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第6話 足音と、ご近所への処方箋

第6話 足音と、ご近所への処方箋


土曜日の午前十一時、葵は玄関先で回覧板を受け取った。薄い水色の長袖Tシャツに、膝の出た紺色のジャージという格好で、髪は朝から結び直していない。台所では昨夜の味噌汁を温め直しており、煮詰まった大根と油揚げの匂いが、開けた玄関まで流れてきていた。


回覧板を持ってきた隣家の女性は、五十代くらいの小柄な人だった。いつもは門の前で軽く頭を下げるだけだが、その日は回覧板から手を離したあとも帰ろうとしなかった。葵が何か言われるのを待っていると、女性は庭のほうへ目を向け、指先で眼鏡の位置を直した。


「お子さんたち、毎日元気ですね。お姉ちゃんは、運動がお好きなのかしら」


「ひかりですか。体を動かすのは好きです。家の中でも、よく跳ねています」


「そうでしょうね。こちらまで、ずいぶん元気な足音が聞こえてきますから」


女性は笑っていたが、最後の言葉だけが低かった。葵の手の中で、回覧板の角がへこんだ。そのとき家の中から、陽太がテレビの怪獣に合わせて「変身!」と叫び、続いて、ひかりが床へ両足で着地する音が響いた。


「昼間でも、眠る人がいるものですから。少しだけ、気にしていただけると助かります」


「申し訳ありません。気をつけます」


葵が頭を下げると、女性はもう一度だけ庭へ目をやり、隣の門へ戻っていった。玄関のたたきには、陽太が昨日拾ってきたドングリが三つ並び、ひかりの赤い運動靴から乾いた泥が落ちている。葵は回覧板を靴箱の上へ置くと、味噌汁の鍋を火にかけたままだったことを思い出し、慌てて台所へ走った。


居間では、黄色いTシャツを着たひかりが、ソファからクッションへ飛び移ろうとしていた。灰色の恐竜柄パジャマをまだ着ている陽太は、怪獣の人形を両手に持ち、甲高い声で戦わせている。葵には、二人の声より先に、隣家の女性が言った「ずいぶん元気な足音」が聞こえた。


「ひかり、跳ばないで!」


葵の声に驚いたひかりは、クッションの手前で足を止めた。けれど勢いを消せず、膝から床へ落ち、鈍い音を立てた。陽太も人形を握ったまま口を閉じ、テレビから流れる怪獣の咆哮だけが部屋に残った。


「家の中では静かにして。陽太も叫ばない。ご近所に迷惑でしょう」


「でも、怪獣が来たんだよ」


「怪獣は来ていません。テレビです」


「ひかり、まだ跳んでない。跳ぼうとしただけ」


「跳ぼうとするのもやめて。もう二人とも座っていなさい」


葵は焦げかけた味噌汁を椀によそい、冷蔵庫から昨夜の残りのアジの開きを出した。電子レンジで温めると、魚の匂いが居間に広がったが、いつもなら真っ先に食卓へ来る陽太も動かなかった。ひかりはソファの端に座り、黄色いTシャツの裾を指に巻きつけながら、裸足の爪先を床へそっとつけたり離したりしていた。


昼食が終わるまで、葵は何度も「静かに」と言った。陽太が箸を落としたときにも、ひかりが椅子を引いたときにも、反射的に口から出た。ようやく食器を洗い終えたころには、家を買う前に思い描いていた暮らしが、排水口へ流れる泡のように形を失っていた。


マンションの上下階を気にせず、子どもたちをのびのび育てたい。そのために三十五年のローンを組み、駅から遠い戸建てを選んだはずだった。壁一枚向こうに他人がいなくても、音は窓を抜け、地面を伝い、隣の家まで届く。葵は濡れた手をエプロンで拭き、居間の二人を見た。


「せっかく一軒家に来たのに、どうして家の中でも小さくならなきゃいけないのよ」


夕方、拓海が買い物袋を提げて帰ってきた。白いポロシャツの襟は汗で濃くなり、片方の靴下が踵からずれている。袋の中には牛乳、食パン、納豆、バナナのほかに、葵が頼んでいない小袋のドーナツが入っていた。


「子どもたちが、やけに静かだな。二人とも寝てるのか?」


「起きてる。静かにさせてるの」


葵は、回覧板を持ってきた隣人とのやり取りを話した。説明しているうちに、指が無意識に食パンの袋を強くつかみ、柔らかな角がつぶれた。拓海はすぐに隣人を責めず、冷蔵庫へ牛乳を入れてから、ドーナツを四枚の皿へ一つずつ載せた。


「遠回しに言わないで、うるさいならうるさいって言えばいいのよ。こっちは遊ばせるなってことなの?」


「たぶん、遊ばせるなとは言ってないよ。昼間に眠る人がいるって言ったんだろう?」


「ひかりに跳ぶな、陽太に叫ぶなって、一日中見張っていろっていうの?」


「それは無理だ。だから、何ならできるかを聞きに行こう」


「苦情を言われた側が、また頭を下げるの?」


「頭を下げて終わりにするんじゃない。相談しに行くんだよ。相手の困る時間が分からなければ、こっちも一日中びくびくすることになる」


拓海は粉砂糖のついたドーナツを半分に割り、大きいほうを葵の皿へ置いた。葵はそれを小さいほうと取り替えたが、拓海は何も言わなかった。向かいでは陽太が、口の周りを白くしながらドーナツの穴からひかりをのぞき、ひかりも同じようにして笑った。


翌日の午後、二人は隣家を訪ねた。葵は紺色のワンピースに薄いベージュのカーディガンを羽織り、拓海は昨日とは別の白いシャツを着ていた。手土産には駅前の菓子店で買った小さな焼き菓子の箱を用意したが、高すぎるものでは相手も困ると考え、二人で十分近く売り場を歩き回った。


玄関に出てきた女性は、二人の姿を見ると少し身構えた。家の奥からは洗濯機の回る音が聞こえ、柔軟剤と焼いた醤油の匂いが混じって流れてくる。葵は箱を両手で差し出したあと、逃げずに相手の目を見た。


「昨日は申し訳ありませんでした。子どもの音について、もう少し詳しく教えていただきたくて伺いました」


「詳しく、ですか」


「何時ごろが特に困るのか、どの音が響くのかを教えてください。全部の音をなくすことはできませんが、できることはしたいと思っています」


女性はすぐには答えなかった。廊下の奥で、誰かが咳をする音がした。拓海は菓子箱を押しつけずに持ち直し、葵の隣で頭を下げた。


「娘には発達の特性があって、体を動かすことで気持ちを整えることがあります。だからといって、何をしても許されるとは思っていません。ただ、急に全部をやめさせるのは難しいので、時間や場所を決めたいんです」


「そうだったんですか。こちらこそ、事情も知らずにすみません」


女性は玄関の内側を振り返ってから、声を小さくした。夫が夜勤のある仕事をしており、朝八時ごろ帰宅して、午後三時まで眠ることが多いという。とくに二階の寝室では、ひかりが庭へ出るときに駆け下りる階段の音と、陽太の昼前の叫び声がよく聞こえるらしい。


「夫は、子どもの声だから仕方ないと言っていたんです。でも、このところ寝不足が続いて、食事中もぼんやりしていて。昨日はお味噌汁に七味を入れるつもりで、インスタントコーヒーを振りかけたんですよ」


「それは、かなり眠れていませんね」


「本人は途中まで気づかずに飲んでいました。私も笑ってしまったんですけど、そのあと、これは笑っている場合じゃないと思って」


「教えてくださってありがとうございます。午前八時から午後三時までは、庭遊びを控えます。階段にもマットを敷きます」


「午後三時を過ぎれば、多少は大丈夫です。夫も出勤の支度を始めますから。それに、子どもは元気なのが仕事でしょう」


「いえ、元気にも営業時間を作ります」


拓海がそう言うと、女性の口元が初めて緩んだ。葵も肩の力を抜き、焼き菓子の箱を渡した。すぐに仲良くなれたわけではないが、帰り際に女性が「私は村上です」と名乗り、葵も名字だけでなく、子どもたちの名前を伝えた。


その日のうちに、拓海はホームセンターへ行き、厚手の防音マットを買ってきた。薄い緑色のマットを居間と階段下へ敷くと、陽太は四角い模様を道路に見立て、ミニカーを並べ始めた。ひかりは両足で一度だけ踏みしめ、音を確かめてから拓海を見上げた。


「これなら跳んでいい?」


「小さいジャンプならな。でも、大きく跳びたいときは、午後三時から庭にしよう」


「三時って、長い針がどこ?」


「十二。短い針が三だよ。時計の横に、ひかり用の印を貼ろうか」


「赤がいい。応援団長だから」


ひかりは赤い丸形シールを時計の三の位置へ貼った。それから毎日、午後三時になると赤い帽子をかぶり、庭へ出た。大声を出したくなった陽太には、拓海が段ボール箱で「怪獣の声を吸い込む洞窟」を作り、陽太は箱へ顔を入れて「ガオー」と叫んだ。


葵も、二人が少し音を立てるたびに叱るのをやめた。朝食の目玉焼きを焦がした日や、夜勤明けで靴下を脱ぐ気力もない日には、声が鋭くなることもあった。それでも「静かにしなさい」と言う前に時計を見るだけで、隣家で眠っている人と、目の前で動きたい子どもの両方を思い出せるようになった。


村上家とは、玄関先で会えば挨拶をする程度の関係が続いた。葵がゴミ出しの日を間違えたときには村上が教え、村上が町内会の用紙をなくしたときには拓海がコピーを渡した。庭越しに長話をすることも、お茶へ招き合うこともなかったが、黙って我慢をためるより、ずっと暮らしやすかった。


九月の初め、午後三時を過ぎた庭で、ひかりは赤い帽子をかぶって行進していた。白い半袖シャツに青い短パンを合わせ、首には陽太が折り紙で作った金色のメダルを下げている。陽太は縁側に座って麦茶を飲み、口の中の氷を頬の左右へ移しながら姉を見ていた。


「一、二! 一、二! がんばれ、ひかり! がんばれ、陽太!」


風が吹き、赤い帽子がひかりの頭から飛んだ。帽子は生け垣を越え、隣家の庭へ落ちた。ひかりが「あっ」と叫んで門へ走ろうとしたところで、向こう側から村上が帽子を持って現れた。


「これ、応援団長さんの帽子でしょう?」


「そうです。ひかりは応援団長です」


「誰を応援しているの?」


「みんな。疲れてる人も、眠い人も、お母さんも」


村上は赤い帽子についた小さな葉を払い、ひかりの頭へかぶせた。窓の奥には、夜勤へ出る支度をしている夫らしい男性の姿が見えた。男性はワイシャツの袖をまくりながらこちらを見て、ひかりに小さく手を振った。


「うちのお父さんも、これから仕事なの。応援してもらえる?」


「はい!」


ひかりは両足をそろえたが、跳ぶ前に一度、葵の顔を見た。葵がうなずくと、防音マットのない庭の土を蹴り、赤い帽子を押さえながら大きく跳んだ。乾いた土の匂いが立ち、縁側の麦茶の氷が、からんと涼しい音を立てた。


「お仕事、がんばってくださーい!」


村上家の窓が少し開き、男性が今度は腕を高く上げて手を振った。葵は隣家へ頭を下げたあと、庭を跳ねるひかりを止めなかった。暮らしの音は消せなくても、困ったときに言葉で知らせることはできる。それが、この家で家族が見つけた、ご近所への最初の処方箋だった。


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