光、統べる者 16.
その言葉は、光一の閑散とした心情に微かなさざ波を起こさせた。
それはまるで、肉体を棄て、腐敗し切った物質世界を捨て、精神だけの世界へと旅立とうとしていた光一の後ろ髪に吹きかかる吐息の様に。
もうどうでもいいはずだった。だが記憶というものは残酷で容赦が無い。
赤い能力霊体。その完全体に締め付けられた、廃病院で味わったあの苦痛。
無論、初めての苦痛。
それはそうだ。完全体を展開出来る使い手など今まで出逢ったことがなかったのだから。
肉体の痛みとは別の、精神の神経とでも言う様なものが引き千切られる感覚。
あの時、精神力がざっくりと奪われ疲弊し切った光一は決めたのだった。
使い手勝負の勝ち負けなどどうでもいいが、この魔女だけは残しては不味い、刺し違えてでもここで潰す、と。
自分だけが発現出来る完全体、光一は能力霊体の“王”のはずだった。
物心がついた時には既になかった右腕と左脚も、それ自体は不自由や劣等には繋がらない。
光一にとっては無くて当たり前であり、手作業や歩行は能力霊体で問題無く行えた。
むしろ右腕や左脚がなぜ必要なのか判らないくらいだった。
怒りを覚えたのは自分の身体がこうなってしまった境遇。
御笠一巳の精神感応が視せてくれた真実。その取り巻く者達の悪行だ。
『君にしか倒せない能力者なんですがね。』
赤い魔女。
取るに足らない警察の飼い犬。
それが、この我が玉座と同等の高さまで這い上がり、噛み付いてきた。
心のさざ波は光一の中でしばらく揺れ続ける。
『君にしか倒せない能力者』
それが?
だから何なの?
あんた如きに煽られるような僕だとでも思っているのか?
伴瓜絢人。血縁的には僕の兄らしい。
でも僕はこいつに親近感や情などかけらも感じていない。
開かれた精神世界で、心霊の世界で、血縁なんか何の意味も持たない。
そう、お前は赤の他人だ。
伴瓜の言葉が想起させた『赤い魔女』の存在に微かに乱れた心情は、再び伴瓜の意図へと思考を移す。
そもそも、こいつは何がしたいのか。
学生時代の伴瓜は『能力者』の存在を知り、杉浜が持ち掛けた『能力媒体発現の臨床実験』に興味を示す素振りを見せる。が、能力者のブラックゾーンへ飛び込むことに成功した伴瓜はその施術の勧めをひらりと交わした。
そして中央省庁である警察庁へ入庁、刑事局に配属。それは伴瓜の実力もあるが、半分は杉浜を利用した伴瓜自身の操作だ。
刑事局捜査課長の椅子を手にし、仔駒雅弓や南條義継を陥れ、喜多室をも拘束した。
部下である『灰色』の使い手、その能力を利用して。
悪用して、と言う方が正しいか。
報告書改竄の黙認、そして聴取内容の捏造。
既にこの時点で内通者の一人であった特査の蓮田忠志同様、腹の内は真っ黒だと見える。
が、一方では白楼に拘束する事が出来なかった野放しの使い手を抑える強行手段、ともとれる。
果たすべき役割だけを見れば刑事局の目的には沿っているからだ。
それに、だ。佐海刑事局長の指示には表面上忠実に従っている。
指名手配中だった赤羽根博士の申し立て文書を指示通り押塚にも共有させ、紅河少年の聴取にも野神の他に、偽証の可能性が皆無である深越を使った。これも佐海の指示通りだ。
そして査問委員会、所轄へ左遷。刑事局としては当然の処置だ。
もしこれが、杉浜の口添えで刑事局に復帰出来ることを想定してのことだったとするならば、仔駒へのディプリバン不法投与もうやむやに出来る。
計算尽く、なのか。
いや、今それは問題じゃない。
篠瀬佑伽梨が殺された時の一件、魔女に穂褄庸介の脚を切断しろと指示した件、これらが意味するものは……
この僕が逃げ出せる状況を平気な顔で作るのはどうして……
光一は目を細めた。
手段を選ばずに目的を追い、組織に忠実だが汚れたこともする、ただ、そう見えていた。
蓮田の腹の中を知ってか知らずか、部下である使い手刑事の危険よりも結果を重視する、そう見えていた。
だが、全く別の視点からこの伴瓜を見ると、ある懐疑心が湧いてくる。
懐疑心と言うか、それは刑事局の目的とは全く無関係な感覚。
全く別で、無関係。
それは十三歳の光一だからこそ、ふと思い至ったのかもしれない。
…警官の発想じゃない。いや、大人の発想ではない……こいつ、もしかして……
使い手同士を戦わせて生き残るのは誰か、誰が最も強いのか、そんなことを追求しているのではないか。
ただのゲーム。
ゲーム感覚。
生き残りゲームの勝者は一体誰か。
ゴングは鳴りました。ファイトッ!
公民館に潜ませた根津と南條の戦い、喜多室はどちらに着くか、残念、無効試合。
発砲する警官を阻止し、野神らと戦うはずだった篠瀬、はい、脱落。
新渡戸対穂褄、穂褄優勢、炎使いならしっかりとどめを刺せよ。
若邑対穂褄、駄目だよ若邑君、言う通りやってくれないと。
美馬が武儀を撃破? 仲間割れはともかく、美馬が強いなら次に起こしますかね。寝ている場合ではありませんよ……
光一の想像の中で、伴瓜がにやにやしながら使い手同士の戦いを眺めている。
こんな想像に至ったのも、先の伴瓜の言い回しが引っ掛かったからだ。
『君にしか倒せない能力者なんですがね。』
そして極め付けは言わずもがな、光一自身を外へ放つ今の状況作りだ。
光一君対若邑、第二ラウンド!
……もしこれが単なる思い過ごしではなかったのなら、自分には怒気を抑えられる自信がない。
使い手は玩具ではない。いや、そんな次元の話じゃない。
殺すか。
ここでこの伴瓜を殺るのは、呼吸をするよりも簡単なことだ。
心臓を潰す。肺胞に水を入れ溺れさせる。首を落とす。
どれでも数秒で済む。
不愉快だ。
現世を捨てたはずなのに、こんな俗的な感情に未だに囚われるなんて。
まだなのか。
僕はまだ、精神世界には帰れないということなのか。
もう僕の玉座は無い。
いや、そんなものもともと無かったのかも知れない。
魔女だって、若邑さんだって被害者の一人だ。もう争う気なんかない。
奈執さんに任せたんだ。
御笠一巳は全て視ている。
今更僕がわざわざ伴瓜の為に手を汚す必要なんかない。
それが消えるべき存在ならば、後に残る者が片付けてくれる。
思い残すことも、やり残したこともないはずだ。
やり残したことも……
そう思う光一の心に不意に浮かんだのは、ある女性の姿だった。
ある時、御笠一巳が視せてくれたビジョン。
山の木々が途切れた崖、そこで飛び降りようとしてはためらっている女性。
『……ああ……うう、こういち……うう、う……』
御笠の精神感応はその女性の心情も拾っている。
見えない力で身の回りのものを切り刻み、ガラスを砕き、人をも切りつける悪魔のような乳児。
それを産んだのは私だ、こうするしか思い付かなかった、償いに私も飛び降りる、こういちを追って、ここから飛び降りる……怖い、でも怖い、怖くて飛べない……
その女性が過ったのはほんの一瞬だった。
光一は思う。こんな時に脳裏に浮かぶことを、未練、と言うのだろうな、と。
やはりまだだ。
まだ僕は世捨人にはなれない。
光一はちらっと伴瓜を見やり、すぐに視線を天井へと戻した。
自分達の計画を遂行し、尚且つ最善の結末へ導く筋書きは何か、素早く考える光一。
伴瓜の口車に乗るようで少々癪に触るが、ここは我慢だ。
こいつの正体が明らかになったら、その時はこの手で抜き取ったやつの魂を慰霊碑の裏にでも永遠に磔にしてやる。
「いいよ。行ってあげるよ、警察庁。」
光一の言葉の後、二秒くらい間があっただろうか、伴瓜は無表情なまま答えた。
「そうですか。頼みます。」
光一は皆月岸人が自分のクレヤボヤンスに気付いた気配を感じたが、敢えてそれは言わなかった。
テレポーテーションに入れば他の使い手にも直ぐに気付かれる。
その際の伴瓜の取り繕い方だが、山本光一は勝手に脱走した、と言う可能性が高い。
そして警察庁で山本も確保対象、とまあそんなところだろう。
…それは想定の範囲内だよ、っと。
光一は怠い身体を起こし、瞬間移動の初動に入った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
赤色灯を回転させ緊急サイレンを鳴らしながら、風見の運転する覆面パトカーは都内の国道を霞ヶ関へと猛進していた。
後部シートに座る紅河と義継は、二人とも緊張の面持ちで内ドアハンドルや前部シートの背にしがみついている。
ガゴンッ
「うお……」
「ま、また……」
車のボディが何かにぶつかった。
おそらく歩道と車道の間のガードレールだ。
これで何度目の接触か。
「あの、もちっと、おて、お手柔らかに……」
「あ!?」
紅河の言葉に、うるさそうに声を返す風見。
横で義継が紅河を見て首を横に振っている。
「人を轢いてないだけマシだと思おう、紅河クン……」
「いや、だって、信号無視だけじゃなくて、対向車線とか平気で突っ込んでくし……」
「無駄無駄、ほら、レディース上がりだから、この人。」
「レディース? ああ、族ってことか、いやでも今は警官……」
「ごちゃごちゃるせーよ! 気が散る!」
「……」
「……」
風見は時折車外へ「緊急車両通過、緊急車両通過、車道の隅に退避停車願います!」と音声通達しつつ、アクセルを踏み続ける。
夏休みに入ったせいか、速度の遅い車がいつもより目立つ。
が、風見は殆どブレーキは踏まずステアリング操作だけで隙間へ、隙間へと車を捻じ込んで行く。
そして頭では紅河達高校生のことを考えていた。
指示とは言え、危険な現場へと彼らを運んでいるのは他でもないこの私だ。
なぜそんなことに今尚加担しているのか。
そして、気持ちの上ではそれを否定的に思いながらも、どこか心強く感じているのはなぜなのか。
自分の『光の帯』の色が不適合の天然色へと変化していったあの日、能力者ラボ教育の禁忌を溶かすまでに至った情動とは、一体どの感情だったのか。
知識、理念、規律保持、秩序立った思考の中ではそれを理解出来ていた。と、思っていた。
しかし、何か違うような、見落としている何かがあるような、釈然としない感覚がある。
能力を持たない高校生、紅河淳。橋石君も然り。探偵の南條治信氏もそうだ。
彼らの何が、気概なのか知恵なのか、一体何が、我々では解決出来ないものを好転させるのだろうか。
キュキキッキッ……ベキッ!
「ちょ、風見さん、破れた、ほら、ドアミラー、ヒビ入った……」
「ヒビどころじゃないっしょ。今ぶつかった路駐の車、ドアミラーが捥げて落ちたぞ、これ。」
「あん?……ああ、こんな所に停めてるやつが悪い。」
それは、我々刑事局の使い手は持ち合わせていない何か、なのだろうか。
ラボ教育に網羅されている教育項目は、その深さに偏りがあろうとも、欠落は無いはずだ。
何なのだろうか。
それは、それの本質は何なのか、それに気付かないと護る立場としては失格だ。
キキキュキュキュキッ!
「邪魔ぁ! 緊急車両に突っ込んで来るとは良い度胸だ!」
「……いや……」
「右折直後に対向車線に入れば100%こうなるっしょ。」
白楼事件の日、あの惨状から無事に生還出来た理由、その要因は何か。
おそらく本人達に聴いても明白な回答は得られないだろう。
彼らが無自覚に持ち合わせている何か、なのか。
赤羽根博士の所見をもっと聴いておくべきだった。
それに、ずっと紅河の側にいた若邑特査員とも情報共有を密にしておくべきだったか。
…我々には無く、彼らにあるもの。何なのよ一体。
霞ヶ関が近付く。
風見はクレヤボヤンスを発動した。
義継も無口になり、顔をやや伏せたまま意識を警察庁の方へ向け始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
県警察航空隊のヘリコプターに搭乗した治信は、予定ポイント通過の定時連絡の度にナビゲーションシステムに視線を向ける。
予定より五分程早くポイント通過、順調と言える進捗状況だ。
天候も悪くない。
ヘリコプターの手配は崎真警部が行ってくれた。
一般客を乗せる航空機では、治信には搭乗出来ない理由がある。
行き先の女木島で使う探偵のツール類、それが機内に持ち込めないのである。
なにも特別な重火器類があるわけではないが、例えばアーミーナイフ一式であっても刃渡に寄っては制限が掛かる。
今回は急な上に初めて行く離れ小島にあり、現地調達の目処も付けられないままの出発だった。
…にしても、こんな物まで。
三揃スーツのチョッキ、その胸元に手をやる。
慌てていたわけではない、と言うと嘘になるが、必要な道具をスーツの隠しポケットに詰め込む時の確認が雑だった、が正直なところだ。
普段は持ち出したことのない物まで持って来てしまった。
刃渡八センチくらいの果物ナイフ。
最初は、こんなナイフ持っていたか? と首をかしげたが、刃のカバー、樹脂製の鞘の部分を見て思い出した。
これは治信の母親、徳田信子が愛用していた果物ナイフで、実は治信にとってはあまり良い思い出の無い遺品だった。
と言うのも、亡くなる直前の信子はこのナイフでリストカットを繰り返していた。
それを息子の治信が取り上げて、隠し持っていたものだ。
いつか捨ててしまおうと考えていたのだが、結局母が自害により亡くなるまで隠していたことになった。
母の遺品はほとんど父の徳田将司に処分されてしまい、捨てるに捨てられず、その後ずっと治信が持ち続けることになった。
良い思い出は無いとは言え、大切な母の形見である。
故に、事務所から持ち出すことなどまず無い。
仕舞っていた場所が問題だった、ということになるのか、普段はあまり使用しない小型の道具類を急いで詰めて来た為、たまたま一緒にあったこの果物ナイフも引っ張り出してしまった訳だ。
…まぁ、取り立てて邪魔になる物でもないが、な。
パイロット警官がまたポイント通過の旨を県警察航空隊へ連絡した。
先より更に二分短縮。
治信は携帯端末を開き、事前に女木島へ上陸している知人探偵からの情報を整理し始めた。




