光、統べる者 13.
紅河淳の守護霊たる『紅』。
その紅が第三階層まで降りてきているのには理由があった。
…悪霊の成り掛け、か。
守護対象の生者に霊的な害をなす浮遊霊を遠ざける役目。
輪廻を幾度も繰り返し第一階層での修行を積み上げてきた、いわゆる等級の高い守護霊・紅はその力も強い。
にしても、今紅河淳に纏わりつこうとしている霊は少々厄介だった。
この霊は、人ではない。
…禰古末様か。それも輪廻から外れた逸れ者かえ。
だから階層を降りて来た。紅河に霊的な結界を張るために。
禰古末は元々ある男性に憑いていた。それが男性の嗾けによって紅河に近付いた。
その男性の祖先は果樹の園を仕切る農民で、紅の見立てでは生真面目に働くありふれた一族だ。
だが、その末裔である男性は『光る霊帯』を操る者。
現世では奈執と名乗り、この名は祖先が自主的に名乗ったものが今も残っているようだ。
『坊は問題なかろう。が、御犬様は苦労なされているようだがの』
『……』
紅の傍らにいる龍神は何も語らない。だが珍しく片目を薄く開け続け、禰古末の霊と犬の霊を見ている。
紅河の家族と生前を共に暮らした犬、アルプスと名付けられていた犬の霊が殺気立つ。
飛び回る禰古末に引きずられてそれを追い掛け回すアルプス。
アルプスの意識の全てが禰古末に向けられ、紅河の魂から注意が逸らされている。
でも紅にとってそれはどうでもいいことだった。
ただ紅河の魂だけを霊的な害から守れればそれでいい。
紅河に迫るテレキネシス、第一階層にはみ出した『光る霊帯』を、アルプスは時折気紛れに防いでいた。それも今の状況では、紅河淳は裸同然となる。
そして、それも守護霊・紅にとっては干渉すべきことではない。現世の血肉を自分で守るのは生者の務め、当たり前のことだ。
スナールはスナールで。
奈執の思惑は功を奏していた。
もっとも、その一部始終を監視している守護霊の存在など奈執は知る由も無いが。
紅がもう一つ注意を払っていること。
それは紅河の側にいる女性、第三階層にも時折意識を向けている女性刑事の存在。
…視られたところであの者に我の姿は輪郭も判らぬだろうがの。
気のせいなのか、それとも高次元を彷徨うという幽霊なのか、風見のクレヤボヤンス視界にちらつく光の塊。
でも風見にしてみればそんなものに気を取られている暇はない。
使い手の接近を監視する、そして護衛対象の二人を護る、それが彼女の使命。
真っ直ぐに自身の任務と向き合う。能力者ラボで身に付けた鋼の精神を以って。
棚倉と栂井の警察庁襲撃も今は意識から外す。……はずだった。
「え……これ、どういうこと!?」
たった今携帯端末で受信したファイル、その古見原警視起票の命令書にはこうあった。
『現任務は直ちに終了、風見紗夜巡査は警察庁へ速やかに移動のこと。棚倉仁、栂井翔子、若邑湖洲香、以上三名の制圧、確保に当たること。』
紅河と房生、二人の警護の後任については何も記載されていない。
いや、そんな事よりも……
「若邑さんの確保、って……県警にいるはずでは……」
急いで現場情報欄へと目を走らせる。
警備局公安課の警官三名が負傷、若邑自身が自分で負傷させたと発言している、とある。警察庁長官は警視庁へSATの手配を要請しているとのことだ。
碓氷巡査は警察庁に到着、同時に白楼を出た鏡水はその足で香川県の高松空港へ直行となっている。
そして県警にいた野神、白楼にいた天草も四国へ向かった、とあった。
秒単位でころころと指示が変わる原因はその次に記載がある。
…高松港のフェリー乗船客名簿に『雅和希、雅祐実』の名前あり、行き先は女木港、ですって!?
とうとう奈執本体のお出ましか。
それともフェイクによる罠か。
…瞬間移動出来る奈執がわざわざフェリーに乗るだろうか。
一瞬考えた風見はそれをやめた。
推理や考察は自分の仕事ではない。自分は指示通り迅速に動くだけだ。
彼女は『光の帯』を紅河と房生に伸ばした。そしてテレパシーで任務を離れると伝えようとした時、携帯電話が振動した。
画面を見ると『遠熊倫子 特査班長』と出ている。
「はい風見。……はい……え? 彼を、ですか!? そ、それは……」
突拍子も無いとはこのことだ。
さすがに風見は、それは出来ません、と反論しかけた。
遠熊の要請は“彼”を警察庁へ同行させて欲しいという内容だった。
湖洲香のマルサンが吹き荒れ数名の警官が手に重症を負い、更にSATまで手配されている現場に、だ。
遠熊の要請理由も判らないではない。
確かに“彼”は廃病院で制御不能に陥った湖洲香のマルサンを収めさせ、それ以前にも白楼事件でパニックになった湖洲香を正気に戻るまで守ってくれた。
だがしかし、だ。
…直接関係の無い一般人の紅河君を使い手の襲撃現場に? それが警察のやることなの?
電話口の遠熊の途切れ途切れな口調も、それが不本意であることは伝わってくる。
彼女こそそういうことは人一倍解っている警官だ。言葉には出さないが、それこそ警察失格な判断であると痛感しているだろう。
「で、ですが、班長……」
……ブロロロロロ、ブオォンッ! キュキキッ!
そう言い掛けた風見の背後に爆音と砂煙を上げてバイクが急停止した。
ライダーがフルフェイスを取る前に風見は気付く。
この服装、このバイク、南條治信だ。
後部シートにはジーパンにTシャツを重ね着した義継が乗っている。
「風見さん、警察庁の件、紅河君には?」
治信にも情報は共有されている。
風見は遠熊との通話が繋がったまま、首を小さく横に振る仕草をした。
「そうですか、でしたら彼には伝える必要ありません。こいつを湖洲香さんの所へ行かせます。」
そう言いつつ親指を後部シートへ向ける。
義継は前のめりにずれていた『安全第一』と正面に書かれている黒い工事作業用ヘルメットをちょいと上げ、風見に無表情で軽く会釈した。
風見は一旦携帯電話を口元から離し、早口で言う。
「いえ、一般の方をお連れ出来る現場ではありませ……」
「一般じゃないから僕が行くんですけど。」
すかさず言い返す義継。
風見が努めて冷静に、だが口調を強める。
「お気持ちは感謝致しますが、若邑さんがどういう状態なのか詳細不明、栂井と棚倉も何をしたのか不明です。それにSATも介入する現場に警察と無関係の方は……」
「なに、湖洲香さん、また何かやったんすか? 栂井とかSATとか聴こえましたけど。」
「あ……」
風見が振り向くと、練習フィールドから出て来た紅河がすぐ後ろでタオルを絞っていた。
治信も、聴かれてしまったか、と険しい表情をする。
「声でかいから……」と義継も気不味い顔でつぶやいた。
風見の携帯電話から遠熊の甲高い呼び声がかすかに聞こえる。
「あ、はい、すみません……」
『お願いしますね風見さん。紅河君のご実家にはこちらから電話させて頂きました。いい? 風見さんの主務は命令書と少し変わりますよ。第一任務は紅河君を命懸けで守り切ること。そして第二任務が湖洲香ちゃん達の制圧。頼みますよ。』
そして通話は切れた。
治信はバイクのエンジンも止めず、こう付け加えた。
「風見さん、今から私は女木島に飛ぶ。フェリー乗客名簿の名前は私の知人探偵からの情報です。それをそのまま崎真さんに流しました。義継を頼みます。それから紅河君、」
「はい。」
「来週から全国大会だな。大いに期待している。直ぐ帰ってよく寝ろよ。」
「……はぁ。」
そして義継を降ろすと、治信は城下桜南高校から出て行った。
紅河は絞ったタオルで顔を拭い、再び硬く絞った。日焼けしている腕の筋肉が浅黒く艶めく。
「義継クン、」
「ん?」
「俺はもう風見さんと行くけど、舞衣ちゃんまだ体育館にいるからさ、帰るまで見てあげてよ。なんなら家まで送ってあげて。」
「やだ。」
「襲われたらどうすんだよ。」
「誰に。」
「痴漢に。十四歳くらいの。」
「自分で蹴り返すだろ。あの単細胞なら。」
「可愛いし、いろいろと危険だろ。」
「知らん。」
「まぁ、とりあえず風見さんとは俺一人で行くから。」
「兄貴の言葉聴いてなかったのか? 紅河クンはオトナシク帰りたまえ。」
風見を無視したように会話する二人に、彼女の怒鳴り声が降り掛かる。
「なに勝手に決めているんだこのガキども! 私はどちらも同行には反対だ! 時間が無い! 私は一人で行く!」
すると紅河がガボガボとスパイクの音を鳴らしつつ風見に近付いた。
そして風見の開いた胸元を覗き込む仕草をした。
しかし風見は動じず、紅河を睨んだ。
「なによ。」
次の瞬間、紅河は素早く風見が手に持っていた携帯電話を奪い取った。
「フェイント。ちと待ってて、風見さん。」
そして部室館に向かい駆けていく。
「あ……このっ! 待て!」
それを追う風見。
呆れ顔の義継は右手でヘルメットをくるくる回しつつ思った。
兄の治信にしてみれば自分を警察庁に行かせることには大変な葛藤があっただろう。
一度SATの暴力で肩に大怪我もしている。
それでも、それしか選択肢は無かったのだろう。
自分で言っていた。今回は雅弓ちゃんを取り返すまで事務所には戻らない、と。
奈執の『使い手達の統率ぶり』は間違っている、やつとは必ず決着をつける、と。
そこには少なからず赤羽根伊織との約束を果たせないままの自分への苛立ちがあるに違いない。
…その感情が弟の僕の気持ちにも向いた、ってところか。
湖洲香を大事に思う義継の気持ち。
知りませんでした、気付いたら湖洲香は犯罪者扱いでした、という結末では、弟の義継は本当に世捨て人になってしまうかも知れないとでも思ったのかも知れない。
そして、思い出す。
初めて湖洲香と対峙した時のことを。
彼女の精神感応で、嘘偽りの無い彼女の深い悲しみの過去に涙してしまった自分を。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
石井が鬼ヶ島大洞窟の入り口に繋がる石段に着いたのは、港のバス乗り場から五十分程過ぎた頃だった。
距離にして三キロは無いが登り坂続きでさすがに息が切れる。
…もう一息か。
石井は顔の汗を拭きつつ石段を登り始めた。
そして大洞窟の入り口までは行かず、途中で舗装の無い山肌へと踏み入る。
目印は二本の百日紅の木。
白い花の百日紅と桃色の花の百日紅が一本づつ、桜の木々の間に並んで立っている。そこを入り、下り坂の山肌を降りて行く。
そう、あの一軒家は舗装道路が繋がっていない。
以前革靴で来た時は泥だらけになったものだ。
今日は服装はスーツだが靴だけは黒いトレッキングシューズを履いてきた。
一見他に目印の無い山肌が続くが、所々に柱状節理が現れる。
溶岩の噴出跡に出来る自然物とのことだが、その人工的な形状は何度見ても不思議だ、と石井は感じる。
柱状に地面から何本も突き出しており、断面は五角形だったり六角形だったりする。
その柱状節理の連なり方を見て、記憶を頼りに石井は進んだ。
「ん?」
四、五メートル先だろうか、木に自転車が立て掛けてあるのが見えた。
…こんな山肌に自転車?
注意深く足元を見ると、人の足跡と引きずられた自転車のタイヤの跡がある。
風雨に晒された感じではなく、新しい跡。
…もしや。
石井は歩みを速めた。
立て掛けてあった自転車を過ぎ、地面の土に岩石が混ざり始めた辺りで石井は立ち止まった。
大きな岩に人が寄り掛かっているのが目に入る。
…チューリップハット、青いジャケット、双眼鏡、やはり。
先ほどすれ違った男性だ。
しかし様子がおかしい。ぐったりとしている。
…昼寝でもしているのか? こんな所で。
石井が向かっている一軒家もこの先だ。
彼が楠木万凛を探しているのなら目的地は一致する。
別におかしくはない。
石井は少し迷ったが、彼の側を通るついでに声を掛けた。
「もし、先ほどはどうも。」
だが、返事は無い。
寝ているようだ。
しかしだらしのない格好だ。
両足をがに股に開き、両腕もだらりと落として岩に背を付けている。
更に男に近付いた石井はその異変に気付いた。
…呼吸を、していない?
いびきどころか胸や腹部がぴくりとも動かない。
「おい、あなた、大丈夫ですか?」
石井は身体を屈ませて俯いている男の顔を覗き込んだ。
「うっ……」
そして驚きのあまり一、二歩後ずさる。
チューリップハットの下の彼の顔、その目は虚ろに開いていた。
石井は恐る恐る男に近付き、手首や首筋の脈を確かめる。
直後、石井の額に嫌な油汗が滲み出した。
ほんの数十分前にすれ違った自転車の男、その彼は、死んでいた。
※差別用語とされている言葉を削除、変更致しました。大変失礼致しました。




