第7話 ダイオウイカと床の冷たさ
第7話 ダイオウイカと床の冷たさ
日曜日の午後五時、スーパーの駐車場は買い物帰りの車で埋まっていた。葵は白い七分袖のブラウスに黒い綿パンツをはき、肩から大きな布製バッグを下げていた。家の洗濯機には、朝から回したまま干していないタオルが残っている。夕食の献立も決まっておらず、冷蔵庫にあるのは卵二個と半分に切った玉ねぎだけだった。
ひかりは赤い帽子をかぶり、胸に大きなダイオウイカが描かれた青いTシャツを着ていた。図鑑でダイオウイカを見てからというもの、ひかりは腕を十本の足のように動かし、家の中を泳ぐまねをするようになった。隣を歩く陽太は、緑色の半ズボンのポケットへ拾った小石を七つも入れており、一歩進むたびに布が下へ引っ張られていた。
「陽太、その石は車に置いていこう。お店の中で落としたら危ないよ」
「これは恐竜の卵だから、置いていけない」
「卵なら、買い物が終わるまで車で温めてもらおう」
「誰に?」
「車の座席に」
陽太はしばらく後部座席を見つめてから、小石を一つずつカップホルダーへ入れた。七つ数え終えると、最後の一つに「お留守番してね」と言い聞かせた。葵は腕時計を見て、早く買い物を終えなければ夕食が七時を過ぎると考えながら、二人の手を引いて店へ向かった。
自動ドアが開くと、総菜売り場から揚げ物の油と甘辛い焼き鳥の匂いが流れてきた。店内では特売を知らせる録音の声が繰り返され、レジの電子音と買い物客の話し声が重なっていた。ひかりは入口で両耳を押さえたが、葵が買い物かごを持たせると、いつもの順路へ歩き始めた。
「今日はカレーにしようか。ジャガイモとニンジンを買えば作れるから」
「ひかり、甘口」
「分かってる。パパの皿にだけ辛い粉をかけよう」
「陽太は卵カレー。卵を三個のせる」
「一個です。三個食べたら、お母さんの卵がなくなります」
野菜売り場では、陽太が曲がったキュウリを握り、「恐竜の尻尾みたい」と離さなくなった。葵はまっすぐなものより十円安いことを値札で確かめ、そのキュウリをかごへ入れた。ニンジン、ジャガイモ、豚こま肉、牛乳、翌朝の食パンも加わり、かごはすぐに重くなった。
冷凍食品売り場で、葵は家族用のバニラアイスを一箱入れた。ひかりはそれを見ると、買い物の最後に菓子売り場へ行けると判断したらしく、両耳から手を離した。ひかりには、毎週日曜日に買う決まった菓子があった。小さな丸いビスケットが四袋入っており、表には黄色い服を着たウサギが描かれている。
「ウサギのお菓子、最後に一つね」
「黄色のウサギ」
「そう。いつもの黄色いウサギ」
「赤いリボンもある」
「赤いリボンもあるね」
葵は商品を細かく覚えていなかったが、ひかりは包装の絵も文字の位置も知っていた。ビスケットを食べ終えたあとの袋まで捨てたがらず、先週の空袋も居間の引き出しへしまっている。拓海が間違えて資源ごみに入れたときには、ひかりが袋を探して朝からゴミ箱の前に座り込んだ。
菓子売り場へ入ると、棚の配置が先週とは変わっていた。夏の商品が減り、栗やサツマイモを使った茶色い袋が並んでいる。葵は買い物かごを左腕へかけ、ひかりと一緒に棚を端から見ていった。
「あったよ。これでしょう?」
葵が取ったのは、同じ会社の同じビスケットだった。しかし包装は新しくなり、黄色い服のウサギは、紫色の服を着たクマに変わっていた。赤いリボンもなくなり、代わりに袋の右上へ青い風船が描かれている。
「違う」
「中身は同じだよ。ほら、名前も同じでしょう」
「違う。黄色のウサギ」
「袋が変わっただけ。ビスケットは同じなの」
「赤いリボンがない」
ひかりの声が急に高くなった。葵は周囲の客が振り向いたことに気づき、袋を裏返して原材料の欄を見せた。しかし、細かな文字を見せても、ひかりの目は紫色のクマから離れなかった。
「ほら、同じ会社でしょう。新しい袋になっただけだから」
「違う! ウサギがいない!」
「大きな声を出さないで。ほかの人が買い物をしているでしょう」
ひかりは頭から赤い帽子を取り、床へ落とした。続いて両膝を曲げると、菓子売り場の通路へ座った。葵が腕をつかむより早く、ひかりは冷たい床へ頬をつけ、ダイオウイカの足を広げるように両手を伸ばした。
「ひかり、立って。通れないでしょう」
「黄色のウサギ」
「今日はこれしかないの。立ちなさい」
「ウサギがいい!」
ひかりの声が棚に反響し、近くにいた客が買い物カートを止めた。葵は頬に熱が集まるのを感じ、ブラウスの脇に汗がにじむのを気にしながら、ひかりの手首を引いた。けれど、ひかりは床へ体を押しつけ、足をばたつかせた。
「いい加減にして! もうお菓子は買いません。早く立ちなさい!」
葵が声を強めると、ひかりは目を閉じて両手で耳を塞いだ。青いTシャツのダイオウイカが床の上でねじれ、裾から白い肌着が見えた。陽太は姉と母を交互に見たあと、自分も買い物かごの横へ寝転んだ。
「陽太まで何をしているの!」
「ダイオウイカは、海の底にいるんだよ」
「ここは海じゃなくてスーパーです。二人とも起きて!」
「陽太はチビオウイカ」
陽太は床の上で両腕を振り、商品棚へ足をぶつけた。袋入りのキャンディーが一つ落ち、葵はそれを拾いながら何度も頭を下げた。買い物かごの中では、冷凍食品売り場で入れたアイスの箱が少しずつ柔らかくなっていた。
葵はひかりを抱き起こそうとしたが、ひかりは肩をねじり、声を上げた。無理に引けばTシャツの襟が首へ食い込みそうで、手を離すしかなかった。周囲には迷惑そうに通り過ぎる人もいれば、心配そうに立ち止まる人もいたが、葵にはすべての視線が背中へ突き刺さっているように感じられた。
「お願いだから立って。お母さん、もうどうしたらいいか分からないよ」
返事はなく、ひかりは床へ頬をつけたまま、短い息を繰り返していた。陽太も姉のまねをやめ、指で床の小さな黒い点をこすっている。葵は布製バッグから財布を出そうとして、代わりに携帯電話を落とした。
そのとき、携帯電話が震えた。画面には拓海の名前が表示されていた。葵はしゃがんだまま電話に出て、菓子売り場にいることだけを伝えた。
「今、仕事が終わった。店の前にいるよ。すぐ行く」
拓海は数分後、作業着姿のまま菓子売り場へ来た。紺色の上着には細かな埃がつき、首に巻いた白いタオルは汗で灰色になっている。足元には仕事用の重い安全靴を履いていた。
「パパ、見て。ダイオウイカとチビオウイカだよ」
「二匹も打ち上げられてるな。今日は大漁だ」
陽太は得意そうに腕を動かしたが、ひかりは耳を塞いだままだった。葵が事情を説明しようとすると、拓海は小さくうなずき、まず買い物かごを棚の端へ移した。それから、ひかりの体には触れず、一メートルほど離れた床へしゃがんだ。
「床、冷たいね。パパも疲れたから、ちょっと休もうかな」
拓海は安全靴の紐を緩め、棚へ背中を預けた。無理に笑わせようとも、立つように命じようともしなかった。ひかりは片方の目を開け、拓海の作業着を見た。
「パパ、寝るの?」
「寝ないよ。座って休むだけ。ひかりも、今は休んでいい」
「黄色のウサギがいない」
「いないね。袋が変わって、びっくりしたね」
「紫のクマ、違う」
「うん。ウサギとクマは違う。中のお菓子が同じでも、袋は違うね」
拓海が短く答えるたびに、ひかりの息が少しずつ長くなった。葵は説明すれば分かると思い、「同じなの」と繰り返していた。しかし、ひかりにとっては中身だけでなく、黄色いウサギと赤いリボンまで含めて、いつもの菓子だったのだ。
「ひかり、今からすることを三つ言うよ。まず、ここで休む。次に、静かなところへ移動する。最後に、パパと一緒にお店を出る」
「お菓子は?」
「新しい袋は、今日は買わなくてもいい。持って帰りたいなら買ってもいい。ひかりが決めていいよ」
「黄色のウサギは?」
「家に空の袋があるだろう。帰ったら見よう」
ひかりの指が耳から離れた。そのとき、薄い緑色のエプロンを着た女性店員が、人の少ない飲料売り場の横を指した。そこには休憩用の椅子が二脚置かれ、買い物客の通路から少し外れていた。
「こちらへ移れそうでしたら、お使いください。急がなくて大丈夫ですよ」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「日曜日の夕方は音も人も多いですから、大人でも疲れます。私も休憩時間には、倉庫で五分くらい黙っていますよ」
店員は倒れた赤い帽子を拾い、汚れを払って葵へ渡した。それから買い物かごの中を見て、アイスの箱が濡れていることに気づいた。葵が箱へ触れると、角が指の形にへこんだ。
「アイスが溶けてる……」
「新しいものと交換しますね」
「いえ、こちらの都合ですから、このままで大丈夫です」
「でも、家に着いたころには飲むアイスになってしまいますよ」
近くにいた年配の女性が、買い物カートを押しながら口を挟んだ。藤色のカーディガンを着ており、カートには豆腐、長ネギ、サバの切り身が入っている。女性は葵の返事を待たず、店員へ向かって何度もうなずいた。
「交換してもらいなさい。私も前に財布を忘れて取りに帰って、アイスを全部溶かしたことがあるのよ。あれは冷凍庫へ戻しても、しゃりしゃりしておいしくないの」
「でも、ご迷惑をかけたうえに」
「迷惑かどうかを決めるのは、お店の人よ。親が謝りすぎると、子どもまで自分は悪いものだと思うでしょう」
女性はそう言うと、陽太が寝転んでいる床を見た。陽太は起き上がり、膝についた埃を手で払った。女性はカートのサバを指さし、「うちの夕飯は塩焼きよ」と、誰にも尋ねられていないことまで教えてくれた。
「ぼくの家はカレー。卵一個だけ」
「卵は一個で十分よ。私なんてこの前、ゆで卵を三個食べて胸焼けしたんだから」
陽太が笑うと、女性も笑った。その声を聞いたひかりは、床につけていた頬を上げた。冷えて赤くなった頬には、床の継ぎ目の跡が一本ついていた。
拓海は立ち上がらず、片手だけをひかりの前へ差し出した。ひかりはすぐには握らず、紫色のクマが描かれた菓子袋を見た。やがて自分で体を起こし、赤い帽子をかぶってから、袋を棚へ戻した。
「今日は、いらない」
「分かった。じゃあ、次は静かなところへ行こう」
「パパ、いっしょ」
ひかりは拓海の大きな手を握り、自分の足で立ち上がった。拓海は急いで歩かず、ひかりの歩幅に合わせて飲料売り場の横へ向かった。陽太も反対側の手を握ろうとしたが、拓海の手がふさがっているため、作業着の裾をつかんだ。
椅子へ移動すると、店員が水の入った紙コップを二つ持ってきてくれた。ひかりは一口ずつ飲み、陽太は紙コップを両手で包みながら「水なのに冷たい味がする」と言った。葵は赤い帽子についた埃を払い、ブラウスの袖で目元の汗を拭いた。
「お母さん、さっき大きな声を出してごめんね。ひかりは、違うものになってびっくりしたんだね」
「黄色のウサギが、いなくなったと思った」
「そうだよね。お母さんは、中身が同じなら同じだと思ってた。でも、ひかりには違ったんだね」
「ウサギ、家にいる?」
「空の袋が引き出しにあるよ。帰ったら一緒に見よう」
新しいアイスを入れた買い物かごを受け取り、四人はレジへ向かった。会計の途中で陽太が「カレーにキュウリを入れる」と言い出し、葵と拓海が同時に「入れません」と答えた。年配の女性は隣のレジからそれを聞き、「福神漬けの代わりになるかもしれないわよ」と笑いながら手を振った。
店を出ると、夕方の空気が汗ばんだ首に触れた。駐車場には焼き鳥屋の煙が漂い、車の中では七つの小石がカップホルダーで待っていた。陽太は全部そろっていることを確かめ、胸の前で抱えた。
帰宅すると、葵は洗濯機に残していたタオルを思い出した。蓋を開けると、湿った布の匂いが立ち上がり、もう一度すすぎ直すことになった。拓海は作業着を脱いで灰色のTシャツに着替え、ひかりと一緒に居間の引き出しを開けた。
「いた」
ひかりは黄色いウサギの空袋を胸へ抱き、赤いリボンを指でなぞった。拓海は新しい包装の写真を店でもらったチラシから切り抜き、その横へ並べた。ひかりは紫色のクマをしばらく見たあと、油性ペンで袋の上に小さな赤いリボンを描いた。
夕食のカレーには、少し形の崩れたジャガイモと曲がったキュウリの浅漬けが添えられた。陽太の皿には約束どおり卵が一個だけ載り、拓海は辛い粉をかけすぎて何度も麦茶を飲んだ。食後には、無事に持ち帰ったバニラアイスを四人で分けた。
「今日のスーパー、海みたいだったね」
「どうして?」
「ダイオウイカが床にいたから」
陽太が言うと、ひかりは自分のTシャツを見下ろした。葵も床へ寝そべった青いダイオウイカを思い出したが、今度は頬が熱くならなかった。店員の紙コップ、年配の女性のサバ、拓海の汚れた安全靴まで一緒に思い浮かんだ。
家族だけでは、あの通路から動けなかったかもしれない。けれど、助けてもらったからといって、親として失格になるわけではない。葵は溶けて柔らかくなったアイスをすくいながら、次に同じことが起きたら、まずひかりと同じ高さまでしゃがもうと決めた。
「ダイオウイカだって、疲れたら海の底で休むものね」
「うん。床、冷たかった」
ひかりはそう答え、拓海の腕へ肩を寄せた。冷凍庫の中では、新しいアイスの箱が少し斜めになっており、洗濯機は二度目のすすぎを始めていた。家の中に水の回る音が響くなか、黄色いウサギと紫色のクマは、食卓の端で並んで家族を見ていた。




