第二十三話
歩き慣れた坂を登りきると、佐条あきらは一つ大きく深呼吸をした。一年前の事件以来、すっかり訪れることも無くなっていたが、まさかこんな形で再び訪れることになるとは思っていなかったのだ。
「あきら?」
「ああ、大丈夫だから。気にしないで」
右斜め半歩前から声をかける桐谷静馬は、相変わらずの無表情をたたえている。正午を回って少しばかり強くなった日差しに目を細めながら、あきらは早歩きで静間の横についた。
「それにしても静馬」
「ん?」
「他に服無かったの? カッターシャツに黒ズボンじゃ、まるで中学生だよ?」
あまり頓着が無さそうに、静馬はカッターシャツをつまんでみる。清潔な印象を持たせる白い服を着ている自分にちぐはぐなものを感じて、静馬は僅かに瞬きをした。
「西島が用意したやつがこれだったんだよ。別に服に興味無いから、不満も無いけど」
呆れたように溜息をついて、あきらはいつも弟をからかう時のようにニヤリと笑った。
「後で私の家に来なよ。弟のだけど、服貸すよ」
まだ見ぬあきらの弟を気の毒に思いながら、しかし果たしてそれまで生きていられるだろうか、と考え、静馬は返事を濁した。
緩やかな稜線から顔を出す大きな西洋風の館が麻倉家であるとあきらから紹介された時、静馬はまだ記憶に新しい幽霊屋敷を連想した。
門をくぐり、屋内に入った時、幽霊屋敷との共通点が外観だけでは無いことに気付いたあきらは、へたりこんで嘔吐を繰り返した。
「やれやれ、僕はこういう血生臭いの慣れてるけど……それにしたってこいつはひどいな」
開け放たれた玄関から一歩踏み込むと、そこには中年の女性と思わしき残骸が残されていた。玄関は足の踏み場も無いほど血に塗れており、凄まじい屍臭を漂わせている。正門をくぐり、庭に足を踏み入れたところから二人は大体の事情を察していたものの、佐条あきらは耐えられず、桐谷静馬もまた惨状を目の当たりにして表情を不快そうに歪めた。
「あきら、この人は?」
嗚咽を漏らすあきらの肩をそっと撫でながら、静馬は現状を把握するべく、少女の手助けを必要とした。
「彩乃の……香織のお母さん……」
彩乃、という聞き慣れない名前を聞いて首を傾げるも、今の彼女にこれ以上の質問は不可能と判断した静馬は、あきらを背中に背負って血だまりを飛び越えて、適当な部屋に入った。
夫婦の寝室と思しき部屋に到着し、静馬は部屋の中央にどんと置かれたダブルベッドにあきらを寝かせる。ここ数年、ろくに使われていないのか、ベッドは盛大にホコリを巻き上げ、あきらは軽く咳き込んだ。
「あ、改めてびっくりしたよ、静馬」
「ん?」
「私を背負ってすごい距離を跳んだじゃない。5メートルくらい」
軽口を叩くものの、恐怖のあまり軽く声が震えている。話を聞こうにもこれでは話にならないだろう、と判断し、静馬はしばらくの間少女が落ち着くのを枕元に座って待つことにした。
幼い頃、風邪をひいた時に妹にされたのを思い出しながら、静馬はあきらの頭をそっと撫でる。一瞬びくりとしたものの、あきらはそのまま、されるがままになっていった。
「……何で頭撫でるの」
「嫌だった?」
「……別に、嫌じゃ、ないけど」
多少むず痒い顔をしながらも、あきらは徐々に落ち着いていった。十代の少年に見えても、見た目より恐らく何歳かは年上であろうと推測される男の優しい手触りに、あきらはほうと溜息をついた。
思考を切り替え、静馬の手を退けて上体を起こす。静馬もまた、あきらが復帰したのを感じ取って、先程まで撫でていた右手を引っ込めた。
「静馬、私がなんであの屋敷に香織といたのか、まだ言ってなかったよね」
沈黙をもって答え、静馬はあきらに話の続きを促した。
「香織にはね、双子の妹がいたの。麻倉彩乃っていう娘でね、瓜二つで見分けがつかないくらいそっくりで……」
語るあきらの双眼が僅かに潤むのを見て、しかし静馬はどうすることもできずにただ話を聞き続ける。目の前の少女の泣き顔は、どこか妹のそれに似ている。静馬は口にし難い不快感に包まれていった。
「いつから入れ替わっていたのか分からないけど、香織は彩乃になりすましててね。それで私は香織に騙されて屋敷に連れて来られたの……なんで気づけなかったのかな」
大粒の涙を零しながら、あきらは言葉を絞り出す。震える少女の頭を再度撫でながら、静馬は頭の中で一連の事件の時系列を作り出していった。
麻倉香織(仮)、暴走。西島久治、間もなく屋敷に到着するも、襲撃に遭い、屋敷に単身潜伏。
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麻倉香織(仮)、自宅に帰宅、母親を殺害。
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翌日、妹の麻倉彩乃になりすまして佐条あきらを幽霊屋敷に誘導。
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桐谷静馬、幽霊屋敷で覚醒。西島久治と合流し、佐条あきらと麻倉香織(仮)と接触。
「……屋敷に落ちていた携帯電話の持ち主が麻倉彩乃と考えれば、説明がつくな」
「え、どういうこと?」
しばらく沈黙を守っていた静馬の口から漏れた言葉に、あきらは涙に濡れた顔を上げた。
「実はあの屋敷に携帯電話が落ちてたんだよ。通話記録には【おねえちゃん】とあった」
「それって……!」
「ああ、おそらく麻倉彩乃の物だろうね。彼女は目が覚めた麻倉香織に電話で呼び出されていたんだ。そして、恐らくそこで彼女は殺された」
静馬は着実に答えに近づいていくのをはっきりと感じた。
「西島も、その一連の流れを直接ではないものの目撃している。いや、聞いていた、かな」
どちらにせよ、麻倉彩乃が存命している可能性は限りなく低い。そんな現実を突きつけられ、あきらは遂に、涙を流すことも止めた。
「……じゃあ、彩乃のお父さん、は?」
「真っ先に殺られただろうね。あの屋敷で」




