逆境というには厳し過ぎる絶望的な状況――
ボクの身体は銀色に輝く強靭な蜘蛛糸で雁字搦めにされており、周囲に味方は誰もいない。
そして、ボクと対峙しているのは、巨大な体躯をして凶悪な外見をして強力な魔力を持つ、大型の毒吐き蜘蛛――
「――と、しみじみ嘆いても、現実は変えられず、未来は明るくならないね」
それっぽく含蓄のある言い回しを口にしながら、ボクは天を仰いだ。
しかし当然ながら空は見えず、あるのはどす黒い色合いをした半透明の蓋だ。その蓋はよくよく見れば、いまボクを拘束している蜘蛛糸がザル状に編まれたものだと判る。
ちなみに、ボクが落下してきた時に開けた穴は、見る限りもう塞がっている。
「……シロさんの加護って、凄いなぁ……普段のボクならきっと、とっくに握り潰されてるね」
努めて明るい声で言って、ギチギチと嫌な音を鳴らす蜘蛛糸に苦笑する。気を抜けば、一瞬で全身の骨が砕けそうになる。
フシューフシュー、と耳障りで不愉快な吐息がボクの正面から聞こえる。
「――――」
ボクは目を見開いて呼吸を止める。
その巨大な毒吐き蜘蛛は、無機質ないくつもの眼で、ボクを物色するかのように見つめている。
フシューフシュー、と大きく開いた口から毒の液が垂れており、鼻を覆いたくなるほどの刺激臭と腐臭が漂ってくる。
ギチャギチャ、と気味の悪い音が聞こえて、次の瞬間、ボクの頭上から巨大な脚が降ってくる。
あ、これはさすがに、死んだかな。
せめてもう少し覚悟する時間くらい欲しかったな、と嘆きながら、最期の瞬間、ギュッと目を閉じる。
「――おいおい、ゲテモノ。珍しく活発に動いてるから、大型の肉が手に入ったかと思って来てみればさぁ……お前、何してるのか、理解出来てるのかぁ? いま握ってるソレ、誰のモノになるのか、理解出来てないだろ? 流石にオレさま、それは見逃せないぞ?」
ギャウ、と気持ち悪い響きが聞こえる。同時に、爆音が響き渡り、キナ臭い煙が漂い始める。
「……な、なに?」
ボクが恐る恐ると目を開けると、そこには、全身に炎を纏った全裸の女性が、右拳を突き出して立っていた。薄暗い土中の洞窟内に、彼女は眩しいくらいの灯りだった。
まるでそれは太陽の如き光で、炎の女神を思わせる光景だ。
「ゲテモノ……お前さ、完全にオレさまを怒らせたぞ? もう簡単に死ねると思うなよ?」
炎の女神はそう言いながら、全身の炎をいっそう強く燃やしていた。
ちなみに、巨大蜘蛛は既に絶命しているように思える。だって身体の半分が吹き飛んで、残った部分が炎で焼かれている。これで生きてる方が恐ろしい。
「――――さぁ、死ね!!」
けどそんな死体に向かって、炎の女神は何の躊躇も温情もなく、過剰なまでの殺意をぶつけていた。
彼女の拳が振りかぶられると、直後、全身の炎が全てそこに集約される。そして、振り下ろすと同時に、むせかえるような熱風を伴って、太陽の如き火球が放たれた。
「うぁああああ――ッ!?」
ボクはその衝撃に無様に吹っ飛んだ。ゴロゴロと洞窟の中を転がって、気付けば、ボクを拘束していた蜘蛛糸は溶けて焼け落ちていた。
しかし、解放された、という感慨深い感情は微塵もない。
ボクが顔を上げると、そこには炎の女神が愉しそうにニヤついている。彼女はその全身から、死の恐怖を振り撒いている。
まさにその姿は死神だろう。いよいよ、ボクを迎えに来たのか――
「――た、助けて……」
「おぉぅ!? 思ってるより、ずっと素敵な声だぜ! しかも、見た目もとっても好みだぜ――ようやく……ようやく、迎えに来てくれたんだな!? オレさま、凄く凄く凄く、待ってたんだぞ!!」
凄まじい威圧で、ビリビリと肌が痛い。のみならず、炎の女神の纏う炎がボクの肌を焼け焦がす。
浅黒い肌、紅玉のような双眸、とびきり眩しい笑顔と美貌。
スラリと伸びた体躯は、メリハリのあるダイナマイトボディだ。リィラ姉さんよりもずっと大きな胸とお尻をしている。
「――っ!? ど、どうした!? おい、大丈――」
そんな炎の女神の裸体を目に焼き付けつつ、ボクは強烈な熱気に中てられて、フッと意識を失った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ぴちょん、と何かが額に垂れてきたのを感じて、ボクは意識を取り戻す。
「――――ここ、は?」
身体を起こすと、辺りは真っ暗で、地面はヌルヌルとした苔が生えていた。
魔力を集中しながら、目を細めて暗視する。するとそこは、果ての見えないほど広大な鍾乳洞だった。
「――ひゃ!?」
ぴちょん、とボクの背中に何かが垂れてきて、慌てて跳び退いた。見ればそれは、鍾乳洞から垂れてきた水滴だ。
「……寒くは、ないな」
ボクは自分の身体を見下ろして、首を傾げた。どうしてか全裸である。
恥ずかしくないと言えば嘘になるが、周りは真っ暗だし、誰もいないので、別にいいか、と割り切る。
「さて、こんな闇の中で孤独に過ごしてたら、ボクはきっとすぐに発狂しちゃうよ……」
静まり返る辺りを見渡してから、ボクはあえて声を出す。しかし音は反響するだけで、誰も答えることはなかった。
どっちから来たのか、どっちに向かえばよいのか、目印は何もない。ましてや、方角も分からないから、どう進めば正解かなど分かりようもない。
耳を澄ましても何も聞こえず、風が流れている感じもない。
しかし、いまここで呼吸が出来ている。つまり空気がある。それならば、どこかに出口があってしかるべきだろう。
「勘で行くか……それとも、ここで待つか」
気絶したボクを、何らかの理由でここまで運んできた誰かが居る。それはきっと、巨大蜘蛛を殺したあの炎の女神だろうけど、目的が分からない。
待っていれば恐らく、炎の女神は戻ってくるだろう。彼女が敵か味方かは不明だが、意思疎通は出来そうだった。戻ってきたら、色々と聞けるはずだ。
迂闊に動かず、ここで彼女を待つべきか、どうか。
動くか、待つか――この選択肢は、ボクの運命の分かれ道である。
「……なんて、格好つけて呟いても、どっちも怖いなぁ……けど、シロさんと逸れたままだし……下手に動いて、またあの化物蜘蛛みたいなのに遭遇したら、今度こそ死ぬしなぁ……」
正面の闇をジッと暗視する。どこまでも続く闇が、恐怖をいっそう煽る。
背後の闇をジッと暗視する。正面と同じくどこまでも続く闇が――――あ、シロさん。
「ロゥ!! 大丈夫ですかっ!? 怪我していませんか!?」
「あ、うん。とりあえず平気だよ」
視認した瞬間、物凄い速度で駆け寄ってくるシロさんに、ボクは頷いた。
これでもう安心だ。シロさんが来てくれたということは、助かった、と同義である。
「――ところで、ロゥ。なぜ、裸なのでしょうか?」
「はぇ!? へ、え……いや、分かんない……」
「ロゥ? なぜ、裸になっているのですか?」
しかし、助かったと安堵した瞬間、どうしてか底冷えする殺意と共に、シロさんが薄目を開いてボクを睨み付けてきた。
ボクとしては、そこを詰められても、正直、困るだけだ。だって、気付けば裸だったので、ボク自身だって説明のしようもない。
「ロゥ? 言えない事情でもあるのですか?」
「……いやいや、ボクも分かんないんだって――ッ!?」
シロさんがいっそう厳しい表情になり、突然、ボクの後ろに向かって手を突き出す。すると、凍えるほどの強大な魔力が放たれた。
「――な、なに、なにっ!?」
思わずボクは頭を抱えてしゃがみ込む。何かシロさんを怒らせることをしてしまったのだろうか。ちなみに、シロさんが放った強大な魔力は、凍て付く冷気を放つ分厚い氷壁になった。
「……この魔力残滓から察するに、ヴリトラですね? まさか、ロゥ。ヴリトラと契ったのですか?」
「は? ヴ、ヴリトラ……? って、何?」
「――――相変わらず、露出狂ですね」
シロさんのよく分からない質問に首を傾げた瞬間、ドガァ――ン、と轟音が鳴り響く。
地震が起きたと錯覚するほど洞窟内が大きく揺れて、轟音と共に、シロさんの展開していた氷壁が爆散した。
慌てて後ろを振り向いた。そこには、もはや太陽にしか見えない炎の女神がいた。
「おいおい、白雪。久しぶりに逢ったと思ったら、早速、オレさまのモノを奪おうってのか!? 良い度胸だなぁ、胸はないのに――」
「――――黙れ、痴れ者が!」
炎の女神はシロさんと対峙するが否や、凄まじい殺気と覇気をぶつけ合っていた。会ってすぐさま口論を始める辺り、どうやら二人とも知り合いのようだ。
だが間違いなく、友好的な関係ではなさそうである。
二人は言い合いしながらも、互いに信じられないほど莫大な魔力を解放して、見えない速度で飛び掛かった。突如として戦闘が始まった。
ボクは巻き込まれないよう、咄嗟に近くの鍾乳石に隠れる。
「誰の許しを得て、ロゥに勝手に触れてるのか、この馬鹿ヴリトラ!! 馬鹿は誰にも知られず朽ちて死んでください!!」
「おいおい、許可なんざ不要だろ!? ってか、馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ、馬鹿白雪!!」
「なんて稚拙な語彙力――そもそも、少しは恥じらいを持ったらどうですか!? 誰もいないからとは言え、全裸などと――露出狂過ぎますでしょう!?」
「オレさまは、ボディに自信があるんだよっ!! 別に、オレさまの領域で、どんな格好しててもいいだろうがっ!! つか、恥じらいって何だっ!?」
「――馬鹿ヴリトラがっ!!」
何とも低次元の言い争いをしながら、しかしあまりにも高次元過ぎる殴り合いをしている。
シロさんの拳が振り抜かれるたび、辺りは凍り付き、吹雪が吹き荒れる。その姿はとても流麗で、疾風の如き斬撃を飛ばしている。
一方で、炎の女神はただただ豪快に拳を振り回す。その姿は圧巻で、全てを力で捻じ伏せる勢いだ。シロさんの攻撃を上書きして、炎を撒き散らす攻撃を繰り返している。
極寒の冷気と、灼熱の熱気がぶつかり合い、轟音と共に凄まじい暴風が吹き荒れた。
「なんなのさっ!!? 二人とも、ちょっと落ち着いて……」
頭を抱えて目を閉じたボクは、それでも必死に呼び掛けた。ま、当然、そんな小さな声は届かない。
「――――相変わらず手強い。けれど、これで決めます」
「チッ――馬鹿白雪! もうこれで終わらせるぞっ!!」
はてさて、そうして唐突に決着の時が訪れる。
二人は互いにそんな捨て台詞を吐きながら、一瞬で距離を取った。そして次の瞬間、驚くほどの魔力を全身に漲らせる。
「……なに、アレ?」
ボクはその光景に言葉を失くす。だって、それは仕方ない。
シロさんは全身から溢れる魔力を口元に集中させて、投げキスをする仕草をした。途端、その唇からは吹雪が螺旋状に巻き起こり、煌めく氷の結晶が一直線に放たれる。
それは白銀の光線だ。あらゆる全てを凍らせる絶対零度の吐息だった。
さて、一方の炎の女神だが、彼女は両の拳に魔力を集中させて、ガキン、と拳同士をぶつける。途端、拳の間に巨大な炎塊が産み出されて、それを押し出すように投げ付けた。
それは灼熱の隕石だ。周囲を巻き込み破壊しながら突進する地獄の業火だった。
二人の渾身の攻撃は、激突するが否や小指ほどの光に収束したかと思うと、直後、凄まじい大爆発を引き起こす。
全てを白く染め上げる強烈な閃光が溢れて、無音で壮絶なエネルギーが吹き荒れた。
爆風は洞窟の天井を吹き飛ばして、洞窟の壁という壁を消し去った。ボクも思わず死を覚悟する。
果たして、ボクは死んでいなかった――恐る恐ると眼を開く。
「……絶景かな、絶景かな……よく死ななかったな……」
目の前には、底が見えないほど巨大な大穴が開いていた。見上げれば、天井だった場所は清々しいくらいに吹き抜けになっており、空は快晴、時々、毒の沼が垂れてきていた。
「馬鹿ヴリトラ……危うくロゥが死ぬところでしたよ?」
「おいおいおい、馬鹿白雪には言われたくないぞ!? お前、手加減一切なかったじゃんか!! オレさまじゃなかったら、確実に終わってたぞ!?」
「そもそも、ヴリトラ相手じゃなかったら、ここまで本気は出しませんよ?」
「はぁん!? 本気出して、この程度なんか!? じゃあ、次はサクッと死なすわ」
ふいにボクの後方で、そんな漫才じみた口論が聞こえてくる。
振り返ろうとして、ふわり、とボクの身体に布が被さる。シロさんが優しく微笑んでいた。
「――ロゥ、って言うのか? 良い響きだなぁ……オレさまは、ヴリトラ・アーテル・クロフォードだ。ヴリトラ、って呼ばれることが多いけど、好きに呼んでくれていいぜ?」
シロさんと激突していた炎の女神が、全裸で腰に手を当てて、豊満な胸を張りながらそんな自己紹介をする。
「ヴリトラ、貴女、さりげなく何をッ!?」
すると突如、シロさんが凄まじい形相で炎の女神に振り返っていた。
「あ、うん? え、と……ボクは、ロゥ。ロゥ・グロワ・イージスです――えと、ヴリトラか……ううん……アーさん、って感じじゃない……クロ、さん。うん、クロさん、って呼んでもいい?」
「――ロゥ!? 馬鹿ヴリトラ如きに、魔名を与えるなぞ!?」
「おぉおい!! クロさん! いいねぇ。オレさま――いや、クロさまは、今日からクロさまだ!」
なぜか大騒ぎし始めるシロさんと、炎の女神――改めてクロさんを眺めながら、ボクは魔名って何だろ、と首を傾げた。
「よっしゃ。んじゃ、早速、ロゥ。クロさまと契ってくれよ」
「…………あれ? なんか似たような台詞を、聞いた覚えがあるぞ?」
「ん? 白雪とも契ってるんだろ? クロさまとも契ろうぜ! 白雪みたいな貧相な身体とは違って、クロさまはきっと気持ち良いはずだぜ――ま、クロさまも初めてだけどな!」
ハハハ、と愉しそうに笑いながら、クロさんがズズイと身体を寄せてくる。座っている目線の高さに、クロさんの美しい乳房が迫ってきて、目のやり場に困る。
「――ロゥ。ヴリトラにも誓約をしてください」
「あ、え?」
シロさんはボクの頭を掻き抱くようにして、クロさんの姿を隠そうとする。
否応なく胸の大きさを比べてしまっているボクがいるが、それはともかく、ここまで至ってようやくクロさんの正体に気付いた。
こんな環境で、しかも平然と凶悪な魔力を振り撒いているのだ。少なくとも人間とは思えない。つまりはシロさんと同類に違いない。
「……ねぇ、クロさん。一応、確認するけど……クロさんって、シロさんと同じ?」
「あん? なんだよ、それ? 白雪、と同じって、意味が分かんないぞ? クロさまはクロさま――炎を司る古代竜族で、最強を冠する竜だぞ? ロゥは、ラグナードとの約束を果たす為に来たんだろ? なら、クロさまの旦那さまだな! これから毎日、子供が出来るまでズコバコやろうぜ!」
「――――下品ですよ、ヴリトラ」
シロさんの胸元に抱き締められて、その冷気にちょっと凍え始める。けれどそれ以上に、この展開に血の気が失せるというか、寒気がし始めた。
予期せず、また心配の種が追加されたらしい。
「――『誓約』ボクが望みを叶えた暁には、クロさんと結ばれて子作りすることを違う。対価として、クロさんもボクの望みを叶えることを誓いたまえ」
「……ん? 誓約? 意味が分かんないぞ?」
「クロさん、お願いだから誓約してよ」
リィラ姉さんを探して、ボクが無事に結婚するまで――それまでボクは、童貞を捨てる訳にはいかないのだ。自分勝手で一方的な誓約だけども、リィラ姉さんを手に入れる為ならば、泥でも毒でも啜ってみせよう。
「んん? まぁ、別にいいぞ――『誓約』クロさまはロゥの望みを叶える。対価は、ロゥがクロさまの子供を作ること」
クロさんの宣言と同時に、凄まじい魔力が渦巻いて、ボクの全身に吸収された。心臓がギュッと締め付けられる感触がある。
一方でクロさんの方は、シロさんのときと同様に、浅黒い肌に触れた瞬間、霧散した。やはり魔力差があり過ぎて、誓約は打ち消されたようだ。
「んで? 誓約したから、もう契って大丈夫だろ? 白雪も独り占めしてないで、サッサと退けよ。まさか参加するつもりか? でも、クロさま初めては一対一がいいぞ?」
「――フフフ、相変わらずの短慮。ヴリトラが馬鹿のおかげで、助かりますよ」
「カチン、だな。喧嘩売ってるんだろ、それ? クロさま、まだまだ暴れ足りないから、本気で相手してやってもいいんだぞ?」
シロさんの挑発的な笑みに、何も分からないクロさんが反発している。
そんな二人の間に挟まれて、ボクは静かに吐息を漏らす。
とりあえず気苦労は増えたけど、その分、強力無比な味方も増えた。貞操を守るのは更に困難になったかも知れないけど、ボクのリィラ姉さんへの執着は並ではない。
ボクさえ折れなければ、何も問題はない。むしろリィラ姉さんを見つけ出すのが、一番の問題なのだ。
「クロさん――ボクは、クロさんとはまだ契れないよ。ちなみに、シロさんとも契ってないよ?」
「――はぁ? おい、嘘吐くなよ、ロゥ。いくらクロさまが頭悪くても、それが嘘だってことくらい分かるぞ?」
「ヒッ――ィ!?」
クロさんの凄みに、ボクは思わず少しチビった。血走った紅玉の瞳とその威圧は、まさに竜だった。
けれど、ボクは毅然と告げなければならない――リィラ姉さんに操を捧げているのだ、と。
「ボ、ボクは……リィラ姉さんを探してる……さっきの誓約で、ボクの望みを叶えるって誓ってくれた、でしょ? 効力がないとしても、ボクの望みには、協力してくれるんだよね?」
「んん? いまいち意味分からんけど、クロさまはロゥに協力するぞ? 当然だろ?」
「な、ならさ――ボクの望みは、リィラ姉さんと結婚することで……童貞じゃないと、ダメなんだ!」
「…………ごめん、ロゥ。クロさま、ロゥが何言ってるか理解出来ない」
ボクが勢いだけで説明すると、クロさんがシュンと項垂れてしまった。きっと理解力が不足していることを嘆いているのだろう。
「ヴリトラ。ロゥの望みを叶える為には、リィラという人間を見つけ出して、ロゥと婚姻を結ばせる必要があります。けれど、リィラという人間と婚姻を結ぶには、ロゥの貞操を守らないといけないそうです――つまり、ロゥから私たちに手を出してくれるまで、身を清めて待っていれば良いのです」
「……んん? なんじゃそれ? えぇぇ……じゃあ、ロゥと子作りするのは、お預けってことか? どうしてさ?」
「ラグナードの時と一緒ですよ。意味の分からない願掛けでしょう。けれど、ラグナードの時とは違ってロゥの場合は全く問題ないと思いますよ? だって、ロゥが性欲を持て余すのは目に見えています。であれば、私たちは待っていれば良いだけ――今までの永い時間を思えば、たかが数年、一瞬でしょう?」
「……ふぅん、ま、いっか。白雪の言うことも意味分からんし。とりあえずもうクロさま、魔名も貰えて契約は結べたし、これからは独りじゃないからいいや――そんで? どこに向かってるんだ?」
クロさんは底抜けの笑顔を見せながら、その魅力的な裸を見せ付けるように腰に手を当てた。色んな意味で眩し過ぎるので、もう少し恥じらって欲しい。
「まったく、はしたない……ヴリトラ、これを着なさい」
シロさんが何やら薄い布をクロさんに放り投げた。それはパレオ付きの紐ビキニ、上下セットである。
「何これ?」
「着なさい――これから向かうのは、久しぶりの外界です。人里に下りるのですから、裸だと目立つでしょう? それとも馬鹿で露出狂なヴリトラは、裸でないと生活できないのですか?」
「――なぁ、白雪。それ、クロさまを馬鹿にしてるのか? クロさま別に、露出してる訳じゃないし……だいたいこれ、どうやって着るんだよ?」
悪態を吐き合う関係の割に、シロさんは呆れた顔でクロさんの面倒を見ていた。
堂々と着替え始めるクロさんから目を逸らして、ボクもシロさんから渡された布を広げた。それはだいぶ大きな一枚の白い布だ。服の代わりにはならないが、とりあえず身体に巻いた。
「おぉ? それ、白雪の皮膚じゃんか。しかも鱗まで溶かしてる特別仕様じゃん。そこそこ面倒な魔術加護も施してるし、手間掛けてるなぁ――じゃあ、クロさまも奮発して加護を与えようっと」
「はぇ――? うぉ!? な、なに!?」
煽情的なビキニ衣装がやたらと似合うクロさんが、突然、ボクに向けて炎を放ってくる。
炎はボクを包んでいる一枚布の表面を焦がして、複雑怪奇な紋様を焼き付ける。途端に、白かった布が輝きだして灰色に変わる。
「……これ、何が、起きてるの?」
灰色になった布が、今度はグネグネと蠢き出したかと思うと、ボクの身体に吸い付いた。股間の膨らみも含めて、身体の線が出るほどぴったりくっ付いた。けれど、苦しい感じはない。
全身を包む灰色のボディスーツは、次の瞬間、さらに形状を変えて、薄汚れた安物の衣装に転じる。
どういう原理か、元は灰色の一枚布だったはずだが、それは上下で別々の衣類に分かれていた。
「ご安心を、ロゥ。それは恥ずかしながら、私の身体の一部を加工した魔術装甲です。魔力に反応して、装備者の思い通りに変化します――ところで、ヴリトラ。私の魔術装甲に、勝手な付与を施さないでくれませんか? ロゥの身体に拒否反応が出たらどうするつもりですか?」
シロさんの威圧にクロさんは肩を竦めている。
一方でボクは、半信半疑に魔力を篭めてみた。するとドロリと衣装が溶け始めて、すぐさま先ほどのぴっちりしたボディスーツに変わる。ただし今回は、フード付き外套ありだ。
「本当に、思い通りだ――凄い!」
「おいおい、白雪よ? 拒否反応も何も、ロゥが喜んでくれてるじゃん。クロさま、良い仕事したじゃん? だいたいさ、白雪はずるいぞ。さりげなくロゥと魔術接続するつもりだったろ?」
「……馬鹿のくせに、細かいところが鋭いですね」
「あぁ? 喧嘩売ってるのか、馬鹿白雪?」
バチバチと視線と威圧で火花を散らす二人を無視して、ボクは新しく手に入れた玩具を堪能する。
シロさんがくれたこの服は、ボク如きの微かな魔力にも敏感に反応して、自由自在に形を変えてくれる。とはいえ、注意点が一つ。
どうやら基本形態が、ボクの身体にぴっちりのボディスーツのようで、形を変える前に一回、必ずボディスーツになってしまう。また、脱ぐのさえ魔力が必要のようで、物理的に着替えることが出来ないのは少しだけ不便だった。
「――よし。やっぱり、一番しっくりくるのはこの恰好だな」
ボクは少しだけパリッとした上着を羽織り、くたびれた長袖とズボン姿になった。
上着は貴族に見えない程度の質素な素材を意識して、着古した感じのする長袖とズボンの組み合わせがボクのお気に入りだ。
「さて……それで、ここからどうやって出ればいいのかな? シロさん、クロさん?」
ぎゃーぎゃー、と言い争って、今にも殴り合いを始めそうな二人に、ボクはこともなげに首を傾げる。
ピタリ、と喧嘩は止んで、クロさんが空を見上げる。一方で、シロさんは流れ落ちてくる毒色の沼を眺めてから、クロさんに顔を向けていた。
「んー、どうしようかな……ロゥは、外界に向かうんだよな?」
「そうだよ。でもとりあえず、この大穴に落ちないように、地上に戻りたいかな」
「――ヴリトラの馬鹿がご迷惑をお掛けしています、ロゥ」
ボソリと喧嘩を売るシロさんに、けれどクロさんは今回は反応せず、んー、と口をへの字に悩んでいた。ボクは一歩だけ大穴から遠ざかる。
「まずは、クロさまのねぐらに行くかな。クロさま、腹減ったぞ」
「ヴリトラ。貴女の寝床に用事はありません。だいたい、食事など取らなくても私たちは死なないでしょうが」
「うるっさいぞ、馬鹿白雪! とにかく、クロさまのねぐらに行くぞ、ロゥ。そこでひとまずゆっくりしようぜ?」
「……あの、クロさん? クロさんのねぐらって、外界に通じてるんだよね?」
「さぁ、行こう!!」
ボクの質問を無視して、クロさんは意気揚々と跳び上がる。
信じられないほどの跳躍で、軽々と穴の開いた天井から地上に出ている。それをポカンと見送って、傍らのシロさんに視線を向けた。
「相変わらずの馬鹿さ加減です――ロゥ。私に捕まってください」
「あ、うん――――――ッ!? のぁぁ!?」
「舌噛みますよ?」
呆れ顔のシロさんは、ボクを軽々とお姫様抱っこして、クロさんと変わらぬ跳躍をみせた。それは凄まじい速度の移動で、思わず顔の筋肉が引っ張られて変顔になるくらいである。
空に向かって跳び上がったシロさんは、そのままピョンピョン跳ねていくクロさんを追って、同じように沼地の浅瀬を駆けた。
しばらくして、沼地の外れにある巨大な洞窟の入口に到達する。
「遅いぞ、白雪! メッチャ待ったぞぉ?」
「黙りなさい、ヴリトラ。ロゥを連れているのですよ? 本気で走れるわけないでしょう?」
ようやくボクは解放されて、地面に下りるが否や、近くの沼地に嘔吐した。胃の中がぐわんぐわんと揺れていて、かなり酔っていた。
そんなボクを見ながら、クロさんが心配そうな顔をしていた。
心配するくらいなら、最初からゆっくり歩いて欲しい――とは思ったが、口には出せなかった。文句の代わりに、ゲロゲロと胃の中の物を出す。
「お、おい、大丈夫か、ロゥ? 白雪、お前、何てことしやがる!? ロゥが死にそうじゃないか!?」
「死にそうなのは、ヴリトラのせいですよ?」
「ぁあん? なんでクロさまのせいなんだよ!? どう見たって、運んできた白雪が、丁寧に扱わなかったせいだろうが!?」
「――そもそも、ここに連れてこなければならなくなったのは、ヴリトラのせいでしょう? 私のせいにするのはお門違いでしょうに」
どうでもいいけど、どちらかボクを介抱して欲しい――とは思ったが、とりあえず気持ちを落ち着かせるべく集中した。
「――やっぱ、白雪はムカつくわ。殺す!!」
「――出来ることと、出来ないことの区別くらいつけられるようになりなさい、ヴリトラ」
またもや始まる極大な魔力同士のぶつかり合い。終末戦争みたいにドデカイ火球がクロさんから生まれて、それを迎え撃つようにシロさんが巨大な氷岩を生成する。
「……もういい加減に、二人とも喧嘩を止めてください!!」
ようやくまともに発言できるようになったボクは、汚い口元を拭ってから思い切り怒鳴った。
ボク如きの言葉が届くとは思えないが、もういい加減にうんざりだった。喧嘩するのは構わないけれど、殺し合いだけは許容できない。
「わぁお――こりゃ、ラグナード以上じゃん」
「……ええ。やはり私の感性は正しかったようですね。素晴らしい才能です」
ボクの叫びに、不思議と二人はピタリと争いを止めていた。
しかもなんだか満足気な表情で、絶対の君主に跪く臣下のように首を垂れている。
いきなり頭を下げられて、ボクは目が点になって挙動不審になってしまった。
「あ、え……? あれ? え、えと……二人とも、喧嘩、しないで、ね?」
「わぁってるよ、ロゥ。安心してくれよ。もうこれ以上、馬鹿白雪とは、本気の喧嘩は出来ねぇよ」
「ロゥ。いま私たちは、貴方の真言により、一時的に行動を縛られてしまいました。なので、ご安心を。喧嘩は出来ませんし、しませんよ」
「……真言?」
シロさんが何を言っているのか理解出来ないが、とにかく喧嘩は仲裁出来た、らしい。
釈然としないが、とりあえずボクは気を取り直して、クロさんに顔を向けた。
「あ、クロさん。それで、ねぐらってこの洞窟のこと?」
目の前に広がる洞窟を指差して、首を傾げる。
「ん? そうだよ。ここがクロさまのねぐらさ――この奥に、二人の愛の巣も作ってあるぞ?」
「あ、それは遠慮します。それよりも……ここを通れば、外界に行ける?」
「んん? あ、そっか。外界に行くって言ってたっけ? いや、無理だろ? クロさまのねぐらから、次のインドラ樹海には通じてないぞ?」
クロさんとボクの会話はまったく噛み合わない。
キョトンとした顔で可愛らしく首を傾げるクロさんを見ながら、ボクは頭が痛いと眉を顰めた。
「――ロゥ。なんだかんだと、ここまで強行軍でしたから、ヴリトラのねぐらで一休みしましょう。ちなみに、この馬鹿は言葉が足りていませんが、インドラ樹海への道順としては、この洞窟を通り抜けるのが一番の近道で間違いありません」
ポン、とシロさんが優しく頭を撫でてくれる。
それが知りたかったのだ、とばかりに顔を輝かせると、不機嫌そうなクロさんが、シロさんに睨みを利かせていた。
「……チッ。ムカつくけど、喧嘩出来ねぇから、悪態も吐けねえ。こりゃ流石、クロさまの旦那だぜ。クロさまが抗えないほどの影響力を持った〈竜使い〉は、ロゥが初めてだぞ」
「……はぃ? あ、えと……どうも」
「――どうやら、ロゥには〈竜使い〉としての自覚がないようですね。自らの強大な力に気付かないのも、とても魅力的ですね」
何の話か全く分からないが、二人の古代竜族がボクを誉めていることだけは分かった。少し面映ゆいけれども、悪い気はしない。
とはいえ、それはそれ。
後で詳しく聞くとして、先ほどのシロさんの提案には賛成だった。
先を急ぎたい気持ちはあれども、ボクの身体も精神もとっくに限界を訴えている。
「あ、その――クロさん。申し訳ないけど、ボクも一休みさせてもらいたいな……えと……何か食べれる物ある?」
ぐー、とその時、安心したこともあってお腹の虫が鳴る。
クロさんは、満面の笑みでグッと親指を立てて、勿論、と頷いた。大きな胸が揺れていた。
それからボクらは一旦、クロさんのねぐらがある洞窟内で一夜を明かすことになった。
クロさんのねぐらは、ねぐらという割には、シロさんのねぐらよりもずっと原始的で、光苔がびっしりと生えた鍾乳洞でしかなかった。
綺麗な水は流れていたが、当然ながら寝床になるベッドのような物はない。
ただし救いだったのは、クロさんが炎を司る古代竜族だからか、その場所は、信じられないくらい温かかったことだろう。
おかげで、そのまま寝転がっても風邪などは引かなそうだった。
だというのに――その夜、クロさんが用意した食事は、シロさんのスープに輪を掛けて不味かった。否、それはもはや、人が安全に食べられる物ではなく、端的に言えば腐った肉だった。
匂いだけは美味しそうだったから、一心不乱に口に入れて、胃の中で爆発する不味さを味わい、お腹を下してしまったのはご愛敬か。
そのおかげで、丸一日近く寝込んでしまって、出発が遅れたのは、また別の話である。
はてさて結局、翌々日にインドラ樹海に到達したボクたちは、そこを何事もなく通り抜けることに成功して、無事に外界へと旅立った。
そうしてここから、リィラ姉さんを探すボクたちの珍道中が、本格的に幕を開けるのであった。
クロさんとの出逢いを描いた前日譚




