第10話 傷だらけの無垢床と、ぼくたちのパレード
第10話 傷だらけの無垢床と、ぼくたちのパレード
桜井家が新居へ移ってから、半年が過ぎた。秋の光がリビングの掃き出し窓から差し込み、無垢材の床に細長い四角を作っている。入居したころには蜂蜜のような色だった床も、今では日焼けした場所と家具の下とで色が違っていた。
葵は薄い紫色のスウェットに黒いジャージをはき、住宅会社のパンフレットを広げていた。写真のリビングには、白いソファと観葉植物、小さな丸テーブルだけが置かれている。床には傷一つなく、窓ガラスにも指の跡がなく、写真の中の家族は全員、なぜか白い服を着て笑っていた。
葵が顔を上げると、目の前には半年分の暮らしが広がっていた。ソファの背には洗濯物が積まれ、テーブルの下には陽太が脱いだ恐竜柄の靴下が片方だけ落ちている。朝食の皿には冷めた目玉焼きの黄身が残り、昨夜のカレーの匂いも部屋から抜けていなかった。
「同じ家とは思えない」
葵はパンフレットとリビングを交互に見た。紙の中では整然と並んでいるクッションが、桜井家では一つもソファの上にない。二つは床に転がり、一つは段ボールで作った陽太の恐竜の巣に敷かれ、最後の一つはひかりが頭へ載せて歩いていた。
「お母さん、見て。王様」
「それは王冠じゃなくてクッションです」
「ひかり王様。パパにプリンを命令する」
「冷蔵庫にプリンはありません」
「じゃあ、買ってくることを命令する」
「王様は自分のお小遣いで買ってください」
ひかりは黄色い長袖シャツに赤いスカートを合わせ、頭へ載せたクッションを片手で押さえていた。もう片方の手には青いクレヨンを持っている。葵は嫌な予感がして、すぐにクレヨンを紙の上へ置くよう言った。
「壁に描いちゃ駄目よ。床にも描いちゃ駄目。描くのは紙だけです」
「今日は描いてない」
「今日は、でしょう」
「昨日も描いてない」
「その前は?」
「忘れました」
ひかりはクッションを落とし、何も聞こえなかったように窓の外を見た。窓のそばのクロスには、爪で引っかいたような細い剥がれがある。ひかりがカーテンの裏へ秘密基地を作り、粘着テープで紙の旗を貼った跡だった。
リビングの床にも、小さな傷がいくつも残っていた。木製の積み木を落とした丸いへこみ、ミニカーを何度も走らせた細かな線、バーベキューの日に濡れた足で歩いた薄い泥の染みがある。テレビ台の前には、陽太が恐竜を戦わせたときについた深い傷まで走っていた。
葵はパンフレットの写真を指でなぞった。引き渡しの日、傷のない床へ最初の足跡をつけることさえ惜しくて、家族全員に新しい靴下をはかせたことを思い出した。あの日の自分に今の床を見せたら、玄関で気を失うかもしれない。
「半年で、どうしてここまで傷だらけになるのかな」
「元気に暮らしたからじゃない?」
工具箱を抱えた拓海が、リビングへ入ってきた。紺色のパーカーに色あせたジーンズをはき、腰にはホームセンターの茶色い作業用エプロンを巻いている。工具箱の上には補修用のクレヨン、木工用のパテ、壁紙の接着剤、紙やすりが積まれていた。
「補修用品、ずいぶん買ったね。また住宅ローンとは別の出費ですか」
「全部合わせて三千二百八十円。業者を呼ぶより安い」
「三千二百八十円で、この家がパンフレットどおりになる?」
「パンフレットどおりにはならない。目立たなくするだけ」
「じゃあ、この写真を壁に貼って、遠くから眺めるほうが早いね」
拓海は笑いながら、床へ古い新聞紙を広げた。新聞の折り込み広告には、三十五年ローンの低金利を強調した新築住宅が載っている。拓海は広告の上へ道具を並べ、まず一番深いへこみへ湿らせた布を当てた。
陽太は緑色のトレーナーと灰色のズボンを着て、その隣へしゃがんだ。右手には首の長い恐竜、左手には食べかけの小さな煎餅を持っている。煎餅の欠片が床へ落ちるたびに、葵がティッシュで拾った。
「パパ、何してるの?」
「床の怪我を治してるんだ」
「お薬を塗るの?」
「ここは濡れた布を当てて、その上から少し温める。木が水を吸うと、へこみが戻ることがあるんだよ」
「床も水を飲むの?」
「少しだけね」
「いっぱい飲んだら、おしっこする?」
「床にはトイレがありません」
葵が答えると、陽太は無垢床の継ぎ目をのぞき込んだ。どこかに小さなトイレが隠れていると思ったらしく、恐竜の尻尾で板の間を探っている。拓海はその尻尾が新しい傷を作りそうになったため、恐竜にも治療の見学を命じた。
拓海は床のへこみを直し、剥がれたクロスを接着剤で貼った。油性ペンの跡には専用の洗剤を使ったが、青い線は薄くなっただけで完全には消えなかった。キッチンの近くにある油染みも、見る角度によって丸く浮き上がった。
「これ、私が天ぷら油をこぼしたところだ」
「あの日は煙探知器まで鳴ったな」
「拓海が鍋の蓋を探している間に、ひかりがうちわであおいだのよ」
「火事を応援した」
ひかりは胸を張って答えた。葵は応援しなくてよかったのだと説明したが、ひかりは「でも火が大きくなった」と自分の成果を譲らなかった。拓海は補修用クレヨンを持ったまま肩を震わせた。
「笑い事じゃなかったんだからね。次に油から火が出ても、絶対に水をかけちゃ駄目よ」
「ホースも駄目?」
「家の中へホースを持ってこないでください」
「佐々木さんには、かけてもいい?」
「よくありません。あれは一度きりです」
ひかりは少し考え、次のバーベキューでは本人に聞いてからかけると言った。葵はそういう問題ではないと思ったが、話を続けると本当に電話で確認しそうなので口を閉じた。窓の外には、あの日に使ったバーベキューコンロが、洗われないまま物置の横へ立てかけてあった。
床の補修を進めた拓海は、リビングの隅で手を止めた。カーテンの近くに、黒い油性ペンで描かれた四人の人間がいる。丸い顔から直接手足が伸び、髪の毛は全員三本ずつで、一番大きな人だけ口の周りに黒い点がいくつもついていた。
「これは、消さないの?」
葵が尋ねると、拓海は洗剤を持ったまま落書きの前へ座った。その絵は、入居初日に陽太が描いたものだった。引っ越し用の段ボールを開けている間に、陽太は荷物へ紛れていた油性ペンを見つけ、新しい床へ家族四人の顔を描いた。
あの日、葵は声も出なかった。拓海は台所用洗剤、消毒用アルコール、メラミンスポンジを次々に試したが、無垢材へ染み込んだ線は落ちなかった。最後には二人とも床へ座り込み、夕食用に買った冷たいおにぎりを黙って食べた。
「これは残そう」
「入居初日の落書きだよ。私、泣きそうになったんだから」
「陽太が、この家で最初に描いた絵でもある」
「新築の床じゃなくて、紙に描いてほしかったけどね」
「それは今でも同意する」
拓海は補修用クレヨンと洗剤を工具箱へ戻した。陽太は二人の間へ入り、自分の絵を見下ろした。半年の間に少し背が伸びたため、床へ描いた人間が以前より小さく見えた。
「これ、誰?」
「パパと、お母さんと、ひかりと、陽太だよ」
「この黒い点が多いのは?」
「パパ。おひげがあるから」
「こっちの横に長いのは、お母さん?」
「お母さん。寝てるから」
「私は立っていても、もう少し横幅があります」
「お母さん、よく床で寝てたよ」
引っ越し直後の葵は、荷ほどきの途中で何度も床へ寝転んだ。仕事、子どもの送迎、住所変更の手続きに追われ、ソファまでたどり着く前に力が切れていたからだ。陽太はその姿を正確に描いたらしい。
ひかりも絵のそばへ来ると、青いクレヨンを握り直した。葵が止めるより先に、四人の周りへ音符を描き始めた。大きさも向きもばらばらな音符が、父親の頭や母親の足の周りへ増えていった。
「ひかり、床に描かないって、たった今言ったでしょう!」
「これは落書きじゃない。音楽です」
「音楽でも床へ描いたら落書きなの」
「でも、パパは消さないって言った」
「それと新しく描くことは別です」
「家族が歌ってないと、おかしいよ」
ひかりは青いクレヨンを握ったまま、四人の似顔絵を指さした。陽太も床へ両手をつき、得意そうに「かぞくです」と説明した。拓海は葵と顔を見合わせ、音符が増えすぎる前にクレヨンを預かった。
「ここまでにしよう。続きは紙に描く」
「赤い音符も描きたい」
「紙なら何色でもいいよ」
「床の家族は、黒と青だけ?」
「そのうち床が日焼けすれば、茶色も増える」
「パパ、それは色じゃなくて染みです」
補修が終わるころには、窓の外が薄暗くなっていた。葵は夕食にサバを焼き、大根おろしと豆腐の味噌汁を添えた。サバの脂が魚焼きグリルへ落ちるたびに煙が上がり、ひかりがうちわを持ってきたため、家族全員で止めた。
「今日は火を応援しません」
「じゃあ、パパを応援する」
「パパは何をするの?」
「大根おろしを食べます」
「がんばれ、パパ! 大根に負けるな!」
「大根は敵じゃないよ」
食卓には笑い声と焼き魚の匂いが広がった。陽太はサバの皮だけを先に食べ、ひかりは大根おろしを味噌汁へ全部入れた。拓海の椀には陽太が豆腐を三つ移し、葵のご飯にはひかりが勝手に海苔を載せた。
食事が終わると、拓海は食器を台所へ運び、葵はテーブルを拭いた。陽太は床の似顔絵の前へ座り、今日描き足された青い音符を一つずつ数えている。ひかりは居間の棚から小さな音楽プレーヤーを持ってきた。
「パレードします。全員、並んでください」
「今日は床を直したばかりだから、静かに歩こう」
「パレードは静かじゃありません」
「村上さんのご主人、今日は夜勤じゃないの?」
「今日はお休みの日だって、昼間に聞きました」
「いつの間に確認したんだ」
「ひかり王様は、準備をします」
ひかりは音楽を流し、赤い帽子をかぶった。いつしか桜井家では、食後に四人でリビングを行進することが増えていた。きっかけは、陽太がテレビの行進曲に合わせ、家族全員を一列に並ばせたことだった。
先頭はひかり、その後ろに陽太、拓海、葵が続いた。ひかりは両腕を高く振り、陽太は恐竜の人形を胸へ抱えている。拓海は灰色の靴下をはき、葵は赤い水玉模様のスリッパを履いていた。
「右、左、右、左! おなかを出して、元気よく!」
「胸を張る、じゃないの?」
「パパはおなかが出ています」
「それは号令と関係ないだろう」
「前を向いてください。ぶつかります」
列は最初の角で崩れた。ひかりはソファの周りを回るつもりだったが、陽太は床の似顔絵を踏まないよう急に横へ曲がった。拓海は陽太をよけ、後ろから来た葵と肩をぶつけた。
「止まって! 事故です!」
ひかりが叫ぶと、四人はその場で足を止めた。陽太は恐竜を拾おうとして、自分のズボンの裾を踏んだ。前へ転びそうになった体を拓海が支え、葵も後ろから陽太の肩をつかんだ。
「陽太、大丈夫?」
「転ばなかった」
「三人で止めたからね」
「恐竜は転んだよ」
「恐竜も助けてあげよう」
ひかりは列の先頭から戻り、床へ落ちた恐竜を拾った。それから陽太のズボンを一度折り返し、裾を短くした。四人の列は完全に崩れていたが、誰も元の位置へ急いで戻ろうとはしなかった。
葵は室内を見回した。床には直しきれなかった傷があり、クロスの継ぎ目には接着剤の跡が残っている。洗濯物はまだソファの背に載り、工具箱も新聞紙の上へ開いたままだった。
住宅会社のパンフレットに載っていた家族とは、ずいぶん違う。桜井家では子どもが床へ寝転がり、父親が高熱を隠し、母親が送迎時間を間違える。隣家から注意され、スーパーで動けなくなり、庭のバーベキューでは客へ水をかけた。
「完璧な家族には、なれなかったね」
葵は笑いながら、床の似顔絵を見た。拓海も視線を落とし、黒い四人と、その周りに増えた青い音符を眺めた。陽太が描いた家族は誰一人まっすぐ立っていなかったが、四人の手だけはつながっていた。
「最初から、なる必要なんてなかったんだよ」
「家を買ったときは、何でもちゃんとできる気がしたの。きれいな部屋で、栄養のある食事を作って、子どもを叱らずに育てて」
「俺は、ローンを払いながら仕事も育児も完璧にできると思ってた」
「実際は?」
「炭に火をつけるだけで半日かかった」
「あれは長かったね」
「着火剤は偉大だよ」
拓海は補修道具を片づけ、パンフレットも棚へ戻した。三十五年ローンは、まだ三十四年半も残っている。固定資産税も修繕費も必要になり、ひかりの就学、陽太の成長、夫婦の仕事も、これから何度も予定どおりにいかなくなる。
それでも、桜井家だけで解決しなくてもよいことを、四人はこの半年で覚えた。困ったときには職場や療育施設へ連絡でき、スーパーでは知らない人の親切を受け取れた。隣の村上とも、音を我慢し合うのではなく、言葉で相談できるようになった。
家の傷は増えたが、助けを求められる相手も増えた。失敗を数えて黙り込む夜より、失敗を話して笑える夜が多くなった。葵は床に残った四人の似顔絵を見て、この落書きだけは、三十五年後も消さずに残っていてほしいと思った。
音楽が一曲終わり、リビングが急に静かになった。ひかりは音楽プレーヤーの前へ走り、同じ曲を最初まで戻した。赤い帽子をかぶり直すと、両手を大きく振り上げた。
「もういっかい!」
「今度は転ばないようにね」
「転んでも、止まればいいよ」
陽太はそう言って、恐竜を抱き直した。拓海は陽太の後ろへ並び、葵も水玉模様のスリッパを履き直した。四人の歩幅は違い、進みたい方向もそろっていなかった。
それでも音楽が始まると、ひかりは元気よく右足を上げた。陽太が続き、拓海と葵も床を踏み鳴らした。誰かが遅れれば少し待ち、誰かが転びそうになれば全員が立ち止まった。
「右、左、右、左! 桜井家、しゅっぱーつ!」
ひかりの号令がリビングに響いた。陽太は「かぞくです」と何度も言い、拓海は腹を引っ込めながら行進した。葵は最後尾で笑い、前を歩く三人の背中を追いかけた。
窓の外には、泥の跡が残るウッドデッキが見えた。台所にはサバの匂いが残り、ソファには畳みかけの洗濯物が積まれている。傷だらけの無垢床には、桜井家の賑やかな足音が、いつまでも途切れずに響いていた。




