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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第二章
248/292

夷草の唄 9.

鍵の掛かった扉、扉の向こう側には重なるように鉄格子。

須釜すがまがその扉を開け、鏡水かがみずがその後を付いていく。

二つ目の扉までは廊下や娯楽室に患者が多く、自室に籠もっている者は少なかった。

だが、三つ目の扉を開けるともう廊下に患者は見受けられない。

その代わりに病室のドアの様式が一変する。

患者が自由に出入り出来ない個室が連なる、独居房病棟。

その中に山本公子やまもときみこの病室はある。


鏡水がクレヤボヤンスで視る患者達の精神色は、この独房病棟から変わり始めた。

人それぞれの魂の色は健全な一般人と何ら変わらないのだが、所々に極端に色調の濃い部分がある。

まるで魂にあざでも出来ているかのように。

白楼はくろう第一ラボの教育課程で知識として学んではいたが、鏡水が実際に視るのは初めてだった。

中には濃い部分が見受けられない患者もいるが、統計的に見た精神疾患が魂色に異常を来すのは間違いないと言えそうだ。


「ここです。お待ち下さい。」


そう言うと須釜は『1408』と表示のついたドアをノックした。


「山本さん、山本公子さん、面会の方がお見えです。」


返事は無い。いつものことなのだろう、須釜は表情を変えずドアに付いている開閉式の覗き窓から中を覗き、ドアの鍵を開けた。

中は八畳くらいの広さで、壁や天井は白く、小窓には内側から鉄格子が付けられている。

ベッド、トイレ、洗面台、本棚、そして机と椅子があり、公子は椅子に座って本を読んでいた。

須釜が中に入ると、彼女はゆっくりとドアの方へ顔を向ける。

その目はどこか虚ろで、虚空を見ているかのような目だ。

鏡水は第一階層に『光の帯』を出現させ、それを部屋の中へ進入させると隅々まで見渡した。

拘束具の類は無い。本棚は文庫版の小説が百冊前後。白い壁には数カ所に汚れのようなシミがある。


「読書中にすみませんね、山本さん。今朝お話した面会の時間です。きりの良いところで面会室に行きましょう。お茶菓子もお持ちしましたよ。」


無言で須釜を見ていた公子は静かに本を机に置くと、突然何か思い立ったように口を開いた。


「あ、ああ、そう、そうだ、そうだわ……」


須釜は軽く目を細め、落ち着いた面持ちで言った。


「どうしました?」


公子は須釜の問い掛けを聴いてか聞かずか、すっと椅子から立ち上がった。

そして壁の前に歩いていくとしゃがみ込み、丁度顔の高さにあるシミの一つを見つめ始めた。


…何をしているのだ?


不信に思った鏡水は『光の帯』を公子の頭上に伸ばすと、精神感応による読心を始めた。

公子の思考が鏡水に流れ込んでくる。


『やらないと……やりたくない……でもやらないと……やりたくない、こんなこと……ああごめんなさいごめんなさい、やります……やりたくない……やります、舐めます、ごめんなさいごめんなさい……』


鏡水の背筋に悪寒のようなものが走った。

公子は何もない壁を舌で舐めようとしているのだった。シミの原因は彼女が舐めたことによるものらしい。

そして、公子自身の意識はそれを異常な行為と認識しており、舐めたくないと思っている。だが……


『……やりたくない……でも舐めないと殺される……』


それをしないと殺される、乳児が笑いながら自分を切り刻む……そう彼女は思っている。

鏡水が不可解さかつ恐怖を覚えることは、その“壁を舐める”という殺されない為のルールが公子自身によって決められていることだった。

ルールの根拠までは読み取れない。ただ彼女が自分でそう思った、思った以上やらないと殺される、絶対的で不可避のルール。


…これが強迫性障害……


テレパシーで思考を覗いている鏡水には判る。

公子は本気でそう思っている。本気で乳児が殺しに来ると思い、本気で壁を舐めることが延命処置だと思い、舐めたくないこと、舐めているところを他人に見られる恥ずかしさ、情けなさ、惨めさも本心だった。


「山本さん、今読んでいた小説、もう男性ヴァイオリニストは出てきました?」

「え?……」


須釜の問い掛けに、公子は掠れ声を小さくこぼした。

彼女は小刻みに震えながら須釜の方へ振り向く。


「私も読みましたよ、それ。ネタバレはまずいでしょうが、もう半分以上読まれていたようなので。」

「え、ええ、出て、きたわ……」

「噴水公園でのソロ演奏は? 私、あの部分で泣きそうになってしまいましてね。」

「ええ、ああ、ええ。」


公子はゆっくりと立ち上がった。

鏡水が読む公子の思考には、不意にロンドン郊外の小さな公園の景色が浮かんできていた。噴水を囲む鳩の群れ、曇りがちの空、そこでヴァイオリンを奏でる二十代の貧しい男性……


「まだ男性は知らないんですよね、少女が引っ越してしまったこと。」

「ええ、ええ、ヴァイオリンをくれた女の子ね。」

「でもね、涙が止まらなくなるのはもっと先……おっと、言えませんね、山本さんが読み終わるまで。楽しみです、山本さんと感想をお話するのが。」


公子は目を泳がせている。物語の世界に想いを馳せて。


『先生も読んだのね……やらなきゃ……届くのかな、ヴァイオリンの音色……やらなきゃ、舐めないと……惨めなのは一瞬……』


強迫観念は消えていない。だが、少なくとも不気味に笑う乳児は意識の底の方に少しづつ沈んでいく。

壁を舐めないといけない、という使命感だけが強く公子を急き立てた。

そして再び壁の前にしゃがみ込むと、公子は四回、壁のシミの部分を舐めた。


『よし……これでよし……殺されずに済んだ……』


鏡水の表情が一瞬険しくなる。心が痛む。憐れでならない。

思いも寄らぬ奇行は、死の恐怖から逃れたいが為の切実な行い。

更に公子は、またこの様な惨めな行いをしてしまったと自分を責めてもいる。

ふと公子の視線が自身の腕に向いた。無数のためらい傷がある腕に。

須釜は穏やかな表情を崩さぬまま、公子に歩み寄った。

そして彼女にクッキーとあられ餅を差し出す。


「面会者がそこでお待ちです。おやつ、一緒に食べましょうか。」


自傷による罰を与える、という公子の意識がふっと薄らいでいくのが鏡水には読み取れた。


面会室はナースステーションの目の前にあった。

看護師がカウンター越しに鏡水に会釈をする。看護師は男性も女性も年配の者が多く、五十代から六十代に見える。

女性看護師が一人立ち上がり、ナースステーションから出て来た。そして一緒に面会室に入る。

面会室は備品が娯楽室に似ており、本棚やテレビもある。

看護師は三人分の緑茶を用意すると、頭を下げて面会室から出て行った。


鏡水は自己紹介の後、雑談の中で公子がクッキーを一つ食べ終わるのを待つと、本題を切り出した。


「息子さんのことをお伺いしたいのです。」


公子は急に顔を強張らせ、乱れた髪をかき分ける様に左の首筋辺りを荒々しく触った。

その首筋に傷跡があることに、鏡水は初めて気付く。

単刀直入過ぎるとは思ったが、公子が山本光一に関する記憶を思い描いてくれなければ話は進まない。

そして、会話を重ねる必要は無かった。

“息子”というキーワードだけで、公子は怒濤のように様々なビジョンを脳裏に展開させた。


崖から乳児を投げ落とすビジョン。

しばらく崖下を見つめ、自分も飛び降りようと悩むが出来ない葛藤。

妊娠後の長い入院。幾つもの管に繋がれて投与される様々な薬品。

入院中に訪れる男性……これは杉浜光平か。

覗き込む遠熊蒼甫所長の顔。


…遡っているのか、記憶が。


遠熊蒼甫の他に、公子の健康状態をケアする別の男性も見られる。これは……


…間違いない! 若邑わかむら博士、若邑兼久だ!


十九年前、1995年に北海道で失踪した若邑湖洲香の父親、若邑兼久。

それが山本公子の妊娠中の記憶にある……十四年前の記憶に。

少なくとも杉浜と遠熊博士は若邑博士の所在を知っていた、ということになる。

公子と杉浜の情事と思しき記憶も断片的に見える。

もう確証を得たと見て間違いないだろう。山本光一の父親は杉浜光平だ。


記憶の時系列が徐々に判りにくくなる。

幸せを感じていた記憶と不安や恐怖を感じた記憶が混在し、浮き沈みする。

公子の感情が鏡水自身の感情であるかのように錯覚してしまいそうになる……だが、鏡水は必死に客観者たる立ち位置を、不安定な意識の足元を見失わないよう努めた。


あの私立探偵の、南條治信の推察は事実だったようだ。

山本光一は杉浜の出資によって作られた人工の使い手。

愛する杉浜光平の名から一字を取り、光一と名付けたのは公子だった。

しかし、光一が泣くたびに、笑うたびに、公子は不可解な切傷を身体に受けるようになる。

最初は何かの医療的な事故かとも思った。

大丈夫だ、心配ない、と言う遠熊蒼甫。


だがある時、決定的な事態に公子は遭遇する。

光一が隔離されていた乳児室のガラス戸が突然弾け飛び、破れたガラスの隙間から笑いながら空中を浮遊してくる姿。


…悪魔……この子は悪魔だ……


「あ、ああ……あああ、ああああああああ!」


公子は狂人の様な叫び声を上げ、夢中で空中に浮く光一にしがみ付いた。

恐怖心の中に浮き沈みする、生みの親としての責任感。

スリッパは途中で脱げたのか、その建物を出た時は既に裸足だった。足の裏の痛みが断片的に記憶の中を過る。

どこをどう走ったのか、公子には明白な覚えが無い。あるのは山の中の森林の景色。

そして再び浮き上がる。

崖から乳児を投げ落とすビジョン。


この人……山本公子……なんて残酷な運命に……ただ愛する人の子を身籠っただけ……知らされてもいない……能力者を造る臨床実験だなんて……知りもせずに……


「……がみずさん……」


……酷い、酷過ぎる……杉浜……


「鏡水さん!?」

「あ、は、はい……」


須釜に肩を揺すられ、やっと我に返った鏡水は、涙で前がよく見えないことに気付いた。


「ここまでに致しましょう、山本さんも激しく呼吸を乱しています。少し心のケアをしなければなりません。あなたは大丈夫ですか?」

「え、ええ、はい、申し訳ありません、取り乱したようで……」


山本公子の心の中に巣食っていたのは、得体の知れない化物などではなかった。

化物ではなく、人間。

母親を無邪気に求めていただけの乳児、それを悪魔に変えてしまった人間の欲。


ラボ教育には、能力者の鏡水にとって捨て去らなければならなかった感情がある。

それは、どんなかたちであれ能力者が犠牲になるしか無い、という事実への反抗心。

能力を持たない一般市民の平和と秩序の為に、それは仕方のないことだと自分自身に刷り込んだ。

しかし、この件で犠牲になったのは罪の無い一般市民ではないのか。


…超法規的に守られている? 正義の為に?


国家公安委員、杉浜光平。

彼を能力者聴取の場に引っ張り出すことは本当に出来ないのだろうか……ある葛藤が、鏡水心春の中でせめぎ合い始めていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


…漁船の火災、奇蹟的な高波……ん、これか。


小松島警察署で『魚市場の事件』を調べていた碓氷うすいは、該当すると思われる事件記録を見つけた。

記録は、まず事件ではなく事故から始まる。

漁港に停泊していた大型漁船の内燃機関爆発により火災発生、市場内にも燃え広がったが高波にて鎮火、擦り傷等軽傷五名、右脚骨折等重症一名、死亡一名、とある。

その重症者の名が渋木賢太郎しぶきけんたろう、当時二十四歳、渋木遥子しぶきようこの父親と同姓同名である。

“地震は観測されておらず、奇蹟的な高波”という記述が、能力者の仕業を匂わせる。

死亡者について、名は御笠秀重みかさひでしげ、当時四十四歳、火災原因ではなく波にさらわれて溺死が確認された……ここまでが事故記録だ。


それが事件に発展したのは、この死亡者の死因が他殺ではないかと疑われたことだった。

容疑がかかったのは渋木賢太郎。

『波にさらわれたのではなく、渋木が突き落とした』という、目撃者を名乗る男性からの通報があった。その通報者は明らかにされていない。

最終的には証拠不十分で渋木は釈放されている。


火災事故や高波による鎮火の現場を、おそらく美馬詠泉とその父親が見ている。

彼女達に『光の帯』が見えるのであれば、渋木がやったのは一目瞭然だ。

もし、通報者が美馬の父親であったとしたら……彼にとっては『忌むべき能力』に見えたのかも知れない。


碓氷は署の資料保管室を出た。


「ん?」


廊下の突き当たりに小学生くらいの子供が立っている。男の子のようだ。じっとこちらを見ている。


…警察署に子供? なんだ? 親は?


署内で迷ったのだろうか。

不信に感じた碓氷は総務課へ連れて行こうと思い、子供に近付こうとした。


『魚市場にいたよ』


突然、テレパシーが碓氷の頭の中に入って来る。

慌てて周囲を見回す碓氷。

だが『光の帯』は見当たらない。


…マルサンか!?


瞬時に『光の帯』を放ちクレヤボヤンスを発動する碓氷。

だが、視えない。


「む……」


気付くと、子供の姿は無かった。

廊下の突き当たりは行き止まりで、左右にドアはあるが、部屋に入ったのならばさすがに気付く。

どこに消えたのか……いや、それよりも、今のテレパシーは何だ。誰なのだ。


…魚市場にいた、と言っていたな。


誰のことなのか、何のことなのか。

碓氷は小松島警察署を出ると、事件のあった魚市場へと車を向けた。

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