第5話 35年ローンと回転寿司
第5話 35年ローンと回転寿司
給料日の翌朝、葵は仕事帰りに駅前の銀行へ寄った。夜勤中に何度も髪を結び直したため、紺色のスクラブから私服へ着替えても、後頭部にはゴムの跡が残っている。灰色のコートのポケットには、病院の売店で買ったクリームパンの袋と、使いかけのリップクリームが一緒に入っていた。ATMへ通帳を入れ、記帳された数字を見た葵は、機械の前から動けなくなった。
「百三十八万……まだ百三十八万も残っている」
桁を一つ見間違えたのではない。通帳に印字されていたのは、一千万円でも百万円でもなく、三十五年後まで続く住宅ローンの残高だった。今月分は予定どおり引き落とされているのに、元金は葵が期待したほど減っていない。後ろで待っていた男性が咳払いをしたため、葵は通帳を閉じ、ATMの横へ移動した。
帰宅すると、拓海がダイニングテーブルで訪問記録を書いていた。訪問用の紺色のポロシャツを着たまま、右足だけ靴下を脱いでいる。テーブルには昨夜の味噌汁の鍋、ひかりが折った折り紙、陽太の消防車が載っていた。葵は空いている場所を作るために消防車を押し、通帳を拓海の前へ置いた。
「見て。住宅ローンが引き落とされた」
「うん。残高は足りた?」
「足りなかったら、もっと違う顔をしてる」
拓海は通帳を持ち、印字された金額を一つずつ指でなぞった。葵は冷めた味噌汁を椀へよそい、電子レンジへ入れる。スタートボタンを押したあと、温め時間を設定していないことに気づき、額を扉へつけた。
「世帯年収一千万円を超えたら、もう少し余裕があると思ってた」
「額面だからね。税金と社会保険料を引かれる」
「それに住宅ローン、固定資産税、火災保険、車検、療育費、保育料。エアコンも壊れるし、子どもの靴は三か月で小さくなる」
「僕の靴は三年もつよ」
「あなたは靴底に穴が開いても履くでしょう」
葵は家計簿と電卓を持ってきた。住宅ローンのほかに、固定資産税の積立、保険、光熱費、通信費、食費、車の維持費を書き出す。ひかりの療育に必要な教材費と、陽太の紙おむつ代も加えると、電卓の数字はみるみる減っていった。
「セレブはどこにいるの?」
葵はリビングを見回した。ソファには洗濯物が積まれ、ローテーブルの下からは片方だけの靴下が見えている。壁には陽太が貼った恐竜のシールがあり、新築住宅の広告に載っていた部屋とは似ても似つかない。
「この家に年収一千万円の夫婦がいるはずなんだけど」
「二人とも勤務中です」
「じゃあ、ここにいる疲れた男女は誰?」
「三十五年ローンの共同債務者」
葵は赤いペンを取り出し、家計簿の外食費へ大きな丸をつけた。先月は回転寿司、ファミリーレストラン、宅配ピザを利用している。勤務が重なった日に総菜を買った金額まで含めると、丸は二重になった。
「今月は外食禁止。お弁当も総菜もできるだけ買わない」
「夜勤の日は?」
「作り置きする」
「オンコールで呼ばれた日は?」
「冷凍うどん」
「二人とも動けない日は?」
「卵かけご飯」
拓海が冷蔵庫を開けると、卵は一個しか残っていなかった。野菜室には先端の乾いたニンジンと、黄色くなり始めたキャベツが入っている。拓海は牛乳パックを振り、中身が一口分しかないことも確認した。
「卵かけご飯は一人分しかありません」
「給料日の翌日なのに、冷蔵庫が月末みたい」
「買い物へ行こうか」
「行く。ただし、必要な物だけ。お菓子は禁止、ジュースも一本まで」
その日の夕方、葵は一週間分の献立を紙へ書き、冷蔵庫に貼った。月曜日は肉じゃが、火曜日は焼き魚、水曜日は親子丼と並べる。拓海はその横へ「木曜日・残り物」と書き足し、葵から「残る前提で献立を作らないで」と言われた。
外食禁止生活は、三日目までは順調だった。葵が作ったカレーを二日間食べ、三日目は残ったルーへうどんを入れた。ひかりは三日続いたカレーに手をたたいたが、陽太は白いTシャツへ茶色い染みを三つ作り、「インシデントです」と自分で報告した。
四日目、葵は準夜勤で帰宅が深夜になり、拓海はオンコールで独居の利用者宅へ呼ばれた。翌朝、二人は二時間ほど眠っただけで子どもたちを送り出した。洗濯機を回したまま寝落ちし、昼に気づいたときには、濡れた衣類から生乾きの匂いがしていた。
土曜日の夕方、葵が病棟から帰ると、拓海はリビングの床へ座っていた。灰色のスウェットには陽太が貼った星形のシールがつき、髪は寝癖のように片側だけ立っている。ひかりは桃色のパジャマで木琴を鳴らし、陽太は紙おむつ一枚でソファから跳び降りようとしていた。
「ただいま。夕飯、どうする?」
「冷蔵庫に卵一個とニンジンがある」
「四日前から顔ぶれが変わってない」
「ニンジンは少し短くなった。昨日、味噌汁に入れたから」
葵は冷蔵庫を開け、卵を手に取った。ニンジンの切り口は白く乾き、野菜室には使いかけの麺つゆが横たわっている。米を研いで炊き、卵を四人で分ければ夕食にはなる。しかし、炊飯器を洗うところから始めなければならなかった。
「私、もう包丁を握ったら、ニンジンじゃないものを切りそう」
「医療者として聞き流せない表現だけど、言いたいことは分かる」
「拓海は作れる?」
「焼き飯なら。ただし、米を炊くところから」
二人は炊飯器の内釜を見た。底には昨夜の米粒が乾いて張りつき、水につけることさえ忘れている。葵は冷蔵庫の扉を閉め、拓海はスマートフォンを取り出した。
「回転寿司、行こうか」
「今月は外食禁止」
「禁止を決めた人が、今、卵一個を四等分しようとしてる」
「でも、住宅ローンが」
「寿司を食べたくらいで三十五年が三十六年にはならない」
葵は通帳に並んだ数字を思い出した。それでも、ひかりが木琴をたたく音と陽太の叫び声が重なる中で、米を研ぐ自分を想像すると、肩がさらに下がった。葵は白いブラウスのボタンを外し、部屋着の緑色のトレーナーへ着替えた。
「一人千円まで。お酒なし。デザートは一つを分ける」
「了解しました、家計管理部長」
回転寿司店は週末の家族連れで混み合っていた。入り口には酢飯と揚げ物の匂いが漂い、厨房から皿の重なる音が聞こえる。ひかりは黄色いワンピースに白いカーディガンを着て、回ってくる皿を一枚ずつ指さした。陽太は恐竜柄のトレーナーの袖をまくり、注文品を運ぶ新幹線が通るたびに立ち上がった。
「しんかんせん、きた! きんきゅうしゃりょうです!」
「座って。寿司の搬送に緊急性はありません」
拓海は陽太を座らせながら、注文用のタッチパネルを操作した。マグロ、サーモン、ハマチを一皿ずつ選ぶつもりが、画面の反応を待たずに何度も押している。葵が止めたときには、注文履歴にサーモンが四皿並んでいた。
「拓海、サーモンを何人前食べるの?」
「一皿しか押してない」
「四皿注文されてる」
「画面が反応しなかったから、四回押した」
「反応してないんじゃなくて、到着が遅れてただけ!」
新幹線がサーモンを二皿運び、すぐにもう一度戻ってきた。陽太は両手を上げて迎え、ひかりもつられて拍手する。拓海は届いた皿を前へ並べ、「タンパク質は必要だから」と小さな声で言った。
ひかりは納豆巻きを注文した。海苔を慎重にはがし、ご飯を指で広げ、中の納豆だけを箸で集め始める。甘い寿司酢と納豆の匂いが混じり、ひかりの指から糸が何本も伸びた。
「ひかり、巻いたまま食べたほうがおいしいよ」
「なっとう、ここ。ごはん、こっち」
「解体検査なの?」
「オペです」
陽太が横からご飯をつまみ、自分の口へ入れた。ひかりは怒るかと思ったが、空いた場所へ納豆を一粒ずつ並べ直す。拓海はウェットティッシュを取ろうとして、醤油の小皿へ袖をつけた。
「パパ、インシデント!」
「はい。袖の汚染を確認しました」
「せんたくです!」
「帰ったらお願いします」
「ようた、できない」
「知ってます」
葵はマグロを一貫口へ入れた。冷たい赤身と温かい酢飯が舌の上でほどけ、朝から飲んでいた薄い缶コーヒーの味がようやく消えた。隣では、拓海がサーモン四皿を責任を持って食べ、陽太は新幹線へ向かって敬礼している。ひかりは解体した納豆巻きを食べ終えると、葵の皿に残っていた卵焼きを指さした。
「ママ、はんぶんこ」
葵は卵焼きを半分に切った。ひかりは大きいほうを葵の皿へ戻し、小さいほうを自分の口へ入れる。葵が何も言わずにいると、ひかりは頬を膨らませたまま、もう一度葵の皿を指さした。
「ママ、おしごと、いっぱい。おおきいの」
葵は卵焼きを食べ、湯飲みを両手で包んだ。温かい緑茶から香ばしい匂いが上がり、冷えていた指先へ熱が移る。家では乾いたニンジンと卵一個が待っているが、今は誰も献立を考えず、食器も洗わなくてよかった。
会計前に皿を数えると、予定より九枚多かった。拓海の重複注文だけでなく、陽太が勝手に押したコーンの軍艦と、ひかりが二度注文した納豆巻きも含まれている。デザートは一つだけと決めていたはずなのに、テーブルにはプリンとイチゴのアイスが並んでいた。
「このプリン、誰が頼んだの?」
「ようたです!」
「アイスは?」
「ひかり」
「拓海、注文パネルを子どもの前に置かないでよ」
「葵が緑茶を飲んでる間だけだと思った」
会計は四千八百六十円だった。葵は財布を開いたまま数字を見つめ、住宅ローンの残高を頭の中へ呼び戻した。一食分としては予定を超えている。スーパーなら、肉も魚も野菜も数日分買えた。
「やっぱり来るんじゃなかったかな」
葵が小さく言うと、ひかりと陽太の笑い声が聞こえた。二人は店の入り口に置かれた新幹線の模型を見つけ、並んで同じポーズをしている。拓海は醤油のついた袖を隠すように腕を曲げ、葵の隣へ立った。
「家に帰っていたら、今ごろ炊飯器の米粒を削ってる」
「四千八百六十円あれば、米が買える」
「でも今日の僕たちに必要だったのは、米を買うことより、座ったまま温かいものを食べることだったと思う」
葵はレシートを財布へ入れた。ひかりが葵の手を取り、陽太が反対側から拓海の脚へ抱きつく。四人で店を出ると、夜の空気には雨上がりのアスファルトの匂いが残っていた。
「毎週は無理。でも、全部を我慢するために家を買ったわけじゃないよね」
「月に一回なら、予算を決めて行ける」
「重複注文は禁止」
「次からは、押した回数を声に出す」
「一回だけ押して」
帰宅した葵は、ダイニングテーブルへ家計簿を広げた。赤いペンで二重丸をつけた外食費の横に、新しい項目を書き加える。拓海は醤油のついたポロシャツを洗面器につけ、ひかりと陽太はリビングで新幹線のまねをして走っていた。
「家族で笑うためのお金」
葵が読み上げると、拓海は洗面所から顔を出した。毎月五千円と決め、使わなかった分は翌月へ繰り越すことにする。節約をやめたわけでも、ローンが減ったわけでもない。それでも、家計簿の数字だけでは測れないものを、最初から無駄と呼ぶのはやめようと決めた。
「次は来月ね」
「来月は僕が注文係をします」
「それは却下」
「じゃあ、陽太?」
「もっと却下」
ひかりが「ひかり、なっとう」と手を上げ、陽太も「ようた、プリン」と続いた。葵はレシートを家計簿へ貼り、赤いペンのふたを閉めた。三十五年ローンの残高はほとんど減っていないが、その長い年月を家族四人で歩くための予算が、今夜ひとつだけ増えた。




