第9話 庭のバーベキュー大暴走
第9話 庭のバーベキュー大暴走
ウッドデッキが完成した土曜日、拓海は朝六時から庭へ出ていた。黒いTシャツにカーキ色の作業ズボンをはき、首には白いタオルを巻いている。新しいデッキの板からは乾いた木の香りが立ち、昨夜の雨粒が朝日に照らされていた。
「炭は大きさをそろえたほうが、火が均等に回るんだ」
拓海は炭の袋へ両手を入れ、大きな塊と小さな欠片を分けていた。バーベキューコンロの横には、炭ばさみ、軍手、うちわ、新聞紙、火消し壺が順番どおりに並んでいる。葵は窓からその様子を見ながら、冷めたトーストへイチゴジャムを塗った。
「お客さんが来るのは十一時でしょう。まだ五時間もあるよ」
「炭は奥が深いんだよ。下に空気の通り道を作って、火力の強い場所と弱い場所を分けるんだ」
「肉が焼ければ、私はどちらでもいいです」
「それでは厚い肉と薄い肉を同時に焼けない」
「わが家に厚い肉はありません。昨日、特売で買った豚こま肉です」
拓海は返事をせず、炭を積み直した。葵は味噌汁の鍋へ蓋をし、洗濯機から出したタオルを庭の物干し竿へかけた。今日は水遊びをするかもしれないため、古いバスタオルも五枚洗っておいたが、それでも足りない気がした。
今回のバーベキューは、ウッドデッキの完成祝いだった。拓海の勤める訪問看護ステーションから佐々木と木村が来るほか、ひかりの療育施設で知り合った藤田家と大森家も招いている。家を買ったばかりのころには、庭へこれほど大勢を呼ぶ日が来るとは、葵も考えていなかった。
ひかりは黄色いTシャツと赤い短パンを着て、朝から窓と庭を往復していた。胸には自分で描いた応援団長の名札を安全ピンで留めている。陽太は恐竜柄のエプロンを着け、冷蔵庫からウインナーの袋を勝手に出そうとして葵に見つかった。
「ウインナーはお客さんが来てからです」
「毒が入っていないか、味見する」
「毒は入っていません」
「食べないと分からないよ」
「袋に書いてあります。加熱してお召し上がりください、と」
陽太は文字を読めないくせに袋の裏をしばらく見つめ、冷蔵庫へ戻した。代わりに食卓のキュウリを一本持っていこうとしたため、葵は半分だけ切って塩を振った。陽太はそれをかじりながら庭へ出て、拓海の炭の山をのぞき込んだ。
「パパ、まだ火がないよ」
「今は炭を組んでいるんだ。煙突みたいに積むと、上昇気流ができる」
「焼けないね」
「十一時には完璧な火になる」
「今、ウインナー食べたい」
「十一時まで待ってください」
十時半になると、拓海はようやく新聞紙へ火をつけた。しかし湿気が残っていたのか、炎は炭へ移らずに消えた。拓海は炭を積み直し、空気の通り道を広げ、うちわで一定の速さを保ちながらあおぎ始めた。
十一時少し前、最初に到着した佐々木は、青いポロシャツに麦わら帽子を合わせ、紙袋を二つ提げていた。袋の中には焼きおにぎり用の醤油と、子どもたちのためのマシュマロが入っている。煙の前にしゃがみ込む拓海を見ると、佐々木は腕時計を確認した。
「桜井さん、ひょっとして朝から炭と話し合ってるんですか?」
「話し合いではありません。火力を育てています」
「そのわりに、火が見えませんね」
「今は炭の内部に熱を移しているところです」
「つまり、まだ肉は焼けないんですね」
拓海はうちわを動かしながら黙り込んだ。額から落ちた汗が鼻の先へたまり、白いタオルはすでに灰色になっている。葵が冷たい麦茶を差し出しても、拓海は「あと五分」と言って受け取らなかった。
そのあと、木村と藤田家、大森家が続けて到着した。藤田家の娘の芽衣は水色のワンピースを着ており、大森家の息子の健斗は新幹線の絵がついた帽子をかぶっていた。ウッドデッキの上には紙皿、割り箸、焼きそばの袋、下味をつけた豚肉が並び、甘い焼き肉のたれと刻んだニンニクの匂いが広がっていた。
「飲み物はクーラーボックスに入っています。子ども用は白い蓋、大人用は青い蓋です」
葵は来客を案内しながら、テーブルの端に置かれた靴下を見つけた。朝の洗濯物から一枚だけ落ちたらしく、拓海の黒い靴下が紙コップの横で丸まっている。葵は誰にも見られないようにエプロンのポケットへ押し込んだが、佐々木にはしっかり見られていた。
「桜井家では靴下も焼くんですか?」
「新メニューです。味つけは汗と柔軟剤です」
「それは遠慮します」
「私だって出しません」
来客の笑い声が上がるなか、拓海だけはコンロの前で炭を見つめていた。火がついた炭は数個しかなく、肉を置ける温度にはなっていない。拓海は朝から炭を並べていたせいで、肉を焼く前からデッキの椅子へ座り込みそうになっていた。
「着火剤を使いましょうよ」
葵が道具箱から着火剤を出すと、拓海はすぐに首を振った。炭と新聞紙だけで火を起こす方法を、前の晩に動画で何本も見ていたのだ。メモ帳には炭の組み方まで描いてあり、端には陽太が落書きした首の長い恐竜がいる。
「着火剤を使ったら、今まで積んだ意味がなくなる」
「意味はありました。炭について、とても詳しくなりました」
「あと十分あればつく」
「さっきも五分と言いました」
「火起こしは時計どおりにいかないんだ」
「お客さんのおなかも、時計どおりには待ってくれません」
その横で、ひかりは庭の水道へホースをつないでいた。葵は野菜を洗うためだと思い、止めなかった。ところが、ひかりはホースの先を空へ向けると、蛇口をいっぱいまでひねった。
「ウッドデッキ完成、おめでとうございまーす!」
勢いよく飛び出した水が、デッキに立っていた佐々木を直撃した。青いポロシャツは肩から胸まで一瞬で濃い色に変わり、麦わら帽子から水が垂れた。木村も背中へ水を浴び、紙皿を抱えたまま立ち尽くした。
「ひかり! 止めて!」
葵が駆け寄ると、ひかりはホースを持ったまま振り向いた。水は今度、葵のベージュ色のブラウスへかかり、袖が腕に張りついた。藤田家の母親にも細かな水滴が飛び、眼鏡が白く曇った。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい! すぐタオルを持ってきます」
「大丈夫、大丈夫。今日は暑いから、ちょうどよかったです」
佐々木は麦わら帽子を脱ぎ、たまった水を庭へ流した。木村も濡れた背中を手で触り、「水も滴る訪問看護師です」と笑った。藤田家の母親は眼鏡を外し、ワンピースの裾で拭こうとして娘に止められた。
「お母さん、それで拭いたら服も濡れるよ」
「もう濡れてるのよ」
「じゃあ、もっと濡れても同じだね」
ひかりは怒られなかったことが分かると、ホースを自分の足元へ向けた。芽衣と健斗も靴を脱ぎ、水たまりへ入ってきた。さっきまで来客だった大人たちは、葵が運んできた古いバスタオルを首へ巻き、濡れたまま紙コップの麦茶を飲んだ。
その騒ぎの間に、陽太はテーブルからウインナーを一本取っていた。生のウインナーを右手に握り、左手には恐竜の人形を持っている。誰も見ていないと思った陽太は、庭の門を開けて外へ出た。
「ウインナー探検隊、出発します」
声を聞いた葵が振り向いたときには、陽太の緑色の帽子が門の向こうへ消えていた。葵はホースを止めるのも忘れ、濡れたサンダルのまま道路へ飛び出した。足の裏で砂がこすれ、胸の奥が強く鳴った。
「陽太! 待ちなさい!」
陽太は家から二軒先を歩いていた。ところが大森家の父親が先回りし、道路へしゃがんで両腕を広げた。陽太はその手前で止まり、握っていたウインナーを後ろへ隠した。
「探検隊長、どこへ行く予定ですか?」
「海まで行く」
「海は遠いですよ。先にウインナーを焼いたほうがいいんじゃないですか?」
「これは非常食」
「生だから、非常時にも食べられません。基地へ戻りましょう」
大森家の父親は陽太の手を無理につかまず、恐竜の人形へ向かって話しかけた。陽太は少し考えたあと、恐竜の口へウインナーをくわえさせ、自分から庭へ戻った。葵はその後ろを歩きながら何度も頭を下げた。
「本当にすみません。せっかく来ていただいたのに、水をかけるし、脱走するし」
「うちも去年、動物園で健斗を見失いました。見つけたとき、売店で知らないおばあさんからソフトクリームを買ってもらっていましたよ」
「それは怖いですね」
「本人は、私たちが迷子になったと思っていました」
庭へ戻ると、子どもたちは全員ホースの周りへ集まっていた。ひかりが水を低く出し、芽衣と健斗がその上を跳び越えている。陽太も恐竜を水へ入れ、ウインナー探検隊から恐竜水泳大会へ予定を変更した。
葵は門の鍵をかけ、胸元へ手を当てて息を整えた。濡れたブラウスから水が腰へ流れ、サンダルの中では足が滑った。デッキでは拓海が、まだ火の弱い炭を見つめていた。
「もう着火剤を使って」
「あと少しで、炭の表面が白くなる」
「あなたも顔が白くなっています」
「これは灰がついただけだ」
「朝から何も食べていないでしょう」
拓海は答えず、冷めた麦茶を一気に飲んだ。佐々木が着火剤を手に取り、拓海の前へ差し出した。拓海は炭、腹をすかせた客、庭を走り回る子どもたちの順に見てから、軍手を外した。
「使います」
「よく決断しました」
「ただし、量は俺が決める」
「そこは譲れないんですね」
着火剤を使うと、炭にはすぐ赤い火が回った。拓海は立ち上がる炎を見ながら、朝からの三時間を返してほしそうな顔をした。葵はその肩を一度たたき、肉の大皿を運んだ。
最初の豚肉を網へ載せると、脂が炭へ落ちて白い煙が上がった。焼き肉のたれとニンニクの匂いに気づき、子どもたちも水遊びをやめて集まってきた。陽太は濡れたTシャツを脱ぎ、下着一枚のまま皿を差し出した。
「ウインナーください。焼いたやつです」
「さっきのウインナーは?」
「恐竜が食べた」
「恐竜の口に入っています」
葵はふやけたウインナーを恐竜の口から抜き、別のものを網へ載せた。ひかりは濡れた髪を額へ張りつかせ、焼ける肉を応援し始めた。拓海は火の強い場所と弱い場所を説明しようとしたが、誰も聞いていなかった。
そこへ、庭の生け垣の向こうから村上が顔を出した。花柄のエプロンを着け、アルミホイルをかぶせた皿を両手で持っている。葵は先日の音のことを思い出し、子どもたちへ静かにするよう言おうとした。
「すみません、今日は大勢で騒がしくしてしまって」
「聞こえていますよ。うちの人も、出勤前にずいぶん楽しそうだと言っていました」
「もう少し声を小さくさせます」
「今日はいいんじゃないですか。少しくらい賑やかなほうが、祭りらしくていいでしょう」
村上が持ってきた皿には、オーブンで焼いたカボチャ、ナス、ピーマンが並んでいた。どれも少し焼きすぎており、ピーマンの端は黒く焦げている。村上はアルミホイルを外しながら、タイマーをかけ忘れたのだと白状した。
「焦げたところを取れば食べられます。捨てるのも、もったいないですから」
「ありがとうございます。一緒に食べていきませんか?」
「着替えてからでもいいかしら。水をかけられる覚悟が必要そうだから」
「ひかり、今度は人へかけません」
「分かりました。今度は、ですからね」
ひかりは真剣な顔でホースを地面へ置いた。村上は家へ戻り、十分後には白いTシャツと膝丈のズボンに着替えて現れた。手には夫から預かったという二本のノンアルコールビールまで持っていた。
肉が焼け始めると、拓海は炭の配置を直すのをやめた。焦げた肉は佐々木が食べ、まだ赤い肉は葵が網へ戻した。焼きそばには陽太が勝手にマシュマロを入れようとし、大人三人が同時に止めた。
「甘い焼きそばになるよ」
「なりません」
「食べたことないでしょう?」
「食べなくても分かります」
「パパは今日、やらないで分かることを覚えたんだよね」
葵が言うと、拓海は着火剤の箱を見て苦笑した。朝から苦労して組んだ炭は、子どもが落とした水で一部が消え、計画とはまったく違う形になっている。それでも肉は焼け、焼きそばのソースは香ばしく焦げ、皿は次々に空になった。
食後、子どもたちは長いマシュマロを串へ刺し、残った火であぶった。ひかりのマシュマロは黒く焦げ、陽太のものは火に落ちた。健斗が焼いたマシュマロだけがきれいなきつね色になったが、本人は甘いものが苦手で、村上が代わりに食べた。
「外はぱりっとして、中はとろとろね。こんな食べ方、初めてです」
「次はマシュマロ焼き大会にしましょう」
「次もあるんですか?」
「ウッドデッキは一回では元が取れませんから」
拓海が答えると、葵は三十五年分やるつもりかと尋ねた。佐々木は、年に二回なら七十回だと指を折って計算した。村上は「そのころには私、歯がないわ」と笑い、葵は小さく切れば食べられると返した。
日が傾くころ、庭には濡れた子ども服とバスタオルが並んでいた。ウッドデッキには焼き肉のたれがこぼれ、陽太の恐竜は紙皿の上で乾かされている。朝には傷一つなかった板へ、小さな泥の足跡がいくつも残っていた。
拓海は椅子へ腰を下ろし、火の弱くなった炭を眺めた。予定表どおりに進んだことは一つもなく、炭の配置も、食べ始める時間も、子どもたちの遊び方も計画から外れていた。けれど、誰も時計を見ず、帰る時間を延ばして話していた。
「完璧な火じゃなかったな」
「でも、ちゃんと焼けたでしょう」
「豚肉を一枚、炭に落とした」
「佐々木さんが拾って食べました」
「あれは食べてよかったのかな」
「元気に焼きそばをお代わりしています」
庭の中央では、ひかりが赤い帽子をかぶり直し、濡れた大人と子どもを一列に並ばせていた。陽太は焼いたウインナーを両手で握り、今度は門から離れた場所に立っている。ひかりの合図で全員が両手を上げると、夕方の庭に大きな声が響いた。
「ウッドデッキ完成、おめでとう!」
拓海は着火剤の箱を片手に持ち、その声へ笑って頭を下げた。葵も謝るためではなく、集まってくれた人たちへ礼を伝えるために頭を下げた。新しい板の上には水滴も、焦げた野菜も、落とした焼きそばも残っていたが、桜井家の庭は、計画表には書けなかった笑い声でいっぱいになっていた。




