第0話/リントヴルム雪山
ふとボクの脳裏に浮かぶのは、誰よりも大切で、何よりも愛しいリィラ姉さんのことだ。
リィラ・アリーチェ・イージス。
年齢二十二歳、ボクの八つ上の異母姉である。
ボクという存在を無視する実父と、顔すら知らない実母に代わって、十四年間、ずっと面倒を見てきて育ててくれた大切な人だ。
彼女の為なら、ボクのちっぽけな命なぞ何ら惜しくない。
瞼を閉じれば、いまでも目の前にいるかのようにその容姿を思い出せる。
誰もが眼を見張る眩い金色の長髪。
誰もが魅了される理知的で端麗な美貌。
誰もが羨望するたおやかで健康的な肢体。
文武両道才色兼備――どんな種類の人間にも分け隔てなく接することの出来る優しい人。しかも人望があり、カリスマがあり、誰からも好かれる人格者でもある。
およそ非の打ち所のない完璧な淑女。
そんな彼女こそが、ボクの自慢で憧れで最愛で唯一の家族、リィラ姉さんである。
彼女こそ、ボクの女神だ。
彼女こそ、ボクの全てだ。
彼女に捧げるボクの愛は、とてもじゃないが、言葉などでは言い尽くせない。
ボクは彼女さえいれば他に何もいらなかったし、彼女が幸せになるならばどんな屈辱、恥辱にまみれても痛くもかゆくもない。何の躊躇もなく、この命さえ捧げるだろう。
それくらい、ボクはリィラ姉さんを愛している。世界で一番、愛している。
そんなリィラ姉さんは、いまどこでどうしているのだろうか――
「ロゥ。呆としていると死にますよ。ほら足元、気をつけて下さい」
前を行くシロさんがボクの手をグッと引いた。途端、踏み込んだ岩がガラガラと崩れて、底の見えない崖下に転がっていった。
「――ロゥ。大丈夫ですか? 意識はありますか?」
ボクの冷えた手を、それ以上に冷えたまるで氷みたいな手で握り締めて、シロさんはその場で振り返った。
ボクは首を振って、大丈夫、と言おうとして喉をひくつかせるが、声の代わりに鼻水が出てしまった。
「……う、ん。大丈、夫……だよ?」
なんとか声をひり出して、凍りついた表情で必死に笑った。
「そうですか。それでは、あと少しだけ我慢して下さい。この調子なら二時間も歩けば、山を下りられるでしょう。そうすれば、ヴリトラ沼地です。あの沼地は、ここよりずっと暖かいですから」
「二、時間……?」
笑顔が引き攣った。まだ、あと二時間も歩くというのか。
するとボクの反応を見たシロさんは、何を勘違いしたのか、糸目のまま柔和な笑みを浮かべて、ええそうですよ、と頷いた。
「そう、たった二時間です。もうすぐですよ。ここからの下りは緩やかですし、道幅も広くなります。歩きやすくなりますから、頑張りましょう」
それが地獄の宣告であることを分からずに、シロさんはまったくの善意で、ボクへの配慮から、事実を告げてくれる。しかし、これは本当にきつい。
――とはいえ、この選択をしたのはボクである。
リィラ姉さんを追う為に、命を賭けることに決めたのは、ほかならぬボクの意志である。弱音を吐いている暇はない。
ふたたび変わらぬペースで歩き出すシロさんの後を、ボクはリィラ姉さんの妄想をしながら、気力だけで歩き出した。
山を下り始めてからそろそろ五時間が経つ。
その間、一切の休憩なく歩き続けるシロさんは、まだまだ常人の脆さを理解していないようだ。
ここは、千年王国エンシェント・イージスをグルリと囲むように聳え立つ万年雪の大雪山――極低温の極寒地獄、銀幕のリントヴルム雪山。
外界とエンシェント・イージスを隔絶している断崖絶壁の山脈であり、古代竜族が統治するとされる神の連峰だ。
伝説に語られる三つの試練の一つで、通称を『竜のねぐら』である。
この連峰の標高は一万メートルを超えていると伝えられており、中腹から頂上に掛けての気温は平均マイナス50度を記録している。雪山全体は常にブリザードが吹き荒れており、実際の体感はマイナス80度から100度とも言われていた。
それゆえに、三つの試練の中で最も厳しい試練とも伝えられていた。
英雄と呼ばれる〈竜使い〉でも容易には登頂出来ないと言われており、過去百年間の中で登頂出来た猛者は、偉大なる英雄王と呼ばれたボクの曽祖父だけである。
そんな大雪山を、ボクは着の身着のままの装備で挑戦していた。
もはや無謀を通り越して自殺志願者としか思えない挑戦だが、しかし同行してくれているシロさんのおかげで、奇跡的に対応できていた。
ちなみに、なぜこんな無謀な挑戦をしているか――それは三日前、シロさんとの出逢いに遡る。
◆◇◆◇◆◇◆◇
恐ろしく広い暗闇の空洞で、ボクはその修道服の女性と向き合っていた。
彼女は目覚めたばかりで呆けているボクに、優しい笑顔でこう言った。
「嬉しい。ようやく逢えましたね。永かった――気が遠くなるほど、永かったです」
薄く開いた翠玉の瞳に、一筋の涙が光っている。
はるか上空、岩壁の割れ目から空洞に差し込んでくる一条の淡い光が、彼女の白く端麗な顔を照らしていた。
「ここ……は? 天国、ですか?」
辺りの闇を見渡して、目の前の美しい女性を眺めてから、死後の世界でも痛覚はあるのだな、と他愛ないことを考えた。
「いいえ。ここは竜のねぐら――貴方が落ちてきた穴の底ですよ」
頭上の光を指差して、彼女は軽く言い放つ。そして首を傾げた。
「そういえば――貴方は、どうしてわざわざ落ちてきたのですか? そんな無茶などせず、入り口から来ればよろしかったでしょう?」
彼女のその言葉に、ボクは意識を失う前の出来事を思い出した。
そもそもボクは、好きで落ちてきたわけではない。
「……いや、落ちてきた、というか、落とされたんです。ボクは、生贄ですから――竜のねぐらに捨てられたんです」
悔しさを滲ませた口調で言って、理不尽なあの光景を脳裏に浮かべた。
ボクは匿ってくれたと思った賢者に売られて、王国に身柄を引き渡された。
その後、形だけの法廷が開かれて、結局は死刑判決――栄誉ある人身御供に選ばれる。
判決が出た翌日には、レティシア姉さんと王国軍に強制連行されて、着の身着のまま、竜のねぐらまで運ばれてきた。そして、七合目ほどにある竜の顎と呼ばれる地割れに、問答無用、情け容赦なく突き落とされたのである。
か弱いボクに抵抗なんて出来るわけはなかった。
逃げ出せる余裕も、そんな隙も一切なかった。
そもそもボクを連行しているのは、王国軍の中でも屈指の精鋭が百人である。しかもその猛者を引き連れるレティシア姉さんは、単独で一個師団を壊滅させる実力を持つ〈竜使い〉だ。
そんな連中に捕縛された状態で、手錠までされていたのだから、〈竜使い〉でさえないボクは、命を諦めるしかないだろう。
「……生贄? 捨てられた? よく、理解できませんが――ともかく、貴方が無事で幸いでした。あと少し運が悪ければ、岩肌に身体を削られて絶命していましたよ」
白い女性はボクの右腕をそっと触って、その顔に憂いを浮かべる。
彼女に触れられた瞬間、右腕に鋭い電撃が走った。
見れば、ボクは右腕から大量出血していた。どうやら落下時に岩壁で擦ったようである。
意識すると痛みは増すようで、全身を襲っていた鈍痛を上回って、右腕の傷が強い自己主張を始める。
あまりの痛みに右腕が痙攣しだした。
「あ、ぐ……い、痛い……」
激痛で思わず涙が滲む。そんなボクに彼女は微笑む。
「これを塗って下さい。治癒力を高める薬草です」
手渡された小瓶からは凄まじい異臭が放たれている。
その臭いで顔をしかめるが、彼女はボクの反応を痛みによるものと勘違いして、問答無用にそれを腕に塗りたくった。
「ぐ……ぐぅ……うぉ、う」
「しばらくすれば痛みも消えるでしょう」
彼女の言う通り、腕の激痛は少し和らいだ。だが、その腐臭にも似た異様な臭いのおかげで、ボクは呻くことしかできなかった。
とはいえ、感謝もせずでは、あまりにも失礼である。
ボクは情けなくも涙を流しながら、彼女に頭を下げた。その頭を、彼女はポンポンと優しく撫でてくれる。
「さて、それではとりあえず湯浴みでもしましょう。だいぶ身体が汚れていますし、そんな薄着では冷えたことでしょう。まずは温泉に案内します」
こちらです、と彼女はボクをお姫様抱っこで軽々と持ち上げて、そのまま洞窟の奥に歩き始めた。恥ずかしかったが、抵抗できる体力はなかった。
「……あ、あの……ところで、その……貴女、は……?」
五分ほど経っただろうか、黙々と歩く彼女に抱きしめられたままのボクは、沈黙と暗闇に堪え切れず、何とか声を搾り出した。
辺り一面は光の一切ない暗闇の世界である。
上も下も分からず、瞳を閉じているのか開けているのかさえ判別できない闇だ。
しかもこの闇の中で聞こえるのは、自分の呼吸音だけである。喋らなければ精神が保てなかった。
「――――」
ボクの問いに、彼女はハッとした様子で、一瞬だけ緊張した様子を見せていた。
「失礼、しました――そうですね。何を置いても、まずは自己紹介すべきでしたね」
「あ、いや、別にそんなかしこまった話じゃなくて……」
「――いいえ。とても大事なことです。この日をどれだけ夢見ていたことか」
たかだか名乗り合うだけなのに、なぜかとんでもなく大げさに言う彼女に、ボクは首を傾げる。
まぁ、何が何やらよく分からないが、恩人の名前さえ知らないと、どう呼んでいいか分からない。それはとても不便である。
「ボ、ボクは、ロゥ――ロゥ・グロワ・イージス、って言います。ロゥって呼び捨てでお願いします」
「ロゥ、ですね。畏まりました。今後はそう呼ばせてもらいましょう。私は、リントヴルムと呼ばれる存在です。近しい者たちからは、白雪と呼ばれていました」
耳元に届く冷たい吐息とその囁きに、ボクは思わず変な声を上げてしまった。
「――私の呼び名は、どう呼んでいただいても結構ですよ。ロゥから与えられる名であれば、どんな名であろうとも謹んで拝命いたします」
意味深な言葉が聞こえたが、その真意は訊かなかった。というよりも、頭が混乱していて、思考が胡乱だった。
「あ、うん。え、と、リント、ヴルム・白雪、さんですか? あ、え、で、好きに、呼んでいいの? じゃ、じゃあ――シロさん、とかどうでしょうか?」
ボクは昔から他人に愛称をつける癖がある。
それは初対面だろうと例外ではなく、いきなりで馴れ馴れしすぎるだろうとは思ったが、つい口を突いて出ていた。
彼女はしばし逡巡しているようだった。
気に障ったかな、と首を傾げたとき、優しくボクの頬が撫でられた。
「ありがとうございます、ロゥ。それでは、私のことはシロとお呼びください」
どことなく嬉しそうな声音で、彼女――シロさんは言った。
「えと、はい……わかりました。そ、それじゃあ、シロさん。一つ訊きたいんですけど、質問してもいいですか?」
「ええ、私の知っていることであれば、いかなる質問にもお答えいたしましょう。その代わり、私からも要望があるのですけれど、宜しいでしょうか?」
遠慮がちに訊ねたボクに、シロさんは強い口調で言った。ボクは一瞬ビクッとする。何か怒らせてしまったのだろうか。
「――その、堅苦しい喋り方は止めて下さい。もっと砕けた喋り方でお願いいたします」
しかし、身構えていたボクに投げられたシロさんの要望は、何とも拍子抜けの要望だった。あまりにもお安い御用なことである。
ボクはその台詞で一気に気が緩んで、微笑みながら息を吐いた。
知らず知らずに緊張していたようで、深呼吸したら少し頭がすっきりした。
「うん、わかった。それじゃあ、お言葉に甘えて――ねぇ、シロさんはどうして、この竜のねぐらにいるの? 随分と内部に詳しそうだけど……」
まず間違いなく、ボクの追手ではないだろう。
けれども、ボクを助ける為にここに来たわけでもなさそうだ。
敵か味方か、悪い人には思えないが、果たして――
「どうしても、何も――不思議なことを訊くのですね、ロゥは。この竜のねぐらは、私の家ですよ。詳しいのは当然ですし、いるのも当たり前かと思いますが?」
何を馬鹿な、とシロさんは不思議そうな声を上げる。けれどそれ以上に、ボクは不思議そうな声で問い返した。
「……家? ここが? ここって、竜のねぐら、だよね?」
ここは王族の許可がないと立ち入れない禁域である。
そして、千年王国エンシェント・イージスが建国されるより遥か昔から、古代竜族が住まうとされてきた聖域でもある。
ましてやここは、人が生活できる環境とは到底言えない極寒の地――冗談にしか聞こえない。
「ええ、そうですよ。ロゥも、それを知っていてここまで来たのではないのですか?」
「へあ? どう、ゆうこと?」
「――はい? どういうことも何も、私に逢いに、あの古の約束を果たしに、ここまで来てくれたのでしょう? それとも、まさか約束を聞かされていなかったのですか?」
シロさんが何の話をしているのか、ボクには皆目見当も付かなかった。
ボクが疑問符を顔に浮かべていると、身体がゆっくりと温かい何かに入れられた。
非常に温い。これはお湯のようだ。
ボクは薄汚い襤褸布を纏ったまま湯に浸かる。体中が弛緩して思わず感嘆の吐息が漏れた。
「ぁあ……気持ち、いいね」
さて、少しあったかくなり、頭に血が回り始める。
シロさんの言葉を信じるとすると、彼女は、王族の許可がないと立ち入れないこの場所に、何らかの理由で拘束されているのだろうか。
「……ねぇ、シロさん。シロさんの言う、約束、って何か聞いていい? ボク、心当たりがなくて……というか、シロさんは王族と関係あるの?」
「王族、というのが何かよく分かりませんけれど、約束を教えるのは勿論、構いませんよ? どうせ反故には出来ないものですし――約束というのは、私と永遠の契りを結ぶに足る相手を寄越すこと。つまり、私と子を成してくれる伴侶を差し出すこと、ですよ」
ボクは目をパチパチさせながら、糸目を少しだけ開けて美しい笑みを浮かべるシロさんを見上げる。
それはつまり、どういうことだ。
「……伴侶を、差し出す? どゆこと?」
「ええ。ですから、私はここで、私と契りを結べる相手を待っていたのです。そして、ロゥ。貴方が来てくれた――これより先、私と添い遂げてくださいますね?」
シロさんはニコリと小首を傾げた。リィラ姉さんに匹敵するほどの美貌、蕩ける笑顔だ。けれどその奥からは、拒否を許さない覇気が放たれている。
ボクは外気の寒さではなく、恐怖による震えで身体をビクつかせる。
「――寒いですか? ああ、私が入ると冷えてしまいますね。失礼」
シロさんはボクの震えを勘違いして、笑顔のまま温泉から出て行く。その言葉通り、ほんの少しだけお湯が温かくなった気がした。
ボクはあまり良くない頭をフル回転させて、状況を認知する。
「……えと、ボクまだ十四歳で、成人前、だよ?」
「ん? それが、どうしました?」
「…………あ、と、その……ボクみたいな未熟者じゃ、シロさんには、不釣り合いかなぁ……って」
「はて? ロゥほどの〈竜使い〉が、何を謙遜しているのでしょうか? むしろ、ロゥでなければ、私と釣り合いの取れる人間は居ないのではないですか?」
シロさんはボクを真っ直ぐと見詰めて、大絶賛で褒めてくれる。これほどの美女に、そこまで褒められて嫌な気分はしないが、正直、とてもじゃないが信じられない。
「……シロさん。何か、勘違いしてない? ボク、ここまで自力で来た訳じゃないし……実は〈竜使い〉の血筋だけど、能力が発現してなくて……」
真実を口にすると、シロさんの期待を裏切ってしまい、最悪、殺されるかも知れない。だが、ボクは嘘を言うのが苦手である。
しばし逡巡して、意を決してボクは本当のことを口にする。
しかし、シロさんはなぜかキョトンとして、口元に指を当てたまま首を傾げた。
「ロゥは、誰よりも才能がある〈竜使い〉ですよ? それくらい、一目見て分かります。私たちと旅したラグナード・グロワ・イージスでさえ、それほど強い魅力はありませんでした」
「……ラグナード・グロワ・イージス?」
ええ、と頷くシロさんに、ボクは目を点にして思考を停止させた。
けれど同時に、小さい頃リィラ姉さんに教えてもらった御伽噺を思い出して、可能性の一つに思い至ってしまった。
ボクは恐る恐ると口を開く。
「……シロさん……その……えと……貴女は、何者、ですか?」
「――私は氷を司る古代竜族です。この竜のねぐらで、貴方が来るのを、ずっとずっと待っていました」
ですよねぇ、とボクは笑顔で頷くシロさんに同意した。
創世の御伽噺――千年王国エンシェント・イージスが建国される以前、神話の時代を謳う御伽噺。それは、どこにでもあるような冒険譚だった。
遥か昔、ラグナード・グロワ・イージスという半人半神の青年がいた。
その青年は、誰もが平等に暮らせる幸せの国、夢の理想郷を求めて、世界を旅していた。
世界を巡る旅はとても過酷で、青年は旅の途中、何度も何度も挫折と絶望を味わった。しかし挫けることなく、多くの挫折と絶望を乗り越えて、世界の果てに目指した夢の理想郷に辿り着いた。
そんな青年には、雷と炎と氷を司る古代竜族が付き従っていたらしい。三体の古代竜族は幼く、青年と一緒に旅をしながら成長したとされる。
さて、この古代竜族たちだが、人化は出来たが、神の血を引いていない故に、夢の理想郷には入れなかった。夢の理想郷に到れる資格を持つのは、半人半神の青年だけだった。
それを知った古代竜族たちは悲嘆に暮れて、青年に傍に居てくれと願った。けれど、青年は夢を捨てることが出来ず、長く共に旅した古代竜族たちを騙して説得した。
曰く、いつか必ず迎えに来て、永遠を一緒に過ごすことを約束する。
三体の古代竜族はその言葉を信じて、夢の理想郷の手前で、待つことを選んだらしい。
転じてこの御伽噺は、千年王国エンシェント・イージスの始祖、初代国王のことを記した資料だとも言われている。そして、ここに謳われている三体の古代竜族とは、エンシェント・イージスを取り囲む三つの試練を揶揄しているとも言われていた。
シロさんは自らを、その古代竜族の一体であると言っているようだ。
にわかには信じ難いのだが、そう考えると納得が出来てしまう。
人が住めない極寒の雪山、リントヴルム雪山で生活していて、しかも『リントヴルム』を名乗る妙齢の女性。
この御伽噺が誇張だとしても、シロさんを人間とは思えなくなっていた。
「…………古代、竜族?」
「はい。そうですよ? 見て分かりますよね?」
「…………」
目をパチパチさせながら、シロさんの全身を事細かに眺める。けれど、どこをどう見ても、シロさんは美しい人間の女性にしか見えない。
一方でシロさんは、糸目から翠玉のような瞳を覗かせて、不敵に笑う。
「ロゥには、全てを曝け出しましょう。少しだけ恥ずかしいですが、とくとご覧あれ」
シロさんは纏っていた修道服をはだけさせる。現れるのは、それよりもずっと白く透き通るような美しい肌だ。
ボクに見せ付けるように、シロさんは傷一つない美しい裸体を曝け出す。
「あ――――」
目を大きく見開いて、その光景に釘付けになる。
シロさんの裸体は次の瞬間、巨大な竜に姿を変えたのだ。
『――竜化すると、冷気を抑えきれないので、ロゥの身体を冷やしてしまいますね』
軽く全長5メートルはあるだろう。見上げるほどに巨大なその白い竜は、澄み渡った翠玉の瞳をボクに向けながら、地響きにも似た音を吐いた。
超音波攻撃かと錯覚するほどのそれは、言葉として理解できる。けれど鼓膜は非常に痛かった。
ちなみに、シロさんの言う通り、白い竜の体表からはブリザードにも似た風雪が巻き起こっており、温泉が凄まじい速さで温度を失い始めていた。
『私の本性も見せました。これでもう、私とロゥは永遠の伴侶ですね』
途端にシロさんは人化すると、脱ぎ捨てた修道服を纏って、主君に傅くように膝を折った。
「――うん。どうしようかな……」
ボクはこう見えても、あらゆる状況にすぐ適応出来るのが強みである。どうしようもない場面は往々にしてあるが、嘆いても始まらないので、まずは状況を認めるのが肝要である。
そして、この状況を冷静に考えたとき、さして悪化はしていないんじゃないか、と思い至った。
だってボクは生きている。しかも、伝説に謳われる古代竜族にも出逢えた。これはむしろ、生涯最大の幸運ではないだろうか。
「ロゥ? 寒いですか? 震えていますよ?」
「あ、いや、大丈夫……これは、ちょっとした武者震いってヤツです」
シロさんに笑顔を見せながら、ボクは考える。
この際、シロさんの伴侶云々の発言は置いといて、うまく利用出来れば、リィラ姉さんを追えるのではなかろうか。
ボクをこんな目に遭わせた王国に復讐するのもありだろう。
だけど、復讐したところで、何の達成感もない。そもそもボクは王国に対して、何も思うところがない。
「だいたい……王国は放っておいても、勝手に、自滅するでしょ」
千年王国エンシェント・イージスは、生贄という幻想に頼らないとならないほど衰退していた。神の加護を失った王国は、早晩滅びるに決まっている。
ならば、放置こそ最大の復讐になる。というか、わざわざ自滅する王国に手を出す必要はない。
「ふふ……ふふふ……フハハ……ハクションッ!!」
「ロゥ。風邪を引いてしまいますから、そろそろ温泉から上がって、食事でもしましょう。薬草を煎じたスープを用意しますよ」
高笑いと同時にクシャミをしたボクを、シロさんは心配げに見ていた。
ボクはとりあえず言われた通りに温泉から上がって、シロさんが用意した清潔な布で身体を拭いた。
洞窟の奥に案内されると、松明で明るく照らされた二十畳ほどの広間があった。
そこには、よく乾いた藁で作られたベッドと、雪と氷で作られたかまど、大理石のようなテーブル状の岩があり、信じられないほど暖かかった。
あちこちにゴロゴロと人骨が転がっているのを無視すれば、とても快適な広間に見える。
「……これ、どうやって火を点けてるの?」
「その火は、人骨を薪にしています。人骨には、微弱な魔力が含まれているので、それを燃料にして燃やしています」
「…………火で、氷溶けないの?」
「ええ、大丈夫ですよ。私の魔力で維持している氷なので、摂氏二千度を超える高温か、魔力で強化した炎でない限り、溶けることはあり得ません」
「へぇ――冷たっ!?」
揺らめく炎を見ながら、ボクは氷のかまどに触れる。瞬間、凍傷しそうなほどの冷気に指を引っ込める。一瞬だったのに、ビリビリと指先が痺れていた。
「気を付けてください、ロゥ。そろそろですね――はい。薬草のスープです」
シロさんが差し出したどす黒い色をしたぬるま湯を受け取る。それは凄まじい悪臭を放っており、見た目も相俟って、とても人の食べる物には見えなかった。
しかし、シロさんは優しく微笑んでいる。
「…………はい。頂きます」
とりあえず一杯だけ口に含んで、ボクはあまりのマズさに言葉を失う。
それは、脳天を直撃するような刺激臭と、舌を破壊するような痺れが、同時に襲い掛かってくる猛毒じみた味わいのスープだった。
呑み込むことが出来ない。けど、呑み込まないと舌が痛い。
「―――ごくっ」
ボクはしばし逡巡してから、感情を殺して一息に呑み込む。
スープは致命的な味わいとは裏腹に、胃に落ちていくと途端、身体の内側を魔力で満たした。空腹もそれなりに充ちて、信じられないほど活力が溢れる。
「さて、それではロゥ。私は準備が出来ております。そのスープを飲み干したら、早速ですが、契ってくださいませ」
「……はぇ?」
シロさんはさも当然の顔をして、修道服を脱いで畳んでいた。
全裸で三つ指付いて向き直ったシロさんを前に、ボクは手元の毒々しいスープをジッと見詰めた。白い肌が眩し過ぎて、恥ずかしくて顔を上げられない。
「――ロゥ? どうかしましたか?」
どうかしましたか、じゃない。思春期真っただ中のボクには、あまりにも刺激が強過ぎる。
「……ボ、ボクは……その……初めて、で……」
「ご安心を。私も初めてですよ? なので、ロゥのお好きなように染めて頂ければと思います」
ボクは思わず唾を呑んだ。すると、口の中に残っていたスープの味が胃に落ちて、全身の血流が活性化し始めた。
まさかこれ、媚薬でも入っているのだろうか。そう疑った瞬間、疑問を肯定するように、ドクン、と大きく心臓が跳ね上がる。
「……あ、う……ボク……その……」
「ロゥ、どうぞ、遠慮なさらずに。私は先ほども見せましたが、古代竜族です。人間よりはるかに丈夫なので、多少無茶をしても結構ですよ?」
「……いや、別に……そういうわけ、では……」
「あら? もしかして、私から責めた方が良いのでしょうか? その方が興奮するというのであれば、ご要望の通り――」
「――ちょ、ちょっと待って! ボク、心に決めた人が居るんだ。それで、初めては、その人と、って決めてるんだ!!」
スッと音もなく顔を寄せたシロさんを手で制して、ボクは顔を逸らしながら断言する。
シロさんはボクの拒絶に、比喩ではなく物理的な冷気を放ちながら、無表情に首を傾げた。どういうつもりか、と殺意にも似た威圧が凄い。
「ロゥ。申し訳ありませんが、初めては誰が良いとか、そんな瑣末は私に関係ありません。ロゥと私は結ばれるべき運命です。それを拒否することは不可能です」
「いや、違うんです。えと、その……違うんです」
駄々っ子のように首を横に振るボクを見て、シロさんは怪訝な顔を浮かべた。
「何が違うのですか?」
「ボク、リィラ姉さんを探す旅をしなければならないんだ――だからここで、シロさんと子作りする余裕はないんだ!」
「……意味が分かりません。リィラ姉さんとやらを探すことは反対しませんし、勿論、私も同行いたしますよ? ですが、その旅をすることと、私と契ることは無関係でしょう?」
まったくもってその通り、正論である。
確かに、リィラ姉さんを探す旅に出ることと、シロさんと子作りすることは無関係だ。旅に出て、且つ子作りも出来るだろう。
しかしボクは、初めてをリィラ姉さんに捧げると決めてしまった。それは、もう覆せない決定事項であり、というか、リィラ姉さんとの誓約でもある。
その昔、リィラ姉さんが自覚なく結んでくれた誓約――ボクが大人になった時、リィラ姉さんを変わらず愛していて、清い身体のままであれば、結婚して子供を産んでくれる。
ボクが七つか八つの頃だから、恐らくリィラ姉さんは冗談半分で誓約してくれたのだろう。
だが、ボクはこれを真面目に受け取っている。これを逆手にとれば――ボクは近親相姦という禁忌を乗り越えて、リィラ姉さんと結婚出来るはずだ。
だからこそ、ボクはリィラ姉さんと結婚するまで、どれほど魅力的であろうとも、誰かに靡くわけにはいかない。
たとえそれが、リィラ姉さんに匹敵するくらい魅惑的な絶世の美女が相手だろうとも。
「……じ、実は……ボク……リィラ姉さんと結婚を誓ってるんだ……だから、結婚するまでは清い身体で居たいと思ってて――」
「――ロゥは、私の伴侶ですよ? どこぞの塵芥に譲るつもりはありません。なので、そんな結婚の誓いなぞ知ったことではありません」
「あ、う……えと……その……」
「さあ、ロゥ。スープの残りを飲み干して、私と契りを――」
有無を言わせぬ威圧を放ちながら静かに顔を近付けてくるシロさん。
その顔を真正面から見詰めると、白く美しく整った顔立ちに少しだけ朱が浮かんでいた。それを可愛らしいと思ってしまった時点で、もう術中にハマっていると言えるだろう。
ボクはグッと拳を握って、自分の横顔をグーパンチした。
「――ロゥ!?」
「痛い……けど、これで……少し冷静に、なったな――『誓約』ボクが望みを叶えた暁には、シロさんと結ばれて子作りすることを誓う。対価として、シロさんはボクの望みを叶えたまえ」
こうなっては折衷案だ。
ボクは目的の為なら、何を捨てても構わない心構えである。そして目的とは、リィラ姉さんと結ばれることだ。
正直、リィラ姉さんと結ばれた後ならば、愛人を何人囲おうと問題ない――個人的には。
「……はぁ?」
ボクの突然の誓約に、シロさんは首を傾げて、怪訝な表情を浮かべている。何を言っているのか、と強い非難の色が窺える。
けれどここで怖気づいてはいけない。強い口調でもう一度、心を篭めて宣言した。
「シロさん。ボクと誓約してよ。『誓約』ボクが望みを叶えた暁には、シロさんと結ばれて子作りすることを誓う。対価として、シロさんはボクの望みを叶えたまえ」
「……意味が分かりませんが、いいですよ? 『誓約』私は、ロゥの誓約に準じる」
シロさんが頷いた瞬間、見たこともないほど強力な魔力が文字となって宙に浮かび、ボクの誓約文字を呑み込んだ。それは渦巻く魔力球になり、次いでボクに降り注ぐ。
これ、きっと破ったら死ぬとかそんなレベルじゃない気がする。
一方で、ボクの誓約による魔力文字は、シロさんの白い肌に溶けるように染み込み、瞬間、霧散する。
「…………あれ? もしかして、誓約が掻き消された?」
「ええ。当然ですね。流石に私とロゥの魔力差では、満足に誓約なぞ成立しませんよ。けれどご安心を。私がロゥの望みを裏切ることはいたしません」
言いながら、服の上からスゥっとボクの胸板を撫でた。すると、服が凍り付いて埃のように舞い、瞬く間にボクは、上半身裸になった。
シロさんの吐息が耳に当てられて、あまり大きくない胸が密着してくる。あまりにも自然に、ボクを抱き締めてくれたようだ。
「――シロさん!?」
「さぁ、ロゥ。残りのスープは口移しで――」
素早くボクからスープを奪い取って、一口に飲み込んでいた。そして流れる動作でそのままボクに口づけする。
シロさんのひんやりした唇を感じた直後、激痛を伴う腐臭が鼻を突き抜けて、胃に流し込まれた。
シロさんの舌が絡んでくるが、正直それどころではない。初めてのディープキスにクラクラするのではなく、そのスープの不味さにクラクラした。
「心ゆくまで愛し合いましょう、ロゥ」
「――待て待て待て、ちょい待って!!」
パタリとシロさんの裸体に押し倒されてから、ボクは口を拭ってゴロっと転がって起き上がる。
性的興奮じゃなくて、スープの副作用で荒い呼吸のまま、ボクはシロさんに血走った目を向けた。
「シロさんは、ボクの望みを叶えてくれるんだよね?」
「ええ、そうですよ?」
「なら、なんでボクを押し倒すんですか!?」
「先ほどの誓約は、ロゥの望みを叶えることです。叶える前に子作りしないなぞということは誓約していませんよ? つまり、婚前交渉は当然の権利でしょう?」
またもや正論だ。だが、今回はこれを論破できる。
「それは違うんだよ、シロさん。ボクが今ここで、シロさんと契りを結んじゃうと、ボクの望みが叶えられなくなるんだ」
ボクの宣言に、シロさんは薄い目を少しだけ開けて、露骨に苛立った表情を浮かべた。
「……意味がわかりません。どういうことですか?」
「うん、実は――」
ボクはリィラ姉さんと昔交わした誓約について説明する。それを聞いたシロさんは呆れた顔になり、重苦しい溜息を漏らしてから修道服を着た。
「……なるほど。つくづくロゥは、ラグナードと似ているのですね。理解しました。まぁ、私は気長に待っていれば良いだけですから、構いません」
シロさんは妖艶な笑みを浮かべてから、部屋の隅に座り込んだ。
「ロゥがもう少し大きくなれば、どうせ持て余した性欲の捌け口に私を選んでくれるはずですから、今この時を逃しても惜しくはありません」
そんな捨て台詞を吐いてから、シロさんは黙り込む。
ボクは倒れ伏したまま、胃の中で暴れる激マズスープと格闘しながら目を瞑る。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから二日、シロさんと生活してみて分かったことは、彼女が正真正銘、伝説に謳われる古代竜族だということだった。敵に回すと、レティシア姉さんより危険で、逆に味方にすれば最強の矛になる存在だと理解できた。
ボクはシロさんの性格を把握することに努めて、何が逆鱗になり何が琴線となるのか、まずそれを必死に覚えた。そして、乗り気でなかったシロさんをなんとか説得して、リィラ姉さんを探す旅に全力で協力してもらうことに成功した。
ところで、シロさんにリィラ姉さんのことを聞いたところ、有力な情報を聞けた。
どうやら先日、ボクが来るよりも前に、何者かが単独で雪山を踏破したらしい。
――これは、間違いなくリィラ姉さんだろう。
リィラ姉さんは、千年王国史上、始祖に匹敵するほどの才能を持つと言われる〈竜使い〉だ。
偉大なる英雄王である曽祖父を超える逸材と噂されており、いずれは王国を代表する〈竜使い〉になると期待されていた。
そんな天才のリィラ姉さんならば、三つの試練を突破するくらい朝飯前なはずである。
リィラ姉さんが、竜のねぐらを踏破した。そう確信したボクは、もう迷わなかった。
急ぎ体調を整えて、すぐさま旅立つことに決めたのである。
はてさて、そうしてこうして、シロさんとの出逢いを経てから三日後、ボクはリィラ姉さんの後を追っ竜のねぐらを飛び出した。
ひとまず目的地は、三つの試練を超えた先、誰も到達したことのない外界である。
ちなみに、シロさんと生活していた洞窟からは、わざわざ山頂を踏破せずとも向こう側に抜けることが出来る下山道があったので、遠慮なく利用させてもらった。
とはいえ、それでもだいぶ厳しい道のりだ。実際、ボクが単独だったら、一時間も経たずに凍死していたに違いない。
それがこうして、いまにも死にそうではあるけれど、何時間も歩き続けてまだ無事に生きていられるのは、ひとえにシロさんが与えてくれた古代竜族の加護のおかげだった。
なんかよく分からないけど、古代竜族の加護の恩恵は、ボクの持つあらゆる能力を底上げしてくれる。さして体力も魔力も才能もないボクが、この加護の恩恵で、そこらへんの〈竜使い〉よりもずっと強くなれたのだ。
まあ、だとしても、五時間越えの下山はだいぶ厳しい――いや、そろそろ六時間か。
過去を振り返っていると、それなりに時間が進んだ。意識が朦朧としていたとも言えるが。
「ロゥ、大丈夫ですか? 意識ありますか? 足元気をつけてください」
「……あ、うん……」
瞬間、現実に引き戻された。見れば、谷底に向けて、足を踏み外しそうになっていた。
危ない、危ない――と、冷や汗を掻きながら、シロさんの冷たい手に引かれるまま、道幅の広くなった雪世界を進む。
「――へぇ? よくもこの雪牛を殺したものです」
ふと、聳えるような巨大な雪の塊が正面に現れる。それは軽く4メートルを超えており、表面には棘のような氷柱が生えていた。
シロさんはその塊に触れながら、少しだけ糸目を開いて、何やら感心している。
「シロさん……ここは……行き、止まり……なの?」
「いいえ、これは壁ではありません。侵入者を阻む敵であり、この雪山の門番。雪牛という狂暴な肉食の魔族です。これを倒すのは容易ではないのですが、リィラとやらは中々の強者ですね」
雪の塊の表面を撫でると、そこには鋭い刃物で貫かれたような小さな穴が穿たれていた。
その跡を見て、ボクはそれがリィラ姉さんによるものだと確信する。リィラ姉さんが最も得意とする刺突剣での技だ。
「……リィラ、姉さん……だ!」
「見事な技です。この雪牛は、皮下脂肪と筋肉の壁が30センチほどあるのですが、それを一撃で貫いており、しかも急所を見極めている……なるほど。ロゥが御執心になるだけの器はありそうです」
シロさんはそう言って、スッと右手を振り上げた。瞬間、ドガン、と轟音が鳴り、雪の塊が氷の拳に殴り付けられて、底の見えない谷に落ちていった。
「さぁ行きましょう、ロゥ。雪牛がここで死んでいたということは、もう少しだけ歩けば、地上に辿り着きますよ」
「…………あ、うん……」
平然と微笑むシロさんを見ながら、ボクは谷底に落ちていった雪の塊を目で追っていた。
リィラ姉さんがきっと、苦労して倒したであろう雪牛とやらを、たったの一撃で吹っ飛ばす力量。これがシロさんである。
心の底から敵じゃなくて良かったと思った。
シロさんの言葉に従って、ボクは今までと同じように先行して歩き出す。
しばらくすると突然、荒れ狂っていた吹雪がピタリと収まり、雪のない大地が見えてきた。
まるで境界線のようにキッカリと色分けされたそこに到ると、気温が一気に高くなり、じめじめした腐臭が漂ってきた。
「……ここ、が?」
「ええ、そうです。ここから先が、強力な毒気と瘴気が充満する荒廃した沼地――ヴリトラ沼地。あちこちに底なし沼があり、時折、溶岩が溢れ出す死の沼地です。足元には本当に気を付けてください」
「……ん? 足元に気を付けて、って……あれ? 道なんてなくない? ってか、底なし沼? え、溶岩? あれ? そんな、危険なとこ、なの?」
あれれ、おかしいぞ。
御伽噺にある二つ目の試練には、毒性のガスが噴き出す浅い沼地としか語られていなかった。底なし沼だとか、溶岩だとか、初耳である。
シロさんはキョトンとしてから、指差しながら説明を始める。
「道は沼の中にあります。ここは一見して広大な沼地ですが、実際はところどころ、足首ほどの浅瀬になっております。そこが道です。ちなみに、黒い部分が底なしで、赤が混じっているのが溶岩の流れる部分で、紫が瘴気を噴出します。だから目指すのは、深い緑色をした部分ですね。これはただの猛毒でしかないので、呑み込まなければ問題ありませんし、私の加護で防げます」
トントン、と軽やかなステップで、濁った沼地の中を歩き出す。シロさんの歩いた道は、確かにそれほど深くはないようだ。
ボクは仕方ないと覚悟を決めて、シロさんの後をなぞるように歩き出した。
シロさんとの出逢いを綴る前日譚。




