第8話 パパが急変しました!
第8話 パパが急変しました!
月曜日の朝、拓海はいつもどおり六時に起き、紺色のスクラブへ着替えた。台所では葵が焼いた目玉焼きの縁が茶色く縮れ、味噌汁には昨日の残りの大根と油揚げが浮いている。拓海は食卓についたものの、目玉焼きを半分残し、味噌汁にも二口しか手をつけなかった。
「食べないの? 今日は訪問が多いんでしょう」
「昨日の回転寿司が、まだ残ってるのかな。年を取ると、マグロも翌朝まで泳ぐらしい」
「拓海が食欲ないなんて珍しいね。熱は?」
「ないよ。少し寝不足なだけ」
拓海は笑って立ち上がったが、椅子の背へ手をついたまま動かなかった。額には細かな汗が浮かび、シャツの襟元から見える首筋が赤い。葵が手を伸ばすと、拓海は顔をそらして弁当箱をバッグへ押し込んだ。
「熱いじゃない。体温を測って」
「午前中に五件あるんだ。一人は退院したばかりで、もう一人は褥瘡の処置がある。俺が休んだら回らないよ」
「感染症だったら、訪問先へ行くほうが困るでしょう」
「事務所で測る。三十七度台ならマスクを二枚にするから」
「マスクは熱を下げません」
葵が体温計を差し出しても、拓海は受け取らなかった。玄関では、ひかりの赤い運動靴と陽太の長靴が左右逆に並んでいる。拓海はそれを直してから仕事へ出たが、門扉を閉める音はいつもより弱かった。
その日の午後、拓海は訪問先からステーションへ戻る途中で動けなくなった。車を路肩へ止め、ハンドルへ額をつけたまま、同僚へ電話をかけたという。体温は三十九度二分あり、検査を受けると感染症と診断された。
夕方四時過ぎ、同僚の佐々木が拓海を家まで送ってきた。拓海は灰色のパーカーをスクラブの上に羽織り、白いマスクの上からでも分かるほど荒い息をしていた。葵は買い物袋を玄関へ置いたまま駆け寄り、拓海の肩を支えた。
「パパが急変しました!」
二階から降りてきた陽太が叫んだ。手には恐竜の人形を握り、片方の靴下だけをはいている。ひかりも階段の途中で立ち止まり、赤いスカートの裾を強くつかんだ。
「救急車を呼ぶの?」
「今は呼ばなくて大丈夫よ。先生に診てもらって、お薬もあるから」
「パパ、死なない?」
「死なない。しっかり休んでもらうの」
葵はそう答えたものの、拓海の体を支える腕に力が入りすぎていた。拓海は二階へ上がる途中で二度立ち止まり、壁に肩を預けた。寝室へ入ると、脱いだパジャマと乾いていない洗濯物がベッドの端に積まれており、葵はそれをまとめて床へ移した。
「洗ってあるから、汚くないよ。まだ畳んでないだけ」
「何も言ってない」
「顔が言ってるの。病人は黙って寝てください」
葵は拓海を布団へ寝かせ、枕元へ水、体温計、薬、ティッシュ、洗面器を並べた。窓を少し開けると、隣家の庭から金木犀の甘い匂いが入ってきた。拓海は目を閉じたまま、明日の訪問予定が書かれた手帳を探そうとした。
「明日の山本さん、朝一番で採血なんだ。佐々木さんに連絡を」
「佐々木さんが代わってくれるって。今、玄関で聞いた」
「午後の田辺さんは、娘さんが仕事で」
「それもステーションで調整するそうです」
「オンコールの携帯は」
「佐々木さんが持って帰りました」
拓海は何か言おうとして咳き込み、胸元を押さえた。葵は背中をさすりながら、仕事先の利用者の変化なら声や顔色だけで気づく人が、なぜ自分の三十九度には気づかないのかと歯を食いしばった。けれど、今ここで説教をしても熱は下がらないため、濡らしたタオルを額へ載せた。
夕食は簡単な卵雑炊にするつもりだった。ところが、ひかりが二階の様子を気にして何度も台所へ来て、陽太は氷のうを作ると言って冷凍庫の氷を床へばらまいた。葵が氷を拾っている間に鍋の水分がなくなり、底から焦げた米の匂いが立ち上った。
「陽太、氷は拾わなくていいから、そこから動かないで。ひかりは階段を走らない。パパが眠れないでしょう」
「パパに氷を持っていく」
「お母さんが持っていくから大丈夫」
「陽太が氷係をする」
「今は仕事を増やさないで!」
陽太は口を閉じ、濡れた床の前へしゃがんだ。水色のTシャツの腹が水で濡れ、恐竜の人形にも氷の欠片が張りついている。葵は声を出したあとで唇を押さえたが、謝るより先に、焦げた鍋を流しへ運ばなければならなかった。
葵は焦げていない上の部分だけを茶碗へ移し、ひかりと陽太には納豆ご飯を出した。自分は立ったまま冷えた麦茶を飲み、拓海にはゼリー飲料を持って二階へ上がった。寝室に入ると、拓海は布団の中で震えながら、枕元に置いた体温計を見つめていた。
「四十度近い。息は苦しくない? 水は飲める?」
「飲める。大丈夫」
「大丈夫は禁止。あなたの大丈夫は信用できません」
「じゃあ、かなりつらい」
「最初からそう言って」
葵は医師から渡された説明書を広げ、受診の目安を一つずつ確認した。拓海の呼吸と意識に問題がないことを確かめて薬を飲ませたあと、布団の横へ座った。階下では食器のぶつかる音がし、陽太が「納豆の糸が切れない」と叫んでいた。
翌朝、葵は目覚まし時計を止めた記憶もないまま七時半まで眠った。昨夜着ていたベージュのセーターは皺だらけで、髪には拓海の額から外した冷却シートがついていた。台所には納豆の容器と焦げた鍋が残り、洗濯物の山からは湿った布の匂いがしていた。
「お母さん、今日のお迎え、二時だよ」
「三時半でしょう。いつもと同じよ」
「今日は二時。先生が言った」
「そんなはず……」
葵が療育施設の連絡帳を開くと、ひかりの言うとおりだった。研修のため、送迎車の到着が一時間半早いと赤い字で書かれている。葵は時計を見て立ち上がったが、膝が食卓へぶつかり、昨夜の麦茶を倒した。
午前中には拓海の診察について医療機関へ電話をし、職場へ経過を伝え、子どもたちの食事を作り、シーツも替えなければならなかった。買い物へ行かなければ、冷蔵庫の牛乳は一口分しか残っていない。葵は布巾で麦茶を拭きながら、今日一日の予定を頭へ詰め込もうとした。
「できる。これくらい、一人でできる」
口に出した途端、二階から拓海の咳が聞こえた。陽太は椅子の下へ入り、ひかりは連絡帳を胸に抱えている。葵は濡れた布巾を握ったまま、昨夜から何度「大丈夫」と言ったかを数えようとした。
まず、拓海の職場へ電話をかけた。葵は迷惑をかけることへの言い訳を並べそうになったが、受話器の向こうから佐々木の声が聞こえると、指でテーブルの傷をなぞりながら息を吸った。
「拓海の熱が下がりません。私一人では、子どもたちのことまで回せなくなっています。診察について、相談に乗ってください」
「分かりました。こちらから受診先へ連絡します。食べ物はありますか?」
「卵と納豆はあります。でも、買い物へ行く余裕がありません」
「帰りに玄関へ置きます。拓海さんには近づかず、呼び鈴だけ鳴らしますね」
次に療育施設へ電話をかけ、送迎時間を間違えていたことを正直に伝えた。職員は責めることなく、自宅前まで迎えに行く時間を確認してくれた。ひかりは電話の横で赤いリュックを背負い、チャックを何度も開け閉めしていた。
「お母さん、先生に怒られた?」
「怒られなかったよ。お母さんが困っているって言ったら、助けてくれた」
「ひかりも助ける。自分で靴をはく」
「ありがとう。左右だけ確かめてね」
最後に葵は、訪問看護ステーションの仲間へ連絡した。休みを取る連絡だけで済ませようとしたが、冷蔵庫に貼った勤務表を見ると、明日の担当者名までにじんで見えた。葵は椅子へ座り、できないことを一つずつ話した。
「夫が高熱を出して、子どもの送迎時間も間違えました。洗濯も食事もできていません。明日の勤務には出られません」
「分かった。勤務はこっちで調整するから、今は家にいて」
「皆さんに負担がかかります」
「葵さん、あなたが利用者さんの家でいつも言ってるでしょう。倒れてからでは遅いって」
「はい」
「自分にも同じことを言ってください。それから、お昼は何か食べましたか?」
葵は答えられず、食卓に残った冷たい納豆ご飯を見た。相手は少し黙ったあと、昼食を食べてからもう一度連絡するよう言った。葵は電話を切り、固くなったご飯へお湯をかけて、梅干しを一つ載せた。
そのころ、陽太は自分で氷のうを作っていた。赤い洗面器から氷をすくい、小さな青い氷のうへ入れようとするが、半分は床へ落ちていた。葵が止めようとすると、陽太は両手で氷のうを抱えた。
「陽太は氷係だから、パパに持っていく」
「階段で落としたら危ないよ」
「ゆっくり行く。カメよりゆっくり行く」
「じゃあ、お母さんが後ろを歩くね」
陽太は一段ずつ階段を上った。途中で氷のうを二度落とし、そのたびに水が廊下へ飛び散った。寝室へ着いたときには青い袋が半分ほどしぼんでいたが、陽太は拓海の枕元まで運び、両手で差し出した。
「パパ、氷です。陽太が作りました」
「ありがとう。冷たくて気持ちいいよ」
「三回落とした」
「二回じゃなかった?」
「一回は、お母さんが見てないとき」
拓海がかすれた声で笑うと、陽太も歯を見せた。葵は廊下の水を古いバスタオルで拭き、濡れた靴下を陽太から脱がせた。仕事を増やさないでと言った自分の声が耳に残っていたが、拓海の額に載った不格好な氷のうを見ると、それを取り上げなくてよかったと思った。
療育から帰ったひかりは、ピンク色のトレーナーへ着替え、父親の枕元へ座った。いつもなら触られることを嫌がる拓海の熱い手を、ひかりは両手で包んだ。施設で覚えたばかりの短い歌を、音程を外しながら何度も歌った。
「パパ、げんき、かえっておいで。パパ、げんき、かえっておいで」
「パパは、ここにいるよ」
「元気がいない。だから呼ぶの」
「そうか。じゃあ、もう少し呼んでくれる?」
「百回歌う」
十回を過ぎたころ、ひかりは歌詞の途中にダイオウイカやカレーを入れ始めた。二十回を過ぎる前に自分があくびをし、拓海の手を握ったまま布団の横で眠った。拓海も目を閉じ、二人の寝息が少しずつ同じ速さになった。
三日目の朝、拓海の熱は三十七度台まで下がった。佐々木が玄関へ置いてくれた袋には、うどん、豆腐、バナナ、スポーツ飲料のほかに、子ども用のプリンが二つ入っていた。葵は薄い灰色の部屋着のままうどんを煮て、卵を落とし、小口切りにしたネギを少しだけ載せた。
「食べられそう?」
「うん。腹が減った」
「それなら、だいぶ戻ったね」
「四日分くらい食べたい」
「まず一杯。急に食べると、胃が驚きます」
拓海は布団の上へ起き、湯気の立つうどんをゆっくり食べた。箸を持つ手にはまだ力がなかったが、汁まで半分ほど飲んだ。ひかりと陽太は寝室の入口からのぞき込み、空になりかけた丼を見ると拍手をした。
熱が下がってからも、拓海はすぐには仕事へ戻らなかった。医師に言われた日数を守り、訪問予定の確認も同僚へ任せた。布団の中で何度も携帯電話へ手を伸ばしたが、そのたびに陽太が氷のうを胸へ抱えて見張った。
「パパ、休むのがお仕事です」
「誰に教わったの?」
「お母さん」
「お母さんは守ってる?」
「ときどき守ってない」
「陽太はよく見てるな」
家族そろって夕食を食べられるようになった夜、食卓には焼き鮭、豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬けが並んだ。洗濯物はまだソファの背に山積みで、拓海の靴下が一足だけテレビのリモコンにかぶさっている。葵はそれを片づけようと立ち上がったが、拓海が空いている椅子を引いた。
「あとで一緒に畳もう。今は座って食べよう」
「あなたはまだ病み上がりでしょう」
「だから半分だけやる。葵も半分。全部できない日は、全部やらなくていい」
「仕事を休んで、送迎も頼んで、買い物までしてもらったよ」
「それで家が回ったんだろう? 助けてもらうのも、家族を守る方法だよ」
拓海は味噌汁を一口飲み、しばらく椀を両手で包んでいた。自分が休めば誰かが困ると思い、熱のある体で車へ乗ったことを話した。しかし実際には、無理をしたために訪問先や同僚、家族へ余計な心配をかけたのだと認めた。
「休むことも、家族への責任なんだな。今度から、三十七度五分を超えたら報告する」
「三十八度まで黙っているつもりだったでしょう」
「少しだけ」
「少しじゃありません」
「じゃあ、三十七度三分」
「値切らないでください」
ひかりが笑い、陽太も意味が分からないまま笑った。葵は冷めかけた味噌汁をすすり、明日の朝まで洗濯物が残っていても誰も困らないと考えた。焦げた鍋も完全にはきれいになっていないが、今夜中に磨く必要はなかった。
「私も、一人で全部できるお母さんをやめる」
「全部できるお母さんなんて、最初からいないんじゃない?」
「今、それを言うと怒りますよ」
「病み上がりだから、やさしくしてください」
食後、四人はソファの洗濯物を囲み、乾いた服を一枚ずつ畳んだ。ひかりはタオルを細長く巻き、陽太は靴下をすべて恐竜の口へ入れたため、作業は一人でやるより時間がかかった。それでも葵は手を出しすぎず、拓海も途中で横になった。
家事も育児も、病気も仕事も、一人で抱えれば早く片づくとは限らない。助けを求めた電話の向こうには、責める声ではなく、手を差し出す人たちがいた。葵は不ぞろいに畳まれた洗濯物をかごへ入れ、家族に聞こえる声で言った。
「明日も、できないことは、できないって言います」
「パパも言う。熱が出たら、すぐ言う」
「陽太は氷係をする」
「ひかりは歌う。パパ、げんき、かえっておいで」
ひかりの歌が始まると、拓海は困った顔をしながらも最後まで聞いた。台所には焼き鮭の匂いが残り、洗濯機の中では、陽太が濡らした靴下がゆっくり回っていた。家族の暮らしはまだ散らかっていたが、誰か一人だけが立ったまま片づける夜は、そこで終わった。




