光、統べる者 15.
人の優しさ。
湖洲香の精神感応に包まれ、それをリアルに実感した栂井翔子。
優しさという情感の実感、それは同時に、彼女に罪悪感というものを認識させた。
自分の中の罪。
人を殺めた罪悪。
痛い、苦しい、怖い、悲しい思いをさせてしまった罪。
罪悪感、それは概念としてはラボ教育で何度も教えられてきたもの。
しかし栂井には、その真の理解は得られていなかった。
道徳や宗教的な教えなど、齢十一の少女には実感しろという方が難しい。
そしてその“罪悪感”というものが如何に恐ろしいものか、栂井は気付く。
自分の心を黒く蝕むように、じわじわと広がる自己嫌悪。
それは本当の恐怖。
自己嫌悪は恐怖の本質。
恐怖とは、痛いことでも苦しいことでもなかった。
柴山生花店への逃避行から白楼に連れ戻されてから、栂井は自分でも不思議なほど二人の所長が遺した言葉を考え続けていた。
亡き遠熊所長と古見原所長の言葉、教え。
栂井にとっては二人とも厳しく、特に古見原による教育時間は苦痛だった。
しかし不思議と思い出されるのは古見原の言葉が多い。
あの丸眼鏡越しの目は怖く、黄土色の『光の帯』はどこか残虐的でもあり、規律を守らなかった時の懲罰は本当に辛かった。
でも無意識に気付く。自分に必要な教えは主に古見原指導の中にあったのか、と。
湖洲香を助ける、守る、という気持ち。
それは彼女の“優しさ”を守るということ。
その“優しさ”をこの世界に残すということ。
“優しい湖洲香”を残すのではない。
“湖洲香の優しさ”を残すということ。
おじさんの優しさを、よしつぐさんの優しさを、守り、残す。
この優しさと残酷さが入り混じった世界に、少しでも多く『優しい』を残す……。
SAT小隊長の「構え……」という小さな声が聞こえた時、栂井のクレヤボヤンスは背後の『赤い魂色』に向いていた。
身体の中でグリュッと蠢く『赤』。能力放出の瞬間。
消して、きらきら、と言ったのは自分だ。
コズカにやらせてはいけない。どんどん悪い人にされてしまう。
だから言った。もういい、消して、赤いの、と。
先に出せば、コズカは出さない。
自分が出せば、コズカは無駄なことしない。
…全部速い魔女っ子。出すのも、視るのも、わかるのも、みんな速い。
「……てぇ!」
小隊長の発砲指示の直前、既に栂井の『赤紫』は一気に壁状に拡がっていた。
栂井、湖洲香、そして棚倉を囲う赤紫の『光の壁』が、連射される機関拳銃の銃弾を次々と止める。
空中にぴたっと止まる銃弾がぽとぽとと床に落ち、転がった。
「危ないですわ、もう。」
少しも取り乱さずに、だが怒気を伴った湖洲香の声がつぶやく。
彼女の『赤』が放出されなかったことにほっとする栂井。
しかし湖洲香のやや後ろにいた棚倉は、急激に顔色を変えた。
…う、撃った、本当に撃ちやがった……殺す気だ、警察は俺たちを殺す気なんだ!
確保する気など最初からないのだ。
そうだ。
能力者は殲滅、奈執さん達の言う通りじゃないか。
今も『能力者狩り』は続いているのだ。
冗談じゃない!
自由のための戦い、俺の自由! こんなところで死ねるか!
組対警官とSAT隊員は、漂う硝煙の中で少しも表情を変えない化物少女に思わず後退りをした。
信じられないといった目で床に転がった銃弾と少女を交互に見ている。
モニター越しの警視総監、警察庁長官、警察庁次長も同様に驚きの目を隠せない。佐海警視監だけが表情を変えぬまま、内心で胸をなで下ろしていた。
棚倉が動き出す。
『赤』の拘束が解かれている今しかない。
しかし魔女の能力は素早い。
捕まる前にやらなければ。
…もう冷静も慎重もない、殺されてたまるか!
棚倉の目は血走り、呼吸は荒くなっている。
彼の灰色と白の『光の帯』が会議室の床に向かって放出された。
それは床面すれすれを乱雑に波打ちながら碓氷とSAT隊員達の前へと伸びて行く。
彼の目論見は混乱を生じさせて隙を作ること。
そして彼自身が破った窓から飛び降り、ここから逃げ出す……。
この棚倉の行動、栂井にはさすがに予測すら出来なかった。
一瞬先んじて察知した湖洲香には、それが碓氷への抵抗に見えた。
「碓氷さん! 気を付けて!」
湖洲香にしてみれば確保のチャンスを促したつもりだ。
だが知らない。碓氷が指示なくテレキネシスを使えないことを。
ズガッ!……ビキビキビキ……
碓氷の足元に突き刺さった『灰色』は瞬く間に横幅を広げ、会議室の床に亀裂を作り始めた。
「何してるんですの! 碓氷さん! 確保ですわ!」
湖洲香の叫び声を尻目に、不味い、と思った碓氷は隊員と警官達に後退を促す。
「床が抜けるぞ! 退避! さがって下さい!」
だが棚倉の作った亀裂は会議室の壁をも崩し、廊下の床へと回り込んだ。
ズズズズズズ……
会議室と廊下の一部が勢い良く沈み始める。
よろける隊員、警官、そして碓氷。
「碓氷さんったら! 何をして……」
感極まった湖洲香がテレキネシスを出そうとしたその時、栂井が叫んだ。
「いいから! コズカ、いいってば!」
床を透過した栂井の『赤紫』がその先端を三次元空間に出現させ、下から床を支える。
沈んだ床が動きを止めた。
警視総監から警察庁の司令室へ音声が入る。
『また発砲させますか? 長官。』
警察庁長官は額の脂汗を拭った。彼らには床の損壊が栂井の仕業に見えている。
「化物め……機関銃が駄目なら、そうだ、警視監、超能力者の彼に、碓氷と言ったか、やらせろ。あの少女を超能力で止めさせろ。殺傷もやむを得ん。」
「は、しかし……」
佐海にも床を壊したのが誰なのかは見えていない。
でも、だからこそ視えていたはずの碓氷に状況を聴く必要がある。
佐海にはこの状況で栂井が攻撃して来たとはどうしても思えない。無論、若邑でもないはずだ。とすると……だが長官は聴く耳を持たない。
「いいからやらせろ。念力か? テレキネシスとか言うのか? 潰せ、この化物を。」
無知、とは恐ろしいものだ、と佐海は思った。
権力を持つ無知は尚更だ。
立場上抗う事は許されない佐海は言葉を選びつつ長官指示をマイクに向かって伝える。
「碓氷巡査、テレキネシスの使用を許可する。栂井翔子を止めなさい。そして迅速に確保だ。」
それを受けた碓氷から通信が返る。
「ですが局長、沈んだ床を今支えているのは栂……」
碓氷が言い終わる前に長官がマイクスイッチに手を伸ばした。
「君に意見する権限など無い。化物を潰すのが最優先だ。凶悪犯罪者はすぐに刈り取る。早くやりたまえ。」
…化物?
その長官の表現を聴き、碓氷は覚悟を決めた。
そう、今更ではあるが、使い手は人間だとは思われていないのだ。
碓氷が栂井に向けた目には、覚悟の中に悲愴感の色が漂っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
…ん……
薄暗い。
ここはどこだ。
第三階層か?
いや、知っている景色と違う。
どこだ、ここ……
白楼α棟地下十階。
集中治療室の連なるその一室で、彼、山本光一は目を覚ました。
だが、まだ彼にはここがどこなのか、それ以前に自分の生死すらも把握出来ていない。
憶えていること。
そうだ。
廃病院、地下の一室。
若邑湖洲香。
あの赤い魔女を道連れにスピリウルでマイナス百二十度を作り出した。
一呼吸するだけで肺は崩壊、吐血し死に至る温度。
でも。
ん?
変だ。
頭が重い感覚。
え?
まてよ。
頭?
まだ肉体の檻の中なのか?……
光一は二度、瞬きをした。
薄っすらと見えてきたのは白っぽい天井。
蛍光灯は消されている。
何か間接照明で薄暗い部屋の中。
彼は試しに呼吸をしてみた。
「んふっ、こほっ……」
少し咽せたが、肺や気管支に痛みは感じない。
酸素吸入器のようなものも付けられていないようだ。
布団、シーツ、枕……いつもの病院だろうか。
「んつっ……」
左腕を少し動かしてみた。
関節が痛む。まるで風邪で熱が出たあとみたいだ。
それにこの感触、点滴の針が入っているのか。
と言うことは、あの廃病院から誰かに助け出された、ということか。
一体誰に……
彼はこの場所を特定する為、クレヤボヤンスを発動しようとした。
が、思いとどまる。
迂闊に能力媒体を出すと誰に見つかるか判らない。
いや、いやいや、ちょっと待て。
ここが周りに使い手のいる環境だとしたら、目覚めた時点で察知されるはずだ。魂の明滅が始まるから。
しかし、誰も飛んで来ない。
光一は能力媒体の体外放出を抑え、肉体からはみ出さないようにしつつ第二階層クレヤボヤンスを使った。
…あれは喜多室! 近いぞ……ん、新渡戸、それに皆月もいる……
精神力の疲弊なのか、視えた魂色との距離感がいつもの様にすぐに測れない。
この能力の不調、前にも経験したことがある。
都筑院長の民間総合病院でこっそり拝借した鎮静剤を投与した時だ。
魂の明滅を一時的に失くす効果があるバルビツール酸含有の鎮静剤。
遠熊蒼甫の研究論文にその記述があり興味本位で試してみたのだが、能力スペックは落ち、それに頭が重くなった。
…ん? 頭が重い?
光一は徐々に意識がはっきりして来たこともあり、今の状況を整理してみた。
まず、ここはどこか。
…やはりいる。明滅はしていないけど、あれは美馬さんだ。
喜多室が入院中、新渡戸に皆月岸人、そして美馬恒征、間違いない。ここは白楼だ。
ではなぜ、誰も駆け付けて来ないのか。
今ならテレポーテーションで簡単に脱走出来てしまう。
駆け付けないまでも、脱走を抑制する動きを誰かが見せるはずだ。
それは、その答えが……
…おそらく僕はバルビツール酸を打たれている。
確証はないが、この体調の感じ、十中八九間違いないだろう。
だから誰も来ない。
自分はまだ睡眠中だと思われているからだ。
で、あるならば、だ。必然的に浮かんでくる疑問。
バルビツール酸の投与など睡眠状態にあった能力者に使うだろうか。
これでは目覚めても気付かないではないか。
今がまさにその状況だ。
誰が、何の目的で……
たまたま麻酔薬や睡眠剤などに含有されていただけ、なのか。
…いや、それは無い。
蓮田忠志の一例がある。
刑事局関係の全員を欺き続けていた蓮田。その事例が、バルビツール酸含有の薬剤は能力者には使わない、と白楼でも徹底されている。前に調べたことだ。間違いない。
…違うのか? これはバルビツール酸の影響ではなく……ん!
誰か来る。
その者、魂は明滅していない。明らかに非能力者だ。
そしてその魂色。知っている。見覚えがある。
光一は目をつぶり、寝たふりを装った。
カチッ
光一のICUの蛍光灯が点けられた。
油断していたわけではないが、光一のまぶたは反射的にぴくりと僅かに動いてしまった。
気付かれただろうか。
「起きた様ですね。」
その声。
やはりこいつか。
光一は眩しそうに薄眼を開け、出入口の方に視線を向けた。
「伴瓜、えーっと、警視正、だっけ。あんたがやったの?」
伴瓜は大きい三白眼をギョロッと動かし、小首を傾げた。
「何が、ですか?」
「何か身体が怠いんだよね。」
「ん?」
「バルビツール酸、僕に打ったでしょ。」
伴瓜はそれには答えず、室内に入ると後手でドアを閉めた。
「一つ頼みがあるのです。光一君。」
穏やかな口調だが、表情が読めない男、伴瓜絢人。
『光一君』とはなんとも馴れ馴れしいな、と光一は不快感を覚えた。
それに妙だ。室内電灯が点き、こうして会話までしていると言うのに、新渡戸が来ない。
光一は憶測を口にしてみた。
「監視モニターまで切って、越権行為じゃないの? 警視正さん。」
それにも伴瓜は答えなかった。
そしてある意味光一には意外なことを口にした。
「君はまだ眠っている、と認識されています。ここを出るなら今です。そこで頼みたいのですが、警察庁に飛びテロリストを抑えて頂けないか?」
意外と言うか、伴瓜の立場を考えると、何を言い出すのだこいつは、という内容だ。
そして二つの疑問が解けた。
バルビツール酸を自分に投与したのはやはりこの伴瓜だ。更に何らかの方法でこのICUの監視モニターを無効にしたのもこいつだ。
ふざけているのでなければ、刑事局に対する離反行為ではないのか。
光一は考える。
一度死を覚悟した身だ。今更警察にどんな処置をされようと恐れることはない。
しかしながら伴瓜のこの誘導は、捉え方によっては『この隙に何処へでも逃げなさい』と言っているに等しい。
ならば、自分を逃す意図は何だ?
テロリストと言ったか。
おそらくは奈執のことだろう。彼が段階を踏んで計画を実行している、そのことだと思われる。
それを抑えろだと?
首謀者のこの僕に、か?
今からでも遅くはない、償いに正義の行動を手伝え、そう言っているのか?
皆月真人の霊に封印されていた事実の記憶、それが語る伴瓜絢人は杉浜光平の悪行にブレーキをかける、杉浜にとっては意のままにならない実の息子だ。
一見怖い者知らずの若者だが、どこか計算高く馬鹿ではない。
馬鹿ではないが、腹黒さも垣間見えない……
…その伴瓜が僕を逃す? ではなく、純粋に警察に手を貸せと言っているだけなのか?
判らない。
テレパシーを仕掛けようにも、今能力媒体を体外に伸ばしたらさすがに新渡戸は気付くだろう。
伴瓜もそれがわかっているからこそ堂々とここに来ているのだ。
とにかく、光一にとって一つ確かなことは、自分が警察に手を貸すなど天地がひっくり返ってもあり得ないということだ。
脱走のタイミングをくれたにしても、きな臭い以外何ものでもない。
それこそ何かの罠だろう。
「病人の僕には酷だね。ゆっくりもうひと眠りするよ。だいたいテロリストなんか興味ないしね。」
お前が描いたテロだろう、とでも言い出せば少しは人間味も感じるのだが、伴瓜の口をついて出た言葉は意外過ぎて光一を少なからず驚かせた。
「テロリストの名は若邑湖洲香、君にしか倒せない能力者なんですがね。」




