第4話 就学相談と「普通」の壁
第4話 就学相談と「普通」の壁
十月の月曜日、桜井葵はダイニングテーブルへ三種類の資料を広げていた。地域の小学校の支援学級、隣の学区にある通級指導教室、電車とバスを乗り継いで通う特別支援学校。それぞれのパンフレットの横には、児童数、教員数、通学時間、給食、放課後の預かり、医療的な支援の有無を書いた比較表が置かれている。葵は薄いベージュのカーディガンの袖を肘まで上げ、赤いボールペンで表へ丸と三角をつけていた。
「支援学級は家から歩いて十二分。特別支援学校は送迎バスの停留所まで十五分で、そこから学校まで四十分。毎日のことを考えたら、近いほうがいいよね」
向かい側に座る拓海は、休日用の黒いパーカを着て、冷めた麦茶を一口飲んだ。テーブルの端には、朝食で残った鮭の皮と、陽太が半分だけかじった卵焼きが載っている。拓海は支援学級のパンフレットを手に取ったが、二ページ目を読む前に、冷蔵庫から聞こえる低い機械音へ顔を向けた。
「今の音、前より大きくない?」
「冷蔵庫の診察はあとにして。ひかりの学校の話をしてるの」
「分かってる。でも、故障する前に変化へ気づくのは大事だよ」
「その観察力を、今は資料に使ってください」
拓海は「はい」と答え、パンフレットへ視線を戻した。葵は比較表の余白に「同年代との交流」と書き加える。地域の小学校なら、近所の子どもたちと一緒に通学し、放課後も顔を合わせられる。しかし特別支援学校なら、ひかりに合わせた授業や生活指導を受けられる。どちらにも丸をつけたい利点があり、どちらにも簡単には消せない三角があった。
「支援学級は一クラス六人で、担任の先生が一人。交流学級へ行く時間もある。特別支援学校は一クラス四人で、先生が二人つくこともあるって」
「人数だけでは決められないよ。先生との相性も、教室の音も、ひかりが休める場所があるかも見ないと」
「それは分かってる。でも、数字にしないと比べられないでしょう」
「ひかりは数字どおりには動かない」
葵の赤いボールペンが紙の上で止まった。隣のリビングでは、ひかりが音楽番組に合わせて両手を振っている。黄色いトレーナーの裾は片側だけズボンへ入り、左右で違う靴下を履いていた。陽太は姉の動きをまねしながら、青いタオルを頭に巻いている。
「ねえね、いち、に、さん!」
「いち、に、ご!」
「ご、じゃないよ。さんのつぎは、よん!」
「ご!」
ひかりは「ご」と言うたびに高く跳び、陽太もつられて跳ねた。床に敷いた防音マットが、どん、どんと鈍い音を立てる。拓海が「跳ぶならマットの上だけ」と声をかけると、二人はマットの端ぎりぎりへ並び、わざわざ境界線を確かめてから跳び続けた。
葵は先月受けた発達検査の結果を資料の下から取り出した。ひかりの発達年齢や理解できる言葉の数、指示に従えた回数が、黒い数字で並んでいる。病棟では検査値を見れば、患者の状態と次に必要な処置を考えられた。しかし、その紙に書かれた数字を何度見ても、ひかりが音楽に合わせて笑う理由も、眠る前に葵の頬を触る癖も、苦手なキュウリを陽太の皿へ移す速さも分からなかった。
「検査では、生活年齢よりかなり低いって言われた」
「うん」
「そんなこと、受ける前から分かっていたはずなのにね」
葵は検査結果の角を親指の爪でこすった。紙の端が少し毛羽立ち、赤いボールペンの先から小さなインクの染みが広がる。拓海は資料を取り上げず、テーブルの上へ右手を置いた。
「分かっていることと、数字で見せられることは違うよ」
「看護師なのに、数字を怖がってどうするの」
「看護師だからこそ、数字だけでは分からないことも知ってるでしょう」
その週の木曜日、夫婦はひかりを連れて地域の小学校を見学した。葵は白いブラウスに紺色のパンツを合わせ、ひかりには襟のついた桃色のワンピースを着せている。拓海は訪問用ではない灰色のジャケットを選んだが、緊張すると指先で袖口を引っ張るため、右の袖だけが少し伸びていた。
校門を入ると、乾いた土と落ち葉の匂いがした。休み時間の校庭では、一年生が黄色い帽子をかぶって鬼ごっこをしている。鉄棒へぶら下がる子、縄跳びを続ける子、友達と肩を組んで走る子がいた。ひかりは大きな声と笛の音に足を止め、拓海のジャケットの裾を握った。
「おと、おおきい」
「そうだね。今はみんなが外へ出る時間なんだって」
「かえる」
「教室を一つ見てからにしよう。難しかったら、途中で帰っていいよ」
案内役の教頭は、支援学級の教室へ三人を連れていった。教室の後ろには一日の予定が絵カードで貼られ、窓際には青いカーテンで囲まれた小さな休憩場所がある。児童たちは算数の授業中で、丸い磁石を十個ずつ箱へ入れていた。一人の男の子が席を離れて窓の外を見たが、担任はすぐに座らせず、机へ戻るまで待っている。
「交流学級へ参加する時間は、お子さんによって変えています。給食だけ一緒に食べる子もいれば、国語や音楽へ参加する子もいます」
教頭の説明を聞きながら、葵は教室の児童とひかりを見比べた。椅子へ座って課題に取り組める時間、鉛筆の持ち方、先生の指示を理解する速さ。目に入るものがすべて比べる材料になり、葵の手帳には細かな文字が増えていった。
「ひかり、あの子たちと一緒にお勉強できそう?」
葵が尋ねると、ひかりは答えず、廊下の壁に貼られた給食献立表を見ていた。今日の献立はカレーライスと海藻サラダ、ミカンだった。ひかりはミカンの絵を見つけ、指先で何度もたたく。
「みかん、たべる」
「今は学校の話をしているの」
「みかん、ふたつ」
「給食のミカンは一人一つだと思うよ」
拓海が答えると、ひかりは眉を寄せた。葵は周囲の目を気にしてひかりの手を下ろさせようとしたが、教頭は献立表を見ながら笑った。給食で余りが出れば、おかわりできる日もあると説明してくれた。
「一年生になったら、給食を楽しみに来るお子さんも多いですよ。それも立派な通学の理由です」
見学を終えて校庭を通ると、縄跳びをしていた一年生の女の子が、二十回続けて跳んでいた。ひかりはその場で両手を回し、縄を持っているつもりで一度だけ跳んだ。着地した足がもつれ、尻もちをつく。葵が駆け寄る前に、ひかりは自分で立ち上がり、また両手を回した。
「いち、に、ご!」
数字は途中で抜け、跳べたのは一回だけだった。それでもひかりは拍手をし、近くにいた一年生も一緒に手をたたいた。葵は手帳を開いたが、何を書けばよいのか分からず、白いページを見つめたまま閉じた。
翌週は、特別支援学校を見学した。送迎バスの停留所まで実際に歩いてみると、ひかりの足では二十分近くかかった。途中には交通量の多い交差点があり、パン屋から甘い匂いが流れてくると、ひかりは店の前で動かなくなった。
「パン、かう」
「今日は学校へ行く日だから、帰りにしよう」
「いま、パン」
「バスに遅れたら乗れないよ」
ひかりは店頭のクリームパンを指さし、その場へしゃがみ込んだ。拓海は腕時計で時間を確認し、葵は学校の資料が入った鞄を肩へ掛け直す。毎朝このやり取りが起きれば、送迎バスへ間に合わない日もある。葵は比較表の「通学」の欄へ、大きな三角を一つ書き加えた。
特別支援学校の廊下は広く、教室の扉も大きかった。壁には写真や絵を使った案内が貼られ、子どもたちが次に何をするのか分かりやすく示されている。教室では、児童が一人ずつ違う課題へ取り組んでいた。大きなビーズへひもを通す子もいれば、平仮名をなぞる子もいる。教員は児童の手を急いで動かさず、できたところまでを言葉にして伝えていた。
ひかりは教室の隅にある木琴を見つけた。教員へ「触ってもいいよ」と言われると、ばちを一本持ち、同じ音を何度も鳴らす。高く澄んだ音が教室へ響き、ひかりの肩から力が抜けていった。
「これ、すき」
「音楽の授業でも使いますよ。ひかりさんは音楽が好きなんですね」
「おうた、すき。パパ、へた」
拓海が咳払いをし、教員が口元を押さえた。葵も手帳へ顔を近づけたが、文字を書くふりをして肩を揺らした。家では毎晩、拓海が音程を外しながら子守歌を歌っている。ひかりは眠そうに目を閉じていても、外れた音だけは正確に指摘した。
見学を終えた帰り道、三人は約束どおりパン屋へ寄った。ひかりはクリームパン、拓海は焼きそばパン、葵は小さなあんパンを選ぶ。店先のベンチへ並んで座ると、焼きたての小麦とバターの匂いが鼻へ届いた。ひかりはクリームが入っている場所だけを先に食べ、残ったパンの端を拓海へ渡した。
「地域の学校では、縄跳びをまねした。特別支援学校では、自分から木琴を触った」
葵は紙袋を膝に載せ、二つの学校で見たひかりの姿を思い返した。どちらでも、ひかりはできないことより先に、自分の好きなものを見つけていた。それなのに葵の手帳には、座れる時間が短い、数字が言えない、集団の指示が通りにくいという記録ばかりが並んでいる。
「私、ひかりが学校で何をしたいか、一度も聞いてなかった」
「五歳のひかりに、二つの学校の制度を比べて決めてもらうことはできないよ」
「分かってる。でも、どこならできるかばかり考えて、どこなら笑っていられるかを見てなかった」
拓海は焼きそばパンから落ちた紅ショウガを紙袋へ戻した。ひかりは鳩へパンを与えようとしていたが、葵に止められ、自分の口へ入れる。ベンチの下では、風に押された黄色い落ち葉が靴の先へ集まっていた。
その夜、葵は二つの学校の資料をダイニングテーブルへ並べ直した。夕食のサバのみそ煮は冷め、表面に薄い膜が張っている。豆腐とワカメの味噌汁からも湯気は消え、陽太が嫌って皿の端へ寄せたニンジンだけが残っていた。葵は箸を持たず、発達検査の結果へ赤い線を引いていた。
「地域で同年代と過ごす経験も必要。でも、分からないまま授業が進んだら、ひかりは毎日何をして過ごすんだろう。特別支援学校なら丁寧に見てもらえる。でも、近所の子と知り合う機会が減るかもしれない」
拓海は食器を流しへ運び、冷めたみそ煮を電子レンジへ入れた。温め時間を一分に設定するつもりが、誤って十分と入力し、葵に止められる。拓海は一度取り消しボタンを押し、今度は画面を指で確認してから一分に設定した。
「資料、また増えたね」
「教育委員会の資料も見つけた。卒業後の進路も考えたほうがいいでしょう」
「ひかりはまだ五歳だよ」
「だから今、間違えたくないの」
葵はボールペンを強く握った。親指の横へ赤いインクがつき、比較表には小さな穴が開いている。電子レンジの中で、みそ煮のたれが弾ける音がした。
「普通なら、来年はランドセルを背負って、近所の子と一緒に学校へ行くの。国語と算数を習って、運動会では同じ服を着て走って」
「普通って、誰のこと?」
「同じ年の子たちだよ」
「今日見た子たちは、全員同じだった?」
葵は答えず、冷めた味噌汁のワカメを箸で押した。拓海は温め直したサバのみそ煮を葵の前へ置き、自分は向かい側の椅子へ座る。湯気と一緒に甘辛い味噌の匂いが上がったが、葵はまだ箸を動かさなかった。
「僕は小さい頃から、普通にしなさいって言われた。授業中は動くな、話を最後まで聞け、忘れ物をするな、相手の顔を見ろ。みんなができることを、どうしてできないんだって」
拓海は右手の爪を左手の親指で押した。袖口を引っ張る癖と同じように、昔の話をするときに出る動きだった。葵は比較表から目を上げ、拓海の指を見た。
「学校へ行く前、毎朝お腹が痛くなった。母には仮病だと言われたから、トイレで治るまで待って、遅刻して教室へ入った。遅れて入れば全員に見られる。それが嫌で、また次の日にお腹が痛くなった」
「初めて聞いた」
「格好悪いから言わなかった。でも、ひかりの学校を選ぶなら、僕の格好はどうでもいい」
拓海はひかりの検査結果を裏返した。白くなった紙の裏へ、赤いボールペンで一本の横線を引く。線の左端へ「ひかり」と書き、少し右へ進んだ場所にも「ひかり」と書いた。
「ひかりは遅れているんじゃない。ひかりの速度で進んでる。僕らは引っ張る人じゃなくて、隣を歩く応援団になろう」
リビングでは、ひかりが陽太へ絵本を読んでいた。文字は読めないため、描かれた動物を指さし、自分で話を作っている。猫が魚を食べるページでは「おさかな、おいしい」と言い、犬が走るページでは「わんわん、びょういん、ちこく」と続けた。陽太は物語の筋を気にせず、ページが変わるたびに拍手している。
「応援団なら、本人を見ないと始まらないね」
葵は比較表を半分に折った。捨てたわけではない。数字も通学時間も教員の人数も、ひかりを守るために必要な情報だった。ただし、表に収まらないひかりの様子も、同じ重さで考えることにした。
「もう一度、二つの学校を見せてもらおう。今度は私の手帳を埋めるためじゃなくて、ひかりがどう過ごすかを見る」
「休み時間の音、トイレ、給食、困ったときに休める場所も確認しよう」
「それから、ひかりが好きなものを見つけられるか」
翌月、夫婦はひかりと一緒に、二つの学校をもう一度訪ねた。地域の小学校では給食の時間を見学し、ひかりは一年生がミカンの皮を花の形にむく様子をじっと見た。特別支援学校では音楽の授業へ参加し、木琴を鳴らしたあと、自分から隣の児童へばちを渡した。葵はどちらの姿も手帳へ書き、できなかったことだけでなく、ひかりが近づいたもの、離れたもの、笑ったとき、耳を塞いだときを記録した。
見学の帰り、ひかりは学校でもらった二枚の案内を胸へ抱えていた。どちらの学校へ行くかは、まだ決まっていない。答えを急がず、教育委員会や療育施設とも相談し、体験登校を重ねることにした。葵が「どっちの学校がよかった?」と尋ねると、ひかりは少し考えてから顔を上げた。
「みかんのがっこう。もっきんのがっこう。どっちも、いく」
「毎日二つは通えないなあ」
拓海が困った顔をすると、ひかりは両手を腰へ当てた。黄色い靴下を履いた足で一歩ずつ進み、道端の白い線からはみ出さないように歩いている。陽太が乗ったベビーカーを押しながら、葵はひかりの速度に合わせて足を緩めた。
「今日は家へ帰ろう。学校は、みんなでゆっくり決めようね」
「おうえんだん、する?」
「するよ。ママとパパで、一番近くから応援する」
ひかりは白い線の上で立ち止まり、両腕を上げた。拓海も隣で同じ格好をし、ベビーカーの陽太は「フレー、フレー、ねえね!」と叫ぶ。通りかかった人が振り返ったが、葵は手帳で顔を隠さなかった。三人の後ろに並び、ひかりと同じ幅で一歩ずつ歩いた。




